地下に眠るダイヤモンド   作:ニャンニャンコポン

8 / 8
焼け跡

 

 

 

 

地下街に朝はない。

 

いや、正確にはある。

 

地上と同じように太陽は昇っているし、空の色だって変わっているはずだった。

 

ただ、それが見えないだけだ。

 

壁の下に作られた街。

 

石造りの天井。

 

湿った空気。

 

淀んだ水の匂い。

 

腐った食べ物。

 

酒。

 

血。

 

汗。

 

色んな匂いが混ざり合って、地下街の空気を作っていた。

 

生きているだけで肺が汚れる場所だった。

 

それでも、人は生きていた。

 

アスカも、その一人だった。

 

細い路地を走る。

 

石畳を蹴る足音が狭い道に響く。

 

小さい身体。

 

細い腕。

 

痩せた足。

 

十歳の身体はまだ出来上がっていない。

 

でも速かった。

 

地下街では、それだけで武器になる。

 

「待てガキィ!!」

 

後ろから怒鳴り声。

 

パン屋の親父だった。

 

太っているくせに、しつこい。

 

アスカは振り返らない。

 

脇に抱えたパンを落とさないよう押さえ込み、そのまま角を曲がる。

 

狭い。

 

暗い。

 

でも知っている道だった。

 

何度も走った道。

 

身体が覚えている。

 

木箱を飛び越える。

 

壁を蹴る。

 

横道へ飛び込む。

 

そのまま裏路地へ。

 

息を潜める。

 

足音が通り過ぎる。

 

怒鳴り声が遠ざかった。

 

撒いた。

 

アスカは小さく笑った。

 

「遅ぇぞ」

 

声。

 

顔を上げる。

 

レオだった。

 

壁にもたれ、腕を組んでいた。

 

十五歳。

 

この中で一番年上。

 

黒髪。

 

鋭い目。

 

地下街の子供にしては珍しく、落ち着いていた。

 

盗みも喧嘩も強い。

 

でも何より、生き残るのが上手かった。

 

アスカに盗みを教えたのもレオだった。

 

「親父がしつこかった」

 

パンを投げる。

 

レオが受け取る。

 

「そりゃ追うだろ」

 

横から笑ったのはミナだった。

 

十三歳。

 

金髪を雑に結んでいる。

 

いつも口が悪い。

 

でも飯を分ける時はちゃんと四等分する。

 

アスカは知っていた。

 

ミナが一番腹を空かせていることを。

 

それでも分けることを。

 

「今日の収穫は」

 

アスカが聞く。

 

ミナが懐からリンゴを出した。

 

少し傷んでいた。

 

でも食える。

 

「どうだ」

 

「一個だけかよ」

 

「文句あんの?」

 

「ない」

 

最後に、小さな影が飛びついてくる。

 

「アスカ!」

 

トーマだった。

 

八歳。

 

細い。

 

軽い。

 

骨ばっている。

 

でも目だけは妙に明るい。

 

地下街に染まりきっていない目だった。

 

「見てた!速かった!」

 

アスカが頭を押し返す。

 

「離れろ」

 

「なんでだよ!」

 

「暑い」

 

トーマが笑う。

 

レオがパンを割る。

 

四つに。

 

少ない。

 

でも慣れていた。

 

パンを受け取る。

 

硬い。

 

でも腹に入る。

 

それで十分だった。

 

ミナがパンを齧りながら言う。

 

「またパンか」

 

「食えるだけマシだ」

 

レオが返す。

 

終わり。

 

文句を言っても増えない。

 

地下街の常識だった。

 

アスカも齧る。

 

固い。

 

口の中の水分を持っていかれる。

 

でも嫌いじゃない。

 

生きてる感じがした。

 

「なぁ」

 

トーマがアスカを見る。

 

「怖くない?」

 

「何が」

 

「盗み」

 

アスカは即答した。

 

「別に」

 

本当にそうだった。

 

怖いとか考えたことがない。

 

盗まなきゃ食えない。

 

それだけだ。

 

「すげぇな」

 

トーマが素直に言う。

 

ミナが笑う。

 

「お前、アスカ好きすぎ」

 

