それから数日。
調査兵団は壁外調査へ向けた訓練を続けていた。
馬術。
信煙弾。
長距離索敵陣形。
立体機動。
訓練兵団で学んだ技術を、壁外で生き残るための技術へ変えていく作業だった。
当然、楽ではない。
「違う!!」
訓練場に怒声が響く。
「信煙弾を確認してから撃てと言っただろう!!」
「確認したんですよ!!」
コニーが叫ぶ。
「じゃあ何で緑なんだ!!」
教官役の兵士が怒鳴る。
コニーは手元の信煙弾を見る。
数秒固まった。
「……あ」
「お前はまず色を覚えろ!!」
「理不尽だろ!!」
「理不尽じゃない!!」
周囲から笑いが漏れる。
サシャなど腹を抱えていた。
「コニーは本当に馬鹿ですね」
「笑ってる場合か!」
「私はちゃんと覚えています」
そう言った直後だった。
「サシャ!!」
別の兵士が怒鳴る。
「何ですか!?」
「お前も違う!!」
「えっ」
サシャが固まる。
「それは黒だ!!」
「…………」
「お前も色を覚えろ!!」
「そんな」
今度はコニーが笑う番だった。
訓練場に笑い声が広がる。
ライナーが呆れたように息を吐いた。
「お前達は本当に大丈夫なのか」
「ライナーが言うと妙に説得力あるな」
ジャンが苦笑する。
その横でアルミンは地図を広げていた。
長距離索敵陣形。
信煙弾の伝達経路。
それらを頭へ叩き込んでいる。
「アルミン」
アスカが声を掛ける。
アルミンが顔を上げた。
「あ、アスカ」
「まだ覚えてるのか」
「覚えるというより確認かな」
そう言って地図を見せる。
「中央が団長。情報が伝達された後、進路変更は緑煙弾。奇行種は黒煙弾。通常種は赤煙弾」
「全部頭に入ってるのか」
「一応」
苦笑するアルミン。
訓練兵団の頃から変わらない。
いや。
少し変わったかもしれない。
声に迷いが減った。
自信が付いたのだろう。
トロスト区での戦いを経て。
「お前も怖いな」
「え?」
「そういうの全部覚えてる辺り」
アルミンは少し笑った。
「怖いのは壁外の方だよ」
その言葉に嘘は無かった。
誰も笑わない。
全員が同じ事を思っている。
壁外。
人類が支配出来ていない世界。
巨人の領域。
そして。
第五十七回壁外調査。
もう目前だった。
◇
夕方。
訓練が終わる。
兵士達が本部へ戻り始める中、アスカは一人訓練場へ残っていた。
立体機動装置の調整。
刃の確認。
ガス残量。
やる事はまだある。
ふと視線を上げる。
夕陽に照らされた訓練場の端。
誰かが座っていた。
見覚えがある。
ジャンだった。
膝の上には地図が広げられている。
「何してんだ」
声を掛ける。
ジャンは顔だけ上げた。
「見りゃ分かるだろ」
地図を軽く持ち上げる。
「勉強」
「真面目か」
「うるせぇ」
アスカはその隣へ腰を下ろした。
風が吹く。
夕方の訓練場は静かだった。
昼間の喧騒が嘘みたいに。
「覚えられんのか」
「覚えるんだよ」
ジャンは視線を地図へ戻す。
「壁外で迷ったら死ぬ」
短い言葉だった。
だが重い。
調査兵団の兵士なら誰でも分かる。
壁外にミスは無い。
あるのは生きるか死ぬかだけだ。
「壁外な」
ジャンがぽつりと言う。
「あぁ」
「正直、まだ実感ねぇんだよ」
夕陽が横顔を照らしている。
「明後日には壁の外だろ?」
「そうだな」
「なのに変な感じだ」
苦笑する。
「怖ぇのに実感だけ無ぇんだよ」
アスカは少し考える。
その感覚は分かる。
頭では理解している。
巨人の恐ろしさも。
壁外の危険も。
だが実際に出た事はない。
だから現実味が薄い。
「怖いか」
ジャンが聞く。
「怖い」
アスカは即答した。
ジャンが少し笑う。
「だよな」
一拍。
「お前でも怖いんだな」
「何だと思ってたんだ」
「お前だからな。肝据わってるのかと思った」
「まぁ、人よりはな。でも……」
呆れながら返す。
「巨人は普通に怖い。何考えてるか分かんねぇからな」
「安心した」
「失礼だな」
「褒めてんだよ」
ジャンは笑った。
ほんの少しだけ。
訓練兵団の頃より自然な笑い方だった。
だがその笑みはすぐ消える。
