――生きてやがった。
最初に脳裏へ浮かんだのは、その一言だった。
巨人のうなじから、人間が出てきた。
本来なら、その異常性へ驚愕するべきなのだろう。
だが。
そんな事より先に。
エレン・イェーガーが生きていた。
その事実だけが、焼き付くみたいに頭へ残った。
屋上へ運び込まれたエレンを、ミカサが強く抱き締める。
「……エレン」
震えた声だった。
今にも壊れてしまいそうなくらい、細い声。
アルミンはその隣へ膝をつく。
視線は、エレンの右腕。
そして左脚。
巨人に喰われた。
噛み千切られた。
確かに、そう見た。
なのに。
そこには、ちゃんと存在していた。
シャツは裂け、ズボンも破れている。
だが。
腕も。
脚も。
間違いなく、そこにあった。
アルミンの喉が微かに震える。
脳裏へ蘇る。
あの瞬間。
巨人の口内。
生暖かい肉の臭い。
自分を外へ突き飛ばし。
代わりに飲み込まれていった、エレンの姿。
必死に押し殺していた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「っ……」
アルミンは、確かめるみたいにエレンの腕へ触れる。
そこに存在している事を。
本当に生きている事を。
確認しなければ、現実感が持てなかった。
「一体、何が……」
掠れた声。
当然だった。
誰にも分からない。
この場にいる全員が、理解の外側へ放り出されていた。
ライナー達も無言だった。
神妙な面持ちでエレンを見ている。
ベルトルトは僅かに顔を強張らせ。
アニは静かな目で、観察するようにエレンを見下ろしていた。
ライナーだけが腕を組み、何かを押し殺すように黙り込んでいる。
アスカは、その様子を見た。
見たが。
今はそこへ思考を割けない。
視線が、どうしてもエレンへ引っ張られる。
巨人から人間が出てきた。
そんな事、有り得る訳がない。
なのに。
エレンは生きている。
それだけで、頭の中が埋め尽くされていた。
屋上を吹き抜ける風が、蒸気を揺らす。
眼下。
トロスト区の街路には、大量の巨人の死骸が転がっていた。
引き裂かれた肉。
砕けた骨。
潰れた頭部。
白い蒸気だけが、そこら中から立ち昇っている。
「……これを」
ジャンが呆然と呟く。
視線は、街路の惨状へ向いていた。
「これを……エレンがやったってのか」
十体は超えている。
いや、もっとだ。
異形の巨人が暴れ回った痕跡が、街の至る所へ刻み込まれていた。
誰も答えない。
答えられなかった。
その時だった。
立体機動装置の噴射音。
複数。
壁上から駆けつけた駐屯兵団が、次々と屋上へ降り立つ。
「動くな!!」
先頭へ降り立った女性兵士。
丸眼鏡。
鋭い目。
リコ・ブレツェンスカだった。
駐屯兵達が即座に展開する。
銃口。
張り詰める空気。
その全てが、エレンへ向いていた。
怯えている。
兵士達自身が。
リコは短く息を吐く。
「……今見た事は誰にも話すな」
低い声。
だが、その奥には隠し切れない緊張が滲んでいた。
「ただでさえ壁内は混乱している。それを……こんな事実まで知れば、どうなるか分からん」
視線がエレンへ落ちる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
恐怖が見えた。
アスカはそれを見逃さない。
当然だった。
目の前で、人間が巨人になったのだ。
そんな存在を、恐れるなという方が無理だった。
「お前らもすぐ内門を越えろ。分かっているな」
「「「「「ハッ!!」」」」」
返答。
駐屯兵団はエレン、ミカサ、アルミンを回収していく。
取り残されたのは。
ジャン。
ライナー。
ベルトルト。
アニ。
そしてアスカ。
誰もすぐには口を開かなかった。
街の向こうでは、まだ巨人の咆哮が響いている。
トロスト区は終わっていない。
外門は破壊された。
だが内門は無事。
だから今、巨人達はトロスト区内部へ閉じ込められている。
そして人類は。
壁一枚を挟んだ向こう側へ、大量の巨人を飼っている状態だった。
「……行くぞ」
最初に動いたのはジャンだった。
「今ならまだ、壁沿いは安全だ」
立体機動装置が噴射する。
屋根を蹴る。
トロスト区の内門へ向かって飛ぶ。
アスカは最後に一度だけ後ろを見た。
蒸気。
死骸。
崩れた街。
そして。
あの異形の巨人だけが、脳裏へ焼き付いて離れなかった。
☆☆☆
内門を越えた先。
そこは、辛うじて“人類側”だった。
壁沿いの大通りには、避難してきた住民達が座り込んでいる。
泣き叫ぶ子供。
