天の牌剤   作:國米 真

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第四巡 諦めない後半戦南場

美穂子33500、久24000、桃子8500、ゆみ34000

 

~後半戦~

■南一局(親:美穂子)

 ――やっぱり見てる――まじまじと――

 理牌しながら美穂子の様子を盗み見た久は、賞賛と諦念が織り交ざったような感情を抱き、小さく溜息を吐いた。相変わらず他家の理牌を食い入るように観察している美穂子。理牌のやり方を変えて読みを揺さぶったのに、それでも美穂子は自身の麻雀を捨てる事なく徹している。

 不意に、久と美穂子の視線がぶつかった。他家の理牌を見ている美穂子と、その美穂子の様子を見ていた久。しかし美穂子は慌てもせず、逆に淑やかな笑みを返した。それに対し、久は柄にもなく慌てた様子で目線を逸らしてしまった。

 ――マズいわね。何とか巻き返さないと。

 ガンの切り合いに負けたような気がして、久は焦燥感を覚えた。美穂子の微笑みに他意はないだろう。おそらく、目が合えば微笑み返してしまう人種なのだ。皮肉だとか、余裕を見せ付けるだとか、そんな思惑はない。美穂子が今時珍しいほどの善人である事は、久もその雰囲気から察していた。

 しかし彼女の麻雀は、人が好いなどとはとても言い表せない。抜かりなく他家の牌や癖を観察し、そのデータに基づいて手を読み、急所を突いてくる。それはお人好しなだけの安穏とした人間には決して真似できない、油断も容赦もない麻雀だ。

 目下の所、対策は思い付かない。しかし、兎にも角にも美穂子の雰囲気に呑まれる訳にはいかない。久はいち早く平時の自分を取り戻すため、敢えて慣れ親しんだ理牌のやり方に戻して今局に臨んだ。

 それが功を奏したのか、久の配牌は悪くなかった。しかし、機先を制したのはゆみ。桃子からドラの四筒をポンし、いきなりドラ3として他家を牽制した。

 だが、機を逃すまいと久も追いかけていく。今局においてのみ、久は美穂子の事はひとまず意識せずに闘牌を続けていった。それが運気を呼び戻したのかもしれない。7巡目、久は六筒のカンチャン待ちで聴牌となった。このままだとタンヤオのみだが、四八筒のどちらかが来ればピンフもついて両面待ちに移行できる。そのため、久はこの場は黙聴を保った。

 その後、9巡目にゆみは桃子からさらに四萬をチーし、喰いタンドラ3の満貫手を聴牌。こちらも好調のままだった。

 一方、美穂子はなかなか手が伸びずに未だ二向聴。しかも10巡目、美穂子は生牌にして久のロン牌でもある六筒をツモった。

 ――竹井さん、いつも通りの理牌に戻してきたようですね。

 最初はそれも罠かと疑ったが、しかし手が進むにつれ、久が前半戦で見せていた理牌に戻してきた事を美穂子は確信した。それは美穂子にとって好都合。これまでのデータが使えるので手は読みやすく、実際六筒が久の和了り牌である事を美穂子は見抜いていた。

 よって、美穂子は迷わず六筒を手に含め、回し打ちで手を進めていく。

 そんな中、久は12巡目に三筒を引いた。

 ――ここで三筒?

 ゆみの現物である三筒。ツモ切りでおかしくない局面だが、久はこの牌に意味を感じ取った。彼女は生牌である六筒のカンチャン待ちを捨て、すでに場に三枚出ているドラの四筒のカンチャン待ちに手を変え、ゆみの現物である七筒を切った。

 ――ドラの地獄待ち、か――同じ手は通じないかもしれないけど――

 これは賭けだった。和了れば1飜増えるが、和了率は下がる。しかし美穂子の読みを前に自信を失いかけている今、久は自分の直感を信じる事に固執した。

 その考えの下に切った七筒。思いもかけず美穂子がこれをポンした。七筒を刻子にし、これで七筒は全て場に出た。その上で美穂子は六筒を捨てた。

 ――六筒は次で出た?――いや、これは私の手変わりを見越してか――

 手を変えていなければ和了れたかも、などという幻想を久は振り払う。今回は理牌のやり方すら変えていないのだ。そんな甘い事が起こるはずはない。久は、ここでの手変わりにはやはり意義があったのだと考えた。

 その後、ゆみがツモ切った一索を美穂子がチー。その後に切ったのは、一見するとゆみにも久にも危険な五索。役は予想できないが美穂子も張ったはずだと、場の全員が推察した。

 そして、誰も有効牌を引けずツモ切りを続けて迎えた15巡目。ゆみは一枚残っていたドラの四筒をツモった。現在ゆみは4飜の手を聴牌しており、残るは後数巡。他家も聴牌気配。少々リスクは増えるが、しかし一回ツモが増え、場合によっては跳満まで手が伸びる。

「カン」

 ゆみは既にポンした四筒の刻子に、ツモった四筒を加カンした。これでタンヤオドラ4となり、嶺上開花で和了れれば跳満。その期待を胸にゆみは王牌に手を伸ばす。

「ロン」

 しかし、その手を久の宣言が止めた。驚いて久に目を向けたゆみは、既に倒された久の手牌を見て愕然とした。

「横槍タンヤオドラ1。4000よ」

 久の待ちは四筒。他家の加カンした牌で和了れる場合に発生する、横槍。この稀有な役にゆみの警戒は及ばなかった。その上、久の河を見てゆみに更なる戦慄が走る。そこには七筒があり、それを捨てた後の久は全てツモ切り。つまり、生牌の六筒カンチャン待ちを捨てて、敢えてドラの地獄待ちを選んだという事。

 ――狙ってたのか。私の加カンを――

 ゆみの胸中は出し抜かれた思いで一杯だった。

 しかしその直後、さらに信じ難い声がゆみの耳に届いた。

「ごめんなさい。私もロンです」

 申し訳なさそうに宣言したのは美穂子。倒した手牌は、確かに四七筒の両面待ちで聴牌だった。

「まさか――!」

 横槍で同時ロン。この異常事態に桃子は思わず声を上げて立ち上がり、久とゆみも腰を上げそうになった。

「横槍ドラ1の3000点。頭ハネです」

 美穂子の手は端から見ても尋常ではなかった。既に2副露の状態で、横槍が無ければ役なし。しかも待ちの四七筒の内、四筒はすでにゆみがポンしており、七筒は美穂子のポンを含めて全て場に出ている。つまり久と同様、美穂子の手もドラの地獄待ちだった。

