屋根の上を、風が吹き抜けていく。
熱い風だった。
巨人の蒸気。砲撃の煙。焼けた木材の臭い。血の臭い。吐瀉物みたいな生臭さ。それら全部が混ざり合った風が、トロスト区の上空をゆっくりと流れている。
街はもう半壊していた。
崩れた建物。
砕けた石畳。
転がる死体。
遠くでは未だ悲鳴が聞こえる。
それでも、市民の撤退だけは完了したらしい。運河へ向かう船の姿はもう見えず、代わりに残されたのは兵士達だけだった。
104期訓練兵達は屋根の上で立ち往生していた。
誰も動けない。
立体機動装置のガスが尽きかけているからだ。
立体機動は空を飛ぶ装置じゃない。
落下を制御しているだけだ。
つまりガスが無ければ、ただの自殺機になる。
壁を登る事も出来ない。
本部へ向かう事も出来ない。
この街に取り残された時点で、死はすぐ隣まで来ていた。
「おいジャン!どうすんだよ!?」
コニーの声が屋根の上に響く。
焦りを隠せていない。
当然だった。
屋根の下には巨人がいる。
しかも増えている。
路地裏を徘徊する影。建物の隙間を覗き込む異形の顔。時折聞こえる咀嚼音に、誰もが顔を強張らせていた。
「どうもこうもねぇよ」
ジャンは吐き捨てるように言った。
座り込むように屋根へ腰を下ろし、苛立たしげに頭を掻く。
「やっと撤退命令が出たってのに、ガス切れで壁を登れねぇ……」
声に余裕は無い。
普段なら軽口のひとつでも返していた男が、今は露骨に追い詰められていた。
「そんで全員死ぬんだろうな。……あの腰抜け共のせいで」
アスカが目を細める。
「補給班の連中か?」
「アイツらどうしたんだよ?全滅したのか?」
コニーの問いに、ジャンは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「戦意喪失したんだと。気持ちは分かるけどよ……」
屋根の空気が更に重くなる。
恐怖。
その言葉だけで充分だった。
今日だけで何人喰われた?
何人死んだ?
巨人に掴まれ、噛み砕かれ、叫びながら死んでいった。
戦意を失うなという方が無理だ。
「……俺達への補給任務を放棄して、本部に籠城か」
アスカは低く呟く。
ジャンが顎で前方を指した。
「しかも見てみろよ。あの地獄を」
視線の先。
補給本部。
そこには大型小型問わず大量の巨人が群がっていた。
建物へ張り付くように彷徨い、入口付近には何体もの巨人が密集している。時折、建物へ身体をぶつける振動がここまで伝わってきた。
まるで餌箱へ群がる獣だった。
「最悪の光景だ」
アスカは溜息混じりに笑った。
「笑えねぇよ……」
ジャンの顔は死んでいた。
だが。
コニーが声を荒げる。
「だったら、一か八かそこに群がる巨人をやるしかねぇだろ!」
「そうですよ!」
サシャも続く。
「ここでウダウダしてても、時期に巨人が集まってきますよ!」
「まぁな」
アスカは腰のガスボンベを軽く叩く。
コン、という軽い音。
残量は少ない。
「要の機動力を失えば、それこそ終わりだ」
ジャンは苦虫を噛み潰したような顔で屋根へ拳を打ち付けた。
「だが今の俺達の兵力で、それが出来ると思うか?前衛の先輩方はほぼ全滅、俺達訓練兵の誰に、そんな決死作戦の指揮がとれる?」
視線の先。
屋根の上には蹲る訓練兵達がいた。
震えている。
泣いている者もいる。
誰も彼も、巨人への恐怖で動けなくなっていた。
「……お前は向いてると思うがな」
アスカがぼそりと言う。
ジャンが顔をしかめた。
「ついに頭がおかしくなったか?」
「俺は真剣に言ってるつもりだ」
「……いいよなお前は」
