旧調査兵団本部は静まり返っていた。
窓から差し込む夕陽だけが部屋を照らしている。
誰も喋らない。
風が窓を叩く音だけが聞こえていた。
エレンは椅子へ腰掛けたまま俯いている。
握った拳には力が入っていた。
掌へ爪が食い込んでいる。
だが痛みは感じない。
もっと痛いものを知ってしまったからだ。
アスカは壁にもたれながら、その様子を見ていた。
何も言わない。
言えることなど無かった。
自分も似たようなものだったからだ。
リヴァイ班。
ペトラ。
オルオ。
エルド。
グンタ。
顔が浮かぶ。
何度も。
何度も。
消えてくれない。
エレンが不意に口を開いた。
「俺が戦っていれば」
掠れた声だった。
誰かに聞かせるためではない。
自分へ向けた言葉。
「俺が巨人になっていれば、みんな死ななかったかもしれない」
部屋の空気が重くなる。
窓際にもたれ掛かっていたリヴァイは視線だけを向けた。
「そうかもな」
エレンが顔を上げる。
否定されると思っていた。
だが違った。
「変わらなかったかもしれねぇ。俺には分からない。未来なんざ誰にも見えねぇからな」
エレンは唇を噛む。
悔しい。
納得出来ない。
だが反論も出来ない。
兵長の言葉は正しい。
正しいからこそ苦しかった。
「兵長は後悔してないんですか」
リヴァイは答えない。
エレンは続ける。
「俺達に任せたことです」
一度言葉を切る。
「リヴァイ班を」
沈黙。
長い沈黙だった。
夕陽が床を赤く染める。
リヴァイは窓の外へ視線を向けたまま、小さく息を吐いた。
「してる」
短い言葉だった。
だが重い。
「悔いの残らねぇ方を選べと偉そうに言っておいてこのザマだ。後悔が無い訳ねぇだろ」
エレンは言葉を失う。
アスカも目を伏せた。
兵長も同じなのだ。
失った。
大切な仲間を。
「だがな」
リヴァイは続ける。
「お前が巨人になってても結果は分からなかった。全員生きてたかもしれねぇし、別の誰かが死んでたかもしれねぇ。それは誰にも分からない」
結果。
その言葉にアスカは僅かに目を閉じる。
結果は分からない。
兵長から聞いた言葉だった。
休憩中。
帰投途中。
自分へ向けられた言葉。
理解はしている。
だが納得は出来ない。
もしもっと早く女型と交戦していれば。
もし巨大樹の森へ先に辿り着いていれば。
そんな考えは今も消えていなかった。
エレンは俯いた。
何も言えない。
拳だけが震えている。
その時だった。
扉が開く。
部屋の空気が変わった。
入ってきたのはエルヴィンだった。
その後ろには調査兵が二人。
アルミン。
ミカサ。
ジャン。
全員の表情が固い。
嫌な予感がした。
エレンは背筋を伸ばす。
アスカも壁から身体を離した。
「揃っているな」
エルヴィンが部屋を見渡す。
誰も返事をしない。
ただ次の言葉を待った。
「女型の巨人と思われる人物を特定した」
沈黙。
部屋から音が消える。
女型。
あの巨人。
調査兵団を蹂躙し。
右翼を壊滅させ。
リヴァイ班を皆殺しにした敵。
その正体が分かった。
「誰なんですか」
エレンは静かに尋ねる。
エルヴィンは頷いた。
「その説明は君からしてもらおう」
アルミンが一歩前へ出る。
緊張している。
だが覚悟もあった。
自分の推理へ責任を持つ覚悟が。
「女型の巨人だと思われる人物は」
一度息を吸う。
「アニ・レオンハートです」
エレンは理解が追い付かなかった。
アニ。
同期。
憲兵団へ行った少女。
格闘術が強くて。
無愛想で。
何を考えているのか分からない女。
その名前と女型の巨人が結び付かない。
「は?」
思わず声を上げた。
「何言ってんだよ」
笑い飛ばしたかった。
だが笑えない。
アルミンは冗談を言う人間ではない。
「根拠は二つある」
アルミンはエレンから目を逸らさない。
「一つ目はソニーとビーンが殺された日のことだ。あの日、訓練兵も含めて全兵士の立体機動装置が点検された。その時アニが提出した装置は、自分の物じゃなかった」
そこで。
初めてアスカが顔を上げた。
「誰のだ」
低い声だった。
全員の視線が向く。
アルミンは答える。
「マルコの立体機動装置だ」
世界が止まった。
そんな感覚だった。
マルコ。
死んだ同期。
トロスト区で巨人に喰われたはずの男。
炎。
黒煙。
焼却される遺体。
脳裏に蘇る。
そして。
炎を見つめながら小さく呟いた少女。
『ごめんなさい』
確かに聞いた。
あの時。
確かに。
「待て」
アスカは一歩前へ出る。
「アニがマルコの立体機動装置を持ってたのか」
「うん」
アルミンは頷く。
「僕には分かった。一緒に何度も整備してたから。傷の位置も部品の癖も覚えていた」
「……」
「間違いない」
部屋が静まり返る。
そんなはずがない。
そう思いたかった。
だが。
脳裏に浮かぶ。
女型の蹴り。
体重移動。
崩し。
訓練兵団。
対人格闘術。
何度も見た動き。
何度も体験した技術。
点と点が。
少しずつ。
繋がり始めていた。
認めたくないだけで。
違和感は。
ずっと前からあった。
アスカの言葉を聞き、部屋の空気が変わった。
