昭和のいつか。どこかにある高校。季節は初冬。
今日から学校は再開。
自転車置き場からプレハブ仮設校舎へ歩いていく。
「おはようございます。◯◯先輩」
「おはよ。河野早いんだな」
まだ早い時間なので生徒はあまりいない。
商業の野球部が練習してるぐらいだ。
「私、家が商業の隣なんです」
「羨ましいな、それ」
「次の練習ですけど」
「あの事件、影響は無し?」
「びっくりはしましたけど、そこまでは」
現場を見た俺とは違うか。
「俺はいつでも良いよ」
「じゃ、今日からで良いですか?」
「OK!」
久しぶりに発散だ。
「柚木さん、すごく練習してるんですよ」
「独学?」
「カセットテープ付きの教本見ながらスタジオと家で」
「家?」
「お店が休みの日曜に。あそこ防音なんだそうです」
「あ、そうか。クラブだもんな」
ふわふわとした人形のような見た目の割に頑張り屋さんじゃないか。
その時。
二つの出来事が同時に起きる。
河野涼子が目を見開き驚いた顔をする。
俺の足首が何かに掴まれ、引っ張られる。
俺はそのまま河野涼子を押し倒す形で。
頭の上を何かが通過する。
地面に落ちたそれは金属バットだった。
「すみませーん! 大丈夫ですかー!」
二人の野球部員が走ってきた。
「当たってませんよね?」
「あ、当たってない」
この時やっと俺はすっぽ抜けたバットが飛んできたんだと理解した。
「すみませんでしたぁ!」
二人して坊主頭を下げる。
「あー当たってないから。気をつけてな」
故意じゃないことを責めたてる気はない。
「はいっ! 気をつけます!」
また頭下げて走っていく。
しかしびっくりしたな。
「あ、あのう先輩……」
「河野は怪我……わお!」
俺は河野涼子の上にのしかかったまま。
「すまん!」
慌てて立ち上がり、河野涼子を起こし、彼女の制服についた土をハンカチで叩き落とす。
「だっ大丈夫です。後は自分でやりますから」
「すまん」
「いえ! こちらこそありがとうございます。お陰でバットに当たらずに済みました」
何かが俺の足首を後ろに引っ張った。
あれがなければ俺の頭に直撃していたはずで。
俺がただ避けただけなら河野涼子は無事では済まなかった。
河野と放課後の待ち合わせを約束し、仮設校舎が並ぶ方へ歩き始めたところで王戸めぐみに会う。
「おっおはようございます! ◯◯先輩」
「あはよ。王戸ちゃんも早いな」
「王戸ちゃん?」
「すまん、嫌か?」
「いえ! 大丈夫です!」
可愛い。
「さっきは危なかったですね。どうにか間に合いました」
「……足を引っ張ったのは王戸ちゃん?」
「はい!」
「助かった。ありがとう!」
「いえ! ◯◯先輩をお守りするのは当たり前ですから」
この子も高速で動けるんだな。さすがイタチ。
「では失礼します!」
走っていく後ろ姿を堪能していると
「私もイタチさんに感謝ね。後で礼をしておくわ」
佐藤優子がそこにいた。
「佐藤さん、見てたんだ?」
「あの子が◯◯君を転ばせたあたりから」
「ビビったよ」
「無事で何より。それと憑き物が落ちたような顔になって。瑛子ちゃんにも感謝しないと。ね?」
「もちろんだよ」
不意に『言ってくれたらいつでも裸で吸ってあげる』と耳打ちしたかと思うと、小さく手を振りながら佐藤優子は優雅に歩き去る。
「お二人は恋人同士なんですか?」
「おわっ! 柚木か。どこから現れた」
柚木も神出鬼没女子。
「綺麗だし大人っぽいですよね、佐藤先輩は。憧れます」
「別に付き合ってるとかないよ」
「あれだけ親密な雰囲気を出してるのに?」
「ないもんはないんやで」
「そうでした! 先輩!私、エイトビートをマスターしました!」
「やるじゃん。上達早いな」
かなり練習したんだな。
「でも先輩が使ってるスティックだと無理なんです」
「あ、あれを買ったのか?」
実は俺、硬いヒッコリーのスティックでもすぐ折ってしまう。買ったその日、二曲目に折ったこともある。
こう頻繁に折れる&買うを繰り返すと、高校生の小遣いじゃきつい。
そんな時新発売されたのが、とあるヘビーメタルバンドのドラマーモデル。長さも太さも最大。和太鼓のバチに近い形、つまりただの棒。
パワータイプのドラマーには向いてるが、柚木のような細い女の子が使うようなものじゃない。
「はい! 店長が勧めてくれましたので」
あの人、華奢な女子になんちゅうもの買わせてるんだ!
「もしかしてパワードラマー目指してる?」
「いえ。でも重いから筋トレになるんですよ」
「手首を痛めないように気をつけてな」
「はい! 気をつけます。話変わりますけど最近私のクラス、いえ校内が桃色空間になってると思いませんか?」
「桃色空間?」
「カップルばかり目立ってません?」
「そういう意味か。確かにな」
言われてみれば、確かにそうだ。
「私、嫌なんですよねぇ。そういうのは他所でやってほしいです」
「ほお? 意外だな」
「どうしてですか?」
「いや、雰囲気がさ、恋に生きる乙女って感じだから」
「ええー? 先輩ひどいです。私、そんな風に見えます?」
「すまん。第一印象で」
この子は輝いてるし。
「私は興味ないですね。あ、河野さんはそういうの好きですけど」
「仲良いのか?」
「いえ、特には。あの人は訊くんです、誰にでも。『気になる人いる?』って」
「恋キューだからか」
「私にも訊いてきたので◯◯先輩って答えたんです」
あちゃー!
