地下に眠るダイヤモンド   作:ニャンニャンコポン

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正体

 

 

 

 旧調査兵団本部は静まり返っていた。

 

 窓から差し込む夕陽だけが部屋を照らしている。

 

 誰も喋らない。

 

 風が窓を叩く音だけが聞こえていた。

 

 エレンは椅子へ腰掛けたまま俯いている。

 

 握った拳には力が入っていた。

 

 掌へ爪が食い込んでいる。

 

 だが痛みは感じない。

 

 もっと痛いものを知ってしまったからだ。

 

 アスカは壁にもたれながら、その様子を見ていた。

 

 何も言わない。

 

 言えることなど無かった。

 

 自分も似たようなものだったからだ。

 

 リヴァイ班。

 

 ペトラ。

 

 オルオ。

 

 エルド。

 

 グンタ。

 

 顔が浮かぶ。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 消えてくれない。

 

 エレンが不意に口を開いた。

 

「俺が戦っていれば」

 

 掠れた声だった。

 

 誰かに聞かせるためではない。

 

 自分へ向けた言葉。

 

「俺が巨人になっていれば、みんな死ななかったかもしれない」

 

 部屋の空気が重くなる。

 

 窓際にもたれ掛かっていたリヴァイは視線だけを向けた。

 

「そうかもな」

 

 エレンが顔を上げる。

 

 否定されると思っていた。

 

 だが違った。

 

「変わらなかったかもしれねぇ。俺には分からない。未来なんざ誰にも見えねぇからな」

 

 エレンは唇を噛む。

 

 悔しい。

 

 納得出来ない。

 

 だが反論も出来ない。

 

 兵長の言葉は正しい。

 

 正しいからこそ苦しかった。

 

「兵長は後悔してないんですか」

 

 リヴァイは答えない。

 

 エレンは続ける。

 

「俺達に任せたことです」

 

 一度言葉を切る。

 

「リヴァイ班を」

 

 沈黙。

 

 長い沈黙だった。

 

 夕陽が床を赤く染める。

 

 リヴァイは窓の外へ視線を向けたまま、小さく息を吐いた。

 

「してる」

 

 短い言葉だった。

 

 だが重い。

 

「悔いの残らねぇ方を選べと偉そうに言っておいてこのザマだ。後悔が無い訳ねぇだろ」

 

 エレンは言葉を失う。

 

 アスカも目を伏せた。

 

 兵長も同じなのだ。

 

 失った。

 

 大切な仲間を。

 

「だがな」

 

 リヴァイは続ける。

 

「お前が巨人になってても結果は分からなかった。全員生きてたかもしれねぇし、別の誰かが死んでたかもしれねぇ。それは誰にも分からない」

 

 結果。

 

 その言葉にアスカは僅かに目を閉じる。

 

 結果は分からない。

 

 兵長から聞いた言葉だった。

 

 休憩中。

 

 帰投途中。

 

 自分へ向けられた言葉。

 

 理解はしている。

 

 だが納得は出来ない。

 

 もしもっと早く女型と交戦していれば。

 

 もし巨大樹の森へ先に辿り着いていれば。

 

 そんな考えは今も消えていなかった。

 

 エレンは俯いた。

 

 何も言えない。

 

 拳だけが震えている。

 

 その時だった。

 

 扉が開く。

 

 部屋の空気が変わった。

 

 入ってきたのはエルヴィンだった。

 

 その後ろには調査兵が二人。

 

 アルミン。

 

 ミカサ。

 

 ジャン。

 

 全員の表情が固い。

 

 嫌な予感がした。

 

 エレンは背筋を伸ばす。

 

 アスカも壁から身体を離した。

 

「揃っているな」

 

 エルヴィンが部屋を見渡す。

 

 誰も返事をしない。

 

 ただ次の言葉を待った。

 

「女型の巨人と思われる人物を特定した」

 

 沈黙。

 

 部屋から音が消える。

 

 女型。

 

 あの巨人。

 

 調査兵団を蹂躙し。

 

 右翼を壊滅させ。

 

 リヴァイ班を皆殺しにした敵。

 

 その正体が分かった。

 

「誰なんですか」

 

 エレンは静かに尋ねる。

 

 エルヴィンは頷いた。

 

「その説明は君からしてもらおう」

 

 アルミンが一歩前へ出る。

 

 緊張している。

 

 だが覚悟もあった。

 

 自分の推理へ責任を持つ覚悟が。

 

「女型の巨人だと思われる人物は」

 

 一度息を吸う。

 

「アニ・レオンハートです」

 

 エレンは理解が追い付かなかった。

 

 アニ。

 

 同期。

 

 憲兵団へ行った少女。

 

 格闘術が強くて。

 

 無愛想で。

 

 何を考えているのか分からない女。

 

 その名前と女型の巨人が結び付かない。

 

「は?」

 

 思わず声を上げた。

 

「何言ってんだよ」

 

 笑い飛ばしたかった。

 

 だが笑えない。

 

 アルミンは冗談を言う人間ではない。

 

「根拠は二つある」

 

 アルミンはエレンから目を逸らさない。

 

「一つ目はソニーとビーンが殺された日のことだ。あの日、訓練兵も含めて全兵士の立体機動装置が点検された。その時アニが提出した装置は、自分の物じゃなかった」

 

 そこで。

 

 初めてアスカが顔を上げた。

 

「誰のだ」

 

 低い声だった。

 

 全員の視線が向く。

 

 アルミンは答える。

 

「マルコの立体機動装置だ」

 

 世界が止まった。

 

 そんな感覚だった。

 

 マルコ。

 

 死んだ同期。

 

 トロスト区で巨人に喰われたはずの男。

 

 炎。

 

 黒煙。

 

 焼却される遺体。

 

 脳裏に蘇る。

 

 そして。

 

 炎を見つめながら小さく呟いた少女。

 

『ごめんなさい』

 

 確かに聞いた。

 

 あの時。

 

 確かに。

 

「待て」

 

 アスカは一歩前へ出る。

 

「アニがマルコの立体機動装置を持ってたのか」

 

「うん」

 

 アルミンは頷く。

 

「僕には分かった。一緒に何度も整備してたから。傷の位置も部品の癖も覚えていた」

 

「……」

 

「間違いない」

 

 部屋が静まり返る。

 

 そんなはずがない。

 

 そう思いたかった。

 

 だが。

 

 脳裏に浮かぶ。

 

 女型の蹴り。

 

 体重移動。

 

 崩し。

 

 訓練兵団。

 

 対人格闘術。

 

 何度も見た動き。

 

 何度も体験した技術。

 

 点と点が。

 

 少しずつ。

 

 繋がり始めていた。

 

 認めたくないだけで。

 

 違和感は。

 

 ずっと前からあった。

 

 アスカの言葉を聞き、部屋の空気が変わった。

 

 エレンも。

 

