「 キヴォトス 等身大ザク 男子校  私 」   作:おおおユウゴ

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先日、投稿したのが編集中のものだったので、あげなおします。ちゃんと改稿したのでどうかお許しください~!


第十話 聖堂のシスターと鉄屑(スーツ)秘密(ひみつ)と胃袋の悲鳴(ひめい)

 

 さて、聖母(マドンナ)マリーさんに導かれるまま、私、Nと、物理的鎮静の余韻でまだ少し思考回路がショート寸前と見えるウイ、そしてそんなウイを甲斐甲斐しく(あるいは、あの胸部装甲に顔面を埋められたことへの僅かな罪悪感からか)世話するヒナタ嬢の一行は、シスターフッドの荘厳な回廊を進んでいたのである。

 

 磨き上げられた石の床に、私のザクスーツ――この忌々しくも愛おしい、青黒き鉄の棺桶――の足音が、カツン、カツンと、場違いにもほどがある無骨なリズムを刻む。

 壁には敬虔なる聖人たちの活躍を描いたのであろうタペストリーが掛けられ、アーチ状の高い天井からは、まるで天上の調べのような、清らかな聖歌(チャント)が微かに聞こえてくるような気さえする。

 

 なんともまあ、俗物(プルガトリウム)たる私、すなわち俗物の塊、煩悩の権化、ラーメンへの渇望で今にも倒れそうな腹ペコ男子には、あまりにも不釣り合いな、神聖にして犯すべからざる空間だ。

 

 私の灰色の脳細胞ならぬ、灰色の学生生活に、こんなファンシーでキラキラした舞台装置は似合わないのである。似合うのは煤けたラーメン屋のカウンターか、あるいはプルガトリウムのむさ苦しい男子寮の、万年床が敷かれた自室だけである。

 

 ステンドグラスから差し込む光は、床に万華鏡のような模様を描き出し、神々しいことこの上ない。

 

 だが、今の私の心境は、地獄の釜の底で煮えたぎるマグマのごとく、ドロドロとしていた。

 

 空腹、それは人類普遍の苦しみであり、私の場合は特に深刻な持病である。

 

 それに加え、これから一体全体、何が起こるというのか皆目見当もつかぬ不安。かの聖女サクラコ様に対する拭いきれぬ疑念(あのマリーさんの意味深な伝言! ウイの陰謀論!)。そして何より、この鉄の鎧を早く脱ぎ捨てたいという、皮膚感覚にも似た切実な欲求!

 

 それらが渾然一体となり、私の精神をアルデンテ寸前のパスタのように、ギリギリの状態で苛んでいた。

 

 隣を歩くウイも、心なしか表情が硬い。先ほどの物理的鎮静によって一時的にクールダウンしたとはいえ、彼女の胸の内に燻るシスターフッドへの不信の炎は、消えてはいないのだろう。

 

 我々は、言葉こそ交わさぬものの、見えざる疑念の糸で結ばれた、奇妙な運命共同体を形成していたと言っても過言ではあるまい。まったく、不健全極まりない青春の一ページである。

 

 やがて一行は、ひときわ巨大で、荘厳なレリーフが施された観音開きの扉の前にたどり着いた。

 

 見上げるような大きさ。これぞシスターフッドの中枢、大聖堂の入り口に違いない。

 

 マリーさんは扉の前で恭しく一礼すると、その重そうな扉を、まるで羽毛でも扱うかのように、静かに、そして滑らかに押し開けた。

 流石はシスター、見かけによらず怪力なのかもしれぬ。

 あるいは、この扉がオートロック的なハイテク仕様なのか。キヴォトスでは、何が起きても不思議ではない。

 

 キィィ……という、荘厳にしてどこか物悲しい蝶番の音と共に開かれた扉の向こうには、息を呑むほどに広大で、神聖な空間が広がっていた。

 天井は、私の貧弱な語彙力では「すっごい高い!」としか表現できぬほどに高く、美しいフレスコ画――おそらくはトリニティ創設に関わる神話か何かであろう――で埋め尽くされている。