エレンも。
ミカサも。
ジャンも。
誰もが黙っている。
アルミンは小さく息を吸った。
「根拠はもう一つある」
視線が集まる。
「女型の巨人は、エレンを見つけた時に”死に急ぎ野郎”という言葉に反応した」
エレンが眉をひそめる。
「あ?」
「僕も最初は偶然だと思った。でも、あの呼び方を知っている人間は限られている」
アルミンは続ける。
「104期訓練兵だ」
沈黙。
誰も反論しない。
事実だった。
教官や上官が使う呼び方ではない。
同期達の間で生まれたあだ名だ。
「女型は訓練兵団にいた可能性が高い」
アルミンの声は静かだった。
「そしてマルコの立体機動装置の件も合わせると、アニが最も怪しい」
エレンが立ち上がる。
椅子が音を立てた。
「待てよ」
強い口調だった。
「そんなもん証拠でも何でもねぇだろ」
「エレン」
「死に急ぎ野郎なんて聞いたことある奴は他にもいるかもしれねぇ!」
アルミンは黙って聞いている。
「アニがマルコの装置持ってたってのだって、何か理由があったのかもしれないだろ!」
怒鳴る。
それはアルミンに向けた怒りではない。
現実への抵抗だった。
認めたくない。
そんなはずがない。
そう叫んでいるだけだ。
「アニだぞ?」
エレンは拳を握る。
「訓練兵団で一緒だったんだぞ」
「……」
「そんな奴が」
言葉が詰まる。
「そんな奴が、あんなことする訳ねぇだろ」
部屋が静まり返る。
誰もすぐには返せなかった。
その気持ちは分かるからだ。
アスカも。
同じだった。
頭では理解している。
だが心が拒絶する。
認めた瞬間。
失うものがあまりにも大きい。
アニ。
訓練兵団。
対人格闘術。
無愛想な横顔。
格闘術の授業。
夕食の時間。
所属兵科を決めた日。
トロスト区。
死体焼却。
『ごめんなさい』
脳裏に浮かぶ。
違和感。
あの時感じた僅かな引っ掛かり。
何故か忘れられなかった言葉。
今なら説明がつく。
いや。
説明がついてしまう。
胸の奥が冷えていく。
「証拠はありません」
アルミンが言った。
正直な言葉だった。
「でも僕にはそうとしか思えない」
エレンが睨む。
「思えない?」
「うん」
「そんなので人を疑うのかよ」
「疑いたくないよ」
アルミンは即座に答えた。
「僕だって違っていてほしい」
拳が震えていた。
アスカは気付く。
アルミンも苦しんでいる。
当然だ。
ネス班長は女型に殺された。
握り潰された。
あの瞬間を見ていた。
それでも。
アルミンは現実から目を逸らしていない。
「アニじゃなかったらどうするんだよ」
エレンが言う。
「その時は」
ミカサが静かに口を開いた。
「アニの疑いが晴れるだけ」
エレンは振り返る。
「ミカサまで」
「私は女型とアニの顔は似ていると思う」
「そんな理由で!」
怒鳴りそうになる。
だが。
言葉が続かない。
皆、本気だ。
冗談で言っている訳ではない。
だからこそ苦しい。
その時だった。
「アスカ」
アルミンが呼ぶ。
返事はない。
「アスカ?」
聞こえていなかった。
思考が沈んでいる。
深く。
深く。
訓練兵団。
格闘術。
蹴り。
崩し。
女型。
アニ。
マルコ。
ごめんなさい。
全てが繋がりそうになる。
だが。
繋げたくない。
「アスカ!」
肩を掴まれる。
我に返った。
「……悪い」
目を瞬かせる。
「聞こえてなかった」
部屋の視線が集まっている。
リヴァイが口を開いた。
「お前は女型と一番やり合った」
静かな声だった。
「何か感じたことは無かったのか」
アスカは答えない。
リヴァイは続ける。
「女型の中身がそのアニって奴だと」
沈黙。
長かった。
誰も急かさない。
答えを待つ。
アスカは視線を落とした。
違和感はあった。
ずっと。
最初から。
認めたくなかっただけで。
右翼で見た蹴り。
巨大樹の森で見た体捌き。
巨人とは思えない技術。
訓練兵団で何度も見たものだった。
だが。
それを認めるということは。
アニを敵だと認めることになる。
そんなこと。
したくなかった。
「……違和感は」
掠れた声が漏れる。
エレンがこちらを見る。
アルミンも。
ミカサも。
全員が。
「違和感はずっとありました」
沈黙。
言ってしまった。
もう戻れない。
「何度も見たことがある技術だったからです」
喉が痛い。
「アイツだけの技術が、確かにあった」
「アスカまで……」
エレンが呟く。
信じられないという顔だった。
アスカは目を閉じる。
「信じたくないんだ」
正直な言葉だった。
誰に向けたものでもない。
「違っていてほしい」
拳を握る。
「でも、マルコの立体機動装置を外したのがアイツなら……」
トロスト区。
炎。
黒煙。
あの日の言葉。
「“ごめんなさい”にも説明がつく」
部屋が静まり返る。
「所属兵科を決めた時に感じた違和感にも」
そこで言葉が止まる。
続きが言えない。
言いたくなかった。
エルヴィンは黙って聞いていた。
誰よりも冷静に。
誰よりも重い責任を背負いながら。
やがて。
静かに口を開く。
「……すまないが、私達調査兵団にはもう時間の猶予がない」
