2024年11月24日ジャパンカップ。
日本へと世界から強豪が集まった全14人による東京レース場のレースにてドウデュースが勝利。
現地の観客やネット、テレビ中継で見られたウマ娘たちの走りは世界を興奮させた。
多くの人が見たジャパンカップで勝ったウマ娘は世界中で讃えられる。
なぜならジャパンカップは世界3大レースとして数えられているほどに名誉あるレースだからだ。
ウマ娘レースの始まりはヨーロッパと比べれば遅い日本が、なぜ世界3大レースと言われるまで知名度が高くなったのか。
その理由である人物について追っていきたいと思う。
それはトレセン学園の方向性や東京レース場を作るのに大きく関わり、日本ウマ娘の地位向上を果たした1人の男。
桐生院光一郎のことを書いていこうと思う。
桐生院光一郎は明治22年(1889年)、5月1日に東京府(のちに都)の桐生院家で陸軍大佐とウマ娘の長男として、目鼻立ちがよく魅力ある外見で生まれた。
桐生院家は鹿児島を本拠地としていた武士の家系だ。
日本の中世、鎌倉時代(12世紀末)の時から戦場を駆けるウマ娘駆兵と、その指導者として名門の家である。そのウマ娘たちは名前の一部に『トカラ』と入ることから判別がしやすい。
トカラのウマ娘は全員が小柄。暑さに強く、農耕や物資運搬などの重労働でもよく働く。
戦いとなれば勇猛果敢であり、臆病や卑劣さを嫌う特徴がある。
そんな彼女らの有名なエピソードのひとつは、関ケ原で島津義弘の部下として戦ったことだ。
鉄砲隊が射撃したあと、ウマ娘駆兵が槍を持って突撃。相手を混乱させて追撃部隊を足止めしたことは『島津の退き口』として有名だ。
ウマ娘という生き物は主君を持つことを本能的に誇りとして思っているため、忠誠心が厚い。
その後の歴史として、かの一族は幕末では新政府側として戦い、銃撃をものともせず敵部隊を撃破してきた。
そうして新政府側が勝ったあと、明治4年(1871年)に桐生院本家が鹿児島から東京へと移住。政府の軍人として働き始める。
軍人の家庭で育った光一郎は、幼い頃から薩摩から来たウマ娘たちに囲まれる日々だった。
彼は言葉も話せないほど幼いときからウマ娘を目で追いかけては楽しそうに笑っていた。そんな彼をウマ娘たちは一目で気に入り、彼の世話を積極的にやり始めた。
光一郎は後年、複数のウマ娘と恋愛関係を持つことになるが、この頃から魔性の魅力を発揮してウマ娘たちにもてていた。
自分で自由に歩けるようになった2歳ごろからは、桐生院家のウマ娘たちが敷地内や町中を走る練習をするのが気に入っていた。
だが、軍事教練となる格闘はとんと興味を示さなかったらしい。
彼がウマ娘の高い能力を戦いのためではなく走りでしか見ていなかったのは、このときから始まっている。
明治25年(1892年)には光一郎は3歳にも関わらず大人と同じように言葉を使い、一族からは神童だと言われた。
この頃から光一郎の口癖は「草生える」と言うようになっており、面白いことがあったときにはよくつぶやいていたと言う。
なぜこう言ったか、どのような意味があるかは周囲の者が聞くと「面白いと思ったから」と返事がきた。
今では当たり前のように使われているが、当時は誰も使っているものもいなく、桐生院家ではそのような言い回しは使われていない。
そのため、この言葉は光一郎が最初に使い始めたと言われている。
歴史家たちはその詳細な意味については、冬が終わり地面から草が生き生きと生えていく時期の、ウマ娘たちの気分が高揚して野原を駆けずり回った様子から影響されたのかもしれないと考えている。
まさしく生まれたときからウマ娘とふれていた光一郎ならではの言葉だ。
他にも光一郎は独特の言葉を残しているが、ここでは語らず他の書籍やインターネットにて調べてもらいたい。
1人で行動し自由に喋れるようになると、光一郎はウマ娘への興味を強くもつようになる。
6歳には桐生院家のウマ娘たちと一緒に走るようになり、ウマ娘が靴につける蹄鉄に興味を持った。
この時期はフランス人のビュースト、ドイツ人のミューレンを招聘して西洋装蹄術が向上しつつある時期。
