トロスト区。
ウォール・ローゼ南端に位置する突出区。壁の外側へ半円状に飛び出すその街は、外敵を引き寄せる囮としての役割を担っている。
卒団式から一夜。
104期訓練兵達は正式配属前の待機命令を受け、区内各所へ配置されていた。
空は青い。
壁上を吹き抜ける風は穏やかで、春先特有の暖かさを含んでいる。
市場には人が溢れていた。
露店の呼び込み。
子供の笑い声。
焼きたてのパンの匂い。
行き交う荷馬車。
平和そのものだった。
二年前。
ウォール・マリアが陥落した事など、まるで遠い昔話のように。
だから誰も、本気では思っていなかった。
再び壁が破られるなどと。
☆☆☆
「平和だなぁ……」
壁上で駐屯兵が欠伸を漏らす。
「おい仕事しろ」
「どうせ今日も異常無しだろ」
笑い声。
気の抜けた空気。
巨大な壁の上だというのに、緊張感なんて欠片も無い。
その少し後方。
補給物資の点検を任されていた訓練兵達が、木箱を運びながら汗を流している。
「おいエレン! そっち持て!」
「分かってる!」
エレンが木箱を担ぎ上げる。
横ではコニーが露骨にサボっていた。
「なぁ、ちょっとくらい休憩してもバレねぇって」
「働け」
「サシャは?」
「……あ?」
振り返る。
サシャは既にパンを食っていた。
「なんで食ってんだよ」
「非常食です」
「今食ってるだろ」
「今死んだら意味ありません」
「理屈になってねぇよ」
笑い声が広がる。
平和だった。
少なくとも、この瞬間までは。
その頃。
地上側。
補給基地付近。
「結局配属っていつ決まるんだ?」
ジャンが壁へ背を預ける。
「知らねぇよ」
ユミルが短く返した。
クリスタはどこか落ち着かない様子で周囲を見渡している。
アスカはぼんやり壁を見上げた。
高い。
相変わらず好きになれない。
守っているようで、閉じ込めている。
そんな感覚があった。
「……」
ふと。
風が止まる。
違和感。
皮膚が粟立った。
「……?」
アスカが眉を寄せる。
次の瞬間。
ゴォォォォォ……
低い音。
空気そのものが震えている。
壁上の兵士達がざわつき始めた。
「なんだ……?」
「雷か?」
違う。
もっと嫌な何か。
そして。
壁上。
エレンが顔を上げる。
熱風。
圧迫感。
忘れるはずもない感覚。
次の瞬間。
壁の向こうから、“顔”が現れた。
「――――」
巨大。
壁より高い。
剥き出しの筋肉。
蒸気。
赤い肉塊。
人間を見下ろす巨大な眼。
超大型巨人。
「……いた」
エレンの喉が震える。
視線が外せない。
二年前。
シガンシナ区。
壁を覗き込んでいたあの顔。
母親を喰われた日。
全部、脳裏へ蘇る。
「いた……!!」
呼吸が乱れる。
怒りが込み上げる。
「いたぞぉぉぉぉぉ!!!」
絶叫。
「超大型巨人だぁぁぁぁぁ!!!!」
地上側にも聞こえる程の怒声だった。
アスカ達が一斉に壁上を見る。
「……は?」
ジャンの顔が引き攣る。
誰も理解出来ない。
デカ過ぎる。
壁を越えている。
あり得ない。
だが。
現実だった。
「おい……嘘だろ……」
誰かが呟く。
壁上ではエレンが前へ出ていた。
顔を歪めながら。
「駆逐してやる……!!」
蒸気が吹き荒れる。
「この世から……一匹残らず!!」
その瞬間。
超大型巨人の脚が動く。
「ッ!!」
アスカの目が見開かれる。
次の瞬間。
轟音。
蹴撃。
壁門へ叩き込まれた一撃が、空気そのものを吹き飛ばした。
爆風。
衝撃。
熱風。
地面が揺れる。
「うわっ!!」
クリスタが倒れかける。
ユミルが咄嗟に腕を掴んだ。
煙。
石片。
視界が白く染まる。
耳鳴り。
肺へ熱気が流れ込む。
「っ……!」
アスカは腕で顔を庇う。
その瞬間。
壁上から人影が吹き飛んだ。
「!!」
兵士達。
訓練兵達。
爆風に巻き込まれ、空中へ投げ出されている。
ワイヤーが千切れる。
誰かが壁へ叩き付けられた。
血飛沫。
悲鳴。
「エレン!!」
遠くでアルミンの声が響く。
