そんなわけでよろしくお願いします。
さて、我が人生という名の、なんとも心許ない古びたゴムボートは、キヴォトスという名の、時に荒れ狂い時に凪ぐ、不可思議な大海原を漂流し、果たしてどこへ流れ着くのであろうか。先夜のお茶会──もとい、ティーパーティー御三方、ミレニアムの才媛(と陰鬱男)、シスターフッドの聖女(と物理的鎮静シスターに古書館の偏屈な主)、正義実現委員会の尖兵(と私の宿敵になるやもしれぬ後輩、さらに例の不良少女)が一堂に会した、後にも先にも空前絶後であろう奇々怪々な頭脳会議──は、実に不穏な暗雲を孕みつつ、一旦の幕引きを見たのである。
そして極めつけは、かの『五塵の獼猴』申谷カイからの、悪魔の囁きにも似た不愉快極まりないモモトーク! 私が過去に一度、袖にした(物理的に、である。逮捕しただけだ)女からの、粘着質で、こちらの弱みに的確につけ込んでくるメッセージ! なぜ、どうやって私の連絡先を知り、あの心を掻き乱す言葉の毒を送りつけてきたのか? まるで見られているかのようだ。悪寒が背筋を這い上がり、私の内心の平穏を掻きむしる。カイの言葉は、巧みに私の心の壁のひび割れ──このザクスーツという異質な力への戸惑いや、周囲(特に、あの美しくも油断ならぬトリニティやシスターフッドのお嬢様方)への根強い不信感、そしてどこか「普通」ではない自分自身への漠然とした疎外感──へと染み込んできた。このメッセージを迂闊に皆に明かせば、私がカイと内通していると疑われる危険性すらある。カイはそこまで計算しているに違いない。ああ、実に忌々しい! この毒を一人で抱え、疑心暗鬼という名の泥沼で独りもがくしかないのか? なんとまあ、精神衛生上よろしくないことか! 貧弱な男子生徒をいじめて楽しいのか、あの変態錬丹術師は!
あの夜は、気まずい空気が充満するテラスからどうやって退散したのか、正直なところ記憶は朧げである。Oの余計な軽口をBGMに、疲れ切った心身を引きずってプルガトリウムの寮へと帰り着いたことだけは覚えている。
自室の扉を開けると、そこにはシスターフッドかシャーレか、ともかくどこかの几帳面な組織の手配によって運搬されたであろう、愛機ザクスーツの分解されたパーツ群が、まるで巨大なオブジェのように鎮座していた。その律儀さには感謝しつつも、勝手に部屋に入れられている事実に一抹の不気味さを感じずにはいられない。
私の部屋は、プルガトリウムの他の寮生のものと比べ、異様なほどに広い。いや、「与えられている」という方が正確か。かつて七囚人、申谷カイを逮捕するという功績(と厄介事)の見返りとして、連邦生徒会から特別に割り当てられた、豪勢な独房のようなものだ。それでも、隣接するワークショップスペースは、この鉄の塊を弄るには最適の環境であった。
ベッドに倒れ伏したい衝動と戦いながら、私は埃と油にまみれた作業用ツナギへと着替え
た。この鉄の塊と向き合う時間だけが、今の私に残された唯一の聖域かもしれぬ。
装甲の歪み、駆動系の軋み、センサー類の不調……先日の戦闘の代償は大きい。古書館から拝借(あるいは半ば強奪)した工具と予備部品を手に、黙々と修復作業に没頭する。油と金属の匂い。飛び散る火花。研磨の音。それは私にとって、一種の精神統一であり、煩雑な現実からの逃避であった。
隣室からは、我が後輩Oの、地軸を揺るがしかねない壮大ないびきが響いてくる。あの状況の後で、よくもまあこれほどまでに安眠できるものだ。彼の
……翻って、私のこの力は一体何なのだ? ウイが推測した「神秘転用」。私の
「──うるさい! 静かにしろ、O!!」
私は衝動的に壁を蹴り飛ばした。ガン!と鈍い音が響く。だが、イビキは止まない。どこ
ろか、微妙に音程を変え、より荘厳な交響曲のような響きを奏で始めたではないか! 完全に無敵だ、この男!
