地上
入団式から一夜明けた朝。
まだ陽も昇り切っていない時間だというのに、訓練兵達は既に外へ叩き出されていた。
「起きろゴラァ!!」
「五秒以内に立たなかった奴から蹴るぞ!!」
教官達の怒号。
扉を蹴飛ばす音。
眠気で頭が回っていない訓練兵達が、半分死んだ顔で外へ引きずり出されていく。
「……クソ」
アスカは目を擦りながら歩く。
寝起きは悪くない。
地下街では、いつ誰に襲われるか分からなかった。眠りが浅いのは昔からだ。
だが。
規則正しく起こされる生活にはまだ慣れない。
「眠ぃ……」
隣を歩くコニーが魂の抜けた声を出す。
「帰りてぇ……」
「昨日来たばっかだろ」
ジャンが呆れたように返す。
「うるせぇよ馬面」
「誰が馬だ」
いつものやり取り。
まだ入団して二日目だというのに、妙に馴染んでいた。
訓練地へ到着すると、既にキース教官が待っていた。
朝日を反射する剃り込み。
相変わらず目付きが怖い。
その後ろには、見慣れない装置が並んでいた。
三本の支柱。
吊り下げられたワイヤー。
奇妙な構造物。
訓練兵達の視線が自然とそちらへ集まる。
すると。
「まずは貴様らの適性を見る」
キースが口を開いた。
低く、腹へ響く声だった。
「これが出来ん奴は囮にも使えん!! 開拓地へ送る!!」
空気が張る。
「心して訓練に臨め!!」
『ハッ!!』
怒号みたいな返事が返る。
訓練兵達の顔付きは様々だった。
気合いの入った奴。
不安そうな奴。
教官へ良い所を見せようとしている奴。
そして。
「……」
アスカは欠伸を噛み殺していた。
正直、そこまで興味が無い。
巨人を倒したい訳でもない。
兵士になりたい訳でもない。
ただ。
壁の外へ少し興味がある。
それだけだった。
「十人ずつ前へ出ろ!!」
グループ分けが始まる。
アスカはキース直轄の組へ放り込まれた。
空気が少し重くなる。
誰もが緊張していた。
一人を除いて。
「……」
アスカはぼんやり空を見ている。
その態度を、キースは視界の端で捉えていた。
そして。
真っ直ぐ近づいてくる。
軍靴の音。
重い。
止まる。
顔が近い。
かなり近い。
普通なら怯む距離だった。
「……なんだよ」
アスカが眉を寄せる。
周囲の空気が凍る。
――余計な事言うな。
全員がそう思った。
だがキースは怒鳴らなかった。
「貴様からだ。アスカ訓練兵」
「どうやるんだよ」
アスカが装置を見る。
「何も説明されてねぇけど」
「難しい事ではない」
キースがワイヤーを指差す。
「腰へ付けろ」
「はいはい」
適当に返しながら装着する。
地下街で色々な道具を扱ってきた経験があるせいか、構造の理解は早かった。
「よし。上げろ」
次の瞬間。
身体が浮く。
「……あー」
アスカはすぐ理解した。
吊られた瞬間、自然と重心を調整する。
腰。
足。
肩。
どこへ体重を乗せるべきか。
空中でどう軸を作るか。
身体が勝手に答えを出していた。
「……」
静止。
全くブレない。
まるで最初からそこに浮いていたみたいだった。
周囲の訓練兵達がざわつく。
「おい……」
「なんで普通に出来てんだよ……」
アスカ本人は不思議そうだった。
むしろ。
――何が難しいんだこれ。
本気でそう思っていた。
キースは黙ったまま見ている。
鋭い目。
観察している。
空間把握。
重心移動。
平衡感覚。
そして。
空中へ放り出されても全く乱れない精神。
異常だった。
「なぁ」
アスカが宙で言う。
「まだやんの?」
「……いや、もういい」
キースが短く返す。
「降ろせ」
ワイヤーが緩む。
地面へ降り立つ。
アスカは軽く肩を回した。
「このように」
キースが全員を見る。
「貴様らには立体機動の適性があるかを見る!!」
怒号。
「出来ん者は去れ!! 以上だ!!」
訓練が始まる。
だが。
アスカには理解出来なかった。
何故こんな単純な事が出来ないのか。
ただバランスを取るだけだ。
地下街では、もっと不安定な場所を飛び回っていた。
だから。
理解出来ない。
「何をやっているエレン・イェーガー!! 上体を起こせ!!」
怒声。
視線を向ける。
そこには、逆さまになったエレンがいた。
「ぶっ……」
コニーが吹き出す。
周囲からも笑いが漏れる。
エレンの顔は真っ赤だった。
悔しさ。
焦り。
羞恥。
全部混ざっている。
「……」
アスカは少し目を細める。
あまりにも出来なさ過ぎた。
逆に違和感を覚える程に。
――コイツ、本当に適性ねぇのか?
