「 キヴォトス 等身大ザク 男子校 私 」 作:おおおユウゴ
## 第十一話 月下のお茶会と
さて、私の魂(というよりは、完全に胃袋)の叫びが、トリニティ総合学園大聖堂の荘厳なる静寂を、あまりにも雄大に、そしてあまりにも間抜けに打ち破った後のことである。あの時、私の目の前にいらっしゃった、この学園都市キヴォトスでも指折りの高貴なるお方々──シスターフッドの指導者たる歌住サクラコ様と、古書館の偏屈なる主、古関ウイ──が、それぞれに微かに肩を震わせ、俯き加減で必死に笑いをこらえていらっしゃった(ように私には見えた)という事実は、できれば心の奥底に封印し、墓場まで持っていきたい秘中の秘である。まったく、穴があったら入りたい、とはまさにこのことだ。残念ながら、このザクスーツは穴に入るには少々大きすぎるし、そもそも穴などどこにもない。悲しいかな。
その後、どうにかこうにか場の空気を取り繕い(主にサクラコ様が持ち前の聖母的包容力と指導力を遺憾なく発揮なさった結果であるが)、私は念願であった、この忌々しくも愛おしい鉄の棺桶からの解放作業へと移ることができたのである。聖堂の奥にあるという、シスターフッド管理下の静かな一室(というか、古書館裏の、ウイが私的に使っていると思しき雑多なワークショップ)をお借りし、古関ウイ嬢の(実に不承不承ながらも、的確極まりない)指示のもと、ザクスーツの各部装甲及び機能ユニットを分解、解除していった。
──ギ、ゴ、ガ、シュン……カチャリ。
最後に、ヘルメットのロックが外れる、心地よい音が響く。ぷしゅー、と僅かにエアが抜ける音と共に、私はついに、懐かしき外気に顔を晒すことができた。ああ、我が自由よ、こんにちは! まるで
「ふぅ……やはり生身は良い。呼吸ができるというのは、かくも素晴らしいことか」
思わず感極まって漏らした私の言葉に、傍らで忌々しげにこちらを観察していたウイは、「……大袈裟です。たかが数時間でしょう。それに貴方、その鉄屑の中でしっかり呼吸はしていました」と、実も蓋もないツッコミを入れてきた。まったく、情緒というものを解せぬ小娘である。まあ、古書館の主とは、えてしてそういうものなのかもしれぬが。知らんけど。
かくして、忌まわしき鉄の衣を脱ぎ捨てた私は、晴れて自由の身……とはいかず、すぐに現実に引き戻された。そう、これからナギサ様主催のお茶会(秘蔵のラーメン情報付き!)へと向かわねばならぬのだ。ザクスーツのパーツ類は、一時的にサクラコ様の方で厳重に保管してくださるとのこと(若干の不安は残るが、聖堂でのやり取りを経て、以前よりは信頼しても良いか、と思い直している私である。ラーメン情報の前では、人の心などかくも移ろいやすい)。
というわけで、現在。私、Nと、未だにサクラコ様への警戒心を完全には解いていない(ように見える)ウイ、そして我々が勝手にどこかへ行ってしまわないよう、あるいは再び変な気を起こさないように見張っている(のかもしれない)歌住サクラコ様ご本人の三人は、シスターフッド区域の奥にある、静かな裏庭を抜けていたのである。
聖堂を出る間際に、ヒナタ嬢が「う、ウイさんが心配で……その、お側についていてもよろしいでしょうか……?」とおずおずと現れ、ウイが「私は大丈夫です、ヒナタさん」と強がりつつも頬を赤らめていたのを見たサクラコ様が、「ええ、どうぞ。貴女もご一緒なさい」と許可を出したため、我らがドジっ子シスター、若葉ヒナタ嬢も同行することとなった。よかった、これで監視役、もとい旅のお供が増えたぞ。彼女がいると、ウイの棘が心なしか丸くなるような気がするから不思議だ。