放心したまま動かない老人。
負傷兵を運ぶ駐屯兵達。
怒号。
呻き声。
血の臭い。
まだ巨人の姿こそ無いものの、空気は既に戦場そのものだった。
トロスト区は切り離された。
壁一枚向こう側には、今も大量の巨人が蠢いている。
だが内門は閉ざされている。
つまり。
あの地獄は、壁の向こうへ閉じ込められた。
そして人類は。
いつ再侵入するかも分からない巨人達へ怯えながら、この狭い安全圏へ押し込められている。
酷い光景だった。
アスカは屋根へ降り立つ。
ガスの残量を確認。
まだ動ける。
だが身体は重かった。
疲労。
興奮。
それと。
理解出来ないものを見た後の、妙な現実感の薄さ。
地に足が着いていない感覚が残っている。
「おい」
声。
振り返る。
ユミルだった。
その後ろにはクリスタ、サシャ、コニーもいる。
クリスタは不安そうな顔をしていた。
「さっきから兵団の連中、妙にピリついてるけど」
ユミルが目を細める。
「何があった?」
直球だった。
だが当然の疑問でもある。
駐屯兵団の空気がおかしい。
伝令兵は走り回り。
上官達は怒鳴り合い。
何かを隠すように兵士達を遠ざけている。
「……」
ジャンが黙る。
アニも何も言わない。
ライナーは腕を組んだまま。
ベルトルトだけが、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
その沈黙へ、ユミルは眉をひそめる。
「なんだその反応」
「いや……」
ジャンが頭を掻く。
珍しく言葉に詰まっていた。
「俺らも、何が何だか分かってねぇんだよ」
「エレンは?」
クリスタが不安そうに問う。
一瞬。
空気が止まる。
アスカは小さく息を吐いた。
「……生きてる」
それだけ答えた。
ユミルの目が細まる。
誤魔化している。
いや。
違う。
コイツら自身、理解出来ていない。
そんな空気だった。
「お前ら、何見た?」
誰も答えない。
言えない。
というより。
説明出来ない。
人間が巨人になった。
そんな事、どう説明しろというのか。
アスカ自身、頭の整理がついていない。
地下街で散々、理不尽は見てきた。
人が死ぬところも。
奪われるところも。
だが。
今見たものだけは、そのどれとも違った。
常識そのものが歪む感覚。
理解が追いつかない。
「……チッ」
ジャンが舌打ちする。
苛立っている。
いや。
落ち着かないのだ。
自分の理解出来ない現象へ、人間は本能的な不安を覚える。
ジャンはそれを隠し切れていなかった。
その時だった。
轟音。
腹の底を揺らすような爆音が、大気を震わせた。
ドォンッ!!
空気が波打つ。
壁沿いへ集まっていた兵士達が、一斉に顔を上げた。
「ッ!?」
ライナーが最初に動いた。
ほぼ反射だった。
立体機動装置を噴射。
一気に屋根へ飛び上がる。
ベルトルトとアニも続く。
速い。
あまりにも。
「お、おい!?」
ジャンが目を見開く。
アスカは僅かに眉をひそめた。
まるで。
何が起きたのか分かっているみたいだった。
違和感。
だが、それを考えるより先に身体が動く。
「行くぞ!」
ジャンが飛ぶ。
アスカも立体機動装置を噴射した。
屋根を蹴る。
風が頬を裂く。
砲撃音のした方向。
壁沿いの広場。
そこへ近づくにつれ、兵士達の怒号が聞こえてきた。
「撃てぇぇぇ!!」
煙。
爆炎。
そして。
その中心。
「……ッ」
アスカの目が見開かれる。
巨大な肋骨。
赤黒い筋肉。
半身だけ形成された巨人。
未完成。
なのに。
異様な威圧感だけは、完全な巨人以上だった。
その内部。
エレンが、ミカサとアルミンを庇うように膝をついている。
骨格で榴弾を防いでいた。
煙が揺れる。
誰も動けない。
理解が追いつかなかった。
何なんだ、アレは。
その時。
何かが地面へ落ちる音がした。
カラン。
おそらく立体機動装置。
煙の中。
そこから、一人の影が前へ出る。
アルミンだった。
「止まれ!!」
怒号。
駐屯兵達が一斉に銃口を向ける。
アルミンはその場で足を止めた。
煙が揺れる。
砲煙の臭いが鼻を刺す。
その中心で、キッツ・ヴェールマンが血走った目をアルミンへ向けていた。
「ついに正体を現したな……化け物め!!」
右手が上がる。
榴弾発射の合図。
「送るぞ!!」
駐屯兵達の顔も強張っていた。
当然だった。
目の前で、人間が巨人になった。
しかも砲撃を受け止めた。
理解出来る訳がない。
未知だ。
そして人間は、未知を恐れる。
「彼は人類の敵ではありません!!」
アルミンの声が響いた。
震えている。