ジャンは乾いた笑みを漏らす。
「お前一人なら、巨人全滅は無理にしても、本部に入り込む事くらいは出来る」
「まぁ、キツいだろうがな」
「ただまぁ、補給所の中には3、4メートル級の巨人がわんさか入ってるだろうぜ。それも倒した後、やっと補給ができるって訳だ」
「……」
「どうだ?お前1人だけ突っ込んで、俺らのガスも取ってくるって作戦は。いい案じゃないか?」
自暴自棄だった。
普段のジャンなら絶対に言わない。
それだけ追い詰められている。
「随分腑抜けた作戦だな」
「うるせぇよ」
沈黙。
嫌な沈黙だった。
遠くで巨人の呻き声が聞こえる。
瓦礫が崩れる音。
誰かの悲鳴。
風だけが屋根の上を通り抜けていく。
サシャがその空気に耐え切れなくなったように口を開いた。
「そ、それなら。アルミンなら立てられるんじゃないですか?作戦」
ジャンが顔を上げる。
「あ?」
「なるほど。アルミンなら」
アスカも小さく頷いた。
「でもよ、肝心のアルミンはどこに」
「あ、いました!あそこです。私、ちょっと話してきます」
「……おいサシャ。ちょっと待――」
止めるより早く、サシャが走り出す。
アスカ達も後を追った。
そこで。
異様な空気に気付く。
アルミンが屋根の瓦を見つめていた。
顔から表情が抜け落ちている。
目だけが虚ろだった。
「アルミン!一緒にみんなを……」
サシャの声が止まる。
空気がおかしい。
何かが決定的に壊れている。
「ライナー、どうする?」
「まだだ。やるなら集まってからだ」
少し離れた場所。
アニとライナーが小声で話している。
ベルトルトは黙ったままだ。
アスカは僅かに眉を寄せた。
何か妙だった。
だが考える余裕は無い。
「……ダメだよ」
マルコだった。
力なく笑っている。
「どう考えても、僕らはこの街から出られずに全滅だ」
その言葉に、誰も反論出来ない。
「死を覚悟してなかった訳じゃない。でも、一体何のために死ぬんだ?」
静寂。
その時だった。
屋根を蹴る音。
誰かが凄まじい速度でこちらへ向かってくる。
「ミカサ?お前、後衛のはずじゃ……」
無視。
ミカサは真っ直ぐアスカ達の方へ来た。
「アスカ。何となく状況は分かってる。その上で私情を挟んで申し訳ないけど、エレンの班を見なかった?」
焦っている。
ミカサが。
周囲が見えていない。
アスカは黙って顎を動かした。
アルミンを示す。
「アルミン!」
「ッ!!」
アルミンの肩が大きく震えた。
まるで、自分の名前を呼んで欲しくないように。
ミカサが駆け寄る。
黒髪が風に揺れる。
呼吸は乱れていない。
表情も崩れていない。
なのに。
アスカは一瞬で理解した。
――コイツ、壊れかけてる。
「アルミン、ケガはない?大丈夫なの?」
アルミンは顔を上げない。
ただ、ゆっくり首を振る。
それを見たミカサが小さく息を吐いた。
安心。
だがそれも一瞬だった。
「エレンはどこ?」
静かな声だった。
静か過ぎた。
その瞬間。
アルミンの顔が歪む。
「ッ……」
喉が詰まる。
声にならない。
拳が震えていた。
自分を責めるように。
自分を呪うように。
涙が瓦へ落ちる。
「アルミン?」
ミカサがもう一度呼ぶ。
今度は少しだけ声が弱かった。
アルミンがようやく顔を上げる。
目は真っ赤だった。
涙でぐしゃぐしゃになっている。
それだけで充分だった。
ミカサの瞳から、僅かに光が消える。
「僕たち……訓練兵第三十四班」
震える声。
「トーマス・ワグナー、ナック・ティアス、ミリウス・ゼルムスキー、ミーナ・カロライナ、エレン・イェーガー……!」