 ミカサも。

 

 ジャンも。

 

 誰もが黙っている。

 

 アルミンは小さく息を吸った。

 

「根拠はもう一つある」

 

 視線が集まる。

 

「女型の巨人は、エレンを見つけた時に”死に急ぎ野郎”という言葉に反応した」

 

 エレンが眉をひそめる。

 

「あ?」

 

「僕も最初は偶然だと思った。でも、あの呼び方を知っている人間は限られている」

 

 アルミンは続ける。

 

「104期訓練兵だ」

 

 沈黙。

 

 誰も反論しない。

 

 事実だった。

 

 教官や上官が使う呼び方ではない。

 

 同期達の間で生まれたあだ名だ。

 

「女型は訓練兵団にいた可能性が高い」

 

 アルミンの声は静かだった。

 

「そしてマルコの立体機動装置の件も合わせると、アニが最も怪しい」

 

 エレンが立ち上がる。

 

 椅子が音を立てた。

 

「待てよ」

 

 強い口調だった。

 

「そんなもん証拠でも何でもねぇだろ」

 

「エレン」

 

「死に急ぎ野郎なんて聞いたことある奴は他にもいるかもしれねぇ!」

 

 アルミンは黙って聞いている。

 

「アニがマルコの装置持ってたってのだって、何か理由があったのかもしれないだろ!」

 

 怒鳴る。

 

 それはアルミンに向けた怒りではない。

 

 現実への抵抗だった。

 

 認めたくない。

 

 そんなはずがない。

 

 そう叫んでいるだけだ。

 

「アニだぞ?」

 

 エレンは拳を握る。

 

「訓練兵団で一緒だったんだぞ」

 

「……」

 

「そんな奴が」

 

 言葉が詰まる。

 

「そんな奴が、あんなことする訳ねぇだろ」

 

 部屋が静まり返る。

 

 誰もすぐには返せなかった。

 

 その気持ちは分かるからだ。

 

 アスカも。

 

 同じだった。

 

 頭では理解している。

 

 だが心が拒絶する。

 

 認めた瞬間。

 

 失うものがあまりにも大きい。

 

 アニ。

 

 訓練兵団。

 

 対人格闘術。

 

 無愛想な横顔。

 

 格闘術の授業。

 

 夕食の時間。

 

 所属兵科を決めた日。

 

 トロスト区。

 

 死体焼却。

 

『ごめんなさい』

 

 脳裏に浮かぶ。

 

 違和感。

 

 あの時感じた僅かな引っ掛かり。

 

 何故か忘れられなかった言葉。

 

 今なら説明がつく。

 

 いや。

 

 説明がついてしまう。

 

 胸の奥が冷えていく。

 

「証拠はありません」

 

 アルミンが言った。

 

 正直な言葉だった。

 

「でも僕にはそうとしか思えない」

 

 エレンが睨む。

 

「思えない?」

 

「うん」

 

「そんなので人を疑うのかよ」

 

「疑いたくないよ」

 

 アルミンは即座に答えた。

 

「僕だって違っていてほしい」

 

 拳が震えていた。

 

 アスカは気付く。

 

 アルミンも苦しんでいる。

 

 当然だ。

 

 ネス班長は女型に殺された。

 

 握り潰された。

 

 あの瞬間を見ていた。

 

 それでも。

 

 アルミンは現実から目を逸らしていない。

 

「アニじゃなかったらどうするんだよ」

 

 エレンが言う。

 

「その時は」

 

 ミカサが静かに口を開いた。

 

「アニの疑いが晴れるだけ」

 

 エレンは振り返る。

 

「ミカサまで」

 

「私は女型とアニの顔は似ていると思う」

 

「そんな理由で!」

 

 怒鳴りそうになる。

 

 だが。

 

 言葉が続かない。

 

 皆、本気だ。

 

 冗談で言っている訳ではない。

 

 だからこそ苦しい。

 

 その時だった。

 

「アスカ」

 

 アルミンが呼ぶ。

 

 返事はない。

 

「アスカ?」

 

 聞こえていなかった。

 

 思考が沈んでいる。

 

 深く。

 

 深く。

 

 訓練兵団。

 

 格闘術。

 

 蹴り。

 

 崩し。

 

 女型。

 

 アニ。

 

 マルコ。

 

 ごめんなさい。

 

 全てが繋がりそうになる。

 

 だが。

 

 繋げたくない。

 

「アスカ!」

 

 肩を掴まれる。

 

 我に返った。

 

「……悪い」

 

 目を瞬かせる。

 

「聞こえてなかった」

 

 部屋の視線が集まっている。

 

 リヴァイが口を開いた。

 

「お前は女型と一番やり合った」

 

 静かな声だった。

 

「何か感じたことは無かったのか」

 

 アスカは答えない。

 

 リヴァイは続ける。

 

「女型の中身がそのアニって奴だと」

 

 沈黙。

 

 長かった。

 

 誰も急かさない。

 

 答えを待つ。

 

 アスカは視線を落とした。

 

 違和感はあった。

 

 ずっと。

 

 最初から。

 

 認めたくなかっただけで。

 

 右翼で見た蹴り。

 

 巨大樹の森で見た体捌き。

 

 巨人とは思えない技術。

 

 訓練兵団で何度も見たものだった。

 

 だが。

 

 それを認めるということは。

 

 アニを敵だと認めることになる。

 

 そんなこと。

 

 したくなかった。

 

「……違和感は」

 

 掠れた声が漏れる。

 

 エレンがこちらを見る。

 

 アルミンも。

 

 ミカサも。

 

 全員が。

 

「違和感はずっとありました」

 

 沈黙。

 

 言ってしまった。

 

 もう戻れない。

 

「何度も見たことがある技術だったからです」

 

 喉が痛い。

 

「アイツだけの技術が、確かにあった」

 

「アスカまで……」

 

 エレンが呟く。

 

 信じられないという顔だった。

 

 アスカは目を閉じる。

 

「信じたくないんだ」

 

 正直な言葉だった。

 

 誰に向けたものでもない。

 

「違っていてほしい」

 

 拳を握る。

 

「でも、マルコの立体機動装置を外したのがアイツなら……」

 

 トロスト区。

 

 炎。

 

 黒煙。

 

 あの日の言葉。

 

「“ごめんなさい”にも説明がつく」

 

 部屋が静まり返る。

 

「所属兵科を決めた時に感じた違和感にも」

 

 そこで言葉が止まる。

 

 続きが言えない。

 

 言いたくなかった。

 

 エルヴィンは黙って聞いていた。

 

 誰よりも冷静に。

 

 誰よりも重い責任を背負いながら。

 

 やがて。

 

 静かに口を開く。

 

「……すまないが、私達調査兵団にはもう時間の猶予がない」

 

 全員が顔を上げる。

 

「これ以上の判断材料がない以上、アニ・レオンハートを疑うしかない」

 