視線が地図へ落ちた。
「……地図見てるとな」
「何だ」
「気付くんだよ」
ジャンは地図の一点を指で叩く。
「マルコならどう考えるかなって」
風が吹く。
アスカは何も言わない。
ジャンも続きを急がない。
「ここは危険だとか。この配置はおかしいとか。そういうのばっか考えてる」
苦笑する。
「もういねぇのにな」
夕陽が傾いていく。
長く伸びた影が二人の足元へ落ちていた。
「でも考えちまうんだよ」
ジャンは地図を見たまま言う。
「アイツなら何て言うかなって」
その声に悲壮感は無い。
ただ事実を語るような声だった。
「だから覚える」
指先が地図を叩く。
「壁外の事も。隊列も。地形も。全部だ」
顔を上げる。
真っ直ぐだった。
「もう俺達しかいねぇんだから」
アスカは小さく息を吐く。
火葬の日。
震えながらも調査兵団を選んだ男がいた。
恐怖は消えていない。
今も怖いのだろう。
それでも進んでいる。
前へ。
「……変わったな」
思わず漏れる。
ジャンが顔をしかめた。
「うるせぇ」
「褒めたんだよ」
「余計なお世話だ」
そう言いながらも少しだけ笑う。
夕陽はゆっくり沈んでいった。
壁外調査まで。
あと二日。
☆☆☆
翌日。
壁外調査前日。
調査兵団本部は朝から慌ただしかった。
荷馬車の点検。
予備馬の確認。
補給物資の整理。
兵士達が忙しなく行き交う。
その中を、アスカは旧本部へ向かっていた。
ハンジから呼び出しを受けていたからだ。
「失礼します」
旧本部の裏口を開く。
「お、来たね」
振り返ったハンジが手を上げた。
その周囲には、
モブリット。
ペトラ。
エルド。
オルオ。
グンタ。
そしてエレン。
見慣れた顔ぶれが揃っている。
「何するんですか」
アスカが尋ねる。
「実験」
ハンジは即答した。
嫌な予感しかしない。
「またですか」
「まただよ」
楽しそうではない。
だが目は真剣だった。
研究者の目。
巨人の秘密へ近付こうとしている人間の目だった。
旧本部裏手の空き地へ出る。
周囲には誰も近付かないよう縄が張られていた。
エレンは中央へ向かう。
兵士達は少し距離を取った。
「昨日までの結果を整理すると」
ハンジが資料を広げる。
「エレンは巨人化出来る時と出来ない時がある」
全員が頷く。
「傷を負っても出来ない事がある」
「意思があっても出来ない事がある」
モブリットが記録用紙を捲る。
「成功例と失敗例に明確な共通点は見当たりません」
「それが問題なんだよね」
ハンジが頭を掻いた。
「条件が分からない」
「巨人化出来る時と出来ない時の違いが不明」
ペトラが腕を組む。
「体調の差ではないんですか?」
「その可能性も考えた」
ハンジは資料を見せた。
「でも休養後に失敗した日もある」
「逆に訓練後に成功した日もある」
「だから断定出来ない」
沈黙。
風が吹く。
エレンは中央で待機したままこちらを見ていた。
「俺はどうすればいいですか?」
「今は待機」
「分かりました」
素直に従う。
最近は流石に慣れたらしい。
ハンジも苦笑した。
「聞き分け良くなったね」
「慣れました」
「それもどうなんだろう」
モブリットが呟く。
誰も否定出来なかった。
しばらく資料を見ていたハンジが顔を上げる。
「例えばだけど」
全員へ視線を向ける。
「エレンの巨人化には複数の条件があるとしたら?」
「複数?」
グンタが眉をひそめる。
「傷だけじゃないって事ですか」
「そう」
ハンジが頷く。
「今までは傷を負えば変身出来ると思っていた」
「でも違うかもしれない」
オルオが腕を組む。
「意思か」
「有力だね」
ハンジは資料を指差した。
「成功例を見返すと、何かしら目的がある時が多い」
エレンも記憶を辿る。
「トロスト区では穴を塞ぐ為でした」
「そう」
ハンジが嬉しそうに頷く。
「それだ」
「目的」
「意思」
モブリットが書き留める。
「傷だけではなく、明確な目的が必要である可能性」
アスカは資料を見る。
確かに筋は通っている。
だが。
「それだけじゃない気がします」
