最初の話が多くの方に好評をいただけたため、未熟な執筆力ではあるが様々な資料を見ながら彼のことを書いていこうと思う。
前話で昭和8年(1933年)に東京レース場を建設で話を終えたが、昭和8年より前の書かなかった部分について話をしよう。
まずは第一次世界大戦が終わってすぐのことだ。
第一次世界大戦後、日本がドイツから賠償として得たのは太平洋のドイツ領土と潜水艦技術に戦車技術、少額の賠償金だ。
それと講和会議でドイツの賠償を減らそうとしてドイツからの好印象があったため、行き場がなくドイツにいたくなかった人やウマ娘たちが来た。国籍はドイツを中心にオーストリア、ハンガリーと複数国だ。
敗戦後のドイツでは軍備や研究が制限されたため、飛行機や航空機用エンジンを作り続けたい技術者は日本で仕事をしたがった。
その中にはユンカース=フォッカー社にBMW社の技術者などがいた。これによってエンジン技術や工作技術が強化される。
光一郎は日本へやってきた海外ウマ娘たちを引き取り、日本語や日本文化に慣れさせようとした。
けれど彼女らは精神が疲労していたため、桐生院家や周辺住宅を借り上げて療養を優先。
回復したあとは勉強をしてもらいながらドイツウマ娘にドイツのレースについて話を聞いた。
ドイツでのウマ娘レースは日本とは違う競争の種類が人気であり、
それはウマ娘の後ろに車両、わかりやすくいうならローマ時代のチャリオットだ。
そういう系統の人が乗る2輪車両を引いて走る。レースの発祥は古代からある戦車競走であり伝統がとても長い競技だ。
日本も以前からやってはいたが、光一郎はこれらに興味はなくウマ娘たちだけでやる平地競争に夢中だったらしい。
だがそれはそれとしてなにかの切っ掛けになるならと、
ドイツウマ娘にとって見慣れたレース形態は気晴らしになり、一部の海外ウマ娘は日本の繋駕速歩競走の選手になった。
他の海外ウマ娘はそれぞれの職業に関連する仕事を始めた。
そのときに敗戦国である自分たち、まだ働けないドイツウマ娘を熱心に世話してくれることを不思議に思った子がいた。
「誰かを助けるのに理由がいるかい?」
大戦中に勉強した、まだ未熟なドイツ語を使って穏やかな笑顔でこう言ったのが光一郎だ。
この言葉を聞いたドイツウマ娘は静かに涙を流し、日本のことをよく学び熱心に仕事をするようになった。
光一郎はドイツウマ娘を見て、レースで引退したウマ娘たちのことを思い出す。
軍の場合は怪我や病気で退役したらお金をもらえるが、レースで怪我をした子に対する補償は薄いものだった。
当時の練習法は精神論が強く、怪我や病気は根性が足らないと言われる風潮が強かったのもあり、勝てないことや怪我は自己責任という考えが強い。
そのことを心配してウマ娘教練学校の理事長へと引退したレースウマ娘について相談した記録が残っている。
大正11年(1922年)にはポーランドの孤児たちが本国へと帰国し、光一郎が結婚した。この部分は前話の後半部分に書いたため、詳細は省く。
結婚したこの年に光一郎は陸軍大尉にまで出世している。
孤児を保護していた間は招待したドイツ技術者と、航空機を開発した二宮忠八で飛行機やエンジンを作る新会社を設立した。社長になったのは会社を作ろうと言った二宮だ。
縁がある三菱財閥の助けを借りて作った会社の名前は『モルゲンレーテ航空機』だ。ドイツ技術者と二宮が相談してつけた名前はドイツ民謡の曲名から取ったもので、意味は朝焼けだ。
この社名を聞いたときに光一郎は、将来的には巨大人型兵器も作れそうだと言い放って将来性に期待していた。
なぜ戦車や戦闘機ではなく人型兵器と言った理由は今でもわかっていない。
一部の学者はアメリカで開発されたブリュースター・ボディ・シールドという防弾鎧をどこかで知った影響じゃないかと推測している。
日本人とドイツ人従業員によるモルゲンレーテ航空機は飛行艇や輸送機にバイク、航空機用とバイク用のエンジンを作っていく。
光一郎は航空機やエンジンに詳しくなかったためか、彼の手によるデザイン案はあまり描かれていない。
会社を設立して1年後にはBMWのR32に似た大型バイクを作り上げた。飛行機や航空機用エンジンを最初に作らなかったのは、会社の資金が足りなかったからである。
だから日本で商機があるバイクを選んだ。
だが、会社規模が小さく大量生産はできないために品質重視の生産へと変え、量産は三菱へと任せるためにライセンスを売っている。これを始まりとしてモルゲンレーテと三菱の強い協力関係が始まっていく。
このメンテナンス性が高い国内生産のバイクは、帝国陸軍向けに地上高を上げて不整地における走行性能などの改良をして13年式自動二輪車として採用され、サイドカー付きも作られている。