全員が顔を上げる。
「これ以上の判断材料がない以上、アニ・レオンハートを疑うしかない」
納得はしたくない。
出来ない。
だが。
疑いが晴れるのなら。
確かめなければならない。
アスカはゆっくりと息を吐いた。
「……場を乱してしまってすみません」
エルヴィンは首を振る。
「いや。君の反応は当然だ」
そして視線を全員へ向けた。
「作戦の概要を説明する」
部屋の空気が張り詰めた。
ここから先は。
人類の命運を賭けた話になる。
エルヴィンの言葉と共に、部屋の空気が張り詰めた。
誰も口を開かない。
女型の正体が同期かもしれない。
その事実だけでも十分重かった。
だが調査兵団には時間がない。
壁外調査の失敗。
大量の死傷者。
そしてエレンの存在。
何もかもが追い詰められていた。
「決行日は明後日」
エルヴィンが地図を机へ広げる。
「我々が王都へ召喚される途中、ストヘス区を通過する」
視線が地図へ集まる。
ウォール・シーナ最南部。
内地へ続く大きな街。
「ここが最初で最後の機会になる」
エルヴィンの声は静かだった。
だが重い。
「この機会を逃せば、エレンは中央へ引き渡される可能性が高い。そうなれば壁の破壊を企む勢力を追うことも難しくなるだろう」
誰も反論しない。
その通りだった。
「ひいては、人類滅亡の可能性がより濃厚になる」
エルヴィンは全員を見渡す。
「我々は賭ける」
賭け。
その言葉にアスカは目を伏せる。
調査兵団はいつもそうだった。
確証などない。
だが進む。
進まなければ何も変わらないから。
「作戦はこうだ」
地図の一点を指差す。
「ストヘス区地下通路」
アスカの瞳が僅かに動いた。
「ここへ目標を誘導する」
地下通路。
その言葉が胸に引っ掛かる。
覚えている。
忘れるはずがない。
初めて地上へ出た場所だった。
地下街。
鉄の扉。
薄暗い階段。
湿った空気。
あの日。
ユミルに会った。
訓練兵団へ入った。
そして。
人間になった。
少なくとも自分ではそう思っている。
「地下最下層まで誘導出来れば、目標が巨人化したとしても行動は大きく制限される」
エルヴィンの説明が続く。
「捕縛装置も配置する。最善の状況であれば、そのまま確保が可能だ」
エレンが顔を上げた。
「俺は」
「囮だ」
エルヴィンは即答した。
「目標はエレンへの執着を見せている。利用する」
エレンは黙る。
納得した訳ではない。
だが反対もしない。
「万が一、地下へ誘導する前に巨人化した場合」
エルヴィンは続ける。
「その時はエレン。君に頼ることになる」
部屋が静まり返る。
エレンはゆっくり頷いた。
「分かりました」
覚悟を決めた声だった。
リヴァイは何も言わない。
ただ見ている。
エレンが選ぶ瞬間を。
「誘導役はアルミン、ミカサ、エレン」
アルミンが小さく息を吐く。
覚悟はしていた。
だが実際に言われると緊張する。
「もしも女型の正体がアニでなかった場合、その場で作戦は終了する」
「……」
「だがアニであった場合、我々は即座に拘束へ移る」
エルヴィンの視線がアスカへ向く。
「アスカ」
「はい」
「君は地下通路側の捕縛班へ入ってもらう」
当然だった。
アスカは頷く。
「了解です」
地下通路。
かつての故郷。
皮肉だと思った。
自分を人間にしてくれた場所で。
今度は仲間を捕らえようとしている。
いや。
本当に仲間なのだろうか。
その考えが浮かぶ。
すぐに消した。
まだ決まった訳じゃない。
まだ。
証拠はない。
だが。
心のどこかでは分かっていた。
違和感はずっとあった。
見て見ぬ振りをしていただけで。
「質問はあるか」
エルヴィンが言う。
誰も答えない。
静寂。
重い静寂だった。
やがてエルヴィンは小さく頷く。
「では各自準備に入れ」
説明は終わった。
誰もすぐには動かない。
椅子を引く音だけが響く。
ジャンが先に立ち上がる。
ミカサも続く。
アルミンは資料を抱えながら俯いていた。
「……本当に、こんな作戦をするんですか」
エレンはまだ納得しきれていない顔をしている。
当然だった。
同期を疑えと言われているのだから。
その時。
アスカが口を開いた。
自然と。
言わなければならない気がした。
「……俺達にとっては同期で」
全員の視線が集まる。
アスカは拳を握る。
「仲間です」
喉が痛い。
それでも続ける。
「だから信じたい」
アニを。
訓練兵団の日々を。
あの時間を。
「でも」
顔を上げる。
「もしアイツが本当に女型なら」
ペトラ。
オルオ。
エルド。
グンタ。
右翼で死んだ兵士達。
名も知らない仲間達。
全員の顔が浮かぶ。
「調査兵団の仲間達を大勢殺したことになる」
沈黙。
重い沈黙。
「だから」
息を吸う。
「この作戦はやるべきだと思います」
誰も反論しなかった。
出来なかった。
それが今出せる唯一の答えだったから。
エルヴィンは静かに頷いた。
「そうだ」
短い言葉。
だが力強かった。
「我々は前に進む」
部屋の空気が動く。
会議は終わった。
それぞれが席を立つ。
だが。
アスカだけはその場から動けなかった。
