灰の残り香
トロスト区には、まだ死臭が残っていた。
奪還作戦から二日。
壁は塞がった。
人類は勝った。
そう言葉にしてしまえば簡単だったが、街の中へ立てば、そんな言葉はすぐに薄っぺらくなる。
瓦礫。
血痕。
崩れた建物。
巨人の体液。
そして、至る所へ転がる死体。
戦いは終わった。
だが。
地獄は終わっていない。
「そっち運べ!!」
「吐瀉物に直接触るな!! 布を使え!!」
「まだ生きてる奴がいないか確認しろ!!」
怒号が飛ぶ。
だが、兵士達の声にはもう力が無かった。
二日目。
全員、限界だった。
睡眠不足。
疲労。
死臭。
最初は吐いていた兵士達も、今ではもう胃液すら出なくなっている。
感覚が麻痺し始めていた。
アスカは無言で死体の腕を掴む。
冷たい。
硬い。
血で滑る。
だが、手は止まらない。
瓦礫の隙間から引き摺り出し、並べる。
次。
また次。
崩れた胴。
食い千切られた肉。
剥き出しの骨。
普通の訓練兵なら、とっくに限界を迎えている光景だった。
実際、少し離れた場所では兵士が壁へ手をつきながら吐いている。
「っ、ぉぇ……」
顔面蒼白。
呼吸も乱れている。
無理もない。
つい数日前まで、巨人との実戦経験すら無かった連中だ。
こんな光景に慣れている方がおかしい。
だが。
アスカの手は止まらなかった。
死体を見ても。
血の臭いを嗅いでも。
身体が勝手に動く。
地下街では珍しくなかった。
人は簡単に死ぬ。
殺される。
捨てられる。
腐る。
だから、立ち止まっている暇なんて無かった。
死体を放置すれば疫病が出る。
縄張り争いの後始末をしなければ、自分が生き残れない。
それだけだった。
アスカ自身、人を殺した事もある。
生き残るために。
その度に感情を揺らしていたら、地下街では長く生きられない。
だから。
慣れた。
慣れてしまった。
「……」
死体を持ち上げながら、アスカはふと周囲を見る。
104期の兵士達。
誰も顔色が良くない。
サシャは口元を押さえながら作業している。
コニーは目が虚ろだった。
クリスタは震える手で布を握っている。
ジャンに至っては、ずっと無言だ。
皆、壊れかけている。
その中で、自分だけが淡々と動けてしまう。
それが少し気持ち悪かった。
その時だった。
「……っ」
アスカの足が止まる。
路地裏。
そこに巨大な肉塊が転がっていた。
赤黒い塊。
骨。
衣服の切れ端。
潰れた腕。
原型なんて、ほとんど残っていない。
だが。
理解してしまう。
あれは。
人間だった。
「それ、巨人の吐瀉物だ」
近くの駐屯兵が、顔を顰めながら言う。
「……腹が膨れたら吐くらしい」
アスカは何も言わない。
言えなかった。
意味が分からない。
巨人には消化器官が無い。
人間を食う意味も無い。
なのに。
食って。
満腹になれば吐き出す。
まるで壊れた生き物だった。
「クソ……」
兵士の一人が顔を背ける。
「なんなんだよ、アイツら……」
答える者はいない。
アスカは吐瀉物から目を逸らす。
その時。
「……ごめんなさい」
小さな声。
アスカは振り返る。
少し離れた場所。
アニが立ち尽くしていた。
虚ろな目。
死体を見つめたまま、動かない。
その視線の先には、半身が無い人間だった物がある。
「……」
アスカは何も言わない。
アニも続けない。
ただ。
その「ごめんなさい」が、妙に耳へ残った。
やがてアスカは再び歩き出す。
その時だった。
「……?」
少し先。
一人の兵士が立ち止まっている。
ジャンだった。
死体処理中だというのに、微動だにしない。
ただ。
一点を見つめている。
「おい、ジャン」
返事が無い。
アスカは眉を寄せながら近付く。
そして。
ジャンの視線の先を見た。
「──」
言葉が止まる。
瓦礫へ半身を預けるようにして、兵士の死体が転がっていた。
いや。
半身しか、無い。
