蒸気が街を覆っていた。
白い。
熱を持った霧。
視界が悪い。
瓦礫の焼ける臭いと、巨人の体液が混ざった湿った臭気が、呼吸の度に肺へ入り込んでくる。
その中心で。
エレン巨人は動かなかった。
「おい……」
「どうなってんだよ……」
兵士達の声が震えている。
倒れ伏した巨体。
立ち上る蒸気。
ピクリとも動かない腕。
さっきまで、人類の希望だったものが。
今はただの、巨大な肉塊にしか見えなかった。
そして。
そんな人類側の事情など関係無いとでも言うように。
巨人達は止まらない。
「西側より接近!!」
「数は三!!」
「クソッ、まだ来るのかよ!!」
怒号。
立体機動装置のガス噴射音。
ワイヤーが空を裂く金属音。
夕暮れのトロスト区を、兵士達が蜘蛛みたいに飛び交っていく。
アスカは屋根を蹴った。
加速。
空気が頬を裂く。
視界の端で、五メートル級が口を開くのが見えた。
駐屯兵へ向かって腕を伸ばしている。
遅い。
アスカはワイヤーを追加射出した。
急加速。
身体が横殴りに振られる。
その勢いを殺さないまま、巨人の背後へ滑り込む。
一閃。
うなじを深く裂く。
肉が開く感触。
蒸気。
巨人が崩れ落ちる。
「助かった!!」
駐屯兵が叫ぶ。
だがアスカは振り返らない。
止まるな。
次が来る。
実際、その通りだった。
「右だ!!」
悲鳴。
別方向。
三メートル級が屋根を乗り越えて飛び出してくる。
速い。
小型特有の機動力。
人間みたいな速度で走ってくる。
アスカは空中で身体を捻った。
正面から行くな。
減速する。
避けられる。
建物側面へワイヤー射出。
身体を振り子みたいに横回転させ、その勢いのまま巨人の死角へ潜り込む。
斬撃。
一撃。
浅い。
「チッ──」
切り損ねた。
うなじを削ぎ切れない。
巨人が振り返る。
歯を剥き出しにしながら腕を振り上げた。
速い。
アスカは即座に噴射。
頭上へ抜ける。
そのまま反転。
二撃目。
今度は深く入る。
巨人が崩れた。
着地。
呼吸が熱い。
「はっ……」
肺が焼けるみたいだった。
疲労が溜まり始めている。
ガス残量も減ってきた。
それでも。
止まれない。
「北側押されてるぞ!!」
「応援回せ!!」
「無理だ!! こっちも限界だ!!」
戦場が軋んでいた。
巨人の数が多過ぎる。
しかも。
エレン巨人が止まったせいで、兵士達の士気が明らかに落ちている。
誰もが思っていた。
終わった。
もう無理だと。
その空気が、防衛線全体へ広がり始めていた。
そして。
そういう空気を、巨人は待ってくれない。
「ガスが!!」
若い駐屯兵だった。
空中で失速する。
ワイヤー制御が乱れる。
「しまっ──」
次の瞬間。
六メートル級の腕が、その兵士を掴み上げた。
「嫌だ!! やめ──」
潰れる。
血飛沫。
悲鳴が途中で消えた。
アスカは反射的に飛び出しかける。
だが。
間に合わない。
助けられない。
「ッ……!!」
歯を食いしばる。
止まるな。
今向かっても、自分も死ぬ。
地下街で嫌というほど見てきた。
助けられない命はある。
その瞬間。
別方向から巨人が現れる。
「アスカ!!」
ナックの叫び。
反射的に身体を沈める。
直後。
巨人の腕が頭上を通過した。
風圧。
遅れて冷や汗が噴き出す。
危ない。
集中が切れ始めている。
情報量が多過ぎる。
巨人。
悲鳴。
血。
瓦礫。
ガス音。
怒号。
気を抜けば、一瞬で飲み込まれる。
だから。
必要な情報だけを見る。
巨人の位置。
味方の動き。
逃げ道。
ガス残量。
生き残るために必要なものだけ。
「右が崩れる!!」
叫び。
