小学校6年に上がり、卒業が感慨深くなる時期になった。……そう、真夏のプールの季節である。
この去年まで5年間入ってきたプールも、今年で最後。そんなことをぼんやりと草太は考えながら、見学に留まっていた。
プールの時間は苦手なのだ。何故なら、早い奴はもうこの時点で思春期になっているからだ。つまり……自身の中に入ってくる感情は「ムラムラ」というものだ。
男子の感情では「え、香取姉って割と胸大きくね?」とか、女子の感情では「あの子、脇毛生えてる」とかそんなん。
感情を受け取ってしまう草太としては、何が悲しくて男やら姉やらに欲情させられないといけないのか。
そういった感情を排除するために、見学に徹して睡眠を取ることにしている。勿論、自身の能力については親にも教員にも言っていないので「体調不良」と「水着忘れた」と言って休んでいる。
「……」
正直、水泳の授業に関して言えば、もう教員に嫌われても休むしかないと思っている。何せ、男は興奮するとある一定の部分が大きくなる。それが水着だとモロバレなのだ。
思春期に一足早く入ったすけべの感情を受信して勃起させられた挙句、それを理由に変な弄り方をされるのは嫌だ。それならまだ先生から嫌われた方がマシだ。
そんなことを思いながら、なるべくプールから目を離して校庭を眺めていると、その自分の首筋をヒヤッとした冷たいものが軽く触れようとする感情を察知した。
「危なっ」
「あんたなんで分かるのよ!?」
避けると、空振りした葉子が逆ギレしてくる。勘が良い、と言うことにしてしまえば良い。
「なんでだと思う? 葉子が分かりやすいからだよ」
「ムカつく!」
「いやムカつかれても……そもそも後ろから襲って来んなよ」
「襲うって……人聞き悪くない? ちょっと可愛い姉が悪戯しようとしただけじゃん」
「妹なら可愛いで済むけどな……姉だと何言ってんのこの人って感じ」
「どう言う意味!?」
何言ってんのこの姉、って意味だ。いや、双子なのだしあんまり姉弟感とかはないが、それでもやっぱ普通にもう少し姉らしくして欲しいものだ。
さて、その葉子は何か思いついたようで、草太の目の前でにやりとほくそ笑む。
「良いけど? あんたがそのつもりなら、こっちにだって考えあるから」
あ、とすぐに理解した。こいつ、自分だけが濡れても良い服装をしているアドバンテージを活かしてこっちも濡らしに来るつもりだ。
体操服姿の草太は、当然ことながら濡れたくない。そこで仕返しをするつもりだろう。
なら、当然その前に先手を打たせてもらう。
「先生、香取さんがサボってまーす」
「はあ!?」
「香取、弟に構ってもらってないで早く泳げ」
こう言う時にチクり行為は効果的だ。助けてもらえるから。何せ、基本的に相手は授業でやるべきことをしないで抜け出しているのだ。当然と言えば当然だろう。
仕方なさそうに怒られた葉子はプールの中へ引き返す。その様子をぼんやり眺めながら、空を見上げた。
本当は、プールは嫌いではない。と言うか、割と好きだ。まぁ学校のプールは冷たいのでそこは嫌だが、それでも泳いでればとりあえず楽しいものだ。
けど、それもこの変な力の所為で純粋には楽しめなくなってしまった。どうしても感じさせられる他人の感情は、鬱陶しいしシャットアウト出来ない。
それなら、ここでぼんやりしていたいものだ。
「……はぁ、暇」
そんな事を呟きながら、のんびりと空を見上げた。
×××
その日の学校の昼休み。給食を食べ終えた葉子は、軽く伸びをする。
「うーし、サッカーやろうぜ! 今日、4組と試合だから!」
「良いね。ここ勝てば6年で最強決定だからな!」
「やってやろうぜ!」
6年生になってから、草太は外で遊ぶ友達と同じクラスになり、毎日外でサッカーをしている。
その所為か、休み時間に葉子や華とツルむことは少なくなってきた。
「相変わらず元気よね、あいつ」
「良いことなんじゃない? 男の子だし」
華が適当な返しをしながら、休み時間にも関わらず勉強をしている。塾からの課題らしい。
「ねー華ー。少しは休めば? ずっと勉強してんじゃん」
「うん。でも、これ今日までに終わらせないといけないから」
「……」
なんか、つまらない、と葉子はため息が漏れる。いつも一緒だったはずの弟も幼馴染も、まるで自分から離れていってしまうみたいで。
いや、そうでなくても、だ。特に幼馴染の方が気にいらない。勉強するのは勝手だけど、休み時間っていう「休み」と言う文字が入っている時間でまで勉強しているのはどうなのだろう?
