酷い目にあった日があっても聖杯はあります。どんなに辛くても明日はやってくるし、本体の聖杯はあります。聖杯です。聖杯が本体です本体の聖杯はありますよろしくお願いします。もう色んな意味でボロボロになって、皆凄い形相で体を洗ったりしていたのはちょっと笑いそうになった聖です。珍しくアイギスお姉ちゃんもお風呂に入った────普段はシャワーだけらしい────という話を聞いてロボットを超えた人間になってるんだなぁって思いました聖杯です。聖杯はありますよろしくお願いします。ところでこのマーラヘッドって何に使うものなんですか?
マーラ様強かったなぁ、って思いながらぼんやり過ごしていると、あっという間に過ぎていった時間。もう10月も折り返しといった頃、僕は巌戸台寮から離れて大きなホテルの中にいた。桐条グループが管理しているホテルの中でも、凄くいい部屋の一室である。一つ一つの家具が間違いなく最高級だと分かるものばかりで凄く緊張してしまう。
「わざわざすまないな、聖君」
凄く高そうな調度品の数々に目を回しそうになっていると、部屋の主である男性────桐条お姉ちゃんのお父さんである武治さんが声をかけてきた。こんな高級ホテルの一室に僕がいる理由はこの人に呼ばれたからだ。呼ばれた理由は……何となく分かっている。
「何か飲みながら話そう。……とは言っても、市販の飲み物しか置いていないがね」
「あ、それはお構いなく……って、これ、ラムネ?」
「娘がね、前に楽しそうに祭りの話をしてくれたんだ」
ガンッ、プシュ、と手早くラムネの栓を開けた武治さんは、零れないように急いでラムネを口に運んでいく。眼帯を付けていない方の瞳には、どこか童心に帰ったような懐かしさが滲んでいる。
「その話をされた時にふと、ラムネを飲みたくなってな。私の中で今一番の流行りになっている」
「武治さんもラムネ飲んだことあるんですね。なんか、想像つかないです」
『人に歴史あり、ということだな。厳格な人間であっても、柔和な人間であっても、時々によって顔が変わる』
「ははは。昔は私も少々やんちゃしていた時期がある。こっそり家を抜け出して、祭りのラムネを飲んだものだよ」
その後、毎度の如く大目玉を喰らっていたが、と笑いながらラムネを飲む武治さん。桐条お姉ちゃんとはプライベートの会話もするようになったのかな? ちょっと前に見た桐条お姉ちゃん、ちょっとだけ機嫌よさそうだったし、そうかもしれない。
僕もラムネを開けて溢れる前によく冷えたラムネを喉に流し込んで、互いに一本飲み切った頃。武治さんは父親の顔ではなく、桐条グループのリーダーとしての顔を見せる。このピリッとした空気を纏っている感じは、経済界でもトップクラスの大物って感じだ。
「さて……本題から行こう。これを見てくれ」
大きなテレビに投影されたのは、屋久島で見たあのビデオ────のはずなんだけど、なんか違う。画質が綺麗だ。粗いには粗いけど、ちゃんと岳羽お姉ちゃんのお父さんである岳羽詠一朗さんの姿がはっきりと見える。
『ご当主は狂ってしまわれた。何か、恐ろしいものに魅入られて、変わってしまった。この研究は、行うべきじゃなかった!』
『この忌まわしい実験によって、未曽有の被害が残るのはもう止められない……!!』
『この記録を、見ている者よ、誰でもいい。よく聞いてくれ!! 集めたシャドウは、大半が爆発と共に飛び去った!!』
ここまでは同じだ。屋久島で見た時と同じ何も歪んでいない声。だけど、次の瞬間……屋久島で見た、あの映像とは違うことを岳羽詠一朗さんが言い放った。
『あれらは互いを食い合い、一つになろうとする!! そうなってしまったらもう終わりだ! 全てが滅茶苦茶になる!! 触れちゃいけないんだ!!』
『もう一度言う! 散らばったシャドウに触れてはならない!! 一度触れてしまえば、また破滅の時計が動き出すだろう!!』