「だって強ぇじゃん!」

 

アスカは鼻を鳴らす。

 

強い。

 

そう言われるのは嫌じゃない。

 

地下街では強い方が生き残る。

 

それだけの話だった。

 

レオがパンを食いながらアスカを見る。

 

「でもお前」

 

アスカが見る。

 

「前しか見えてねぇ」

 

意味が分からなかった。

 

「は?」

 

ミナが笑う。

 

「あー、それ分かる」

 

「何がだよ」

 

レオが石を拾う。

 

何気なく。

 

アスカの横へ投げた。

 

反応できない。

 

石が壁に当たる。

 

乾いた音。

 

アスカが睨む。

 

「何すんだよ!」

 

「ほら」

 

レオが言う。

 

「横が見えてねぇ」

 

アスカが鼻を鳴らす。

 

「必要ねぇだろ」

 

「必要だ」

 

レオの声が少し低くなる。

 

「前だけ見てる奴は、横から死ぬ」

 

その言葉の意味が、アスカにはよく分からなかった。

 

死ぬ。

 

そんなもの、地下街ではいつも近くにある。

 

でも自分には関係ないと思っていた。

 

速い。

 

逃げられる。

 

盗れる。

 

勝てる。

 

そう思っていた。

 

十歳だった。

 

無敵だと思っていた。

 

「死なねぇよ」

 

即答だった。

 

レオが少し笑った。

 

「その顔が危ねぇんだよ」

 

ミナが立ち上がる。

 

パン屑を払う。

 

「説教くせぇな」

 

トーマも立つ。

 

「次どこ行く?」

 

レオが周囲を見た。

 

癖みたいだった。

 

前だけじゃない。

 

横も。

 

後ろも。

 

上も。

 

アスカはその意味を知らない。

 

レオが少し声を落とす。

 

「デカい仕事がある」

 

空気が変わる。

 

ミナが目を細めた。

 

「どこ」

 

レオが答える。

 

「廃教会」

 

アスカの目が少し光る。

 

地下街の端。

 

使われなくなった古い教会。

 

最近、地上の商人が物資置き場にしているという噂があった。

 

食料。

 

金。

 

薬。

 

色々あるらしい。

 

「本当か?」

 

アスカが聞く。

 

レオが頷く。

 

「見た」

 

ミナが笑う。

 

「当たりじゃん」

 

トーマだけが少し不安そうだった。

 

「大丈夫かな」

 

アスカが立ち上がる。

 

迷いなく。

 

「問題ねぇ」

 

盗って。

 

逃げる。

 

それだけだ。

 

簡単だった。

 

そう思っていた。

 

レオだけが少し考えていた。

 

周りを見ていた。

 

違和感を探していた。

 

でも。

 

アスカは気づかなかった。

 

前しか見ていなかったからだ。

 

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 

 

廃教会は地下街の外れにあった。

 

外れ、と言っても地下街そのものが壁の外れと言っていい。

 

その中でもさらに端。

 

人通りが少なく、灯りも届かない場所だった。

 

昔は祈る場所だったらしい。

 

今は誰も祈らない。

 

神に縋る余裕がある人間なんて地下街にはいない。

 

生きるだけで手一杯だった。

 

四人は細い路地を進んでいた。

 

先頭はアスカだった。

 

いつもそうだった。

 

速いから。

 

見つけるのが早いから。

 

逃げるのも早いから。

 

だから前を任される。

 

それが少し誇らしかった。

 

後ろからミナの声。

 

「本当に物資あるんだろうな?」

 

レオが答える。

 

「ああ」

 

短い。

 

でもレオが言うなら間違いない。

 

アスカはそう思っていた。

 

レオは嘘をつかない。

 

地下街では珍しい種類の人間だった。

 

「食いもんあるかな」

 

トーマが言う。

 

「まず金だろ」

 

ミナが返す。

 

「金があれば食いもん買える」

 

アスカが鼻で笑う。

 

「盗めばいい」

 

ミナが笑った。

 

「それもそう」

 

会話は軽かった。

 

仕事前なのに緊張感がない。

 

それだけ慣れていた。

 