お茶会の会場は、ティーパーティーが所有するという、特別なテラスであるらしい。月明かりに照らされたトリニティの庭園は、昼間とはまた違う、幻想的で美しい佇まいを見せていた。白い薔薇が甘い香りを放ち、噴水の水音が静かに響く。まったく、絵に描いたようなお嬢様学校の夜景である。我が母校プルガトリウムの荒涼としたグラウンドとは、雲泥の差だ。少し悲しくなってきた。
ちなみに、私の服装はといえば、プルガトリウム男学校指定の、古き良き時代の伝統を受け継ぐ、漆黒の詰襟学生服、通称「学ラン」である。スーツを脱いだ下には、これを律儀に着込んでいたのだ。我ながら真面目である。この格好で、これからトリニティの、それもティーパーティー主催のお茶会に参加するなど、想像しただけで胃が痛む。アウェイ感どころの話ではない。もはや異世界転生に近いレベルである。私の隣を歩くウイは、相変わらずの古書館スタイルで、こちらを一瞥しただけで興味なさそうに前を向いている。サクラコ様は、そんな私たちを優しく先導してくださっているのだが、その聖母のような微笑みが、逆にプレッシャーを与えてくるのだから、実にタチが悪い。いや、タチが悪いと申し上げているわけではないのだが。うん。
───
そうこうしているうちに、我々は目的地のテラスへとたどり着いた。そこは、まるで天空の庭園とでも言うべき、美しい場所であった。白い大理石の床、優雅な曲線を描く手すり、そして眼下には、月明かりに照らされたトリニティの街並みが宝石のようにきらめいている。なんともまあ、現実離れした光景である。こんな場所で、私はこれからラーメン情報を得られるというのか? 夢ではないだろうか? もしかしたら、スーツ解除の際に頭でも打ったのかもしれぬ。
テラスの中央には、白いクロスが掛けられた大きな円卓が設えられ、その周りには、既に今回の騒動の関係者たちが集結していた。
ティーパーティーの桐藤ナギサ様、聖園ミカ様、百合園セイア様。
正義実現委員会の羽川ハスミさん、そして例の不良少女、仲正イチカ嬢。
私の可愛い(食えない)後輩、O。
ミレニアムセミナーの才媛、生塩ノア嬢と、シャーレ所属(兼ミレニアム生徒)、例の陰鬱男子、津山ミソミツ君。
まさに、オールスターキャストである。これがラーメン屋台の前に集結しているのなら、それはそれは壮観な光景であっただろうが、生憎ここはトリニティの天上テラス。これから紅茶とケーキを嗜むのであろう、麗しき乙女たち(と、数名の場違いな男子)の集いである。ああ、胃が、再び痛む……!
「あ、Nさん、ウイさん、サクラコ様! それにヒナタさんも。ようこそいらっしゃいました」
ナギサ様が、我々を迎えるために席を立ち、優雅に微笑んでくださった。その笑顔は、月光のように柔らかく、私の緊張を僅かに解きほぐしてくれる。彼女の視線が、スーツを脱いだ私の姿……すなわち、何の変哲もない、ただのプルガトリウムの学ラン男子を認めた瞬間、わずかに瞠目《どうもく》し、そして…頬をほんのりと桜色に染めたように見えたのは、果たして月明かりの悪戯か、それとも私の都合の良い妄想か。
「まあ、Nさん……そちらが、本来のお姿でしたのね」ナギサ様の声は、いつもの落ち着きを保ちつつも、どこか驚きと…そして、隠しきれない好奇心のような響きが混じっている。「その……鉄の……ザクスーツの時とは、随分と……印象が、違いますのね。もっと、こう……武骨で、近寄りがたい方なのかと……。いえ、失礼いたしました。その……意外、でしたもので。どうぞ、お掛けください」
…意外、とな。先ほどのコント騒ぎの後に言われても、なんとも反応に困る言葉である。まあ、私のこの垢抜けぬ姿を見て幻滅されなかっただけ、良しとすべきか。