一人ずつ。
名前を絞り出すように。
「以上五名は、自分の使命を全うし、壮絶な戦死を遂げました!!」
静寂。
風だけが吹いていた。
遠くでは巨人の唸り声が聞こえる。
建物が崩れる音も。
誰かの悲鳴も。
なのに、この屋根の上だけ時間が止まったみたいだった。
誰も喋れない。
コニーの口が半開きになる。
サシャは目を見開いたまま固まっている。
ジャンが俯いた。
マルコは顔を伏せる。
アニだけが、静かに目を細めていた。
――……クソが。
アスカは奥歯を噛む。
エレン。
あの馬鹿みたいに真っ直ぐな奴が。
巨人を皆殺しにすると本気で言っていた奴が。
死んだ。
あまりにも呆気ない。
戦場は平等だった。
強い意思も。
怒りも。
覚悟も。
全部まとめて喰い潰す。
「ごめん、ミカサ」
アルミンの声は掠れていた。
「エレンは、僕の身代わりに……」
ミカサは動かない。
何も言わない。
風が黒髪を揺らしている。
「僕は、何も出来なかった。すまない……」
アルミンが俯く。
肩が震えていた。
ミカサがゆっくりしゃがみ込む。
アルミンの手を取る。
その手は、驚くほど冷たかった。
血が通っていないみたいに。
「アルミン」
静かな声。
アルミンが顔を上げる。
その瞬間。
アスカは背筋に寒気を覚えた。
ミカサの目。
感情が見えない。
いや違う。
押し殺している。
無理矢理。
「落ち着いて。今は感傷的になっている場合じゃない」
アルミンの瞳が揺れる。
長い付き合いだった。
だから分かる。
ミカサは今、明らかにおかしい。
だが本人だけが、それを理解していない。
ミカサは立ち上がる。
そのまま補給本部へ視線を向けた。
「マルコ。本部に群がる巨人を排除すれば、ガスの補給が出来て、みんなは壁を登れる。違わない?」
「あ、ああ。そうだけど……」
マルコが困惑したように答える。
「でもいくらお前がいても、あれだけの数は……」
「出来る」
即答だった。
空気が変わる。
誰も声を出せない。
ミカサは刃を抜いた。
陽光を受けた刀身が鈍く光る。
「私は強い。あなたたちより強い。すごく強い」
静かな声。
なのに、異様な圧があった。
「ので、私はあそこの巨人どもを蹴散らすことができる」
誰も口を挟めない。
ミカサの瞳には、もう何も映っていなかった。
「例えば一人でも」
視線が全員へ向く。
冷たい。
鋭い。
「あなたたちは腕が立たないばかりか、臆病で腰抜けだ。とても残念だ。ここで指をくわえて見てろ」
静寂。
誰も動けない。
アスカはミカサを見ていた。
――こんなに熱い奴だったか?コイツは。
違う。
熱いんじゃない。
壊れている。
エレンという支柱を失って、それでも立っていようとしている。
だから無理矢理前へ進んでいる。
止まれば、自分まで壊れてしまうから。
「いくらお前でも、一人じゃ無理だろ」
アスカが言う。
ミカサは振り返らない。
「できなければ死ぬだけ。でも……勝てば生きる。戦わなければ勝てない」
風が吹く。
アスカは視線を補給本部へ向けた。
巨人の配置。
建物の高さ。
侵入経路。
逃走ルート。
頭の中で瞬時に組み立てる。
無茶だ。
だが。
ミカサとなら、突破出来る。
「……付き合うぜ、ミカサ」
全員の視線が集まる。
「野営訓練の時と同じだ。俺が合わせるから、お前も合わせろ」
僅かな沈黙。
そして。
「……了解」
ミカサが小さく答えた。
次の瞬間。
ガスが爆ぜる。
轟音。
二人の身体が同時に空中へ射出された。
屋根を蹴る。
風を裂く。
真っ直ぐ補給本部へ。
「おい!」
