夜明け前の空気は冷たかった。
吐いた息が白くなる。
調査兵団本部の中庭には既に多くの兵士が集まっていた。
馬の鼻息。
装備の金属音。
交わされる短い会話。
誰もが出発準備に追われている。
第五十七回壁外調査。
調査兵団に入団してから初めての壁外だった。
アスカは馬具を確認する。
締め具合。
革紐。
鐙。
問題ない。
予備馬も落ち着いている。
視線を横へ向ける。
ハンジ班の面々もそれぞれ準備を進めていた。
ケイジは黙々と装備を確認し、アーベルは馬の脚を見ている。
ニファはいつも通り明るく誰かと話していた。
その様子を見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。
自分だけじゃない。
皆ここにいる。
そう思えた。
「眠れたか?」
声を掛けてきたのはケイジだった。
「それなりに」
「なら十分だ」
短い返事。
だが嫌な感じはしない。
「緊張してるか」
「まぁ」
否定はしない。
する理由もない。
壁外だ。
恐怖が無い訳がない。
ケイジは少しだけ笑った。
「最初は皆そんなもんだ」
「ケイジさんもですか」
「当たり前だ」
即答だった。
アスカは少し意外に思う。
ケイジは調査兵団の古参だ。
何度も壁外へ出ている。
そんな人間ですら恐怖を感じるのか。
「怖いと人間は視野が狭くなる。だから逆だ。周囲を見る。地形を見る。味方を見る。考える。そうしてる内に少しは落ち着く」
ケイジは手綱を軽く引いた。
「地下街でも似たような事してただろ」
思わず笑う。
確かにそうだった。
危険な場所。
逃げ道。
怪しい人間。
周囲を見なければ生き残れない。
だから自然と身に付いた。
「覚えておきます」
「おう」
その時だった。
鐘の音が響く。
集合の合図。
兵士達が一斉に動き始める。
「行くぞ」
「はい」
アスカは馬へ跨った。
巨大な門の前。
調査兵団は既に整列を終えていた。
朝日が壁の上を照らし始めている。
静かだった。
誰も騒がない。
皆前を見ている。
「団長、まもなくです。壁付近の巨人はあらかた遠ざけました! 開門三十秒前!」
駐屯兵が報告する。
エルヴィンは静かに頷いた。
空気が変わる。
緊張。
期待。
不安。
様々な感情が混ざり合っていた。
アスカは周囲を見渡す。
104期の姿もあった。
ジャン。
コニー。
サシャ。
ライナー。
ベルトルト。
クリスタ。
ユミル。
アルミン。
ミカサ。
そしてエレン。
だがエレンは同期達の中にはいない。
左奥。
リヴァイ班の中心にいた。
リヴァイ。
ペトラ。
エルド。
グンタ。
オルオ。
彼らに囲まれている。
当然だった。
今のエレンは人類の切り札だ。
「諸君!」
馬上から声が響く。
ダリウスだった。
兵士達の視線が集まる。
「これより人類は再び前進する! お前達の訓練の成果を見せてくれ!」
「「「「「おおおおおっ!!」」」」」
雄叫びが上がる。
アスカは右手を上げるだけだった。
叫びはしない。
だが胸の奥は熱い。
それで十分だった。
その時。
前へ進み出た男がいる。
エルヴィン・スミス。
調査兵団団長。
誰も喋らない。
ただ耳を傾ける。
「諸君。本日の壁外調査において犠牲者は出るだろう。だが我々が歩みを止めれば人類に未来は無い」
朝日が昇る。
エルヴィンの背を照らす。
「胸を張れ。顔を上げろ。諸君らの命には意味がある」
誰も目を逸らさない。
そして。
エルヴィンは拳を胸へ当てた。
「これが本物の敬礼だ!! 心臓を捧げよ!!」
「「「「「心臓を捧げよ!!」」」」」
轟くような声が響いた。
アスカも拳を胸へ当てる。
心臓の鼓動が速い。
恐怖か。
興奮か。
自分でも分からなかった。
だが。
確かにここにいる。
調査兵団の一員として。
その時。
「開門始め!」
駐屯兵の号令が響く。
鎖が軋む音。
巨大な門がゆっくりと持ち上がっていく。
隙間から朝の風が吹き込んできた。
冷たい。
だが不思議と嫌ではない。
門が上がる。
さらに上がる。