アスカは目を凝らす。
空中で回転するエレンの姿が見えた。
立体機動で無理矢理体勢を戻そうとしている。
だが熱風が強過ぎる。
まともに制御出来ていない。
「クソッ!!」
駐屯兵達が怒鳴る。
「砲撃準備!!」
「門が破られた!!」
混乱。
統制が崩れていく。
そして。
煙の向こう。
破壊された門の穴から、“それ”が現れた。
巨人。
一体。
二体。
三体。
次々と。
巨大な肉塊が、壁内へ侵入してくる。
「撤退しろ!!」
「住民を避難させろ!!」
怒号。
悲鳴。
街中から人が溢れ出す。
泣き叫ぶ子供。
転ぶ老人。
荷物を抱えたまま立ち尽くす商人。
地獄だった。
アスカはその光景を見つめる。
地下街で何度も見た。
人が壊れる瞬間。
だがこれは違う。
規模が違う。
街そのものが喰われる。
そう理解した瞬間。
トロスト区全体へ、絶叫が響き渡った。
☆☆☆
鐘の音が、頭蓋の奥を直接叩いていた。
避難警鐘。
巨人侵入。
壁破壊。
重苦しい鐘の音が何度も何度もトロスト区全体へ響き渡り、その度に街の空気が壊れていく。
怒号。
悲鳴。
泣き声。
石畳を蹴る無数の足音。
ついさっきまで平和だった街は、たった一撃で地獄へ変わっていた。
「押すな!!」
「子供がまだ乗ってない!!」
「早く船を出せぇぇ!!」
人が人を押し潰しながら逃げていく。
荷車が横転し、積み上げられていた果物が石畳へ散乱する。それを踏み潰しながら誰もが走っていた。泣き叫ぶ子供を抱えた母親。腰を抜かした老人。状況を理解出来ず立ち尽くす商人。
全員、顔が同じだった。
恐怖。
地下街で何度も見た顔。
だが規模が違う。
街そのものが壊れ始めていた。
「104期訓練兵!!整列!!」
駐屯兵の怒号が響く。
アスカ達が反射的に振り返る。
壁門方向からは未だ熱風が流れ込んできていた。超大型巨人が放った蒸気の熱が、街の空気そのものへ張り付いている。喉が焼けるように熱い。
その向こう。
煙の中で、巨人達が動いていた。
デカい。
遠目でも分かる異常な肉体。
不揃いな顔。
歪な笑み。
裸の人間に似ているのに、決定的に何かが違う。
気持ち悪い。
生理的嫌悪感が背筋を撫でた。
「これより各班へ分かれる!!」
兵士が叫ぶ。
声が僅かに震えていた。
無理もない。
誰もこんな状況を想定していない。
「トロスト区南側へ侵入した巨人群の迎撃及び住民避難支援を行え!!」
空気が張る。
誰も喋らない。
数分前まで笑っていた空気は、もうどこにも無かった。
「班分けを伝える!!」
名前が呼ばれていく。
「エレン・イェーガー!!」
「トーマス・ワグナー!!」
「ミーナ・カロライナ!!」
「ナック・ティアス!!」
「ミリウス・ゼルムスキー!!」
別班。
アスカは小さく目を細める。
エレンは前だけを見ていた。
超大型巨人。
それしか見えていないような顔。
怒りだけで立っている。
「アスカ・ラングレー!!」
呼ばれる。
「ユミル!!コニー・スプリンガー!!サシャ・ブラウス!!クリスタ・レンズ!!」
予想通りだった。
隣ではコニーの喉が引き攣っている。
「マ、マジかよ……」
「うるさい」
ユミルが蹴りを入れる。
「死ぬ前みたいな顔すんな」
「痛ぇ!!」
だがユミル自身も、笑えていなかった。
クリスタは唇を噛んでいる。
白い指先が震えていた。
サシャは異様に静かだった。
いつもなら空気を読まず飯の話でもしているはずなのに、今はただ巨人を見ている。
「各班、立体機動装置の最終確認を行え!!」
兵士達が慌ただしく動き始める。
ガス。
刀身。
ワイヤー。
誰もが震える指で装備を確認していた。
アスカは腰の装置を軽く叩く。
問題ない。
地下街時代から道具の整備だけは徹底していた。
信用出来るのは自分と、自分の得物だけだ。
「……おい」
コニーが声を潜める。
「俺達……マジで巨人とやんのかよ」
「今更だろ」
アスカは短く返した。
「兵士になった時点で覚悟してたんじゃねぇのか?」
