地下街に朝はない。
いや、正確にはある。
地上と同じように太陽は昇っているし、空の色だって変わっているはずだった。
ただ、それが見えないだけだ。
壁の下に作られた街。
石造りの天井。
湿った空気。
淀んだ水の匂い。
腐った食べ物。
酒。
血。
汗。
色んな匂いが混ざり合って、地下街の空気を作っていた。
生きているだけで肺が汚れる場所だった。
それでも、人は生きていた。
アスカも、その一人だった。
細い路地を走る。
石畳を蹴る足音が狭い道に響く。
小さい身体。
細い腕。
痩せた足。
十歳の身体はまだ出来上がっていない。
でも速かった。
地下街では、それだけで武器になる。
「待てガキィ!!」
後ろから怒鳴り声。
パン屋の親父だった。
太っているくせに、しつこい。
アスカは振り返らない。
脇に抱えたパンを落とさないよう押さえ込み、そのまま角を曲がる。
狭い。
暗い。
でも知っている道だった。
何度も走った道。
身体が覚えている。
木箱を飛び越える。
壁を蹴る。
横道へ飛び込む。
そのまま裏路地へ。
息を潜める。
足音が通り過ぎる。
怒鳴り声が遠ざかった。
撒いた。
アスカは小さく笑った。
「遅ぇぞ」
声。
顔を上げる。
レオだった。
壁にもたれ、腕を組んでいた。
十五歳。
この中で一番年上。
黒髪。
鋭い目。
地下街の子供にしては珍しく、落ち着いていた。
盗みも喧嘩も強い。
でも何より、生き残るのが上手かった。
アスカに盗みを教えたのもレオだった。
「親父がしつこかった」
パンを投げる。
レオが受け取る。
「そりゃ追うだろ」
横から笑ったのはミナだった。
十三歳。
金髪を雑に結んでいる。
いつも口が悪い。
でも飯を分ける時はちゃんと四等分する。
アスカは知っていた。
ミナが一番腹を空かせていることを。
それでも分けることを。
「今日の収穫は」
アスカが聞く。
ミナが懐からリンゴを出した。
少し傷んでいた。
でも食える。
「どうだ」
「一個だけかよ」
「文句あんの?」
「ない」
最後に、小さな影が飛びついてくる。
「アスカ!」
トーマだった。
八歳。
細い。
軽い。
骨ばっている。
でも目だけは妙に明るい。
地下街に染まりきっていない目だった。
「見てた!速かった!」
アスカが頭を押し返す。
「離れろ」
「なんでだよ!」
「暑い」
トーマが笑う。
レオがパンを割る。
四つに。
少ない。
でも慣れていた。
パンを受け取る。
硬い。
でも腹に入る。
それで十分だった。
ミナがパンを齧りながら言う。
「またパンか」
「食えるだけマシだ」
レオが返す。
終わり。
文句を言っても増えない。
地下街の常識だった。
アスカも齧る。
固い。
口の中の水分を持っていかれる。
でも嫌いじゃない。
生きてる感じがした。
「なぁ」
トーマがアスカを見る。
「怖くない?」
「何が」
「盗み」
アスカは即答した。
「別に」
本当にそうだった。
怖いとか考えたことがない。
盗まなきゃ食えない。
それだけだ。
「すげぇな」
トーマが素直に言う。
ミナが笑う。
「お前、アスカ好きすぎ」
「だって強ぇじゃん!」
アスカは鼻を鳴らす。
強い。
そう言われるのは嫌じゃない。
地下街では強い方が生き残る。
それだけの話だった。
レオがパンを食いながらアスカを見る。
「でもお前」
アスカが見る。
「前しか見えてねぇ」
意味が分からなかった。
「は?」
ミナが笑う。
「あー、それ分かる」
「何がだよ」
レオが石を拾う。
何気なく。
アスカの横へ投げた。
反応できない。
石が壁に当たる。
乾いた音。
アスカが睨む。
「何すんだよ!」
「ほら」
レオが言う。
「横が見えてねぇ」
アスカが鼻を鳴らす。
「必要ねぇだろ」
「必要だ」
レオの声が少し低くなる。
「前だけ見てる奴は、横から死ぬ」
その言葉の意味が、アスカにはよく分からなかった。
死ぬ。
そんなもの、地下街ではいつも近くにある。
でも自分には関係ないと思っていた。
速い。
逃げられる。
盗れる。
勝てる。
そう思っていた。