 ――まさか横槍を頭ハネされるなんて――

 ――ありえないっすよ、こんな事――

 ――ここまで正確に――それも二人同時に――

 各々、驚愕に身を震わせた。特に、二人から同時に横槍を和了られたゆみのショックは人一倍である。団体戦で咲の嶺上開花封じのために狙った横槍が思い起こされた。あれと同じ事を個人戦で別の選手にやられるとは、ゆみは考えもしなかった。

 ともかく、これで美穂子がトップに立ったのは事実。

 風越が止まらない――

 止められない――

 このままでは負ける――

 しかし、どうすれば止められるのだろうか――

 こんな打ち手を――

美穂子36500、久24000、桃子8500、ゆみ31000

 

■南一局一本場(親:美穂子)

 美穂子が好調。

 7巡目にして混一ドラ1の満貫手を聴牌した。字牌は雀頭の東のみでまだまだ高目を狙えるため、美穂子は黙聴を保つ事とした。

 この美穂子の聴牌気配を鋭敏に看取したのはゆみだった。この時点でゆみの手は未だ二向聴。しかし、暗刻と対子を二つずつ抱えており、四暗刻などの大物手が狙える可能性を秘めていた。

 だが、この南一局一本場、ゆみの表情は暗いままだった。役満を狙えるチャンスにも関わらず、ゆみの意識はすでに自らの手牌ではなく美穂子の河に注がれていた。

 ――ここで振り込んでは元も子もない。まだ逆転のチャンスはあるのだから――

 その結論の下、ゆみは美穂子の現物を切ってベタオリ。しかしそれは、賢明な判断というよりは、臆病すぎる撤退であった。前局にて二人同時に横槍を和了られたゆみ。後半戦東三局にて美穂子から七対子を出和了りした時の自信は、すでに完全に喪失していた。それゆえ、桃子がゆみの有効牌を鳴かせようと切り出しても、ゆみは鳴かずに安牌の確保を徹底した。

 振り込めない。ここでは安全に。ここでは確実に。そして次へ――そんな後ろ向きの決断しか、今のゆみには下せなかった。

 一方、同じく東四局にて自信を失いかけた久だったが、しかし今局ではある試みに出ていた。今となっては、これさえも通じるかどうかは分からない。しかし、もし通じるなら、美穂子の聴牌を崩し得るかもしれない。そう考え、久はムダヅモでも手に含め、あたかも手が進んでいるかのように振舞った。

 美穂子が久の動きに勘付いたのが11巡目。雀頭だった字牌を捨て、清一ドラ2の倍満手を聴牌した時だった。

 ――また、違和感が――

 後半戦東場にて、久が理牌のやり方を変えた時と同じ類の違和感。しかしその時とは異なり、違和感の正体を美穂子ははっきりと認識していた。

 ――目線――今度はそれで私を翻弄する気ですか――

 今局、久の目線はこれまでと打って変わって忙しなく動いていた。ツモる度に手牌を右往左往し、どこに何の種類の牌があるのか定まらない状態。

 しかし、それでも美穂子には久の手牌の見当が付いていた。いくら意識的に目線を動かしても、最初には必ずツモ牌に絡む牌がある場所に向く。それは確かに読みにくく、確固たる自信は持てない。しかし、久が8巡目までは全てのツモを手中に収め、9巡目以降はツモ切りを続けている事から、美穂子は久が聴牌だとほとんど確信していた。だからこそ久に振り込まぬよう、美穂子は倍満手をリーチせずに黙聴を貫き通した。

 続く久は美穂子の現物をツモ切りし、桃子とゆみも手出しで美穂子の現物を捨てる。

 再び回ってきた美穂子のツモ番にて、美穂子は珍しく拍子抜けした気分を味わった。

「……ツモ」

 ツモった和了り牌と手牌を倒し、美穂子は和了りを宣言した。索子に染まったその手牌を前に、他の三人は目を見開く。

「清一ツモドラ2。8000オールです」

 9飜、親倍24000点。決勝戦第三卓、ここへ来て最高得点の和了りが発生した。

 ――マズい! このままではモモが――

 ゆみが桃子に目を向けると、桃子は放心状態だった。このツモ和了りにより、8500点あった桃子の持ち点が今や500。美穂子が大差でトップに躍り出た現在、桃子が箱点になれば、それだけで美穂子の勝利が確定するのだ。

 圧倒的に不利な状況。しかし、桃子もゆみも、そして久すらも気付いていなかった。本来なら今局で美穂子が勝ち逃げしているはずだった事に。

 もし、美穂子が清一を張った時点でリーチしていれば、リーチ一発が加わって11飜。親の三倍満で桃子はトんでいた。

 それを防いだ影の功労者が久だった。久が聴牌気配を匂わせたからこそ、美穂子はリーチを見送ったのだ。

 実は、それはブラフだった。ムダヅモも躊躇なく手に含めた久の手牌は四向聴。聴牌には程遠く、美穂子の読みは完全に狂わされていた。

 とはいえ、今局を終えて彼女の絶対的優位は誰の目にも明らか。奇しくも団体戦の大将戦と同じ状況の再現だった。あの時は風越女子の大将、池田華菜が一時0点となり、トップ以外のツモ和了りが封じられた。今回は桃子がその足枷となり、誰かのツモ和了り、桃子の振り込み、さらには桃子のノーテン罰符でも強制的に試合が終わってしまうという過酷な戦局。

 いよいよ美穂子が容赦なく頭角を現してきた後半戦南場。美穂子の連荘がまだ続く中、美穂子以外の三人に、どこからともなく薄っすらと絶望の影が忍び寄っていた。

美穂子60500、久16000、桃子500、ゆみ23000

 

■南一局二本場(親:美穂子)

 美穂子以外の三人にとっては厳しい局となった。

 現在、桃子の持ち点はわずか500。リーチもできず、ノーテン罰符すら許されない状況。

 勝負が終結しかねない今局、ここに来て全員が不調だった。6巡目を過ぎても全員が一向聴にすら届かず、未だ字牌整理の段階という者もいる。美穂子以外の全員、特に桃子は焦燥感を抑えきれず、その手は時折震えていた。