やがて馬が通れる高さになる。
「進めーッ!!」
エルヴィンの号令が轟いた。
先頭の馬が駆け出す。
エルヴィンだ。
蹄が石畳を叩く。
続いてミケ。
さらに兵士達。
「第57回壁外調査を開始する!! 前進せよーッ!!」
自由の翼が翻る。
調査兵団は壁の外へ飛び出した。
☆☆☆
旧市街地へ飛び込む。
放棄された建物が並んでいた。
崩れた壁。
割れた窓。
人の気配は無い。
かつて誰かが暮らしていた場所。
だが今は違う。
巨人の領域だった。
馬群は止まらない。
速度を維持したまま石畳を駆け抜ける。
建物の間を風が吹き抜けた。
その時。
「右前方!」
怒号が響く。
反射的に視線を向ける。
巨人。
二体。
建物の陰から姿を現した。
だが隊列は乱れない。
「処理する!」
援護班が飛んだ。
ワイヤー射出。
ガス噴射。
兵士達が一気に加速する。
巨人の頭上を越え、うなじへ回り込む。
鋼刃が閃いた。
蒸気。
巨体が崩れる。
もう一体も同じだった。
数秒。
それだけで終わる。
アスカは思わず目を細めた。
速い。
訓練兵団の教官達とも違う。
104期の上位陣とも違う。
無駄が無い。
長年戦い続けた兵士達の動きだった。
「隊列を死守しろ!」
援護班員の怒号が響く。
調査兵団は前進を続ける。
立体機動装置を使う者はいない。
馬を走らせる。
ただそれだけだ。
巨人を倒す事ではなく。
陣形を維持する事。
それが今の最優先だった。
旧市街地は思ったより短かった。
建物が減る。
視界が広がる。
そして。
最後の一角を抜けた瞬間だった。
「……」
アスカは息を呑んだ。
広い。
ただ広かった。
草原。
丘陵。
森。
空。
どこまでも続いている。
壁の中とは違う。
地下街とはもっと違う。
遮る物が何も無かった。
風が吹く。
草が波のように揺れる。
遠くで鳥が飛んでいる。
それだけなのに。
目を離せなかった。
壁は後方にある。
振り返れば見える。
だが。
以前ほど大きくは感じない。
世界が広過ぎるからだ。
「これが……壁外か」
誰に聞かせる訳でもなく呟く。
馬は走り続ける。
しばらくの間。
調査兵団はそのまま隊列を維持して進んだ。
誰も無駄話はしない。
ただ前を見ている。
やがて。
先頭を走るエルヴィンが左腕を横へ伸ばした。
合図。
全兵士が理解する。
「長距離索敵陣形、展開!!」
号令が響いた。
隊列が変化する。
中央。
左右。
前列。
後列。
兵士達がそれぞれの持ち場へ散っていく。
巨大な陣形が草原へ広がった。
アスカも手綱を引く。
進路を変える。
右翼初列。
自分の配置だ。
最外周ではない。
だが本隊からは遠い。
右翼最外周班がさらに外側へ広がっていく。
四人一組。
横撃への対応を担う兵士達だ。
その内側。
アスカは単独で走る。
後ろには予備馬。
生存者の回収や馬を失った兵士のために用意された馬だ。
しばらく走る。
気付けば。
本隊はかなり遠くなっていた。
中央三列。
エルヴィンの姿は小さい。
さらに後方。
エレンのいる中央後列も豆粒のようだった。
遠い。
本当に遠い。
何かあってもすぐ助けは来ない。
胸の奥がざわつく。
恐怖。
それは消えない。
だが。
アスカは周囲へ目を向けた。
右。
左。
前方。
後方。
丘。
木々。
草原。
視界を確認する。
地形を把握する。
逃げ道を考える。
味方の位置を見る。
ケイジの言葉を思い出した。
怖い時ほど周囲を見る。
その通りだった。
考えている方が落ち着く。
何も考えず恐怖に呑まれるよりずっと良い。
風が吹く。
馬が走る。
壁外は静かだった。
巨人もいない。
空だけが広い。
時間の感覚が曖昧になる。
十分か。
三十分か。
それとも一時間か。
分からない。
だが。
少しずつ壁外の空気に慣れてきている自分がいた。
恐怖はある。
それでも視線は止まらない。
観察する。
考える。
理解する。
地下街で生きる時もそうだった。
訓練兵団でもそうだった。
環境が変わる度に周囲を見て。
状況を理解して。
生き残る方法を探してきた。