翌朝。目の下の隈は昨夜よりさらにその版図を広げ、もはやパンダと見紛うばかりの様相で、私はよろよろと学生食堂へと向かった。そこは既に、野獣の咆哮とむせ返るような熱気に満ちた、プルガトリウムの朝の祝祭会場と化していた。そして案の定、その中心で、我が悪魔的後輩Oが、神々しいまでに腹立たしいニヤニヤ笑いを浮かべて、私を待ち構えていた。
「おっはようございまぁぁぁっす! N先輩! 伝説の! 昨夜は星も恥じらう熱い夜だったそうで!? あの気高きトリニティの薔薇、ナギサ様をその胸に抱きしめ! 愛を語らい! そして最後は雄々しく叫んだと!『ラーメンをくれ!』と! ああ! 感涙! まさにプルガトリウムの理想! 漢の生き様! 我らが英雄! 一生ついて行きます!!」
Oは食堂のテーブルの上で仁王立ちになり、なぜか自分の学ランの前を開け放ち(中には何も着ていない!?)、スポットライトでも浴びているかのように高らかに、そして120%の虚偽と誇張を込めて、私の「伝説」(だから事実ではない!)を語り始めたのだ! 周囲の野郎どもからは、既に「ヒュー!」「先輩カッケー!」「マジリスペクト!」などという熱狂的な声援が上がっている! しかもOは、「ドキューン!」「愛のスパーク!」「胃袋ノックアウト!」などと、意味不明にして致命的にダサい効果音を自ら口走り、場を盛り上げている(つもりらしい)!
瞬間、食堂のボルテージは沸点を超えた。いや、蒸発した。
ガシャァァン!(食器の破片が飛び散る音)
ドゴォォォン!(誰かがテーブルを床に叩きつける音!)
「「「「「N先輩!N先輩!N先輩!N先輩!!!!!」」」」」
もはやそれはコールではない、地響きだ!
「マジかよ! 俺もティーパーティーにお近づきになりてぇ!」
「いや待て、N先輩が手に入れた女だぞ! 手を出すな!」
「だったら俺はシスターフッドだ! マリー様ぁぁぁ!」
「古書館には俺が行く! ウイちゃんと知的な会話を…ぐへへ」
「貴様ら不純だ! N先輩は愛のために戦ったのだ! 我々も筋肉で応えねば!」
「そうだ! 今日のトレーニングは通常の3倍だ!」
「3倍じゃ足りん! 5倍だ! ゲヘナに負けるな!」
「なぜゲヘナ?!」
「トリニティ落とした次はゲヘナか! さすがN先輩!」
「祝いだ! 食堂のおばちゃん! 今日の定食、全員『愛と筋肉盛り』にしてくれぇぇ!」
「プロテイン一気飲み競争だ! 敗者は校庭30周!」
「おうよ! 脱げ脱げ! 学ランなど飾りだ! 男は筋肉で語る!!」
「「「「「プルガトリウム! ファイトォッツー! うおおおおォッツーーーッッ!!!」」」」」
箸が飛び、スプーンが曲がり(物理的に!)、机が軋み、床が抜けんばかりに踏み鳴らさ
れ、学ランが誇らしげに宙を舞い(だから何故!?)、パンの欠片やらソースやら正体不明の白い粉末(プロテインだと信じたい)が飛び交う! 男たちの汗と涙と雄叫びと、友情なのか何なのかよく分からない団結力の叫びが渾然一体となり、食堂は完全に野蛮にして混沌たるエネルギーの坩堝と化した! これぞプルガトリウム男子校の日常! 理性などゴミ箱! 本能の赴くままに叫び、喰らい、そして鍛えよ! 理解不能、制御不能! ただただ騒々しく、そしてどこか滑稽で、愛おしい(いや、やっぱり腹立たしい!)我が母校の姿!
「き、貴様ら……! いい加減にしないか!!! そしてO! 貴様だけは、貴様だけは絶対に許さんッ!!!」私の怒りの声は、熱狂の渦の中にかき消される運命だった!
