馬が荒い息を吐く。
兵士達の顔にも疲労が色濃く浮かんでいた。
第五十七回壁外調査。
その帰路。
調査兵団は壁を目指して進んでいたが、馬の消耗は激しく、一時休憩の指示が出された。
兵士達が水筒を手に取り、馬へ水を与える。
誰も大きな声を出さない。
会話も少ない。
失ったものが多すぎた。
アスカは水筒の水を一口飲むと、荷馬車へ視線を向けた。
白布。
風に揺れる布の下。
横たわる遺体。
ペトラ。
オルオ。
グンタ。
エルド。
見慣れた顔だった。
昨日までは笑いあっていた。
訓練でも。
食事でも。
任務でも。
偶にハンジさんに連れられて見た光景だ。
それが今は動かない。
白布の下で眠っている。
その周囲にも、多くの遺体が積まれていた。
名前を知っている者。
知らない者。
右翼で死んだ兵士。
女型に踏み潰された兵士。
投げ飛ばされた兵士。
囮になった兵士。
誰も帰れなかった。
胸の奥が重くなる。
視線を逸らす。
その先に一人の男がいた。
リヴァイ。
少し離れた場所。
荷馬車の側面に背を預けて座っている。
右足には包帯が巻かれていた。
誰も近寄らない。
近寄れない。
リヴァイ班は全滅した。
その事実を誰もが知っている。
アスカは迷った。
何か声を掛けるべきなのか。
だが。
何と言えばいい。
慰めの言葉など持っていない。
大丈夫ですか?
違う。
残念でした?
論外だ。
何も思い付かない。
それでも。
足は勝手に動いていた。
「兵長」
リヴァイが顔を上げる。
「あぁ」
短い返事。
それだけ。
沈黙が落ちる。
何か言わなければ。
そう思うのに言葉が出てこない。
結局。
何も言えなかった。
そんなアスカを見ていたのか。
リヴァイが小さく息を吐いた。
「悔いのない方を選べ」
唐突な言葉だった。
アスカは顔を上げる。
「エレンにそう言った」
静かな声。
感情は読み取れない。
「だが、このザマだ」
その一言で十分だった。
ペトラ。
オルオ。
グンタ。
エルド。
誰一人生き残れなかった。
アスカは唇を噛む。
「……すいません」
思わず零れた言葉。
リヴァイの眉が僅かに動く。
「なぜお前が謝る」
「俺がもっと早く女型と交戦出来ていれば……」
言葉が止まらなかった。
「もっと早く追いつけていたら」
「もっと早く合流出来ていたら」
「皆──」
「結果は誰にも分からねぇ」
リヴァイが遮る。
強い口調ではない。
だが否定を許さない声だった。
「お前は最善を尽くした」
アスカは黙る。
女型と戦った。
生き延びた。
エレンを救い出した。
出来ることはやった。
だが。
納得なんて出来るはずがない。
「違うか?」
「……いいえ」
嘘はつけなかった。
リヴァイは少しだけ空を見上げる。
「オルオが言っていたな」
ぽつりと。
「新兵は生きて帰って初めて一人前だと」
アスカは何も言えなかった。
オルオさんらしい。
少し偉そうで。
少し格好つけた言葉。
もう二度と聞けない言葉。
沈黙が落ちる。
風だけが吹いていた。
アスカは拳を握る。
違う。
結果がどうとかじゃない。
なぜ安心していたのだろう。
なぜリヴァイ班なら大丈夫だと思ったのだろう。
敵は。
あの女型だった。
知性を持ち。
人を殺すことに長けた巨人だった。
それを理解していたはずなのに。
どこかで。
皆なら勝てると思っていた。
悔しさが胸を焼く。
後悔が消えない。
「お前は」
リヴァイが立ち上がる。
アスカも顔を上げる。
「仲間達から何を学んだ?」
返答に詰まる。
「いつまでもクヨクヨ悩むことか?」