腹部から下が消えていた。
引き裂かれた肉。
剥き出しの骨。
血。
内臓。
壁へ飛び散った赤黒い染み。
見慣れているはずだった。
人の死体なんて。
もっと酷いものだって、地下街で見てきた。
なのに。
視線が外せない。
「……マルコ」
掠れた声。
ジャンは何も答えない。
ただ、立ち尽くしている。
目だけが、死んだマルコへ貼り付いていた。
アスカはゆっくり近付く。
一歩。
また一歩。
足音だけがやけに響く。
そして。
マルコの顔が見えた。
苦しそうだった。
目が僅かに開いている。
歯を食い縛ったまま固まっている口元。
壁へ爪を立てた跡。
最後まで、生きようとしていたのが分かる。
「っ……」
息が詰まる。
喰われながら。
死んだ。
頭が理解してしまう。
巨人は人を殺すためじゃなく、食うために襲う。
だから。
一瞬で死ねない。
噛み千切られ。
潰され。
喰われながら。
苦しみながら死ぬ。
その現実が、今更みたいに喉へ張り付いてきた。
マルコは。
優しかった。
馬鹿みたいに真面目で。
空気を読んで。
周りを見て。
誰かが揉めれば間に入って。
訓練兵団の中でも、ああいう奴は珍しかった。
地下街にはいない人間だった。
だから少し。
眩しかった。
「なんでだよ……」
小さく漏れる。
地下街なら分かる。
奪うために殺す。
裏切るために殺す。
金のために殺す。
理由がある。
でも巨人は違う。
意味も無く。
ただ食って。
飽きたら吐き出す。
その程度で。
マルコはこんな死に方をした。
「……ふざけんなよ」
感情がぐちゃぐちゃになる。
怒り。
嫌悪。
吐き気。
悔しさ。
全部が混ざる。
さっきまで、平然と死体処理をしていた。
腕を運んで。
胴を並べて。
血に塗れて。
何も感じないみたいに動けていた。
慣れていたから。
そうしないと、生き残れなかったから。
でも。
マルコを見た瞬間。
急に現実感が押し寄せてくる。
死んだ。
本当に。
昨日まで喋っていた奴が。
笑っていた奴が。
こんな肉塊になって終わった。
「……っ」
アスカは思わず顔を伏せる。
喉の奥が熱い。
吐き気がする。
呼吸が乱れる。
頭の奥で、戦場の光景が蘇る。
喰われる兵士。
悲鳴。
血飛沫。
噛み砕かれる音。
イアン。
ミタビ。
ナック。
名前も知らない駐屯兵達。
全員、巨人に食われた。
殺されたんじゃない。
喰われた。
「……クソ」
震える声。
悔しかった。
もっと強ければ。
もっと早く動ければ。
そんな考えが、頭の中を掻き回す。
だが。
どうしようもない。
どれだけ強くても。
死ぬ時は死ぬ。
この世界は、それを平然と突き付けてくる。
アスカは震える拳を強く握った。
爪が掌へ食い込む。
それでも。
痛みなんて、ほとんど感じなかった。
夜明け前だった。
火が揺れている。
薪が爆ぜる音。
焼けた肉の臭い。
灰が混ざった風が、静かに流れていく。
トロスト区奪還作戦から二日。
ようやく始まった火葬だった。
並べられた死体。
焼かれていく兵士達。
イアン。
ミタビ。
名前も知らない駐屯兵達。
そして。
マルコ。
炎がその輪郭を少しずつ呑み込んでいく。
誰も喋らない。
皆、疲れ切っていた。
泣く気力すら残っていない。
ただ炎だけを見つめている。
アニもその中にいた。
火を見つめる横顔には、もう感情らしい感情が残っていない。
虚ろだった。
コニーが炎を見たまま、小さく呟く。
「あんなに頑張ったのに……」
掠れた声。
「あんなにやったのに……」
炎が揺れる。
「全部……無駄だったのか……?」
誰も答えない。
答えられなかった。
静寂だけが落ちる。
ジャンは、その声が聞こえているのかいないのか分からなかった。
少し離れた場所。
ただ、右手に乗った骨の欠片を見つめている。
マルコのものなのか。
誰のものなのか。
もう分からない。
アスカも炎を見つめていた。