 巨大なパイプオルガンが、祭壇の奥で黄金色の輝きを放ちながら、厳かに鎮座ましましている。空気は、まるで濾過されたかのように澄み渡り、どこか甘く、清浄な香油の香りが漂っているようだ。

 ここは間違いなく、祈りのための場所。ラーメンのことばかり考えている俗物が、足を踏み入れて良い場所では断じてない。

 

 そして、その祭壇の手前に、一人のシスターが、まるで最初からそこに描かれていたかのように、静かに佇んでいた。

 

 長く、流れるような白銀の髪。慈愛に満ちた、しかしどこか芯の強さを感じさせる紫色の瞳。

 汚れひとつない純白の修道服に身を包み、頭上には複雑にして精緻な幾何学模様を描くヘイローが、後光と見紛うばかりの荘厳な光を放っている。

 その立ち姿は、まさに一枚の宗教画(イコン)のように完璧で、近寄りがたいほどの神々しさを纏っていた。

 トリニティ総合学園シスターフッドの指導者、歌住サクラコ、その人である。

 

「ようこそいらっしゃいました、Nさん、ウイさん、ヒナタさん」

 

 サクラコ様は、我々を認めると、穏やかな、しかしどこか深淵を覗くような、そんな不可思議な微笑みを浮かべて言った。

 その声は、大聖堂の高い天井に朗々と響き渡り、聞く者の心を自然と落ち着かせ、同時に引き締めるような、不思議な力を持っていた。

 ……だが、今の私とウイにとっては、その美しい声すらも、何か裏があるのではないか、我々を陥れるための甘い罠なのではないか、と勘繰ってしまうのだから、我ながら本当に業が深い。

 猜疑心とは、一度根付くと厄介な雑草のように、心の庭を覆い尽くしてしまうものらしい。

 

「サクラコ様……!」

 

 マリーさんとヒナタ嬢は、祭壇の前で、まるで巡礼者のように深く頭を垂れる。

 ウイも、まだ少し不貞腐れたような表情ではあったが、この場の空気には逆らえぬと判断したか、渋々といった様子でそれに倣った。

 私も、見様見真似で、ザクスーツの頭部をガコンと鈍い音を立てて下げ、最大限の敬意を示した(つもりである)。

 内心では(この人が本当に、あの含みのある発言を……? まさか、私のラーメンへの渇望までお見通しなのでは……!?)などと、実に罰当たりな疑念が渦巻いているのだが。

 

「マリー、ヒナタ、ご苦労様でした。下がって結構ですよ」

「「はっ」」

 

 マリーさんとヒナタ嬢は再び一礼すると、静かに、しかしどこか名残惜しそうに(特にヒナタ嬢は、私とウイのことを心配しているようだった)、聖堂から退出していった。

 残されたのは、私とウイ、そしてサクラコ様の三人。

 広大すぎる聖堂の中に、我々三人の存在はあまりにも小さく、濃密な静寂と、妙な緊張感が漂い始める。

 まるで、難攻不落のダンジョンの最深部、ラスボスとの謁見の間のような雰囲気だ。早くセーブポイントを探したい。そして回復アイテム(ラーメン)を補給したい。

 

「さて……」

 

 サクラコ様は、ゆっくりとこちらに歩み寄りながら、再び口を開いた。

 一歩進むごとに、その神々しいオーラが増していくように感じられるのは気のせいだろうか。

 

「まずはNさん。この度は、トリニティの危機に際し、身を挺してご尽力いただき、誠にありがとうございました。先ほどの広場でのオートマタとの戦闘、そして本校生徒の救助におけるご活躍については、連携されていたシャーレの津山さんから、詳細な報告が既に届いております。シスターフッドを代表し、心より感謝申し上げます」

 

 シャーレから報告が……!?

 なるほど、それでマリーさんも私の戦闘状況を知っていたのか。

 あの陰気な津山君、意外と仕事が早いではないか。

 あるいは、私が知らないだけで、シスターフッドとシャーレの間には、極めて迅速なホットライン的な何かが存在しているというのか?