 ――このままじゃ先輩が――私のせいで――

 せめて聴牌に。その思いで引くツモも、しかし不要牌。桃子の焦りは募る一方だった。

 そんな中、唯一不安を抱く立場にいない美穂子が動いた。7巡目に二萬をポンし、次巡に今度は七索をポンした。これで2副露。場はさらなる緊張に包まれた。

 桃子の持ち点は500ゆえ、美穂子は直撃に拘る必要がない。たった2飜の手をツモ和了るだけで美穂子の勝利は決定する。明かされた二つの刻子から判断すれば、美穂子の手は対々か喰いタン。対々ならそれだけで、喰いタンならドラの四萬が一つあるだけで充分。のみならず、他家の誰も聴牌の気配はない。客観的に見て、美穂子の勝利は目前だった。

 しかし、久は諦めていなかった。美穂子が2副露となった直後、久は対々とタンヤオのどちらにも危険な生牌の五索を手出しで捨てた。加えて、次巡にて今度はまさかのドラ手出し切り。これには桃子もゆみも驚嘆した。

 だが、桃子以外の人間がここで強気に行くのはむしろ当然。トップがツモ和了るだけでも負ける状況でオリる方が愚の骨頂だ。捨て牌からも、桃子の手の進みが遅いのは明らか。ならば、ここは強気に手を進めて聴牌を取り、桃子以外から出和了る事で美穂子のツモ和了りを防ぐべき。たとえ美穂子に振り込んだとしても、桃子の点は失われずに済む。

 ゆえに、捨て牌が危険だろうとドラだろうと関係ない。とにかく聴牌を目指す。桃子のみならず、それはここにいる全員の命題でもあった。

 ――張った気配を見せてますが、違いますよね?

 しかし、美穂子はこの久の強打をブラフと断定していた。兎にも角にも今局、美穂子が聴牌にならない限り、即終了には至らない。であれば、聴牌気配を匂わせて美穂子の手を止めるというのも効果的な戦略だ。そうでなくとも先述の理論から、桃子以外はたとえ強打でも手を進めるべきである。また、久の性格を加味すれば、彼女がここで強打して美穂子を惑わせようとするのは大いに有り得る。

 美穂子は久の動きに臆さず、久にとっての危険牌でも迷いなく捨てていく。その甲斐あって、美穂子は10巡目に一向聴となり、聴牌目前にまで迫った。

 だが、その後の久は全てのツモ巡で即ツモ切りを見せた。それすらもブラフだろうと最初は考えたが、しかしそれが3巡連続で続く。ここへ来て、美穂子に微かな疑念が生まれ始めた。

 そんな中、美穂子は有効牌を引き入れた。しかし、その牌を眺めて彼女はしばし考える。

 前局同様、今局も久は目線を忙しなく動かし、美穂子の読みを鈍らせている。しかし、それでも理牌やツモ時の癖を考慮すれば、美穂子には久の手がある程度は読めた。その読みに従えば、美穂子の手中にある浮いた牌は久の本命。その牌は久がツモ切り連打を始める直前に桃子が捨てた牌だが、久が桃子から出和了るはずはない。

 久に通るか、否か。通れば今局、聴牌となった美穂子の勝利はほぼ決定する。鶴賀組は依然として手が進まず困窮しており、すでに終盤。流局の可能性は高い。

 久の目線によって、多少はブレた読みだ。存外、通ってしまうかもしれない。

 ――駄目ですね。そんな考えでは――

 しかし、美穂子は聴牌の誘惑を振り払い、久への安牌を捨てた。まだ二位とは大差がある。ここで自分の読みを捨ててまで勝負に出る必要はない。事実、美穂子の手はタンヤオのみで、ツモ和了りではギリギリ桃子をトバせない。ならば、ここは自分の麻雀を信じよう。美穂子はそう決意した。

 直後、久はツモった中を含んで暗カンを宣言し、美穂子は驚きを露わにした。

 ――ここでカン? なぜ――いや、まさか――

 久は聴牌ではなかったのだ。そうでなければ、このカンは説明が付かない。聴牌であればこれ以上牌をツモる必要はなく、和了る為だとしても嶺上開花では桃子がトんでしまう。それを狙っていないのだとしたら、美穂子に新ドラを乗せかねないカンは危険行為でしかない。事実、これによって美穂子の手にはドラが一つ乗ってしまった。

 美穂子の読みは外れていた。久は聴牌ではなかったのだ。だからこそ、手を進めるためにリスクを冒してのカン。加えて、久はこのカンでツモった牌を手に含めた。これにより、美穂子は久の聴牌を今度こそ確信した。一向聴でなければ、むざむざ新ドラを増やす行為に出るはずはないからである。

 事実、美穂子の読み通り久はこのカンで聴牌となった。六九索待ちで中ドラ1。これでひとまず流局を止めるチャンスは手に入れた。美穂子がこれに振り込めば最良。それが望めずとも、ゆみが差し込んでくれる可能性もある。

 だが、次巡でその戦略も潰れた。間の悪い事に、久がツモったのは九索。和了れば中ツモドラ1で3飜4000点。桃子が箱点となるため、この和了りは見送らざるを得ない。

 久は歯噛みしたが、しかしどうしようもない。これでは美穂子からの出和了りも、ゆみからの差し込みも不可能となった。残る希望は、他家が桃子以外から出和了るか、桃子が聴牌となっての流局。残るツモ数から判断すれば、流局の可能性が濃厚だ。

 桃子の聴牌を期待するしかない。一縷の望みに託し、久は九索をツモ切った。

 そして迎えたラス巡。ドラが四萬と八筒の状況で、以下が桃子の手牌である。

 

 一一 八八 三三 七 九 二二 白白 東

 萬萬 萬萬 筒筒 筒 筒 索索

 

 桃子は悪配牌とツモから執念で七対子の一向聴まで詰め寄っていた。だが、ここからどうしても聴牌にまで伸びず、遂に残すところ後1巡。

 もう後がない。自分のせいで尊敬する先輩が負けるなど、受け入れられない。桃子は震える手を伸ばし、最後のツモ牌に手をかけた。

 ――お願い!

