本編で書くべき内容だろ、だって? これはプレナパテスの心情をメインで書いているので本編より短編集に入れるべきだと判断させていただきました。
目を覚ました。
そのはずだった。
”…………?”
疑問を抱くのも当然。なぜなら私の視界は何も映さなかったからだ。そのうえ何も聞こえない。
〝ここは……どこだ?〟
左腕に感じる違和感。正確には左手首の僅かに上のあたりに、何かが刺さっているようだ。触れてみるとそれは細長く、皮下に潜っている部分に近いところは硬く、そこからやわらかいチューブらしきものがつながっている。そして、若干ざらつく紙製テープのようなもので皮膚に直接とめられている。
躊躇なくそれを引き抜いた。鋭い痛みと急激な脱力感。注射針を刺したときに低確率で発生するらしい神経性の反応。私の左手首に刺さっていたのは点滴の針らしかった。細い針が引き抜かれた小さな穴から、湧き水のように細く血が垂れ落ちるのがわかる。実際にはもう少し勢いよく出血しているかもしれないが、そんなものは関係ない。
〝行かなきゃ〟
自分の手首に刺さっていたのが点滴の針だということが分かった瞬間、勝手に自分が置かれている状況が整理されていった。私は、
いったい何を間違えたのだろう。ベッドの柵に手をかけ、バランスを崩して点滴台ごと床に体を打ち付けつつもそう考えていた。ある時点まではうまくやれていたはずだ。きっと、おそらく。
床から振動をいくつか感じる。何人かの駆け足。音として聞こえなくとも振動はまだわかるらしい。ベートーヴェンは聾者になってから、咥えた歯ブラシの先端をピアノにあて、音を聞き取って作曲したそうだ。私の前職は作曲者などではないが、鼓膜が破れてもどうにかして周囲の音の代替物を感じ取れるよう訓練を受けてきた身だ。目を閉じて裁縫針の穴に糸を通すよりも聊かこちらの方が簡単にできる。
こういうベッドの傍には小さなテーブルがあるはずだ。テレビが据え付けられていて下部に小さな冷蔵庫が埋め込まれている、小さなテーブルが。それらしきものを手探りで探り当て、立ち上がる支えにしつつあるものを探す。私が先生である証のようなもの。私にしか扱えないオーパーツ。大人であることの手っ取り早い証明。それらは果たして、繰り出し式の引き出しの上に置いてあった。大きな方の板を手に取り、記憶が示す位置のボタンを押す。僅かなバイブ音を鳴らしてそれは立ち上がった。その本領を発揮するためのパスワードも、口内でくぐもった音として唱えた。
〚シッテムの箱起動……起動者、蘭櫟。メインOS、A.R.O.N.Aを起動します〛
どうやら間違えなかったようだ。
もう一つの小さな板状のものを探そうとしたが、胸ポケットに入ったままだった。ここで気づいたことだが、私はいつも着ているスーツのままベッドに寝かされていたのだ。きっと私は、Yシャツ一つ脱がせることでさえ躊躇われるような怪我、おそらく熱傷を負っている。それならば、目覚めた時からずっと感じている全身の皮膚のツッパリ感も説明がつくというものだ。
〚メインOS A.R.O.N.A、起動しました。……お久しぶりです、蘭先生〛
〝久しぶりだね、アロナ〟
私の声は音声として存在しない。空気を震わせて、音波として物理的な事象を起こせない。それでも私の声はシッテムの箱に届いている。シッテムの箱の中のアロナの声が、私にしか聞こえないように。
〝私の顔、どうなってるかな? 何も見えないし何も聞こえない。何なら声も出せないんだけど〟
〚……先生は色彩に接触した砂狼シロコに応戦している最中、彼女の攻撃によって倒壊した建物の崩壊に巻き込まれました。申し訳ありません、戦術指揮にリソースの99%を割いていた……いえ、それを言い訳に先生の身を守ることができませんでした〛
〝そんなことは気にしてないよ。私はちょっと、身だしなみを整えたいだけだから〟
〚……倒壊時に顔に瓦礫の直撃を受け、先生の下顎骨は粉砕骨折しました。また小さな破片が眼球を破壊し、頭部を強く地面に打ち付けた影響で鼓膜も破れています。先生の顔は、砕けた下顎の代わりに顔を固定する金属製のプレートで覆われています〛