何度も盗んできた。

 

何度も逃げ切ってきた。

 

今回も同じ。

 

そう思っていた。

 

レオだけが少し静かだった。

 

歩きながら周囲を見ている。

 

路地裏。

 

物陰。

 

高所。

 

足跡。

 

音。

 

全部見ている。

 

アスカは気づかない。

 

前しか見ていないからだ。

 

「アスカ」

 

後ろから声。

 

振り返る。

 

レオだった。

 

「今日、お前は先に入るな」

 

意味が分からない。

 

「なんで」

 

「確認してからだ」

 

アスカは眉を寄せる。

 

「いつも先に入ってるだろ」

 

「今日は違う」

 

「何が」

 

レオが少し黙る。

 

考えていた。

 

言葉にするほどの確信はない。

 

でも何か引っかかっていた。

 

「静かすぎる」

 

アスカは周囲を見る。

 

確かに静かだった。

 

でも地下街の端なんていつもこんなものだ。

 

人が少ない。

 

音も少ない。

 

普通だった。

 

「気にしすぎだ」

 

アスカが言う。

 

レオが睨む。

 

少し強く。

 

「そういうとこだ」

 

その目にアスカは少し黙る。

 

でも納得はしていなかった。

 

慎重すぎる。

 

そう思った。

 

ミナが空気を変えるように言う。

 

「まぁ、慎重で悪いことはない」

 

トーマも頷く。

 

「うん」

 

アスカだけが少し前を歩いた。

 

足が速い。

 

気持ちが先へ行っている。

 

廃教会の物資。

 

金。

 

食料。

 

全部頭の中にある。

 

目の前にあるものしか見えていない。

 

だから。

 

気づかなかった。

 

後ろの路地に、人影があったこと。

 

一瞬だけ動いた影。

 

見ていた。

 

四人を。

 

レオだけが気づいた。

 

足を止める。

 

振り返る。

 

誰もいない。

 

でも。

 

いる。

 

気配だけが残っていた。

 

「レオ?」

 

トーマが不安そうに見る。

 

レオは少しだけ考える。

 

引き返すか。

 

進むか。

 

迷う。

 

だが。

 

ここまで来て手ぶらでは帰れない。

 

地下街では、それが命取りになることもある。

 

「……行くぞ」

 

低く言う。

 

アスカはすぐ動く。

 

迷わない。

 

速い。

 

それがアスカだった。

 

少し歩くと見えた。

 

廃教会。

 

大きい。

 

古い石造り。

 

壁はひび割れ、窓ガラスはほとんど割れていた。

 

扉は半開き。

 

中は暗い。

 

静かだった。

 

静かすぎる。

 

レオが止まる。

 

全員止まる。

 

「待て」

 

アスカが苛立つ。

 

「早く行こうぜ」

 

レオが扉を見る。

 

耳を澄ます。

 

音がない。

 

人の気配もない。

 

物資があるなら、見張りがいてもおかしくない。

 

なのにいない。

 

ミナが小さく言う。

 

「やっぱやめる?」

 

アスカが即答する。

 

「なんでだよ」

 

ミナが睨む。

 

「静かすぎる」

 

アスカは鼻を鳴らす。

 

「好都合だろ」

 

レオが扉に手をかける。

 

ゆっくり押す。

 

軋む音。

 

中が見える。

 

木箱。

 

袋。

 

食料。

 

本当にあった。

 

アスカの目が光る。

 

「ほら」

 

得意げだった。

 

レオの警戒が外れたと思った。

 

ミナも笑う。

 

「当たりだ」

 

トーマの顔も明るくなる。

 

レオだけがまだ見ていた。

 

床。

 

壁。

 

窓。

 

出口。

 

全部。

 

そして気づく。

 

床に新しい靴跡。

 

複数。

 

多い。

 

その瞬間。

 

背後で音がした。

 

重い音。

 

扉が閉まる。

 

外から。

 

鍵がかかる音。

 

全員の顔が止まった。

 

レオの顔だけが変わった。

 

確信した。

 

「罠だ!」

 

その声と同時だった。

 

窓の隙間から何かが投げ込まれる。

 

布。

 