「……」
「違うだろ」
リヴァイは壁の方向を見る。
その目は真っ直ぐだった。
「死んだ仲間に報いる方法は一つしかない」
短い言葉。
だが重い。
「前に進むことだ」
そして。
「大勢の骸の上を歩いてな」
アスカは息を呑む。
慰めではない。
励ましでもない。
調査兵団の現実だった。
死者を背負いながら進む。
それしか出来ない。
それでも進む。
だから。
「……はい」
絞り出すように答える。
リヴァイは何も言わない。
そのまま背を向けて歩いていく。
アスカはその背中を見つめた。
人類最強。
誰よりも強い男。
だが。
あの背中は少しだけ小さく見えた。
やがて休憩終了の号令が響く。
兵士達が馬へ跨る。
再び壁へ向けて進軍が始まった。
夕陽はさらに傾いている。
壁まではもう少しだ。
その時だった。
後方。
一本の煙が空へ昇る。
赤色。
巨人発見。
「後方より巨人接近!!」
叫び声が響いた。
兵士達が一斉に振り返る。
アスカも視線を向ける。
二体。
草原の向こうから駆けてくる。
距離は近い。
そして。
後列には荷馬車がある。
白布に包まれた仲間達が眠る荷馬車が。
「このままじゃ追いつかれるぞ!」
「速度を上げろ!」
「馬が持ちません!」
焦りが広がる。
誰もが理解していた。
荷馬車は重い。
だから遅い。
だから。
「遺体投棄の準備を──」
その言葉が聞こえた瞬間。
アスカの視線は荷馬車へ向いていた。
白布。
ペトラ。
オルオ。
グンタ。
エルド。
そして。
名前も知らない多くの兵士達。
生きている時は守れなかった。
救えなかった。
なら。
せめて。
せめて遺体だけは。
家族の元へ帰してやりたい。
気付けば身体が動いていた。
「アスカ!?」
誰かが呼ぶ。
だが止まらない。
馬を走らせる。
中列から後列へ。
陣形を逆走するように駆ける
その目は迫り来る二体の巨人だけを見据えていた。
風が頬を叩く。
後列へ。
後列へ。
背後では兵士達の声が聞こえる。
「待て!」
「戻れアスカ!」
止まらない。
止まれるはずがなかった。
視界の先。
二体の巨人が草原を走っている。
四メートル級。
どちらも荷馬車へ向かっていた。
白布が脳裏に浮かぶ。
ペトラ。
オルオ。
グンタ。
エルド。
そして他の兵士達。
生きている時は守れなかった。
だから。
せめて。
せめて帰してやりたい。
アスカは加速した。
巨人との距離が縮まる。
一体目。
右側。
大きく口を開いている。
ワイヤー射出。
狙うのは地面ではない。
巨人の膝裏。
アンカーが突き刺さる。
身体を引く。
急加速。
巨人の横を通り過ぎる。
一閃。
うなじ。
肉が裂ける感触。
蒸気。
巨体が前へ倒れ込む。
討伐。
だが。
着地はしない。
そのまま。
倒れゆく巨体へ再びアンカーを撃ち込む。
脚。
肩。
肉体そのものを支点にする。
反動。
旋回。
速度を殺さない。
「──ッ」
身体が流れる。
二体目へ。
まるで最初からそうするつもりだったかのように。
違う。
考えていたわけじゃない。
身体が勝手に動いた。
女型との戦い。
平原。
立体物の少ない戦場。
あの死地で必死に掴んだ感覚。
生き残るためだけに身についた技術。
それが今。
形になっている。
二体目が腕を振り上げる。
アスカは身体を沈めた。
腕の下を潜る。
回避。
そのまま背後へ。
一閃。
うなじ。
蒸気。
巨体が崩れ落ちる。
討伐。
二体。
僅かな時間だった。
アスカは空中で体勢を立て直す。
後方を見る。
荷馬車は無事。