十歳だった。
無敵だと思っていた。
「死なねぇよ」
即答だった。
レオが少し笑った。
「その顔が危ねぇんだよ」
ミナが立ち上がる。
パン屑を払う。
「説教くせぇな」
トーマも立つ。
「次どこ行く?」
レオが周囲を見た。
癖みたいだった。
前だけじゃない。
横も。
後ろも。
上も。
アスカはその意味を知らない。
レオが少し声を落とす。
「デカい仕事がある」
空気が変わる。
ミナが目を細めた。
「どこ」
レオが答える。
「廃教会」
アスカの目が少し光る。
地下街の端。
使われなくなった古い教会。
最近、地上の商人が物資置き場にしているという噂があった。
食料。
金。
薬。
色々あるらしい。
「本当か?」
アスカが聞く。
レオが頷く。
「見た」
ミナが笑う。
「当たりじゃん」
トーマだけが少し不安そうだった。
「大丈夫かな」
アスカが立ち上がる。
迷いなく。
「問題ねぇ」
盗って。
逃げる。
それだけだ。
簡単だった。
そう思っていた。
レオだけが少し考えていた。
周りを見ていた。
違和感を探していた。
でも。
アスカは気づかなかった。
前しか見ていなかったからだ。
☆☆☆
廃教会は地下街の外れにあった。
外れ、と言っても地下街そのものが壁の外れと言っていい。
その中でもさらに端。
人通りが少なく、灯りも届かない場所だった。
昔は祈る場所だったらしい。
今は誰も祈らない。
神に縋る余裕がある人間なんて地下街にはいない。
生きるだけで手一杯だった。
四人は細い路地を進んでいた。
先頭はアスカだった。
いつもそうだった。
速いから。
見つけるのが早いから。
逃げるのも早いから。
だから前を任される。
それが少し誇らしかった。
後ろからミナの声。
「本当に物資あるんだろうな?」
レオが答える。
「ああ」
短い。
でもレオが言うなら間違いない。
アスカはそう思っていた。
レオは嘘をつかない。
地下街では珍しい種類の人間だった。
「食いもんあるかな」
トーマが言う。
「まず金だろ」
ミナが返す。
「金があれば食いもん買える」
アスカが鼻で笑う。
「盗めばいい」
ミナが笑った。
「それもそう」
会話は軽かった。
仕事前なのに緊張感がない。
それだけ慣れていた。
何度も盗んできた。
何度も逃げ切ってきた。
今回も同じ。
そう思っていた。
レオだけが少し静かだった。
歩きながら周囲を見ている。
路地裏。
物陰。
高所。
足跡。
音。
全部見ている。
アスカは気づかない。
前しか見ていないからだ。
「アスカ」
後ろから声。
振り返る。
レオだった。
「今日、お前は先に入るな」
意味が分からない。
「なんで」
「確認してからだ」
アスカは眉を寄せる。
「いつも先に入ってるだろ」
「今日は違う」
「何が」
レオが少し黙る。
考えていた。
言葉にするほどの確信はない。
でも何か引っかかっていた。
「静かすぎる」
アスカは周囲を見る。
確かに静かだった。
でも地下街の端なんていつもこんなものだ。
人が少ない。
音も少ない。
普通だった。
「気にしすぎだ」
アスカが言う。
レオが睨む。
少し強く。
「そういうとこだ」
その目にアスカは少し黙る。
でも納得はしていなかった。
慎重すぎる。
そう思った。
ミナが空気を変えるように言う。
「まぁ、慎重で悪いことはない」
トーマも頷く。
「うん」
アスカだけが少し前を歩いた。
足が速い。
気持ちが先へ行っている。
廃教会の物資。
金。
食料。
全部頭の中にある。
目の前にあるものしか見えていない。
だから。
気づかなかった。
後ろの路地に、人影があったこと。
一瞬だけ動いた影。
見ていた。
四人を。
レオだけが気づいた。
足を止める。
振り返る。
誰もいない。
でも。
いる。
気配だけが残っていた。
「レオ?」
トーマが不安そうに見る。
レオは少しだけ考える。
引き返すか。
進むか。
迷う。
だが。
ここまで来て手ぶらでは帰れない。
地下街では、それが命取りになることもある。
「……行くぞ」
低く言う。