 納得はしたくない。

 

 出来ない。

 

 だが。

 

 疑いが晴れるのなら。

 

 確かめなければならない。

 

 アスカはゆっくりと息を吐いた。

 

「……場を乱してしまってすみません」

 

 エルヴィンは首を振る。

 

「いや。君の反応は当然だ」

 

 そして視線を全員へ向けた。

 

「作戦の概要を説明する」

 

 部屋の空気が張り詰めた。

 

 ここから先は。

 

 人類の命運を賭けた話になる。

 

 エルヴィンの言葉と共に、部屋の空気が張り詰めた。

 

 誰も口を開かない。

 

 女型の正体が同期かもしれない。

 

 その事実だけでも十分重かった。

 

 だが調査兵団には時間がない。

 

 壁外調査の失敗。

 

 大量の死傷者。

 

 そしてエレンの存在。

 

 何もかもが追い詰められていた。

 

「決行日は明後日」

 

 エルヴィンが地図を机へ広げる。

 

「我々が王都へ召喚される途中、ストヘス区を通過する」

 

 視線が地図へ集まる。

 

 ウォール・シーナ最南部。

 

 内地へ続く大きな街。

 

「ここが最初で最後の機会になる」

 

 エルヴィンの声は静かだった。

 

 だが重い。

 

「この機会を逃せば、エレンは中央へ引き渡される可能性が高い。そうなれば壁の破壊を企む勢力を追うことも難しくなるだろう」

 

 誰も反論しない。

 

 その通りだった。

 

「ひいては、人類滅亡の可能性がより濃厚になる」

 

 エルヴィンは全員を見渡す。

 

「我々は賭ける」

 

 賭け。

 

 その言葉にアスカは目を伏せる。

 

 調査兵団はいつもそうだった。

 

 確証などない。

 

 だが進む。

 

 進まなければ何も変わらないから。

 

「作戦はこうだ」

 

 地図の一点を指差す。

 

「ストヘス区地下通路」

 

 アスカの瞳が僅かに動いた。

 

「ここへ目標を誘導する」

 

 地下通路。

 

 その言葉が胸に引っ掛かる。

 

 覚えている。

 

 忘れるはずがない。

 

 初めて地上へ出た場所だった。

 

 地下街。

 

 鉄の扉。

 

 薄暗い階段。

 

 湿った空気。

 

 あの日。

 

 ユミルに会った。

 

 訓練兵団へ入った。

 

 そして。

 

 人間になった。

 

 少なくとも自分ではそう思っている。

 

「地下最下層まで誘導出来れば、目標が巨人化したとしても行動は大きく制限される」

 

 エルヴィンの説明が続く。

 

「捕縛装置も配置する。最善の状況であれば、そのまま確保が可能だ」

 

 エレンが顔を上げた。

 

「俺は」

 

「囮だ」

 

 エルヴィンは即答した。

 

「目標はエレンへの執着を見せている。利用する」

 

 エレンは黙る。

 

 納得した訳ではない。

 

 だが反対もしない。

 

「万が一、地下へ誘導する前に巨人化した場合」

 

 エルヴィンは続ける。

 

「その時はエレン。君に頼ることになる」

 

 部屋が静まり返る。

 

 エレンはゆっくり頷いた。

 

「分かりました」

 

 覚悟を決めた声だった。

 

 リヴァイは何も言わない。

 

 ただ見ている。

 

 エレンが選ぶ瞬間を。

 

「誘導役はアルミン、ミカサ、エレン」

 

 アルミンが小さく息を吐く。

 

 覚悟はしていた。

 

 だが実際に言われると緊張する。

 

「もしも女型の正体がアニでなかった場合、その場で作戦は終了する」

 

「……」

 

「だがアニであった場合、我々は即座に拘束へ移る」

 

 エルヴィンの視線がアスカへ向く。

 

「アスカ」

 

「はい」

 

「君は地下通路側の捕縛班へ入ってもらう」

 

 当然だった。

 

 アスカは頷く。

 

「了解です」

 

 地下通路。

 

 かつての故郷。

 

 皮肉だと思った。

 

 自分を人間にしてくれた場所で。

 

 今度は仲間を捕らえようとしている。

 

 いや。

 

 本当に仲間なのだろうか。

 

 その考えが浮かぶ。

 

 すぐに消した。

 

 まだ決まった訳じゃない。

 

 まだ。

 

 証拠はない。

 

 だが。

 

 心のどこかでは分かっていた。

 

 違和感はずっとあった。

 

 見て見ぬ振りをしていただけで。

 

「質問はあるか」

 

 エルヴィンが言う。

 

 誰も答えない。

 

 静寂。

 

 重い静寂だった。

 

 やがてエルヴィンは小さく頷く。

 

「では各自準備に入れ」

 

 説明は終わった。

 

 誰もすぐには動かない。

 

 椅子を引く音だけが響く。

 

 ジャンが先に立ち上がる。

 

 ミカサも続く。

 

 アルミンは資料を抱えながら俯いていた。

 

「……本当に、こんな作戦をするんですか」

 

 エレンはまだ納得しきれていない顔をしている。

 

 当然だった。

 

 同期を疑えと言われているのだから。

 

 その時。

 

 アスカが口を開いた。

 

 自然と。

 

 言わなければならない気がした。

 

「……俺達にとっては同期で」

 

 全員の視線が集まる。

 

 アスカは拳を握る。

 

「仲間です」

 

 喉が痛い。

 

 それでも続ける。

 

「だから信じたい」

 

 アニを。

 

 訓練兵団の日々を。

 

 あの時間を。

 

「でも」

 

 顔を上げる。

 

「もしアイツが本当に女型なら」

 

 ペトラ。

 

 オルオ。

 

 エルド。

 

 グンタ。

 

 右翼で死んだ兵士達。

 

 名も知らない仲間達。

 

 全員の顔が浮かぶ。

 

「調査兵団の仲間達を大勢殺したことになる」

 

 沈黙。

 

 重い沈黙。

 

「だから」

 

 息を吸う。

 

「この作戦はやるべきだと思います」

 

 誰も反論しなかった。

 

 出来なかった。

 

 それが今出せる唯一の答えだったから。

 

 エルヴィンは静かに頷いた。

 

「そうだ」

 

 短い言葉。

 

 だが力強かった。

 

「我々は前に進む」

 

 部屋の空気が動く。

 

 会議は終わった。

 

 それぞれが席を立つ。

 

 だが。

 

 アスカだけはその場から動けなかった。

 

 頭の中で何度も同じ光景が繰り返される。

 

 炎。

 

 黒煙。

 

 焼かれる遺体。

 

 そして。

 

『ごめんなさい』

 

 小さな声。

 

 あの時は意味が分からなかった。

 

 今なら説明がつく。

 

 だからこそ。

 

 認めたくなかった。

 