液体の匂い。

 

油だった。

 

アスカの喉が凍る。

 

次の瞬間。

 

火がついた。

 

 

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 

 

火は一瞬だった。

 

油を吸った布に火が移る。

 

床へ落ちる。

 

次の瞬間には、木造の床板を舐めるように炎が走っていた。

 

熱が来る。

 

速い。

 

異常なくらい速かった。

 

「下がれ!!」

 

レオが叫ぶ。

 

全員が反射で下がる。

 

炎が扉を塞ぐ。

 

出口が消えた。

 

「クソッ!」

 

ミナが叫ぶ。

 

窓へ走る。

 

開かない。

 

外から打ち付けられていた。

 

板で塞がれている。

 

完全に閉じ込められていた。

 

「ハメられた……!」

 

レオの声が低くなる。

 

アスカは扉へ飛びつく。

 

蹴る。

 

殴る。

 

開かない。

 

重い。

 

外から押さえられている。

 

「開けろ!!」

 

怒鳴る。

 

返事はない。

 

代わりに聞こえた。

 

笑い声だった。

 

外から。

 

男達の声。

 

知っている。

 

商人達だ。

 

今まで盗んできた相手。

 

積もった恨みが、今日返ってきた。

 

「クソッ!!」

 

アスカが扉を殴る。

 

熱い。

 

鉄の金具が熱を持ち始めていた。

 

レオが叫ぶ。

 

「やめろ!」

 

アスカを引き剥がす。

 

その瞬間。

 

上から火の粉が落ちる。

 

天井まで燃え移っていた。

 

古い木材。

 

乾いている。

 

火の回りが異常に早い。

 

煙が広がる。

 

喉が焼ける。

 

息が吸えない。

 

「窓!」

 

ミナが叫ぶ。

 

石を拾う。

 

窓へ投げる。

 

板に当たる。

 

割れない。

 

何度も投げる。

 

割れない。

 

「クソッ!」

 

トーマが泣き始めた。

 

「レオ……!」

 

顔が真っ青だった。

 

身体が震えている。

 

煙を吸って咳き込む。

 

アスカが周囲を見る。

 

出口。

 

窓。

 

壁。

 

探す。

 

でも見つからない。

 

見えない。

 

煙で。

 

火で。

 

熱で。

 

視界が歪む。

 

レオだけが動いていた。

 

壁を叩く。

 

床を見る。

 

祭壇の裏を見る。

 

必死に探していた。

 

「探せ!」

 

怒鳴る。

 

「抜け道だ!」

 

アスカも動く。

 

走る。

 

見る。

 

でも焦っていた。

 

見えていない。

 

前しか見えていない。

 

煙が濃くなる。

 

熱い。

 

皮膚が焼ける。

 

髪が焦げる匂いがする。

 

ミナが咳き込みながら叫ぶ。

 

「こっち!」

 

壁の奥だった。

 

石壁の隙間。

 

崩れた跡。

 

子供一人なら通れる。

 

狭い。

 

細い。

 

レオが見た瞬間、分かった。

 

一人分だ。

 

全員は無理。

 

沈黙が落ちた。

 

火の音だけが響く。

 

ゴウゴウと。

 

木が燃える音。

 

崩れる音。

 

熱が近い。

 

アスカが言う。

 

「順番に行けば」

 

レオが首を振る。

 

「無理だ」

 

もう火が回っている。

 

持たない。

 

時間がない。

 

トーマが泣く。

 

「やだ……!」

 

ミナの顔が歪む。

 

でも理解していた。

 

間に合わない。

 

アスカが前へ出る。

 

「俺が最後でいい」

 

レオがアスカを見る。

 

真っ直ぐ。

 

その目が初めて強くなった。

 

「お前が行け」

 

意味が分からない。

 

「は?」

 

「今すぐ行け」

 

アスカが怒鳴る。

 

「ふざけんな!」

 

レオが胸ぐらを掴む。

 

熱い手だった。

 

汗と煤で汚れていた。

 

「聞け!!」

 

声が震えていた。

 

でも強かった。

 

「お前が一番速い!」

 

アスカの呼吸が止まる。

 

