朝の空気は少し冷たかった。
まだ陽も昇り切っていない。薄く白んだ空の下、訓練地には馬の鳴き声と車輪の音が響いていた。
宿舎前へ並ぶ馬車。
荷物を運ぶ教官達。
104期達は、それぞれ眠そうな顔で集まり始めている。
「ふぁぁ……」
コニーが欠伸を漏らした。
「眠ぃ……」
「朝からうるせぇな」
ジャンが荷物を持ち上げる。
「だって早ぇんだよ」
「卒団式に遅刻したら笑えねぇだろ」
ライナーが苦笑する。
その横でサシャは既にパンを齧っていた。
「お前どこから出した」
「非常食です」
「朝飯だろそれ」
笑い声が広がる。
だが、その空気もどこか落ち着かない。
今日で終わる。
訓練兵としての日々が。
「……」
アスカは小さく息を吐き、振り返る。
訓練場。
立体機動訓練塔。
泥だらけになった格闘場。
馬場。
座学棟。
見慣れた景色だった。
ここへ来た頃は、全部気に食わなかった。
怒鳴る教官も。
群れる訓練兵も。
壁の中の空気も。
でも。
「おーいアスカ!」
コニーが手を振る。
「置いてくぞー!」
「うるせぇ」
自然と口元が少し緩む。
気づけば、この騒がしさにも慣れていた。
アスカは小さく息を吐き、馬車へ乗り込む。
車輪が軋む音。
馬の足音。
104期達を乗せた馬車が、ゆっくり訓練地を離れ始めた。
馬車の揺れが続いていた。
石畳を進む音が、一定のリズムで響く。
「暇だな……」
コニーが窓へ頬杖をつく。
「寝れば?」
ジャンが返した。
「揺れて寝れねぇ」
「子供か」
ライナーが笑う。
サシャは既に寝ていた。
「早ぇよ」
「通常運転だな」
104期達の間に小さく笑いが広がる。
だが、それも少しずつ静かになっていく。
窓の外を流れていく景色。
訓練地から離れていく感覚。
その実感が、ゆっくり全員へ落ち始めていた。
「なぁ」
不意にエレンが口を開く。
「壁の外って、どんな景色なんだろうな」
少し空気が静かになる。
エレンは窓の外を見ていた。
遠くを見るみたいに。
「また始まった」
ジャンが呆れる。
「でも気になるだろ」
「俺は別に」
「デカイ草原とか見てみたいよな」
アルミンが小さく笑った。
その瞬間、エレンの顔が少しだけ明るくなる。
「だろ!?」
「お前らよくそんな話出来んな……」
コニーが引いた顔をする。
「壁の外とか怖ぇだろ普通」
「怖ぇよ」
エレンは即答した。
「でも、それでも見てぇ」
真っ直ぐだった。
危ういくらいに。
「……」
アスカはそんなエレンを横目で見る。
地下街には、あんな目をする奴はいなかった。
上を見る事を諦めた奴ばかりだった。
だからエレンの目は、時々妙に眩しく見える。
その時。
向かい側から視線を感じた。
アニだった。
目が合う。
だがアニは何も言わない。
少しだけ目を細め、そのまま窓の外へ視線を戻した。
「?」
アスカは少し眉を寄せる。
最近、時々ああいう視線を感じる。
理由は分からない。
でも嫌ではなかった。
夕方。
トロスト区が見え始める。
巨大な壁。
立ち並ぶ建物。
街を歩く人々。
「うわ……」
コニーが息を呑む。
「デケぇ……」
本物の壁だった。
訓練地で見るそれとは、圧迫感が違う。
壁上には駐屯兵達が立っている。
街では市民が行き交い、荷車が走り、店からは声が漏れていた。
兵士の街。
壁と共に生きる街。
「……」
アスカは壁を見上げる。
高い。
地下街の天井なんか比べ物にならない。
でも。
不思議と息苦しかった。
壁の向こうに“何か”がいる。
そう理解してしまう高さだった。
「降りろ!!」
教官の声が響く。
104期達が馬車から降りていく。
石畳。
街の匂い。
巡回する駐屯兵。
全部が訓練地と違った。
「整列!!」
104期達が並ぶ。
夕陽が壁を赤く染めていた。
その前へ、キース・シャーディスが立つ。
「貴様らは本日をもって訓練兵課程を修了する」
低い声が響く。
空気が張る。
「ここへ来た理由はそれぞれ違うだろう」
104期達は真っ直ぐ前を向いていた。
「名誉。復讐。金。憧れ。あるいは、生きる為」
アスカは少しだけ目を細める。