頭の中を、後悔が何度も駆け回る。
もっと早く動けていたら。
もっと強ければ。
イアンも。
ミタビも。
ナックも。
マルコも。
違ったんじゃないか。
そんな考えが、何度も頭を掻き回す。
だが。
戦場は、そんな後悔を待ってくれない。
死んだ人間は戻らない。
焼けて。
灰になる。
「……今」
小さな声。
ジャンだった。
「今、何をすべきか……」
その呟きに、皆がゆっくり顔を上げる。
ジャンはゆっくり歩き出した。
コニー。
サシャ。
クリスタ。
ユミル。
ライナー。
アニ。
ベルトルト。
そしてアスカ。
104期の集まる場所へ。
火の粉が舞う。
ジャンは立ち止まり、全員を見渡した。
「おい、お前ら……」
声が震えている。
「所属兵科は何にするか、決めたか?」
右手を強く握り締める。
身体が震えていた。
恐怖を。
必死に押し殺すみたいに。
「俺は決めたぞ」
一人一人の目を見る。
逃げないように。
自分自身から。
目を逸らさないように。
「俺は……」
喉が詰まる。
それでも。
ジャンは言う。
「俺は……調査兵団になる」
静寂。
誰も、すぐには言葉を返せない。
聞こえるのは。
ジャンの、押し殺した啜り泣きだけだった。
怖いのだ。
皆分かっている。
壁の外へ行けば死ぬ。
巨人に喰われる。
それでも。
今、何をするべきなのか。
マルコなら。
きっと迷わない。
ジャンは、それを見極めた。
アスカは炎を見る。
燃えていく死体。
自由の翼。
リヴァイ。
あの背中が脳裏へ浮かぶ。
強いだけじゃ足りない。
生き残るためには。
前へ進まなければならない。
その夜。
アスカ・ラングレーもまた。
調査兵団へ入る事を決めた。
☆☆☆
二日後。
食堂は妙に静かだった。
生き残った兵士達が、無言でスープを口へ運んでいる。
誰もトロスト区の話をしない。
出来ない。
まだ全員、戦場を引き摺っていた。
アスカは食堂を見回す。
そして。
窓際。
一人で座っているアニを見つけた。
周囲に誰もいない。
近寄り難い空気を出している訳じゃない。
ただ。
誰も話し掛けられないだけだ。
アスカは無言で歩き出した。
アニの正面ではなく。
対角の席へ座る。
木椅子が小さく軋んだ。
アニが視線だけを向ける。
「……何」
「別に」
アスカはパンを千切りながら返す。
沈黙。
食器の音だけが響く。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
しばらくして。
アニがぼそりと呟く。
「何も聞かないの?」
アスカはスープを口へ運ぶ。
「あぁ」
一拍。
「聞かない」
アニは数秒だけ黙り込む。
昨日。
自分が何を口走ったのか、覚えている。
吐瀉物。
死体。
マルコ。
頭の奥へ、全部焼き付いて離れない。
なのに。
アスカは何も聞かない。
理由も。
意味も。
追及しない。
ただ。
向かい合いもせず、そこで飯を食っている。
「……そう」
小さな声。
それだけだった。
アニは再び視線を落とす。
スープはもう冷めていた。
その時だった。
食堂の扉が勢いよく開く。
「アスカ・ラングレーって子はどこ!?」
大声。
食堂中の視線が一斉に向く。
アスカは思わず眉を寄せた。
女。
ボサボサの髪を、後ろでまとめている。
ゴーグルで隠れているが、目だけ異様に輝いている。
調査兵団。
ハンジ・ゾエ。
「あー! いた!! 昨日最後まで飛んでた子だよね!? いやぁ見てた見てた!!」
凄まじい勢いで近付いてくる。
重かった空気が、一瞬だけ揺れる。
アニは僅かに視線を上げる。
さっきまで漂っていた重苦しい沈黙を、ハンジは半ば強引に吹き飛ばしていた。
「ちょ、ちょっと待て……」
「待たない!! 君地下街出身なんだって!? 立体機動の軌道が普通と全然違ったんだけど!?」
アスカは一瞬だけ呆然とする。
昨日。