気付けば口にしていた。
ハンジが振り返る。
「何でそう思うの?」
「昨日」
アスカはエレンを見る。
「エレンは目的もあった」
「傷も付けた」
「それでも失敗した」
ハンジが頷く。
「その通り」
「だからもう一つある」
静かになる。
全員がこちらを見る。
「体力です」
アスカは言った。
「最近ずっと実験してるでしょう」
エレンが少し顔をしかめる。
「まぁ……そうだけど」
「疲れてるじゃねぇか」
「そんなに疲れてない」
「疲れてる奴はみんなそう言う」
即答だった。
ペトラが吹き出す。
グンタも笑いを堪えている。
「何だよその理論」
エレンが不満そうに言う。
「地下街調べです」
「信用出来ねぇな」
思わず笑いが広がった。
だが。
ハンジだけは真面目な顔をしていた。
「傷」
指を一本立てる。
「意思」
二本目。
「体力」
三本目。
考える。
資料を見る。
モブリットも記録を見返している。
やがて。
「……あり得る」
ハンジが呟いた。
その声に全員の視線が集まる。
「確かに成功した日のエレンは比較的消耗していない」
「失敗例は実験を重ねた後が多い」
モブリットも頷いた。
「傾向としては一致します」
ハンジの目が輝く。
何かを見つけた時の顔だった。
「よし」
勢いよく資料を閉じる。
「今日はここまで!」
「え?」
エレンが固まる。
「今日は試さないんですか?」
「試さない」
ハンジは断言した。
「もし体力が条件なら、今試しても意味が無い」
「十分休養してから試す」
エレンは少し考える。
納得したらしい。
「分かりました」
そう言って頷いた。
その素直さにアスカは少し驚く。
もっと反論すると思っていた。
「意外ですね」
「何が?」
「すぐ試したがるかと思いました」
エレンは首を傾げた。
「結果が出ないなら意味ないだろ」
当然のように言う。
その言葉に嘘は無い。
巨人化したい訳じゃない。
必要だからやっているだけ。
それがエレンだった。
その時だった。
エレンは何気なく右手を見た。
そして。
無意識のように口元へ運ぶ。
「おい」
アスカが声を掛ける。
エレンが止まる。
「何だ?」
「何で噛もうとした」
「え?」
本気で分かっていない顔だった。
「いや……癖で」
その返答に。
ペトラが目を瞬かせる。
エルドが黙る。
グンタも苦笑した。
「癖?」
「はい」
エレンは自分の手を見る。
「気付かなかったです」
アスカは思わず息を吐いた。
やっぱりだ。
躊躇が無い。
必要なら傷付ける。
それが当たり前になっている。
本人は気付いていない。
それが少しだけ怖かった。
だが。
同時に。
だからこそエレンなのだとも思った。
旧本部から本部へ戻る途中。
エレンは前を歩いていた。
その隣をハンジが歩く。
何か思い付いたのか、早速新しい仮説を話し始めている。
「もし意思が重要なら、目的の大小も関係あるかもしれない」
「目的の大小ですか?」
「うん。例えば”あの石を動かしたい”と”巨人を倒したい”じゃ強さが違うだろう?」
「それは……そうかもしれません」
「いや違うかな。むしろ明確さか?」
「ハンジさん、歩きながら考えないでください」
「考えるよ」
「考えてますね」
エレンが苦笑する。
その様子を少し後ろから見ながら、アスカは歩いていた。
隣にはモブリット。
さらに後ろではリヴァイ班が話している。
穏やかな時間だった。
壁外調査前とは思えないほど。
「何考えてるんですか」
モブリットが聞いてくる。
「別に」
「別に、という顔じゃありませんね」
見透かされていた。
アスカは少しだけ肩を竦める。
「エレンの事です」
「あぁ」
モブリットが頷く。
「危なっかしいと思いました?」
「思いました」
即答だった。
「手を噛むのもそうですけど」
一拍。
「自分を傷付ける事に抵抗が無い」
モブリットは少し考える。
「確かにそう見えるかもしれません」
「違うんですか」
「いえ」
苦笑した。
「僕も最初はそう思いました」
予想外の答えだった。
「ただ」