桐生院家にいるウマ娘の靴についている蹄鉄を見た光一郎は、それぞれのウマ娘によって微妙に形や大きさが変わっていることに感銘を受けてコレクションを始めた。
この頃は写真が珍しく高価だったが光一郎がどうしてもと両親にねだり、両親は初めてのわがままだと喜んでウマ娘たちの写真を撮った。
ウマ娘たちも自分が記録されるなら喜んで写真を撮ってもいいと言ったが、ウマ娘の数は100人を超えていたため、そこらの野原でレースをして1着のウマ娘だけに認められることに。
レースとなれば、他の軍部隊からも参加者が来て、中には明治天皇の信頼が厚いウマ娘、金華山がこっそり参加しており1着を取った彼女の満足げな写真が残っている。
光一郎の部屋ではウマ娘写真と共にグリスを塗りたくられた使用済みの蹄鉄がかざられた。
このコレクションは桐生院資料館に置いてあり、当時の貴重な資料として見ることができる。
彼は将来、世界でたくさんのウマ娘たちと会話をしたいという理由で英語を覚えたが、覚えたあとで英語は世界共通語で使われてはいないことを知る。
2024年現在では英語が世界的に使われているが、明治30年(1897年)当時の世界共通語はフランス語だ。
世界の外交ではフランス語が扱われているのに、なぜ英語が世界で通じると考えたのだろうか。
光一郎がそう思った理由としては、桐生院家に来ていた外国のウマ娘がイギリス出身しかいなかったからということで歴史家たちの間で答えが出ている。
光一郎は自分の努力の方向性が間違っていたことに絶望したのか、2日に渡って断食をして自室に引きこもった。
その間、桐生院家のウマ娘たちは葬式があったかのように暗くなっていたが、イギリスウマ娘が扉越しに熱心に声掛けを続けた。
その内容は話相手が少ない私の相手になってくれて嬉しい、日本はイギリスと違って紛争がなく空気が綺麗だから英語圏のウマ娘がこれから来るかもしれない、イギリスやイギリス植民地だけじゃなく、アメリカでも使えるから、というものだった。
熱心な説得、時にはイギリスや日本での愚痴をこぼしたウマ娘の説得に応じ、苦しんでいるのは自分1人じゃないと気付いた光一郎。
彼は「もう何も怖くない!」と大声で言って気持ちを切り替えたのか、フランス語を習得し多くの勉強を熱心にやるようになった。
だがどうしても習字はうまくできず、文字は楷書体だけでいいじゃないかと嘆いている。
勉学を頑張っている褒美として何がいいかと親に問われた際に、光一郎は鶏を飼いたいと言ったため、両親は雄と雌をそれぞれ5匹ずつ渡そうとした。
だがそれを断って雄を10羽くれと言った。その理由は卵ではなく、ペットとして飼いたいからと。
この時に一部のウマ娘からは「ペットを飼うなら私を飼えばいいじゃない!」と光一郎の熱狂的ファン4人が暴れ、使用人とウマ娘たちで2時間にわたる戦いの末に4人を確保。
彼女たちは「あきらめたら、そこでレース終了ですよ!」と場違いな発言をしたが、それを聞いた光一郎はいたく感激し、代案として添い寝ではどう? と提案し解決した。
この日から光一郎が陸軍幼年学校に進むまでは、訴えたウマ娘以外も参加して日替わり制での添い寝が始まった。
そんないざこざがあったが当初の要求は予定通りに進んだ。桐生院家の敷地内で鶏小屋を作り、大人の鶏が運ばれる。
だが、ここで何を思ったのか、光一郎は鶏のエサを白米だけで育てると言った。
おいしい白米なら元気になるだろうと。その違いを見るため、5羽は白米のみ、残りの5羽は鶏用の飼料を与えた。
光一郎は鶏の健康状態を毎日確認してはノートに記載していた。そして一か月ほど経つと白米のみを与えた鶏は体調を崩した。
この時期には桐生院家に軍医である森林太郎(ペンネームは森鴎外)が来ていた。
林太郎は官立医学校に通うときに桐生院家へ一時期寄宿した縁があって時折、遊びに来ることがあった。
遊びに来たとき、光一郎は林太郎へ鶏を見てくれとお願いした。獣医でない林太郎は専門ではないと断ったが、光一郎の熱心さに推し負けて診察することになった。
するとその鶏は脚気の症状があった。歩き方がびっこをひいて歩いていた。
