案の定、出生届も出されていなかった子供に、雀々家は『ミューズ』と名付けようとして、それは流石に比羽守が止めた。
「何でだ、芸術の女神だろ」
「君がいつも鼻で笑うキラキラ親に成り下がっているぞ」
「ふん、じゃあ、厘子(りんこ)な」
「ばっ・・やめろ!」
厘子というのは、学生時代に二人が憧れて双方玉砕した女生徒(マドンナ)の名だ。
「いいだろ、二人ともに思い入れのある名の方が。ちょっとだけ親鳥気分をお裾分けしてやるよ」
退院した子供を連れて、雀々家は隣県の廃屋になっていた生家を改装して移り住んだ。
子供の外見に酷い痕が残ったのもあったが、心の傷も深く、安心出来る『巣』で暮らさせてやりたいと、彼はいつもと違う真面目な口調で言った。
こんな男に子育てが出来るのか? と気を揉んだが、何と彼は街の『子供の心支援セミナー』なる物に通い始めた。一般人に交じって、普通のお父さんみたいに……
あの寄らば切るぞという鋭い殺気を煌めかせていた雀々家が…………
喜ばしい事、良い事には違いないのだが、比羽守は一縷(いちる)の喪失感も覚えた。
雀々家は時間の大半を雛鳥の為に割き、自身の創作は片手間程度。口に糊する為、月に二度銀座に赴き、画廊の三階で作家の卵相手に人形教室を開いた。その辺の凡百な作家のやる事だ。牙の抜けた芸術家……
比羽守は出来る助けは全てしたが、落ちぶれて行く彼を見ているのは寂しかった。
教え子たちを画壇デビューさせて人形教室が一段落すると、雀々家は子供を連れて日本全国を旅して回った。型の古いダットサンにテントと寝袋を積んで。
雀々家という男がどんどん理想の人物像から掛け離れて行き、比羽守は少しずつ彼と疎遠になった。
しかし
何年かして、しばらく振りに持ち込まれた雀々家の人形に、比羽守は心が震えた。
凡人の自分にも分かる、才能を突き抜けた傑作。間違いなく以前を数段凌駕している。
「朱鷺津(ときづ)家の夫人に献上してくれ。時間が掛かって申し訳なかったと」
朱鷺津夫人は業界で有名な人形の愛好家で、宝珠画廊が人形で名を馳せているのも彼女の影響が大きい。
比羽守が持参した包みを解くなり、
「成りましたね、あの方」
と、まるで分かっていたように目尻に雀の足跡を寄せて微笑んだ。この女性も、比羽守が憧れる『見る才覚』を持ち合わせる一人だ。
「これまでのあの方の作品は『生きているようだ』と言われていましたが、それだけでした。これは、まるで、心臓が脈打って、指先まで命の力が溢れているようです。まるで」
「まるで……?」
「心があるようです」
その人形を契機に雀々家は跳ねた。
欧州の歴史あるコンぺで賞を獲り、国内外に広く認められた。国営放送の、今度は予算をたっぷり掛けた大人向けの歴史大河人形劇に抜擢され、そこで更に跳ねた。
気が付いたら文部大臣賞だの芸術賞だのの盾が山積みになっていた。
あの子供、厘子と暮らす事が雀々家に何をもたらしたのか。
朱鷺津夫人には予想出来ていたのだろうが凡人の自分には知り得ない。
その内ホロリと話してもくれるだろうと、会う事があっても特に聞かなかった。
「お前もそろそろ口髭でも蓄えて貫禄を付けたらどうだ?」
そんな軽口の数日後、嘘みたいな交通事故で呆気なく逝ってしまった。
たまたま隣に居た赤の他人の女性を庇ったと聞いた。
あの才能の塊、大衆を小馬鹿にして世界の中心は俺だと言わんばかりに生きて来た男、雀々家葦伐が…………
紫綬褒章は没後に与えられた。代理で受け取った厘子はいつの間にか小さな雛鳥ではなくなっていた。
雄二郎という若い編集者にこの話をするかどうか、比羽守は、実は物凄く迷った。
結局しなかったが、それでいいと思う。余計なお節介だ、彼らなら勝手に自分で辿り着く。
孤高の天才が更なる次元へ進むには、一旦屈んで拾わなければならない物があるという事に。