世界に重大な出来事が起こる年がやってきた。
昭和4年(1929年)は世界恐慌のはじまりだ。
これを予知していたのか、偶然なのかはわからないが光一郎は 株価が非常に高くなっていた8月に全部売ったのだから、まさしく危機一髪と言ってもいいだろう。
投資していた額の6倍は儲けたそうだ。
光一郎が株を売ってから1か月後の9月4日から株価の暴落が始まっていく。
そもそもここまでダウ平均株価が5倍にまで上がっていたのは、第一次大戦をして荒れたヨーロッパにアメリカはたくさんの輸出をしていたからだが、段々とヨーロッパが復興していくと必要な物が減っていく。
他にも保護貿易(関税を色々あげる)をする国が増えたために、アメリカの輸出額は減る。
そして儲かるからと会社や農家が生産量を上げ続けた結果、過剰生産となって行き場を失った製品が大量に余り、投資をし続けていた国民は不安感が広がっていく。
アメリカ政府は一時的なものだと楽観していたが、事態の重さに気づいたときは対応しても遅い時期だ。
財閥たちが株の買い支えをしたが、それ以上に株主たちが売る量が多かった。
生産過剰、過剰投機、農業不況、新聞のウォール街パニック報道が重なって10月24日までに株価の大暴落が起きる。
暴落による被害は長く続き、1933年までには失業率が24.9%(1283万人)になった。
簡単にまとめると恐慌の結果はアメリカの株価が89%下落。GDPが45%減少し、失業率が25%。物価は22%下落した。
光一郎はアメリカで儲けたお金の一部を日本へと持ってきており、そのお金で引退ウマ娘協会を設立。
アメリカから始まった恐慌が世界的なものになっていくなかで、ウマ娘たちを金銭面や仕事の支援をした。
光一郎は以前からレースウマ娘の引退について厳しい事情を心配しており、怪我をして引退したウマ娘は再就職が難しいことをどうにかできないかと思っていた。
だからこその設立であるが、日本も世界恐慌のあおりを受けて不況になったため支援の範囲を広げている。
レースを引退したウマ娘だけでなく、怪我や精神障害によって軍を退役したウマ娘の相談に乗り、行くところや就職場所に困ったウマ娘は光一郎が買った関東にある農地で農作業の仕事を与えた。
専門の相談員も雇い、ウマ娘たちの不安をやわらげるようにした。
だが、ウマ娘たちに農作業"だけ"の仕事を与えたことが問題視された。
怪我をして就職しづらくなったウマ娘の弱みにつけこんで、過酷な農作業をさせて儲けようとしているんじゃないかと。
ウマ娘は体力と力に優れているため、とても古い時代から農耕だけでなく輸送や兵士として使われてきた。
また昔のようにウマ娘の職業を限定させようとしているんじゃないかと批判を受けた。
これは新聞に面白おかしく報道されてしまい、世界恐慌によって景気が悪くなりつつある人たちのストレスのはけ口にもなり問題が大きくなった。
光一郎はすぐさまウマ娘レース関係者や軍に迷惑をかけたことへの謝罪をしている。
ウマ娘のためを思い、行動力が高いことは光一郎のいいところではある。しかし、根回しが十分に足りていなかったことと感情面への配慮が足りていなかった。
農作業の仕事だけでなく、あらたにリハビリ施設兼観光施設を千葉に作っている。
そこでは引退ウマ娘や退役ウマ娘たちが、訪れた人たちとふれあう仕事をする。仕事内容は引退したウマ娘たちに走り方を見てもらうことや将来の相談だ。有名だったウマ娘は写真撮影や握手といったファンサービスもする。
退役ウマ娘の場合は退役ウマ娘による集団での行進や、20㎜対物駆兵小銃やそれを半自動式にした新型を使って空砲での射撃演習を見せている。
もちろん軍の許可はもらっており、軍は引退ウマ娘協会を通して民間人が軍に親しみを持ってもらおうとの意図があった。
