生まれたらウマ娘がいるから大切にしたい   作:あーふぁ

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日常と友

 大正13年(1924年)4月に秋山は震災からの補修途中であったウマ娘教練学校の2代目校長に就任。

 秋山は子供好きで教員資格を持ち、軍に入る前は教員経験があったことから喜んで校長になった。

 

 当時、校長という職は名誉職だったが、秋山は個人の適正を伸ばすという教育方針を持っていた。

 そしてそれを実現するために、ひとりひとりの生徒を見るために毎日早朝から校門に立ってはほほ笑みを浮かべてウマ娘たちをいつも迎えていた。

 それぞれのウマ娘たちに挨拶をし、授業や練習をのぞいてはよく褒めたという。

 褒めるだけでなく、字を綺麗に書きなさいということを丁寧に指導した。

 

 この時代の学校は生徒だけでなく教師も遅刻や無断欠席は当たり前で。秋山は遅刻や欠席した教師の代わりに授業をした。

 軍で経験したことも活かし、時には授業と関係がない話をしたこともあったが、その雑談は実に面白いものだったという。

 特に最初の授業で秋山が言ったことは印象が強かったとのことだ。

 

「諸君、私はウマ娘レースが好きだ。

 芝が好きだ。

 ダートが好きだ。

 ばんえいが好きだ。

 障害飛越が好きだ。

 トロットレースが好きだ。

 練習で頑張って走る子が好きだ。

 この陸上で行われる、ありとあらゆる種類のウマ娘レースが大好きだ」

 

 このように言うことで校長はただの飾りじゃなく、ウマ娘をきちんと見るということを宣言している

 そして秋山はさぼりをした教師に苦情や処分をすることなく、教師としての在り方というのを自分自身を通して見せ、次第に教師たちも特別な理由がない限り欠席をせずに真面目な態度でウマ娘たちへ指導をしていった。

 また校長という職についていながら、秋山を見て教師たちは自主的にさらなる勉強をし、教育に熱が入っていった。

 その結果、トレセン学園の教育と教師たちは素晴らしいと日本全国で報道。学校教育の模範となっていく。

 秋山が実践したことは当時としては先駆的な内容であったが、今では教育の基本的なものとなっており、広く一般化されている。

 

 そんな秋山は汗を流しながら走る練習をするウマ娘を見続け、もっとウマ娘の体作りに役立つものを作れないかと考え始める。

 そして光一郎に相談し、共同でウマ娘の運動に良い食べ物・飲み物をというコンセプトで試行錯誤で料理を作っていく。

 趣味の研究であり、お金をかけられないなかで軍時代を思い出しながら塩と砂糖を同時に摂取できればいいという秋山の発想で水にそれらを入れた。

 ふたりは自分たちの体を使って濃度配分を実験しつつ、今でいう経口補水液の作り方を編み出す。

 ついに完成した光一郎と秋山だったが、2年前に亡くなった林太郎がいれば、もっと手際よく開発できたのにと亡くなったことを思い出しては悲しんでいる。

 できあがった経口補水液は大変便利なものであり、光一郎は軍の部下たちに飲ませた結果、訓練後でもすぐに回復したのを見て、軍でも評価される。この経口補水液は病人の弱った体にも水分と糖分を素早く吸収できる良いものだと褒められた。

 この結果によって日本だけでなく、ゆるやかではあるが世界へと広まっていく。

 

 

 大正14年(1925年)で光一郎の年齢は36歳になり、初めての子供が生まれる。

 妻が生んだのは長男であり、光一郎はこのことに大きく喜んで人を集めて宴会をしている。これ以降はウマ娘の愛人たちも子供を作り、出産するようになる。

 こうして子供ができて、すごく甘やかすようになって幸せいっぱいだ。

 そんなときにココ・シャネルがお祝いという名目で日本へやってくるという手紙が来た。

 今まで光一郎とシャネルは手紙とファッションに関する図案のやりとりをしていた。

 手紙が届くたびに日本へ来たがっていることが書いてあったが、光一郎はフランスからの船旅が大変だろうと言い、他には仕事で忙しいとか朝鮮へ出張すると返事をして来日してこないようにしている。

 それというのもシャネルはデザインではとても積極的で、とても細かいことまで聞いてくるシャネルの対応に困っていた。

 

 しかし、シャネルが興味を強く持つほどのデザインをなぜ光一郎は考えられたのだろうか。

 光一郎が描いたデザイン案の一部は桐生院資料館で見られるが、何度見に行ってもなんでそんなものを考えられたのかがわからなかった。

 ウマ娘好きの軍人が、どこからこのアイディアを思い付いたんだろうか。

 今のメイド喫茶で使われるようなミニスカのもの。他には和メイド、ゴシックロリータ、パンクファッション、ルーズソックスにあとは厚底ロングブーツなどだ。

 昔にデザインされたものだが、柄が古臭く感じる以外は現代でも通用するスタイルとなっている。

 桐生院家には色々な外国ウマ娘がいたし、光一郎も戦場で海外ウマ娘と話をする機会があったから、そこから思いついたのだろうか。

 少々深く考えてみれば、民族衣装を元にしているといえばしているかもしれない。または単に衣装を機能的に、と思ったからミニスカを考えたのだろうか?