頭の中で何度も同じ光景が繰り返される。
炎。
黒煙。
焼かれる遺体。
そして。
『ごめんなさい』
小さな声。
あの時は意味が分からなかった。
今なら説明がつく。
だからこそ。
認めたくなかった。
窓の外を見る。
夕陽は沈み始めている。
明日が来る。
そして明後日。
決着の日が来る。
その日までに。
自分は答えを出せるのだろうか。
アニ・レオンハートが敵なのだと。
本当に認められるのだろうか。
廊下へ出ても誰も口を開かなかった。
足音だけが響く。
やがてエレンとミカサが先へ行き、自然と三人が残る。
アスカ。
アルミン。
ジャン。
沈黙。
誰も何を言えばいいのか分からない。
最初に口を開いたのはアスカだった。
「アルミン」
「うん」
「本当に間違いないんだな」
アルミンはすぐに答えなかった。
少し考えてから口を開く。
「僕に分かる範囲では間違いないよ」
「……そうか」
アスカは視線を落とす。
納得した訳ではない。
だがアルミンが適当なことを言う人間ではないのも知っている。
「でも」
アルミンは続けた。
「違っていてほしいとは思ってる」
その声は少し震えていた。
「僕だってアニを疑いたい訳じゃない」
ジャンが鼻で笑う。
自嘲だった。
「疑いたくなくても疑うしかねぇんだろ」
「ジャン……」
「マルコの装置が持っていたならな」
そこで言葉が止まる。
拳が握られる。
「なぁアルミン」
低い声だった。
「アニが持ってたってことはよ」
「……」
「マルコが死んだ時、アイツもそこにいたってことだよな」
アルミンは答えない。
答えられない。
確証は無い。
だが。
否定も出来ない。
ジャンは壁へ拳を叩き付けた。
鈍い音が響く。
「クソが……」
歯を食いしばる。
「やっと諦めがついたと思ったのによ」
マルコは死んだ。
そう思っていた。
巨人に喰われた。
運が悪かった。
そう納得しようとしていた。
だが違うかもしれない。
誰かが関わっていたかもしれない。
それが同期かもしれない。
そんな現実。
受け入れられる訳がない。
「ジャン」
アスカが呼ぶ。
ジャンは振り向かない。
「もしアニだったら」
低い声だった。
「俺は許せねぇ」
ジャンは答えた。
即答だった。
「マルコだけじゃねぇ」
ジャンの脳裏にも浮かぶ。
壁外調査。
帰ってこなかった兵士達。
運ばれてきた遺体。
そして。
死んだ仲間達。
「でも」
拳を握る。
「頼むから違っててくれとも思ってる」
それが本音だった。
同期だった。
一緒に飯を食った。
一緒に訓練した。
一緒に卒業した。
敵であってほしくない。
心のどこかで願っている。
アスカは目を閉じる。
同じだった。
だから苦しい。
だから認めたくない。
「……確かめるしかないな」
アスカが呟く。
アルミンも頷く。
ジャンも否定しない。
確かめなければならない。
それがどれほど残酷でも。
ジャン達と別れた後。
アスカはしばらく旧本部の廊下を歩いていた。
どこへ向かう訳でもない。
ただ足が前へ出る。
考えたくなかった。
だが考えないことも出来なかった。
気付けば日が沈んでいた。
食事もほとんど喉を通らない。
兵士達の話し声も耳に入らない。
何をしていても。
頭の中に浮かぶのは同じ名前だった。
アニ・レオンハート。
ベッドへ横になる。
目を閉じる。
だが眠れない。
瞼の裏に浮かぶ。
女型の巨人。
蹴り。
崩し。
体重移動。
そして。
金髪の少女。
「……クソ」
寝返りを打つ。
眠れない。
何度目かも分からない。
時計を見る気にもなれなかった。
静かな夜だった。
だから余計に記憶が蘇る。
⸻
訓練兵団。
対人格闘術訓練。
乾いた土の上。
見慣れた訓練場。
「またお前かよ」
アスカは肩を回しながら言った。
目の前にはアニ。
相変わらず無愛想な顔だった。
「不満?」
「いや」
アスカは笑う。
「お前とやるのが一番面白い」
周囲からざわめきが聞こえる。
大抵の訓練兵はアニとの組み手を嫌がった。
強いからだ。
遠慮が無いからだ。
痛いからだ。
だが。
アスカは違った。
むしろ望んでいた。
「今日は勝つ」
「前も言ってた」
「今日は本当だ」
「昨日も聞いた」
「うるせぇ」
アニは少しだけ口元を緩めた。
本当に少しだけ。
気付かない奴もいるだろう。
だがアスカは知っている。
アイツはたまに笑う。
ほんの少しだけ。
「始め!」
教官の声。
同時に踏み込む。
距離を潰す。
アニの蹴り。
アスカは腕で流す。
反撃。
掴む。
崩す。
投げる。
アニの身体が地面へ叩き付けられる。
周囲からどよめき。
「一本!」
アスカは手を差し出した。
「ほら」
アニはその手を見る。
「……」
「何だよ」
「別に」
手を取る。
立ち上がる。
「油断した」
「言い訳か?」
「事実」
悔しそうだった。
その顔が少し面白かった。
「何勝何敗だっけ」
「六対四」
「俺の勝ち越しだな」
「今日で五だ」
「細けぇな」
「アンタが数えろって言った」
「そんなこと言った覚えねぇ」
「ある」
周囲の訓練兵達が呆れた顔をしていた。