アスカはすぐ動く。
迷わない。
速い。
それがアスカだった。
少し歩くと見えた。
廃教会。
大きい。
古い石造り。
壁はひび割れ、窓ガラスはほとんど割れていた。
扉は半開き。
中は暗い。
静かだった。
静かすぎる。
レオが止まる。
全員止まる。
「待て」
アスカが苛立つ。
「早く行こうぜ」
レオが扉を見る。
耳を澄ます。
音がない。
人の気配もない。
物資があるなら、見張りがいてもおかしくない。
なのにいない。
ミナが小さく言う。
「やっぱやめる?」
アスカが即答する。
「なんでだよ」
ミナが睨む。
「静かすぎる」
アスカは鼻を鳴らす。
「好都合だろ」
レオが扉に手をかける。
ゆっくり押す。
軋む音。
中が見える。
木箱。
袋。
食料。
本当にあった。
アスカの目が光る。
「ほら」
得意げだった。
レオの警戒が外れたと思った。
ミナも笑う。
「当たりだ」
トーマの顔も明るくなる。
レオだけがまだ見ていた。
床。
壁。
窓。
出口。
全部。
そして気づく。
床に新しい靴跡。
複数。
多い。
その瞬間。
背後で音がした。
重い音。
扉が閉まる。
外から。
鍵がかかる音。
全員の顔が止まった。
レオの顔だけが変わった。
確信した。
「罠だ!」
その声と同時だった。
窓の隙間から何かが投げ込まれる。
布。
液体の匂い。
油だった。
アスカの喉が凍る。
次の瞬間。
火がついた。
☆☆☆
火は一瞬だった。
油を吸った布に火が移る。
床へ落ちる。
次の瞬間には、木造の床板を舐めるように炎が走っていた。
熱が来る。
速い。
異常なくらい速かった。
「下がれ!!」
レオが叫ぶ。
全員が反射で下がる。
炎が扉を塞ぐ。
出口が消えた。
「クソッ!」
ミナが叫ぶ。
窓へ走る。
開かない。
外から打ち付けられていた。
板で塞がれている。
完全に閉じ込められていた。
「ハメられた……!」
レオの声が低くなる。
アスカは扉へ飛びつく。
蹴る。
殴る。
開かない。
重い。
外から押さえられている。
「開けろ!!」
怒鳴る。
返事はない。
代わりに聞こえた。
笑い声だった。
外から。
男達の声。
知っている。
商人達だ。
今まで盗んできた相手。
積もった恨みが、今日返ってきた。
「クソッ!!」
アスカが扉を殴る。
熱い。
鉄の金具が熱を持ち始めていた。
レオが叫ぶ。
「やめろ!」
アスカを引き剥がす。
その瞬間。
上から火の粉が落ちる。
天井まで燃え移っていた。
古い木材。
乾いている。
火の回りが異常に早い。
煙が広がる。
喉が焼ける。
息が吸えない。
「窓!」
ミナが叫ぶ。
石を拾う。
窓へ投げる。
板に当たる。
割れない。
何度も投げる。
割れない。
「クソッ!」
トーマが泣き始めた。
「レオ……!」
顔が真っ青だった。
身体が震えている。
煙を吸って咳き込む。
アスカが周囲を見る。
出口。
窓。
壁。
探す。
でも見つからない。
見えない。
煙で。
火で。
熱で。
視界が歪む。
レオだけが動いていた。
壁を叩く。
床を見る。
祭壇の裏を見る。
必死に探していた。
「探せ!」
怒鳴る。
「抜け道だ!」
アスカも動く。
走る。
見る。
でも焦っていた。
見えていない。
前しか見えていない。
煙が濃くなる。
熱い。
皮膚が焼ける。
髪が焦げる匂いがする。
ミナが咳き込みながら叫ぶ。
「こっち!」
壁の奥だった。
石壁の隙間。
崩れた跡。
子供一人なら通れる。
狭い。
細い。
レオが見た瞬間、分かった。
一人分だ。
全員は無理。
沈黙が落ちた。
火の音だけが響く。
ゴウゴウと。
木が燃える音。
崩れる音。
熱が近い。
アスカが言う。
「順番に行けば」
レオが首を振る。
「無理だ」
もう火が回っている。
持たない。
時間がない。
トーマが泣く。
「やだ……!」
ミナの顔が歪む。
でも理解していた。
間に合わない。
アスカが前へ出る。
「俺が最後でいい」
レオがアスカを見る。
真っ直ぐ。
その目が初めて強くなった。
「お前が行け」
意味が分からない。
「は?」