 祈る桃子。その手に掴んだ命運を分かつ牌。

 それは一萬。

 望んだ牌ではない。一向聴は変わらない。

 ――終わった――

 桃子は絶望に打ちひしがれた。ゆみの敗北。しかも、自分のノーテン罰符による箱点で終了という、最悪の結末。忸怩たる思いで桃子の眼前が暗む。

 ――ごめんなさい、先輩。私のせいで――

 牌を捨てる事もできず、桃子は申し訳ない気持ちでゆみを窺った。

 その瞬間にぶつかる二人の視線。桃子の視線は絶望に彩られ、しかしゆみのそれにはまだ希望が宿っていた。

 ――先輩?――

 あまりに絶望的な状況で、ゆみの目には未だ力が宿っている。桃子の様子からも、桃子が聴牌に至らなかった事は分かっているはずなのに。

 ――まだ諦めるな、モモ――

 ゆみはその思いで、桃子にあるサインを送った。

 ――私には二索がある。まだ可能性は尽きていない。

 このサインの意味を解釈し、ゆみの言わんとする事に桃子は気付いた。

 桃子の引いた一萬では七対子の聴牌には至らなかったが、しかしここでの一萬は、桃子がまだツキに見放されていない証拠だった。

 なぜなら、この一萬によって桃子は暗刻を一つ手に入れた事になるのだから。更に、ゆみの二索をポンすれば刻子は全部で二つ。加えて、八萬、三筒、白を対子として抱えており、これらはどれも場に出尽くしてはいない。ゆみがこの三牌の内の一つでもツモれれば、さらにそれを桃子が鳴いて聴牌に持っていけるのだ。

 まだ希望は尽きていない。その可能性だけで桃子の活気は蘇り、力強く九筒を切った。

 続いて、ゆみのツモ番。ここで八萬、三筒、白のどれかを引ければ、とりあえずは安心。ゆみも桃子もその実現を願いながら、ツモった牌を注視する。

 その牌は九索。望みの牌ではない。この事実に二人は落胆したが、しかしまだチャンスは一回残されている。気を取り直し、ゆみは二索を切った。

「ポン」

 当然のように桃子はこれをポンし、一向聴へ。東を捨て、続くゆみのツモに全てを託した。

 ――どうか!

 桃子とゆみは心中で同時に叫び、最後のツモに望みをかけた。

 そこで、ゆみがツモった牌。

 一筒。

 ――くっ! ダメか――

 ゆみは苦い表情を浮かべ、桃子に向かって首を横に振った。

 望みの牌を引けなかったというサイン。それを受け、桃子に今度こそ絶望が訪れた。一度は勝利を諦め、しかしまだ希望があると知ってそれに縋った。しかしその必死の思いも空しく、桃子の悲願は叶わなかった。

 ――ごめんなさいっす――私のせいで――

 桃子の表情が翳り、涙腺が緩む。桃子は慌てて俯き、必死で涙を堪えた。

 ――モモ、お前の責任じゃないんだ。だから――

 桃子の悲痛な様子に、ゆみは今にもそう伝えて桃子を慰めたかった。しかし、対局中ではそれも叶わない。ゆみは悔しげに一筒をツモ切った。

 後は美穂子がラスヅモを迎えて終了。ツモ和了りでも流局でも桃子は箱点となり、勝負が決する。

 しかし、そのツモがいつまで経っても行われなかった。思いもよらず続く沈黙にゆみは訝り、美穂子に目を向ける。

 美穂子は静止していた。海底牌に手を伸ばすでもなく、何かを口走るでもない。美穂子はただじっと、ゆみの捨てた一筒を見つめているだけだった。

 何を考える事があるのか。ゆみは不思議に思い、しかしすぐに思い至った。

 ――し、しまった!

 最後の最後、自分が致命的な油断を見せた事にゆみは気が付いた。

 美穂子は聴牌ではなかったのだ。ここでツモを躊躇う理由はそれしかない。

 ロンするか否かを迷うはずもない。ここでゆみから点を取らずとも、後一回のツモを凌いで流局に持ち込めば勝利をモノにできるのだから。

 つまり美穂子は今、ゆみの捨てた一筒を鳴くか否かで逡巡しているのだ。それはつまり、美穂子はまだ聴牌ではないという事。8巡目に2副露となったので、美穂子はとっくに張っているものと考えていた。それは本来、あってはならない決め付けだったのだ。

 事実、ゆみの推測は的中していた。美穂子はこの時点でまだ一向聴。そして、一筒をチーすれば聴牌に届くという状況だった。最後の最後、ゆみの捨て牌は勝利への絶好のチャンスだった。

 しかし、この局面で美穂子は迷っていた。ここで鳴けば確かに聴牌に届くが、その際に捨てる不要牌が久の本命なのだ。

 ――本当に、どうしましょう。

 普段は即決する美穂子にしては珍しい逡巡だった。桃子をトばす事に躊躇している訳ではない。そのように手を抜く事は対局者への侮辱と同義だと、美穂子は考えている。

 ゆえに、美穂子は全く別の事――それこそ、手中の不要牌が果たして久に通るか否か――だけを真剣に考えていた。

 終盤の久が見せた暗カン以降、久はツモ切りを続けている。十中八九、久は聴牌を保っているはずだ。

 そして、久は目線により美穂子を翻弄しているが、美穂子はそれでも手を読んでいった。その読みによれば、美穂子の不要牌は七割の確率で久のロン牌となる。普段の美穂子ならこの読みを信じ、ベタオリを選んでいただろう。しかし、ここはまさしく勝負を決する分水嶺だ。鶴賀組の様子から、桃子が聴牌に至っていない事は明々白々。この不要牌が通りさえすれば美穂子の勝利は決定するのだ。

 七割で振り込み。しかし、通れば勝利。ならば、この一時だけは三割に賭けて勝負すべきではないのか。十割の確率で勝負を決する瞬間など、麻雀には訪れないのではないだろうか。どこかで、確実でない勝負に身を委ねる必要があるのではないか――

 たゆまず思考を巡らせ、チーするか否かを迷う美穂子。その不吉な沈黙に、久も桃子もゆみも固唾を呑んで美穂子の動向を見つめるのみである。

「あの、福路選手……鳴かないのであればツモをお願いします」

 あまりに長い沈黙を見かねて、審判員が進行を促した。

「あ、ごめんなさい――」

 謝罪を述べて、美穂子は海底牌に手を伸ばした。

 結局、美穂子は自分の麻雀を貫いた。他の三人は、美穂子に鳴かれて聴牌にされると思っていただけに、美穂子のツモに胸を撫で下ろした。

 助かった。結局全員ノーテンか――

 全員の心はすでに次局に向けられていた。ただ一人、美穂子を除いて。

 再び訪れる静寂。後は美穂子が牌を捨てて流局だと、誰もが思った。しかし、ゆみが最後の牌を捨てた時と同様、美穂子は再びその動作を止めた。美穂子にしては珍しく目を見開いて、ツモった牌を凝視していた。