『ふ、ぐっ……ああ……ゆかり……すまない……デスティニーランドに連れていくって約束、守れそうに、ない……ごめんな……ごめんなぁ……』
『愛してる……お母さんを……頼む────』
くぐもった声で、岳羽お姉ちゃんへ謝る声が聞こえた後、激しい轟音が響き渡り、映像が途切れた。聞こえてくるのは、ザー、という砂嵐の音だけ。
「……」
「君が言っていた通りだった。ビデオを解析した結果、あのビデオには改竄された形跡があった」
ビデオを視聴し終えた後武治さんの方に向き直ると、武治さんの手が真っ白になるくらい握りしめられていた。怒りで震えている武治さんは、自分の心を落ち着かせるように深呼吸を2、3回繰り返した後に口を開いた。
「ビデオが発見された時から記録を虱潰しに調べ尽くし、辿り着いたのは幾月の私物サーバーだった」
「幾月理事長の……?」
「ああ。彼のサーバーをハッキングし、削除データをサルベージした結果、このビデオが見つかったんだ」
幾月理事長め、やっぱりとんでもないことを隠していた。こんなことを隠しているのだから、もっと他のことも隠していそうな気がしてならない。聖杯さんが言っていたように、何が飛び出してくるか分かったものじゃないから、警戒し続けるに越したことはないだろう。
「あの、もう大型シャドウは残り少ないんですけど……どうしましょう?」
「どうにかする……と簡単には言えないが、全力を尽くし、対策を考えている」
「じゃあ、それは引き続きよろしくお願いしますってことで……幾月理事長のことは、どうするんですか?」
あの人が何かとんでもないこと────多分、影時間とか、タルタロスに関係していることを隠しているとなれば、僕達はあの人が隠していることの片棒を担がされていることになるんだけど……
「心苦しいが、まだやつを捕らえるわけにはいかない。サーバーをハッキングした際に、他にもやつの関わっている闇が見つかっている」
ここでは話すことすら憚れることの数々が溢れ出してきたらしく、それら全ての証拠を回収してからでないと、幾月理事長に全ての罪を償わせることができないから、今はまだ泳がせておくそうだ。大人って難しい。悪いものは悪いで済ませることができない世界も難しい。仮面ライダーを見ている時も思うけど、世界は凄く単純そうで、複雑に絡み合っている。
「じゃあ、今これを知ってるのは僕と、武治さんと……」
「私が真に信頼している人間のみだ」
幾月理事長の尻尾を掴むまでどころか、もう逃げ場がない状態になるまで追い詰めた後にしか、この秘密は口にしてはいけない。そういうことなのだろう。……それにしても、桐条お姉ちゃんと初めて出会った時と同じように思うことがある。
「あの、大丈夫ですか?」
「うん? ああ、情報を共有している人間については心配する必要は────」
「そうじゃなくて、武治さん本人がです」
ぴた、と武治さんの動きが止まった。この反応も桐条お姉ちゃんとそっくりで思わず笑いそうになっちゃうけど、我慢だ。
「武治さん、無理してませんか? 凄く張り詰めてるように見えます」
「休息は十分に取っているつもりだが……」
「桐条お姉ちゃんが休めてないことを隠す時と同じこと言うんですね、武治さんって」
驚いたような、ちょっとバツが悪そうな様子で飲み物を口にするのも凄くそっくり。一瞬だけ瞼が痙攣するように動くのは、絶対に眠れていない時の反応だ。桐条お姉ちゃんの場合は顔色が悪いことを薄く化粧することで誤魔化していたけど、武治さんは気合で誤魔化している感じがするなあ。
「…………参ったな。君のような少年にバレてしまう程だとは」
観念したように苦笑した武治さんは、ラムネを口にしながら張り詰めている空気を脱ぎ捨てるように息を吐いた。
「だが、休んでいる暇はない。君達に負担をかけ続けているんだ。大人である私が踏ん張らず、何とする」
「ちょっと休憩するくらいはいいと思いますけど……」