マルコの声が背後から飛ぶ。
取り残された104期達。
その中で。
ジャンが小さく舌打ちした。
「残念なのはお前の言語力だ。あれで発破かけたつもりでいやがる」
刃を抜く。
目は死んでいる。
それでも。
立ち上がっていた。
「アスカもアスカだ。テメェがいなけりゃ、残った俺達はどうすりゃいいんだ。……お前のせいだぞ、エレン!」
左手を掲げる。
震えていた。
怖いのだ。
それでも。
「おい!!俺たちは仲間に一人で戦わせろと学んだか!?お前らホントに腰抜けになっちまうぞ!!」
ジャンが飛ぶ。
立体機動。
迷いを振り切るように。
「うおぉぉぉぉ!!」
コニーが続く。
「い、行くしかないじゃないですかぁぁ!!」
サシャも飛ぶ。
「そいつは心外だな」
ライナー。
アニ。
ベルトルト。
次々と空へ躍り出る。
アルミンも、いつの間にか涙を止めていた。
マルコと視線を合わせる。
そして。
全員が、ミカサとアスカの背中を追った。
☆☆☆
ガスが爆ぜる。
轟音。
104期の身体が一斉に空中へ射出された。
ワイヤーが建物へ突き刺さる音。ガス噴射の破裂音。風を裂く音。巨人の唸り声。遠くで鳴り続ける砲撃。
トロスト区の空は、もう戦場の音で埋め尽くされていた。
ミカサが先頭を飛ぶ。
速い。
あまりにも。
空中機動に一切迷いがない。固定点の選択。ガス噴射のタイミング。軌道修正。その全部が洗練され切っている。
まるで空間そのものが味方しているみたいだった。
対して。
アスカは違う。
建物を蹴る。
壁を滑る。
身体を強引に捻り、無茶な軌道をねじ込む。
荒い。
綺麗じゃない。
だが、死なない。
地下街で培ったのは、“戦い方”じゃない。
生き残り方だ。
「前方七メートル級!!」
ジャンの怒声。
次の瞬間。
ミカサが加速した。
一直線。
躊躇が無い。
巨人の懐へ飛び込み、そのまま空中反転。流れるような斬撃でうなじを裂く。
蒸気が噴き出す。
倒れる巨体。
だがミカサは振り返らない。
もう次を見ている。
「……飛ばし過ぎだろ」
アスカが小さく舌打ちする。
ガス消費が異常だった。
今のミカサは効率で飛んでいない。
感情で飛んでいる。
エレンの死。
その事実を振り払うみたいに。
「ミカサ!!」
アルミンの叫び。
その瞬間。
ミカサの軌道がぶれた。
「ッ――」
ガス切れ。
身体が沈む。
空中で制御を失ったミカサが、建物の屋根へ叩き付けられるように落下した。
「ミカサ!!」
アルミンが即座に軌道を変える。
「アルミン!?」
コニーが叫ぶ。
「お前どこ行く気だ!?」
「ミカサを!!」
迷いが無い。
アルミンはそのまま離脱した。
コニーが歯を食いしばる。
一瞬だけ迷う。
だが。
「クソッ!!」
コニーも方向転換した。
「死ぬなよテメェら!!」
二人が戦列を離れる。
その瞬間だった。
前衛の圧が消える。
空気が変わった。
補給本部目前。
巨人が密集している。
五メートル級。
七メートル級。
十メートル級。
建物の隙間を埋め尽くすように蠢く肉の群れ。
104期の顔から血の気が引く。
誰もが理解していた。
今まで前を切り開いていたのは、ミカサだった。
そのミカサが消えた。
「ッ……」
アスカは奥歯を噛む。
未知との遭遇。怖くないといえば嘘になる。
当たり前だ。
数が多すぎる。
一歩間違えれば喰われる。
だが。
止まれば後ろが死ぬ。
「ジャン!!」
「あぁ!?」
「指示飛ばせ!!俺が前開ける!!」
一瞬。
ジャンが目を見開く。
だがすぐ理解した。
「全員聞け!!」
ジャンが怒鳴る。
「アスカの後ろを飛べ!!止まるな!!」