だから今回も同じだ。
壁外だからといって変わらない。
その時だった。
遠く。
右翼最外周で赤煙弾が上がる。
巨人発見。
反射的に目を向ける。
赤い煙は高く空へ伸びていた。
そして。
少し後方で同じ色の煙が上がる。
情報が伝達されている。
訓練通りだった。
長距離索敵陣形は機能している。
アスカは小さく息を吐いた。
問題ない。
今のところは。
全て順調だった。
赤煙弾はやがて見えなくなった。
発見された巨人は進路から外れたのだろう。
本隊が進路を変える様子もない。
大きな問題ではなかったらしい。
アスカは再び周囲へ意識を向ける。
草原。
丘。
木々。
風向き。
地形。
異常なし。
馬も落ち着いている。
予備馬も問題ない。
そのまま索敵を続けた。
壁外は静かだった。
風が吹く。
草が揺れる。
蹄が大地を叩く。
その繰り返し。
恐怖は消えていない。
だが最初ほどではない。
やるべき事が分かっているからだ。
周囲を見る。
地形を見る。
味方を見る。
考える。
気付けば自然とそうしていた。
その時。
遠くで馬が嘶いた。
鋭い鳴き声。
反射的に顔を向ける。
右翼最外周。
かなり遠い。
だが見えた。
巨人だ。
二体。
最外周班の進路上にいる。
班も気付いていた。
隊形を変える。
回避するつもりらしい。
判断は正しい。
だが。
一体が進路を変えた。
班を追うように。
「奇行種か」
アスカは目を細める。
距離が縮まる。
班も速度を上げる。
だが速い。
異様なほどに。
一人の兵士が立体機動装置を起動した。
ワイヤー射出。
加速。
うなじへ向かう。
悪くない動きだった。
だが。
奇行種が振り返る。
そして腕を伸ばした。
「っ!」
兵士が回避する。
紙一重。
避け切った。
そう見えた。
しかし。
巨人の指先が足首を掴む。
勢いが止まる。
身体が大きく振られた。
ワイヤーが外れる。
兵士が空中でもがく。
次の瞬間。
奇行種はその身体を口へ運んだ。
絶叫。
開かれる口。
閉じられる顎。
嫌な音が風に混じった。
アスカは目を逸らさない。
トロスト区で何度も見た。
巨人は人を喰う。
知っている。
知っているからこそ見届ける。
その直後だった。
別の班員が飛ぶ。
低い軌道。
最短距離。
うなじへ回り込む。
鋼刃が振り抜かれた。
蒸気。
奇行種の身体が崩れる。
さらにもう一人。
残る一体も討伐。
連携は鮮やかだった。
さすが最外周を任される兵士達だ。
生き残った班員はすぐ馬へ戻る。
隊列が再編される。
数十秒後には何事も無かったように走り始めていた。
止まれない。
壁外だからだ。
アスカは小さく息を吐く。
死んだ兵士の顔は見えなかった。
名前も知らない。
それでも。
あの班員達は知っているはずだ。
同じ班だったかもしれない。
訓練を共にした仲間かもしれない。
壁外を何度も生き延びた戦友かもしれない。
それでも前へ進む。
そうしなければ全員死ぬ。
調査兵団とはそういう組織だった。
風が吹く。
草が揺れる。
そして隊列は再び静寂を取り戻した。
だからこそ。
その後に訪れる異変が際立った。
遠く。
右翼後方で赤煙弾が上がる。
一発。
巨人発見。
それ自体は珍しくない。
だが。
続いてもう一発。
さらに一発。
短時間で立て続けに上がる。
アスカは眉をひそめた。
多い。
少しではない。
明らかに多かった。
☆☆☆
赤煙弾は止まらなかった。
一発。
また一発。
さらに一発。
右翼後方の空へ赤い煙が立ち上る。
アスカは目を細めた。
多い。
巨人の発見報告そのものは珍しくない。
長距離索敵陣形はそのために存在している。
だが。
短時間で上がる数としては明らかに異常だった。
しかも妙だ。
最初は右翼後方。
かなり離れた位置だった。
それが。
少し前。
さらに前。
また前。
報告地点が移動している。
まるで何かが右翼を縦断しているようだった。
「……何だ?」
答えは出ない。
巨人の群れか。
あり得る。
だが引っ掛かった。
速度だ。
報告の移動速度が速過ぎる。