  キヴォトスの組織間の連携というのは、私が浅はかにも想像していた以上に、複雑かつ緊密なのかもしれない。

 私の抱いていた素朴な疑念は、より巨大で、捉えどころのない、組織という名の深淵への警戒心へと、形を変えつつあった。まったく、面倒なことこの上ない。

 

「い、いえ、そんな……恐縮です。たまたま居合わせただけですので……」

 

 私は、型通りの謙遜を述べるしかなかった。

 この聖女のような完璧な微笑みの裏で、一体何を考えているのか……。

 できれば、私の貧弱な懐具合とか、秘蔵のラーメン店の場所とか、そういう俗なことであってほしいのだが。

 

「ご謙遜なさらないでください。貴方の勇敢な行動がなければ、被害はさらに拡大していたことでしょう。生徒の救助に関しても、機転の利いた素晴らしい判断でした」

 

 サクラコ様は穏やかに微笑む。その瞳は、私の内心の動揺や、この場違いなザクスーツのことなど、まるで意に介していないかのようだ。

 ……あるいは、全てお見通しの上で、私の反応を楽しんでいるだけなのかもしれぬ。

 女子とは、特に美しく、そして権力を持つ女子とは、えてしてそういうものである(という、私の偏見)。

 

「そして、ウイさん」

 

 サクラコ様の視線が、すっと私の隣に立つウイへと向けられる。ウイはびくりと分かりやすく肩を震わせ、警戒心を剥き出しにした猫のように、サクラコ様を睨み返した。

 

「……なんでしょうか」

 

 その声は、冬の湖面のように硬く、冷たい。

 

「先ほど、マリーさんから伝え聞きました。貴女が、シスターフッドに対して、あらぬ疑いを抱いている、と」

 

 ──なんだって?

 私の脳内に警鐘が鳴り響く。先ほどの古書館前での騒動から、ここまで移動する間、マリーさんがサクラコ様に連絡を取るような素振りは一切なかったはずだ。

 だとしたら、一体いつ、どのようにして伝わったというのだ? 監視カメラ? 盗聴器? あるいは、シスターフッドには、我々の知らぬ、もっと別の情報伝達手段が存在するというのか?

  まるで、常にどこかから見られているような、そんな悪寒が背筋を走った。

 サクラコ様の底知れなさ、シスターフッドという組織の深淵に対する私の疑念は、確信に近いものへと変わりつつあった。

 

「……っ!」

 

 隣でウイが息を呑む気配がした。

 彼女も同じことを考えているに違いない。

 ウイは何か反論しようと口を開きかけるが、サクラコ様の静かな、しかし有無を言わせぬ視線に射すくめられ、悔しそうに言葉を飲み込んだ。

 

「ウイさん、貴女の古書館に対する深い愛情と、そこに眠る知識を守ろうとする強い意志は、私も高く評価しています。

 それはトリニティにとって、かけがえのない宝です。ですが、

 その純粋さが、時として貴女の目を曇らせ、存在しない影に怯え、ありもしない疑心暗鬼を生んでしまうこともあるようです」

 

 サクラコ様の言葉は、あくまで穏やかだ。

 それは母親が幼子を諭すような、優しさと厳しさが同居した響きを持っていた。

 だが、それは同時に、ウイの抱く疑念など、取るに足らない子供の癇癪のようなものだ、とでも言いたげな響きにも聞こえ、私には少しばかり引っかかるものがあった。

 

「今回のオートマタの件、そしてNさんのザクスーツについて、シスターフッドが貴女たちを害そうとしているなどということは、断じてありません。誤解です」

 

 サクラコ様はきっぱりと言い切った。その言葉には、嘘偽りのない誠実さが感じられた。……ような気がした。

 

「むしろ……我々シスターフッドも、この一連の出来事について、深い関心と……そうですね、強い『憂慮』を抱いているのです。特に、古書館の深淵なる知識が、この件に関わっているとなれば、尚更に」

 

 やはり、古書館の関与を疑っている……!