「ひゃー! 先輩の愛のムチ! ごっつぁんです!」Oは猿のように飛び回りながら私を挑発する!「大丈夫ですよー、ちゃんと弁解済みっす! 『まあ、ナギサ様みたいな超お嬢様、俺らにゃハードル高いし? イチカさん辺りが現実的かなーって、先輩も最近よく言ってるんすよねー』って! そしたら、もうすごい剣幕で!『な…!なななな!誰が現実的よ!あの鉄屑先輩のことなんて、これっぽっちも!これっぽっちも気にしてないんだから!勘違いしないでよねっ!!』って、めっちゃ顔赤くしながら全否定してました! ツンデレ! ごちそうさまです!」
もう何も言うまい! 言葉の暴力! 無実の罪! そして勝手に他人の恋路(?)を捏造するんじゃない! 私の胃痛はもはや限界を突破し、ブラックホールのように全てを飲み込み始めていた。
食堂の定食(今日はパサパサの謎の魚フライ、何の魚か特定することすら諦めた)を、怒りの業火で焼き尽くすかの如き勢いで胃袋に流し込み、私はこの狂乱の空間から脱出した。
その直後、ポケットのスマホが電子的な羊の鳴き声で鳴った。表示は「連邦生徒会 首席行政官 七神リン」。来たか、会議の知らせ。私は喧騒を離れた廊下の隅で、覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「はい、Nです」
『──Nさんですね。連邦生徒会、首席行政官の七神リンです。昨夜は遅くまでご協力いただき、感謝します』
相変わらずの平板な声。彼女は連邦生徒会長ではないが、会長を支え、この巨大な学園都市の実務を動かす、極めて有能な行政官だ。
「い、いえ、こちらこそ……。会議の日程が決まったのでしょうか?」
『その件について、現在関係各所と最終調整を行っている段階です。本日中に確定させ、正式な招集通知をお送りできる見込みです。……そこで、Nさん、一つ確認と、お願いがあります』
なんだ? まさかまた厄介事か?
「……なんでしょうか?」
『昨夜、ティーパーティーのナギサ氏、ミカ氏との間で、若干の……意見の相違があったと報告を受けています』
さすが首席行政官、情報が早い! しかもオブラートに包んだ表現!
『今後の円滑な協力体制のためにも、学園間の対立感情を不必要に刺激する言動は控えていただきたい。特に、貴方のような特異な立場にある方は、その言動が持つ影響力を自覚する必要があります。プルガトリウムの生徒であることは、決して
直接的な注意だ! しかもかなり厳しい!
「……肝に銘じます」
『それともう一点。会議に際して、貴方のその武装……ザクスーツに関して、改めて詳細な説明と、可能な範囲でのデータ開示を求める可能性があります。これにはミレニアム、そしてシスターフッドからも強い要請が来ています。その旨、ご承知おきください』
やはりそう来たか! 私の愛機が丸裸にされる……!
「わ、分かりました……。準備しておきます」
『結構。詳細な議題については、招集通知に記載します。……Nさん、今回の件は、キヴォトス全体の安定に関わる重要案件です。貴方の理性的な判断と、責任ある行動を期待しています。……個人的な食欲は、会議の場では適切にコントロールするように』
最後の最後に念押し! 私の腹の虫はどこまで知られているのだ!
『それでは、改めてご連絡します。失礼』
通話は切れた。嵐のような叱責と要求であった。
私は、重い足取りで自室への道を辿る。会議の準備……。ウイに協力を仰がねば。
スマホを取り出し、古書館へ電話をかける。
「……はい、古書館。用件は三行以内でお願いします。超過した場合、イッキの刑に処します」
出た。開口一番これである。
「私だ、Nだ。会議の日程について、リン行政官から改めて連絡が入った。君も参加すると言っていたからな、一応伝えておく」
「……はぁ。律儀なことで。ありがとうございます。で? 用件はそれだけですか? 忙しいので失礼し……」
「待て。一つ、頼みがある。君の知識を借りたいんだ。会議で、おそらく『神秘転用』とか
私は単刀直入に頼んだ。もはや、遠回しな交渉などしている余裕はない。
「……ふん。利用する気満々ですね。まあ、いいでしょう。その議題、私にとっても無視できませんから。ヒナタさんも同伴なら、考えてあげなくもないです」
相変わらずの条件付きだが、協力は得られた!