モブリットは前を歩くエレンを見る。
「エレンは自分の命を軽く見ている訳じゃありません」
「分かってます」
それはアスカも理解していた。
死にたい人間の目じゃない。
むしろ逆だ。
誰よりも生きようとしている。
「だから余計に危ないんです」
アスカは呟く。
「必要だと思ったら止まらない」
モブリットは否定しなかった。
沈黙が落ちる。
前方ではハンジがまだ話していた。
「それとも疲労じゃなくて回復力かな?」
「分かりません」
「でも面白い」
「面白いんですか……」
「面白い」
エレンが苦笑する。
モブリットが額を押さえた。
「ハンジさんは昔からああなんです」
「でしょうね」
少しだけ笑う。
気付けば本部が見えていた。
兵士達が慌ただしく行き来している。
荷馬車。
物資。
予備の馬。
全てが明日の為だった。
◇
夕方。
本部の空気はいつもより慌ただしい。
壁外調査前日。
誰もが準備に追われていた。
アスカも立体機動装置の最終点検を終え、油で汚れた手を布で拭く。
刃よし。
ガスよし。
ワイヤーよし。
問題は無い。
「終わった?」
聞き慣れた声だった。
振り返ると二ファがいた。
「はい」
「不具合は?」
「今のところ見当たらないです」
「今のところなんだ」
二ファが笑う。
アスカも肩を竦めた。
「まぁ、壊れてたら明日分かりますよ」
「それは嫌だなぁ」
近くへ腰を下ろす二ファ。
夕陽が建物の壁を赤く染めていた。
「緊張してる?」
二ファが聞く。
「……してないと言えば嘘になります」
正直に答える。
「二ファさんは」
「してる」
迷いの無い返答だった。
「慣れないんですか」
「全然」
即答する。
「毎回怖いよ」
その言葉に強がりは無かった。
アスカは少し意外に思う。
ニコニコしている事が多い。
だから勝手に平気なのだと思っていた。
「意外ですね」
「よく言われる」
二ファが苦笑する。
「でも怖いものは怖いからね」
一拍。
「壁外は巨人がいるし」
「死ぬかもしれないし」
「仲間も死ぬかもしれない」
静かな声だった。
現実を知っている声。
だからこそ。
言葉に重みがある。
「じゃあ何で行くんですか」
気付けば聞いていた。
二ファは少しだけ考える。
そして兵士達へ視線を向けた。
「一人じゃないからかな」
「一人じゃない?」
「うん」
荷馬車を押しているケイジ。
資材を運ぶアーベル。
書類を抱えたモブリット。
忙しそうに走る兵士達。
皆同じ方向を見ていた。
「怖いのは皆同じ」
二ファは言う。
「だから支え合うんだと思う」
アスカは黙る。
仲間。
その言葉はまだ慣れない。
地下街では聞かなかった言葉だから。
「二ファー!」
遠くから声が飛ぶ。
ケイジだった。
「何ですかー!」
「荷馬車運ぶの手伝えー!」
「今行きます!」
二ファが立ち上がる。
そしてアスカを振り返った。
「後で食堂ね」
「食堂?」
「歓迎会」
嫌な予感がした。
「今更ですか」
「今更だよ」
二ファは笑う。
「逃げないでね」
そう言い残して走っていった。
アスカはしばらくその背中を見送っていた。
☆☆☆
夜。
本部食堂。
夕食時を少し過ぎた食堂は静かだった。
壁際の席には数人の兵士がいるだけ。
明日に備えて早めに休む者も多いのだろう。
アスカが扉を開けると、すぐに声が飛んできた。
「遅い」
ケイジだった。
既に席に着いている。
その隣にはアーベル。
向かいには二ファ。
モブリット。
そしてハンジ。
全員揃っていた。
「呼ばれた時間通りです」
「調査兵団は五分前行動だ」
「初耳ですね」
「今決めた」
「でしょうね」
ケイジが笑う。
アーベルも肩を揺らしていた。
「座れ」
「はい」
空いている席へ腰を下ろす。
目の前にはパン。
スープ。
干し肉。
豪華ではない。
だが調査兵団らしい食事だった。
「それじゃ」
ハンジが木製のカップを持ち上げる。
全員の視線が集まる。
「アスカの歓迎と」
一拍。
「明日の無事を祈って」
その言葉に誰も茶化さない。
調査兵団だからだ。
無事を祈る意味を知っている。