モルゲンレーテ航空機を作るときに各会社へ挨拶をした光一郎は、そのときに南部銃製造所に行って南部式拳銃で有名な南部麒次郎と会った。戦後、警察向けにニューナンブM60という拳銃を作った会社の創業者でもある。
南部麒次郎は1915年に亡くなった有坂成章の部下だった人であり、有坂と2年式20㎜駆兵対物小銃を開発時に面識を持っている。
ひさしぶりに再会したことでなごやかに話が始まり、南部麒次郎が耳栓をせずに銃を撃ちまくって音をじかに確認していると聞き眉をひそめた。
試験で銃を撃つときには耳栓を薦めたものの、南部は音が聞こえないと問題部分がわからんと強く拒否している。
それでも光一郎は難聴になった場合は銃器開発ができなくなると強く訴えた。
後日にドイツ技術者からもらった、ワックスを使っているコットン耳栓をプレゼントした。南部は金属製耳栓と違って着け心地が良いこれを気に入って使い始めていく。
光一郎がモルゲンレーテ航空機を設立後、父親から桐生院本家の当主の座を譲られた光一郎は、自由になったお金を使ってアメリカの株を大量に買うことを始める。
アメリカにいる桐生院家の人間にお願いをし、幅広く株の代理購入をしてもらった。
お金の多くを投資に使い、一族からは気が狂ったかと思われる。そのことに両親や妻たちから怒られるが、これは間違っていないと強気でいる光一郎。
光一郎の強気な姿勢の理由を証明するかのように買った直後から値が上昇し、相談なく買ったことを怒られた。
このときは妻と愛人たちの怒りを収めるために美しい土下座をし、植木好きな妻のために東京都の駒込へと愛人たちも一緒におでかけへと連れて行っている。
駒込は江戸時代中期から農民たちが大名たちに庭造りをしたことで有名になった。
植木の手入れや生産などで生計を立て、だんだんと専門的になっていき多くが植木屋へとなっていく。
この地域には大名屋敷があり、競い合うように園芸の腕を上げていき明治、昭和になっても続いている。
そのために園芸の街と呼ばれていて、駒込の染井村はあの有名な桜の品種『染井吉野(ソメイヨシノ)』の発祥地としても知られている。
妻たちを連れて駒込へと行った光一郎はテンションが高い妻たちがあちこちを歩き回るので付き合うのに疲れ、草むらに座りながら通り過ぎていくウマ娘の太ももを眺めていた。
そこへ通りがかったのが高村幸太郎だ。彼の有名な作品では詩集『智恵子抄』や彫刻『乙女の像』だ。ウマ娘ファンとしては東京レース場に置かれてあるウマ娘像を知っている人は多いと思う。
高村は駒込にアトリエを構えて住んでおり、彫刻の気晴らしで歩いていた。
光一郎へ声をかけたのは、熱心にウマ娘の脚を観察しているのが気になったからだとか。新しい芸術というのを常に求めている高村にとって、光一郎の熱心な視線が気になったのだろう。
高村は光一郎に声をかけ、あたりさわりのない雑談をはじめては一緒にウマ娘談義を始める。
そこから彫刻や妻の話をして、やがて初対面とは思えないほどの熱い語り合いに発展したらしい。
「脚は飾りじゃありません。偉い人にはそれがわからんのです!」
日本にあるウマ娘像の脚は躍動感が足りないと光一郎は力説し、高村もそれに同意して30分ほど話したあと、お互いに自己紹介をした。光一郎は高村の名前を聞くと、感激し驚いたという。
この時期の高村幸太郎は知名度が高くなく、彼を知っていたのは森林太郎(森鴎外)から何か話を聞いていたのだろうか。
光一郎は持っていたノートに鉛筆でサインを書いてもらい喜んだ。
偶然の出会いがきっかけでふたりはたびたび会うようになっていく。
光一郎に新たな出会いがあったあとは別れがやってきた。
7月9日、午前7時頃に自宅にて森林太郎が腎萎縮、肺結核のために亡くなる。享年60歳。
光一郎や秋山などの友人が付きそうなかで息を引き取った。
林太郎のことは脚気をやっつけた軍医、小説家として森鴎外の名前で活躍した偉大なる人物の死は新聞で報道され、多くの国民が死を悲しんだ。
彼が書いた小説の『舞姫』は死後に学校教育の教科書で使われ、現在も使われ続けている。
大正12年(1923年)に秋山好古は65歳で陸軍を退役し、3月31日に予備役となる。
時間ができた秋山は光一郎からのすすめによって日本国内を旅行し各地のウマ娘レースを見て、大好物の酒を各地で探しては飲み歩いた。
夏が近づき、日本領土には島が多いため海に慣れておこうということで陸軍に神奈川県の海岸での水泳、行動、戦闘訓練を上官である秋山を通して軍へ提案し了承される。
光一郎は必要以上のテントや食料を用意させ8月28日から8月31日まで訓練をし、翌日の9月1日の午前は休息の時間を取る計画を取った。
秋山は持っていく物の多さについて疑問があったが、光一郎はそれに対して補給訓練も兼ねていると答えている。