「いや……そうだけどよ」
コニーの視線が泳ぐ。
その先。
巨人。
歩いている。
ゆっくり。
だが異様に速い。
一歩がデカ過ぎる。
街を縮めながら近づいてくる。
「……」
アスカは目を細める。
初めて見る。
本物の巨人。
気持ち悪い。
それが第一印象だった。
人間に似ている。
なのに違う。
目に意思が無い。
口だけが笑っている。
皮膚の下で肉が揺れていた。
呼吸音が遠くからでも聞こえる。
生き物として壊れている。
なのに。
視線が離せなかった。
「アスカ」
クリスタだった。
「……絶対、無茶しないでね」
「お前もな」
即答だった。
クリスタが少し目を丸くする。
「え……」
「死なれると寝覚め悪い」
アスカは視線を前へ戻す。
その瞬間。
「前方巨人接近!!」
怒号。
全員の身体が跳ねた。
路地裏。
建物の陰から五メートル級巨人が姿を現す。
裸の男。
いや、違う。
似ているだけだ。
異様に長い腕。
間抜けに開いた口。
死んだ魚みたいな目。
なのに笑っている。
「ッ……」
コニーが息を呑む。
クリスタの肩が震える。
サシャの喉が鳴る。
そして。
巨人がこちらを見た。
目が合う。
本能が理解する。
アレは人を喰う。
理屈じゃない。
生物として理解してしまう。
「散開!!」
兵士の怒号。
瞬間。
ガスが爆ぜた。
轟、と腰から衝撃が突き抜ける。
ワイヤー射出。
石壁へ金具が食い込む甲高い音。
次の瞬間には身体が空中へ引き摺り上げられていた。
腹が浮く。
景色が回る。
風圧で頬の肉が引っ張られる。
地面が一瞬で遠ざかり、代わりに死が近づいてくる。
立体機動。
二次元を生きる人間を、無理矢理三次元へ放り込む狂った機構。
少し操作を誤れば壁へ激突する。
少し判断を遅らせれば巨人に掴まれる。
空を飛んでいる訳じゃない。
落ちながら移動しているだけだ。
「ッ!!」
巨人の腕が横薙ぎに振るわれる。
デカい。
近い。
風圧だけで身体が流される。
アスカは空中で身体を捻った。
ワイヤー切り替え。
次の固定点へ射出。
地下街時代に染み付いた空間把握能力が、建物配置と軌道を瞬時に組み立てる。
避けられる。
そう判断した瞬間。
「きゃあっ!!」
クリスタ。
回避が遅い。
巨人の腕が迫っていた。
「チッ!!」
アスカは無理矢理軌道を変える。
腰へ負荷が走る。
歯を食い縛る。
空中でクリスタの腕を掴み、そのまま引き寄せた。
「っ!!」
直後。
巨人の腕が真横を通過する。
風圧だけで身体が揺れた。
「大丈夫か!!」
「う、うん……!」
声が震えている。
当然だ。
死が数センチ横を通った。
訓練じゃない。
本当に死ぬ。
その時だった。
「うわぁぁぁぁぁ!!」
悲鳴。
別方向。
誰かが捕まっていた。
巨人の掌の中で兵士が暴れている。
だが。
簡単だった。
人間なんて。
次の瞬間。
噛み砕かれる。
血飛沫。
肉片。
骨が砕ける音。
咀嚼音。
「……は」
コニーの顔から血の気が引く。
サシャが硬直する。
クリスタの呼吸が止まる。
アスカも、一瞬だけ動けなかった。
――食った。
理解した瞬間。
胃の奥が冷たく凍りついた。
咀嚼音が、いつまでも耳に残っていた。
ぐちゃり。
ぼき。
肉と骨が砕ける湿った音。
巨人の口元から垂れた血が、糸を引きながら石畳へ落ちる。
「――ッ」
クリスタが息を呑む。
顔色が白い。
サシャは完全に動きを止めていた。普段の空気の抜けたような表情は消え失せ、目だけが巨人へ縫い付けられている。
コニーの呼吸は浅い。
肩が上下していた。
そして。
巨人は咀嚼を止めた。
死人にはもう興味が無いと言わんばかりに、ぐるりと首を回す。
その視線が、空中にいる104期達へ向いた。
「ッ……!」
本能が悲鳴を上げる。
デカい。
近い。
異臭がした。
生温かい肉の臭い。吐瀉物みたいな臭気が熱風に混じって鼻を刺す。
アスカは反射的にワイヤーを撃ち込む。
ガシュッ!!