ジャンが言う。
「お前ら仲良いな」
「良くねぇよ」
「良くない」
二人同時。
周囲が笑う。
アニは少し嫌そうな顔をした。
アスカも苦笑する。
平和だった。
あの頃は。
⸻
目を開く。
天井が見えた。
夜。
現実。
訓練兵団ではない。
「……」
息を吐く。
嫌になる。
どうしてあんなことを思い出すのか。
忘れればいい。
敵なら敵だ。
そう割り切ればいい。
なのに。
頭が勝手に思い出す。
仲間だった頃を。
⸻
別の日。
訓練後。
アスカは地面へ寝転がっていた。
全身が痛い。
「強ぇな」
空を見ながら言う。
「そう?」
隣でアニが水を飲んでいた。
「強ぇよ」
素直に認める。
それは悔しいことじゃない。
事実だった。
「お前の技術は本物だ」
「アンタも十分強い」
「褒めても何も出ねぇぞ」
「褒めてない」
即答。
アスカは笑った。
「可愛くねぇな」
「アンタに言われたくない」
沈黙。
風が吹く。
しばらくして。
アニが口を開いた。
「ねぇ」
「あ?」
「何でそんなに強くなりたいの」
珍しい質問だった。
「強くなきゃ死ぬからだ」
即答だった。
地下街ではそれが全てだった。
アニは何も言わない。
「お前は違うのか」
問い返す。
少しの沈黙。
そして。
「帰りたいから」
そう言った。
その時は深く考えなかった。
誰だって故郷くらいある。
そう思っただけだった。
⸻
帰りたい。
アスカは天井を見る。
あの言葉を思い出す。
今になって引っ掛かる。
何故だろう。
何故あの時。
アニはあんな顔をしたのだろう。
まるで。
今すぐ帰れない場所があるみたいに。
「……違う」
呟く。
考え過ぎだ。
そうに決まっている。
だが。
思考は止まらない。
女型の巨人。
右翼。
巨大樹の森。
アニ。
対人格闘術。
女型の蹴り。
アニの蹴り。
女型の崩し。
アニの崩し。
何度も。
何度も。
脳裏で重なる。
忘れる訳がない。
何百回も組み手をした。
身体が覚えている。
だから。
認めたくなかった。
認めてしまえば。
全部繋がるから。
口から零れる。
誰もいない部屋。
返事はない。
「本当にお前なのか」
静寂だけが残る。
眠れない夜だった。
ストヘス区決戦まで、あと一日。
翌日。
空は晴れていた。
雲一つない青空。
だがアスカの気分は晴れない。
結局ほとんど眠れなかった。
目を閉じる度にアニの顔が浮かんだ。
訓練兵団のアニ。
トロスト区のアニ。
そして女型の巨人。
何度否定しても結論は同じ場所へ戻る。
だから考えるのをやめた。
今はまだ。
確かめるまで決め付けるつもりはない。
それだけだった。
旧本部の中庭。
準備を進める兵士達の姿が見える。
馬車。
装備。
補給品。
明日の作戦に向けて慌ただしい。
「眠れてねぇ顔だな」
後ろから声がした。
振り返る。
ジャンだった。
「お前もだろ」
「まぁな」
ジャンは苦笑した。
目の下には薄い隈。
こいつも大して眠れていないらしい。
二人は並んで腰を下ろした。
しばらく無言。
風が吹く。
「なぁ」
ジャンが口を開く。
「もし違ったら笑えるな」
「何がだ」
「全部」
ジャンは空を見る。
「俺達揃って勘違いでした、で終わりだ」
アスカは少しだけ笑う。
「そうなってくれりゃ一番だな」
「だろ」
だが。
二人とも分かっていた。
本気では思っていない。
そうだったらいい。
願っているだけだ。
「マルコなら何て言うかな」
ジャンが呟く。
アスカは答えない。
「アイツ、こういう時説教してきそうだろ」
「するな」
「絶対する」
少しだけ笑う。
ほんの少しだけ。
だが長くは続かない。
沈黙が戻る。
「……会いてぇな」
ジャンが言った。
アスカは返事をしなかった。
出来なかった。
同じだったからだ。
会いたい。
ペトラにも。
オルオにも。
エルドにも。
グンタにも。
もう会えない。
それが現実だった。
その日の夜。
再び眠れなかった。
昨日よりはマシだった。
だが深くは眠れない。
明日だ。
明日になれば全てが分かる。
だからだった。
怖かった。
アニが女型ではありませんでした。
そう言われれば嬉しい。
心から。
だが。
もし違ったら。
もし本当に女型だったら。
自分はどうするのだろう。
敵として斬れるのだろうか。
答えは出ない。
そのまま夜が明けた。
作戦当日。
ストヘス区。
王都へ続く街は普段と変わらない朝を迎えていた。
人々が行き交う。
商人が声を張り上げる。
子供が走り回る。
壁外調査の惨劇など知らない。
平和な日常。
だからこそ奇妙だった。
これから戦いが始まる。
誰も知らない場所で。
誰も知らない相手と。
「配置につけ」
調査兵が指示を飛ばす。
アスカは地下通路へ向かっていた。
ストヘス区地下通路。
懐かしい匂いがした。
湿った石壁。
冷たい空気。
足音が反響する。
何年ぶりだろうか。
地下街を出てから。
初めて戻ってきた気がした。
「アスカ」
声が掛かる。
振り返る。
調査兵だった。
「捕縛班の準備は完了した。お前も配置につけ」
「了解です」
地下通路の最下層。