 ウイの表情が再び険しくなるのが分かった。

 私も、内心でゴクリと唾を飲み込む。

 

「憂慮……ですか?」

 

今度は私が尋ねた。

 

「はい」

 

サクラコ様は頷いた。

 

「Nさん、貴方のその……ザクスーツ、でしたね。それは、極めて異質で、そして危険な技術の産物である可能性があります」

「危険……?」

「ええ。その設計思想、使用されている素材、動力源……どれも、現在のキヴォトスで一般的に知られている技術体系から逸脱しています。そして、その根源には……おそらく、『雷帝』の遺産が関わっている」

「雷帝……!」

 

 その名を聞いて、私は息を呑んだ。アビドスでの任務の目的そのものである。なぜ、サクラコ様がその名を? シスターフッドの情報網は、そこまで……!?

 

「貴方がアビドスで、数年前に何を調査していたのか、おおよそ察しはついています。

 そして、貴方がその過程で、意図せずして雷帝の遺産の一部……あるいはその設計思想に触れ、古書館の深淵なる知識の助けを借りて、このザクスーツを作り上げるに至ったのではないか、と」

 

 古書館の知識、と明確に言った! しかも、私の不正アクセスまで把握しているような口ぶり……! やはり、サクラコ様は全てを知っているのだ!

 

「な……!?」

 

 ウイが声を上げかけたが、サクラコ様は静かに首を横に振った。

 

「技術そのものに善悪はありません、ウイさん。

 問題は、それを使う者の意志と、その技術が持つ潜在的な危険性です。

 雷帝の遺産は、使い方を誤れば、キヴォトス全土を破滅に導きかねない、禁断の力なのです」

 

 サクラコ様の表情から、穏やかな微笑みが消えていた。

 その瞳には、深い憂慮の色が浮かんでいる。その真剣な眼差しには、先ほどまで私やウイが抱いていたような、裏の意図や計算といったものは感じられない。

 ただ純粋に、キヴォトスの未来を案じている……そう思わせる力が、彼女の言葉にはあった。

 

「そして……今回のオートマタ暴動にも、雷帝の遺産の影が見え隠れしています。

 暴走した機体の一部から、雷帝が開発に関与したとされる、未知の制御プログラムの痕跡が見つかりました。

 おそらくは、誰かがその力を悪用しようとしているのでしょう。

 ……あるいは、制御しきれずに暴走させてしまったのか……。どちらにせよ、放置はできません」

 

 サクラコ様は、淡々と事実を述べる。その口調からは、シスターフッドの利益や権力といった俗な思惑ではなく、ただ事態の深刻さに対する危機感が伝わってきた。

 

「なんですって……!?」

 

 オートマタ暴動と、私のザクスーツに? ザクだけでなく、その両方に、あの伝説の暴君『雷帝』が関わっている?

 まったく、事態は私の想像を遥かに超えて、厄介な方向へと進んでいたらしい。

 私の内心の疑念も、この衝撃的な事実の前には、少しずつ薄らいでいくのを感じた。

 

「Nさん、ウイさん」

 

 サクラコ様は、我々二人を真っ直ぐに見つめて言った。その瞳には、先ほどの憂慮に加え、強い決意の色が宿っている。

 

「貴方たちには、この件について、シスターフッドに協力していただきたいのです」

「協力……ですか?」

「はい。Nさんには、そのザクスーツに関する情報提供と、場合によっては実働部隊としての協力を。

 そのスーツは、危険であると同時に、使い方によっては大きな力となり得ます。

 その力を、キヴォトスを守るために、役立てていただけませんか?」

 

 サクラコ様の言葉は、管理や支配ではなく、純粋な「協力」を求める響きを持っていた。

 私のスーツの力を、彼女は危険視するだけでなく、希望としても捉えている……のかもしれない。

 

「ウイさんには、古書館の膨大な知識の中から、雷帝の遺産に関するさらなる情報を探し出していただきたいのです。

 古書館の知恵は、この難局を打開するための鍵となるでしょう。

 どうか、その力を貸してください」

 

 そこまで言って、サクラコ様は言葉を切った。

 そして、その紫色の瞳に、どこか怜悧な光を宿らせ、穏やかながらも有無を言わせぬ響きを込めて、こう付け加えた。

 