 ――まさか――

 全員が危惧した。難局を逃れたと思ったのに、まさか最後の最後で美穂子に運が回ったというのか。海底牌で聴牌に辿り着いたというのか。

 皮肉な事に、美穂子が最後にツモったのは一筒。直前にゆみが捨て、チーするか否かを迷って結局見逃した牌。こんな好機が、まさか最終局面で連続して舞い降りようとは。

 これはさながら天の配剤。まるで天が、なんとしても今局で美穂子を勝たせようとしているかのよう。続く強運を前に、美穂子はそう思わずにはいられなかった。

 ――まるで、試されているみたいですね。

 ここまで誂えられた上で、それでも自分の麻雀を貫くか否か。勝利を取るのか、信念を取るのか。この一筒を切るか否かは、つまるところその二択。美穂子にはそんな思いがあった。

 ――私の勝利をここで神が望んでいるのだとしても――

 美穂子は一筒を手に持ち、

 ――折れる訳にはいかないんです。私は――

 断固たる信念の下、揺るぎない覚悟で切り捨てた。

 これで流局。全員がノーテンで点棒は動かず、美穂子の親は流れた。

 しかし、美穂子には一片の悔いもない。たとえ久の手が実はフリテンだったと知っても、自分の選択は正しかったと胸を張れただろう。

 それこそが彼女の麻雀だった。他家の理牌と目線から手を読むというのは、つまるところ単なる手段。彼女の真骨頂は、自分の読みを徹頭徹尾信じ抜く事なのだ。

 ゆみが一筒を捨てた時、確かに美穂子は揺れた。ほぼ確実に勝利できるチャンスを前に美穂子は迷い、結局棒に振った。たとえこの局面が自分の勝敗を分かつ道だったのだとしても、彼女は自分の信念を捨てて勝つより、自分の信念に殉じて負ける事を選んだのだ。

 その思いであの一筒を見送ったのだ。続くツモで再び一筒が来たからといって、どうしてそれを受け入れられようか。一度は信念を貫いたけど、もう一度チャンスが来たので今度は挑戦してみる、などという思考は言語道断だ。そんなブレた信念では、たとえここで勝利を手にしたとしても、この先美穂子の麻雀は崩れるばかりである。彼女の麻雀は、最終的に信じる事にその意義があるのだから。

 桃子の点数から、図らずも美穂子 vs 他家三人という構図となった今局。

 しかし俯瞰した時、最後まで激戦を繰り広げていたのは美穂子と他三人ではなく、美穂子と彼女の信念であった。

美穂子60500、久16000、桃子500、ゆみ23000

 

■南二局(親:久)

 前局では点棒が動かず、そのため桃子が箱点に近いという状態は変わらない。

 しかし、死線を潜り抜けた久の手は非常に好調だった。

 4巡目にして、久の手は中、対々、三暗刻の親満手を聴牌するまでに至った。桃子の振り込みや流局の可能性を視野に入れ、ここは当然のようにダマを保つ。

 次巡、美穂子が中を切ったので、久は好機とばかりにこれをカン。三暗刻を崩しての大明カンである。

 ――なるほど、そう来ますか。

 この動きに美穂子は身構え、続く久の嶺上ツモに目を向ける。

 大明カンで嶺上開花を和了った場合、その点数はカンをさせた者の責任払いとなる。奇しくも団体戦のオーラスにて咲が見せた技。これなら和了っても美穂子からの直取りなので、勝負が決する怖れはない。

 淡い期待を胸に嶺上牌をツモる久。しかし引いたのは期待に沿わぬ牌で、久はそれをツモ切った。

 ――やっぱ、咲みたく上手くはいかないか。

 皮肉げに笑い、続けて新ドラを捲った。嶺上開花では和了れなかったが、しかしツキは未だ久にある。その証拠に、新ドラとなった三索は久の暗刻で、彼女の手は親跳にまで繰り上がった。

 順調に手を伸ばしていったのは、しかし久だけではない。ゆみも桃子から南を鳴いて場風を手に入れた。

 更に次巡、桃子は強気に新ドラの三索を切った。これは勿論、美穂子がまだ聴牌に届いていない事を河から判断しての一打だ。

 久にとっては、もう一度カンできるチャンスだった。そうすれば更にドラが乗る。しかし、万が一その際の嶺上ツモで和了り牌を引いてしまえば、それは久にとって面白くない展開である。親跳では桃子からの放銃で美穂子をまくる事は叶わず、桃子がトんで負けが確定。和了りを見逃してもフリテンとなり、やはり都合が悪い。

 よって、久はこの新ドラのカンを見送った。代わりにゆみがこれをチーし、一二三索の順子を作って新ドラを手に含めた。

 さらに次巡、桃子が旧ドラを切り、それをゆみがポン。これによってゆみは、鳴きチャンタ南ドラ4の跳満手を聴牌した。

 この時、久とゆみの聴牌を美穂子は感じ取った。配牌、ツモ共に悪かった今局、美穂子は久の中カン以降ベタオリを続けていた。

 久は相変わらず目線を動かし続けて美穂子の読みを惑わせているが、しかし美穂子は、久もゆみも両者ともに大物手を張っていると推定していた。そのため、ゆみの聴牌以降、美穂子は久とゆみ双方に通る安牌を切り続けていった。

 しかし12巡目、その種の確実な安牌が尽きた。ここから先はどちらかに振り込む危険性がある。

 久とゆみ、どちらに対して安全に行くべきか。しかし、これは美穂子にとって考えるまでもない選択だった。

 ゆみは久と7000点差を付けて二位だが、現時点で60500点ある美穂子からすれば、そう易々と逆転される相手ではない。ならば、親である久からの直撃を避けるべき。たとえゆみに出和了りされたとしても久の親は流れ、勝負は終着に近付く。大差でトップの美穂子にとって、親の久に和了られて連荘されるよりは、ゆみに振り込む方がマシである。