火が近い。

 

天井が軋む。

 

ミナが叫ぶ。

 

「行け!!」

 

目が赤い。

 

泣いていた。

 

でも怒っていた。

 

アスカに。

 

自分に。

 

状況に。

 

全部に。

 

「嫌だ!」

 

子供だった。

 

十歳だった。

 

嫌だった。

 

置いていくなんて。

 

でも。

 

怖かった。

 

熱い。

 

苦しい。

 

死にたくない。

 

トーマが泣きながら言う。

 

「アスカ……」

 

震えていた。

 

助けを求める目だった。

 

アスカは動けない。

 

レオが言う。

 

「見ろ」

 

アスカが見る。

 

レオの目を見る。

 

「お前、前しか見えてねぇ」

 

その言葉。

 

いつもの言葉。

 

でも違った。

 

重かった。

 

「今度はちゃんと見ろ」

 

火が落ちる。

 

梁が崩れる。

 

ミナがアスカを押した。

 

強く。

 

穴へ。

 

「行けって言ってんだろ!!」

 

身体が落ちる。

 

狭い穴を転がる。

 

石が腕を裂く。

 

痛い。

 

でも止まれない。

 

後ろからレオの声。

 

「生きろ!!」

 

その直後だった。

 

崩落。

 

轟音。

 

入口が潰れる。

 

塞がれる。

 

光が消える。

 

暗い。

 

でも。

 

聞こえる。

 

向こう側の声が。

 

「レオ!!」

 

叫ぶ。

 

返事がある。

 

一瞬だけ。

 

「見るんだ!!」

 

それが最後だった。

 

火の音。

 

木の割れる音。

 

そして。

 

叫び声。

 

ミナの声。

 

トーマの泣き声。

 

レオの怒鳴り声。

 

全部混ざる。

 

熱で歪む。

 

喉が潰れるような叫びだった。

 

生きたまま焼かれる声だった。

 

肉が焼ける匂いがした。

 

髪が燃える匂い。

 

皮膚が焼ける匂い。

 

煙が鼻に入る。

 

吐きそうになる。

 

でも動けない。

 

石の向こうで。

 

仲間が燃えている。

 

助けられない。

 

アスカは叫び続けた。

 

喉が裂けるまで。

 

でも。

 

止まらなかった。

 

火の音も。

 

悲鳴も。

 

全部。

 

全部聞こえていた。

 

全部見えていた。

 

見たくなかったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれくらいそこにいたのか分からなかった。

 

暗い。

 

狭い。

 

崩れた石の隙間。

 

熱だけが伝わってくる。

 

向こう側で、まだ燃えている。

 

木が裂ける音。

 

何かが崩れる音。

 

火が空気を食う音。

 

耳の奥で響いていた。

 

でも。

 

もう悲鳴はなかった。

 

それが一番怖かった。

 

アスカは動けなかった。

 

膝を抱えていた。

 

身体が震えている。

 

歯が鳴る。

 

寒くない。

 

むしろ熱い。

 

皮膚が焼けるように熱い。

 

なのに震えが止まらない。

 

呼吸が浅い。

 

煙を吸い込んだ肺が痛い。

 

喉も焼けていた。

 

叫びすぎたせいだった。

 

「……レオ」

 

声が漏れる。

 

返事はない。

 

当然だった。

 

でも呼んでしまった。

 

呼べば返ってくる気がした。

 

まだ十歳だった。

 

そういう希望を捨てきれない年だった。

 

でも返事はない。

 

火の音だけだった。

 

ゴウゴウと。

 

全部を飲み込む音。

 

アスカは少しずつ這った。

 

狭い穴を。

 

石で腕が裂ける。

 

血が出る。

 

痛い。

 

でも止まれない。

 

止まりたくない。

 

あそこにいたくない。

 

出口を探す。

 

前を見る。

 

進む。

 

前へ。

 

でも。

 

その時だった。

 

頭の奥で声が響いた。

 

――前しか見えてねぇ。

 

レオの声だった。

 

身体が止まる。

 

呼吸が止まる。

 

前。

 

だけ。

 

その言葉が、急に重くなる。

 

今さら理解した。

 