一時期は存続が危うかったが今でも引退ウマ娘協会は存続しており、当時よりも業務は多岐に広がっている。
引退ウマ娘のナイスネイチャがそこに所属してテレビ出演や取材を受けたことで、協会の知名度を大きく上げたことは知っている人が多いと思う。
グッズ販売も売り上げを大きくし、引退ウマ娘たちが写っているカレンダーやバストアップ写真のクリアファイル、ナイスネイチャ写真集の人気が特に高い。
昭和5年(1930年)に西竹一はロサンゼルスオリンピック出場のために、軍から半年間の休養をもらって自費でアメリカとヨーロッパに行ってウマ娘への指導力を磨きに行く。
日本だけでなく、海外での教育法を学ぶためだ。
アメリカで勉強をしたあと、イタリアで西は終生の友とも言えるウマ娘との出会いを果たす。
181㎝という高身長であり、大柄ながっしりとした体格を持つ巨乳でとち栗毛の美しいフランスウマ娘だ。
名前はウラヌス。
このウラヌスはイタリア駆兵学校で教導をしていたが気性は荒く、イタリア人たちは距離を取っていたそうだ。女好きという傾向が強いイタリア人でも消極的なほどに手がかかる子だったらしい。
そんな子に西は彼女の運動能力に注目し、色々と話をした。
「飛ばねぇウマ娘はただのウマ娘だ」
と、西は静かに言って駆兵学校で居づらさを感じていたウラヌスに障害飛越の楽しさを語り、実際に障害飛越の練習をさせて楽しさに目覚めさせている。
一緒に過ごすうちに、ふたりきりのときは優しくて甘くなるツンデレな性格と美しい見た目や姿勢に惚れた西はウラヌスを真摯に口説き、ウマ術競技の友として日本へと連れ帰っている。
西がイタリアでウマ娘といちゃいちゃしているあいだに、光一郎は東京レース場建設に関する話を進めている。
そのひとつとして高村幸太郎のアトリエに行っては東京レース場に置くウマ娘像の相談をした。
この等身大ウマ娘像の製作依頼は、事前に日本ウマ娘協会(日本中央ウマ娘協会の前身)に話を通しており、そこ経由で高村へと依頼がいった。
モデルとなるウマ娘はどの娘にしようか、というところで光一郎、秋山、西が集まり、酒を飲みながらのんびりと話し合った。
だが、酒が入ってしまったがゆえに3人は暴走し、一時は殴り合いにまで発展したが、それぞれウマ娘のいい部分を強調させたオリジナルの娘にしようと決まった。
3人の意見は今までの功績もあって強く反映され、理想のウマ娘デザインを高村へ伝えることになった。
昭和6年(1931年)に軍が独断で行動した大事件が起きる。
満洲事変だ。
日本が保有する南満州鉄道の線路が中国側に爆破され、柳条湖事件と名付けられたものを自作自演した関東軍(中国の遼東半島にある関東州を守備していた部隊)は満州へと攻撃。政府の不拡大とした方針と指示を無視し、23万の軍を相手に1万数千で満州を占領した。
そして日本の領土と権益を増やすためにした満州国を建設することになるが、そのことに光一郎は激怒している。
彼は兵器を考案してはいたが、戦争や混沌とした世界が好きなわけではない。
光一郎は世界からの評判が下がるとロシアから侵略されやすくなるため、日露戦争のように外国から援護が来ないと言っている。対ロシアに備えるべきであり、戦争をするよりも先に日本国内の開発をしたらどうだと主張。
この意見は一部しか賛同者がおらず、その後も満州国建国で満足はせず中国に対しての攻撃は続くこととなる。
「おばあちゃんが言っていた。男がやってはいけない事が二つある。ウマ娘を泣かせる事と約束を守らないことだ」
これは満州事変を起こした軍人のうちの1人、最終戦争論を書いた石原莞爾と会ったときに、脇を閉じて右手の人差し指を天へと突き上げながら静かに言った。