地下街を出た時、自分には立派な理由なんて無かった。
ただ、生き残る為だった。
「だが」
キースの声が重く落ちる。
「今日まで生き残った」
脱落した者。
壊れた者。
去っていった者。
104期達は、その全てを見てきた。
「これより貴様らは兵士だ」
兵士。
その言葉が胸へ沈む。
「壁を守るのか。外を目指すのか。内地へ行くのか。選ぶのは貴様ら自身だ」
風が吹く。
「だが忘れるな」
空気が張った。
「巨人は今も壁の外にいる」
壁上の兵士達が見える。
本物の兵士。
死線を越えてきた目をしていた。
『ハッ!!』
104期達の声が響く。
その瞬間。
訓練兵としての日々が終わった。
「これより成績上位者十名を発表する!!」
夕陽が壁を赤く染めていた。
トロスト区の空気は、訓練地より少し重い。壁の上では駐屯兵達が巡回し、街では市民達が慌ただしく動いている。
その真ん中で、104期達は整列していた。
「来た……」
コニーが小さく呟く。
「お前入ってねぇだろ」
ジャンが即答した。
「分かんねぇだろ!?」
「分かる」
周囲で小さく笑いが起きる。
だが皆、どこか落ち着かなかった。
成績上位者。
憲兵団への切符。
ここで、自分達の未来が少しずつ形になっていく。
「第十位――サシャ・ブラウス!」
「えっ」
本人が一番驚いていた。
「マジかよ」
「お前座学終わってたろ」
「狩猟能力込みじゃねぇ?」
104期達の間に笑いが広がる。
サシャは真顔だった。
「努力しました」
「主に食事方面だろ」
「第九位――コニー・スプリンガー!」
「うおぉっ!?」
コニーが飛び上がる。
「入った!!」
「身体能力だけで来やがった……」
ジャンが呆れる。
「第八位――マルコ・ボット!」
マルコが少し驚いた顔をした。
だがすぐ穏やかに笑う。
「第七位――ジャン・キルシュタイン!」
「……チッ」
ジャンが舌打ちする。
「思ったより下だな」
「十分すげぇだろ」
ライナーが笑った。
ジャンは壁の方を見る。
悔しそうだった。
でも、どこか納得もしている顔だった。
「第六位――エレン・イェーガー!」
エレンが拳を握る。
その目は真っ直ぐ前を向いていた。
順位なんかより、その先を見ているみたいに。
「第五位――アニ・レオンハート!」
アニは何も言わない。
静かだった。
風が金髪を揺らす。
夕陽が横顔を赤く照らしていた。
ただ、その目だけが妙に冷たい。
「第四位――アスカ・ラングレー!」
少しざわつく。
「やっぱ上位か……」
「立体機動ヤバかったしな」
「対人格闘もだろ」
視線が集まる。
アスカは小さく息を吐いた。
実感は薄い。
地下街で生きていた頃、自分がこんな場所へ立つなんて考えた事も無かった。
兵士。
しかも上位。
少し前なら笑っていたと思う。
その時。
視線を感じる。
アニだった。
一瞬だけ目が合う。
だがアニは何も言わない。
ただ少しだけ目を細め、そのまま前へ視線を戻した。
「第三位――ベルトルト・フーバー!」
静かな歓声。
ベルトルトは困ったように少し笑う。
「第二位――ライナー・ブラウン!」
「納得だな」
「兄貴感すげぇもんな」
ライナーが苦笑した。
そして。
「第一位――ミカサ・アッカーマン!!」
静かな納得が広がる。
誰も異論は無かった。
ミカサは何も言わない。
ただ静かに前を向いている。
風が吹く。
夕陽が少しずつ落ち始めていた。
「以上十名は憲兵団への入団資格を得る!!」
空気が変わる。
憲兵団。
駐屯兵団。
調査兵団。
未来が分かれ始める。
104期達も、それを理解していた。
「……」
アスカは壁を見上げる。
巨大な壁。
その向こう。
まだ見た事の無い世界。
怖くない訳じゃない。
でも。
壁の中だけで終わる自分は、どうしても想像出来なかった。
☆☆☆
夜。
トロスト区の食堂は騒がしかった。
兵士達の笑い声。食器のぶつかる音。酒の匂い。窓の外では壁上の松明が揺れ、巡回する駐屯兵達の影が石畳へ伸びている。
訓練地とは違う。
ここは、本物の兵士の街だった。
「おい第九位!」
ジャンが笑う。
「敬えよ!」