と、言いつつ、この人は多分休むなんてできないんだろうなあって思う。凄く責任感が強くて、何でも自分で解決しようとして、何でも抱え込んでしまうところとか、何が何でも自分の力でって頑張りすぎちゃう姿が目に見えるようだ。桐条お姉ちゃんと本当にそっくりな人なんだなあって何度でも思う。そんな人に対する言葉は────
「じゃあ、これが終わったら何をしようってことを考えてみませんか?」
「何?」
「影時間とか、タルタロスとか、色々終わったら少しは暇になりますよね?」
「まぁ、そうだな。恐らくは少し暇ができるだろう」
「その時、何をしようってことを今から考えてみませんか? 例えば……家族旅行とか!」
武治さんは桐条グループのリーダーだから、中々休みが取れないかもしれないけど、家族水入らずで旅行しに行く時間を設けるのは絶対間違いない。
「旅行、か……確かに、今まで考えたこともなかったな。……思えば、妻にも苦労をかけている」
「じゃあ奥さんに感謝を伝えるっていうのもいいかもですね。今だってできることですし!」
そこからは色んな願望が武治さんの口から出てきた。桐条お姉ちゃんと同じように武治さんもツーリングとかバイク弄りが好きだそうで、奥さんともそういう趣味の界隈で出会ったのだとか。三人でツーリングとかしてみたいらしい。どんなバイクに乗るんだろう? やっぱりハーレーとか?
……うん、ちょっとだけ顔色が良くなったように見える。今までの武治さんはなんというか、自分がいつ死んでもいいように準備をしているように見えたというか、聖杯さんの言葉を借りるなら、死に場所を探しているように見えた。本当に限界の一歩手前でか細い糸を掴んでずっと踏ん張り続けていたように感じるくらい、武治さんの姿は辛そうだったから。
「こうして話して分かったが……君がいたからこそ、特別課外活動部がここまで来れたのかもしれんな」
「そうですかね? 僕がいなくても皆頑張ってたと思いますけど」
「いや、そうではない。表裏の無い、真っ直ぐに目を見て話を受け止めてくれる人間というのは、凄く貴重だ」
そう言って僕のことを評価してくれる武治さんの表情は柔らかい……気がする。桐条お姉ちゃんよりも表情の変化が少ないせいか、空気で何となく感じ取らないといけない。
「……そういえば、君はどこか、南条圭殿に似ているな」
「え? 圭おじさんのこと、知ってるんですか?」
「知っているも何も、桐条は南条家の分家筋だ。年一の会合でも何度か話をしたことがある」
なんと。確かにお正月に圭おじさんに会うと凄い額のお年玉を渡されて、毎回お父さんとお母さんに預けて一部返してを繰り返していたけれど、圭おじさんってそんなに偉い人だったのか…………もしかして、僕が知らないだけで、他のおじさんおばさんも凄い人達だったりするのかな? 舞耶おばさんが凄い人だっていうのは知ってるけど。あとミッシェルおじさん。ミッシェルおじさんが握るお寿司が一番美味しいと思ってます。
「圭おじさんとは血縁関係ないけど、お父さんとお母さんが圭おじさんと知り合いみたいです。僕は年に一回会うか会わないかですけど」
「なるほどな。……おっと、もうこんな時間か」
そう言って腕時計を見た武治さんに釣られて、お小遣いを貯めて購入した腕時計を見る。時刻はもう14時を示しており、このホテルに来てから既に一時間以上話し込んでしまっていたようだ。そろそろ洗剤特売の時間だし、行かなくては。
「じゃあ、僕はそろそろ行きます」
「ああ。聖君、特別課外活動部を頼む」
「やれるだけ頑張ります」
武治さんに頭を下げてからホテルを出る。わざわざ見送りまでしてくれたけど、そこまでやる必要ないと思うなぁ……本当に色んな所が生真面目な桐条お姉ちゃんとそっくりだ。
(……そういえば聖杯さん)
『なんだ』
(どうして今になって大型シャドウが動き出したのかな?)