 そこで12巡目以降、美穂子は久の現物切りに専念した。無論、その中でもゆみに対してより安全な牌から切っていった。

 しかし、15巡目にして久への現物も遂に尽きた。ゆみの現物は未だ残っているが、しかしそれは久に対する危険牌である。

 ――仕方ありませんね。

 美穂子は半ばゆみへの振り込み覚悟で、久に対して最も安全と思われる牌から切っていった。自分の読みに従えば、ラス巡までは久に対して比較的安全に進行できる。

 その考えの下で16巡目に切った一萬。ほぼ美穂子の読み通り、ゆみはここでロンを宣言した。

「南チャンタドラ4。12000」

「はい。分かりました」

 12000点は低くないが、しかしトップは守りきれた。誰にも振り込まず流局が理想だったが、現物なしにそれが易々と叶う相手ではない。親の連荘を阻止できただけでも上等だ。美穂子は胸を撫で下ろした。

「ククク……」

 しかし美穂子の安堵は、右方から届いた不吉な笑声によって掻き消された。

「悪いわね。二番煎じだけど――」

 久の言葉と不敵な笑みに、悪い予感が美穂子を襲う。

 そして焦らすように、久は自らの手牌を倒した。

「ロン。中、対々ドラ3。頭ハネよ」

 親跳18000の直取り。決勝戦第三卓、二度目の頭ハネだった。

 その手の高さもさる事ながら、倒された手牌に久以外の全員が瞠目した。

 

 三八六一三八一三八六 一 中中中中

 索筒索萬索筒萬索筒索 萬

 

 カンした中を除けば、久の手牌はそっくりこの順列。これは理牌すると以下の形になる。

 

 一一一 三三三 六六 八八八 中中中中

 萬萬萬 索索索 索索 筒筒筒

 

 しかし、問題は理牌していなったという事そのもの。

 ――ありえません! ちゃんと理牌してたのに――

 これまでの局と同様、久は配牌時にきちんと理牌を行っていた。美穂子はその様子をしかと観察していたのだ。

 美穂子の疑問はやはり、久の表情を見た事で氷解した。

 ――まさか、理牌したフリをして、わざとバラバラに――

 そうとしか考えられない。久は今局、序盤の中カン以降は全てツモ切りだった。つまり、最初から久は理牌せずに臨んだという事。

 ――これが、目線の動きの理由でしたか――

 これまで忙しなく動いていた久の目線に、ようやく美穂子は合点がいった。あの動きに直接美穂子を惑わせる意図はなく、単にバラバラの手牌を脳内で理牌していたに過ぎなかったのだ。例えば三四萬がある時に五萬をツモれば、目線は三四萬がある場所に向く。理牌していれば通常、その場所は一箇所だ。だがバラバラなら、目線は三萬と四萬の二箇所を往復する。それゆえ、あれほど目線が右往左往していたのだ。

 巧妙かつ、美穂子に対しては絶大な効力を持つ罠。中を暗刻として右側に寄せていたのも、あるいはカンを見越しての戦略だったのかもしれない。

 今度こそ、美穂子はしてやられた心境だった。目線で読みを眩ませていたというのは、全くの見当違い。そこを間違えた代償として、美穂子は親の久に18000点を支払う事となった。

 もはや、理牌の癖から手を読む麻雀は意味を為さない。こうなれば、美穂子も自分の麻雀を諦めざるを得ない。

 ――うわっ! 嘘でしょ?――

 と期待した久の思惑とは裏腹に、

 ――ここまでされて、まだ貫くつもり?

 もはや他家の目も一切気にせず、美穂子は開かれた久の手牌を食い入るように凝視していた。

美穂子42500、久34000、桃子500、ゆみ23000

 

■南三局一本場(親:久)

 美穂子を出し抜いて流れを味方に付けたのか、今局も久が好調だった。

 5巡目に白を鳴き、速攻で連荘を目指す。これを止める手段は今の美穂子にはなかった。今局、久は理牌のフリすらせず、配牌時のまま臨んでいるのだ。その上、ツモった牌は全て右端に順次加えていく徹底ぶり。

 フリだとしても、牌を見ながら動かせばそこに久の意図が絡んでくる。無意識であったとしても、それは美穂子の読みに少なからず良材をもたらすだろう。よって、久はその僅かな危険性すら回避した。配牌に手を加えず、自然のまま闘う所存である。

 その戦法に美穂子は驚嘆した。そして、美穂子とは別にゆみもまた、久のその挙動を視野に入れていた。

 ――前局、清澄は理牌せずに風越の放銃を誘った。風越のネタはこれか――

 久のバラバラの手牌により、ゆみも遅まきながら、美穂子の冴え渡る読みの正体を看破した。すなわち、他家の理牌の癖と目線から手を読む麻雀。そんな人間離れした技があるとは信じ難いが、しかし美穂子の読みと久の戦法を前に、もはや信じざるを得なかった。

 ――清澄はこの事を早い段階で見抜いていたのか? だとしたら――

 自分はやはり、この場の勝者には相応しくない。ゆみは横槍以後から失った自信を取り戻す機会もなく、弱気にそう考えた。

 神がかりの読みを披露する美穂子は凄まじいが、しかしそれを看破して対策を講じ、美穂子を出し抜いた久も負けず劣らずの逸材である。そんな彼女らと比べて、自分はどうか。後輩とのコンビ打ちに難色を示しつつも、やはり心の底では安堵し、それが油断を生んだのでは?

 あの両部長は強敵だ。油断はできない。そう戒めつつも、実は侮っていたのではないか。コンビ打ちなら悠々勝てると甘く見込み、対策を怠ったのではないか。

 それが招いたこの有様。前半戦にて桃子から幾度となく点棒を得られたというのに、今となっては他家と大きく差を広げられて三位。両部長の熾烈な心理戦を前に、もはや割り込む余地すらないように思える。

 ――コンビ打ちに胡坐をかいた結果がこのザマか。すまない、モモ。

 まだ決着は付いていない。しかし、半ば勝負を諦めたゆみにとって、この試合はすでに終わったようなものだった。

 そんな心意気で好牌が掴めるはずもない。現にゆみの手牌はバラバラ。7巡目で未だに四向聴だった。

 一方、一度は自信喪失しても再び這い上がってきた久の手は進み、8巡目に聴牌を迎えた。四七萬の両面待ちで白ドラ1、七萬が来れば高目で三色同順が付いて3飜の手。

 だが、自分の麻雀を貫く美穂子も負けてはいない。11巡目にタンピンドラ1の手を聴牌し、リーチ宣言によって満貫を確定させた。

 久の聴牌気配を感じている美穂子。本来の彼女なら、回し打ちにも移行できるように黙聴で構えただろう。しかし久が理牌をしなかった今局、美穂子の読みの材料は絶対的に不足していた。手を読むどころか、久の待ち牌すら絞れない。

 ならばいっそ、と美穂子は捨て身でリーチに打って出た。どうせ待ち牌が分からない以上、ツモ切りでもほとんど同じ事。加えて、このリーチで久がベタオリに回れば、とりあえず久の親は蹴られるかもしれない。

 事実、このリーチに久は一瞬たじろいだ。しかし、彼女はこの局面でベタオリを選ぶほど腑抜けてはいなかった。

 ――ここで押し切らずに、いつ勝つっていうの!