 窓の外を見る。

 

 夕陽は沈み始めている。

 

 明日が来る。

 

 そして明後日。

 

 決着の日が来る。

 

 その日までに。

 

 自分は答えを出せるのだろうか。

 

 アニ・レオンハートが敵なのだと。

 

 本当に認められるのだろうか。

 

 

 

 

 

 廊下へ出ても誰も口を開かなかった。

 

 足音だけが響く。

 

 やがてエレンとミカサが先へ行き、自然と三人が残る。

 

 アスカ。

 

 アルミン。

 

 ジャン。

 

 沈黙。

 

 誰も何を言えばいいのか分からない。

 

 最初に口を開いたのはアスカだった。

 

「アルミン」

 

「うん」

 

「本当に間違いないんだな」

 

 アルミンはすぐに答えなかった。

 

 少し考えてから口を開く。

 

「僕に分かる範囲では間違いないよ」

 

「……そうか」

 

 アスカは視線を落とす。

 

 納得した訳ではない。

 

 だがアルミンが適当なことを言う人間ではないのも知っている。

 

「でも」

 

 アルミンは続けた。

 

「違っていてほしいとは思ってる」

 

 その声は少し震えていた。

 

「僕だってアニを疑いたい訳じゃない」

 

 ジャンが鼻で笑う。

 

 自嘲だった。

 

「疑いたくなくても疑うしかねぇんだろ」

 

「ジャン……」

 

「マルコの装置が持っていたならな」

 

 そこで言葉が止まる。

 

 拳が握られる。

 

「なぁアルミン」

 

 低い声だった。

 

「アニが持ってたってことはよ」

 

「……」

 

「マルコが死んだ時、アイツもそこにいたってことだよな」

 

 アルミンは答えない。

 

 答えられない。

 

 確証は無い。

 

 だが。

 

 否定も出来ない。

 

 ジャンは壁へ拳を叩き付けた。

 

 鈍い音が響く。

 

「クソが……」

 

 歯を食いしばる。

 

「やっと諦めがついたと思ったのによ」

 

 マルコは死んだ。

 

 そう思っていた。

 

 巨人に喰われた。

 

 運が悪かった。

 

 そう納得しようとしていた。

 

 だが違うかもしれない。

 

 誰かが関わっていたかもしれない。

 

 それが同期かもしれない。

 

 そんな現実。

 

 受け入れられる訳がない。

 

「ジャン」

 

 アスカが呼ぶ。

 

 ジャンは振り向かない。

 

「もしアニだったら」

 

 低い声だった。

 

「俺は許せねぇ」

 

 ジャンは答えた。

 

 即答だった。

 

「マルコだけじゃねぇ」

 

 ジャンの脳裏にも浮かぶ。

 

 壁外調査。

 

 帰ってこなかった兵士達。

 

 運ばれてきた遺体。

 

 そして。

 

 死んだ仲間達。

 

「でも」

 

 拳を握る。

 

「頼むから違っててくれとも思ってる」

 

 それが本音だった。

 

 同期だった。

 

 一緒に飯を食った。

 

 一緒に訓練した。

 

 一緒に卒業した。

 

 敵であってほしくない。

 

 心のどこかで願っている。

 

 アスカは目を閉じる。

 

 同じだった。

 

 だから苦しい。

 

 だから認めたくない。

 

「……確かめるしかないな」

 

 アスカが呟く。

 

 アルミンも頷く。

 

 ジャンも否定しない。

 

 確かめなければならない。

 

 それがどれほど残酷でも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジャン達と別れた後。

 

 アスカはしばらく旧本部の廊下を歩いていた。

 

 どこへ向かう訳でもない。

 

 ただ足が前へ出る。

 

 考えたくなかった。

 

 だが考えないことも出来なかった。

 

 気付けば日が沈んでいた。

 

 食事もほとんど喉を通らない。

 

 兵士達の話し声も耳に入らない。

 

 何をしていても。

 

 頭の中に浮かぶのは同じ名前だった。

 

 アニ・レオンハート。

 

 ベッドへ横になる。

 

 目を閉じる。

 

 だが眠れない。

 

 瞼の裏に浮かぶ。

 

 女型の巨人。

 

 蹴り。

 

 崩し。

 

 体重移動。

 

 そして。

 

 金髪の少女。

 

「……クソ」

 

 寝返りを打つ。

 

 眠れない。

 

 何度目かも分からない。

 

 時計を見る気にもなれなかった。

 

 静かな夜だった。

 

 だから余計に記憶が蘇る。

 

 ⸻

 

 訓練兵団。

 

 対人格闘術訓練。

 

 乾いた土の上。

 

 見慣れた訓練場。

 

「またお前かよ」

 

 アスカは肩を回しながら言った。

 

 目の前にはアニ。

 

 相変わらず無愛想な顔だった。

 

「不満?」

 

「いや」

 

 アスカは笑う。

 

「お前とやるのが一番面白い」

 

 周囲からざわめきが聞こえる。

 

 大抵の訓練兵はアニとの組み手を嫌がった。

 

 強いからだ。

 

 遠慮が無いからだ。

 

 痛いからだ。

 

 だが。

 

 アスカは違った。

 

 むしろ望んでいた。

 

「今日は勝つ」

 

「前も言ってた」

 

「今日は本当だ」

 

「昨日も聞いた」

 

「うるせぇ」

 

 アニは少しだけ口元を緩めた。

 

 本当に少しだけ。

 

 気付かない奴もいるだろう。

 

 だがアスカは知っている。

 

 アイツはたまに笑う。

 

 ほんの少しだけ。

 

「始め!」

 

 教官の声。

 

 同時に踏み込む。

 

 距離を潰す。

 

 アニの蹴り。

 

 アスカは腕で流す。

 

 反撃。

 

 掴む。

 

 崩す。

 

 投げる。

 

 アニの身体が地面へ叩き付けられる。

 

 周囲からどよめき。

 

「一本!」

 

 アスカは手を差し出した。

 

「ほら」

 

 アニはその手を見る。

 

「……」

 

「何だよ」

 

「別に」

 

 手を取る。

 

 立ち上がる。

 

「油断した」

 

「言い訳か?」

 

「事実」

 

 悔しそうだった。

 

 その顔が少し面白かった。

 

「何勝何敗だっけ」

 

「六対四」

 

「俺の勝ち越しだな」

 

「今日で五だ」

 

「細けぇな」

 

「アンタが数えろって言った」

 

「そんなこと言った覚えねぇ」

 

「ある」

 

 周囲の訓練兵達が呆れた顔をしていた。

 

 ジャンが言う。

 

「お前ら仲良いな」

 

「良くねぇよ」

 

「良くない」

 

 二人同時。

 

 周囲が笑う。

 

 アニは少し嫌そうな顔をした。

 

 アスカも苦笑する。

 

 平和だった。

 

 あの頃は。

 