「今すぐ行け」
アスカが怒鳴る。
「ふざけんな!」
レオが胸ぐらを掴む。
熱い手だった。
汗と煤で汚れていた。
「聞け!!」
声が震えていた。
でも強かった。
「お前が一番速い!」
アスカの呼吸が止まる。
火が近い。
天井が軋む。
ミナが叫ぶ。
「行け!!」
目が赤い。
泣いていた。
でも怒っていた。
アスカに。
自分に。
状況に。
全部に。
「嫌だ!」
子供だった。
十歳だった。
嫌だった。
置いていくなんて。
でも。
怖かった。
熱い。
苦しい。
死にたくない。
トーマが泣きながら言う。
「アスカ……」
震えていた。
助けを求める目だった。
アスカは動けない。
レオが言う。
「見ろ」
アスカが見る。
レオの目を見る。
「お前、前しか見えてねぇ」
その言葉。
いつもの言葉。
でも違った。
重かった。
「今度はちゃんと見ろ」
火が落ちる。
梁が崩れる。
ミナがアスカを押した。
強く。
穴へ。
「行けって言ってんだろ!!」
身体が落ちる。
狭い穴を転がる。
石が腕を裂く。
痛い。
でも止まれない。
後ろからレオの声。
「生きろ!!」
その直後だった。
崩落。
轟音。
入口が潰れる。
塞がれる。
光が消える。
暗い。
でも。
聞こえる。
向こう側の声が。
「レオ!!」
叫ぶ。
返事がある。
一瞬だけ。
「見るんだ!!」
それが最後だった。
火の音。
木の割れる音。
そして。
叫び声。
ミナの声。
トーマの泣き声。
レオの怒鳴り声。
全部混ざる。
熱で歪む。
喉が潰れるような叫びだった。
生きたまま焼かれる声だった。
肉が焼ける匂いがした。
髪が燃える匂い。
皮膚が焼ける匂い。
煙が鼻に入る。
吐きそうになる。
でも動けない。
石の向こうで。
仲間が燃えている。
助けられない。
アスカは叫び続けた。
喉が裂けるまで。
でも。
止まらなかった。
火の音も。
悲鳴も。
全部。
全部聞こえていた。
全部見えていた。
見たくなかったのに。
どれくらいそこにいたのか分からなかった。
暗い。
狭い。
崩れた石の隙間。
熱だけが伝わってくる。
向こう側で、まだ燃えている。
木が裂ける音。
何かが崩れる音。
火が空気を食う音。
耳の奥で響いていた。
でも。
もう悲鳴はなかった。
それが一番怖かった。
アスカは動けなかった。
膝を抱えていた。
身体が震えている。
歯が鳴る。
寒くない。
むしろ熱い。
皮膚が焼けるように熱い。
なのに震えが止まらない。
呼吸が浅い。
煙を吸い込んだ肺が痛い。
喉も焼けていた。
叫びすぎたせいだった。
「……レオ」
声が漏れる。
返事はない。
当然だった。
でも呼んでしまった。
呼べば返ってくる気がした。
まだ十歳だった。
そういう希望を捨てきれない年だった。
でも返事はない。
火の音だけだった。
ゴウゴウと。
全部を飲み込む音。
アスカは少しずつ這った。
狭い穴を。
石で腕が裂ける。
血が出る。
痛い。
でも止まれない。
止まりたくない。
あそこにいたくない。
出口を探す。
前を見る。
進む。
前へ。
でも。
その時だった。
頭の奥で声が響いた。
――前しか見えてねぇ。
レオの声だった。
身体が止まる。
呼吸が止まる。
前。
だけ。
その言葉が、急に重くなる。
今さら理解した。
尾けられていた。
静かすぎた。
靴跡があった。
全部あった。
全部見えていたはずだった。
でも見えていなかった。
見ようとしていなかった。
前しか見ていなかったから。
だから。
死んだ。
喉が震える。
吐いた。
胃の中に何もないのに吐いた。
酸だけが出る。
苦い。
喉が焼ける。
目が熱い。
その瞬間だった。
向こう側で、最後の崩落音がした。
完全に。
完全に塞がれた。
終わった。
助からない。
もう二度と会えない。
レオも。
ミナも。
トーマも。
いない。
その現実が、身体の奥まで落ちた。
冷たいものみたいに。
重く。
深く。
その時。
心臓が鳴った。
ドクン、と。
異常なくらい強く。
身体が跳ねた。
血が巡る音が聞こえる。
耳の中じゃない。