「……もちろん、古書館の貴重な知識が、シスターフッドの監視(かんし)の目から離れた場所で、独善的《どくぜんてき》な判断によって利用されるようなことがあってはなりません。

 貴女の素晴らしい探求心と、古書館の運営状況については、我々シスターフッドとしても大変興味深く見守っており、今後、より緊密(きんみつ)な関係……そう、寄り添う形での助言と指導をさせていただく必要があると考えています。

 これも、トリニティ全体の調和と発展のため……お分かりになりますね?」

「……結構です!」

 

 ウイは、サクラコ様の言葉をぴしゃりと遮った。その瞳には、再び強い不信と警戒の色が宿っている。

 

「やはり貴女は、古書館を、その知識を、シスターフッドの管理下に置こうとしているのですね! 『助言と指導』などという美辞麗句で誤魔化そうとしても無駄です! 私には分かります!」

「……ウイさん、それは誤解です。私はただ、知識の適切な共有と、貴女の才能がトリニティ全体のために活かされることを願って……」

 

 サクラコ様は、あくまで冷静に、しかしその瞳の奥には、計算するような冷たい光が見え隠れする(ように私には見えた)。

 

「適切な共有、ですって?

 それはシスターフッドにとっての『適切』でしょう!

 大体、貴方の言葉は、いつもそうだ!

 美しい言葉の裏に、支配と管理の意図が見え隠れしている! 先ほどのマリーさんの伝言だってそうだ!

『出自については詮索しない』? 『扱いを誤れば災いを招く』? 『注視し、管理する』? 『あらぬ濁流』? そんな曖昧で、どうとでも取れるような言葉で、我々を試すような真似をして……!」

 

 ウイの言葉は、徐々に熱を帯びていく。

 

「貴女のような、腹の底で何を考えているか分からない方と、まともな情報共有や協力関係が築けるとは思えません!」

 

 ウイは、ついにサクラコ様を指差して言い放った! その指は、怒りのあまり小刻みに震えている。

 

「……ウイさん、落ち着いて」

 サクラコ様は、なおも冷静さを保とうとするが、その表情には隠しきれない不快感が滲んでいるように見えた。

 

「私はただ、事実と、シスターフッドとしての方針をお伝えしたまでです。貴女方を疑っているわけでは……」

 

「貴方では話になりません!」

 

 ウイは、サクラコ様の言葉を再び遮り、叫んだ!

 

「ヒナタさんを出してください!! ひ・な・た・さ・ん!!」

 

 その声は、静謐な聖堂に甲高く響き渡った。

 

「え……? ひ、ヒナタを……ですか?」

 

 サクラコ様は、完全に意表を突かれたようで、目を丸くしている。その完璧な聖女の仮面に、明らかに動揺の亀裂が走った。

 

「そうです!

  あの人なら、こんな含みのある言い方はしない!

  もっと正直に、誠実に話してくれるはずです! 

 貴女では話にならない! ヒナタさんを出してください! 

 ヒ・ナ・タさ・ん!!

 『ウイが呼んでる』って言えば分かりますから!!! 」

 

 ウイは、顔を真っ赤にし、眉を吊り上げ、必死の形相でサクラコ様に詰め寄る。

 その剣幕は、知的な古書館の司書というよりは、むしろ理不尽に怒る子供のようであり、最早、サクラコ様への畏敬の念など微塵も感じさせない。

 

その瞬間、私は見た。

サクラコ様の、あの常に穏やかで、慈愛に満ちた聖母のような微笑みが、ぐにゃりと歪み、まるで舞台裏でうっかり素顔を見られてしまった女優のように、あるいは、抜き打ちテストで名前を書き忘れた時が付いた優等生のように、彼女の顔には強烈な狼狽と苦悶の色が浮かんでいた! 

 

 聖母の仮面は完全に剥がれ落ち、眉間にはくっきりと皺が刻まれ、口元はわなわなと、その普段は静かな紫色の瞳は、助けを求めるように聖堂の高い天井を彷徨い、額からは脂汗とも冷や汗ともつかぬ汗が、ダラダラと滝のように流れ落ちはじめた!