振り返る。
三体。
同時接近。
このままじゃ防衛線が裂ける。
アスカは即座に進路変更した。
「ナック!! 左を引け!!」
「ッ、おう!!」
「そっちの二人は下がれ!! 屋根潰れるぞ!!」
言いながら、自分は最前線へ突っ込む。
今までは。
自分が生き残る事だけを考えていた。
だが。
今は違う。
一人死ねば。
その穴から、巨人が雪崩れ込む。
だから。
防衛線を維持しなければならない。
ワイヤー射出。
屋根を蹴る。
加速。
三体の内、一番近い四メートル級へ突っ込む。
巨人が腕を振り上げる。
その腕を、逆に踏み台にした。
跳ぶ。
その勢いのまま、うなじを切り裂く。
着地しない。
そのまま二体目へ。
今度は屋根側面を滑走しながら接近。
斬撃。
蒸気。
そして三体目。
だが。
「っ……!」
呼吸が乱れる。
ほんの僅か。
踏み込みが遅れた。
巨人の指先が、外套を掠める。
紙一重。
アスカは舌打ちしながら噴射した。
まだ甘い。
疲労で動きが鈍り始めている。
それでも。
身体そのものは、少しずつ戦場へ適応し始めていた。
無駄が削れていく。
最短距離。
最短動作。
巨人を殺すためだけに、動きが研ぎ澄まされていく。
その時だった。
「……まだ飛んでやがる」
別区画。
ジャンが息を呑む。
夕焼けの中。
一人の兵士が、未だ最前線を飛び続けていた。
アスカだった。
巨人を引きつけ。
崩れた防衛線へ飛び込み。
兵士を救い。
次の瞬間には別方向の巨人を斬っている。
「おいおい……」
駐屯兵が顔を引き攣らせる。
「アイツ、一人で何体捌いてんだ……?」
だが。
アスカ本人には、そんな余裕すら無かった。
視界が狭くなっていく。
疲労。
熱。
息苦しさ。
それでも飛ぶ。
止まれば死ぬ。
それだけは、身体が理解していた。
息が熱い。
肺が焼けるみたいだった。
屋根を蹴る度に、全身へ疲労が蓄積していく。
ガス残量も少ない。
刃も欠け始めている。
なのに。
巨人は減らない。
「クソッ……!!」
ナックが叫びながら空中で旋回する。
その下。
七メートル級が建物を押し潰しながら進んでいた。
瓦礫が崩れ落ちる。
悲鳴。
逃げ遅れた駐屯兵が、下敷きになりかけていた。
「どけぇぇぇ!!」
ナックが突っ込む。
だが。
焦っている。
軌道が直線的過ぎた。
巨人の視線がナックへ向く。
腕が振り上がる。
「ッ!!」
間に合わない。
アスカは即座にワイヤーを射出した。
屋根。
煙突。
さらに別の建物。
三点固定。
無理矢理軌道を変える。
身体が悲鳴を上げた。
だが減速しない。
空中で急旋回。
その勢いのまま巨人の腕へ飛び乗る。
一歩。
二歩。
駆け上がる。
そして。
そのまま首筋へ滑り込んだ。
一閃。
深く。
今度は綺麗に入った。
巨人が崩れ落ちる。
「はっ……はぁ……」
着地。
呼吸が乱れる。
だが止まらない。
「助かった!!」
ナックが叫ぶ。
アスカは肩越しに怒鳴り返した。
「直線で突っ込むな!! 食われたいのか!!」
「悪ぃ!!」
返事。
だが。
その声にも疲労が滲んでいた。
限界が近い。
全員。
もうかなり削られている。
そして。
それはアスカも同じだった。
右腕が重い。
握力が鈍る。
斬撃精度も落ち始めていた。
さっきから、一撃で落とし切れない。
ほんの数センチ。
そのズレが致命傷になりかけている。
「チッ……」
舌打ち。
疲労で集中力が削れていく。
だが。
逆に。
身体そのものは、どんどん戦場へ馴染み始めていた。
考える前に動く。
巨人の死角。
建物の高さ。
ワイヤー角度。
最適な軌道。
全部が、頭じゃなく感覚で分かる。