尾けられていた。

 

静かすぎた。

 

靴跡があった。

 

全部あった。

 

全部見えていたはずだった。

 

でも見えていなかった。

 

見ようとしていなかった。

 

前しか見ていなかったから。

 

だから。

 

死んだ。

 

喉が震える。

 

吐いた。

 

胃の中に何もないのに吐いた。

 

酸だけが出る。

 

苦い。

 

喉が焼ける。

 

目が熱い。

 

その瞬間だった。

 

向こう側で、最後の崩落音がした。

 

完全に。

 

完全に塞がれた。

 

終わった。

 

助からない。

 

もう二度と会えない。

 

レオも。

 

ミナも。

 

トーマも。

 

いない。

 

その現実が、身体の奥まで落ちた。

 

冷たいものみたいに。

 

重く。

 

深く。

 

その時。

 

心臓が鳴った。

 

ドクン、と。

 

異常なくらい強く。

 

身体が跳ねた。

 

血が巡る音が聞こえる。

 

耳の中じゃない。

 

身体の中だった。

 

ドクン。

 

ドクン。

 

ドクン。

 

何かが繋がる感覚がした。

 

身体の奥。

 

もっと深い場所。

 

骨の中。

 

血の中。

 

眠っていた何かが起きる。

 

視界が変わる。

 

暗かった穴の中。

 

石の隙間。

 

空気の流れ。

 

出口の位置。

 

全部見える。

 

理解できる。

 

音が聞こえる。

 

遠くの足音。

 

教会の外。

 

誰かがいる。

 

三人。

 

いや四人。

 

重さが違う。

 

歩き方が違う。

 

分かる。

 

何故か。

 

匂いが分かる。

 

汗。

 

油。

 

火。

 

全部。

 

流れ込んでくる。

 

身体が軽い。

 

違う。

 

最適化されている。

 

筋肉の動き。

 

重心。

 

踏み込み。

 

全部分かる。

 

ここを蹴れば速い。

 

ここを曲がれば抜けられる。

 

全部見える。

 

理解する前に身体が動いた。

 

這う。

 

速い。

 

さっきまでよりずっと速い。

 

迷いがない。

 

最短で進む。

 

石を避ける。

 

狭い穴を抜ける。

 

頭を下げる。

 

肩を捻る。

 

全部自然だった。

 

出口へ出る。

 

地下街の裏路地。

 

冷たい空気。

 

でも。

 

後ろは熱かった。

 

振り返る。

 

廃教会が燃えていた。

 

赤い炎。

 

大きい。

 

明るい。

 

その中にいる。

 

仲間が。

 

もう声はない。

 

もう動かない。

 

分かる。

 

分かってしまう。

 

足が前に出る。

 

戻ろうとした。

 

でも。

 

止まった。

 

身体が理解していた。

 

無理だ。

 

助からない。

 

戻れば死ぬ。

 

その判断が一瞬で出る。

 

頭じゃない。

 

身体だった。

 

その時。

 

笑い声。

 

横。

 

路地の影。

 

商人達だった。

 

三人。

 

燃える教会を見て笑っていた。

 

「あのガキ共、終わったな」

 

「盗人の末路だ」

 

「いい気味だ」

 

アスカの呼吸が止まる。

 

見た。

 

全員の立ち位置。

 

武器。

 

距離。

 

重心。

 

癖。

 

全部見えた。

 

一瞬で。

 

勝てない。

 

三対一。

 

距離が近い。

 

武器あり。

 

自分は素手。

 

逃げる。

 

最短経路が浮かぶ。

 

右。

 

細道。

 

二回曲がる。

 

水路を越える。

 

抜けられる。

 

分かる。

 

「いたぞ!」

 

気づかれる。

 

その瞬間。

 

身体が動いた。

 

速い。

 

今までと違う。

 

地面を蹴る。

 

風を切る。

 

曲がる。

 

飛ぶ。

 

滑る。

 

全部が速い。

 

後ろを見る。

 

追ってくる。

 

横を見る。

 

逃げ道確認。

 

上を見る。

 

障害物確認。

 

全部見る。

 

全部。

 

全部。

 