他のメンバーの反応も様々だ。ミカ様は「へぇー! Nくん、思ったよりひょろっとしてるんだね! もっとゴリマッチョかと思ってたのにー、ちょっと残念かも☆ プルガトリウム生って、みんな筋肉ダルマだと思ってた!」と悪気なく言い放ち(お黙りなさい! しかも筋肉ダルマ呼ばわりか!)、セイア様は「ふむ、器とその中身は、必ずしも一致するとは限らない、ということか。興味深いね」と哲学的な(?)感想を漏らす。ハスミさんは少し意外そうな顔をしつつも、「プルガトリウム生にしては…普通、ですね」と率直な(そして若干失礼な)感想を述べ、すぐに表情を引き締める。イチカ嬢は私とOを交互に見比べて何やら「へー…こっちが先輩なのか。ふーん」と感心したような、それでいて少し複雑そうな表情をしている。Oは「先輩、学ラン姿もサマになってんじゃーん!」とニヤニヤしており(後でシメる)、ノア嬢は「ふふ、人間というのは見かけによらないものですわね」と興味深そうに微笑み、津山君は……相変わらず虚空を見つめている。ウイは周囲の喧騒などどこ吹く風、既に用意されていた席の一つにさっさと腰を下ろし、隣のヒナタ嬢がおろおろしながらもお茶の準備を手伝っている。カオスだ。実にカオスである。
「さあ、皆様、お揃いのようですし、夜のお茶会を始めましょうか」
ナギサ様は、穏やかに、しかし場を取り仕切るホストとしての威厳をもって宣言した。各自が席に着くと、どこからともなく現れた給仕係の生徒(おそらくティーパーティー直属であろう)たちが、手際よく数種類の紅茶と、目にも鮮やかなケーキや焼き菓子をテーブルに並べ始めた。芳しい紅茶の香りと、甘いお菓子の香りが夜風に乗り、私の空腹感を優しく、しかし確実に刺激してくる。素晴らしい。実に素晴らしいのだが……。
……私のラーメンはどこであろうか?
「Nさん、どうぞ。まずはアールグレイからいかがですか? ベルガモットの爽やかな香りが、気分をリフレッシュさせてくれますわ」
ナギサ様が、優雅な手つきで私にティーカップを勧めてくださる。ありがたい。ありがたいのだが、今の私の乾ききった心と身体には、いささか上品すぎる香気である。私は、テーブルの上に並べられた芸術品のようなケーキたちに一瞥もくれず(嘘である、めちゃくちゃ見ている)、おそるおそる本題を切り出してみた。
「あ、ありがとうございます、ナギサ様。……それで、重ね重ね恐縮なのですが、あの……ら、ラーメンの情報というのは……その……そろそろ、うかがっても……?」
私の言葉に、ナギサ様は悪戯っぽく微笑み、人差し指をそっと口元に当てた。その仕草の、なんというあざとさ! なんという魔性!
「ふふ、もちろん忘れてはおりませんわ。ですが、逸る気持ちを抑えて、まずはこの場をお楽しみくださいな。せっかく皆様お集まりなのですから。情報は、食後の
じらす! やはりじらす! なんという高度な駆け引き! これは間違いなく、ラーメン情報を人質(ラーメン質?)に取り、私をこの場で骨の髄まで尋問するつもりであろう! まったく、ティーパーティー恐るべし! 策略家集団め! …まあ、差し出されたアールグレイとモンブランが実に美味しそうなので、ひとまずは彼女の提案に乗り、この奇妙な夜会を楽しむ(フリをする)ことにしよう。ラーメンは、デザートの、さらに後の
そうして始まった夜のお茶会は、キヴォトス屈指の権力者たちと、問題児(私とイチカ嬢)と、ミレニアムの才媛(と陰鬱男)と、プルガトリウムの生徒、そしてシスターフッド&古書館組が同席するという、なんともカオスな構成にもかかわらず、表面上は意外なほど和やかに進行していったのである。いや、進行しているように見えた、と言うべきか。
特に目を引いたのは、やはり聖園ミカ様と古関ウイの絡みであった。
「ねーねー、ウイちゃん! 古書館って退屈そー! なんかこう、面白い本ないの? 例えば、触手が出てくる禁断の魔導書とか、読むとSAN値がゴリゴリ減るやつとかさー!」
ミカ様が、子供のような好奇心丸出しで、ウイに無茶ぶりをかます。