固定。
次の瞬間には身体を横へ流していた。
「動け!!」
怒鳴る。
クリスタ達の身体が跳ねた。
直後。
巨人の腕が通過する。
空気が鳴る。
まともに当たれば、人間なんて原型も残らない。
「うわぁっ!!」
コニーが半狂乱でガスを吹かす。
軌道が滅茶苦茶だった。
「コニー!!落ち着け!!」
「落ち着いてられるかよ!!」
叫び声が裏返る。
その気持ちは分かった。
実際目の前で見たのだ。
人が喰われるところを。
訓練で見ていた木製模型とは違う。本物だ。巨人は本当に人間を食う。
理解した瞬間、脚が竦む。
胃が冷える。
頭が逃げろと叫び続ける。
「っ……!」
巨人が再び腕を振り上げる。
速い。
図体に反して速過ぎる。
アスカは空中で身体を倒した。
立体機動は飛行じゃない。
落下だ。
重力へ引かれながら、ワイヤーとガスで無理矢理軌道を捻じ曲げているだけに過ぎない。
だから判断が遅れれば死ぬ。
壁へ叩き付けられるか。
地面へ墜落するか。
巨人に掴まれるか。
死因が変わるだけだ。
ガス噴射。
腹が浮く。
景色が回る。
建物の壁面を掠めるように通過しながら、アスカは視線を動かした。
巨人のうなじ。
斬れる距離じゃない。
まだ遠い。
加速が足りない。
「アスカ!!後ろ!!」
ユミルの怒声。
反射的に身体を捻る。
直後。
巨人の掌がすぐ横を通過した。
「ッ!!」
風圧だけで身体が吹き飛びそうになる。
デカ過ぎる。
まるで建物そのものが動いているみたいだった。
アスカは歯を食い縛る。
地下街で何度も喧嘩した。
人を殺した。
殺されかけた。
でも。
こんなものは知らない。
理解出来ない。
巨人には“躊躇”が無かった。
人間みたいな駆け引きも。
威嚇も。
恐怖も。
何も無い。
ただ、人を喰う。
その為だけに動いている。
「チッ……!」
ガスを吹かす。
急加速。
身体が引き千切れそうなGが掛かる。
空中で刀を抜いた。
鋼の擦れる音。
銀色の刀身へ陽光が反射する。
だが。
巨人の顔が、すぐ目の前にあった。
「――」
笑っていた。
気味が悪いくらい無邪気に。
アスカの背筋へ冷たいものが走る。
その瞬間。
「うおぉぉぉぉぉ!!」
別方向から誰かが突っ込んできた。
駐屯兵。
巨人の肩を通過し、そのままうなじへ斬撃を叩き込む。
肉が裂ける。
蒸気。
巨人の身体が揺れた。
「今だ!!離脱しろ!!」
怒鳴り声。
アスカ達は反射的に距離を取る。
その直後。
別の巨人が現れた。
「……は?」
コニーの声が掠れる。
路地の奥。
一体じゃない。
二体。
三体。
まだいる。
しかも。
こっちへ来ている。
「冗談だろ……」
誰かが呟いた。
アスカは息を吐く。
肺が熱い。
汗が頬を伝う。
空中で視線を巡らせた。
巨人。
瓦礫。
逃げ惑う住民。
飛び回る兵士。
悲鳴。
血。
蒸気。
全部が入り混じっている。