 ⸻

 

 目を開く。

 

 天井が見えた。

 

 夜。

 

 現実。

 

 訓練兵団ではない。

 

「……」

 

 息を吐く。

 

 嫌になる。

 

 どうしてあんなことを思い出すのか。

 

 忘れればいい。

 

 敵なら敵だ。

 

 そう割り切ればいい。

 

 なのに。

 

 頭が勝手に思い出す。

 

 仲間だった頃を。

 

 ⸻

 

 別の日。

 

 訓練後。

 

 アスカは地面へ寝転がっていた。

 

 全身が痛い。

 

「強ぇな」

 

 空を見ながら言う。

 

「そう?」

 

 隣でアニが水を飲んでいた。

 

「強ぇよ」

 

 素直に認める。

 

 それは悔しいことじゃない。

 

 事実だった。

 

「お前の技術は本物だ」

 

「アンタも十分強い」

 

「褒めても何も出ねぇぞ」

 

「褒めてない」

 

 即答。

 

 アスカは笑った。

 

「可愛くねぇな」

 

「アンタに言われたくない」

 

 沈黙。

 

 風が吹く。

 

 しばらくして。

 

 アニが口を開いた。

 

「ねぇ」

 

「あ?」

 

「何でそんなに強くなりたいの」

 

 珍しい質問だった。

 

「強くなきゃ死ぬからだ」

 

 即答だった。

 

 地下街ではそれが全てだった。

 

 アニは何も言わない。

 

「お前は違うのか」

 

 問い返す。

 

 少しの沈黙。

 

 そして。

 

「帰りたいから」

 

 そう言った。

 

 その時は深く考えなかった。

 

 誰だって故郷くらいある。

 

 そう思っただけだった。

 

 ⸻

 

 帰りたい。

 

 アスカは天井を見る。

 

 あの言葉を思い出す。

 

 今になって引っ掛かる。

 

 何故だろう。

 

 何故あの時。

 

 アニはあんな顔をしたのだろう。

 

 まるで。

 

 今すぐ帰れない場所があるみたいに。

 

「……違う」

 

 呟く。

 

 考え過ぎだ。

 

 そうに決まっている。

 

 だが。

 

 思考は止まらない。

 

 女型の巨人。

 

 右翼。

 

 巨大樹の森。

 

 アニ。

 

 対人格闘術。

 

 女型の蹴り。

 

 アニの蹴り。

 

 女型の崩し。

 

 アニの崩し。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 脳裏で重なる。

 

 忘れる訳がない。

 

 何百回も組み手をした。

 

 身体が覚えている。

 

 だから。

 

 認めたくなかった。

 

 認めてしまえば。

 

 全部繋がるから。

 

 口から零れる。

 

 誰もいない部屋。

 

 返事はない。

 

「本当にお前なのか」

 

 静寂だけが残る。

 

 眠れない夜だった。

 

 ストヘス区決戦まで、あと一日。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 空は晴れていた。

 

 雲一つない青空。

 

 だがアスカの気分は晴れない。

 

 結局ほとんど眠れなかった。

 

 目を閉じる度にアニの顔が浮かんだ。

 

 訓練兵団のアニ。

 

 トロスト区のアニ。

 

 そして女型の巨人。

 

 何度否定しても結論は同じ場所へ戻る。

 

 だから考えるのをやめた。

 

 今はまだ。

 

 確かめるまで決め付けるつもりはない。

 

 それだけだった。

 

 旧本部の中庭。

 

 準備を進める兵士達の姿が見える。

 

 馬車。

 

 装備。

 

 補給品。

 

 明日の作戦に向けて慌ただしい。

 

「眠れてねぇ顔だな」

 

 後ろから声がした。

 

 振り返る。

 

 ジャンだった。

 

「お前もだろ」

 

「まぁな」

 

 ジャンは苦笑した。

 

 目の下には薄い隈。

 

 こいつも大して眠れていないらしい。

 

 二人は並んで腰を下ろした。

 

 しばらく無言。

 

 風が吹く。

 

「なぁ」

 

 ジャンが口を開く。

 

「もし違ったら笑えるな」

 

「何がだ」

 

「全部」

 

 ジャンは空を見る。

 

「俺達揃って勘違いでした、で終わりだ」

 

 アスカは少しだけ笑う。

 

「そうなってくれりゃ一番だな」

 

「だろ」

 

 だが。

 

 二人とも分かっていた。

 

 本気では思っていない。

 

 そうだったらいい。

 

 願っているだけだ。

 

「マルコなら何て言うかな」

 

 ジャンが呟く。

 

 アスカは答えない。

 

「アイツ、こういう時説教してきそうだろ」

 

「するな」

 

「絶対する」

 

 少しだけ笑う。

 

 ほんの少しだけ。

 

 だが長くは続かない。

 

 沈黙が戻る。

 

「……会いてぇな」

 

 ジャンが言った。

 

 アスカは返事をしなかった。

 

 出来なかった。

 

 同じだったからだ。

 

 会いたい。

 

 ペトラにも。

 

 オルオにも。

 

 エルドにも。

 

 グンタにも。

 

 もう会えない。

 

 それが現実だった。

 

 その日の夜。

 

 再び眠れなかった。

 

 昨日よりはマシだった。

 

 だが深くは眠れない。

 

 明日だ。

 

 明日になれば全てが分かる。

 

 だからだった。

 

 怖かった。

 

 アニが女型ではありませんでした。

 

 そう言われれば嬉しい。

 

 心から。

 

 だが。

 

 もし違ったら。

 

 もし本当に女型だったら。

 

 自分はどうするのだろう。

 

 敵として斬れるのだろうか。

 

 答えは出ない。

 

 そのまま夜が明けた。

 

 

 

 

 

 

 作戦当日。

 

 ストヘス区。

 

 王都へ続く街は普段と変わらない朝を迎えていた。

 

 人々が行き交う。

 

 商人が声を張り上げる。

 

 子供が走り回る。

 

 壁外調査の惨劇など知らない。

 

 平和な日常。

 

 だからこそ奇妙だった。

 

 これから戦いが始まる。

 

 誰も知らない場所で。

 

 誰も知らない相手と。

 

「配置につけ」

 

 調査兵が指示を飛ばす。

 

 アスカは地下通路へ向かっていた。

 

 ストヘス区地下通路。

 

 懐かしい匂いがした。

 

 湿った石壁。

 

 冷たい空気。

 

 足音が反響する。

 

 何年ぶりだろうか。

 

 地下街を出てから。

 

 初めて戻ってきた気がした。

 

「アスカ」

 

 声が掛かる。

 

 振り返る。

 

 調査兵だった。

 

「捕縛班の準備は完了した。お前も配置につけ」

 

「了解です」

 

 地下通路の最下層。

 

 複数の兵士が待機している。

 

 捕縛装置も設置済み。

 