何人も死んだ。
マルコも死んだ。
皆、擦り切れている。
なのに。
目の前の女だけは、妙な熱量を失っていなかった。
「調査兵団来ない!? ね!? 来ようよ!!」
ぐい、と顔を近付けてくる。
近い。
「いや近いですってハンジさん」
後ろから男が割って入る。
疲れ切った顔。
モブリットだった。
「新兵にいきなり圧掛けないでください」
「圧じゃないよ!! 勧誘!!」
「同じです」
即答。
アスカは思わず目を細める。
「……なんなんだ、この人」
素で漏れた。
だが。
ハンジは気にした様子もない。
「じゃあ決まり!! 今日から調査兵団!!」
「入りますけど、俺だけこんな早く——」
「やったぁぁぁ!!」
聞いていない。
モブリットが深く溜息を吐く。
「……諦めてください」
「大変だな」
「本当にそう思います」
遠い目だった。
調査兵団本部は、思っていたよりも古かった。
石造りの建物。
軋む廊下。
壁へ立て掛けられた予備の立体機動装置。
兵士達の怒号。
そこには駐屯兵団とも訓練兵団とも違う空気があった。
全員。
壁の外へ行く人間の目をしている。
「アスカこっちこっち!!」
朝からハンジの声が響く。
アスカは無言で顔を覆った。
調査兵団へ入って三日目。
既に理解していた。
この女は止まらない。
「今度は何ですか……」
「巨人の活動限界について!!」
「昨日もやってませんでした?」
「昨日は日照時間!! 今日は空腹状態!!」
「違いあります?」
「大アリ!!」
断言だった。
モブリットが頭を抱える。
「ハンジさん、せめて朝食食べてからにしてください……」
「時間が勿体ない!!」
「倒れますよほんとに……」
完全に苦労人だった。
アスカは中庭へ視線を向ける。
そこには二体の巨人。
ソニー。
ビーン。
巨大な拘束具によって固定され、唸り声を上げている。
近い。
未だに慣れない。
巨人の臭い。
蒸気。
人間を喰う怪物が、空の下に普通に存在している。
「可愛いでしょー!!」
「どこがですか」
即答だった。
「えぇ!? ほら見てこの表情!!」
「怖ぇよ」
「アスカ君、慣れますよ」
「慣れたくねぇな……」
モブリットは苦笑する。
だが。
数日見ていて分かった。
ハンジは本気だった。
恐怖だけで巨人を見ていない。
理解しようとしている。
何故動くのか。
何故人を食うのか。
何故存在しているのか。
狂っている。
だが。
その狂気だけが、巨人へ真正面から向かっている。
「ねぇアスカ!! これどう思う!?」
「なんですか今度は」
「巨人ってね、活動停止しても体温が下がり切らないんだよ!!」
「……はぁ」
「普通の生物じゃあり得なくない!?」
目が輝いている。
本当に楽しそうだった。
アスカは少しだけ目を細める。
地下街にも狂った人間はいた。
だが。
この女は少し違う。
狂気を前へ向けている。
そんな印象だった。
夕方。
ようやく実験が一区切り付いた頃。
モブリットが深い溜息を吐きながら記録を纏めている。
「今日はこれで終わりですか……?」
「うん!!」
ハンジが大きく伸びをする。
「いやぁ、いいデータ取れたなぁ!!」
「俺は寿命削れましたよ……」
モブリットが死んだ目で返す。
アスカは少しだけ口元を緩めた。
その時だった。
「あ、そうだ」
ハンジが何かを思い出したみたいに手を叩く。
「団長に挨拶しに行かなきゃね」
「……団長?」
「ちょっと早いけど、新兵二人目だ」
「二人目?」
「エレンが一人目」
ハンジが笑う。
「だから君で二人目って訳」
そう言って歩き出す。
アスカも後を追った。
本部の廊下は静かだった。
窓から夕陽が差し込んでいる。
自由の翼を背負った兵士達が、無言で行き交う。
その中を歩いていると。
妙な感覚になる。
本当に。
調査兵団へ入ったのだと。
「緊張してる?」
ハンジが前を向いたまま聞く。