身体の中だった。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
何かが繋がる感覚がした。
身体の奥。
もっと深い場所。
骨の中。
血の中。
眠っていた何かが起きる。
視界が変わる。
暗かった穴の中。
石の隙間。
空気の流れ。
出口の位置。
全部見える。
理解できる。
音が聞こえる。
遠くの足音。
教会の外。
誰かがいる。
三人。
いや四人。
重さが違う。
歩き方が違う。
分かる。
何故か。
匂いが分かる。
汗。
油。
火。
全部。
流れ込んでくる。
身体が軽い。
違う。
最適化されている。
筋肉の動き。
重心。
踏み込み。
全部分かる。
ここを蹴れば速い。
ここを曲がれば抜けられる。
全部見える。
理解する前に身体が動いた。
這う。
速い。
さっきまでよりずっと速い。
迷いがない。
最短で進む。
石を避ける。
狭い穴を抜ける。
頭を下げる。
肩を捻る。
全部自然だった。
出口へ出る。
地下街の裏路地。
冷たい空気。
でも。
後ろは熱かった。
振り返る。
廃教会が燃えていた。
赤い炎。
大きい。
明るい。
その中にいる。
仲間が。
もう声はない。
もう動かない。
分かる。
分かってしまう。
足が前に出る。
戻ろうとした。
でも。
止まった。
身体が理解していた。
無理だ。
助からない。
戻れば死ぬ。
その判断が一瞬で出る。
頭じゃない。
身体だった。
その時。
笑い声。
横。
路地の影。
商人達だった。
三人。
燃える教会を見て笑っていた。
「あのガキ共、終わったな」
「盗人の末路だ」
「いい気味だ」
アスカの呼吸が止まる。
見た。
全員の立ち位置。
武器。
距離。
重心。
癖。
全部見えた。
一瞬で。
勝てない。
三対一。
距離が近い。
武器あり。
自分は素手。
逃げる。
最短経路が浮かぶ。
右。
細道。
二回曲がる。
水路を越える。
抜けられる。
分かる。
「いたぞ!」
気づかれる。
その瞬間。
身体が動いた。
速い。
今までと違う。
地面を蹴る。
風を切る。
曲がる。
飛ぶ。
滑る。
全部が速い。
後ろを見る。
追ってくる。
横を見る。
逃げ道確認。
上を見る。
障害物確認。
全部見る。
全部。
全部。
死角を作らない。
死にたくない。
もう。
もう失いたくない。
レオの声が響く。
――今度はちゃんと見ろ。
走る。
走る。
走る。
気づけば。
いつもの寝床だった。
壊れた倉庫。
四人で眠っていた場所。
でも今は一人だった。
静かだった。
トーマの声がない。
ミナの悪態がない。
レオの笑い声もない。
何もない。
アスカは壁にもたれた。
手を見る。
震えている。
煤。
血。
傷。
全部ついていた。
匂いも残っている。
焼けた匂い。
肉の匂い。
髪の匂い。
消えない。
鼻の奥に残る。
目を閉じる。
火が見える。
悲鳴が聞こえる。
そして気づく。
見えている。
全部。
人の気配。
足音。
呼吸。
外の物音。
全部入る。
止められない。
見る。
横を見る。
後ろを見る。
上を見る。
出口を見る。
人を見る。
感情を見る。
殺意を見る。
嘘を見る。
全部。
見落とさないように。
二度と。
二度と。
失わないように。
でも知っていた。
もう遅い。
一度失ったものは戻らない。
焼け跡には何も残らない。
名前も。
声も。
形も。
匂いだけが残る。
☆☆☆
目が覚めた。
呼吸が荒い。
肺が痛い。
喉の奥に、まだ煙が残っている気がした。
暗い天井が見える。
木造の梁。
訓練兵団の男子宿舎だった。
夢だった。
分かっている。
でも身体が理解していない。
胸が苦しい。
心臓が速い。
汗で服が張りついていた。
手を見る。
震えている。
十歳の小さな手じゃない。
今の手だった。
少しだけ大きくなった。
でも感覚はあの時のままだった。
焼けた匂いがする気がした。
鼻の奥に残る。
幻だと分かっていても消えない。
周りを見る。
暗い宿舎。
寝息。
規則的な呼吸。
誰かが寝返りを打つ音。
平和だった。