 当時の常識はずれっぷりの思考は、常識外を求めるシャネルとは相性がよかったのだろう。

 

 シャネルは日本で桐生院家に4か月ほど滞在し、その間は日本文化を堪能してウマ娘たちの勝負服というものを考え作っている。

 この時期はレースウマ娘が走るときに使う服装は和服や軍服、女学校で採用されていたブルマなどだ。

 重賞だからといって特別な服などを使うことはなかった。だが、光一郎はレースに特別性を出せば、重賞はより盛り上がって多くのお客さんが見に来ると考えていた。

 考えられた勝負服は、光一郎が国の機関である馬政局に相談し、1932年の目黒レース場にて第1回東京優駿(日本ダービー)のときに初めて勝負服が披露された。

 

 日本文化を勉強しているシャネルは日本の女性が胸を押さえるのにコルセットやブラジャーではなく、サラシや襦袢を使っていることにデザインとしての興味が惹かれる。

 その着方を勉強したあとに、美しい胸を維持できるからブラジャーは素晴らしいものと光一郎に強く話を振り、妻や愛人たちにも使わせた。

 ブラジャーはフランスで登場し始めたばかりであり、デザイナーのシャネルが勧めるのは当たり前と言ってもよかった。

 光一郎はシャネルが持ってきた新品のブラジャーを手にして軍の偉い人相手に、ブラジャーがあればサラシと違ってずれなく、長時間にわたって服を直すことなく戦闘ができると訴えた。

 軍は戦闘力向上につながることを理解しておおいに喜び、何度か会議をしてフランス製ブラジャーを輸入し駆兵や軍人の妻たちに検証をしてもらって高評価を得たので採用された。

 

 ……今だから言えることだと思うが、大人の男たちがブラジャーを握りしめて会議をしていたことを想像すると脳が混乱してくるのは私だけだろうか?

 いや、とても真面目に話をしていたのはわかるのだが、軍服を着た人たちが真顔でブラジャーの有用性を考える姿を想像したら奇妙に思える。

 これがスーツ姿だとしたら、企画会議をしているんだなと脳は理解できたのだろうが。

 

「あんなものを握りしめて喜ぶか、変態どもが」

 

 これは嫌そうに冷たく言い放った光一郎の愛人であるウマ娘の言葉だ。

 光一郎から会議の話を聞いてそう言ったらしい。この言葉には同意しそうになるが、駆兵のためを思ってこその喜びだから広い心で許して欲しいと思う。

 

 翌年にはココ・シャネルがフランスに戻り、光一郎は自由に過ごせたと自伝に書かれている。

 シャネルは日本で刺激を受けたのを活かし、リトル・ブラック・ドレスというスタイルを作った。

 そのドレスは装飾を少なくした黒一色のドレスであり、しかしその色の服は葬儀や未亡人が着るものとして決まっている。

 だけれど黒は美しく見せる色であり、日常的に使う色にすべきだと考えて好んで着ていた。 長袖に長いスカートの喪服用とは違い、袖をなくす、スカートは膝まで、胸元を開いて見せるなどのアレンジをして。

 このスタイルはデザインに決まりはなく、多くのバリエーションが存在する。有名なのは映画『ティファニーで朝食を』の女優が来ているドレスだ。

 シャネルがデザインしたブラックドレスは光一郎に送られており、このときのデザインを元にしてアレンジされた勝負服がG1ウマ娘のドゥラメンテが着用しているものとなる。

 

 

 昭和元年(1926年)には第一次世界大戦後に桐生院家へ来ていたハンガリーウマ娘が昭和天皇の元へと行った。

 なぜ、そうなったのかというと、1年ほど前にある男爵から気品ある美しいウマ娘を親しい友にしていただきたいという理由だったからだ。

 その中で性格がおとなしく美人である、白く美しいあし毛のハンガリーウマ娘を選んで教育したのは男爵と光一郎だ。

 選んだからといって強制ではなく、本人の自由意志によるところが大きい。

 ハンガリーウマ娘に対して光一郎は無理にやらなくてもいいと言ったが、そのウマ娘は自分が求められていることを知って強くやる気が出たとのことだ。

 故郷から逃げ、後ろめたい気持ちがあるなかで必要とされるのは嬉しかったのだろう。

 そんなやる気あるウマ娘に、光一郎は日本に来てすぐに日本に関する知識やマナーを教えてはいたが、皇族や華族の方へ使える知識や礼儀のところところまではやっていなかった。