林太郎は脚気の原因は細菌説というのを強く支持しており、鶏は病気にかかったと判断したが、他の5羽がいたって健康なのに多少の疑問を覚えた。
そんな林太郎に光一郎は観察日記を渡し、食べ物によって脚気は発症すると主張。
だがそれを笑って一蹴した。
1か月後に林太郎が桐生院家に来たときには、脚気にかかっていた鶏は回復した。その回復した理由は白米から玄米に変えたことだ。
白米にはなく、玄米には体を元気にする何かがあると光一郎は訴えた。
脚気は重大な問題として扱われている。
特にその被害の大きさがわかるのは日清戦争だ。この戦争での戦死者は1207人。脚気で死んだのは3940人。
そのため国は脚気対策に力を入れ、この時期は軍隊では麦飯やビスケット、パンといった洋食を導入したことで脚気は改善していた。それは食事にタンパク質が足りないという研究結果を受けての対処だった。
今では脚気の原因はビタミンB1の不足ということがわかっているが、ビタミンB1はまだ発見されていなかった。
食べ物によって脚気は減っていたが脚気原因栄養説は根拠が少なく、世界的に広まっている細菌説のほうが根強く支持を得ていた。
林太郎は、光一郎とその周囲にいたウマ娘たちの圧力を受けて追実験することを約束。特に大食いであるウマ娘は必死の訴えだった。
脚気の原因が解明されれば、まずい飯から解放されるのだから。
実際、過去の明治23年(1890年)には巡洋艦『海門』の約180名が食事のためにストライキを起こし、起床ラッパを無視したことがある。海軍に入れば米を食えると聞いたのに、実際はビスケットやパンばかりで嫌がったらしい。
林太郎は明治32年(1899年)に米ぬかに含まれるなんらかの栄養物質が脚気を治すことを見つけ、共同研究者として光一郎の名前を入れて論文を提出。以前の主張を大きく変えて栄養が原因だと訴えるようになった。
この意見を桐生院家と軍に所属する多くのウマ娘たちが支持。のちの日露戦争では玄米や米ぬかの漬物を食べた部隊は脚気が発症することはなかった。
これ以降光一郎は好奇心の幅を広げ、兵器から産業機械、農業や地質学などの勉強に励む。
その過程で日本の鉄鋼需要が高まっていることを知り、高品質なものを生産できないか、と考えるようになったが、この時点での光一郎自身の立場や桐生院家ではできることに限度があった。
思うようにいかないためか、不満を料理にぶつけるかのようにウマ娘たちに試食を任せて料理を作っていった。
今では誰もが好きなオムライスは、東京・銀座の『煉瓦亭』が作った具材入り卵かけご飯を焼いたものと、光一郎が考えた白米をオムレツで包みケチャップをかけた2種類の作り方がある。
現在では後者の光一郎式の作り方が普及している。
またメロンパンも開発している。
光一郎はイギリスウマ娘が持ち込んだマスクメロンを食べた。これは日本人が初めてマスクメロンを食べたエピソードでもある。
その味に感激した。だが入手するのには苦労したため、見た目だけでも再現してさびしさを紛らわそうということを周囲の人たちに言ったと伝えられている。
理想の見た目のパンを作るため試行錯誤し、パン作りと試食を手伝った多くのウマ娘を太り気味にして完成したのが現在の丸形のメロンパンだ。
まるいパン生地の上に甘いビスケット生地を載せてマスクメロンと同じような格子状の模様を作った。
のちに日本でマスクメロンが生産され始めたときは狂喜乱舞したという。
明治33年(1900年)に変わったもの、面白いものを探していた光一郎はつい最近まで歩兵第12連隊に所属していたウマ娘から気になる話を聞かされた。
とある軍人の男がカラス型模型飛行器というのを作っていたということを。それは10mほど飛び、子供のおもちゃとしてはとても良く思えたと言われた。
その男は『日本航空機の父』と呼ばれた二宮忠八だ。
光一郎はその人を呼んで、そのカラス型の模型を見たいと両親へ言った。
両親は脚気対策や新料理で評判と収入を得ていたので、それを喜んで了承。
二宮忠八は自分のやっていることが認められたと喜び、桐生院家へ行った。だが話を聞くのは子供であり、遊び道具として見られただけかと落ち込んだ。