生き残るための動きだけが研ぎ澄まされていく。
その時だった。
「左を引け!!」
アスカの怒号。
駐屯兵達が散開する。
だが。
「ッ、ガスが……!」
一人が失速する。
次の瞬間。
四メートル級が、その兵士を壁へ叩き付けた。
骨が砕ける音。
血飛沫。
「クソッ!!」
ナックが飛び出す。
巨人へ斬り掛かる。
だが。
疲労で動きが鈍っている。
振り向いた別の巨人の腕が、ナックを薙ぎ払った。
「がっ──!?」
建物へ激突。
瓦礫が崩れる。
「ナック!!」
アスカが叫ぶ。
だが。
遅い。
立ち上がる前に、巨人の口が開く。
噛み砕かれる。
赤黒い血が飛び散った。
「……ッ!!」
息が詰まる。
また一人。
その間にも。
「後ろだ!!」
別の駐屯兵が叫ぶ。
だが。
次の瞬間には、その上半身が巨人の口へ消えていた。
悲鳴。
絶叫。
防衛線が崩れていく。
アスカは歯を食いしばった。
止まるな。
今止まれば、全員死ぬ。
だから飛ぶ。
巨人を斬る。
また別方向へ加速する。
その時だった。
「西側後退!!」
伝令の絶叫。
「防衛線が持たねぇ!!」
兵士達の顔色が変わる。
崩れる。
本格的に。
このままじゃ、完全に押し潰される。
そして。
誰も口にはしない。
だが全員、理解していた。
原因はエレンだ。
希望だった巨人が止まった。
だから。
人類側の心が折れ始めている。
「クソッ……!!」
ジャンが歯を食いしばる。
別区画。
そこでも戦線は崩れかけていた。
「数が多過ぎる!!」
「補給も来ねぇぞ!!」
巨人。
悲鳴。
煙。
戦場全体が、ゆっくりと沈み始めていた。
その中で。
「……なんなんだアイツ」
ユミルが目を細める。
遠く。
夕焼けの屋根を、一人だけ飛び続けている兵士がいる。
アスカだった。
止まらない。
巨人の群れへ自分から飛び込み、崩れた防衛線を埋めている。
訓練兵団へ入る前。
地上へ出てから少しの間だけ、アスカと組んでいた事がある。
別に仲間意識があった訳じゃない。
ただ、生き残るために利害が一致していただけだ。
その頃のアスカは、もっと自分本位だった。
他人を助けるくらいなら、自分が生き残る方を選ぶ奴だったはずだ。
なのに今は。
ガス切れしかけた兵士を庇い。
崩れた前線へ自分から飛び込んでいる。
「……変な奴になったな」
呆れたように呟く。
だが。
悪い気はしなかった。
その一方で。
別方向。
アニもまた、アスカを見ていた。
無駄が減っている。
戦えば戦うほど。
動きが洗練されていく。
恐怖で止まる事も無い。
迷いも少ない。
まるで。
死地で生き残る事に、昔から慣れているみたいだった。
「……」
アニは小さく目を細める。
普通じゃない。
少なくとも。
ただの訓練兵じゃない。
戦場への馴染み方が異常だった。
その時。
ガス噴射音が減っている事に、アスカは気付く。
一瞬だけ周囲を見る。
夕焼け。
蒸気。
瓦礫。
巨人。
そして。
さっきまで一緒に飛んでいた駐屯兵達の姿が、もう殆ど無かった。
「……」
誰もいない。
いや。
まだ戦っている兵士はいる。
だが。
アスカと同じ防衛線にいた駐屯兵達は、もうほぼ全滅していた。
血。
肉片。
砕けた立体機動装置。
つい数分前まで、一緒に戦っていた兵士達の痕跡だけが残っている。
それでも。
巨人は止まらない。
終わらない。
まるで。
この地獄は永遠に続くんじゃないかと錯覚するほどに。
「ッ……!」
ワイヤー射出。
加速。
六メートル級の腕を紙一重で躱す。
風圧が頬を掠めた。
遅い。
今のは、完全に反応が遅れていた。