 そのため男爵とその妻による教育を受けた。

 

 1年ほど学ぶと光一郎が驚くほどに体全体から感じる上品さがあり、発音や言葉遣いが見事な子になる。

 勉強中には男爵と妻、そのウマ娘とで名前を考え、『白雪』と変えて立派なレディへと生まれ変わった。

 

 だが、宮内省は白毛のウマ娘が陛下の隣にいるには目立ちすぎ、何かある場合は敵の目につきやすいと断った。

 それに対して男爵は白毛で目立つウマ娘を目印とし、そこに陛下がいるとわかれば全軍の士気は百倍になると押し通し続け、白雪というウマ娘は天皇陛下の友となった。

 ひとりでいるときは落ち着きがなかったが昭和天皇がそばにいれば長時間の静止もこなし、式典や撮影などの仕事は表情を崩さずにやってのけた。

 昭和天皇と白雪が一緒の写真はいくつもあり、多くの記録が残されている。白雪はとても大事にされ、昭和天皇は白雪と一緒に走る練習をしたのは344回と記録が残っている。

 昭和天皇が行くところは白雪も行くことが多く、ふたりが写る写真は多く残されている。

 アメリカの雑誌『LIFE』の1940年6月号の表紙には、昭和天皇と白雪が軍服姿で敬礼をしている写真がある。

 ネットでも写真を見ることができ、白雪の美しい毛並みには惚れ惚れしてしまう。

 

 

 昭和2年(1927年)になると、光一郎が喜ぶ出来事があった。それは友との再会だ。

 その友の名前は、陸軍学校を卒業して駆兵部隊に配属となった西竹一。のちの1932年ロサンゼルスオリンピックの金メダリストだ。

 西竹一との関係は、父親の西徳二郎が亡くなったあとで侯爵を継いだ西竹一に桐生院家が後見人となったからだ。

 桐生院は西家と友好関係があり、幼い頃に何度か竹一を預かって世話をしたことがある。

 竹一は幼い頃から暴れん坊でケンカを繰り返す問題児だった。

 だが、桐生院家へ来たときにウマ娘が全力で走る姿やレースを見て感激し、ウマ娘に好かれようと暴力をふるう回数が減った。

 光一郎はウマ娘がいい影響を与えたことにひどく喜び、時間を見つけては竹一と一緒にレースを見に行き、ウマ娘のすばらしさを語った。

 竹一は光一郎からのウマ娘に関する英才教育を幼い頃から受けた結果、ウマ娘愛が爆発し軍人を目指して駆兵部隊へと入る。

 

 竹一はウマ娘に関することで、特に障害ウマ術競技(ウマ娘に適宜指示をし、障害飛越や歩き方と外見の美しさなどで競う)に心が惹かれていく。

 その競技に関しては光一郎が教えられなかったため、陸軍にいるウマ娘好きの同志へと任せた。

 光一郎がウマ娘教練学校に連れていって竹一と秋山を合わせたときには無言でお互いを見つめあい、同時に勢いよく握手をして認め合ったという。

 それからはウマ娘の外見の素晴らしさから、ウマ娘がこれからどうすれば幸せになれるか、充実した生活を送れるかなどの話をした。

 

 西竹一との親交を重ねていく光一郎だったが、幼年学校に入った西から同期である(つじ)を桐生院家へと連れてきて光一郎と会わせている。(つじ)は学校で成績優秀であり、後々に『作戦の神様』と呼ばれる人物だ。

 辻は脚気を治したことや第一次世界大戦、関東大震災時における活動で光一郎に興味を持ち話をしたかったため、西にお願いして連れてきてもらった。

 光一郎は辻と対面して名前を聞いたときに喜びと不満、ちょっとの怒りが混じった複雑な表情を浮かべたらしい。

 当時13歳の子供に対し、なぜそんなふうになったのかは謎だ。

 

 光一郎は幼年学校は精神主義があまりにも強すぎていかんと語り、政信が聞きたがった戦争の話をした。

 戦争の話以外では他に独断専行は人間関係や部隊間との亀裂が起き、人は精神主義だけでは動けないというのをウマ娘の歴史や訓練、医学知識と共に伝えている。光一郎自身の経験を元に、敵を決して見下してはならないということも。

 辻は西と共に光一郎に連れられてウマ娘レースにおける練習の様子や食事風景、怪我に対する手当を見て、精神力だけでは足らず物の重要性も認識した。

 