ここは一つ……意地でも構わせてやる。
「華、そういえばさ、この前アタシ初めてブラ買いに行ったんだけど、華は買ったりした?」
「私には当分必要ないものだから」
ちょっと地雷を踏み抜いた気がする。そんなの見れば分かることなのに。いや、だけど構わせると言う目的なら怒らせるのもアリかもしれない。
「あー、華まだまだ成長期来てないもんねー?」
「可能な限りゆっくりで良いと思う。大きいと可愛い柄とかないって聞くし、中学に入れば妬みとかで変な意地悪をされるかもしれないから。葉子は来年から大変そうだね」
「……ちょっと、それアタシのこと脅してんの?」
「……」
「なんか言えー!」
本当にムカつく幼馴染だ。むっきーと怒りながら、もうなんでも良いのでとりあえず喚き散らす。
「そーいうこと言うならもう知らないから!」
「何も言ってないけど?」
「来週、また家族でアウトレット行ってブラとかアタシだけ買って来るから!」
「好きにし……」
と、言いかけたところで華は止まる。どうしたのだろう? と、葉子は小首をかしげる。
「どうしたの?」
「……それ、草太くんも行くの?」
「行くけど……いや流石にブラ買う時はあいつと別行動……」
と、そこでこちらも口が止まった。理解した。同じ女である葉子は、前々から何となく勘付いていた。
この女……少なくとも草太のことが気になっている。それは勿論、恋愛的な意味合いで。
つまり……今も「もしかしたら草太も男だし女性の下着とか興味あるんじゃないか」という考えなのだろう。なんか最近、プールの授業とかでクラスの男子の視線が気持ち悪いし、ありえない話でもない。
ニヤリ、と底意地の悪そうな笑顔を浮かべた葉子は、頭の中で作戦を考える。華の気を引くには、草太を利用すれば良いのだ。
「……」
……ふと思いついたのは「草太に好きな下着の柄とか聞いてこようか?」だった。でも、それを言ったら草太は間違いなく「え、お前俺の好みに合わせるつもり? 姉弟でそれはキモくない?」と返して来る。そんな赤っ恥をかくのはごめんだ。
なら……今の草太を利用すれば良い。
「さーて、どうでしょうね? それよりアタシ、草太のサッカー見学してこよっと」
「っ……」
それだけ言って、ベランダに出た。6年生の教室は最上階なので、校庭がよく見える。当然ながら、点数表とかないのでどちらが勝っているのかは分からないが、ちょうど草太が敵チームのゴールにボールを運んでいた。
「おおー。相変わらずやるー」
「……」
そんな呟きを漏らした直後、しれっと隣にメガネの少女が立ち並ぶ。この幼馴染、ポーカーフェイスだけど割と分かりやすいものだ。
「あれ、華。勉強は良いの?」
「休憩。休み時間だもの、休まないと」
どの口で言ってんの、と思ってもとりあえず黙っててあげた。なんか可愛かったので。
さて、グラウンドの草太は上手いことドリブルをして敵を躱しながら、前方へパスを出した。
それを受け取ったのは、クラスの男子。そのままシュートを放ったが、キーパーに阻まれる。さて、カウンターが始まる。草太は何処かな? と思ったのだが、見当たらない。いや、見つからないと言うべきか。
というか……見づらい。当然だが、ユニフォームがあるわけでもないし、校庭は他の生徒も使うので関係ない生徒がピッチに立っている状態でもある。
もはやどれがチームメイトでどれが敵チームなのか分からなくなってきた。
「あれ、草太どこ行った?」
「右側のゴール前、長打を警戒して身構えてる」
「あ、ホントだ。ほんとよく見えるわね」
「……別に、たまたま見かけただけ」
本当に可愛い幼馴染である。
さて、そんな時だった。グラウンドで、草太が上手いこと敵のシュートを阻み、ボールをカットした。
このまま草太はドリブルをする。得意なのか、サクサクと敵チームと関係ない生徒を追い抜いていく。まるで、相手の考えが読めているのか、というほどだ。
このまま一人で相手のゴール前まで運ぶのか、と思った時だった。抜かれた相手チームの生徒が、後ろから服を引っ張った。
「「あ」」
後ろに引き倒される草太。ボールを奪われたわけだが、周りで見ていた草太チームのクラスメートたちはすぐにそれを止めた。今のはファールだと主張しているのだろう。
しかし、相手は惚けているのか、少しずつヒートアップしていった。
「え、あれヤバくない?」
「……先生、呼んだ方が良いかも」