 万が一巨人化しても拘束出来るよう準備されていた。

 

 エルヴィン達は本気だ。

 

 絶対に逃がさない。

 

 そんな意思が伝わってくる。

 

 アスカは壁へ背を預ける。

 

 静かだった。

 

 薄暗い地下通路。

 

 蝋燭の火だけが揺れている。

 

 待機。

 

 ただそれだけ。

 

 だが落ち着かない。

 

 思考が止まらない。

 

 アニ。

 

 マルコ。

 

 女型。

 

 訓練兵団。

 

 何度も繰り返す。

 

 考えても答えは出ないのに。

 

 その時だった。

 

 微かに声が聞こえた。

 

 上から。

 

 地下通路入口。

 

 誰かが話している。

 

 聞き慣れた声。

 

 アルミン。

 

 ミカサ。

 

 エレン。

 

 そして。

 

 アニ。

 

 心臓が跳ねた。

 

 来た。

 

 いよいよだ。

 

 作戦が始まった。

 

 だが。

 

 足は動かなかった。

 

 聞こえてくる会話。

 

 同期達の声。

 

 アニの声。

 

 平静を装った話し方。

 

 何も知らない振り。

 

 何も変わらない振り。

 

 その声を聞いているだけで胸が苦しくなる。

 

 認めたくない。

 

 違っていてほしい。

 

 そう思う。

 

 だが。

 

 同時に確かめなければならないとも思う。

 

 兵士だから。

 

 仲間達が命を懸けて繋いだものを無駄には出来ない。

 

 上から話し声が続く。

 

 アルミン。

 

 アニ。

 

 ミカサ。

 

 エレン。

 

 そして沈黙。

 

 嫌な予感がした。

 

 考えるより先に身体が動いていた。

 

 壁から背を離す。

 

 階段へ向かう。

 

「アスカ?」

 

 兵士が呼ぶ。

 

 聞こえない。

 

 聞いていない。

 

 ただ足を動かす。

 

 階段を上る。

 

 石段を踏む音が響く。

 

 コツ。

 

 コツ。

 

 コツ。

 

 地下通路の奥から。

 

 ゆっくりと。

 

 その足音だけが近付いていった──。

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 コツ。

 

 コツ。

 

 コツ。

 

 石段を踏む音が響く。

 

 地下通路の入口。

 

 アニは視線を向けた。

 

 アルミンも。

 

 ミカサも。

 

 エレンも。

 

 全員が振り返る。

 

 暗闇の中から現れた人影は、ゆっくりとフードへ手を掛けた。

 

 布が外される。

 

 見慣れた黒髪。

 

 鋭い眼差し。

 

 アスカだった。

 

 エレンは驚く。

 

 壁外調査から数日。

 

 同じ場所にいたはずなのに。

 

 今こうして見ると、改めて疲弊しているのが分かった。

 

 顔色が悪い。

 

 目の下には薄く隈が出来ている。

 

 まともに眠れていないのだろう。

 

 だが。

 

 それはアスカだけではない。

 

 この場の誰もが同じだった。

 

「早く来いよ」

 

 アスカは軽く肩を竦める。

 

「下まで聞こえてたぞ」

 

 アニは少しだけ目を細めた。

 

「……いたんだ」

 

「まぁな」

 

 アスカは地下へ続く階段を親指で示す。

 

「ここが担当だからな」

 

 自然な声だった。

 

 あまりにも自然だった。

 

 だからこそアルミンは胸が苦しくなる。

 

 聞いていたはずだ。

 

 先程までの会話を。

 

 自分達がアニを疑っていることも。

 

 それでも平然としている。

 

 いや。

 

 平然を装っている。

 

 そう見えた。

 

「降りるのか?」

 

 アスカが聞く。

 

「……」

 

 アニは答えない。

 

 代わりに地下通路へ視線を向ける。

 

「暗いね」

 

「地下だからな」

 

「嫌いなんだよ」

 

「らしいな」

 

 アスカは笑った。

 

「さっき聞こえた」

 

 少しだけ。

 

 本当に少しだけ。

 

 訓練兵団の頃みたいな空気が流れる。

 

 エレンはそれが嫌だった。

 

 苛立った。

 

 何も変わっていないみたいな顔をするな。

 

 そう思った。

 

 アニが本当に女型なら。

 

 リヴァイ班を殺した。

 

 ペトラを。

 

 オルオを。

 

 エルドを。

 

 グンタを。

 

 殺した。

 

 そうだろう。

 

 なのに。

 

 どうしてそんな顔が出来る。

 

 どうしてアスカも普通に話せる。

 

 そんな感情が胸の奥で渦を巻く。

 

「ここの最下層を抜けると更に下へ続く扉がある」

 

 アスカが言う。

 

「重たい鉄の扉だ。その先が地下街」

 

 アニは黙って聞いている。

 

「話したことあったよな」

 

「あぁ」

 

「地下で育ったって話か」

 

「そう」

 

 アスカは少しだけ笑う。

 

「俺の故郷だ」

 

「よく覚えてるよ」

 

「意外だな」

 

「長く話してくれたよ」

 

「そうだったか?」

 

「そうだよ」

 

 少しだけ口元が緩む。

 

 アニだった。

 

 訓練兵団で見た顔。

 

 無愛想で。

 

 不器用で。

 

 時々だけ笑う女。

 

 アルミンは目を伏せた。

 

 違っていてほしい。

 

 心のどこかでまだ願っている。

 

 だが。

 

 もう引き返せない場所まで来ていることも理解していた。

 

「大丈夫だ」

 

 アスカが地下通路を見る。

 

「降りるまでは暗いが、下は案外広い。蝋燭もある」

 

「そういう問題じゃない」

 

「じゃあ俺が後ろにいてやる」

 

「余計怖い」

 

「何でだよ」

 

「何となく」

 

 アスカは吹き出した。

 

「何だそれ」

 

「そういうものなんだよ」

 

 まただ。

 

 エレンは拳を握る。

 

 訓練兵団の頃みたいな会話。

 

 何も変わらないみたいな空気。

 

 それが妙に腹立たしい。

 

 アニが本当に女型なら。

 

 全部壊した張本人じゃないか。

 

 なのに。

 

 どうして。

 

「顔色悪いよ」

 

 不意にアニが言った。

 

 アスカは少し驚く。

 

「はっ……誰のせいだと」

 

 思わず笑う。

 

 乾いた笑いだった。

 

 アニは答えない。

 

 視線を逸らしただけだった。

 

 それだけで。

 

 アスカの胸が痛んだ。

 

 否定しないのか。

 

 そうか。

 

 そうなんだな。

 

 嫌でも考えてしまう。

 

「ねぇ」

 

 アニが言う。

 

「あ?」

 

「いつから気付いてたの?」

 

 空気が変わった。

 

 エレンの眉が動く。

 

 ミカサも僅かに警戒を強める。

 