戦場だった。
そして。
アスカは気付く。
自分が今、“高揚”している事に。
「……クソが」
小さく吐き捨てた。
自分でも理解出来なかった。
怖い。
間違いなく怖い。
巨人は気持ち悪いし、人が喰われる光景なんて二度と見たくない。
なのに。
心臓だけが異様に煩かった。
ドクドクと脈打っている。
まるで身体の奥底に眠っていた何かが、この状況を歓迎しているみたいだった。
「……クソが」
吐き捨てる。
地下街で生きてきた。
毎日誰かが死んでいた。
油断すれば自分も死ぬ場所だった。
だからだろうか。
死が近いほど、頭が冷える。
「アスカ!!」
ユミルの声。
視線を向ける。
巨人が一体、建物の隙間から身体を捻じ込むように現れていた。
七メートル級。
腹が異様に膨れている。
口元にはまだ血が付着していた。
喰った直後だ。
「っ……!」
クリスタの顔が青ざめる。
巨人が走った。
デカい癖に速い。
石畳が砕ける。
腕を振り回しながら一直線にこちらへ向かってくる。
「散れ!!」
アスカが叫ぶ。
ガス噴射。
腰から衝撃が突き抜け、身体が空中へ放り出される。
ワイヤー固定。
反動。
建物の壁面スレスレを滑る。
巨人の腕が下を通過した。
風圧で窓ガラスが砕け散る。
「ッ!!」
コニーの悲鳴。
軌道が乱れている。
焦っている。
ダメだ。
立体機動は恐怖で操作すると死ぬ。
ワイヤーの角度。
ガス噴射のタイミング。
重心。
全部が少し狂うだけで墜落する。
「コニー!!右だ!!」
「分かってる!!」
分かってない動きだった。
ワイヤーが浅い。
速度が死んでいる。
巨人が口を開いた。
「ッ!!」
アスカは舌打ちしながら軌道を変える。
無茶な加速。
腹が浮く。
内臓が遅れて付いてくる感覚。
視界が揺れる。
それでも構わずガスを吹かした。
一瞬で距離を詰める。
「うおっ!?」
コニーの身体を蹴り飛ばした。
直後。
巨人の歯が閉じる。
空を噛んだ咬合音が響く。
「っぶねぇぇぇぇ!!」
「ボサっとすんな!!死にてぇのか!!」
「死にたくねぇよ!!」
半泣きだった。
アスカは歯噛みする。
全員動きが甘い。
訓練じゃない。
本物だ。
巨人は待ってくれない。
「アスカ!!後ろ!!」
サシャの叫び。
瞬間。
本能で身体を倒した。
直後。
轟、と風が頭上を通過する。
別個体。
腕。
あと少し遅れていたら頭が吹き飛んでいた。
「ッ……!」
ガス噴射。
強引に高度を上げる。
呼吸が乱れる。
肺が熱い。
汗で視界が滲む。
その時だった。
下から悲鳴。
「いやぁぁぁぁ!!」
女。
母親だった。
転んでいる。
子供を抱えたまま。
逃げ遅れた。
巨人が近づく。
五メートル級。
間抜けな笑顔。
口を開く。
「――」
女が子供を抱き締めた。
庇うように。
アスカは反射的にワイヤーを射出していた。
ガシュッ!!