 ここが正念場とばかりに、久は危険牌でも構わずツモ切って聴牌を保った。

 理牌を止め、慣れない脳内理牌に四苦八苦しながら、ようやく美穂子に土を付けられたのだ。それが影響してか、流れも徐々に美穂子から久に寄ってきている。ここで退けば、それは勝負そのものから退くも同義。ゆえに、久は美穂子への振り込み覚悟で強打を続けた。

「ロン」

 結果響いたロン宣言。しかし、その声は予想外の所から現れた。

「發混一イッツウ。12000っす」

 開かれたのは桃子の手牌。明瞭になる桃子の気配。

 そして、降って湧いたかのような存在感。

「まさか――!」

 久は思わず声を上げた。500点しかない希薄の存在だったとはいえ、跳満の大物手に警戒を怠ったなど、俄かには受け入れられなかった。

 しかも、美穂子のリーチ後、桃子は七萬を捨てていた。それは久の待ち牌の一つ。無論、桃子からの直取りでは自分の首を絞めるだけなので出和了りはしなかっただろうが、しかし久は、自分の和了り牌がすでに切られていた事にすら全く気付かなかった。

 そこに実在するのかも朧気な桃子に目をやると、しかし彼女の表情には確固たる力が宿っていた。

 ――ようやく、ステルスモモ発動っすよ。

 普段から存在感の希薄な桃子が持つ特異体質。他家の意識から徐々に桃子の牌や存在が消え、遂には認識できなくなるステルス機能。この迷彩に取り込まれた打ち手は、桃子の捨て牌や聴牌気配、さらにはロン牌やリーチ宣言すら認識できなくなってしまう。

 ゆみの後方支援に回り、長らく影に潜み、箱点間近になってもまだ我慢に我慢を重ねた、その結果。好調の久から放銃を誘い、ようやく桃子は箱点の恐怖から解放された。

 長く険しい道のりだった。いつ箱点となってゆみに敗北をもたらすか分からぬ恐怖。ゆみの支援を誓ったのに、逆に足枷となってしまった不甲斐なさ。時には涙しそうにもなった。しかし、それでも息を殺して耐え忍び、機を窺って勝負に出た。

 その結果は、桃子にしてみれば無上のもの。不屈の精神の器から、ほんの一滴漏れた無類の賜物。強敵久から奪えた、命からがらの12000点であった。

 ――どうっすか、先輩!

 桃子は満面の笑みをゆみへと向けた。

 まだ可能性はあるのだと、諦めなければ道は開けるのだと、声を大にして叫びたいそれらの感情を全て視線に混ぜ込んだかのような、力強い表情。

 ――モモ、お前――

 その笑顔を受け、ゆみは強く胸を打たれた。

 今までの自分は、それこそまるで白痴そのもの。他家の途方もない力量を前に、ただ踵を返して撤退し、呆けていただけではないか。自分を心から応援してくれる後輩がすぐ隣にいるというのに、彼女に対して自分は心中で何と言ったのか。

 すまない、モモ――と。

 弁解の余地もない愚考だった。箱点間近になっても未だ勝ちを諦めずにいた後輩に向かって、あろう事か謝罪するなんて。それが桃子の想いと覚悟をどれほど無為にする行為だったか、ゆみは心底思い知らされた。

 ――すまなかった、モモ。

 改めて、心中で謝罪を述べる。しかしそれは、勝てない事への詫びではない。これまでの不甲斐ない自分に対してのものだった。

 ――お前に励まされるとはな。これも一つのコンビ打ちか。

 ゆみは皮肉げに笑い、しかし後に真摯な眼差しで桃子を見つめ返した。

 ――分かったよ、モモ。私は諦めない。最後まで一緒に闘おう!

 頼れる後輩を前に、ゆみは不退転の決意を胸に刻む。

 その決意溢れる表情を目の当たりにし、桃子も嬉しそうに頬を綻ばせた。

 ――そうっすよ、先輩! まだまだこれからっす!

 桃子もつられ、元から揺らぐ事もなかった決意をさらに確固たるものにした。

 ――ここからは、私達の独壇場っすよ!

美穂子41500、久22000、桃子13500、ゆみ23000

 

■南三局(親:桃子)

 地獄の如き荒野を走破すれば、その先には運気に恵まれた展開が待っている。

 桃子の配牌は、そんな比喩をも体言するが如きだった。

 ――なんすか、この配牌は――

 国士無双、一向聴。これまでの鬱憤を晴らすが如く、この最終局面において桃子に鬼手が誂えられた。

 トップと約三万点離れていようと余裕で逆転を狙える手。親の役満。しかもこの一向聴に対子は無く、北が来ればヤオ九牌の全面待ちで聴牌になるという怖ろしい状況だった。

 ――流れ傾きすぎっす。“私”の独壇場になっても意味ないんすよ。

 この猛者達の中から、逆転して全国に進出できるかもしれない絶好の機会。しかし、桃子はそんなものには興味なしとばかりに、ゆみに視線を向けた。

 ――先輩、配牌は?