「……古書館は娯楽施設ではありませんし、ちゃん付けもやめてください、聖園さん」ウイは、眉間に深く刻まれた皺をさらに深くしながら、実に嫌そうな声で応じる。「そもそも、貴女のような方が興味を持つような、低俗で非学術的な書物は、私の管理下には……」
そこで言葉を切ったのは、ミカ様が目をキラキラさせて乗り出してきたからだ。
「えー、ないのー? つまんないのー! じゃあさ、じゃあさ、技術系の本ならあるんでしょ? なんか、こう……すっごい兵器の設計図とか、暴走しちゃうロボットの作り方とか!」
その言葉に、ウイの眼鏡の奥の瞳が、ピクリと反応した。技術の話。それは、彼女のテリトリーであり、同時に、地雷原でもある。
「……技術書ですか。ええ、それならば、古書館には膨大な資料があります。ミレニアムのデータベースなど、児戯に等しいほどの深度と網羅性を誇る、本物の知の集積が……。例えば、エーテル物理学に基づいた超光速航行理論に関する未発表論文や、禁忌とされた古代錬金術の復元記録、果ては『箱』に関する異聞録まで……」
ウイは、まるで水を得た魚のように、あるいは獲物を見つけた蜘蛛のように、早口で専門用語をまくし立て始めた。ミカ様は、ぽかーんとして聞いているが、隣のノア嬢と、椅子に座ったままの津山君の目が、鋭く光ったのを私は見逃さなかった。ミレニアムにとって、古書館の知は喉から手が出るほど欲しいものであろう。……いかん、ウイよ、喋りすぎだ! この子、普段のコミュ障っぷりはどこへやら、自分の専門分野になると途端に饒舌になるタイプか! 実に面倒くさい!
セイア様はといえば、そんな我々のカオスなやり取りを、まるで別次元から
イチカ嬢は、Oと、いまだに気まずそうな視線を交わし合い、Oは相変わらずニヤニヤと彼女をからかっている(そして時折、イチカ嬢の顔が真っ赤になる)。青春である。実に羨ましい(棒読み)。
ヒナタ嬢は、目の前に並べられた美しいケーキたちと格闘しており、時折「ひゃっ! フォークが!」などと小さな悲鳴を上げている。彼女は、食欲>緊張、の法則に従っているらしい。正しい判断だ。
そんな、奇妙なバランスで成り立っていた夜会にも、ついに核心に触れる時が訪れた。デザートの皿が空になり、紅茶のおかわりの気配が満ちてきた頃、ナギサ様が、ふぅ、と一息ついて、本題を切り出した。場の空気が、ふっと、しかし確実に、引き締まる。ラーメンへの期待感で若干浮かれ気味だった私の心も、再び警戒態勢へとシフトした。
「さて……皆様。夜も更けてまいりました。そろそろ本題に入らせていただきましょうか」
その言葉に、全員の視線がナギサ様に集まる。いよいよ、情報共有と今後の相談が始まるようだ。
「今回のオートマタ暴動についてですが、複数の情報筋から、いくつかの気がかりな点が浮上しております」ナギサ様は、テーブルの中央を見つめるように、ゆっくりと、しかし確かな重みを持って語り始めた。「一つは、このトリニティで、なぜこのような組織的な暴動が、集中的に、そして継続的に発生しているのか、という点です。これは、単なる機械の暴走や、小規模なテログループの仕業とは考えにくい。より大きな……学園都市全体の勢力図に関わるような、明確な意図を持った存在が、背後で糸を引いていると考えるのが自然でしょう」
ナギサ様の言葉に、サクラコ様が静かに頷く。
「ええ。シスターフッドとしても、その可能性は高いと考えております。特に……今回の件では、キヴォトスの二大学園都市間の
その言葉が出た瞬間、場の空気が凍りついた。聖園ミカ様の表情が、露骨なまでに嫌悪と怒りに歪む。
「……ゲヘナ、ね」ミカ様の、氷のように冷たい声が響く。「またあいつらの仕業なの? ほんっとうに、ろくなことしないんだから! 雷帝? だか何だか知らないけど、ゲヘナ学園の厄介事がこっちに飛び火してくるなんて、冗談じゃないんだけど!」