同時。
アスカが加速した。
ガス噴射。
腹が浮く。
風が頬を裂く。
巨人の顔面が迫る。
死んだ魚みたいな目。
なのに口だけ笑っている。
「おぉぉぉぉぉッ!!」
斬撃。
肉。
蒸気。
一体目。
止まらない。
空中でワイヤーを切り替える。
次。
五メートル級。
巨腕が迫る。
「ッ!!」
回避。
だが遅い。
指先が肩を掠めた。
衝撃で身体が流される。
「アスカ!!」
ジャンの声。
アスカは空中で無理矢理体勢を戻した。
まだいける。
まだ飛べる。
なら死なない。
ワイヤー射出。
急加速。
巨人の背後へ潜り込み、そのままうなじを切り裂く。
蒸気。
崩れる巨体。
「前開いたぞ!!」
ジャンが叫ぶ。
「今だ!!飛べ!!」
104期が続く。
サシャが半泣きで飛んでいる。
マルコは顔面蒼白だ。
ライナーとベルトルトが後方を支える。
それでも。
巨人は減らない。
むしろ増えている。
「左から二体!!」
「分かってる!!」
アスカが屋根を蹴る。
今度は飛び込み過ぎない。
距離を見る。
速度を見る。
空間を見る。
戦闘の中で、少しずつ理解し始めていた。
力任せじゃ死ぬ。
無駄な加速はガスを食う。
真正面から行けば捕まる。
生き残るには、読むしかない。
「ッらぁぁぁぁ!!」
斬撃。
一体。
返す刃で二体目。
蒸気が噴き出す。
視界が白く染まる。
熱い。
息苦しい。
だが。
前より少しだけ見えていた。
巨人の動き。
空間。
死角。
生き残る道。
「入口見えた!!」
ジャンの叫び。
補給本部。
もう目前。
だが入口前には巨人が三体群がっていた。
「クソが……!!」
アスカは歯を剥く。
ガス残量が少ない。
刀も欠け始めている。
それでも。
ここで止まれない。
「ジャン!!突っ込ませろ!!」
「お前何する気だ!!」
「いいからやれ!!」
次の瞬間。
アスカが急降下した。
巨人の真正面。
当然、視線が集中する。
腕が迫る。
口が開く。
普通なら死ぬ。
だが。
アスカはギリギリまで引き付けた。
「今だァァァァ!!」
ジャンの絶叫。
104期が一斉に加速。
アスカの横を抜け、補給本部へ飛び込んでいく。
その瞬間。
アスカが空中で身体を捻った。
巨人の腕を紙一重で回避。
ワイヤー射出。
急加速。
背後へ潜り込み、そのまま一体のうなじを切り裂く。
蒸気。
倒れる巨体。
入口が開く。
「アスカ!!」
ジャンが叫ぶ。
最後尾。
訓練兵の一人が掴まれていた。
「助け――」
間に合わない。
巨人の口が閉じる。
血飛沫。
咀嚼音。
「ッ……!!」
アスカは奥歯を噛む。
それでも止まれない。
止まれば、全員死ぬ。
そのまま補給本部へ飛び込む。
窓を突き破り、瓦礫を滑りながら内部へ転がり込んだ。
直後。
轟音。
巨人の腕が建物外壁へ叩き付けられる。
補給本部全体が揺れた。
「はっ……はっ……」
誰も喋らない。
暗い。
血臭が酷い。
兵士の死体。
噛み砕かれた肉片。
壁へ飛び散った血。
蒸気。
呼吸音。
生き残った104期達は、その場で肩を上下させていた。
外ではまだ巨人が唸っている。
だが。
今だけは。
一瞬だけ静かだった。
☆☆☆
補給本部の中は、異様な静けさに包まれていた。
外では巨人が唸っている。
建物を叩く音も聞こえる。
なのに。
ここだけ切り離されたみたいに静かだった。
「……はっ……」
誰かの荒い呼吸。
血臭。
蒸気。
噛み砕かれた兵士の死体。
壁に飛び散った血痕。
床へ転がる立体機動装置。
さっきまでここで戦っていた者達が、どういう最期を迎えたのかを嫌でも想像させた。