死角を作らない。

 

死にたくない。

 

もう。

 

もう失いたくない。

 

レオの声が響く。

 

――今度はちゃんと見ろ。

 

走る。

 

走る。

 

走る。

 

気づけば。

 

いつもの寝床だった。

 

壊れた倉庫。

 

四人で眠っていた場所。

 

でも今は一人だった。

 

静かだった。

 

トーマの声がない。

 

ミナの悪態がない。

 

レオの笑い声もない。

 

何もない。

 

アスカは壁にもたれた。

 

手を見る。

 

震えている。

 

煤。

 

血。

 

傷。

 

全部ついていた。

 

匂いも残っている。

 

焼けた匂い。

 

肉の匂い。

 

髪の匂い。

 

消えない。

 

鼻の奥に残る。

 

目を閉じる。

 

火が見える。

 

悲鳴が聞こえる。

 

そして気づく。

 

見えている。

 

全部。

 

人の気配。

 

足音。

 

呼吸。

 

外の物音。

 

全部入る。

 

止められない。

 

見る。

 

横を見る。

 

後ろを見る。

 

上を見る。

 

出口を見る。

 

人を見る。

 

感情を見る。

 

殺意を見る。

 

嘘を見る。

 

全部。

 

見落とさないように。

 

二度と。

 

二度と。

 

失わないように。

 

でも知っていた。

 

もう遅い。

 

一度失ったものは戻らない。

 

焼け跡には何も残らない。

 

名前も。

 

声も。

 

形も。

 

匂いだけが残る。

 

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 

 

 

目が覚めた。

 

呼吸が荒い。

 

肺が痛い。

 

喉の奥に、まだ煙が残っている気がした。

 

暗い天井が見える。

 

木造の梁。

 

訓練兵団の男子宿舎だった。

 

夢だった。

 

分かっている。

 

でも身体が理解していない。

 

胸が苦しい。

 

心臓が速い。

 

汗で服が張りついていた。

 

手を見る。

 

震えている。

 

十歳の小さな手じゃない。

 

今の手だった。

 

少しだけ大きくなった。

 

でも感覚はあの時のままだった。

 

焼けた匂いがする気がした。

 

鼻の奥に残る。

 

幻だと分かっていても消えない。

 

周りを見る。

 

暗い宿舎。

 

寝息。

 

規則的な呼吸。

 

誰かが寝返りを打つ音。

 

平和だった。

 

少なくとも地下街よりは。

 

でも。

 

眠れそうになかった。

 

アスカは静かに起き上がった。

 

足を床につける。

 

冷たい。

 

宿舎を出る。

 

夜風が頬を撫でた。

 

少し冷たい。

 

汗が冷えていく。

 

空を見る。

 

狭い。

 

でも地下街よりずっと広い。

 

星が見える。

 

最初は気持ち悪かった。

 

広すぎて落ち着かなかった。

 

今も少しだけそうだ。

 

訓練兵団の敷地は静かだった。

 

見張りの足音が遠くで聞こえる。

 

規則正しい。

 

一定の間隔。

 

癖みたいに聞き分ける。

 

人数。

 

位置。

 

距離。

 

無意識だった。

 

井戸へ向かう。

 

顔を洗いたかった。

 

匂いを消したかった。

 

火の匂いを。

 

でも。

 

井戸の前に先客がいた。

 

細い背中。

 

金髪。

 

月明かりに照らされていた。

 

アニだった。

 

手を止める。

 

アニも気づいた。

 

振り返る。

 

少しだけ目が合う。

 

互いに少し止まる。

 

こんな時間に。

 

そう思ったのが分かった。

 

先に口を開いたのはアニだった。

 

「……珍しいね」

 

声は低い。

 

いつも通りだった。

 

アスカが井戸へ近づく。

 

「お前もな」

 

アニは少し視線を逸らした。

 

手にはまだ水滴がついていた。

 

帰ってきたばかり。

 

そんな感じだった。

 

でも何処からかは聞かない。

 

聞く理由もない。

 

アスカは桶を下ろす。

 

水音が静かに響く。

 

冷たい水を汲み上げる。

 