エレンは歯を食いしばっていた。
笑われている。
見られている。
でも。
それ以上に。
自分自身へ失望していた。
その顔を見て、アスカは少しだけ地下街時代を思い出す。
出来ない奴は死ぬ。
弱い奴は置いていかれる。
そういう世界だった。
だから。
エレンの目が少しだけ気になった。
悔しそうだったからだ。
☆☆☆
本日の訓練は立体機動の適性確認だけで終わった。
訓練兵達は解散と同時に食堂へ雪崩れ込む。
張り詰めていた空気が一気に緩んでいた。
制服を脱ぎ、支給された簡素な私服へ着替えた新兵達が、好き勝手騒いでいる。
「いやマジで死ぬかと思った……」
「教官怖すぎんだろ……」
「俺、完全に漏らしたと思った」
「それはお前だけだ」
笑い声。
食器のぶつかる音。
熱いスープの匂い。
兵士の食堂というより、ただの学生寮みたいだった。
「にしても今日はラッキーだったな」
ユミルが椅子へ深く座りながら言う。
「もっと地獄みたいな事させられると思ってた」
「適性訓練だけだったもんね」
クリスタが苦笑する。
向かいではサシャが既に二個目のパンへ手を伸ばしていた。
「お前それ誰のだ」
「クリスタのです」
「当たり前みたいに言うな」
アスカはスープを口へ運ぶ。
温かい。
地下街では、温かい食事なんてそれだけで贅沢だった。
「……」
ふと。
周囲の空気が妙にざわついている事へ気付く。
ひそひそ声。
笑い声。
視線。
その先。
「あいつだろ?」
「逆さ吊りになってた奴」
「明日には開拓地行きだな」
「巨人を皆殺しにするとか言ってたのに?」
嘲笑。
視線の先にはエレンがいた。
包帯を頭へ巻き、俯きながら座っている。
その隣にはアルミンとミカサ。
二人とも何か話しかけているが、エレンの顔は暗いままだった。
「……」
アスカは少し目を細める。
周囲の連中は楽しそうだった。
自分より下が出来たから。
安心している。
地下街でも何度も見た顔だった。
弱者を見つけた時の人間。
「……汚ぇな」
ぽつりと零れる。
「え?」
クリスタが顔を上げた。
アスカはスープを飲みながら続ける。
「分かりやす過ぎんだろ」
「何が?」
「自分より下だと思った瞬間、石投げ始める所」
静かな声だった。
でも。
少し冷たい。
ユミルが横目で見る。
「はぁ?」
口元は笑っている。
だが目は笑っていなかった。
「お前さっきから何言ってんのか全然分かんねぇんだけど」
「そのままだろ」
「達観した目で語ってんじゃねぇよ」
少し語気が強い。
クリスタが小さく肩を震わせる。
「別にお前らだけの話じゃねぇ」
アスカが言う。
「人間なんてそんなもんだ」
「……それ私も含めてか?」
「当たり前だろ」
空気が少し冷える。
ユミルが椅子へ深く寄り掛かった。
「じゃあお前はなんだよ」
「あ?」
「汚くない人間なのか?」
「誰もそんな事言ってねぇ」
「私にはそう聞こえんだよ」
地下街時代なら、ここで殴り合いになってもおかしくなかった。
だが。
ユミルが怒っている理由は別だと、アスカは気付いていた。
――クリスタか。
さっきからユミルは、クリスタがどう思うかを妙に気にしている。
それが気に食わないらしい。
「……お前さ」
アスカがパンを千切る。
「何怒ってんだよ」
「別に」
「嘘つけ」
「うるさい」
クリスタが完全に固まっていた。