それでも。
叫ばずにはいられなかった。
「私達には、知り得た情報の全てを開示する意志があります!!」
「命乞いに貸す耳は無い!!」
キッツが怒鳴る。
「目の前で正体を現しておいて、今更何を言う!?奴が敵ではないと言うのなら証拠を出せ!!」
アルミンの拳が震える。
怖い。
当たり前だ。
今ここで榴弾が撃ち込まれれば、自分達は死ぬ。
だが。
「証拠は必要ありません!!」
アスカは目を細めた。
――そうだ。
必要ない。
理屈じゃない。
あの光景を見た。
それだけで十分だった。
「そもそも我々が彼をどう認識するかは、問題ではないのです!!」
「なんだと!?」
キッツの顔が歪む。
アルミンは続けた。
「大勢の者が彼を見たと聞きました!!ならば彼が巨人と戦う姿も見たはずです!!」
ざわめき。
周囲の兵士達が顔を見合わせる。
「周囲の巨人が、彼へ群がっていく姿も!!」
空気が揺れた。
確かに。
見た。
あの異形の巨人を。
「つまり巨人は彼の事を、我々人類と同じ捕食対象として認識しました!!」
駐屯兵達の表情が変わる。
「我々がいくら知恵を絞ろうとも、この事実だけは動きません!!」
「……確かに」
「巨人が……味方?」
「そんな馬鹿な……」
動揺が伝播していく。
キッツの顔が引き攣った。
理解出来ない。
だから拒絶する。
それはある意味、人間として正常な反応だった。
「迎撃体勢を取れぇぇぇ!!」
怒号。
兵士達の身体が反射的に動く。
「奴らの巧妙な罠に惑わされるな!!」
キッツの声には、明確な恐怖が混ざっていた。
「奴らの行動は常に我々の理解を超える!!」
銃口が再び向けられる。
「人間に化け!!人間の言葉を弄し!!我々を欺く事も可能という訳だ!!」
兵士達の目から冷静さが消えていく。
未知への恐怖。
思考放棄。
アルミンも、それに気付いていた。
ダメだ、と。
このままでは通じない。
だから。
アルミンは後ろを振り返る。
エレン。
ミカサ。
二人とも何も言わない。
ただ。
全てを託すような目で、アルミンを見ていた。
覚悟が決まる。
アルミンは深く息を吸った。
そして。
敬礼した。
「私はとうに!!」
声が響く。
その瞬間。
空気が変わった。
「人類復興のためなら心臓を捧げると誓った兵士!!」
小さな身体。
震える声。
それでも。
その姿勢だけは、誰より真っ直ぐだった。
駐屯兵達が息を呑む。
「その信念に従った末に命が果てるのなら本望!!」
声が裏返る。
だが止まらない。
「彼の持つ巨人の力と!!残存する兵力が組み合わされば!!この街の奪還も不可能ではありません!!」
ざわめき。
兵士達の顔色が変わる。
トロスト区奪還。
その言葉は、今の人類にとってあまりにも重かった。
「人類の栄光を願い!!」
アルミンは叫ぶ。
「これから死にゆくせめてもの間に!!彼の戦術価値を説きます!!」
声が掠れる。
それでも。
最後まで叫び切った。
沈黙。
風だけが吹く。
アスカは小さく息を吐いた。
――見直したぜ、アルミン。
恐怖で逃げる事は簡単だ。
なのにコイツは、前へ出た。
言葉だけで。
命を賭けて。
「ヴェールマン隊長」
イアンが前へ出る。
「彼の言葉は考察に値すると――」
「黙れぇぇぇッ!!」
キッツが再び右手を上げる。
榴弾発射の合図。
アスカ達も立体機動装置へ手を掛けた。
その瞬間。
「よさんか」
低い声。
キッツの腕が止まる。
掴まれていた。
「相変わらず、図体の割には子鹿のように繊細な男じゃ」
「ピクシス司令……!」
ドット・ピクシス。
その姿が現れた瞬間、張り詰めていた空気が僅かに揺らぐ。
「お前には、あの者の見事な敬礼が見えんのか?」
アルミンは今も敬礼を続けていた。
目を閉じたまま。
誠意を示すように。
「今着いたところだが、状況は早馬で聞いておる」
ピクシスは静かに言う。
「お前は増援の指揮に就け。わしは、あの者らの話を聞いた方がいい気がするのう」
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
アスカは小さく息を吐いた。
助かった。
少なくとも、今は。
その時。
視線を感じた。
ライナーだった。
アニ。
ベルトルト。
三人とも、妙に静かな顔をしている。
砲撃音を聞いた瞬間から、ずっと。
「……戻るぞ」
ライナーが低く言う。
ジャンが頷いた。
これ以上ここにいれば、余計な疑いを持たれる。
104期達は静かにその場を離れていく。
風が吹く。
その冷たさだけが、やけに現実味を持っていた。