しかし呼ばれただけでもお金はもらっているので、光一郎にカラス型模型飛行器の説明と飛行実演をおこなった。
今はゴム動力だが将来は人が空を飛ぶこともできる、と力説。
感激した光一郎は資金援助の約束と設計について助言をする。
このカラス型は前に垂直尾翼、後ろ側が動力とプロペラがついていた。この位置を逆転することにより離陸時にプロペラが地面にぶつからないようになり脱出時の安全性が高まった。
1902年の夏には人を乗せて初飛行する。
高度14m、飛距離は259m。
人類で初めて動力飛行したグスターヴ・ホワイトヘッドに続き、世界で2番目となる栄誉である。だが世界は黄色い猿である日本人が飛行できるわけがないと嘲笑し信じることはなかった。
しかし、このときの飛行は写真でしっかりと撮影していたため、ライト兄弟が飛行機を飛ばしたあと頃の時期に信じられるようになる。
そして、この時には機械式動力を使ったため、飛行器から飛行機へと名称を変えた。
様々なものに興味を示しながら日々を過ごした光一郎が明治37年(1904年)13歳のときに陸軍幼年学校に入る。
この年に日本とロシアによる日露戦争が始まった。この戦争では飛行機が使用され、旅順港を偵察し写真撮影をしてロシア海軍の戦力を把握するなど、他にもさまざまな場所で偵察が行われた。
そして光一郎と一緒の時間を過ごしたウマ娘たちも戦争へ行った。
戦場でのウマ娘は駆兵と呼ばれ、偵察や連絡だけでなく主力の部隊として活躍した。
このときは秋山好古が指揮した。あの大河ドラマ『坂の上の雲』で彼のことを知っている人は多いと思う。
秋山は駆兵の機動力を生かした機動戦術ではなく、塹壕を掘り、機関銃を装備して防御に使用した。
これは40kmの長い戦線を8000人で守るために必要なことだったからである。また駆兵だけでなく、他の兵科に随伴させている。
その結果として防御は成功し、ロシア軍を撃退している。
日露戦争は最後の決戦ともいえる奉天会戦で日本がロシアを破って勝利し、追撃が大成功した。とはいえ、ロシア本土まではいけなかったが。
アメリカを仲介者として講和で得た利益は樺太の南半分や中国大陸の鉄道、遼東半島租借権にわずかな賠償金と戦利艦だ。
日露戦争が終わった後、光一郎と林太郎は脚気対策によって叙勲を受けた。
光一郎はもらったお金の一部を使って日露戦争で戦死した桐生院家のウマ娘たちの名前を載せた戦没者慰霊碑を桐生院家の敷地内に建てた。
仲がよかったウマ娘たちが戦死した悲しみは大きく、毎年の日露戦争終戦日には慰霊碑の前に来て悲しんでいた。
「現実は怖い。でも、これから楽しいことがたくさん待っている気がする」
というのは朝から夜まで泣き続け、泣きやんだあとに心配してやってきた両親へと言った言葉だ。
彼は仲が良かったウマ娘がいなくなり、一時期は自殺を考えたらしいがウマ娘たちのために頑張らねばと思い直したらしい。
そして、次が桐生院光一郎と生涯の友となる秋山好古の出会いだ。
明治38年(1905年)に日露戦争が終わり、秋山好古は翌年の2月に帰国。
このとき光一郎は16歳。秋山好古は47歳であった。
3月に陸軍大学校で講義をするときに彼らは出会った。
その講義は秋山好古による、ウマ娘駆兵とは何かである。
秋山は「ウマ娘とは突破力である」と、そう言って教室の窓ガラスを素手でぶち破り、自身の手から血を流しながら言った言葉は有名だ。
その意味は突破力はあるが、その機動力を生かすために軽装なため負傷しやすいと。
ウマ娘に熟知していた秋山はその対策に、日露戦争ではウマ娘である駆兵たちに機関銃を持たせて戦闘をさせた。
当時、世界的に見ても駆兵の運用は機動力を生かすものだった。
だが、日本ウマ娘の体格はロシアより小さかった。そのため長時間の走りは不利と判断した秋山はウマ娘駆兵たちに機関銃を持たせて火力を強化し、さらには他の兵科を随伴して部隊を作った。
その新しい戦い方と活躍ぶりで日露戦争後、秋山は『駆兵運用の父』と言われた。
実戦経験があり、まさしくベテランの士官である秋山に光一郎はその返しとして、翌日の講義で「ウマ娘とはレースである」と言って秋山及び講義を受けた教室中の生徒たちにウマ娘の写真を配った。