複数の兵士が待機している。
捕縛装置も設置済み。
万が一巨人化しても拘束出来るよう準備されていた。
エルヴィン達は本気だ。
絶対に逃がさない。
そんな意思が伝わってくる。
アスカは壁へ背を預ける。
静かだった。
薄暗い地下通路。
蝋燭の火だけが揺れている。
待機。
ただそれだけ。
だが落ち着かない。
思考が止まらない。
アニ。
マルコ。
女型。
訓練兵団。
何度も繰り返す。
考えても答えは出ないのに。
その時だった。
微かに声が聞こえた。
上から。
地下通路入口。
誰かが話している。
聞き慣れた声。
アルミン。
ミカサ。
エレン。
そして。
アニ。
心臓が跳ねた。
来た。
いよいよだ。
作戦が始まった。
だが。
足は動かなかった。
聞こえてくる会話。
同期達の声。
アニの声。
平静を装った話し方。
何も知らない振り。
何も変わらない振り。
その声を聞いているだけで胸が苦しくなる。
認めたくない。
違っていてほしい。
そう思う。
だが。
同時に確かめなければならないとも思う。
兵士だから。
仲間達が命を懸けて繋いだものを無駄には出来ない。
上から話し声が続く。
アルミン。
アニ。
ミカサ。
エレン。
そして沈黙。
嫌な予感がした。
考えるより先に身体が動いていた。
壁から背を離す。
階段へ向かう。
「アスカ?」
兵士が呼ぶ。
聞こえない。
聞いていない。
ただ足を動かす。
階段を上る。
石段を踏む音が響く。
コツ。
コツ。
コツ。
地下通路の奥から。
ゆっくりと。
その足音だけが近付いていった──。
☆☆☆
コツ。
コツ。
コツ。
石段を踏む音が響く。
地下通路の入口。
アニは視線を向けた。
アルミンも。
ミカサも。
エレンも。
全員が振り返る。
暗闇の中から現れた人影は、ゆっくりとフードへ手を掛けた。
布が外される。
見慣れた黒髪。
鋭い眼差し。
アスカだった。
エレンは驚く。
壁外調査から数日。
同じ場所にいたはずなのに。
今こうして見ると、改めて疲弊しているのが分かった。
顔色が悪い。
目の下には薄く隈が出来ている。
まともに眠れていないのだろう。
だが。
それはアスカだけではない。
この場の誰もが同じだった。
「早く来いよ」
アスカは軽く肩を竦める。
「下まで聞こえてたぞ」
アニは少しだけ目を細めた。
「……いたんだ」
「まぁな」
アスカは地下へ続く階段を親指で示す。
「ここが担当だからな」
自然な声だった。
あまりにも自然だった。
だからこそアルミンは胸が苦しくなる。
聞いていたはずだ。
先程までの会話を。
自分達がアニを疑っていることも。
それでも平然としている。
いや。
平然を装っている。
そう見えた。
「降りるのか?」
アスカが聞く。
「……」
アニは答えない。
代わりに地下通路へ視線を向ける。
「暗いね」
「地下だからな」
「嫌いなんだよ」
「らしいな」
アスカは笑った。
「さっき聞こえた」
少しだけ。
本当に少しだけ。
訓練兵団の頃みたいな空気が流れる。
エレンはそれが嫌だった。
苛立った。
何も変わっていないみたいな顔をするな。
そう思った。
アニが本当に女型なら。
リヴァイ班を殺した。
ペトラを。
オルオを。
エルドを。
グンタを。
殺した。
そうだろう。
なのに。
どうしてそんな顔が出来る。
どうしてアスカも普通に話せる。
そんな感情が胸の奥で渦を巻く。
「ここの最下層を抜けると更に下へ続く扉がある」
アスカが言う。
「重たい鉄の扉だ。その先が地下街」
アニは黙って聞いている。
「話したことあったよな」
「あぁ」
「地下で育ったって話か」
「そう」
アスカは少しだけ笑う。
「俺の故郷だ」
「よく覚えてるよ」
「意外だな」
「長く話してくれたよ」
「そうだったか?」
「そうだよ」
少しだけ口元が緩む。
アニだった。
訓練兵団で見た顔。
無愛想で。
不器用で。
時々だけ笑う女。
アルミンは目を伏せた。
違っていてほしい。
心のどこかでまだ願っている。
だが。
もう引き返せない場所まで来ていることも理解していた。
「大丈夫だ」
アスカが地下通路を見る。
「降りるまでは暗いが、下は案外広い。蝋燭もある」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ俺が後ろにいてやる」
「余計怖い」
「何でだよ」
「何となく」
アスカは吹き出した。
「何だそれ」
「そういうものなんだよ」
まただ。
エレンは拳を握る。
訓練兵団の頃みたいな会話。
何も変わらないみたいな空気。
それが妙に腹立たしい。
アニが本当に女型なら。
全部壊した張本人じゃないか。
なのに。
どうして。
「顔色悪いよ」
不意にアニが言った。
アスカは少し驚く。
「はっ……誰のせいだと」
思わず笑う。
乾いた笑いだった。
アニは答えない。
視線を逸らしただけだった。
それだけで。
アスカの胸が痛んだ。
否定しないのか。
そうか。
そうなんだな。
嫌でも考えてしまう。
「ねぇ」
アニが言う。
「あ?」
「いつから気付いてたの?」