 アスカは少し考えた。

 

 そして小さく息を吐く。

 

「訓練兵団の頃から普通じゃねぇとは思ってた」

 

 アニは何も言わない。

 

「立ち方とか」

 

「……」

 

「人の見方とか」

 

「……」

 

「格闘術とかな」

 

 沈黙。

 

 風が吹く。

 

 アニは少しだけ笑った。

 

「そう」

 

 小さな声だった。

 

「やっぱりアンタは人をよく見てるね」

 

 アスカは苦笑する。

 

「マルコにも言われた」

 

 その瞬間だった。

 

 アニの表情が止まる。

 

 ほんの僅かに。

 

 だが確かに。

 

 アスカは見逃さなかった。

 

「なぁアニ」

 

 声が静かになる。

 

「聞きたいことがある」

 

 アニは答えない。

 

 ただ見ている。

 

「俺も答えたんだから、お前も答えてくれよ」

 

「……いいよ」

 

 短い返事だった。

 

 誰も動かない。

 

 誰も口を挟まない。

 

 空気が張り詰めている。

 

「トロスト区で死体を焼いた日」

 

 アスカが言う。

 

「あの日、お前『ごめんなさい』って言ってただろ」

 

 アニの瞳が揺れた。

 

 エレンが顔を上げる。

 

 アルミンも息を呑む。

 

「あれは何だった」

 

 沈黙。

 

 長い沈黙。

 

「……さぁね」

 

 アニは視線を逸らした。

 

 誤魔化すように。

 

 逃げるように。

 

 アスカは目を閉じる。

 

 やはり答えない。

 

 なら。

 

 聞くしかない。

 

「じゃあ質問を変える」

 

 静かな声だった。

 

「マルコの立体機動装置を持ってたのは何でだ」

 

 アニの瞳が大きく開かれる。

 

 初めてだった。

 

 ここまで露骨に動揺したのは。

 

「答えてくれ」

 

 アスカは逃がさない。

 

「お前が外したのか」

 

 沈黙。

 

 誰も喋らない。

 

 アニは目を閉じる。

 

 そして。

 

 ゆっくりと開いた。

 

「……私が外した」

 

 世界が静まり返った。

 

 エレンの拳が震える。

 

 アルミンは目を伏せる。

 

 ミカサは静かに刃へ手を添えた。

 

 認めた。

 

 本人が。

 

 マルコに関わっていたと。

 

 認めた。

 

 アスカは何も言えない。

 

 言葉が出てこない。

 

 胸の奥が冷えていく。

 

 信じたくなかった。

 

 だが。

 

 もう否定出来ない。

 

 それでも。

 

 聞かなければならなかった。

 

「……そうか」

 

 掠れた声。

 

「じゃあもう一つだけ聞かせろ」

 

 アニは黙っている。

 

 アスカは真っ直ぐ見た。

 

「何で俺を殺さなかった」

 

 空気が止まる。

 

「何で俺を握り潰さなかった」

 

 アニは答えない。

 

「俺を殺してりゃエレンを連れて帰れたかもしれない」

 

 拳が震える。

 

「なのに何でだ」

 

 声が少しずつ強くなる。

 

「何で俺だけ生かした……!」

 

 アニはまだ黙っている。

 

 アスカの脳裏に浮かぶ。

 

 ペトラ。

 

 オルオ。

 

 エルド。

 

 グンタ。

 

 死んだ仲間達。

 

「何でだよ」

 

 感情が漏れる。

 

「何で……調査兵団を、俺達の仲間を大勢殺したのに」

 

 喉が痛い。

 

 それでも止まらない。

 

「なのに……何で俺だけなんだよ」

 

 

 

 アニは答えない。

 

 ただアスカを見ていた。

 

 訓練兵団の頃と変わらない顔だった。

 

 だから余計に苦しい。

 

「答えろよ」

 

 アスカの声が掠れる。

 

「何で俺だけ生かした」

 

 アニは目を伏せた。

 

 沈黙。

 

 長い沈黙だった。

 

 エレンは歯を食いしばる。

 

 アルミンも黙っている。

 

 誰も口を挟まない。

 

 これはアスカとアニの話だった。

 

「……私にも分からない」

 

 ようやく返ってきた言葉だった。

 

 アスカは思わず笑った。

 

 乾いた笑いだった。

 

「分からない?」

 

 信じられなかった。

 

「そんなの理由になってねぇだろ」

 

 拳が震える。

 

 怒りなのか。

 

 悲しみなのか。

 

 自分でも分からない。

 

「俺はずっと考えてたんだ。何か意味があったのかって。見逃した理由があるんじゃないかって」

 

 顔を上げる。

 

 逃がさないように。

 

 真っ直ぐ。

 

「なのに分からないって……何だよ。そんなの納得できる訳ねぇだろ」

 

 アニは黙って聞いている。

 

 その沈黙が苦しい。

 

「何で俺には優しかった」

 

 ぽつりと漏れる。

 

 責めるような声ではなかった。

 

 確認するような。

 

 縋るような。

 

 そんな声だった。

 

「訓練兵団で飯食って、話して……普通に笑ってたじゃねぇか」

 

 脳裏に浮かぶ。

 

 土埃だらけの訓練場。

 

 夕焼け。

 

 食堂。

 

 何でもない日々。

 

「俺は仲間だと思ってた」

 

 喉が詰まる。

 

「少なくとも……そう思いたかった」

 

 少しだけ目を伏せる。

 

「全部嘘だったのか」

 

 静寂。

 

 誰も動かない。

 

 エレンも。

 

 アルミンも。

 

 ミカサも。

 

 ただ二人を見ていた。

 

 やがてアニは小さく首を横に振る。

 

「違う」

 

 短い言葉だった。

 

 だが迷いは無かった。

 

「全部じゃない」

 

 アスカの瞳が揺れる。

 

 アニは視線を逸らさない。

 

「嘘じゃなかったこともある」

 

 言い訳をしているようには見えなかった。

 

 誤魔化しているようにも。

 

 ただ事実を口にしているだけ。

 

 そんな声だった。

 

「……じゃあ何だよ」

 

 アスカは力なく笑う。

 

「何なんだよそれ」

 

 全部嘘だったと思えれば楽だった。

 

 敵だと割り切れた。

 

 憎めた。

 

 斬れた。

 

 だが目の前の女はそう言わない。

 

 だから苦しい。

 

 アニは少しだけ空を見上げた。

 

「アンタと戦うのは嫌いじゃなかった」

 

 アスカが目を見開く。

 

「悔しかったけど」

 

 ほんの少しだけ。

 

 口元が緩む。

 

「結構負けたから」

 

 訓練場。

 

 対人格闘術。

 

 何度も繰り返した勝負。

 

 六対四。

 

 そんな記憶が脳裏を過る。

 

「覚えてんのかよ」

 