「ただし! 報酬は高くつきますよ? そうですね……貴方秘蔵の、古今東西の怪奇・探偵小説コレクションあたりで手を打ちましょうか?」
「それは私の魂の一部だ! 断固拒否する!」
「では、あのザクスーツの構造データを……」
「それも困る!」
「まったく、使えない男ですね。まあいいでしょう、報酬は後で考えます。せいぜい私の役に立つことです。では、連絡、見ておくくらいはしてあげますから、さっさとリン行政官からの連絡、来るといいですね。さようなら」
ウイは言いたいことだけ言って、一方的に通話を切った。やれやれ、新たな火種が増えた気もするが、前進あるのみだ。
ウイは素っ気なく電話を切った。だが、協力は得られた。それだけでも大きな進展だ。
私は自室に戻り、ワークショップで再び鉄の塊と向き合った。迫る会議。未解明の技術。見えざる敵。私の武器は少ない。だが、腹は決まった。やれるだけのことをやるしかない。そう決意を固めた瞬間、私の胃袋が「ぐぅぅぅ……」と高らかに活動開始を宣言した。……よし、会議が終わったら、絶対に、絶対に、最高級のラーメンを食べるぞ!
#【
トリニティの清澄な朝の光が満ちる回廊。百合園セイアと浦和ハナコは、短い別れの挨拶を交わし、それぞれが日常へと戻ろうとしていた。
「では、セイアさん。私はこれで」
ハナコが一礼する。その表情は、セイアの前で見せる、いつもの少し影のあるそれとは違い、どこか吹っ切れたような、穏やかな明るさを湛えていた。
「ああ。……気をつけてな、ハナコ」セイアは、本のページから目を上げずに答えた。
ハナコは静かに頷き、歩き出す。その時、回廊の向こうから、パタパタと軽い足音が聞こえてきた。
「あっ! ハナコ先輩! おはようございます!」
息を切らせて駆けてきたのは、大きな鞄を抱えた下江コハルだった。彼女は、昨日の騒動でハナコに助けられたことが、よほど心に残っているらしい。
「あら、コハルちゃん。おはようございます。そんなに急いで、どうしましたの?」ハナコは自然な笑顔で振り返る。
「えへへ……図書室で借りた本を、朝イチで返しに行かないといけなくて! ちょっと寝坊しちゃったんです! でも、朝ごはんは食べましたよ!」コハルは鞄を抱え直し、少し照れながら早口で言う。「あ、あの、ハナコ先輩! 昨日は本当にありがとうございました! 先輩がいなかったら、私、どうなっていたか……」
深々と頭を下げるコハルの純真な姿に、ハナコは思わず微笑んだ。
「どういたしまして。でも、コハルちゃんこそ、もう大丈夫なのですか? 怖くはありませんでした?」
「はい! 最初はすっごく怖かったですけど、あの鉄のロボットさんが強くて、ハスミ委員長さんもカッコよくて……! それに、ハナコ先輩が一緒にいてくれたから!」コハルは、少し興奮気味に話す。「あの、それで、もしよかったら、なんですけど……今日のお昼、一緒に食べませんか? お礼、したいんです!」
キラキラした瞳で、真っ直ぐにハナコを見上げるコハル。その曇りのない好意に、ハナコの胸がきゅんと締め付けられる。
「……ええ、喜んで」ハナコは、迷いなく頷いた。「では、お昼休みに、中庭でお待ちしていますわ」
「本当ですか!? やったー!」コハルは飛び跳ねて喜ぶ。「じゃあ、私、急いで本を返してきますね! また後で!」
パタパタと、再び軽やかな足音を残して、コハルは去っていった。
その背中を見送りながら、ハナコの表情には、温かな、そしてどこか切ないような、複雑な微笑みが浮かんでいた。
(……素敵な人、ですか。私には、まだ遠い道のりかもしれませんわね……)
彼女は、コハルに言われた言葉を思い出し、小さく息をついた。だが、その心は、不思議と軽やかだった。
その様子を、書物の影から静かに見つめていたセイアは、小さく呟いた。
「……ふふ、これはどうにも、興味深い『蓋然性』の一つ……。世界は、常に移ろい、変化していくものなのだね……」