空気が変わった。
エレンの眉が動く。
ミカサも僅かに警戒を強める。
アスカは少し考えた。
そして小さく息を吐く。
「訓練兵団の頃から普通じゃねぇとは思ってた」
アニは何も言わない。
「立ち方とか」
「……」
「人の見方とか」
「……」
「格闘術とかな」
沈黙。
風が吹く。
アニは少しだけ笑った。
「そう」
小さな声だった。
「やっぱりアンタは人をよく見てるね」
アスカは苦笑する。
「マルコにも言われた」
その瞬間だった。
アニの表情が止まる。
ほんの僅かに。
だが確かに。
アスカは見逃さなかった。
「なぁアニ」
声が静かになる。
「聞きたいことがある」
アニは答えない。
ただ見ている。
「俺も答えたんだから、お前も答えてくれよ」
「……いいよ」
短い返事だった。
誰も動かない。
誰も口を挟まない。
空気が張り詰めている。
「トロスト区で死体を焼いた日」
アスカが言う。
「あの日、お前『ごめんなさい』って言ってただろ」
アニの瞳が揺れた。
エレンが顔を上げる。
アルミンも息を呑む。
「あれは何だった」
沈黙。
長い沈黙。
「……さぁね」
アニは視線を逸らした。
誤魔化すように。
逃げるように。
アスカは目を閉じる。
やはり答えない。
なら。
聞くしかない。
「じゃあ質問を変える」
静かな声だった。
「マルコの立体機動装置を持ってたのは何でだ」
アニの瞳が大きく開かれる。
初めてだった。
ここまで露骨に動揺したのは。
「答えてくれ」
アスカは逃がさない。
「お前が外したのか」
沈黙。
誰も喋らない。
アニは目を閉じる。
そして。
ゆっくりと開いた。
「……私が外した」
世界が静まり返った。
エレンの拳が震える。
アルミンは目を伏せる。
ミカサは静かに刃へ手を添えた。
認めた。
本人が。
マルコに関わっていたと。
認めた。
アスカは何も言えない。
言葉が出てこない。
胸の奥が冷えていく。
信じたくなかった。
だが。
もう否定出来ない。
それでも。
聞かなければならなかった。
「……そうか」
掠れた声。
「じゃあもう一つだけ聞かせろ」
アニは黙っている。
アスカは真っ直ぐ見た。
「何で俺を殺さなかった」
空気が止まる。
「何で俺を握り潰さなかった」
アニは答えない。
「俺を殺してりゃエレンを連れて帰れたかもしれない」
拳が震える。
「なのに何でだ」
声が少しずつ強くなる。
「何で俺だけ生かした……!」
アニはまだ黙っている。
アスカの脳裏に浮かぶ。
ペトラ。
オルオ。
エルド。
グンタ。
死んだ仲間達。
「何でだよ」
感情が漏れる。
「何で……調査兵団を、俺達の仲間を大勢殺したのに」
喉が痛い。
それでも止まらない。
「なのに……何で俺だけなんだよ」
アニは答えない。
ただアスカを見ていた。
訓練兵団の頃と変わらない顔だった。
だから余計に苦しい。
「答えろよ」
アスカの声が掠れる。
「何で俺だけ生かした」
アニは目を伏せた。
沈黙。
長い沈黙だった。
エレンは歯を食いしばる。
アルミンも黙っている。
誰も口を挟まない。
これはアスカとアニの話だった。
「……私にも分からない」
ようやく返ってきた言葉だった。
アスカは思わず笑った。
乾いた笑いだった。
「分からない?」
信じられなかった。
「そんなの理由になってねぇだろ」
拳が震える。
怒りなのか。
悲しみなのか。
自分でも分からない。
「俺はずっと考えてたんだ。何か意味があったのかって。見逃した理由があるんじゃないかって」
顔を上げる。
逃がさないように。
真っ直ぐ。
「なのに分からないって……何だよ。そんなの納得できる訳ねぇだろ」
アニは黙って聞いている。
その沈黙が苦しい。
「何で俺には優しかった」
ぽつりと漏れる。
責めるような声ではなかった。
確認するような。
縋るような。
そんな声だった。
「訓練兵団で飯食って、話して……普通に笑ってたじゃねぇか」
脳裏に浮かぶ。
土埃だらけの訓練場。
夕焼け。
食堂。
何でもない日々。
「俺は仲間だと思ってた」
喉が詰まる。
「少なくとも……そう思いたかった」
少しだけ目を伏せる。
「全部嘘だったのか」
静寂。
誰も動かない。
エレンも。
アルミンも。
ミカサも。
ただ二人を見ていた。
やがてアニは小さく首を横に振る。
「違う」
短い言葉だった。
だが迷いは無かった。
「全部じゃない」
アスカの瞳が揺れる。
アニは視線を逸らさない。
「嘘じゃなかったこともある」
言い訳をしているようには見えなかった。
誤魔化しているようにも。
ただ事実を口にしているだけ。
そんな声だった。
「……じゃあ何だよ」
アスカは力なく笑う。
「何なんだよそれ」
全部嘘だったと思えれば楽だった。
敵だと割り切れた。
憎めた。
斬れた。
だが目の前の女はそう言わない。
だから苦しい。
アニは少しだけ空を見上げた。
「アンタと戦うのは嫌いじゃなかった」
アスカが目を見開く。
「悔しかったけど」
ほんの少しだけ。
口元が緩む。
「結構負けたから」
訓練場。
対人格闘術。
何度も繰り返した勝負。