顔にかけた。

 

冷たい。

 

一気に熱が引く。

 

でも。

 

中までは冷えない。

 

「眠れないの?」

 

アニが聞いた。

 

短い。

 

探るようでもない。

 

ただの確認みたいだった。

 

アスカは顔を拭う。

 

「まぁな」

 

アニが小さく頷く。

 

「私も」

 

短い。

 

それだけだった。

 

でも少しだけ違和感があった。

 

アスカは見る。

 

アニの呼吸。

 

少し乱れている。

 

服に土がついている。

 

靴にも。

 

こんな時間に井戸へ来ただけじゃつかない。

 

どこかへ行っていた。

 

そう分かる。

 

でも聞かない。

 

アニも隠している。

 

見れば分かる。

 

それだけだった。

 

アニもアスカを見ていた。

 

汗。

 

浅い呼吸。

 

強張った肩。

 

寝起きにしては硬すぎる。

 

何か見た。

 

そういう顔だった。

 

でも聞かない。

 

それがアニだった。

 

「顔色悪いよ」

 

アニが言う。

 

アスカが鼻を鳴らす。

 

「寝起きだからな」

 

アニはそれ以上言わない。

 

嘘だと分かっていても。

 

踏み込まない。

 

沈黙。

 

水の音だけがある。

 

桶から落ちる雫。

 

夜風。

 

遠くの見張り。

 

静かだった。

 

「……変な夢?」

 

アニが言った。

 

アスカの手が少し止まる。

 

見られていた。

 

顔に出ていたらしい。

 

「さぁな」

 

曖昧に返す。

 

アニはそれを追わない。

 

ただ井戸の縁に手を置く。

 

少し考えるように。

 

「忘れられるなら苦労しない」

 

ぽつりと落ちた言葉だった。

 

アスカが見る。

 

アニは水面を見ていた。

 

自分の顔を見ているみたいだった。

 

その言葉が妙に引っかかった。

 

こいつも何かある。

 

そう思った。

 

隠している。

 

抱えている。

 

自分と同じように。

 

アスカは少しだけ視線を外す。

 

「そうかもな」

 

それだけだった。

 

アニが立ち上がる。

 

服についた土を払う。

 

自然な動作だった。

 

でも。

 

やっぱり外にいた痕跡だった。

 

何処で。

 

何を。

 

知らない。

 

知らなくていい。

 

今は。

 

アニが歩き出す。

 

数歩進いて止まる。

 

振り返らないまま言った。

 

「眠れないなら、無理に寝なくていい」

 

少し間があった。

 

「朝は来る」

 

それだけ言って去った。

 

足音が遠ざかる。

 

静かになる。

 

アスカは井戸の水面を見る。

 

揺れている。

 

自分の顔が映る。

 

炎はない。

 

煙もない。

 

今の自分だった。

 

でも。

 

目だけは変わっていた。

 

あの日からずっと。

 

見る目になった。

 

前だけじゃない。

 

横も。

 

後ろも。

 

全部。

 

見なければならない。

 

見落とせば失う。

 

知っている。

 

痛いほど。

 

井戸の水をもう一度掬う。

 

顔を洗う。

 

冷たい。

 

少しだけ現実に戻る。

 

遠くで風が吹く。

 

木々が揺れる音がする。

 

朝は来る。

 

確かに来る。

 

でも。

 

焼け跡の匂いは、消えない。

 

 

 

 

 

書き直しと前どちらが好きですか

  • 書き直し
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

影なき刃(作者:洟魔)(原作:進撃の巨人)

地下街――そこは陽の光が届かず、腐臭と暴力と飢えに支配された世界。▼そこで生き抜いてきた少年ルカにとって、「生きる」とはただ盗み、ただ奪い、ただ生き残ることだけを意味していた。▼ある日、立体機動装置を偶然手に入れたルカは、独学でその操縦を身につけ、地下街の憲兵をも欺く「影」となる。▼だが、彼を追い詰めたのはただ一人――人類最強の兵士、リヴァイ。▼同じ「匂い」…


総合評価:905/評価:8.26/連載:20話/更新日時:2026年04月29日(水) 14:10 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>