ハスミさんも苦々しい表情で俯いている。彼女にとっても、ゲヘナ学園や、その元凶に関わっているかもしれないプルガトリウム(の私)の存在は、頭痛の種なのであろう。実に居心地が悪い。
「ミカさん、落ち着いてください」ナギサ様が宥めるが、効果は薄い。「まだ、ゲヘナ学園の仕業と決まったわけでは……」
「決まってるようなもんでしょ!」ミカ様は遮る。「どうせ、あそこの能天気な連中が、また何かやらかしたんでしょ? そのとばっちりがこっちに来てるだけじゃない!」
会議は、早くも暗礁に乗り上げようとしていた。
「……落ち着きなさい、ミカ」セイア様が静かに制する。「憶測だけで断定するのは早計だ。事実を見極めなければ。今は感情的になる時ではない」
「……ちぇっ」ミカ様は不満げに黙り込んだが、その瞳の奥には未だ怒りの炎が燻っている。
「……サクラコ様、お話を続けてください」ナギサ様が改めて促す。
「はい」サクラコ様は一度深く息を吸い、「……その対立を誘発する道具として、『雷帝の遺産』が、悪用されているのではないか、と。暴走したオートマタの一部から、雷帝の技術に由来すると見られる、未知の制御プログラムの痕跡が検出されました。この事実を悪用すれば、トリニティ・ゲヘナ学園間の緊張を高めるには、あまりにも効果的でしょう」
ゲヘナ嫌いのミカ様の機嫌は、再び急降下しているのが見て取れるが、サクラコ様はそれに構わず続ける。
「それに加えて……」ノア嬢が続ける。「カイザーコーポレーション製の部品、あるいは同社系列のPMC装備との互換性が確認されました。直接的な物証はありませんが……キナ臭い、と」
ハスミさんの眉間の皺が深くなる。
「さらに……」津山君が低い声で。「七囚人の動向です。特に……元山海経高級中学校の『五塵の獼猴』申谷カイの動きが、このトリニティ周辺地域で捕捉されている」
申谷カイ! 私が過去に捕縛した、あの傲岸不遜でたちの悪い、錬丹術狂いの変態女《・・・》が!? 何故トリニティに!? まさか、トリニティのお嬢様方を原料にして、不老不死の仙丹でも作ろうというのか!? ありえなくもないのが怖い! そもそも、私が過去に逮捕した(そして莫大な懸賞金を山分け…いや、ほとんど後輩に強奪されたのだが、それはそれとして)相手である。あいつが今、野に放たれているというだけでも頭痛がするのに、このタイミングでトリニティに現れるとは……。いったい何が目的なのだ? カイザー? 雷帝? それとも、全く別の、彼女独自の歪んだ計画か……?
対立煽動、企業の暗躍、脱獄囚の蠢動……そして雷帝の遺産。まるで、底なし沼のように、危険で得体の知れない要素が我々の足元で口を開けている。そんな、絶望的な状況認識が、この場にいる全員の胸に重くのしかかっていた。
「……そして、これらの錯綜する情報の背後にあるかもしれない、もう一つの可能性。これが最も重要であり、同時に……最も危険な
ナギサ様は、重々しく口を開いた。そして、その視線が、ゆっくりと、しかし確実に、私へと向けられた。「Nさん、貴方のその……異質な力と、ザクスーツの存在についてです」
来た。やはり来たか。
「ウイさん、先ほどの解析の続きで構いません。貴女が突き止めた、『可能性』について、ご報告をお願いできますか?」
ウイは、不本意そうに(しかし、瞳には探求心が見て取れた)頷き、報告を始めた。
「……Nさんの『ザクスーツ』の動力システムは、異常です。装着者自身が持つ『神秘』を、何らかの触媒……例えば、彼らプルガトリウム生が使用する
「
私が説明するよりも分かりやすい! さすがは私の可愛い後輩だ(後で何か奢ってやろう)。
「
ノア嬢の眉がひそめられる。それはキヴォトスにおける禁忌の技術。
「生徒自身の神秘を、外部装置によって強制的に抽出し、動力として利用するなど……! 非倫理的かつ危険極まりない行為だ‼」