「覚えてる」

 

 即答だった。

 

 だから辛い。

 

 だから認めたくない。

 

「それなら……何でだ」

 

 アスカは絞り出すように言う。

 

「何でこんなことした」

 

 アニは答えない。

 

 答えられない。

 

 沈黙だけが残る。

 

 そしてしばらくして。

 

 アニは小さく息を吐いた。

 

「少なくとも……アンタには死んでほしくなかった」

 

 その言葉が胸に刺さる。

 

 深く。

 

 深く。

 

 理解したくないのに。

 

 理解してしまう。

 

 アスカはしばらく何も言えなかった。

 

 怒鳴ることも。

 

 否定することも。

 

 出来なかった。

 

 アニが嘘を吐いているようには見えなかったからだ。

 

 だから苦しい。

 

「……そうか」

 

 ようやく絞り出した声だった。

 

 少し俯き、長く息を吐く。

 

 感情を押し殺すように。

 

 覚悟を決めるように。

 

 そして顔を上げた。

 

「俺はお前を止めなきゃならない。同期だからとか、仲間だったとか、そういうの全部抜きにしてもだ。お前が女型なら、もう見逃せない」

 

 ペトラ。

 

 オルオ。

 

 エルド。

 

 グンタ。

 

 女型に殺された兵士達の顔が脳裏を過る。

 

 骸を抱えて帰った日。

 

 市民達の罵声。

 

 それでも前へ進こうとした仲間達。

 

 全部が頭をよぎった。

 

 アスカは地下通路を指差す。

 

「だから下に来い。お前とはもう戦いたくない」

 

 アニは目を伏せた。

 

 地下へ続く階段を見る。

 

 その先に何があるのか理解している。

 

 捕縛班。

 

 拘束具。

 

 調査兵団。

 

 全て。

 

 分かっている。

 

 それでも。

 

 アニはゆっくり首を横に振った。

 

「それは出来ない」

 

 短い返答だった。

 

 だが決定的だった。

 

 アスカは唇を噛む。

 

「頼む。疑いが晴れるならそれでいい。違うなら違うで終わりだ。だから来てくれ」

 

 自分でも情けないと思った。

 

 兵士が。

 

 敵かもしれない相手へ。

 

 こんな言葉を向けている。

 

 だが止められなかった。

 

 アニはそんなアスカを見つめる。

 

 少しだけ寂しそうに笑った。

 

「優しいね」

 

「そうか?」

 

「そうだよ」

 

 風が吹く。

 

 金色の髪が揺れた。

 

 アニは空を見上げる。

 

 雲が流れている。

 

 穏やかな空だった。

 

 戦いには似合わないほどに。

 

「私は戦士になり損ねた」

 

 ぽつりと零れた言葉。

 

 アスカは眉をひそめる。

 

「……何だそれ」

 

 アニは苦笑した。

 

「さぁね。私にも分からない」

 

 今度は怒りは湧かなかった。

 

 本当に分からないのかもしれない。

 

 そんな顔をしていたからだ。

 

 アスカは腰へ手を伸ばす。

 

 刃の柄を握る。

 

 冷たい感触。

 

 慣れた感触だった。

 

 鋼が鞘から滑り出る。

 

「……そうか」

 

 静かに呟く。

 

 そしてアニを見る。

 

 訓練兵団の同期ではなく。

 

 女型の巨人かもしれない存在として。

 

「お前と戦うのは四度目だ。終わりにしよう、アニ」

 

 アニは黙って聞いていた。

 

 視線がゆっくりと右手へ落ちる。

 

 アスカも見ていた。

 

 もう戻れない。

 

 お互いに。

 

 そのことだけは理解している。

 

「アンタと会わなければ、違う結末だったのかもね」

 

 アスカは少しだけ笑った。

 

 皮肉げに。

 

 寂しそうに。

 

「どうだかな。未来なんて誰にも分からねぇよ」

 

 脳裏に浮かぶ。

 

 リヴァイの言葉。

 

 結果は誰にも分からない。

 

 だから選べ。

 

 自分で。

 

 アスカは刃を構えた。

 

「俺の尊敬してる人が言ってた。悔いの残らない方を選べってな。……俺は選ぶぞ」

 

 目を逸らさない。

 

 もう逃げない。

 

 アニは静かに聞いていた。

 

 そして小さく目を閉じる。

 

 数秒。

 

 それから再び開いた瞳には覚悟が宿っていた。

 

「じゃあ私も選ぶことにするよ」

 

 その瞬間だった。

 

 アスカの左手が動く。

 

 銃口が空へ向く。

 

 引き金を引く。

 

 轟音。

 

 音響弾。

 

 同時。

 

「捕縛しろ!」

 

 屋根の上。

 

 路地裏。

 

 潜んでいた調査兵達が一斉に飛び出す。

 

 ワイヤー。

 

 拘束具。

 

 瞬く間にアニの身体を縛り上げる。

 

 腕。

 

 脚。

 

 胴体。

 

 そして口元。

 

 自傷を防ぐための拘束。

 

「確保!!」

 

 兵士達が叫ぶ。

 

 成功した。

 

 そう思った。

 

 だが。

 

 アスカの視線は一箇所へ向いていた。

 

 右手。

 

 人差し指。

 

 指輪。

 

 銀色の輪。

 

 その内側。

 

 小さな刃。

 

 血の気が引いた。

 

「ミカサ!!」

 

 叫ぶ。

 

 ミカサは即座に反応した。

 

 エレンの腕を掴む。

 

 アルミンを引き寄せる。

 

 三人は地下通路へ走る。

 

 アスカ自身も立体機動に移る。

 

 その瞬間。

 

 アニは自らの指を傷付けた。

 

 血が舞う。

 

 閃光。

 

 爆発。

 

 世界が白く染まった。

 

 熱風が吹き荒れる。

 

 石畳が砕ける音。

 

 建物が軋む音。

 

 兵士達の叫び声。

 

 そして。

 

 肉が膨張する音。

 

 アスカは目を細めた。

 

 眩しい光の向こう。

 

 巨大な影が立ち上がる。

 

 煙が晴れる。

 

 十五メートル級。

 

 金色の髪。

 

 青い瞳。

 

 何度も見た姿だった。

 

 だが。

 

 今だけは違った。

 

 訓練兵団で共に過ごした同期でもない。

 

 対人格闘術を繰り返した相手でもない。

 

 アニ・レオンハートでもない。

 

 そこにいたのは。

 

 調査兵団を蹂躙し。

 

 大勢の仲間を殺した。

 

 女型の巨人だった。

 

 女型は静かにアスカを見下ろす。

 

 アスカもまた見上げる。

 

 言葉はない。

 

 必要もなかった。

 

 もう疑う余地は無い。

 

 現実は残酷なほど明確だった。

 

 アニ・レオンハートは。

 

 女型の巨人だった。

 

 

 

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