少なくとも地下街よりは。
でも。
眠れそうになかった。
アスカは静かに起き上がった。
足を床につける。
冷たい。
宿舎を出る。
夜風が頬を撫でた。
少し冷たい。
汗が冷えていく。
空を見る。
狭い。
でも地下街よりずっと広い。
星が見える。
最初は気持ち悪かった。
広すぎて落ち着かなかった。
今も少しだけそうだ。
訓練兵団の敷地は静かだった。
見張りの足音が遠くで聞こえる。
規則正しい。
一定の間隔。
癖みたいに聞き分ける。
人数。
位置。
距離。
無意識だった。
井戸へ向かう。
顔を洗いたかった。
匂いを消したかった。
火の匂いを。
でも。
井戸の前に先客がいた。
細い背中。
金髪。
月明かりに照らされていた。
アニだった。
手を止める。
アニも気づいた。
振り返る。
少しだけ目が合う。
互いに少し止まる。
こんな時間に。
そう思ったのが分かった。
先に口を開いたのはアニだった。
「……珍しいね」
声は低い。
いつも通りだった。
アスカが井戸へ近づく。
「お前もな」
アニは少し視線を逸らした。
手にはまだ水滴がついていた。
帰ってきたばかり。
そんな感じだった。
でも何処からかは聞かない。
聞く理由もない。
アスカは桶を下ろす。
水音が静かに響く。
冷たい水を汲み上げる。
顔にかけた。
冷たい。
一気に熱が引く。
でも。
中までは冷えない。
「眠れないの?」
アニが聞いた。
短い。
探るようでもない。
ただの確認みたいだった。
アスカは顔を拭う。
「まぁな」
アニが小さく頷く。
「私も」
短い。
それだけだった。
でも少しだけ違和感があった。
アスカは見る。
アニの呼吸。
少し乱れている。
服に土がついている。
靴にも。
こんな時間に井戸へ来ただけじゃつかない。
どこかへ行っていた。
そう分かる。
でも聞かない。
アニも隠している。
見れば分かる。
それだけだった。
アニもアスカを見ていた。
汗。
浅い呼吸。
強張った肩。
寝起きにしては硬すぎる。
何か見た。
そういう顔だった。
でも聞かない。
それがアニだった。
「顔色悪いよ」
アニが言う。
アスカが鼻を鳴らす。
「寝起きだからな」
アニはそれ以上言わない。
嘘だと分かっていても。
踏み込まない。
沈黙。
水の音だけがある。
桶から落ちる雫。
夜風。
遠くの見張り。
静かだった。
「……変な夢?」
アニが言った。
アスカの手が少し止まる。
見られていた。
顔に出ていたらしい。
「さぁな」
曖昧に返す。
アニはそれを追わない。
ただ井戸の縁に手を置く。
少し考えるように。
「忘れられるなら苦労しない」
ぽつりと落ちた言葉だった。
アスカが見る。
アニは水面を見ていた。
自分の顔を見ているみたいだった。
その言葉が妙に引っかかった。
こいつも何かある。
そう思った。
隠している。
抱えている。
自分と同じように。
アスカは少しだけ視線を外す。
「そうかもな」
それだけだった。
アニが立ち上がる。
服についた土を払う。
自然な動作だった。
でも。
やっぱり外にいた痕跡だった。
何処で。
何を。
知らない。
知らなくていい。
今は。
アニが歩き出す。
数歩進いて止まる。
振り返らないまま言った。
「眠れないなら、無理に寝なくていい」
少し間があった。
「朝は来る」
それだけ言って去った。
足音が遠ざかる。
静かになる。
アスカは井戸の水面を見る。
揺れている。
自分の顔が映る。
炎はない。
煙もない。
今の自分だった。
でも。
目だけは変わっていた。
あの日からずっと。
見る目になった。
前だけじゃない。
横も。
後ろも。
全部。
見なければならない。
見落とせば失う。
知っている。
痛いほど。
井戸の水をもう一度掬う。
顔を洗う。
冷たい。
少しだけ現実に戻る。
遠くで風が吹く。
木々が揺れる音がする。
朝は来る。
確かに来る。
でも。
焼け跡の匂いは、消えない。
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