津山君が目を見開いている。
「キヴォトスの禁忌! 学園都市の秩序を揺るがす重大な問題だぞ!」
「そして……」セイア様が重々しく続ける。「もしその技術が悪用されたならば……」
彼女の視線が、私とOを捉える。
「
「エネルギー……資源……!?」イチカ嬢が、絞り出すような声で呟いた。「じょ、冗談じゃない……!」
恐怖と嫌悪が、場を支配した。
もし、この陰謀の背後にいる『何者か』が狙っているのが、本当にこの「神秘転用」の技術だとしたら……その先に待つ未来は、あまりにも悍《おぞ》ましい。
「……どうやら、我々は、とんでもない
沈黙を破ったのは、やはりナギサ様だった。
「ですが、ここで絶望しているわけにはいきません。『何者か』が誰であれ、その邪悪な企みを阻止し、生徒たちの未来を、我々の手で守り抜かなければなりません! そして、Nさん……貴方という存在と、その危険な力を、断じて悪用させてはなりません!」
ナギサ様の力強い言葉に、他のメンバーも決意を新たにするかに見えた。だが、その希望の灯を、再び無慈悲に吹き消そうとする者がいた。
「ふーん。生徒を資源ねぇ……」
聖園ミカ様である。彼女は、テーブルに頬杖をつき、退屈そうに、しかしその瞳の奥に危険な光を宿して呟いた。先ほどのゲヘナへの嫌悪感を再び露わにし、しかしどこか楽しげな、そして恐ろしく無邪気な響きを含む声で。
「まあ、トリニティの子たちがそんな目に遭うのは絶対に嫌だけどぉ? ……でもさぁ、別に、ゲヘナの生徒なら、別に燃料にしちゃっても構わないんじゃない? あいつら、どうせロクなことしないんだし、エネルギー問題も解決して、一石二鳥じゃーん☆ ね、そうでしょ、Nくん? プルガトリウムも、どうせゲヘナみたいなもんでしょ?」
その悪意なき(ように見える)悪意は、ナイフのように鋭く、場の空気を切り裂いた。私への問いかけという形を取っているが、明らかにそれは挑発であり、彼女の根深いゲヘナへの、そしてプルガトリウムへの侮蔑の表れであった。
「──ミカさん!!!」
ナギサ様の、今まで聞いたこともないような、鋭い叱責の声がテラスに響き渡った! そこには、悲しみと、怒りと、そして深い失望の色が込められていた。サクラコ様も、そして隣に座るヒナタ嬢も、信じられないものを見る目でミカ様を見つめている。ハスミさんは唇を噛み締め、俯いてしまった。
「……な、何よ、ナギちゃんまでそんな怒らなくても……」
ミカ様は、流石にばつが悪そうに視線を逸らす。
「そのような非人道的な考え、ティーパーティーとして、いえ、トリニティの生徒として、断じて許されるものではありません! ゲヘナの生徒とて、我々と同じ生徒です! 敵対していたとしても、その尊厳を踏みにじるような発言は……! あなたには失望しました!」
ナギサ様の言葉は、厳しい。それは、ミカ様だけでなく、この場にいる全員の心に深く突き刺さった。
ゲヘナとトリニティ。両校の根深い対立が、こんなところにも影を落としている。そして、「神秘転用」という技術がもたらしかねない恐るべき未来は、生徒間の差別や対立を、さらに醜い形で助長する可能性すらあるのだ。
会議は、完全に紛糾していた。脅威はすぐそこにあるのに、協力すべき者たちの間には、埋めがたい溝がある。協力体制どころか、空中分解しかねない雰囲気だ。『何者か』の思う壺なのかもしれない。
こんな状況で、私に何ができる? 逃げたい。だが、逃げられない。この技術を生み出した(かもしれない)責任。そして……私がこの場にいること自体が、この亀裂を深めているのかもしれない。私がトリニティに現れ、オートマタと戦い、この忌まわしき技術の存在が明るみに出たから……ナギサ様とミカ様の間に、こんな深刻な対立が生じてしまったのではないか……?