まだ。
だが。
「まだ来るぞ!!」
叫び声。
赤煙弾。
さらに後方。
三体。
今度は五メートル級が混じっている。
兵士達が息を呑む。
「クソッ……!」
「まだいるのか!」
アスカは視線を向けた。
三体。
十分だ。
足は止まらない。
ガスも残っている。
刃もまだ使える。
飛ぶ。
再び。
巨人へ向かって。
先頭の一体。
真正面から迫ってくる。
アスカはワイヤーを撃つ。
手首。
アンカーが突き刺さる。
そのまま身体を横へ流す。
巨人の腕を軸に旋回。
遠心力。
加速。
一閃。
首筋。
深く。
うなじを削ぐ。
蒸気が噴き出した。
巨体が膝をつく。
討伐。
その直後。
二体目。
横から手が伸びる。
掴む気だ。
アスカは身体を捻る。
回避。
刃を振るう。
手首が飛ぶ。
巨人がよろめく。
さらに。
膝裏。
斬撃。
巨体が転倒する。
地響き。
草が舞う。
うなじ。
一閃。
討伐。
残り一体。
最も大きい。
そして。
荷馬車に最も近い。
あと数秒。
それだけで届く距離だった。
「──触るな」
呟く。
ガスを吹かす。
全速力。
風景が流れる。
巨人が口を開く。
荷馬車へ。
白布へ。
仲間達へ。
届かせるか。
そんなもの。
絶対に。
ワイヤー。
肩。
加速。
跳ぶ。
巨人の肩を飛び越える。
空中反転。
そして。
一閃。
うなじ。
深く。
確実に。
刃が肉を断ち切った。
蒸気。
巨体が崩れ落ちる。
荷馬車の目前で。
地面を揺らしながら。
倒れた。
静寂。
風だけが吹いている。
アスカは息を吐いた。
振り返る。
荷馬車。
無事だった。
その時。
馬上からミケが周囲を見回す。
鼻を鳴らす。
風の匂いを嗅ぐように。
しばらくして。
「……もういない」
低い声。
誰かが大きく息を吐く。
緊張が解けた。
兵士達が荷馬車を見る。
縄へ伸びかけていた手が止まる。
切られていない。
捨てられていない。
誰一人。
荷馬車には。
白布が揺れていた。
ペトラ。
オルオ。
グンタ。
エルド。
名前も知らない兵士達。
全員そこにいる。
アスカはそれを見つめた。
安心したのか。
悔しかったのか。
分からない。
ただ。
これくらいは。
これくらいはしなければならないと思った。
「……せめて、これくらいは」
誰にも聞こえない声だった。
だが。
風はその言葉を攫わなかった。
やがて。
「出発するぞ!」
号令が響く。
兵士達が再び馬を走らせる。
壁はもう近い。
夕陽に照らされながら。
調査兵団は前へ進み始めた。
☆☆☆
壁が見えた。
巨大な壁。
人類を守る最後の砦。
夕陽を浴びながら聳え立つその姿に、兵士達の表情が僅かに緩む。
助かった。
そう思った者もいただろう。
だが。
誰も喜んではいなかった。
失ったものが多すぎた。
「前方、開門準備!」
伝令の声。
壁上の駐屯兵団が動き始める。
巨大な門が軋む。
ゆっくりと。
ゆっくりと開いていく。
調査兵団は速度を緩めない。
そのまま壁内へ駆け込んだ。
瞬間。
耳に飛び込んできたのは歓声ではなかった。
「また失敗か!!」
怒声。
アスカは反射的に顔を上げる。
沿道。
集まった市民達。
その表情に歓迎の色は無い。
「何しに行ったんだ!!」
「また死人を増やしただけじゃないか!!」
「税金を無駄遣いしやがって!」
「調査兵団なんか解散しろ!!」
罵声。
怒号。
石こそ飛んでこないが、視線は鋭い。
兵士達は何も言わない。
言い返さない。
ただ前を向いて進む。
アスカは前方を見る。
エルヴィン。
ハンジ。
ミケ。