「乾杯」
「乾杯」
木のカップが軽く触れ合った。
小さな音が響く。
歓迎会はそれで終わりだった。
派手な挨拶も無い。
演説も無い。
後は普通に飯を食うだけだ。
「雑ですね」
思わず漏れる。
「調査兵団だからな」
ケイジがスープを飲みながら答えた。
「歓迎会に予算なんて出ねぇよ」
「出ても困ります」
モブリットが真顔で言う。
「ただでさえ資金不足なんですから」
「夢が無いですね」
「現実です」
即答だった。
ハンジが苦笑する。
「まぁ気持ちの問題だよ」
「そういう事にしときます」
しばらく食事が続く。
穏やかな時間だった。
やがて。
「そういえば」
二ファが顔を上げた。
「地下街ってどんな所なの?」
話題が変わる。
アスカはスープを飲みながら答えた。
「汚いです」
「それは知ってる」
「危ないです」
「それも知ってる」
「以上です」
「絶対他にもあるよね?」
二ファが笑う。
アーベルも頷いた。
「地下街出身は珍しいからな」
「聞いた事はあっても見た事は無い」
「行かない方がいいですよ」
アスカは即答した。
「何でだ?」
ケイジが聞く。
「財布が消えます」
「治安終わってるな」
「俺も昔はやってました」
「お前もか」
ケイジが呆れる。
だが本気で責める様子は無い。
地下街だ。
生きる為に必要だったのだろう。
そう理解している顔だった。
「じゃあ何で地上に出たの?」
二ファが尋ねる。
アスカは少し考える。
「たまたまです」
「たまたま?」
「気付いたらここにいました」
「説明になってないな」
アーベルが笑う。
アスカも肩を竦めた。
実際そうなのだから仕方ない。
「まぁでも」
ケイジがパンを齧る。
「お前は調査兵団向きだと思うぞ」
「どこがですか」
「図太い」
即答だった。
「褒めてます?」
「褒めてる」
ケイジが頷く。
アーベルも続く。
「肝も据わってる」
「判断も早い」
「勘もいい」
アスカは少し眉をひそめた。
「買い被りです」
「そうか?」
ケイジが笑う。
「壁外出たら分かる」
その言葉に自然と食堂が静かになる。
壁外。
明日にはそこへ向かう。
誰もが理解していた。
明日が来る事を当然だとは思っていない。
だからこそ。
今この時間を大事にしている。
「怖い?」
二ファが聞いた。
昼間と同じ質問だった。
アスカは少し考える。
そして答えた。
「怖いです」
隠す意味は無い。
ケイジも頷いた。
「そうだろうな」
「皆そうだ」
アーベルが言う。
「俺も初陣の前は眠れなかった」
「今は?」
「今も眠れない時はある」
笑いが起きる。
だが誰も馬鹿にしない。
それが普通だからだ。
巨人を前にして平気な兵士などいない。
「安心しました」
アスカが言う。
「何が?」
ケイジが聞く。
「調査兵団にもまともな人がいた」
「誰がまともだ」
「今の話をした人達です」
「ハンジさんは?」
ケイジが聞く。
全員の視線がハンジへ向いた。
「何でそこで私を見るのかな」
「何ででしょうね」
モブリットが遠い目をする。
食堂に笑いが広がった。
ハンジも苦笑している。
騒がしい訳じゃない。
ただ。
心地良い空気だった。
地下街には無かった。
訓練兵団でも少し違う。
調査兵団の空気。
死を知りながら。
それでも前を向く人達の空気だった。
歓迎会は思ったより長く続いた。
誰かが話題を出し。
誰かが笑い。
また別の話題へ移る。
特別な事は何も無い。
だが不思議と退屈しなかった。
「そういえば」
アーベルが思い出したように言う。
「104期とは今もよく話すのか」
「まぁ」
アスカは頷いた。
「ジャンとかコニーとかサシャとか」
「ライナー達も?」
二ファが聞く。
「あいつらも」
するとケイジが少し笑う。
「仲良かったんだな」
「普通です」
「その普通が分からん」
ケイジが肩を竦めた。
「調査兵団は人が減るからな」
その言葉に一瞬だけ静かになる。
誰も否定しない。
出来ない。
それが事実だからだ。
アーベルがカップを傾けながら言う。
「同期が全員残ってる時期なんて短い」