最外周班。
その内側。
さらにその内側。
接触が連続している。
そう考えるしかない。
風が吹く。
草原が波打つ。
アスカは無意識に手綱を握り直した。
胸の奥がざわつく。
地下街で何度も感じた感覚だった。
理由は分からない。
だが無視してはいけない。
そんな予感。
その時だった。
また赤煙弾。
さらに赤煙弾。
今度は近い。
さっきまでより明らかに。
右翼全体が騒がしくなり始めていた。
周囲の兵士達も気付いている。
何人かが後方へ顔を向けていた。
馬も落ち着かない。
耳を伏せる。
鼻を鳴らす。
空気が変わり始めていた。
その時。
遠くの地平線で何かが跳ねた。
巨体。
だが速い。
異様なほどに。
アスカは目を凝らす。
まだ遠い。
輪郭しか見えない。
それでも普通ではない事だけは分かった。
走っている。
巨人が。
まるで人間みたいに。
無駄なく。
一直線に。
その後方。
さらに左右。
無数の巨人達が走っていた。
通常種。
奇行種。
種類は違う。
本来なら動きも違うはずだ。
だが今は違う。
皆同じ方向へ進んでいる。
何かに引き寄せられるように。
「何だよ……あれ」
思わず呟く。
理解出来ない。
そんな光景は見た事がなかった。
そして。
先頭を走る巨体との距離が縮まる。
少しずつ。
少しずつ。
輪郭が鮮明になる。
腕。
脚。
胴体。
細い。
異様なほど。
筋肉が浮き出た身体。
長い髪。
人間に近い体型。
「……女?」
思わず声が漏れた。
見た事がない。
知っている巨人のどれにも当てはまらない。
通常種ではない。
奇行種でもない。
異質だった。
それなのに。
妙な説得力がある。
走り方。
視線。
身体の使い方。
全てに目的があるように見えた。
だからこそ恐ろしい。
何が目的だ。
何を探している。
何を狙っている。
何一つ分からない。
得体の知れないものがこちらへ向かって来る。
その事実だけで十分だった。
恐怖が背筋を這う。
だが目は逸らさない。
見る。
考える。
理解する。
生き残るために。
その時。
女型の巨人が速度を上げた。
「っ……!」
アスカの目が見開かれる。
速い。
今まででも十分異常だった。
だが違う。
さらに速い。
巨人達を置き去りにしながら駆けている。
獲物を見付けた肉食獣みたいに。
一直線に。
迷いなく。
右翼へ向かって。
そしてアスカは気付く。
あれは偶然ではない。
進路が重なった訳でもない。
女型の巨人は。
確実にこちらの方面へ向かって来ていた。
喉が乾く。
鼓動が速い。
だが思考は止まらない。
右翼を目指している。
理由は分からない。
だが目的はある。
そうとしか思えない。
次の瞬間。
遠くで赤煙弾が上がった。
一発。
また一発。
そして途切れる。
消えた。
接触したのだ。
女型が。
また誰かと。
アスカは唇を噛む。
知らない兵士かもしれない。
名前も知らない。
だが。
誰かの仲間だ。
誰かの戦友だ。
それでも女型は止まらない。
蒸気を纏いながら。
草原を裂きながら。
真っ直ぐこちらへ迫って来る。
その姿から目が離せなかった。
喉が乾く。
鼓動が速い。
だが思考は止まらない。
右翼を目指している。
理由は分からない。
だが目的はある。
そうとしか思えなかった。
次の瞬間。
遠くで赤煙弾が上がった。
一発。
また一発。
そして途切れる。
消えた。
接触したのだ。
女型が。
また誰かと。
アスカは唇を噛む。
知らない兵士かもしれない。
名前も知らない。
だが。
誰かの仲間だ。
誰かの戦友だ。
それでも女型は止まらない。
蒸気を纏いながら。
草原を裂きながら。
真っ直ぐこちらへ迫って来る。
その姿から目を離せなかった。
得体の知れない存在。
理解出来ない脅威。
それが今。
確実に自分達へ近付いている。
風が吹く。
草が揺れる。
馬が不安げに鼻を鳴らした。
アスカは静かに手綱を握り直す。
目を逸らさない。
恐怖からも。
女型からも。
生き残るために。
理解するために。
その巨人を見続けた。