国境を越えての出兵は、軍の統帥権を有する昭和天皇の許可が必要だったのに無視したことへの怒りがあった。
昭和7年(1932年)になると、3月31日から東京レース場の建設工事に着工した。
田んぼや野原を買い上げた、大規模工事の始まりだ。この時までに洋芝コースへの偉い人たちに向けた説得が完了していて、日本初の世界へ挑戦するためのレース場となる。
光一郎は工事着工を見届けたあと、光一郎はモルゲンレーテ航空機の社員を連れて経済がどん底へとなったアメリカへ向かった。
その目的は買い物である。
価格が安くなった工作機械や技術ライセンスを買い、解雇された優秀な人たち(モルゲンレーテに必要な技術者や学校に必要なウマ娘指導者)を招待する。
ウマ娘やその指導者を2年契約で日本へ呼ぶ。その中には指導者が連れていきたがった、親に捨てられた1人のウマ娘がいた。名前はシービスケット。
幼いシービスケットは、こぶのように膨らんだ膝になっていて、そのために歩き方もおかしかったからレースウマ娘としても軍人としても役に立たないと親から捨てられていた。
シービスケットは指導員のウマ娘に拾われており、一緒に日本へ連れていきたいとのことで了承。
日本へ着くまでの船内では光一郎含め、アメリカからついてきた大人たちが盛大に甘やかし、特に一番気にかけていた光一郎にシービスケットはとてもなついた。
この子は食べることと寝るのが大好きな子だった。日本がアメリカより安心して暮らせることに感激し、日本に来るまでは緊張して品行方正だったが、段々と本来ののんびり屋でめんどくさがりな性格が出るようになった。
そして桐生院家の人たちに甘やかされつつレース技術を磨いて才能を開花させた。
彼女は契約が切れて2年後にアメリカへ戻るときは号泣して日本にいたいと言ったが、アメリカに戻るべきだと光一郎が説得して渋々戻っていく。そのときには光一郎に対して嫌いと言い放ち、光一郎は1週間ほど落ち込んだという。
シービスケットがアメリカで最強ウマ娘になって引退したのちには訪日し、光一郎と桐生院家の人たちへ感謝を伝えてお世話になった桐生院家やウマ娘教練学校のウマ娘たちに指導をしてあげている。
シービスケットの人気はアメリカでとても高く、映画が2回作られた。『シービスケット物語』(1949)と『シービスケット』(2003)のふたつだ
新しいほうのシービスケットの映画では第28回日本アカデミー賞で外国作品賞の優秀賞を受賞した。
人気が高い理由のひとつとして写真撮影のフラッシュが嫌いなウマ娘が多いなか、喜々として撮影をされ、いくつもの美しいポージングを取ってみせたからだ。
日本滞在時には日本のウマ娘レースやマスコミ対応を間近で見ていたため、その経験を生かしたのだろう。
他には良い記事を書いた記者には感謝の言葉を送り、プレゼントや独占インタビューの機会などを与えている。
映画ではシービスケットとウォーアドミラルがアメリカ最強ウマ娘の座をかけて1対1のマッチレースのシーンがある。
このときのレース映像も残っており、映画と見比べるのも実に面白い。
シービスケット以外にも日本に来て大きく人生が変わったウマ娘がいる。
その子はアメリカから招待したウマ娘の中で、光一郎が作ったお好み焼きにひどく感激した。
このウマ娘は光一郎から作り方を学び、故郷のケンタッキー州へ帰ったのちはお店を立ち上げている。
鉄板があればどこでも作れるのは屋台としてやりやすいため、そのウマ娘の影響を受けて同じ料理を出す店が増えた。
今ではアメリカ風お好み焼きとして発展。アメリカピザのお好み焼き版といった味だ。
このお好み焼きはアメリカで作り方を広く伝えたウマ娘の影響で、日本人の光一郎が考案したものとアメリカの人々は認識しており、コウイチ焼きとして名前が広まっている。