草太も何かしら言っている様子を見せるが、相手はとうとう無視して試合を続行しようとする。
その後、また草太が口を挟んだ。その致命的な一言は、その男の子を逆上させた様子だった。その男の子は、草太の顔面を殴った。
「は!? あいつ何してんの!?」
「葉子、先生呼んできて」
「え? 華は……」
無視して華は教室を出て行った。
×××
「てめっ、マジ殺す!」
「おいやめろ!」
逆上した生徒に2〜3発殴られたが、こちらは反撃しない。このくらいのパンチなんか痛くないからだ。いや、痛いけど気になるほどの事ではない、と表現した方が正確か。
ただ殴られるがままでいたら、他の生徒が流石に止め始めている。ちょっと核心をついて煽っただけで、よく怒るものだ。こちらの中に怒りの感情が入ってくるほど怒っている。
殺すって言いながら本当に暴力を振るう人間を葉子以外で初めて見たレベルだ。
「大丈夫か? 草太」
「平気。別に痛くないし」
「嘘つけよ。唇切れてんじゃん」
「顎骨砕かれたわけでもないから大丈夫だ」
話しながら立ち上がる。これでこいつはレッドカード。退場して貰えば、試合の続きが出来る。
「なぁ、これでそいつ退場だよな? ならさっさと校庭からつまみ出せよ」
「テメぇ、マジで……!」
「じゃないと先生呼ぶぞ」
「ーっ……!」
こう言う時の「先生呼ぶぞ」も使えるものだ。なんだかんだ、成長して生意気になっても、生徒は先生が怖いものだから。
これで試合を続けられる……と、思った直後だった。草太の中に突如、別の感情が入って来る。強く、誰かを心配しているような焦燥感だ。
「草太くん!」
「え、華?」
突然、割り込んできた女子の声に、一人を除く全員の気がそっちに向けられた直後だった。
その唯一の怒れる男が、他の男達を抜け出して拳を構えて寄ってくる。それが見えたが、まぁもう1発くらい殴られても良いか、と思い、歯だけ食いしばった時だった。
繰り出された拳が直撃したのは、草太ではなく女子だった。
「あ」
「きゃっ……!」
殴り飛ばされ、その少女は草太の前に倒れ込んでくる。それを支えるために腰を落とし、何とか倒れさせはしない。……が、目に入ったのは、唇を切って血を流す華の姿。
その華は、殴られたにもかかわらず、まず草太を見上げた。
「っ……だ、大丈夫? 草太……」
「……」
あ、ダメだ、とすぐに理解する。殴られたのは自分なのに、先に草太を心配する幼馴染の姿を見て、何か胸の中がぽっかり空いたような感覚に陥る。
そんな中、耳に届いたのは殴った本人の弱々しい声だった。
「っ、お、俺の所為じゃねーぞ。そいつが割り込んでくるから……」
プッツン、と何かが切れる音がした。基本的に他人の感情が自分の中に入って来てしまう体質の草太にとって、初めての感覚。自身の感情によって自分が塗り潰されていく。
周囲の生徒達がぶわっと冷や汗をかくほどの殺意を漏れ出させながら、近くにいる友達に華を無言で任せて、殴った本人の方へ歩く。
そのあまりにもスムーズな動作に、他の誰も反応できなかった。肩に手を置き、拳を構えて思いっきり引き、そして何の躊躇いもなく射出するように振り抜く。
「ぐえっ!」
殴り飛ばした男の子は一撃で尻餅をつくが、草太は容赦しない。ズンズンとさらに接近し、倒れた男の子の胸ぐらを掴み、引き寄せる。そして、再び拳を振り上げた。
「ひっ……!」
振り下ろそうとした直後だった。その拳が空気の読めていない声と同時に横から止められる。
「ちょっと何してんのあんた!? やめなさい!」
止めたのは、葉子だった。それにより、一気にハッと正気に戻る。その葉子の後ろには、教員が立っていた。
しまった、つい我を忘れてしまった。そんな感情的な真似をすれば、先生からの評価が落ちて信用をなくすと言うのに。
「……悪い」
胸ぐらを離すと、男の子はヘナヘナと腰を抜かしたように尻餅をつく。ふと、草太は華の方を見た。殴られたとは言え、大丈夫そうではある。
「華、平気か?」
「……平気。そっちは?」
「大丈夫だよ。てかお前、なんであんな……」
「はいはい、待ちなさい」
そんな中、先生が割って入る。問題が起きていたのは確実なので、これは流石に避けられない。
「とりあえず話聞くから、全員生徒指導室来て」
どうやら、今日の昼休みはいつもより長引きそうだ。
×××
華の唇は大したことなかったので、とりあえず問題ない。ただ、草太は後になってから顔が腫れ上がったので、昼休みをはみ出して手当を受けている。