「……まぁ」
「大丈夫大丈夫」
軽い声。
「食われたりしないから」
「基準がおかしいんですよ」
「よく言われる」
全く気にしていない。
やがて。
一つの扉の前で足が止まる。
団長室。
ハンジが数回ノックする。
「エルヴィン、入るよー」
「入れ」
低い声。
ハンジが扉を開ける。
部屋へ入った瞬間。
アスカは自然と背筋を伸ばしていた。
広い部屋だった。
机。
大量の書類。
壁へ貼られた地図。
そして。
窓際に立つ男。
エルヴィン・スミス。
調査兵団団長。
ただ立っているだけなのに。
妙な威圧感があった。
強い、とも違う。
“見透かされる”。
そんな感覚。
「連れてきたよ、新兵二人目」
ハンジが軽い調子で言う。
エルヴィンの視線が、ゆっくりアスカへ向く。
「アスカ・ラングレー」
低い声。
「トロスト区での働きは聞いている」
アスカは黙って立つ。
エルヴィンは数秒だけ観察するように目を細めた。
「地下街出身らしいな」
一瞬だけ空気が張る。
だが。
エルヴィンは特に気にした様子を見せなかった。
「君は死に慣れている」
その一言で。
アスカの目が僅かに細くなる。
「だが、完全には麻痺していない」
マルコの死体。
火葬。
吐瀉物。
全部見抜かれている気がした。
「それは兵士として重要だ」
静かな声。
「慣れ過ぎても壊れる。怯え過ぎても死ぬ」
一拍。
「君は、その中間に立っている」
アスカは何も言えなかった。
エルヴィンは机へ置かれた書類を閉じる。
「期待している」
短い言葉。
だが。
不思議と重かった。
ハンジが横でにやにや笑っている。
「よかったねぇ。団長に期待されるの、結構レアだよ?」
「プレッシャーなんですけど」
「ははっ」
エルヴィンは小さく口元を緩めると、窓の外へ視線を向けた。
夕陽が、自由の翼を赤く照らしていた。
☆☆☆
翌日。
「アスカー!! 旧本部行くよ!!」
朝からハンジの声が響く。
「……旧本部?」
「エレン達いるとこ!!」
ハンジが笑う。
「ちょうど実験も落ち着いたしね!!」
「落ち着いたんですかこれ……」
「落ち着いてません」
モブリットが即答する。
「ただハンジさんが我慢出来なくなっただけです」
「失礼だなぁ!!」
図星らしい。
馬の準備が進む。
調査兵団専用の馬。
壁外調査用。
筋肉質で、普通の馬より一回り大きい。
アスカは手綱を握りながら、ふと空を見る。
晴天だった。
壁の向こうまで見えそうなくらい。
「出るよー!!」
ハンジが先頭へ出る。
モブリットが慌てて後を追う。
アスカも馬を走らせた。
風が頬を打つ。
街外れ。
人の気配が減っていく。
そして。
古びた建物が見えてきた。
高い壁。
石造りの外観。
古城みたいな旧調査兵団本部。
近付くだけで分かる。
ここには。
壁の外へ向かう人間達がいる。
昨日、自分が見上げた自由の翼が。
「到着ー!!」
ハンジが馬から飛び降りる。
アスカも後に続く。
本部の空気は独特だった。
静かだ。
だが。
張り詰めている。
兵士達の目が違う。
104期とも。
駐屯兵団とも。
何かが違った。
「エレンいるー?」
ハンジがずかずか進む。
兵士達が慣れた顔で道を空けていく。
地下室。
重い扉。
その奥で、エレンが顔を上げた。
「あれ……アスカ?」
「よう」
短く返す。
エレンは少し驚いた顔をした後、小さく笑った。
「調査兵団入ったのか」
「まぁな」
「……そっか」
一瞬だけ沈黙。
だが不思議と気まずくはない。
トロスト区。
あの地獄を、一緒に生き残った。
それだけで十分だった。
「お前、最後まで飛んでらしいな」
エレンが言う。
「死ぬかと思った」
「俺もだよ」
小さく笑う。
その時だった。
「──ちょうどいい」
低い声。
空気が変わる。
地下室の入口。
リヴァイだった。
一瞬で兵士達の空気が張り詰める。
アスカは自然と姿勢を正していた。