 桐生院家に訪れたのはそのときだけでなく、1人で5回以上は訪れたと記録に残っている。桐生院家では軍や政治のこと、駆兵運用やウマ娘の身体能力、そしてウマ娘レースの勉強をしたらしい。

 光一郎は辻に対し、機会があれば外国に行って日本との違いを比べると良い経験になるということを何度も言っている。

 ただ、熱心にウマ娘のことを勉強したのにも関わらず、それほどウマ娘好きにはなっていない。辻は陸軍士官学校を卒業してからもたびたび光一郎に会っており、教えを受けている。

 

 

 12月の年末に、技術者同士の宴会があると知人の技術者に誘われて光一郎は参加している。

 料亭でバカ話とウマ娘の話をしながら酒を飲み、酔いが進んだところで海軍の技術者に何か珍しい兵器は作れないかと海軍の人間に言われた。

 それに対して光一郎はロケットだと言った。

 ロケットは第一次世界大戦時にフランス空軍が飛行機に装備して空対空焼夷ロケット弾として使用している。

 ル・プリエールロケットと呼ばれたそれは、飛行船や観測気球に対して効果的だった。

 そのロケットの推進方法について言い、魚雷に使えば低予算で速いものが作れると技術者たちに興味を持たせた。

 宴会が終わった翌日、技術者たちは光一郎の元を訪ねて設計の発想案を描いてくれと頼んでいる。

 光一郎が突飛な発想をするのはよく知られており、上層部に兵器開発で無茶ぶりをされた技術陣、光一郎へ言ったのが次の言葉だ。

 

「だまして悪いが仕事なんでな。徹夜してもらおう」

 

 これを聞いた光一郎は天を見上げ、陸軍の人間が海軍の飲み会へ呼ばれたことに強く警戒しておけばよかったと後悔している。

 光一郎から夜通し設計図を描かせて話を聞いた技術者は、ロケットに関する資料を海外から取り寄せた。

 その中には、ロケットの父と呼ばれたロバート・ゴダードの実験結果やヘルマン・オーベルトにドイツの宇宙旅行協会の論文、SF作家が書いた空想小説などが入っていた。

 とは言っても当時のロケットに対しては未知の部分が多く、研究はそれほど進まなかった。

 

 だが構造的に低予算で作れるのは理解されており、細々とした予算をもらって海軍火薬廠とも相談して水中で推進するのに最適な火薬とは何かについて研究をしている。

 長期に渡る研究に対して光一郎への報酬はお金ではなく、物だった。

 技術者たちが海軍のつてを使い、知名度がある日本やアメリカ、イギリスとフランスやドイツなどのウマ娘が使用した蹄鉄やブロマイド写真だ。

 光一郎に渡されたものの中には『20世紀のアメリカ名ウマ娘』のランキング1位やアメリカ史上最高のウマ娘と呼ばれるマンノウォーの写真があった。

 海軍は各国に練習航海や親善航海をしているからこその日本では入手が難しい特別な報酬である。

 これらを喜んで受け取った光一郎は自宅の屋敷に部屋をひとつ増築してグッズを大切に保管した。

 

 光一郎の献身的な協力もあって新しい魚雷は昭和9年(1934年)には開発され、噴進式魚雷(ロケット魚雷)という名前で完成する。

 この魚雷を見た光一郎のさらなる助言によって火薬の燃焼時に出るガスを先端に出すことで泡ができ、それで魚雷を包むことによって高速化に成功した。

 速度は200ノット(時速370km)と驚異的なものになり、アメリカのMk14魚雷が46ノット(85km)なので比較すると非常に大きな差となっているのがわかるだろう。

 このガスで魚雷を包み込むという発想元は、ロシアがこういう魚雷を作っていた気がすると酒の席で発言している。

 しかし、筆者が調べたところソビエト海軍はそのような魚雷を作ってはいなかった。そのため泥酔して空想が混ざったのだろうと推測する。

 光一郎は魚雷が完成したときに発言を訂正し、訓練中に海中で信号弾が発射されたときに思いついたと言っている。

 

 そして噴進式魚雷の副産物として、噴進式の拳銃、飛行機、対空砲などが生まれることになる。

 噴進式の高速魚雷を使い、マダガスカルを攻めたイギリス艦隊を壊滅させてマダガスカル周辺で継続して船団を撃破。アメリカにも大損害を与えられたことで開戦して3年で和平ができている。

 この魚雷による潜水艦隊の大きな戦果を語りたくなるが、戦争の話をするとイギリスのアレクサンドリア陥落やインド独立。

 アメリカへの真珠湾攻撃や徹底的な輸送船と護衛艦攻撃についての話は魚雷だけで非常に長くなり、ウマ娘に関する大きな話は和平のきっかけにもなり停戦中にやった硫黄島障害レースだけになってしまうため省略させていただく。




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