で、教室に戻りながら、華と葉子はお話ししていた。
「いやー、ビビったわ。草太が本気で怒ったとこ初めて見た」
「うん……そうだね」
「ちょっと、そんな深刻そうにしなくても平気でしょ。あいつ、タフだし」
「……」
そうは言うが、華は元気なさそうだ。多分、これ何を言っても凹んだままだろう。別に華が凹むことでもないだろうに。
ここは、なんとかして話を変えようと思った葉子は、適当に話題を振った。
「そういや、もうすぐ夏休みじゃん。ね、今年はどうしよっか?」
「悪いけど、私は勉強。夏期講習があるから」
「うっげー……華、そんなの行くの?」
「うん。多分、この後は学歴社会になっていくと思うから」
華は淡々と答える。華は割と話しかければ話し返してくれるので、これで元気が出ることもあるだろう。
「なにそれ?」
「良い大学、良い高校、良い資格を持っている人が良い評価を受ける社会ってこと。それは実際に賢い人よりも賢くないけれど良い学歴を持っている人の方が評価をされやすくなるってことだから」
「え、華……他人の評価とか気にする人だったっけ?」
「ううん、そんなことない。けど……他人からの評価も自分の力になるから。草太くんを見てるとそう思う」
「どういうことよ?」
片眉を上げて尋ねる。いや、なんとなく分かるけど華の口から詳細を聞きたい。
「草太くんは、大人にはなるべく嫌われないように身を振りながら動いてる。だから、今日の先生からのお説教を聞いててそう思った」
「え、普通に怒られてなかった?」
「先生が到着した時、草太くんは倒れてる相手に、さらに拳を振り下ろそうとしてたけど、生徒指導室で改めて話を聞くってなった時、先生がまず事情を聞いたのは草太くんだった。こう言う時、普通は被害者に見えた方の子供から話を聞くものだから」
「あー確かに」
そういえばそうだった。先生の視点で見れば、あれはどう考えても草太が暴れている側だ。だから葉子も慌てて止めたし。
「その後も、草太くんの話を先生は落ち着いて聞いてた。相手の子が被害者になる為に何とか色々と言い繕ってけれど、結局『お前から手を出したんだろ?』で抑えられてた。その時に思っただけ。普段から真面目な素振りをして成績もそこそこを抑えていれば、こういう問題が起こった時の先生の対応も変わるんだなって」
「ああ〜……そういう」
「私も今後、可能な限り自分で出来る範囲を広げられる能力が欲しいけど、それと同時に他人に助けてもらえる人脈も欲しい。人間一人にできることなんてたかが知れてるから」
「それなら、華にはもういるじゃん?」
「?」
なんかキョトンとされてしまった。いやいや、そこはわかって欲しい。
「アタシと草太がいるじゃん!」
「ーっ」
「だから、夏休みは遊ぼう」
「それは無理」
「んが!」
そんな呑気な話をしながら、教室に戻る。なんだかんだ、華も元気が戻ったかもしれない。
さて、そうこうしている間に、華が葉子に声を掛けた。
「そういえば、葉子」
「何?」
「草太くんって、家でもご両親に怒られないの?」
「なんで?」
「いや……なんとなく思っただけ」
言われて葉子はため息をつきながら天井を見上げる。言われてみれば、ここ数年はかなり親子関係も変わってきている気がする。
「そういえば、昔より今の方がよく怒られてるわね。親からは」
「……そうなんだ」
「なんでそんなこと気になるの?」
「気になるってほどのことじゃない。……ただ、大人の顔色を窺って、いざという時に自分が怒られないように立ち回って……それって、普通子供に出来ることなのかなって思っただけ」
「出来るんじゃない? やろうと思えばアタシだって出来るし」
「え、そうなの?」
「弟にできて姉にできないってことないでしょ」
「……そう」
「あ、今なんかちょっとバカにした!?」
たまに分かる。そういう華の感情のブレが。この子、たまにすごく分かりやすいから。
思わずモギャりそうになるが、その後にすぐ華は続けた。
「葉子はそう言うこと、出来ない方が良いと思う」
「アタシにずっと怒られてろって言うの!?」
「……いや、怒られないようにしてってこと」
そっちか、と思いつつも、まぁ確かに葉子もずるはしたくない。
「大丈夫、アタシ草太と違ってずるはしないし」
「うん」
そんな呑気な話をしながら、二人は教室に戻った。