この写真の一部には秋山が指揮し、戦死したウマ娘たちの写真もあった。
いったいこのような写真を持っている人物は誰だろうと気になった秋山は講義のあとに光一郎へ会いに行き、そこで初めて名前を知る。
秋山は戦場で桐生院光一郎という方はすごいとウマ娘たちから話を聞かされ、賢く発想力がすごく優秀な人だと聞いていた。
その後、夜遅くまでウマ娘談義をし、士官学校の教師に怒られるまで続けたという。
秋山の日記によると話の内容はウマ娘の美しい見た目から始まり、身体能力の高さやウマ娘が求めているのは戦闘ではなくレースだということ。
他にも軍関係の話もし、これから機関銃や塹壕が発達するから駆兵の機動力を生かした戦いはなくなっていくだろう。だとするとどういう戦術や装備がよいかと多岐にわたる話題をしたという。
光一郎と秋山は講義で会った以降も頻繁に手紙のやりとりをする。内容はウマ娘の魅力やよりよい食事法、戦闘時における駆兵の新戦術や新装備に関する話をしている。
このふたりのアイディアに森林太郎が巻き込まれており、ウマ娘にとっての最適な食事法を求められた。
林太郎は栄養素について研究中だったが、仕事の片手間でいいならと了承したが、ふたりにせっつかれて本格的にやってしまう。
これがきっかけでウマ娘栄養学は発展し、1914年に創立された営養(栄養)研究所ではウマ娘の栄養に関する講義をおこなっている。
当時は女性の社会進出は軍人以外ではあまりなく、日本で海外のようなウマ娘レースを普及するためにも教育を進めたいとふたりは考えていた。
通常の学校での教育だけでなく、それに追加して運動方法を教えられないかと。
今のウマ娘レースはそれぞれが考えてトレーニングをしており、非効率的な練習や無理をして体を壊す娘もいる。またウマ娘でレースをして何になるの? と。
ふたりは教育について勉強したが、専門家を探して任せようとなった。
軍隊式しか教えられない彼らではどうやろうとも結局は軍人にさせてしまうことが予測できたからだ。
なので、この件は桐生院家に任せることにした。
こういった話し合いでふたりは意気投合し、歳は大きく離れてはいるがとても仲のいい友人関係となっていった。
明治39年(1906年)4月に東京で池上レース場は作られていたが、このレース場の目的は強いウマ娘の育成と庶民に見せることで、寄付金やグッズ売り上げでウマ娘の大量の食事代や設備を整えるのが目的だった。
現在のウマ娘レースのようなファンサービスや握手会といった娯楽があるレースではなく、あくまでも戦うウマ娘の能力強化を目的としたレースだった。
観客は走るウマ娘を客席で眺めるだけのシンプルなものだ。
当時はウマ娘レースは小規模でレース場の数はとても少ない。現在のようなウマ娘が歌って踊るライブをするのもなく、ただ純粋に走るだけのものだった。
明治40年(1907年)には同盟国であったイギリスから、民間である小岩井農場の岩崎家(三菱財閥を創業した一族)が20人のウマ娘を呼んだ。
この20人のウマ娘たちは『始まりのウマ娘たち』と呼ばれ、その後の日本ウマ娘史に名を残している。
そんな彼女らは岩手に移住し、小岩井農場で働いた。
これは日本の環境や言語に慣れることと、日本のウマ娘たちに走りの指導や食事などレースに関する様々なことを教えるためであった。
そのウマ娘たちが指導したウマ娘はそれぞれの流派を作っていく。
また岩崎家に話を通して桐生院家が招待し、小岩井農場からやってきて居候したウマ娘がいる。そのウマ娘の名前はフロリースカツプ。
彼女の指導は独特で、ウマ娘の太ももをよくさわることで筋肉の付き具合を確認するというやり方だった。
その教えは2024年でも受け継がれていて、トレセン学園ではその指導をしているトレーナーがいる。
この指導法で有名になったウマ娘はスペシャルウィークにマチカネフクキタルやウオッカがいる。
これをきっかけに三菱財閥とも縁ができ、交流をし始めた。