「初陣を越えたら尚更だ」
アスカは黙る。
それは理解していた。
訓練兵団じゃない。
調査兵団だ。
壁外へ出れば死者は出る。
それが現実だった。
「だからな」
ケイジが続ける。
「会える時に話しとけ」
アスカが顔を上げる。
「意外と次があるとは限らねぇ」
冗談ではない。
だからこそ軽い口調だった。
重く言えば本当になってしまいそうだから。
「覚えときます」
静かに答える。
ケイジは満足そうに頷いた。
その時だった。
「モブリット」
ハンジがふと思い出したように声を掛ける。
「何ですか」
「明日の予備記録用紙どれくらい持っていく?」
「箱ごとです」
「そんなに?」
「ハンジさんがいるので」
即答だった。
食堂に笑いが広がる。
「ひどくない?」
「事実です」
「僕は何度も足りなくなった経験があります」
「信用が無いなぁ」
ハンジが苦笑する。
モブリットは真顔だった。
「信用はあります」
「あります?」
「記録用紙が足りなくなる信用です」
今度はアーベルまで吹き出した。
「否定になってねぇぞ」
「否定してませんから」
モブリットが平然と答える。
アスカも思わず笑った。
こんな風に笑ったのはいつ以来だろう。
地下街ではまず無かった。
誰かと飯を食いながら笑うなんて。
そんな余裕は無かった。
ふと。
二ファがこちらを見る。
「どうしたの?」
「いや」
アスカは首を振った。
「何でもないです」
「そう?」
「はい」
それ以上は聞いてこない。
その距離感も心地良かった。
やがて食事は終わる。
カップも空になる。
兵士達も少しずつ席を立ち始めていた。
「じゃあ解散かな」
ハンジが立ち上がる。
「明日は早い」
全員が頷く。
壁外調査当日。
出発は日の出と同時だ。
「寝坊するなよ」
ケイジが言う。
「子供じゃないんで」
「怪しいな」
「失礼ですね」
アスカが返すと、アーベルが笑った。
「まぁよろしくな」
不意の言葉だった。
アスカは少し目を瞬かせる。
「よろしく?」
「壁外調査は違うが、俺達は同じ班員だろ」
アーベルが言う。
「今更だがな」
「今更ですね」
「今更だ」
ケイジも頷く。
「壁外じゃ調査兵団全員で背中預けるんだ。死ぬなよ」
二ファも微笑む。
「無理し過ぎないでね」
モブリットが眼鏡を押し上げた。
「問題だけは起こさないでください」
「善処します」
「善処じゃ困るんですが」
即座に返される。
最後にハンジが笑った。
「期待してるよ」
その言葉に。
アスカは少しだけ黙った。
地下街には無かった。
訓練兵団とも少し違う。
見返りを求められていない言葉。
仲間として向けられる言葉。
少しだけ居心地が悪い。
だが。
嫌ではなかった。
「……どうも」
それだけ返す。
するとケイジが吹き出した。
「照れてるな」
「照れてません」
「照れてる」
「照れてません」
否定しながら席を立つ。
後ろから笑い声が聞こえた。
振り返らない。
振り返ったら本当に照れているみたいだったから。
食堂を出る。
夜風が頬を撫でた。
本部は静かだった。
遠くで馬が鼻を鳴らす。
見上げれば月。
明日は壁外。
誰も知らない場所へ向かう。
人類の領域の外へ。
アスカは静かに息を吐いた。
そして、一人本部の中庭へ足を向けた。
☆☆☆
◇
本部の中庭は静かだった。
食堂の灯りもここまでは届かない。
夜風だけが木々を揺らしている。
アスカは石造りの柵へ腰を預けた。
空を見上げる。
雲は無い。
明日の天気は良さそうだった。
「……」
眠くない。
歓迎会の余韻もある。
だが、それだけではなかった。
考える事が多過ぎる。
壁外。
長距離索敵陣形。
右翼前方索敵。
敵。
巨人。
様々な言葉が頭を巡る。
ふと。
火葬の日の光景が浮かんだ。
煙。
炎。
焦げた臭い。
並んだ遺体。
そして。
マルコ。
アスカは目を閉じる。
あの日から引っ掛かっている事があった。
立体機動装置。
マルコの死体には付いていなかった。
何故だ。
何度考えても違和感が消えない。
装置の故障?