「第七位が何言ってんだ」
コニーが即座に返した。
「うるせぇ!!」
104期達の間に笑いが広がる。
サシャは既にパンを抱えていた。
「卒団祝いです」
「お前は毎日祝ってるだろ」
ライナーが吹き出す。
騒がしい。
いつも通りの104期だった。
でも。
その空気も、長くは続かなかった。
「なぁエレン」
トーマスだった。
椅子へ深く座りながら、パンを齧っている。
「お前、本当に調査兵団行くのか?」
少し空気が静かになる。
エレンはコップを置いた。
「あぁ」
迷いの無い返事だった。
「正気かよ……」
ミーナが眉を寄せる。
「調査兵団って、毎回ほとんど死ぬんだぞ?」
「怖くねぇのか?」
ナックが言う。
エレンは少しだけ黙った。
窓の外を見る。
巨大な壁。
その向こう。
「……怖ぇよ」
ぽつりとエレンが言う。
104期達が少し静かになる。
「でも」
エレンは前を見る。
「ここで誰も行かなかったら、何も変わんねぇだろ」
食堂の空気が少しずつ変わっていく。
「巨人に怯えて、壁の中で縮こまって生きるだけだ」
拳が握られる。
「俺は嫌だ」
低い声だった。
でも、強かった。
「母さんが食われた日から決めてた」
誰も喋らない。
「俺は巨人を一匹残らず駆逐する」
真っ直ぐだった。
怒り。
憎しみ。
それだけで立っているみたいな目だった。
「でもよ……」
トーマスが少し困った顔をする。
「死んだら終わりじゃねぇか」
静かな声。
責めている訳じゃない。
本気で理解出来ないだけだ。
「調査兵団なんて行って、何の為に死ぬんだよ」
その瞬間。
エレンの目が揺れる。
「何の為……?」
小さく繰り返す。
「外へ出る為だ」
空気が止まる。
「壁の外には、まだ何かある」
アルミンが顔を上げた。
「今まで見たことの無い未知の景色もーーー」
エレンの声が熱を帯びる。
「それを見に行けるのは、外へ出た奴だけだ!!」
食堂が静まり返る。
エレンだけが前を見ていた。
まるで、もう壁の向こうを見ているみたいに。
「……」
アスカは黙ってその姿を見ていた。
真っ直ぐ過ぎる。
危ういくらいに。
でも。
少しだけ分かる気もした。
壁の中で終わる感覚。
何も知らないまま腐っていく感覚。
地下街で何度も見た。
薄暗い通路。
濁った空気。
諦めた目。
「……俺も行く」
ぽつりとアスカが言う。
視線が集まった。
「やっぱりな……」
ジャンが顔を覆う。
「死に急ぎ野郎が増えた……」
コニーが引いた顔をする。
ライナーは苦笑していた。
「上位二人が調査兵団か」
「怖いね」
ベルトルトが小さく呟く。
エレンは少し驚いた顔をしている。
アスカは小さく息を吐いた。
自分はエレンほど綺麗じゃない。
外の世界へ夢を見ている訳でもない。
でも。
壁の中で飼い殺しみたいに生きるのは、性に合わなかった。
食堂の空気は、しばらく戻らなかった。
さっきまで騒いでいた104期達も、どこか静かになっている。
エレンは座ったまま、窓の外を見ていた。
壁。
夜のトロスト区。
松明の灯り。
その向こう側を、本当に見ているみたいだった。
「……変な奴」
ぽつりとアニが呟く。
誰に聞かせるでもない声。
だがアスカには聞こえた。
「あ?」
「エレン」
アニはコップへ視線を落としたまま続ける。
「普通、怖がるでしょ」
「怖がってんだろ」
アスカが返す。
「それでも行くってだけで」
アニは少し黙った。
食堂の喧騒が遠く聞こえる。
「……アンタもだけど」
小さく言う。
「何だよ」
「似たようなもん」
アスカは少し眉を寄せた。
「どこが」
「危なっかしい所」
アニは淡々としていた。
でも、少しだけ視線が逸れる。
アスカは小さく笑う。
「褒めてんのか?」
「別に」
即答だった。
その時。
「おいお前ら!!」
コニーの声が響く。
「湿気た空気になってんぞ!!卒団祝いだろ!?」
「お前が一番空気読めてねぇよ」
ジャンが呆れる。
104期達の間に少しずつ笑い声が戻り始める。
サシャは相変わらず食べ続けていた。
「この肉美味しいです」
「話聞け」
ライナーが吹き出す。