思った以上にひどい状態だった。それは確かに五感のほとんどが意味を失うわけだ。それでも、四肢が引きちぎれていないのはアロナが立派に守ってくれたおかげだろう。それだけでもありがたい。それだけあれば十分だ。
〝アロナ、私の目と耳になってくれないかな〟
〚何故ですか、先生。そのボロボロの身体でどこかへ行こうというのですか?〛
〝行かなくちゃいけないところがあるんだ、会わなくちゃいけない生徒がいるんだよ。アロナなら、わかるよね?〟
しばらくそこには無音があった。床を媒介して伝わってくる靴音も、いつの間にか感覚の外に追いやられている。何も見えない暗闇の中、なぜか私の目の前にはアロナが立っているような気がしていた。何も聞こえないはずの私の耳に、彼女が言葉を飲み込む音さえ聞こえたような気がした。
〚分かりました。私は先生の秘書です、先生が耳となれと言うなら耳に、目となれと言うなら目となりましょう〛
〝ありがとう。あの子の場所まで、案内して〟
〚……はい〛
忘れちゃいけない、大切な大切なものも手にして。
私はアロナの声に従って病室を出た。途中何人かの体にぶつかり、何度もよろけて転びそうになった。ここが何階かさえもわからず、まだ病院から出てすらいないのに、初めてアビドスに出張した時よりも体が悲鳴をあげている。それでも行かなくてはならない。私はそうする義務がある。
〚先生、ここから15歩移動したところを左へ曲がってください。その地点から10歩ほどで病院の出入り口があります ……! 先生っ、避けてください!〛
突然ひっ迫した声を上げるアロナだが、私には何も見えない。羽交い絞めにされる感覚。背中から伝わってくる何かを喚く声。きっと医師だ。ボロ人形のような体を引きずって歩く私をついに見つけて捕まえたのだ。しかし視覚も聴覚もなくなった今、私の身体はセンサーが反応した自動ドアが開くのと同じレベルで危険とみなしたものを投げ飛ばす機械と化していた。
なんの思慮も配慮もなく組み付いてきた医者であろう体を投げ飛ばし、私は何もなかったかのように足を踏み出す。何か膨らんで柔らかいものを踏んだ気がしたが、それが何なのかを気にするほど悠長にしている暇もなかった。
〚たった今病院から出ました。生徒が何人かいますが問題ありません〛
歩道であろう場所をよたよたと歩む。時折肩やわき腹に何かぶつかるが、私は何も言わず、何も聞こえずにただある方向へ歩みを進めていく。それ以外に私にできることはない。それ以上にあの子にしてやれることはない。
〚先生、ここから警戒エリアです。今あなたの腹部に引っかかっているのが規制線です、ここからおよそ200m先に彼女の反応があります〛
〝わかった。……さすがにもうわかる、足の裏にかすかに振動を感じるよ〟
〚それだけ彼女が猛威を振るっているエリアが近いということです。先生、どうか気を付けt
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もうほとんど機能していない鼓膜を破裂させるような轟音が鳴り響き、気づいたところでやはり何も見えることはなかった。
〝……アロナ?〟
声をかけても返答はなかった。さっきの轟音の原因に巻き込まれたときに手放してしまったか? ただでさえ痛む全身を上書きするような激痛が余すところなく皮膚表面と皮下を這い回る。伝わってくる雨と地面の感触から察するに、私は仰向けで転がっている。お遊戯に飽きた子供が放り出した人形のように。
「先生」
聞き馴染みのあるその声はいつもより感情の起伏が少なく、与えられたその名を体現するかの如く冷気を含んでいた。
〝やぁシロコ、すっかり変わってしまったね。私は声しか聞こえないし、君に私の声が届いているのか分からないけど〟
そもそもなんで彼女の声が聞こえるのか、疑問には思ったが違和感を感じることはなかった。
「シッテムの箱はもうあなたを守ってくれない。先生から離れてバッテリーも落ちてしまったアレは、ただのタブレット端末と同じだから」
「だから、破壊した」
ガシャ、と私の耳元に何かが落ちた音がした。それが何なのかは、考える間もなく理解することができた。