お好み焼きの味論争についてはケンタッキー州生まれのタイキシャトルとタマモクロスが熱く対談している雑誌記事があり、そこで熱血してる姿は面白い。
他にもこの年の大きな話題ではウラヌスと西竹一がロサンゼルスオリンピックのウマ術競技(ウマ娘に適宜指示をし、障害飛越や歩き方の美しさなどで競う)で金メダルを取っている。
この時にラジオで西の活躍を聞いていた光一郎は大興奮している。
次に日本がウマ術競技でメダルを取るのは2024年のパリオリンピックまで待たねばならない。
テレビでこの競技を初めて見た人は人とウマ娘のキビキビした動きに驚きと新鮮さを感じただろう。
昭和8年(1933年)の1月にはドイツでアドルフ・ヒトラーが前年の選挙結果によってドイツの首相になる。
ヒトラーは共産主義やユダヤ人の著作の焚書、ナチ党以外の政党を禁止、労働組合の解散などをして独裁体制を作った。
このときに危険をいち早く感じたユダヤ系の人たちはドイツから逃れた。
その一部は第一次大戦後に日本へ行ったドイツの親戚を頼ることや、日本は人種差別がないと聞いて希望を持って日本へ行った。
光一郎は喜んでウマ娘やその家族たちを受け入れ、生活の面倒を見つつ彼女らの希望に沿う仕事ができるよう尽力した。
11月8日に東洋一の規模を誇る東京レース場が完成。
44歳になっていた光一郎は子供のように喜び、自分自身で洋芝のコースを走っている。
この東京レース場が建設された府中の場所には縄文時代の遺跡があり、土器が発掘されて博物館へと送っている。他にも大國魂神社において古式競馬をしていたことや甲州街道の宿場町として栄えていたため、史跡が複数発見された。
現在でも第3コーナーから第4コーナーのあいだに残っている大ケヤキ(実際の品種としてはエノキ)の下には、戦国時代末から江戸時代初め頃までに生きた井田摂津守是政の墓所がある。
東京レース場の成り立ちを調べるだけで、実に興味深い歴史が出てきて面白い。
この東京レース場ではクモハタ、セントライト、クリフジといったウマ娘が活躍し、1984年にはURA顕彰ウマ娘としてウマ娘レースの発展に貢献した功績を評価されている。
レースで活躍したウマ娘やトレーナーは、光一郎が国の宝だといって戦争への徴兵は除外されるように働きかけて実現した。
さて、東京レース場の完成にいたるまでの桐生院光一郎を語ってみたが、どうだっただろうか。
彼はウマ娘たちを愛し、守り、大事にしてきた素晴らしい人物だ。その功績は彼の死後にトレセン学園で銅像が建てられているほどだ。
その銅像は3女神から離れて静かな場所に置かれているが、ウマ娘たちは自主的に銅像を磨いているらしい。
レースウマ娘とレースウマ娘関係者には有名な彼だが、近頃は光一郎の名前が広く知られるようになった。
擬人化した軍艦をこれくしょんするゲームでは潜水艦娘が噴進式魚雷を発想した人物について語っているし、アーサー王などの英雄たちが出るソーシャルゲームでは光一郎が登場している。
英雄たちが出るソーシャルゲームでは人、ウマ娘にこだわらず走らせるレースを作ったりとゲーム内でも元気でやっているみたいだ。
ゲームでの彼は有名ウマ娘に対する情熱も高く、イスカンダルと共にいたブケファラスやナポレオンと戦場を駆けたマレンゴ、アーサー王と過ごしたドゥン・スタリオンらにはレースをしてくれ的な意味で口説いている。
このようにして彼の知名度が上がってくれるのは嬉しい。
ウマ娘レースの発展およびウマ娘たちの環境を良くしようとした、彼の功績を知る人が増えて嬉しい。
以上でウマ娘に心底惚れていた光一郎の話を終わろう。
ここまで読んでいただき、感謝する。
誤字報告、ありがとうございます!
本編は終わりです。