六対四。
そんな記憶が脳裏を過る。
「覚えてんのかよ」
「覚えてる」
即答だった。
だから辛い。
だから認めたくない。
「それなら……何でだ」
アスカは絞り出すように言う。
「何でこんなことした」
アニは答えない。
答えられない。
沈黙だけが残る。
そしてしばらくして。
アニは小さく息を吐いた。
「少なくとも……アンタには死んでほしくなかった」
その言葉が胸に刺さる。
深く。
深く。
理解したくないのに。
理解してしまう。
アスカはしばらく何も言えなかった。
怒鳴ることも。
否定することも。
出来なかった。
アニが嘘を吐いているようには見えなかったからだ。
だから苦しい。
「……そうか」
ようやく絞り出した声だった。
少し俯き、長く息を吐く。
感情を押し殺すように。
覚悟を決めるように。
そして顔を上げた。
「俺はお前を止めなきゃならない。同期だからとか、仲間だったとか、そういうの全部抜きにしてもだ。お前が女型なら、もう見逃せない」
ペトラ。
オルオ。
エルド。
グンタ。
女型に殺された兵士達の顔が脳裏を過る。
骸を抱えて帰った日。
市民達の罵声。
それでも前へ進こうとした仲間達。
全部が頭をよぎった。
アスカは地下通路を指差す。
「だから下に来い。お前とはもう戦いたくない」
アニは目を伏せた。
地下へ続く階段を見る。
その先に何があるのか理解している。
捕縛班。
拘束具。
調査兵団。
全て。
分かっている。
それでも。
アニはゆっくり首を横に振った。
「それは出来ない」
短い返答だった。
だが決定的だった。
アスカは唇を噛む。
「頼む。疑いが晴れるならそれでいい。違うなら違うで終わりだ。だから来てくれ」
自分でも情けないと思った。
兵士が。
敵かもしれない相手へ。
こんな言葉を向けている。
だが止められなかった。
アニはそんなアスカを見つめる。
少しだけ寂しそうに笑った。
「優しいね」
「そうか?」
「そうだよ」
風が吹く。
金色の髪が揺れた。
アニは空を見上げる。
雲が流れている。
穏やかな空だった。
戦いには似合わないほどに。
「私は戦士になり損ねた」
ぽつりと零れた言葉。
アスカは眉をひそめる。
「……何だそれ」
アニは苦笑した。
「さぁね。私にも分からない」
今度は怒りは湧かなかった。
本当に分からないのかもしれない。
そんな顔をしていたからだ。
アスカは腰へ手を伸ばす。
刃の柄を握る。
冷たい感触。
慣れた感触だった。
鋼が鞘から滑り出る。
「……そうか」
静かに呟く。
そしてアニを見る。
訓練兵団の同期ではなく。
女型の巨人かもしれない存在として。
「お前と戦うのは四度目だ。終わりにしよう、アニ」
アニは黙って聞いていた。
視線がゆっくりと右手へ落ちる。
アスカも見ていた。
もう戻れない。
お互いに。
そのことだけは理解している。
「アンタと会わなければ、違う結末だったのかもね」
アスカは少しだけ笑った。
皮肉げに。
寂しそうに。
「どうだかな。未来なんて誰にも分からねぇよ」
脳裏に浮かぶ。
リヴァイの言葉。
結果は誰にも分からない。
だから選べ。
自分で。
アスカは刃を構えた。
「俺の尊敬してる人が言ってた。悔いの残らない方を選べってな。……俺は選ぶぞ」
目を逸らさない。
もう逃げない。
アニは静かに聞いていた。
そして小さく目を閉じる。
数秒。
それから再び開いた瞳には覚悟が宿っていた。
「じゃあ私も選ぶことにするよ」
その瞬間だった。
アスカの左手が動く。
銃口が空へ向く。
引き金を引く。
轟音。
音響弾。
同時。
「捕縛しろ!」
屋根の上。
路地裏。
潜んでいた調査兵達が一斉に飛び出す。
ワイヤー。
拘束具。
瞬く間にアニの身体を縛り上げる。
腕。
脚。
胴体。
そして口元。
自傷を防ぐための拘束。
「確保!!」
兵士達が叫ぶ。
成功した。
そう思った。
だが。
アスカの視線は一箇所へ向いていた。
右手。
人差し指。
指輪。
銀色の輪。
その内側。
小さな刃。
血の気が引いた。
「ミカサ!!」
叫ぶ。
ミカサは即座に反応した。
エレンの腕を掴む。
アルミンを引き寄せる。
三人は地下通路へ走る。
アスカ自身も立体機動に移る。
その瞬間。
アニは自らの指を傷付けた。
血が舞う。
閃光。
爆発。
世界が白く染まった。
熱風が吹き荒れる。
石畳が砕ける音。
建物が軋む音。
兵士達の叫び声。
そして。
肉が膨張する音。
アスカは目を細めた。
眩しい光の向こう。
巨大な影が立ち上がる。
煙が晴れる。
十五メートル級。
金色の髪。
青い瞳。
何度も見た姿だった。
だが。
今だけは違った。
訓練兵団で共に過ごした同期でもない。
対人格闘術を繰り返した相手でもない。
アニ・レオンハートでもない。
そこにいたのは。
調査兵団を蹂躙し。
大勢の仲間を殺した。
女型の巨人だった。
女型は静かにアスカを見下ろす。
アスカもまた見上げる。
言葉はない。
必要もなかった。
もう疑う余地は無い。
現実は残酷なほど明確だった。
アニ・レオンハートは。
女型の巨人だった。