彼女の声が聞こえてくる方向に、どうにか顔を向ける。何も見えない。そんなことは分かっていた。顔面は金属製の板で覆われ、さらに私の身体はとうにほとんど死んでいるのだから。
無音の世界に靴音が響く。瓦礫の音も聞き取れない耳に純粋な彼女の靴音だけが。死を司る狗頭の神が、私に死を与えようと私へと近づいてくる。
「先生、ここであなたの物語はおしまい。死の神となった私がこの世界を終わらせて、あなたも終わらせる」
〝そっか、シロコ。それが君のやりたいことなの?〟
「私の意志なんて関係なく、そういう法則なの。私がいるからこの世界は滅びる。光を遮ると影ができるように当然の事象。そこには何の疑問もさしはさまれる余地はないの」
何も音は聞こえない。彼女が何をしているのか、私には何もわからない。しかし自分に向けられた威圧感のようなものが、彼女が私に銃口を向けている証拠だ。私はもう、終わってしまうというのに。
〝ねぇ、シロコ。今、君は何を思っているのかな〟
「私は死の神。この名に違わずただ死を与えるだけ。さっきも言ったけど、そこには一切の疑問がさしはさまれる余地はない」
「でも……なんで」
彼女の声にそれまでにない震えが加わった。きっと泣いている。私に銃口を向けて、彼女は泣いている。私がどれだけ頑張っても、生徒を救うことができない。
〝……結局こうなってしまうのか〟
〝でも、私は先生だ。生徒を守るべき大人であり、目の前で泣いている生徒がいるなら、私は生徒を守らなければならない〟
〝大人としての、先生としての義務を果たさなければならない〟
「先……生?」
それは、私の眼前に突如現れた。
色彩が箱の主に接触した
何故だ? この事態は想定していない
死の神ではなく箱の主が色彩を呼び出したのか?
不可解だ この者は神秘も、恐怖も、崇高も持たぬ者
無価値な存在に色彩は反応しない
しかし色彩は無意味な行動はしない
つまり此れには何かしら理由がある
死の神の代わりにこの者が色彩の嚮導者となるのか?
この者の苦しみに呼応したか?
なぜ色彩はこの者に接触した?
一体何の意味がある?
理解できぬ
理解できぬ
理解できぬ
理解できぬ
しかし 箱の力を我らが手にすることができると思えば理解する必要などあるまい
箱の主よ お前の望み通り 色彩の嚮導者の役割をお前に与える
お前に
色彩の嚮導者は我々無名の司祭の意思を代弁するのみ
己の意思を持てると思うな
箱の力は我々が預かる
あぁ、そうだよ。お前たちの言うとおりだ。今この瞬間まで後悔し続けていた。もっとうまく動けたんじゃないか? もっと穏やかな世界を手に入れられたんじゃないか? 人間は不安症な生き物だ。一度間違えると、その後の選択全てを誤ったような気がしてしまうんだ。
一体どれだけの時間をこうして過ごしてきたのかさえもはや分からない。私の視界に映るのは闇。そしてシロコ、アロナの2人だけだ。私自身は、立っているのか跪いているのかさえ分からない。
でも今、久しぶりに君たち以外の声も聞こえてきたんだ。
すごく懐かしい声なんだよ。いったいどれだけ前に聞いた声なのかな。その声の主は、顔も、姿も、何もかも鮮明に思い出せる。
まるで自分のことのように。
闇が欠けた。光が、差した。
あまりの眩しさに私は目を細める。
不思議だ、なぜ私は目を細めたのだろう?
光に目が慣れたころ、私の目の前には誰かがいた。
何年も鏡で見た顔だ。
ずっと、ずっと見てきた顔だ。
ああ、そうか。
私はこのために、全てを捧げたんだ。
この体を、この人格を、この箱を、全て。
あらゆる後悔は、このために全て報われる。
貴方は、私のことがわかるんだね。
私より、貴方はうまくやれているんだね。
やっと安心できる。
私はやっと、終わってしまう。
ごめんなさい、シロコ。
最後の最後まで、酷い先生だったね。
私を許さなくていいんだよ。
きっと君は怒らないだろうけど。
きっと君は自分を責めるだろうけど。
世界の責任を背負うべきなのは私大人なんだから。
私は、ここまで。
ここの私は、きっと貴方を正しく導いてくれる。
だから、
〝生徒たちを……よろしく、お願いします〟