「……本日は、ひとまずここまでにしましょう」
重苦しい沈黙を破ったのは、ナギサ様だった。その声には、先ほどまでの凛とした響きはなく、深い疲労と、隠しきれない落胆の色が滲んでいた。
「各々、持ち帰って検討すべき課題が多くあります。サクラコ様、本日はご足労いただき感謝いたします。Nさん……そして皆様も、夜分遅くまでありがとうございました。改めて、後日連絡させていただきます」
その言葉は、もはやお茶会の結びの挨拶というよりは、むしろ苦渋の決断による会議の中断宣言に近かった。
ナギサ様はそう言うと、力なく一礼し、ミカ様には一瞥もくれず、セイア様と共に足早にテラスを後にしてしまった。
サクラコ様も、これ以上の話し合いは難しいと判断されたのか、静かに立ち上がり、「皆様、本日はありがとうございました。また追ってご連絡いたします」と穏やかながらも場を締める一言を残し、心配そうにウイを見守るヒナタ嬢と、まだどこか納得いかない表情のウイを伴って聖堂の方角へと去っていった。
ミレニアムのノア嬢と津山君も、私に軽く会釈すると、静かに退席した。
ハスミさんとイチカ嬢も、互いに無言のまま重い足取りで去っていく。イチカ嬢は去り際に、ちらりとOの方を見て、何か言いたげな表情をしたが、結局何も言わずに背を向けた。
やがて、広々としたテラスには夜風と、気まずい沈黙だけが残された。いや、正確には三人か。唇を噛み締め、俯いたまま動かない聖園ミカ様。どう声をかけるべきか分からず、オロオロと私とミカ様を交互に見るO。そして、その全ての元凶かもしれない、私。
トリニティの頂点たるティーパーティーに生じた亀裂。それを目の当たりにし、その原因の一端が自分にあるのではないかと考えると、罪悪感で胸が潰れそうだった。
「……ミカ様」
私は、意を決して、俯く彼女に声をかけた。無視されるかもしれない。罵倒されるかもしれない。だが、何か言わずにはいられなかった。「あの……先ほどは……その、すみませんでした。私のせいで、ナギサ様と……」
「……うるさい」
ミカ様は、顔を上げることなく、低い、冷え切った声で私の言葉を遮った。「あんたのせいじゃない。……でも、あんたみたいなのが来たせいで、ナギちゃんがおかしくなったのは確かかもね」
その声には、いつもの天真爛漫さも、悪戯っぽい響きも欠片もない。ただ、冷たい怒りと、私に対する明確な拒絶だけがあった。
「……っ」私は言葉に詰まる。彼女の言う通りなのかもしれない。私は、このトリニティにとって、招かれざる厄介者でしかないのか……。
「もう、どっか行って」ミカ様は吐き捨てるように言った。「あんたの顔見てると、イライラする」
完全に、拒絶された。当然だ。彼女のプライドを、そして彼女とナギサ様の関係を、私が掻き乱してしまったのだから。
私は、それ以上何も言うことができず、ただ黙って、重い足取りでOと共にテラスを後にするしかなかった。
夜空の下、宝石のようにきらめくトリニティの夜景が、今はただ虚しく、そして冷たく感じられた。罪悪感と自己嫌悪が、重い鎧のように私にのしかかっていた。
寮への帰路、Oが気を利かせて何か軽口を叩いてくれたが、私の耳にはほとんど入ってこなかった。
その時だった。
ピロン♪
私のポケットの中で、スマホがモモトークの着信を告げた。こんな時間に、誰からだ? ナギサ様か? いや、それにしては早すぎる。恐る恐るスマホを取り出し、画面を確認する。そこに表示されていた送信者の名前は──
『カイ』
──!? まさか! なぜ、あいつの名前が私のモモトークに!? いつ登録された? まさかあの騒動の最中に!? 不気味な偶然とは思えない。背筋に冷たいものが走る。
震える指で、トーク画面を開く。
次々と表示される短いメッセージ。それは、毒のようにじわりと染み込んでくる言葉の連なりだった。
『カイ:やあ、Nくん。君の「神秘」の輝き、なかなか見応えがあったよ』
『カイ:困ったらいつでも連絡しておいで』
『カイ:君が私を、本当に必要とする時が、きっと来るから』
『カイ:愛を込めて』
……最悪だ。
あの女……申谷カイ! こちらの心の隙間に入り込むような言葉巧みさ! あの会議の直後、このタイミングでこんなメッセージ……見透かされている!
しかも、このトーク履歴! これを誰かに見せるわけにはいかない。見せれば最後、私はカイの手先と見なされるだろう。言えない。誰にも相談できない。
私は、怒りと恐怖と、そして言いようのない孤独感に打ち震えながら、スマホの画面を強く握りしめ、閉じた。夜は、まだ始まったばかりだというのに、私の心には、早くも暗く、重い影が落ち始めていた。約束されたはずのラーメンの味が、ひどく遠いものに感じられた。
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