疲労で視界が狭まっている。
呼吸も浅い。
肺が酸素を欲しているのに、蒸気混じりの熱気しか入ってこない。
それでも。
止まれない。
アスカは建物側面へワイヤーを撃ち込んだ。
そのまま壁面を蹴り、強引に軌道変更。
巨人の死角へ滑り込む。
一閃。
だが。
浅い。
「チッ──!!」
切り損ねた。
うなじへ届き切らない。
巨人が振り返る。
口が開く。
近い。
次の瞬間。
アスカは巨人の顔面を蹴り付けていた。
反動。
強引に距離を取る。
そのまま空中で身体を反転。
二撃目。
今度は深く入った。
蒸気。
巨人が崩れ落ちる。
「はっ……はぁ……ッ」
呼吸が乱れる。
だが。
今の動き。
以前の自分なら出来なかった。
戦場の中で。
死ぬ寸前の極限で。
身体が勝手に、生き残る動きを覚え始めている。
地下街で培った勘。
訓練兵団で叩き込まれた技術。
その両方が、ようやく噛み合い始めていた。
その時だった。
轟音。
兵士達が一斉に中央を見る。
蒸気。
その中で。
倒れていた巨体が、ゆっくりと動いた。
「……おい」
誰かが呟く。
エレン巨人だった。
兵士達が息を呑む。
夕日に照らされた肌。
異様に発達した肉体。
口元から覗く、人間じみた歯列。
長い髪の隙間で、緑色の目が光っている。
その視線が。
今度は真っ直ぐ、大岩へ向いていた。
「正気に戻った……!?」
声が上がる。
その瞬間。
止まりかけていた兵士達の空気が、一気に変わった。
「進路を守れぇぇぇ!!」
「エレンを門まで通せ!!」
「ここで止めるぞ!!」
怒号。
ガス噴射。
兵士達が再び動き始める。
アスカも屋根を蹴った。
疲労は消えていない。
呼吸も苦しい。
視界だって霞み始めている。
だが。
まだ飛べる。
エレン巨人が、大岩へ両腕を伸ばす。
筋肉が軋む。
轟音。
巨大な岩が、ゆっくりと持ち上がっていく。
兵士達が息を呑んだ。
本当に。
本当にやる気なのか。
あの怪物が。
人類のために。
「うおおおおおッ!!」
誰かが叫ぶ。
歓声。
怒号。
絶望しかけていた戦場へ、再び熱が戻っていく。
アスカは巨人の頭上を飛び越えた。
ワイヤーを切り替える。
加速。
もっと速く。
もっと無駄を削れ。
巨人の肩を踏み台にし、その勢いのまま次の巨人のうなじへ滑り込む。
一閃。
蒸気。
止まらない。
そのまま反転。
さらに別の巨人へ。
疲労で視界が霞む。
それでも身体は動く。
生き残るために。
前へ進むために。
轟音が響く。
エレン巨人が、大岩を抱えたまま歩き出した。
一歩。
また一歩。
その度に地面が揺れる。
瓦礫が跳ねる。
夕焼けのトロスト区を、異形の巨人が進んでいく。
その姿を。
兵士達は半ば呆然と見上げていた。
怖い。
正直、今でも得体が知れない。
人類を喰らう怪物と、何一つ変わらない姿。
なのに。
今、その怪物だけが人類を救える。
☆☆☆
「止めるなぁぁぁ!!」
リコの怒号が響く。
その声は、もう掠れていた。
イアンも。
ミタビも死んだ。
精鋭班は、ほぼ壊滅状態。
それでも。
リコだけは、まだ飛び続けている。
血塗れのまま。
巨人へ刃を向け続けていた。
「右から来るぞ!!」
兵士の叫び。
七メートル級。
建物を薙ぎ倒しながら、エレン巨人へ向かって走ってくる。
アスカは即座にワイヤーを射出した。
屋根。
煙突。
壁面。
三方向へ固定。
噴射。
急加速。
視界が一瞬で流れる。
速い。
今までより。
明らかに。
空中で身体を捻る。
そのまま建物側面を蹴り、巨人の頭上へ。
振り下ろされる腕を紙一重で躱す。
そして。
一閃。
うなじが裂ける。
蒸気。