そしてリヴァイ。
誰一人として振り返らない。
慣れているのだ。
理解されないことに。
成果を示せないことに。
仲間を失うことに。
その顔はまるで。
この世の地獄を見続けてきた人間のようだった。
何も感じていない訳ではない。
感じ過ぎた結果なのだろう。
もう表に出さなくなっただけだ。
誰も口を開かない。
荷馬車の車輪が軋む音だけが響いている。
白布に包まれた仲間達。
ペトラ。
オルオ。
グンタ。
エルド。
そして。
名前も知らない多くの兵士達。
今日だけで何人死んだのか。
もう数える気にもなれなかった。
生きている時は守れなかった。
それでも。
せめて連れて帰ることは出来た。
それだけが。
今は僅かな救いだった。
アスカは空を見上げる。
夕陽が沈みかけている。
リヴァイの言葉を思い出した。
死んだ仲間に報いる方法は一つ。
前に進むことだ。
大勢の骸の上を歩いてな。
「……はい」
誰に聞かせるでもなく呟く。
答えはまだ見つからない。
失ったものも戻らない。
それでも。
明日になればまた前を向かなければならない。
死んでいった仲間達のためにも。
アスカは視線を横へ向ける。
ジャン。
ミカサ。
コニー。
サシャ。
クリスタ。
ユミル。
ライナー。
ベルトルト。
104期の仲間達。
皆複雑な顔をしていた。
悔しさ。
怒り。
戸惑い。
市民達の言葉が理解出来ない訳じゃない。
だが。
死んでいった仲間達を見てきた。
命を懸けて戦った兵士達を見てきた。
だから何も言えない。
言葉が無い。
調査兵団は進み続ける。
罵声の中を。
死者を乗せた荷馬車と共に。
その時。
アスカの視線が一台の荷馬車へ向く。
エレン。
そしてアルミンが乗せられていた。
エレンは仰向けに寝かされている。
目元を腕で覆っていた。
最初は眠っているのかと思った。
違った。
肩が僅かに震えている。
腕の隙間から零れる呼吸。
押し殺している。
泣き声を。
誰にも聞かれないように。
アスカは何も言わなかった。
言える訳がない。
リヴァイ班は死んだ。
自分も知っている。
エレンがどれだけ彼らを信じていたか。
どれだけ救いたかったか。
どれだけ悔いているか。
痛いほど分かった。
だから。
何も言わない。
ただ視線を前へ戻す。
そして。
考える。
女型の巨人。
あの戦いを。
拳。
蹴り。
体重移動。
崩し。
無駄の無い連携。
巨人の戦い方じゃない。
人間だ。
訓練を受けた人間。
格闘術。
「……」
胸の奥がざわつく。
嫌な感覚だった。
記憶を辿る。
訓練兵時代。
対人格闘術。
汗。
砂埃。
組み合う訓練兵達。
その中で。
一人だけ異様に上手かった奴がいた。
金髪。
無愛想。
能面みたいな顔。
冷徹女。
そんな風に呼ばれていた少女。
だが。
思い出す。
対人格闘術の時だけは違った。
蹴る時。
投げる時。
崩す時。
あの時だけは。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
楽しそうに見えた。
「……まさか」
小さく呟く。
心臓が嫌な音を立てる。
身体中から冷たい汗が吹き出る。
違う。
そんなはずがない。
アイツじゃない。
あれは仲間だ。
訓練兵時代を共に過ごした。
同じ飯を食った。
同じ巨人と戦った。
仲間だ。
そんな訳がない。
考えるな。
考えたくない。
だが。
胸の奥に残り続ける。
命を救ってきた勘が。
最悪の可能性を囁いていた。
振り払ったはずの違和感は。
最後まで胸の奥に残り続けていた。