参加部隊は駆兵に歩兵だ。訓練中に間違って照明弾を水中発射、水上走りをしようとして沈むウマ娘などの小さなミスが起きながらも無事に終わってから、兵たちは後片付けをゆっくりしつつ帰る準備をしていた。
そんなときに大きな揺れが起きた。
9月1日11時58分、関東大震災が発生。
マグニチュード7.9の大地震は東京、神奈川、茨城、千葉など関東の広い範囲に大きな被害をもたらした。
東京では6割の家屋が被害を受け、地震発生時間が昼食を作っている時だったために多くの火災が発生。
この日は強風が吹いていたために被害は拡大した。
10万人を超える死者と行方不明者が発生するほどのものだった。
地震が起きた直後、光一郎は秋山に進言し津波を警戒して高台へと移動指示を出した。
幸いにも部隊は帰る準備をしていたため、まとめられていた荷物を持ってすぐに移動。
高台からは神奈川の街が燃え、段々と火が燃え広がる光景を呆然と見ていたらしい。
兵たちは即座に支援へ向かおうと上官たちに訴えたが、このとき光一郎は津波が終わってからだと何度も強く言って兵士たちをなだめている。
それから少しして5mから6mほどの津波が2回やってきた。
高台で待機している間、秋山と光一郎は遠くに見える街の火災を見ながら将校たちと相談をし、救助行動を始めることを決定し行動計画を立てた。
部隊に無線機はまだ配備されておらず、軍上層部へ相談ができなかったために独断での行動だ。
津波が終わったと判断したあと、部隊は独断で行動を開始。周辺地域の住民たちを救助しに行くと同時に高台でテントを設営する。
救助をしに行った部隊は、家が焼け落ちた住民たちを保護して戻ってきた。
テントを張った場所は避難場所となり、噂が伝わって避難をしに多くの人がやってくる。
部隊は救助と治安維持活動を懸命にした。
9月6日頃には多少落ち着きが出始めたが、人々は暗い表情ばかりで明日への希望が持てなかった。
そんなときに光一郎は避難してきた小さな男の子と話をする。
「自慢じゃないが、俺は100mを5秒ぴったりで走れるんだ」
こんなことを落ち込んでいる男の子へふざけて言った瞬間、少し離れたところにいた軍人であり愛人でもあるウマ娘は、光一郎にすばやく近づくと拘束し、他のウマ娘たちを誘って強制的にレースを走らせた。
そして行動予定にはない野良レースをすることになる。
その走りを見てウマ娘だけでなく人間たちも参加をし、走ることで行き場のないストレスを発散させた。見ている方も応援に熱が入り、ひと時の間だけ辛いことを忘れられる。
光一郎とウマ娘とのレース結果だが、人間がどれだけ鍛えようともウマ娘に走りで勝てるはずもなく、スタートダッシュはよかったがあっさりと負けてわからされている。
冗談で言った言葉を時速に換算すると約72㎞になり、速さにこだわりがあるウマ娘がつい勝負したくなるのは仕方がないだろう。
この軍人ウマ娘たちによるレースは、震災で強い喪失感がある子供たちには大きい希望の光となった。
今まで間近で見たことのないレースの速さと迫力は子供たちの心を明るくし、心に強く印象付けることになる、
このおかげで軍への評判は高くなり、上層部からの依頼で復興しつつある各地で駆兵による演習やレースをおこなった。
新聞社もこのことを美談として大きく取り上げている。
そしてウマ娘レースを見た少年少女たちは、今風に言うならば、脳が焼かれたと言えるだろう。
それというのも、このレースを見た以降は駆兵になりたいウマ娘やウマ娘関係の仕事に就きたい子供たちが大きく増えたからだ。
この影響は大きく、各地で開かれている民間のレース場ではウマ娘グッズの売り上げや、ウマ娘関連書籍の発行部数が増えた。
10年ほど経ったあとのレースウマ娘やトレーナーへの取材した記事がある新聞を読むと、それらの仕事に就いたのは震災時に駆兵部隊とふれあえたことがきっかけだと発言している。
光一郎が目指したのはウマ娘レースの発展であり、東京レース場が完成するまでの間にはこれらのことをしていた。
またウマ娘の体を健康的なものとするためのひとつとして、化粧品開発もやっていた。化粧品会社と共同研究をして、つばき油などを使った爪の手入れに使うネイルオイルや、アメリカから生理用品を輸入して駆兵部隊へ普及させた。
ウマ娘レースだけでなく心や体を大事に思っていた光一郎の理想は、ウマ娘が戦争をせず、レースを熱心に走る、またはそれぞれの特性に合う仕事をすればいいというものだったが、荒れていく時代はそれを許さなかった。
現代のように軍隊が機械化されればウマ娘が必要となる数は減ったが、身体能力が高い彼女たちは今でも必要とされている。
今回の話は前回より短くなったが、彼のことを少しでも知っていただけたなら幸いである。
誤字報告ありがとうございます。