リヴァイはゆっくり近付いてくる。
無駄の無い動き。
鋭い視線。
トロスト区で見た時と同じだった。
まるで隙が無い。
「お前とは話したいと思っていた」
真っ直ぐアスカを見る。
視線だけで圧がある。
「来い」
短い言葉。
それだけで、身体が自然と動いた。
アスカはリヴァイの背を追う。
地下牢を出る。
静かな廊下。
前を歩く小柄な背中。
なのに。
誰よりも大きく見えた。
「地下街出身らしいな。エルヴィンから聞いた」
不意にリヴァイが言う。
アスカの目が少し細くなる。
「……まぁ」
「珍しいもんだ。調査兵団に地下街のゴロツキ上りが入るのは、後にも先にも俺だけだと思っていた」
振り返りもしない。
「お前の動きで分かったがな。無駄が少ねぇ。生き残る動きだ」
地下街。
狭い路地。
落ちれば死ぬ高さ。
限られたガス。
限られた刃。
全部、生き残るためだった。
「だが」
リヴァイが立ち止まる。
鋭い目が向く。
「お前はまだ荒い」
「……」
「死線を潜ってきた奴特有の動きはある。だが、それだけだ」
静かな声だった。
怒鳴っている訳じゃない。
なのに重い。
「勘違いするな」
一歩近付く。
「生き残ってる事と、強い事は違う」
アスカは無意識に拳を握っていた。
反論出来ない。
トロスト区で理解した。
イアンも。
ミタビも。
強かった。
それでも死んだ。
「お前はまだ、自分の動きしか見えてねぇ」
リヴァイは淡々と言う。
「周囲を生かせ。全体を見ろ。俺達は一人で戦ってる訳じゃねぇ」
トロスト区。
頭へ蘇る。
死んでいった駐屯兵達。
守れなかった。
届かなかった。
「……はい」
短く返す。
リヴァイは数秒だけアスカを見た後、背を向ける。
「まぁ、お前は使える方だ」
それだけ言って歩き出す。
アスカは少し目を見開く。
褒めたのか。
今。
多分。
分かりづらい。
「あと」
リヴァイはアスカに振り返る。
「その目だ」
その一言で。
アスカの呼吸が一瞬止まる。
「……」
「掃き溜めにいた割には腐ってねぇ。まぁ……いちいち聞きゃしねぇが」
静かな声。
「だからまだ伸びる」
それだけ残し。
リヴァイは去っていった。
アスカは、その背中を無言で見つめていた。
アスカが去った後。
廊下へ短い静寂が落ちる。
リヴァイは壁へ寄り掛かり、小さく息を吐いた。
「──ふふっ」
背後から声。
振り返らなくても分かる。
ハンジだった。
「珍しいね」
にやにやした声。
「リヴァイが新兵を気にかけるなんて」
リヴァイは眉を顰める。
ハンジは気にせず続けた。
「お眼鏡にはあったかな? うちのアスカは」
「別に気にかけてなんてねぇよ」
即答。
「ただ、戦力になると思っただけだ」
「へぇ」
ハンジが口元を緩める。
「それだけ?」
「……」
一瞬の沈黙。
リヴァイは小さく舌打ちした。
「……うるせぇクソメガネ」
低い声。
「エレンと話でもしてろ。俺は寝る」
「はいはい」
ハンジは肩を竦める。
「全く、素直じゃないんだから」
リヴァイは返事をしない。
そのまま背を向け、廊下を歩き去っていく。
小柄な背中。
だが。
その歩き方一つにも無駄が無い。
ハンジは、その後ろ姿を見ながら小さく笑った。
「でもまぁ」
ぽつりと呟く。
「確かに、ちょっと似てるかもね」
地下街育ち。
死に慣れた目。
生き残るための動き。
そして。
完全には壊れていないところまで。
ハンジはゆっくり視線を窓の外へ向ける。
夕焼けが、旧本部を赤く染めていた。
空き部屋へ案内されたのは、その後だった。
旧本部の一室。
最低限の机と椅子。
簡素なベッド。
窓の外には、夕焼けに染まる木々が見える。
静かだった。
静か過ぎるくらいに。
トロスト区の怒号も。
死臭も。
巨人の咆哮も、ここには届かない。
アスカはベッドへ腰を下ろす。
疲労が一気に押し寄せてきた。
ここ数日。