あり得る。
だが。
それだけで説明出来るだろうか。
マルコは成績上位者だ。
状況判断も優れていた。
立体機動装置を失えばどうなるか理解している。
一人で外すとは思えない。
「……」
誰かが外した?
巨人に食わせる為に?
何故。
何の為に。
そこまで考えて。
思考が止まる。
分からない。
証拠も無い。
根拠も無い。
ただ違和感だけが残る。
ソニーとビーンの時と同じだった。
確証は無い。
それでも何かがおかしい。
理屈ではなく感覚がそう告げている。
「嫌な感じだな」
小さく呟く。
夜風が言葉を攫っていく。
地下街で生きていた頃。
最後に頼れるのは勘だった。
情報も。
金も。
力も。
全部足りない時。
最後に自分を生かすのは違和感だった。
だから覚えている。
嫌な予感ほど当たる。
そして今。
その感覚が消えない。
壁外調査。
エレン。
裏切り者。
全部どこかで繋がっている気がする。
だが。
肝心な部分が見えない。
「……考えても仕方ないか」
息を吐く。
分からないものは分からない。
今は。
明日に備えるべきだ。
その時だった。
視界の端に人影が見えた。
「まだ起きてたのか」
聞き慣れた声。
振り返る。
エレンだった。
訓練着のまま。
髪も少し乱れている。
「お前こそ」
アスカが返す。
「寝ろよ」
「眠れねぇんだよ」
エレンは苦笑した。
近くまで歩いてくる。
そして同じように柵へ背を預けた。
しばらく沈黙。
夜風だけが吹く。
「壁外か」
エレンが空を見上げる。
「あぁ」
「やっとだな」
その言葉にアスカは横目で見る。
やっと。
確かにエレンらしい。
怖いだろうに、それでも前を向いている。
「怖くないのか」
聞いてみる。
エレンは少し考えた。
「怖いよ」
答えはすぐだった。
「普通に怖い」
アスカは少し意外に思う。
「意外だな」
「何でだよ」
エレンが笑う。
「俺だって巨人は嫌いだし、食われるのも嫌だ。死ぬのだって御免だ。でも行く。行かない理由が無いからな」
夜空を見上げ続ける。
その声に迷いは無かった。
アスカは少し黙る。
十五歳の少年。
だが、その背中は妙に大きく見えた。
「お前はどうなんだ」
エレンが聞く。
「怖い」
アスカは即答する。
「そうか」
エレンは小さく笑った。
「まぁ、そうだよな」
しばらく二人は黙って夜空を見上げた。
風が吹く。
木々が揺れる。
不思議と居心地は悪くなかった。
訓練兵団の頃よりも。
少しだけ。
気を遣わなくなった気がする。
同期だからかもしれない。
調査兵団だからかもしれない。
「そろそろ寝るか」
エレンが言う。
「あぁ」
二人は立ち上がった。
明日は早い。
第五十七回壁外調査。
人類の領域の外へ出る日だ。
建物へ入る直前、エレンが振り返る。
「生き残ろうな」
短い言葉だった。
だが十分だった。
「当たり前だ」
アスカが答える。
エレンは少し笑う。
「だよな」
そう言って建物の中へ消えていった。
残された夜風が静かに吹く。
アスカはもう一度空を見上げた。
月は高い。
夜は深い。
だが。
東の空の向こうには、もう明日が待っていた。