 

(……なんだ、今の顔は! いや、今の顔も! まるで、隠しておきたい黒歴史でも暴露されたかのような……!

  まさか、サクラコ様も、あのヒナタ嬢の物理的鎮静に、何か深いトラウマでもあるというのか!?

 ……いや、それよりも、だ。あの完璧に見えた聖女が、こんなにも分かりやすく動揺し、狼狽えるなんて……!

 なんだ、やはり悪い人ではないじゃないか!

 むしろ、ちょっと可愛いとさえ思えてしまう!

 これは、策謀家などでは断じてない! ただの、ちょっとお立場が偉くて、ちょっと天然で、ちょっと部下(ヒナタ嬢)に弱い、普通の(?)女の子ではないか!)

 

 私のサクラコ様に対する警戒心は、この予期せぬ人間臭い反応によって、完全に氷解した。

 いや、むしろ好感度すら上がり始めている!

 それと同時に、隣で憤慨している小さな司書に対する、奇妙な庇護欲と、ほんの少しの悪戯心が、むくむくと湧き上がってくるのを感じた。

 

「……え、えっと……ウイさん、落ち着いてください……そ、そんなに大声を出さなくても……」

 

 サクラコ様は、先ほどの動揺した表情を隠しきれないまま、明らかにたじたじになりながら、引きつった笑顔(もはや笑顔と呼べるか怪しいが)を何とか取り繕い、ウイを宥めようとする。

 その声は震え、視線は定まらず、先ほどの威厳は見る影もない。聖女、地に堕ちたり! いや、地に堕ちたというより、我々と同じ地平に降りてきてくれた、と言うべきか。

 

「落ち着いていられません! 早くヒナタさんを!」

 

 ウイは一歩も引かない構えだ。

 

「わ、分かりました! 分かりましたから! すぐに呼びます! ですから、もう少し……その、穏便に……ですね……」

 

 サクラコ様は、半ば懇願するように言うと、額に浮かんだ冷や汗を指でそっと拭いながら、震える手で懐から小さな通信機を取り出した。

 その指先が、操作を誤らないかと見ているこちらが心配になるほど、小刻みに震えている。

 

 傍から見れば、これはもう、完全に部下(ウイ)に詰め寄られてオロオロする上司(サクラコ様)の図である。

 威厳も何もあったものではない。

 だが、その姿は、私にはひどく人間味にあふれ、好ましく思えた。

 

 通信を終え、サクラコ様が再び我々に向き直った時には、彼女の表情はまだ僅かに引きつってはいたものの、何とかいつもの穏やかさを取り戻そうと努めているようだった。

 深呼吸を一つして、彼女は言った。

 

「……ヒナタには、連絡しました。すぐにこちらへ来るはずです。それまで、少々お待ちいただけますか?」

 

その声には、まだ微かな動揺が残っている。

 

 聖堂には、再び沈黙が訪れた。

 ヒナタ嬢が来るのを待つ間、ということなのだろう。

 私とウイは、互いに視線を交わす。ウイはまだ頬を膨らませ、不満げにサクラコ様を睨みつけている。

 その瞳には、納得がいかないという頑なさと、サクラコ様への不信感が渦巻いている。

 

「……なあ、ウイ」

 

私は、静かに、しかしどこか諭すような響きを込めて、ウイに声をかけた。

 

「……なんですか! まだ何か言いたいことがあるんですか! 貴方は、どうせ……」

 

 ウイは、ぷいと顔を背け、完全に私に対しても敵意を剥き出しにしている。頬をぷくーっと子供のように膨らませ、その瞳には納得がいかないという頑なさと、サクラコ様への不信感が渦巻いている。

 

「落ち着けって」

 

 私は、彼女の正面に回り込み、屈みこんで、モノアイの高さを彼女の顔に合わせた。そして──ザクスーツの両手で、彼女のふくれっ面で不満げに膨らんだ柔らかそうな頬を、そっと、しかし確実に、包み込んだ。

 

「──ひゃっ!? な、何をするんですか! 離しなさ……んむっ」

 