だが。
「ッ……!!」
次の瞬間、別方向から四メートル級が飛び出す。
近い。
アスカは即座にワイヤーを切り替えた。
空中で急制動。
そのまま身体を振り子みたいに横回転させ、巨人の腕を避ける。
さらに。
避けながら、その勢いのまま刃を滑らせる。
肉が裂けた。
巨人が崩れ落ちる。
「……はっ」
息を呑む。
今の動き。
自分でやったのに、半分反射だった。
考える前に身体が動いていた。
死角。
速度。
ワイヤー角度。
全部。
感覚で理解出来る。
地下街で磨いた“生き残る勘”と、訓練兵団で覚えた立体機動が、ようやく一つになり始めていた。
「なんだよ……アイツ」
別区画。
ジャンが息を呑む。
夕焼けの空。
アスカだけが、未だ最前線を飛び続けていた。
巨人を引きつけ。
進路を切り開き。
崩れた防衛線へ、自分から飛び込んでいく。
「まだ動けんのかよ……」
駐屯兵が顔を引き攣らせる。
だが。
アスカ本人には、そんな余裕は無かった。
呼吸が苦しい。
肺が熱い。
ガスも残り少ない。
それでも。
身体だけは、戦場へ適応し続けている。
その時だった。
「アスカ!!」
ミカサの声。
反射的に顔を上げる。
瞬間。
巨人の腕が、さっきまでいた空間を薙ぎ払っていた。
「ッ──!!」
冷や汗が走る。
危なかった。
完全に死角から来ていた。
ミカサが巨人の肩を蹴り、一気に首筋へ滑り込む。
一閃。
蒸気が噴き上がる。
だが。
ミカサもまた、限界が近かった。
呼吸が荒い。
噴射後の姿勢制御も、僅かに遅れている。
それでも。
ミカサはアスカを見る。
「集中して」
短い声。
だが。
その目には焦りがあった。
こんなアスカを見るのは初めてだった。
誰よりも戦場慣れしていて。
どれだけ追い詰められても、どこか余裕を残していた人間。
そのアスカが、今は限界寸前まで削られている。
「……悪い」
アスカは短く返す。
ミカサは数秒だけアスカを見ていたが、やがて再びエレンの護衛へ戻っていく。
その背中を見送りながら、アスカは小さく息を吐いた。
気を抜くな。
まだ終わっていない。
エレン巨人が、大岩を抱えたまま前進する。
一歩。
また一歩。
その周囲へ、無数の巨人が群がっていく。
「全部引き剥がせぇぇぇ!!」
リコの怒号。
兵士達が最後の力を振り絞る。
ワイヤー。
ガス。
刃。
全部を使い切る勢いで、巨人へ飛び込んでいく。
アスカも屋根を蹴った。
加速。
もっと速く。
もっと研ぎ澄ませ。
巨人の肩を踏み台にする。
反転。
斬撃。
さらに次。
止まらない。
その時。
エレン巨人が、ついに外門前へ辿り着いた。
「全員離れろォォォ!!」
リコの絶叫。
次の瞬間。
エレン巨人が、大岩を外門へ叩き込んだ。
轟音。
衝撃。
空気そのものが震える。
瓦礫が吹き飛ぶ。
兵士達が思わず腕で顔を庇った。
そして。
ゆっくりと土煙が晴れていく。
破壊されていた外門は。
巨大な岩によって、完全に塞がれていた。
静寂だった。
さっきまで響いていた怒号も。
巨人の咆哮も。
建物が崩れる音も。
一瞬だけ、遠くなる。
兵士達は呆然と外門を見上げていた。
巨大な岩。
それが、破壊されていた門を完全に塞いでいる。
本当に。
本当に終わったのか。
「……塞がった」
誰かが呟く。
その声を合図にしたみたいに、全身から力が抜ける兵士達がいた。
その場へ膝をつく者。
泣き出す者。
壁へ寄り掛かる者。
誰もが限界だった。
その時だった。
リコが静かに信煙弾を取り出す。
血で汚れた手。
その指先が、僅かに震えていた。
空へ向ける。
一瞬の静寂。
──パァンッ!!