まともに眠っていない。
死体処理。
火葬。
調査兵団。
巨人実験。
エレン。
リヴァイ。
色んな事が一気に流れ込み過ぎていた。
「……」
リヴァイの言葉が頭へ残る。
“生き残ってる事と、強い事は違う”
悔しかった。
何も言い返せなかった事が。
だが。
否定も出来ない。
トロスト区で死んだ兵士達は、兵士としては自分より弱かった訳じゃない。
むしろ。
イアンもミタビも、自分より遥かに完成された兵士だった。
それでも死んだ。
アスカはゆっくりベッドへ倒れ込む。
天井を見上げる。
自由の翼。
リヴァイ。
エルヴィン。
ハンジ。
調査兵団には、壁の中と違う空気があった。
死を知っている。
それでも前へ進んでいる。
「……」
瞼が重い。
気付けば、意識は沈んでいた。
☆☆☆
激しいノック音で目が覚めた。
「アスカ!!」
扉の向こうから声。
「起きてください!!」
モブリットだった。
アスカは薄く目を開ける。
まだ外は暗い。
「……何時ですか」
「そんなのどうでもいいです!!」
余裕が無い声。
アスカは身体を起こし、扉を開ける。
そこには、珍しく取り乱したモブリットがいた。
「君ほんとに起きませんね……!!」
「いや寝たばっか——」
「ソニーとビーンが殺されました」
一瞬で眠気が吹き飛ぶ。
「……は?」
「急いでください!!」
モブリットが走り出す。
アスカも反射的に後を追った。
廊下。
階段。
兵士達の慌ただしい足音。
旧本部全体がざわついている。
外へ出ると、既に馬の準備が終わっていた。
ハンジ。
リヴァイ班。
全員の顔が険しい。
「行くよ!!」
ハンジが馬へ飛び乗る。
その声には、いつもの軽さが無かった。
馬を走らせる。
夜明け前の道。
冷たい風。
誰も喋らない。
嫌な予感だけが、胸の奥をざわつかせていた。
やがて。
調査兵団本部が見えてくる。
中庭には既に兵士達が集まっていた。
異様な静けさ。
血の匂い。
蒸気。
アスカは馬から飛び降り、そのまま人混みを抜ける。
そして。
「……ぁ」
声が漏れた。
骨だった。
巨大な骨。
昨日まで中庭で唸っていたソニーとビーンは、もう原型すら残っていない。
拘束具も破壊されていた。
「そんな……」
ハンジが膝をつく。
震える声。
「なんで……」
指先が小刻みに震えている。
昨日まで。
あんなに楽しそうに巨人の話をしていた。
「ソニー!! ビーン!!」
理解しようとしていた。
その対象が、一晩で奪われた。
「……クソ」
兵士達の顔も険しい。
巨人を殺した。
立体機動を用いた犯行だったらしい。
アスカは少し離れた場所から、その光景を見ていた。
その時。
大きな手が肩へ置かれる。
「君には何が見える?」
低い声。
アスカは振り返る。
エルヴィンだった。
青い瞳が、真っ直ぐこちらを見ている。
「敵は何だと思う?」
静かな声。
だが。
その一言だけで空気が変わる。
どういう意味だ。
何を聞かれている。
何を試されている。
巨人じゃないのか?
だが。
頭の奥へ、様々な違和感が浮かぶ。
アニの“ごめんなさい”。
マルコ。
エレンの巨人化。
ソニーとビーン。
何かがおかしい。
まだ繋がっていない。
だが。
確かに違和感だけは存在している。
アスカは数秒黙り込む。
考える。
何を言えば正しい。
何を答えればいい。
分からない。
だから。
率直に思った事を口にした。
「……兵士」
一拍。
「いや、裏切り者」
エルヴィンは静かに目を細める。
そして。
ほんの僅かに笑った。
「ハンジの目に狂いは無かったな」
小さな声。
それだけ呟く。
アスカは意味が分からず眉を寄せた。
エルヴィンは肩から手を離す。
「今夜、団長室へ来てくれ」
短く告げる。
そして、そのまま兵士達の方へ歩き出した。
アスカは、その背中を無言で見つめていた。
胸の奥だけが、妙にざわついていた。