 通しでゆみの配牌の好悪を尋ねる桃子。それに対し、ゆみは首を横に振って不調と返した。

「すみません。九種九牌っす」

 それならば、もう今局に意味はない。桃子は素早く手牌を開き、九種九牌によって開始時流局を促した。

 これにはさすがに美穂子や久も驚かざるを得なかった。桃子の手は、千局に一度訪れるかどうかというほどの、絶好の逆転手だった。それを自ら流すなど、常人ならば発想もしない。

 ゆみを勝たせる。桃子のその決意も一貫している。

 それは美穂子とはまた違った形の、打ち崩すに難い“信じる麻雀”だった。

美穂子41500、久22000、桃子13500、ゆみ23000

 

■南三局一本場(親:桃子)

 自身の勝利を顧みない桃子の捨て身が功を奏したのか、桃子とゆみが好調だった。

 互いに鳴かせ合い、6巡目にして2副露。桃子は安手だが、ゆみには筒子の清一気配が漂っていた。

 その後も美穂子と久の追撃は許さず、9巡目に二人同時に聴牌となった。ドラが一筒の今局において、ゆみの手は清一ドラ1の跳満手。桃子はゆみが和了れなかった時の親継続に備えて喰いタンのみ。他家を意識しつつ、ゆみの和了り牌である八筒を待つ心積もりである。

 この鶴賀組の動きに対し、ゆみのツモ和了りを防ぐため、美穂子は桃子のロン牌を差し込んだ。しかし、他家の手の進みが遅いと見るや、桃子はこのロンを見送ってゆみの和了りに賭けた。

 その後、美穂子と久はゆみの本命である筒子と字牌を避けて打ち回した。一方、桃子もゆみも八筒をツモらず、場は終局に向かっていった。

 そして残り2巡という段階で、久は回し打ちながら一向聴にまで辿り着いた。しかし、そこが限界。ゆみへの本命として手元に残してあった四六筒が浮いており、五筒が入らなければ聴牌には至らないのだ。

 しかし、この最終局面に来て、これまでベタオリを続けていた美穂子が五筒を手出しで捨てた。一同、これには驚愕を通り越して唖然となる。ゆみの現物でもない、筒子の染め手に対して危険すぎる牌。それをこの場で手出し切りなど正気の沙汰ではない。

 だが、久だけはこの強打の意味が理解できた。この五筒は久の有効牌。これをチーすれば、流局間近で聴牌に辿り着く。おそらく美穂子は、ゆみの待ちが五筒ではないと読みきった上で、この牌を切ったのだ。その理由は言うまでもなく、久の手牌を覗くため。

 ――そんな見え見えの誘いには乗れないねえ。

 だが、折角訪れた聴牌の機会を久は棒に振った。理牌をせずに臨んでいる今は、おそらく美穂子の読みが最も機能していない時。その絶好の状態を、罰符という小さな点棒と引き換えに明け渡すなど、愚の骨頂と考えた。

 終わってみれば、結局何の動きもなく流局。桃子とゆみが手牌をオープンした。

 ――やはり、少しあからさまでしたか。

 久がチーしなかった事を美穂子は残念がった。

 五筒がゆみの和了り牌でない事は確信していた。だが、久が四六筒を持ち、五筒で待っている事は予想の範囲を出なかった。

 しかし、五筒を捨てた際の久の反応から、彼女がやはり五筒待ちの一向聴であった事も確信が持てた。

 そこからさらに材料を得る美穂子。それはこれまで得たデータからすれば微々たる物だが、しかしこれまでのデータがあるからこそ有意義でもある。

 いずれにせよ、自分の麻雀を捨てるのはまだ早い。久の渾身の一策すら、美穂子は乗り越えようと神経を研ぎ澄ませている。

美穂子40000、久20500、桃子15000、ゆみ24500

 

■南三局二本場(親:桃子)

 全員が好調だった。

 美穂子とゆみは現在15500点差。勝負はもう最終局面。安い和了りを続けてもトップには立てないと考えたゆみは、桃子からの鳴きの機会を蹴り、門前で手を進めていった。最悪、安く和了るよりは桃子の連荘となった方がマシという考えである。

 その桃子も、とにかく聴牌を目指して積極的に鳴き、手を進めた。

 久の手も良く伸び、5巡目にして一向聴。

 しかし、最初に聴牌に至ったのは美穂子だった。6巡目に2飜手で七萬カンチャン待ち。リーチに出たい局面だが、しかし五萬が来れば両面待ちに移行できる上、他家も全員好調なので、美穂子は黙聴で様子見する事にした。

 その後、8巡目に久も聴牌となった。大物手であり、七萬を捨てれば二五八萬の三面待ちとなるが、しかしその七萬は美穂子のロン牌である。無論、それが美穂子のロン牌という確信は久にはなかったが、しかしこの展開に形容しがたい意味を感じ取っていた。

 そこで、久は三萬を捨て、七萬と二筒のシャボ待ちとした。しかも、二筒はすでに場に出尽くしているため、待ちは実質七萬のみ。ピンフを捨てた上での悪待ち移行である。

 これで久はリーチをかけた。メンタン三色ドラ1の5飜。裏が乗れば跳満もあり得る。

 ここで、久が捨てた三萬を桃子が即チー。久の一発の可能性を消し、その上で久に対する安牌を捨てた。続くゆみも、このリーチを警戒しての回し打ちで一向聴のまま。美穂子は久への危険牌をツモり、それを手に含めて惜しげもなくベタオリした。

 ――やっぱ、そう簡単には振り込まないか。

 他家の放銃を期待した悪待ちだったが、期待通りに行かず、久は少し落胆の色を見せた。

 だが、続くツモ番で久が引き寄せたのが、なんと七萬。

 ――ありゃ? これはまた――

 折角、放銃を期待して悪待ちで張ったというのに、その直後のツモで和了り牌を引き入れる。この展開に久は肩透かしを食らった気分だった。

 ――ま、これも一つの天命か――

 この和了りを見逃す意味はまるでなく、久はツモ和了りを宣言。裏ドラが二つ乗り、メンタン三色ツモドラ3の8飜、倍満で16000点。

 500点差とはいえ、久はようやく美穂子を追い抜いた。

 ――で、やっぱ見てくるわけね。

 捲くられた事など意にも介さず、久の手牌を凝視する美穂子。その様子を視野に入れ、久はやはり賞賛の念を送った。

美穂子36000、久36500、桃子7000、ゆみ20500

 

 逆転に次ぐ逆転が繰り広げられた後半戦南場も、残す所オーラスのみ。

 自信を失った者がいた。

 自信を取り戻した者がいた。

 自信を与えた者がいた。

 自信を捨てなかった者がいた。

 読みも、悪待ちも、コンビ打ちも、それらはもはや勝負の表層を彩る要素でしかない。

 勝負の根幹、真に肝要たるは自分を信じる事。

 こと、この場に集った強者らを前に、“運の麻雀”の域はとうに過ぎている。

 自信を固持した者こそが、運否天賦を引き寄せる。運気の陽が差しては陰る悪天の如き雰囲気のまま、長きに渡った闘いにも遂に決着が訪れようとしていた。

 

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