それは、岳羽詠一朗さんの映像を見ていた時に気になったことだ。詠一朗さんの言い方だと、散らばった大型シャドウを刺激しないようにすればいい、という意味で間違いないのだろう。実際、僕達特別課外活動部が本格的に動き出した時よりずっと前は、大型シャドウが沈黙していたみたいだし。
(10年間、ずっと活動していなかったのに……なんで今?)
『ふむ。活動できるようになるまでの力を蓄えるための10年の沈黙、あるいは奴らが求めていた何かが来た……そういうことだろう』
力が戻るまで待っていたのか、それとも大型シャドウが必要としていた何かが巌戸台に入ってきたから動き出したのか……どちらにせよ、迷惑な話というかなんというか……あ、でも、影時間があったからこそ出会えた人達もいるし、それだけは感謝しなくもない。9.9割迷惑だけど。
『何にせよ、貴様は更生の道を進まなければならない。励め』
(うん)
聖杯さんの言葉に頷き、特売が始まる頃合いのショッピングモールにやってきた。商店街よりも少々遠いけど、たまにこっちで買った方が安いものがあったりするので、チラシはしっかり確認するべきである。
「あれ? 聖君だ」
「ん? あ、岳羽お姉ちゃん」
特売に向けてちょっと気合を入れ直していると、タイムリーな感じがする岳羽お姉ちゃんと、ショッピングモールで鉢合わせた。ウィンドウショッピング、だっけ? 見て回るだけっていうやつ。それでもやってたのかな?
「どうしたの、こんなところで」
「ちょっと女子皆で集まってたのよ。琴音に、風花に、アイギスに、桐条先輩と夏紀で女子会」
「へぇ。……あ、そっか。夏紀お姉ちゃんは転校だもんね」
夏紀お姉ちゃんのお父さんが体調不良で療養することになったので、別の学校に転校することが決まったのだ。今度皆で送別会やろうね、という話で進んでいたけど、先んじて女の子だけでの送別会をやっていたらしい。
「聖君こそ、どうしてここに?」
「今日は洗濯用洗剤の特売日ですから!」
「ああ、なるほどね。あれ? 洗剤ってまだあった気がするけど」
「あれはジャージとかの頑丈な服用。今日買うのはオシャレ着とか、繊細な服用。シャツとか含めた下着もそっちで洗うの」
「あー、うん……納得」
強力な分、繊細な服とかには使いにくい洗剤ではなく、繊細な服用の洗剤は結構使うのだ。結構お洒落さんが多いからね、うちの寮。許されるなら休日はジャージを着ていたい僕も含めて、休日はちゃんと私服を着て色んなことをしているので、案外消費が激しいのである。
「あと、今日は缶詰が安いんだよね。在庫処分とかなんとかでカニ缶とか、ちょっとお高いサバ缶が安いんだ」
「あ、それはちょっと気になる。ああいう缶詰ってお高くて手が出せないのよね……」
「ねー。だからこういうのに合わせて買っておこうかなって」
今日の夕ご飯はカニ缶を使った天津飯でも作ろうと思っている。中華料理とか久しく作っていないけど、だからこそ作っておきたい。
「じゃあ、買い物行ってくるね」
「あ、皆呼んでこようか? 皆で買った方が色々効率的でしょ? 実際、買いたいものあったし」
「いいの? 助かるけど……皆で遊んでてもいいよ?」
「いいってば。ほら、色々あるのよ、女の子の必須アイテムとか」
あー……それは僕じゃ選べないや。どれがいいとか全然知らないし。噂だと、女の子の日というのは突然やってくる時もあるという。絶対辛い。