助けを求めるみたいにサシャを見る。
だが。
「……?」
いない。
いつの間にか逃げていた。
アスカは少し吹き出しそうになる。
――生存本能高ぇな芋女。
「クリスタ」
突然ユミルが言う。
「えっ!? な、なに!?」
「腹いっぱいだ」
トレーを押し出す。
「残り食え」
「え? う、うん……」
「じゃ、戻る」
立ち上がる。
食器が鳴る。
ユミルはそのまま食堂を出て行った。
「……なんだったの?」
クリスタが困った顔をする。
アスカは小さく息を吐いた。
「さぁな」
立ち上がる。
ユミルのトレーを見る。
パンだけ残っていた。
「それ貰うぞ」
「え?」
「どうせ食わねぇだろアイツ」
パンを掴む。
鐘の音が響いた。
食事終了。
訓練兵達が席を立ち始める。
「じゃあなクリスタ」
「あ、うん! また明日!」
アスカは軽く手を上げ、そのまま食堂を後にした。
外は少し冷えていた。
空を見上げる。
星が出ている。
地下街では見えなかった光景だった。
そして。
宿舎へ戻る途中。
「なぁ!!」
聞き覚えのある声。
振り返る。
エレンだった。
包帯姿のまま、こちらへ走ってくる。
「……なんだよ」
「頼む!! 教えてくれ!!」
「は?」
「立体機動だよ!!」
必死だった。
アスカは少し眉を寄せる。
宿舎へ入ると、既にエレン達が騒いでいた。
「姿勢制御のコツ教えてくれ!」
「知らねぇよ」
「感じろとしか言えん」
「それ教える側が一番言っちゃダメな奴だろ」
コニーが笑う。
ジャンも鼻で笑っていた。
「お前昨日“才能無い奴は去れ”とか言ってなかったか?」
「うっ……」
エレンが詰まる。
「違ったか。“力の無い奴は――”」
「もういいだろ!!」
真っ赤だった。
本気で恥ずかしいらしい。
アスカはベッドへ腰掛け、本を開く。
騒がしい。
だが嫌ではなかった。
「なぁアスカ!!」
「……」
「アスカって一番上手かったんだろ!? 頼む!!」
覗き込んでくる。
近い。
「コツなんざねぇよ」
「じゃあなんで出来たんだよ!」
「知らん」
本気だった。
だからエレンは余計困惑する。
「お前の場合」
アスカが本を閉じる。
「もっと前の問題だ」
「……は?」
「装備」
エレンが固まる。
「お前の腰巻、左右のバランスおかしかっただろ」
「え?」
「どう見ても故障してた」
静かになる。
アルミンが目を見開く。
エレンも僅かに反応した。
「……じゃあ」
エレンの声が震える。
「俺、適性が無い訳じゃ……」
「さぁな」
アスカが肩を竦める。
「俺の装備貸してやる」
「!!」
「それでも出来なかったら諦めろ」
一瞬の沈黙。
そして。
「ありがとうアスカ!!」
エレンが飛び上がる。
勢い余って天井へ頭をぶつけた。
「っっっ!!」
鈍い音。
コニーが爆笑する。
ジャンも吹き出していた。
アスカは深く息を吐く。
――コイツ、騒がしいな。
でも。
少しだけ。
嫌いじゃなかった。
☆☆☆
翌朝。
まだ空気の冷たい時間だった。
訓練兵達は再び訓練場へ整列している。
眠そうな顔。
疲労の残った身体。
だが昨日より空気は少し違った。
立体機動。
兵士になる為の最初の関門。
そこで落ちるかもしれないという現実を、一度突き付けられたからだ。
「静粛に!!」
教官の怒声。
ざわつきが止まる。
キース教官が前へ出る。
朝日を背負った姿は、相変わらず威圧感の塊だった。