 ウイは顔を真っ赤にし、暴れようとしたが、私の鋼鉄の指が、その動きをあくまでも穏やかに制した。

 硬く冷たい金属の手袋。その内側にある、生身の私の手の温もり。

 そして、その手袋越しに伝わる、ウイの柔らかく、少しひんやりとした頬の感触。

 その奇妙な対比が、私の心臓を妙にドキリとさせた。

 無骨な鉄の手が、こんなにも壊れやすそうなものを包んでいる。

 その事実に、何か背徳的な、しかし抗いがたい魅力を感じてしまうのは、私が男子校育ちの朴念仁だからだろうか。

 ウイの大きな瞳が、驚きと困惑で見開かれ、潤んでいる。

 その濡れた瞳に見つめられると、なぜだか言いようのない罪悪感と、それ以上の高揚感が胸に込み上げてくる。

 いかん、これはまずい。

 実にまずい傾向だ。

 

「……いいか、ウイ」

 

私は、できるだけ平静を装い、語りかける。

 

「さっき、古書館の前で、君が取り乱した時、誰が君を止めてくれた?」

「そ、それは……ヒナタさんが……」

 

 ウイは、私の手の中で、もごもごと答える。

 

「そうだ。ヒナタさんだ。彼女は、君のことを心から心配して、あの……ええと、実に献身的な方法で君を落ち着かせてくれた。違うか?」

「ち、違わない、ですけど……それが何か……?」

「そのヒナタさんは、サクラコ様のことを、おそらく心から信頼している。そうでなければ、あんな風に君を諭したりしないはずだ。少なくとも、シスターフッドが悪の組織だなんて、彼女は微塵も思っていないだろう」

「……それは、そう、かもしれませんが……でも……!」

「君は、ヒナタさんのことを信頼しているんだろう?」

「……!」

 

 ウイは、視線を揺らす。

 

「だったら、そのヒナタさんが信頼している人を、我々も信じてみるべきじゃないのか?

 少なくとも、頭ごなしに疑ってかかるのは、フェアじゃない。

 ……それに、君を心配してくれたヒナタさんの気持ちを、無下にするような真似は、したくないだろう?」

 

 私の、我ながら回りくどく、そして不器用な説得。

 しかし、それは確かにウイの心に届いたようだった。

 彼女の瞳から、頑なな抵抗の色が少しずつ消えていく。

 

「……わ、かり……ました……」

 

 ウイは、長い沈黙の後、小さな声で、しかしはっきりと頷いた。まだ納得しきれていない部分は多いのだろう。

 だが、ヒナタさんへの想いが、彼女の疑心暗鬼に打ち勝ったらしい。

 ぷくーっと膨らんでいた頬も、少しだけ力が抜けている。

 

「……よし、それでいい」

 

 私は、安堵の息をつき(スーツの中で)、ウイの頬を包んでいた手をそっと離した。

 そして、そのままの流れで、ザクスーツの大きな手のひらで、彼女の頭を、くしゃくしゃと、しかしできるだけ優しく撫でてやった。

 柔らかい黒髪の感触が、金属越しにも伝わってくるようで、またしても私の心臓が妙な音を立てた。

 

「な……! な、撫でないでください! 子供扱いしないで!」

 

 ウイは、再び顔を真っ赤にして抗議したが、その声には先ほどのような敵意はなく、むしろ照れ隠しのような響きがあった。

 ふむ、案外、ちょろいのかもしれぬ、この名探偵は。

 

 サクラコ様は、そんな私とウイのやり取りを、終始穏やかな、しかしどこかホッとしたような表情で見守っていた。

 彼女の紫色の瞳の奥で、どのような感情が揺れ動いていたのか、私には知る由もない。

 ただ、その微笑みが、先ほどよりもずっと、温かく感じられたような気がした。

 

「……ありがとうございます、Nさん」

 

 サクラコ様は静かに言った。

 

「ウイさん、貴女の決断にも、感謝します」

 

 彼女は再び我々に向き直り、真摯な眼差しで告げた。

 