固定。
急降下。
風が顔面へ叩き付けられる。
巨人の顔が迫る。
臭い。
腐った肉みたいな臭気。
「どけェ!!」
加速。
刀を振る。
斬撃。
巨人の目を潰す。
肉が裂け、血液とも違う液体が飛び散った。
巨人が仰け反る。
「早く逃げろ!!」
女が我に返る。
「ぁ……あ……」
「いいから走れ!!」
絶叫に近かった。
女は子供を抱えたまま走り出す。
その背中を見届けるより先に、巨人が再び身体を起こした。
潰れた眼窩から蒸気が漏れている。
再生。
「……は?」
アスカの目が細まる。
傷が塞がっていく。
気持ち悪い速度で。
「なんだよ、それ……」
理解不能だった。
だが。
巨人は待ってくれない。
再び腕が振り下ろされる。
「ッ!!」
ワイヤー切り替え。
回避。
空中で身体を捻る。
建物の間を縫うように飛びながら、アスカは初めて実感した。
――人類は、こんなものと戦っていたのか。
立体機動で建物の間を駆け抜けながら、アスカは歯を食い縛る。
風が耳元で吠えている。
ガス噴射の轟音。
ワイヤーが軋む金属音。
下では住民達が逃げ惑い、遠くでは砲撃音が響いていた。
全部が滅茶苦茶だった。
なのに。
巨人だけは妙に静かだった。
感情が無い。
怒りも焦りもない。
ただ、人間を喰うためだけに動いている。
「ッ……!」
アスカはワイヤーを切り替える。
空中で身体を反転。
視線を下へ落とす。
さっき目を潰した巨人が、再び住民の方へ歩き始めていた。
潰れた眼窩はもう塞がりかけている。
再生。
あまりにも理不尽だった。
「クソが……」
普通の人間なら、目を潰されれば終わりだ。
だが巨人は違う。
痛覚があるのかすら怪しい。
だから。
殺すなら、一撃で仕留めるしかない。
うなじ。
訓練で何度も叩き込まれた唯一の弱点。
アスカは視線を走らせる。
巨人の後頭部。
項。
そこだけ。
「アスカ!!」
ユミルだった。
別方向から立体機動で接近してくる。
「やれるか!?」
「試す!!」
返事と同時。
アスカはガスを吹かした。
急加速。
身体が前へ引っ張られる。
胃が浮く。
視界が流れる。
建物の壁面を蹴り、その反動を利用して更に速度を乗せる。
速い。
だがまだ足りない。
巨人の身体はデカい。
生半可な斬撃じゃ肉に止められる。
「ッ……!!」
巨人が振り返る。
口が笑っていた。
気持ち悪い。
アスカは舌打ちしながら軌道を変える。
真正面から行くな。
死ぬ。
横。
いや違う。
上。
ガシュッ!!
ワイヤー射出。
屋根へ固定。
一気に高度を上げる。
巨人の頭上。
そこから急降下。
重力が身体を引っ張る。
落下。
いや、違う。
これは攻撃だ。
「――ッ!!」
刀を握り直す。
巨人のうなじが迫る。
蒸気。
肉。
異臭。
近い。
デカい。
怖い。
だが。
身体は止まらなかった。
「おぉぉぉぉぉッ!!」
斬撃。
鋼が肉を裂く感触。
硬い。
だが切れた。
深く。
うなじへ。
次の瞬間。
巨人の身体が揺れた。
「――――」
声にならない音。
巨体がぐらりと傾く。
アスカはそのまま通過し、空中でワイヤーを切り替えて着地した。
石畳へ滑り込む。
靴底が火花を散らした。
「はっ……はっ……」
呼吸が荒い。
肺が焼ける。
汗が顎を伝って落ちた。
その背後。
ズゥン……ッ。
巨人が倒れる。
建物が揺れた。
土煙。
衝撃。
そして。
動かない。
「……」
アスカはゆっくり振り返る。
倒れている。
巨人が。
本当に。
「倒し……た?」
コニーが呆然と呟く。
サシャも目を見開いていた。
クリスタはまだ呼吸が乱れている。
ユミルだけが口角を上げた。
「やるじゃねぇか」
「……うるせぇ」
アスカは刀を見下ろす。
ただの血ではない。
巨人の血が付着していた。
湯気を立てながら蒸発している。
気持ち悪い。
だが。
心臓はまだ煩かった。
ドクドクと脈打っている。
恐怖。
興奮。
生存本能。
全部が混ざっている。
その時だった。
「油断するな!!まだ来るぞ!!」
兵士の怒号。
全員が反射的に顔を上げる。
路地の奥。
煙の向こう側。
また巨人。
一体じゃない。
二体。
三体。
まだいる。
まだ来る。
「……は」
コニーの顔が引き攣る。
今倒したばかりだ。
なのにもう次が来る。
終わらない。
アスカはゆっくり息を吐いた。
刀を握り直す。
手汗で滑りそうだった。
でも。
もう理解していた。
怖くても。
吐きそうでも。
逃げられない。
なら。
殺るしかない。
殺るしかない。
そう理解した瞬間、不思議と頭が冷えた。
巨人は怖い。
気持ち悪い。
理解不能な化け物だ。
だが。
殺せない訳じゃない。
うなじを斬れば死ぬ。
そこだけは、人間側にも平等に与えられた希望だった。
「……来るぞ」