明治43年(1910年)には桐生院家が提言したウマ娘のための学校、ウマ娘教練学校(第二次世界大戦後、トレセン学園と改名)が東京府中に設立。
トレセン学園の初代理事長は、桐生院家と親交のあった愛媛にいる秋川家であった。
彼の死後、理事長は代々秋川家が就いており、現在のトレセン学園の秋川やよい理事長はその子孫である。
明治44年(1911年)に光一郎は21歳になった。
このときには将校として陸軍駆兵隊所属となっており、秋山の部下となっている。
この年に今まで銃や兵器のデザイン案を書き溜めてたラフスケッチが、秋山好古経由で有坂成章の手に渡っている。
有坂成章は三十年式歩兵銃や三十一年式速射砲の開発者である。あの有名な三八式歩兵銃の原型を作ったと言えば知っている人はいるだろう。
光一郎のラフスケッチはとても斬新なものだった。
20mm弾を想定して描かれた絵には駆兵用大型ライフルにはマズルブレーキに、スコープなどがつけられるマウントレールがあった。
個人の好みや部隊の運用に合わせてアクセサリを変えることで、この一丁で様々なことができる。
今ではどの銃にも当たり前につけられているほど一般的だ。だが、この時代には先進的すぎるものでいったいどこで発想を得たのか首をかしげる者が今でも多い。
英語の名前を付けていることから、英語圏の何かに影響を受けたのは確実だと思われているが。
その誰も見たことないラフスケッチを見た有坂は銃の開発意欲が燃え上がった。
彼は軽い脳溢血をその年に起こしていて、休むことを命じられていたため自由な時間が確保できた。
彼は光一郎と秋山の部隊に通い、ウマ娘の身体能力を研究して新しい銃の開発に燃え上がっていた。
その後、2年式20㎜駆兵対物小銃の設計図ができあがり、銃の使用目的や威力に軍は感心し、1000丁ほど生産した。
使用目的は遠距離からの機関銃座や土嚢、建造物の破壊を目的としている。この銃には光一郎の強い想いがあり、それはウマ娘たちには怪我をして欲しくないから遠距離で戦って欲しいというものだった。
軍人なのに弱気に思える考え方や態度などを普段から発言しており、同僚や上官からは好まれていなかった。
しかし光一郎は下士官や兵卒たちと一緒にいることを好んでおり、その人たちからの好感度は高かった。
非番のときには自主訓練と称し、賞品を自腹で用意してはウマ娘たちにレースをさせて走りを楽しんでいる。それを続けているうちに規模が大きくなり、違う部隊にいるウマ娘好きの将官たちがやってきては自費で商品を進呈するように。
レースが盛り上がり、一部ではファンクラブなるものが作られるほどに熱狂が出る。
これは規律が乱れるとのことで軍上層部に問題視され強制的に解散されたが、こっそりとブロマイド写真が流通するようになる。
1914年(大正3年)に第一次世界大戦が起きる。
日本はイギリスとフランス側がいる連合国側で参戦し、ドイツ側の中央同盟国と争った。太平洋でドイツ領土を奪うだけだった日本へ、翌年の連合国から強い要請を出されて渋々ヨーロッパへと2個師団を派遣。
その派遣された中に光一郎と秋山の姿があった。
日本から遠く離れて国益に直接関与しない戦争をすることに兵たちは士気が低かったが、光一郎は自分たち輸送艦を護衛する艦艇たちを見てひとり興奮していた。
「Burning Loooove!!」
とは、戦艦金剛を見たときに言った言葉だ。なぜこのようなことを言ったのかは不明である。
間近で見ることがない軍艦に興奮したのだろうか。
ドイツとの戦場に到着した日本兵たちの前では塹壕戦が展開されていた。塹壕の中は水が入って不衛生になり、日夜関係なく降り注ぐ砲弾で精神をすり減らす地獄のような場所。
そんな中でも光一郎はたくさんのイギリスウマ娘と会い、イギリスのウマ娘レース事情を熱心に聞きまくっていたという。
イギリスでは勝ったウマ娘の名誉は高く評価され、ファンサービスもある。特に聞いたのは芝についてだ。
日本の気候ではヨーロッパの洋芝は難しい。和芝なら育てやすいが、将来レース場を作るなら世界で戦えるウマ娘にするため洋芝でやりたいと強く考えていた。
そうして悩みながらもレースのことを考えるのは戦場の中での息抜きとなっていた。