「改めて、お二人に協力をお願いしたいのです。

 これは強制ではありません。

 しかし、このまま雷帝の遺産と、それを利用しようとする者たちを放置すれば、いずれキヴォトスに、取り返しのつかない災厄が訪れることになるでしょう。

 どうか、我々に力を貸していただけませんか?」

 

 サクラコ様は、再び深々と頭を下げた。シスターフッドの指導者が、私のようなプルガトリウムの、そしてウイのような古書館の司書に対して、真摯に頭を下げている。

 

 先ほどのサクラコ様の人間臭い反応、そしてウイとの奇妙なやり取りを経て、私の心の中の疑念は、かなり薄らいでいた。

 この人は、おそらく本当にキヴォトスのことを憂いている。

 そして、そのために、我々の力を必要としている。協力しない、という選択肢は、もはや私の中にはなかった。

(何より、協力すればラーメンにありつけるのだ!)

 

「……わかりました」

 

 私は、今度こそ迷いなく答えた。

 

「協力します。私にできることがあるのなら」

 

「……私も……やります」

 

隣で、ウイも小さな、しかし確かな声で頷いた。

 

「古書館の知識が、キヴォトスの破滅を防ぐ一助となるのなら……。ただし、古書館の独立性は尊重していただきます」

 

彼女もまた、釘を刺すことを忘れない。我々は、疑心暗鬼同盟改め、牽制しつつ協力同盟を結成したわけだ。

 

「ありがとうございます」

 

サクラコ様は、顔を上げ、心からの安堵と感謝が入り混じったような、美しい微笑みを浮かべた。

 

「お二人の協力、心強い限りです。ええ、もちろん、対等な協力者として、共にこの困難に立ち向かいましょう。古書館の独立性も、最大限尊重いたします」

 

 その笑顔には、もはや一点の曇りもなく、私とウイの心の壁を、優しく溶かしていくかのようだった。……と、信じよう。もう疑うのは疲れた。

 

 こうして、私は予期せぬ形で、シスターフッドと(そしてウイとも改めて)協力し、雷帝の遺産という巨大な謎に立ち向かうことになった。

 聖堂の荘厳な雰囲気と、サクラコ様の意外な人間味、そしてウイとの奇妙な連帯感が、私の決断を後押ししたことは否めない。

 ……まあ、協力の見返りとして、まずはこのスーツを脱がせてもらい、そして美味いラーメンにありつけるのなら、悪くはない取引なのかもしれない。

 ……と、自分に言い聞かせる。

 

その時であった。

 

ぐぅぅぅぅぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~……………。

 

 私の胃袋が、聖堂の荘厳な静寂を木っ端微塵に打ち破る、あまりにも雄大にして、あまりにも間抜けな音を立てたのである!

 しかも、明らかに音量が大きく、長く、そして悲痛な響きを伴っている!

  我慢の限界を遥かに超えた、我が胃袋からの、魂の叫び!

 

 聖堂に響き渡ったその盛大な腹の虫の音に、サクラコ様とウイが、ぴたりと動きを止め、そして……今度こそ、こらえきれずに、ぷはっ、と同時に吹き出すのを、私は確かに見た!

 

 サクラコ様は、慌てて口元を袖で隠しているが、その肩は小刻みに震え、「ふ、ふふ……ご、ごめんなさい……つい……」と、もはや聖女の威厳などかなぐり捨てて笑っている!

 

 ウイに至っては、再び顔を真っ赤にして俯き、「……ば、馬鹿じゃないですか、この人……! ……く、くく……!」と、涙目になりながら笑いを噛み殺している!

 

 ああ、私の威厳(もともと存在しなかったが)は、完全に地に落ちた! 粉砕された! 跡形もなく消え去った! だが、もはやどうでもいい! ラーメン! ラーメンを! 私にラーメンを恵んでくれ! 今すぐ! できればチャーシュー大盛りで!

 

 私の胃袋は、なおも「ラーメン!ラーメン!背脂!ニンニク!野菜マシマシ!」と、実に罰当たりな言葉を高らかに叫び続け(ているように私には聞こえた)、その悲痛にして食い意地の張った叫びは、聖堂の高い天井に、いつまでも、いつまでもこだまし続けるのであった……。

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