「それであの紹介に繋がると」
「先輩はドラムのお師匠様ですから」
「教えたことはないけどな」
「じゃ彼女に立候補します」
「どういうこと?」
「先輩の彼女になればドラムを教えてもらえます」
「教えません」
「先輩はケチですね」
「違いますー。俺は自己流だからですー」
「私はそれでいいんです」
「自己流は後で泣く羽目になるんだ」
ずっと自己流でやってきた俺はかなり苦労してる。
「でも先輩が刻むリズムは私の魂を揺さぶるのです」
「お褒めに預かり光栄にございます、姫」
「真面目な話です。正確なリズムを刻めば良いわけではありません」
「そこには少し同意かな」
「だから私を彼女にするべきなんです」
「そもそも桃色空間が嫌いなんだろう?」
「それは他の人たちが恋をしてバカになっているからです。私はそうなりません」
「おお……すごいな」
「バカになるからナイフで刺すんです」
時が止まった気がした。
柚木由香里の顔に表情は見えない。
「バカになってはいけないのです。バカになると何も見えなくなります。例え見えていても、見えてないんだと自己暗示をかけてまで気付かぬふりを続けます」
授業開始前の予鈴が鳴る。
「彼女の件、真剣に検討をお願いします」
「わかった。可能性は無いけど」
ちょっと柚木に圧倒された。教室へ急ぐ。
「◯◯君、おはよう」
「飯田おはよ。なんかすまん。俺、変なこと言ったようだな。瑛子に怒られた」
「ううん。気にしてないよ」
酒巻はと言えば……相変わらず元気ない。
担任が入ってくる。
ホームルームにてクラスメイトの家出を知らされる。しかも一年女子と駆け落ちだとか。
井田。
なんてこった。
よりによってあいつが。
駆け落ちってなんだ。
何があった。
普通に付き合えないのか。
動揺しまくる。
まるで噂に聞く”名前さえ書けたら入試は合格”高校並みの桃色空間ではないか。
そして今は保健室。
ついに商業高校の保健室を利用出来るようになった。体調不良を理由に保健室に行くことで数学はサボる。数学なんてクソ喰らえ。
この前買ったSF小説を堪能しようとしたが、ダメだ井田のことが気になって集中出来ない。
文庫本を閉じて目を瞑る。
「あら、寝てる?」
「わっ!!」
耳元で囁くのやめてくれませんかね、佐藤優子。
「ホラー映画みたいなことやめてくだされ」
「ふふ。◯◯君面白いから」
やはりわざとやってる。
「裸でなくて申し訳ないけど」
「あれは真に受けないでくださいまし」
首に当てられる唇。
井田のことでざわついていた心が落ち着いていく。
「ごちそうさま」
いつものようにティッシュで口を拭う佐藤優子の唇になぜか視線が向く。
「どうしたの?」
「何でもないよ」
なぜ今更だ。
俺も桃色空間の影響を受けてるのか?
「柚木って子が言ったんだけど、最近学校が桃色空間だって」
「恋多き年頃だもの」
「いやでもさ、ここんとこおかしくない?」
「そうねぇ。確かに今までは進学校だからあまり浮ついたりはしてなかったね」
「井田のやったことが正直信じられなくて」
「駆け落ちねぇ。高校生のは珍しいかも」
「日本史の生き証人佐藤さんに訊きます」
「それ、遠回しに年寄りって言ってない?」
「いやいや。で、やっぱり江戸時代とか駆け落ちは割とあったの?」
「そうね。大店の若旦那と使用人が手に手をとって駆け落ち、なんてのはあったけど」
「はぁ、身分というか家柄の違いの恋……」
「でも待ってるのは悲劇的な結末。大抵は連れ戻されたり、心中したり」
「ハッピーエンドは無いんですな」
『バカになってはいけないのです。バカになると何も見えなくなります。例え見えていても、見えてないんだと自己暗示をかけてまで気付かぬふりを続けます』
柚木の言ったこと。『恋は盲目』だな。
「恋をすると周りのことが見えなくなるのはいつの時代も同じ」
佐藤優子が憂いを帯びた目で遠くを見つめ、大人びた雰囲気になる。
絶対高校生には見えない。
佐藤優子も過去には色々あったんだろう。あるのが普通だ。何百年だぞ。
またしてもいきなりキスされる。
聞いてないんだけど!
長くもあり短くもある時間。
神経が一箇所に集中したかのような快楽。
あ、これヤバい。
脳が溶けるわ。
「私も桃色空間に当てられちゃったみたい。またね」
彼女は姿を消す。
あの雰囲気で来られたらとてもじゃないが、逆らえないな。
後で瑛子にしばかれるのを覚悟しておく。
日常は変化をさらに加速させていく。
やらないけど一緒に駆け落ちしてくれるほど愛し愛される彼女が欲しい。