「本日も立体機動適性訓練を行う!!」
空気が張る。
「昨日出来なかった者!! 本日出来なければ終わりだと思え!!」
何人かの顔色が変わった。
その中には当然、エレンもいる。
「……」
アスカは横目で見る。
顔色が悪い。
だが。
目だけは死んでいなかった。
昨夜より強い。
アスカは小さく目を細める。
――単純だな。
でも。
そういう奴は嫌いじゃない。
「では始めろ!!」
訓練開始。
各班へ分かれていく。
エレンは真っ直ぐアスカの方へ来た。
「貸してくれ!!」
「ほら」
腰の装備を投げ渡す。
エレンは慌てて受け取った。
「ありがとな!!」
「落とすなよ」
アスカは壁へ背を預ける。
周囲では既に訓練が始まっていた。
空中へ吊られる訓練兵達。
悲鳴。
怒号。
転倒。
昨日より多少マシだが、まだ不格好な奴が多い。
だが。
エレンだけは違った。
「……」
装備を付ける。
深呼吸。
ワイヤーが巻き上がる。
身体が浮く。
一瞬。
少し揺れる。
だが。
「……出来てる」
アルミンが呟く。
エレンは落ちなかった。
空中で踏ん張っている。
不安定ではある。
綺麗でもない。
でも。
昨日みたいに逆さ吊りにはなっていない。
「おおおお!!」
コニーが声を上げる。
「マジかよ!!」
ジャンも目を見開いていた。
ミカサが小さく息を吐く。
安心したらしい。
エレン本人は必死だった。
歯を食いしばり、全身へ力を込めている。
余裕なんて無い。
それでも。
落ちない。
「……」
キースが黙って見ている。
鋭い視線。
そして。
アスカへ一瞬だけ目を向けた。
気付いている。
装備の故障にも。
アスカが貸した事にも。
でも何も言わない。
「やれば出来るじゃねぇか」
アスカが小さく呟く。
エレンは聞こえていない。
必死過ぎて。
その時だった。
パキッ。
小さな音。
次の瞬間。
エレンの身体が大きく傾いた。
「っ!?」
ワイヤーが揺れる。
空気がざわつく。
「エレン!!」
アルミンが叫ぶ。
だが。
エレンは落ちなかった。
無理矢理身体を戻す。
軸を立て直す。
汗が飛ぶ。
歯軋りの音が聞こえそうだった。
そして。
静止。
空中で踏み止まる。
数秒。
いや。
エレンにとっては永遠みたいな時間だった。
「……よし」
キースが口を開く。
「合格だ」
その瞬間。
エレンの顔から力が抜けた。
「っしゃぁぁぁ!!」
叫ぶ。
空中で。
当然バランスを崩しかけた。
「馬鹿!!」
アルミンが叫ぶ。
周囲から笑いが漏れる。
だが。
昨日とは違う笑いだった。
嘲笑じゃない。
認める笑い。
「すげぇなアイツ」
「昨日あんだけ出来なかったのに……」
「根性だけは本物かよ」
エレンが地面へ降りる。
息が荒い。
汗だく。
でも。
笑っていた。
真正面からアスカを見る。
「ありがとな!!」
「うるせぇよ」
アスカが眉を寄せる。
「声でかい」
「でもお前のおかげで――」
「別に助けた訳じゃねぇ」
アスカは肩を竦める。
「故障してるって分かったから言っただけだ」
「それでもだ!!」
エレンは真っ直ぐだった。
眩しいくらいに。
アスカは少しだけ視線を逸らす。
地下街にはいなかった。
こういう奴。
「……変な奴」
ぽつりと漏れる。
「ん? なんか言ったか?」
「何も」
アスカは短く返し、空を見上げる。
青かった。
今日も。