アスカが低く呟く。
煙の向こう。
巨人達が建物の隙間を縫うようにこちらへ近づいてきていた。
三体。
七メートル級。
四メートル級。
そして。
十五メートル級。
「デカ……」
コニーの喉が引き攣る。
訓練用模型とは比べ物にならない圧迫感だった。
一歩踏み出す度に石畳が震える。
しかも速い。
あの図体で、人間へ向かって走ってくる。
悪夢そのものだった。
「どうする!?」
コニーが叫ぶ。
声が裏返っている。
無理もない。
初陣で十五メートル級など、本来当たる相手じゃない。
アスカは一瞬だけ視線を巡らせる。
建物。
固定点。
距離。
風向き。
巨人の位置。
頭の中で瞬時に軌道を組み立てる。
「ユミル!!」
「あ?」
「クリスタ連れて下がれ!!」
即答だった。
「は?」
「今のそいつじゃ動きが鈍い!!巻き込まれるぞ!!」
クリスタの肩が跳ねる。
反論しようとした。
だが。
出来ない。
自分でも分かっていた。
足が震えている。
巨人を見る度に身体が強張る。
「……チッ」
ユミルが舌打ちする。
「分かったよ。死ぬなよ」
「お前こそ」
短いやり取り。
その間にも巨人は迫っていた。
「コニー!!」
「お、おう!!」
「右の四メートル級引き付けろ!!絶対深追いすんな!!」
「はぁ!?無茶言うな!!」
「サシャ!!」
「は、はい!!」
「七メートル級を建物側へ流せ!!止まるな!!」
「りょ、了解です!!」
瞬間。
全員が動いた。
ガスが爆ぜる。
轟音。
ワイヤー射出。
身体が空中へ引き摺り上げられる。
腹が浮く。
視界が回る。
風が頬を殴り付ける。
立体機動。
自由なんかじゃない。
落下と死を無理矢理制御しているだけの狂気の機構。
「うおぉぉぉぉ!!」
コニーが半泣きで飛び出した。
四メートル級がそちらを見る。
笑っている。
気持ち悪いくらい無邪気に。
「こっち来い!!バカ野郎!!」
叫びながらコニーが建物の間を飛び回る。
軌道が少し危うい。
恐怖で操作が荒れている。
だが。
巨人の注意は向いた。
「ッ……!」
一方。
サシャも七メートル級の前を高速で横切る。
「こっちです!!」
ガシュッ!!
ワイヤー固定。
反動で身体を引き寄せる。
サシャの機動は独特だった。
森育ち特有の立体感覚。
空間の抜け方が上手い。
七メートル級が追う。
その瞬間。
アスカは動いていた。
ガス噴射。
急加速。
腹の奥が浮く。
空気が裂ける。
まず狙うのは四メートル級。
小さい。
だが速い。
建物の壁を蹴る。
反動。
一気に加速。
視界の端でコニーが叫んでいた。
「アスカァァァ!!早くしろぉぉ!!」
「うるせぇ!!」
巨人がコニーへ手を伸ばす。
届く。
その瞬間。
アスカは上を取った。
ワイヤー切り替え。
急降下。
落下速度をそのまま斬撃へ変える。
「ッ!!」
刀を振る。
肉。
蒸気。
うなじ。
鋼が深く食い込む。
次の瞬間。
四メートル級の首が崩れた。
巨体が前のめりに倒れる。
「うぉっ!?」
コニーが慌てて回避する。
轟音。
石畳が砕けた。
「はっ……はっ……」
アスカは着地しない。
そのままワイヤー射出。
次。
七メートル級。
サシャが建物の間を縫うように飛んでいる。
後ろ。
巨人。
距離が近い。
「サシャ!!右へ飛べ!!」
「はいっ!!」
反射的な回避。
直後。
巨人の腕が空を切る。
その隙。
アスカは真後ろへ回り込んだ。
速い。
だが。
今なら。
「おぉぉぉぉぉッ!!」
加速。
斬撃。
肉を裂く感触。
蒸気が噴き出す。
七メートル級の身体がぐらりと揺れた。
そのまま崩れる。
倒壊。
地響き。
蒸気。
「た、倒した……」
サシャが呆然と呟く。
だが。
終わっていない。
アスカは視線を上げる。
十五メートル級。
まだ立っていた。
いや。
こちらを見ていた。
「……」
目が合う。
寒気。
デカい。
近い。
今までの巨人とは圧迫感が違った。
そして。
巨人が、走った。
十五メートル級が、走った。
地面が揺れる。
石畳が砕け、建物の窓ガラスがビリビリと震えた。
デカい。
それなのに速い。
人間の常識で動いていない。
「ッ……!」
コニーの顔が引き攣る。
「おいおいおい嘘だろ!!」
巨人の脚が石畳を蹴る度、街そのものが軋んでいるようだった。
アスカは空中で息を吐く。
視線を動かす。
建物。
距離。
固定点。
巨人の軌道。
脳内で瞬時に組み立てる。
だが。
デカ過ぎた。
今までみたいに雑に飛び込めば、空中で叩き落される。
しかも。
このサイズになると、うなじまでが遠い。
速度も高度も足りない。
「アスカ!!下がれ!!」
ユミルの怒声。
クリスタを抱えるように建物屋上へ降り立っている。
アスカは返事をしなかった。
代わりに。
ガシュッ!!