騒がしい。
でも、その騒がしさが妙に心地良かった。
104期として過ごす最後の夜。
この空気も、もう長くは続かない。
「……」
アスカは窓の外を見る。
壁上の松明が揺れている。
本物の壁。
本物の兵士。
そして。
壁の向こう。
まだ見た事の無い世界。
怖くない訳じゃない。
でも。
胸の奥が、少しだけ高鳴っている自分もいた。
その時。
椅子が小さく鳴る。
アニだった。
「どこ行くんだ」
アスカが聞く。
「外」
短い返事。
「……アンタは?」
「あ?」
「来るなら勝手にすれば」
そう言ってアニは先に歩き出す。
「……素直じゃねぇな」
小さく呟き、アスカも立ち上がった。
夜風が食堂の扉から流れ込んでくる。
少し冷たかった。
☆☆☆
夜風は思ったより冷たかった。
食堂を出ると、トロスト区の喧騒が少し遠くなる。石畳の道。街灯の灯り。巡回する駐屯兵の足音。
壁は、夜の中でも圧倒的だった。
アニは何も言わず歩いている。
一定の歩幅。
一定の速度。
その横顔を、アスカは少し後ろから眺めていた。
「……何」
前を向いたままアニが言う。
「あ?」
「さっきから見てる」
アスカは少しだけ笑う。
「気付いてんじゃねぇか」
「気になるから」
即答だった。
でも、言った本人が少しだけ黙る。
夜風が金髪を揺らした。
「……別に深い意味は無い」
「言い訳早ぇな」
「うるさい」
短いやり取り。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
二人はそのまま並んで歩く。
壁の上では松明が揺れている。
駐屯兵達の影がゆっくり動いていた。
「本当に調査兵団行くんだ」
アニがぽつりと言う。
「言っただろ」
「普通、もっと迷うでしょ」
「迷ってねぇ訳じゃねぇよ」
アスカは空を見る。
「でも、壁の中で終わる方が嫌なんだ」
静かな声だった。
アニは少しだけ目を細める。
「……アンタって時々、変に真っ直ぐだよね」
「エレン程じゃねぇよ」
「種類が違う」
風が吹く。
少し沈黙が落ちた。
街灯の灯りが、石畳へ二人の影を伸ばしている。
「……死ぬかもね」
アニが言う。
「調査兵団」
「あぁ」
アスカは短く返した。
怖くない訳じゃない。
でも、それ以上に。
壁の中で腐っていく自分の方が嫌だった。
「でもアンタ」
アニが少しだけ視線を向ける。
「簡単には死ななそう」
「またそれか」
「しぶといし」
アニは小さく笑った。
本当に少しだけ。
訓練中、対人格闘で見せる笑いとも違う。
もっと柔らかい笑い方だった。
アスカは少しだけ目を逸らす。
何故か、その顔を真っ直ぐ見れなかった。
「……何」
今度はアニが聞く。
「あ?」
「今、目逸らした」
「気のせいだろ」
「あっそ」
アニはそれ以上追及しない。
でも少しだけ、口元が緩んでいた。
風が吹く。
静かな夜だった。
遠くでは、まだ食堂の笑い声が聞こえている。
「104期も終わりか」
アスカがぽつりと呟く。
「……そうだね」
アニが返す。
その声は少しだけ静かだった。
「なんか変な感じ」
「お前でもそういう事思うんだな」
「失礼」
アニが少し睨む。
でも、その目はどこか弱かった。
「……アンタさ」
「あ?」
「死んだら後味悪いから」
ぽつりと言う。
「なるべく死なないで」
夜風が吹く。
アスカは少しだけ目を瞬かせた。
「それ、心配してんのか?」
「別に」
即答。
でも、少しだけ視線が逸れる。
アスカは小さく笑った。
「素直じゃねぇな」
「アンタにだけは言われたくない」
短いやり取り。
でも、その空気が妙に心地良かった。
風が吹く。
壁上の松明が静かに揺れていた。
トロスト区の夜は穏やかだった。
遠くではまだ104期達の笑い声が聞こえる。
「……戻るか」
アスカが言う。
「ん」
アニが短く返した。
二人は並んだまま歩き出す。
石畳へ影が伸びる。
104期として過ごす最後の夜。
この時間が、ずっと続けばいいと。
ほんの一瞬だけ、そんな事を思った。
背後で指を噛んでみているユミル
クリスタを10位以内に出来なかった模様