104期達は、その場へ座り込むようにして呼吸を整えていた。
ガスも少ない。
刃もボロボロ。
誰の顔にも余裕なんて無い。
「……生きてる」
コニーではない。
サシャでもない。
呆然としたように呟いたのはクリスタだった。
自分の手を見つめている。
震えていた。
「私……まだ生きてる……」
「死にたかったのか?」
壁へ背中を預けていたユミルが鼻を鳴らす。
「そんな訳ないでしょ……」
「なら良かったじゃねぇか」
素っ気ない。
だが、その視線はずっとクリスタを見ていた。
アスカは少し離れた場所で座り込み、刃を確認していた。
ボロボロだった。
欠けている。
何度も無理矢理肉を断ったせいだ。
「……クソ」
思ったより消耗している。
腕も重い。
肩も痛い。
巨人に掠められた部分が熱を持っていた。
だが。
生きている。
地下街で何度も死にかけた。
殴られた。
刺された。
裏切られた。
でも。
今日の死は、それとは比べ物にならなかった。
巨人は理不尽だ。
話も通じない。
殺意も悪意も無い。
ただ喰う。
それだけだ。
だから怖い。
「……アンタ、化け物?」
声。
アニだった。
壁へ寄り掛かりながら、半目でアスカを見ている。
「一人で前線維持するとか普通やらない」
「やらなきゃ死んでた」
「それを普通じゃないって言うんだよ」
淡々とした口調。
だが、少しだけ呆れているようにも聞こえた。
「でも本当に助かったよ」
クリスタが小さく言う。
「アスカが前にいてくれなかったら、私たち……」
「別にお前らのためにやった訳じゃねぇよ」
アスカは刃を鞘へ戻す。
「俺も死にたくなかっただけだ」
「ハッ」
ユミルが笑う。
「その割にゃ、随分前出てたじゃねぇか」
「うるせぇ」
「でもまぁ」
ユミルは小さく息を吐いた。
「ありがとな」
アスカが少し目を細める。
ユミルが礼を言うのは珍しい。
だからこそ、少しだけむず痒かった。
「……気持ち悪ぃな」
「ぶっ殺すぞ」
少しだけ。
本当に少しだけ。
空気が緩む。
その時だった。
外から立体機動の音が響く。
ガシュッ!!
全員が反応する。
次の瞬間。
窓が勢いよく開かれた。
「ッ――!!」
入ってきたのはミカサだった。
アルミン。
コニー。
三人とも息を切らしている。
「ミカサ!!」
ジャンが立ち上がる。
だが。
ミカサの様子を見て、全員の動きが止まった。
顔色が良い。
それに。
どこか放心していた。
「お、おい……どうしたんだよ」
コニーが荒く息を吐きながら壁へ手をつく。
「いや……その……」
珍しく言葉が出てこない。
アルミンも混乱していた。
顔が青い。
目が泳いでいる。
アスカは眉を寄せる。
「何があった」
静かな声。
アルミンがゆっくり顔を上げた。
そして。
「……巨人が」
喉を鳴らす。
「巨人が、巨人を殺してたんだ」
沈黙。
誰も意味を理解出来ない。
「……は?」
ジャンが眉をひそめる。
「何言って――」
「本当なんだ!!」
アルミンが叫ぶ。
その声には、恐怖と混乱が滲んでいた。
「十五メートル級の巨人だった……!突然現れて、他の巨人を攻撃し始めたんだ!!」
「巨人が……巨人を?」
マルコが呆然と呟く。
「そんなの……」
「あり得ない」
アニが低く言った。
だが。
ミカサだけは違った。
俯いたまま、小さく口を開く。
「……味方かもしれない」
空気が止まった。
誰も喋れない。
ただ。
アスカだけが、ゆっくり目を細めていた。
――なんだそれ。
理解不能だった。
だが同時に。
胸の奥で、何かが妙に引っかかっていた。