日々塹壕の中にいる日が続くなか、予想外のことが起きて彼は叫んだ。
「やりやがった!! マジかよあのウマ娘ッ、やりやがったッ!!」
と、イギリス側の夜襲が終わったあとに興奮しながらの喜びと困惑の言葉は、仲良くなったイギリスウマ娘に対して向けたものである。
彼女は日本軍から貸し出された20㎜駆兵対物小銃の銃身と銃床を拳銃ぐらいにまで切り詰め、ボルトアクション拳銃なんてものを作り出したから。
重い銃身を切っては反動がすごすぎて使えない物にしかならないと光一郎はそのウマ娘に言ったが、彼女は短いほうが塹壕の中でも使えると強気で主張した。
それがまともに使えたのなら、お前に褒美を渡すよと言い放ち、彼女は怒った。
剣のクレイモアと勝手に切り詰めた20㎜駆兵対物小銃を持って夜襲に行き、戦果をあげて無傷で帰ってきた。それを2度もだ。
塹壕では木箱や土嚢に隠れる兵士、塹壕にある部屋の扉越しや装甲車相手に接射して撃ち抜いたとも。
賭けに負けた光一郎は彼女が希望した20㎜駆兵対物小銃と装薬を減らした多数の20mm弾を与えたため、軍から強く非難されている。
なお彼女は1年後に戦線を移動し、戦場で迷子になる。そしてドイツ側占領地に入ってしまったときは自陣に戻れず、さらに進んで兵士だということを隠してオランダやベルギーの民間人たちと交流を深めている。
多くの人たちの戦争に対する怒りと悲しみ、そして彼女が走るウマ娘レースという娯楽で人々は頑張って生きた。
戦争が終わって100年後には彼女をモデルにして『戦火のウマ娘』という映画がアメリカで作られた。
映画のラストシーンにおいて民間人を守るため戦車相手にひとりで立ち向かい、クレイモアと20㎜ボルトアクション拳銃で戦うもたおれる姿を見た聴衆は涙が出た。昔は強力だった駆兵と、それよりも強い戦車という対比は時代の流れが変わったことを感じさせるものだった。
日本軍が配置転換した1915年の冬は、日本軍とフランス軍の共同でドイツと向き合っていた。
このときも以前と同様にレースのことをフランスウマ娘たちに聞く。内容はフランスのウマ娘レースは1891年からレース場内発売に限り、走ったウマ娘のグッズを売っているという話だった。
これで非合法に賭け事をしている人たちを駆逐し、グッズによって国の収入を増やしてウマ娘レースの運営を安定させた話はずいぶん参考になったようだ。
フランスウマ娘と会うようになってから、光一郎はノートに絵を描きはじめた。それは女性向け衣装のデザイン、そのラフ画だ。
こっそりフランスウマ娘からワインやご飯をもらったお礼として、絵を渡した。
休暇でパリに行ったフランスウマ娘はおしゃれな服が描かれた自分の絵を持ち、服を作ってもらおうとした。
光一郎が描いた絵で帽子を作ってもらった中にはココ・シャネルもいた。あの有名ブランド、シャネルの創業者だ。
以前からウマ娘に熱中していたシャネルはウマ娘を美しく見せる帽子のデザインに惚れ、光一郎がパリで休暇を取っているときには四六時中一緒にいては光一郎からデザインについての話とデザイン案を聞きまくっていたという。
最初はココ・シャネルという名前を聞いて彼女に喜んで絵を見せていたが、いつまでも終わらない話に光一郎も嫌がり逃げだした。
だが、この時はシャネルに協力した軍と警察のウマ娘によって捕まっている。協力したウマ娘たちにはあとでシャネルから帽子をもらったと記録に残っている。
光一郎は大正5年(1916年)には日本から来た他の部隊と交代して秋山と共に日本へと帰国している。そして翌年には第一次世界大戦が終わった。
各国が厳しい賠償をドイツに突き付けるなか、被害が少なかった日本は連合国の過剰な賠償請求を抑えようとした。厳しくしすぎると、怒ったドイツ国民が将来また戦争を始めると予測したからだ。
だが、その言葉は受け入れられず、ドイツは厳しい賠償請求を課された。
日本の利益は太平洋にあるドイツ領土と技術をもらうことで終わった。
第一次世界大戦が終わったあとで世界では軍縮が始まっていく。
その中でロシア革命が起きてロシア内戦が起きた。