緑色の煙が、夕焼けの空へ撃ち上がった。
作戦成功。
その合図だった。
兵士達が空を見上げる。
夕日と、緑煙。
その景色だけが、妙に綺麗だった。
リコは煙を見上げたまま、小さく呟く。
「……みんな」
一拍。
「死んだ甲斐があったな」
イアン。
ミタビ。
そして。
名前も知らない、多くの兵士達。
その犠牲の上で、ようやく掴んだ勝利だった。
アスカは呼吸を整えながら、その煙を見上げる。
肺が痛い。
腕も重い。
全身が軋んでいる。
だが。
戦場は終わった。
少なくとも。
今この瞬間だけは。
「……っ」
その時。
急に、身体から力が抜けそうになる。
アスカは咄嗟に屋根へ手をついた。
震えていた。
指先が。
呼吸も上手く整わない。
極限状態で飛び続けていた反動が、一気に押し寄せてきていた。
そして。
同時に。
頭へ浮かぶ。
ナック。
最後まで一緒に飛んでいた駐屯兵達。
名前も知らない兵士達。
ついさっきまで、同じ戦場で怒鳴り合っていた人間達。
その姿が、もう無い。
「……クソ」
小さく漏れる。
助けられなかった。
もっと早く動けていれば。
もっと強ければ。
そんな考えが、頭を掠める。
だが。
戦場は、そんな後悔を待ってくれない。
助けられない命はある。
地下街で嫌というほど見てきた。
それなのに。
今は妙に胸の奥が重かった。
ただの駐屯兵だった。
名前すら知らない奴らだった。
それでも。
一緒に戦った。
一緒に、この地獄を飛び続けた。
「……死にやがって」
掠れた声。
怒りなのか。
悔しさなのか。
自分でも分からない。
ただ。
胸の奥に、鈍い熱だけが残っていた。
その時。
轟音と共に、エレン巨人が崩れ落ちた。
巨大な肉体が地面を揺らす。
蒸気。
熱風。
「エレンを回収しろ!!」
リコの怒号。
ミカサ達が再び動き出す。
巨人のうなじ。
剥がれ落ちていく肉。
その中から、人間の身体が少しずつ姿を現していく。
エレンだった。
意識は薄い。
だが、生きている。
その瞬間。
「ッ!!」
誰かが息を呑む。
路地の奥。
二体の巨人が、こちらへ向かって来ていた。
「まだいたのか!!」
兵士達が刃を構える。
だが。
全員、限界に近い。
ガスも。
刃も。
体力も。
もう残っていなかった。
一体の巨人が、大口を開きながらエレンへ迫る。
アスカは地面を蹴った。
ワイヤー射出。
加速。
疲労で重かった身体が、それでも前へ出る。
もっと速く。
もっと無駄を削れ。
巨人の懐へ潜り込む。
一閃。
深く。
うなじを切り裂く。
巨人が崩れ落ちた。
だが。
もう一体。
別方向から、残る巨人がエレンへ手を伸ばす。
近い。
間に合わない。
その瞬間だった。
風が走る。
いや。
違う。
何かが、一瞬で視界を横切った。
刃。
回転。
血飛沫。
次の瞬間には、巨人の首が宙を舞っていた。
遅れて巨体が崩れ落ちる。
速過ぎて。
見えなかった。
瓦礫の上へ降り立った男を見て、兵士達が息を呑む。
緑色の外套。
背中に刻まれた紋章。
自由の翼。
調査兵団。
男──リヴァイは、血を払うように刃を振る。
その動作に、一切の無駄が無い。
呼吸も乱れていない。
まるで。
ここまでの地獄が、何でもないみたいに。
鋭い視線が、その場を見回した。
「おいガキ共」
低い声。
「これはどういう状況だ」
静かな声だった。
だが。
その場の空気を一瞬で支配していた。
アスカは目を見開いたまま、その男を見る。
違う。
今まで見てきた誰とも。
立体機動の質が。
身体運びが。
巨人との距離感が。
全部。
完成されている。
最短。
最速。
巨人を殺すためだけに研ぎ澄まされた動き。
その姿へ、兵士達が無意識に道を開けていく。
強い。
ただそれだけじゃない。
この男は。
戦場そのものへ適応し切っている。
その時。
エレンが、朦朧とした目で自由の翼を見上げる。
「……自由の翼……」
掠れた声。
だが。
その言葉が、妙にアスカの耳へ残った。
壁の外へ向かう兵士達。
死ぬと分かっていて、それでも進む奴ら。
地下街では考えられなかった。
だが。
あの男を見ていると。
それがただの狂気ではない気もした。
そして同時に。
アスカは強く柄を握り締める。
イアンも。
ミタビも。
ナックも。
確かに強かった。
それでも死んだ。
この戦場では、強いだけじゃ足りない。
生き残るためには。
もっと上へ行かなければならない。
もっと研ぎ澄まさなければならない。
視線の先。
夕焼けの中へ立つ、小柄な兵士。
自由の翼が風に揺れていた。
まだ届かない。
だが。
いつか。
必ず、あの領域へ。