ワイヤー射出。
十五メートル級の頭上を越えるように、一気に高度を取る。
「ッ――!!」
風が強い。
高い。
街全体が視界へ広がる。
煙。
悲鳴。
蒸気。
飛び回る兵士達。
その中心で、十五メートル級だけが異様な存在感を放っていた。
巨人がこちらを見る。
目が合う。
寒気。
人間を見ている目じゃない。
獲物を見る目ですらない。
ただそこにいるから喰う。
それだけの空虚な眼だった。
「ッ!!」
巨人の腕が振り上がる。
来る。
アスカはワイヤーを切った。
自由落下。
身体が沈む。
腹が浮く。
次の瞬間。
轟ッ!!と巨腕が空を薙いだ。
風圧だけで身体が流される。
「ぐっ……!」
回転。
視界が揺れる。
落ちる。
だが。
そのままじゃ終わらない。
ワイヤー射出。
固定。
急制動。
腰へ凄まじい負荷が掛かった。
歯が軋む。
それでも構わず、アスカは巨人の背後へ回り込む。
うなじ。
狙える。
そう思った瞬間。
「――――」
巨人が振り返った。
「ッ!?」
速い。
デカい癖に。
腕が迫る。
アスカは咄嗟に身体を倒した。
回避。
だが避け切れない。
指先が掠る。
「がっ――!!」
衝撃。
身体が吹き飛んだ。
建物へ激突しかける。
ワイヤーを無理矢理巻き取り、空中で体勢を立て直す。
肺が潰れそうだった。
「アスカ!!」
誰かが叫んでいる。
聞こえない。
耳鳴りが酷い。
だが。
まだ動ける。
「……ッ、は」
息を吐く。
怖い。
当たり前だ。
今ので死にかけた。
あと少しズレていたら、胴体ごと消し飛んでいた。
それでも。
アスカは笑っていた。
「……なるほどな」
地下街では感じたことがない感覚だった。
死が近い。
だから頭が冴える。
視界が澄む。
世界が遅く見える。
「なら……」
ガス噴射。
急加速。
今度は真正面。
十五メートル級が口を開く。
喰う気だ。
アスカは突っ込む。
普通なら自殺行為。
だが。
真正面だからこそ、巨人は視界を失う。
目前。
口。
歯。
異臭。
その瞬間。
「ッ!!」
アスカは真上へワイヤーを撃ち込んだ。
急上昇。
巨人の顔面を掠める。
巨人の視線が上へ動く。
遅れた。
その一瞬。
アスカは巨人の背後へ抜けていた。
うなじ。
近い。
今度こそ。
「おぉぉぉぉぉッ!!」
ガス全開。
落下。
加速。
全体重。
全速度。
全部を斬撃へ乗せる。
刀身が肉へ食い込んだ。
硬い。
蒸気。
肉。
だが。
止まらない。
「ッ、らぁぁぁぁぁ!!」
押し切る。
深く。
うなじを抉るように。
次の瞬間。
十五メートル級の身体が止まった。
「――――」
巨体が揺れる。
膝から崩れる。
ズゥン……ッ。
地面が震えた。
建物の窓ガラスが割れる。
土煙。
蒸気。
巨人の巨体が、ゆっくりと倒れていく。
アスカは空中で息を吐いた。
肺が痛い。
腕が震える。
だが。
落ちなかった。
死ななかった。
そして。
倒した。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
怖い。
なのに。
心臓だけは、まだ煩かった。