日本を含む各国がロシアに干渉しようとシベリア出兵をし、日本はロシアに残されたポーランド残留孤児を救っていく。
ポーランド地域を領土としていたロシアには反乱行為をしてシベリアへと流刑にされたポーランド人の家族、15万人から20万人がいた。その人たちは内戦に巻き込まれ難民となっていた。
日本はポーランド人女性の要請を聞き、難民の中から孤児を救出。
桐生院家にも孤児ウマ娘が来て健康的で規則正しい生活を送った。
ポーランド政府の要請により孤児全員がポーランドへ帰国するときにはポーランドウマ娘たちは日本にいたいと泣き、桐生院家の人やウマ娘たちはおおいに別れを惜しんだ。
33歳になった光一郎は多数の愛人ウマ娘がいるなかで両親のすすめでお見合いをして嫁をもらい、ウマ娘たちのための活動を精力的にし始める。
妻にもウマ娘たちとの交際を認めてもらっており、妻と愛人たちは仲がよい関係だった。
「まったく、ウマ娘は最高だぜ!!」
と、その様子を見た光一郎は発言をしたが、この言葉は世間では誤解をされている。愛人が多数いたのを喜んだわけではない。
確かにウマ娘というのは多くが美人だが、その見た目だけを褒めたわけではない。
ウマ娘ならではの運動能力と人よりもさっぱりではっきりとした性格が多い点を光一郎は高く評価していたということを補足したい。
愛に包まれた生活をするようになった光一郎は、手狭になり施設を拡張できなくなった目黒レース場の次のレース場建設について意見を出していた。
建設候補であった小金井や羽田、世田谷、府中のなかから府中を強く要望。その理由は地形が適していたことと、地元の人たちのウマ娘愛が強かったからである。
そしてコースの設計には芝に強いこだわりがあった。
暖地型だが西洋芝を導入するのは頑として譲らず、周囲の者を困らせた。
西洋芝は日本において手入れが難しく、日本芝のほうが日本の高温多湿環境に強く維持費を安くできる。
だが、将来は海外を相手に倒すのに日本芝を使ってどうするという主張を強くして説得にあたっていた。
それをしながら、ウマ娘をレースだけでなく商業的にも成功させるために、グッズ販売と勝利後の舞踊と音楽を導入した。
これは第一次世界大戦時にイギリスとフランスのウマ娘たちの話を参考に考え付いたものである、と自伝に書かれてある。
作ろうとしてから長い時間がかかったが、1933年に府中にて東京レース場。日本初の洋芝によるコースが完成した。
コースの他にはレース前のウマ娘たちを見せるパドックやライブ会場も作られている。
翌年から日本ダービーが始まり、数々の名勝負が行われる。
のちに光一郎の夢であり遺言であった国際招待競走、ジャパンカップが1981年に開催されることになる。
これが桐生院光一郎がジャパンカップが作られる、東京レース場に情熱をそそいだ歴史だ。
他にも光一郎は多くのエピソードがある。
第一次世界大戦から第二次世界大戦の間までには、南部麒次郎と共にウマ娘用の銃や装備を開発している。
ココ・シャネルが日本にまでやってきては斬新なウマ娘勝負服を一緒にデザインしている。
株で大儲けし、世界恐慌後にはアメリカからウマ娘とレースに関連する施設や物に技術者と指導員たちを呼んだこと。
アメリカ最強ウマ娘、シービスケットを招待してトレセン学園での指導をしてもらった話。
ナチスドイツから迫害を受けていたユダヤ系ウマ娘と家族を招待して満州に住ませたこと。
太平洋戦争中では日米対抗の硫黄島障害レースで、フランスウマ娘のウラヌスとその相棒であるバロン西こと西竹一たちが活躍したレースを作ったこと。
などの興味深い話が複数ある。
こうしたエピソードがある桐生院光一郎は、日本のウマ娘レースにとって大きな仕事を成し遂げた人物である。
彼がいなかったら日本のレース場は和芝だけになり、世界と戦うには非常に苦労したであろう。またウマ娘文化の発展や引退ウマ娘の将来のことについても大事に考えていた。
読者の皆も機会があれば、ウマ娘の歴史を調べて欲しい。
以上で彼の話は終わろう。
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