カレンデュラに余光が続くなら   作:エンプティネス

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マリア・ニアール
一話


 

 昼なお暗い孤城の片隅。

 散らかった石造りの部屋の中で、机の上に置かれた1本の蝋燭の火を頼りに、手早くノートにペン先を滑らせる少女が1人。

 これが、同じドロステでも姉の方であれば燭火を頼りに暗闇で文字の世界に向き合う風流人、といった儚げな光景になっていたのだろう。

「今日は……だったから……して……昨日も……いや、でも……」

 しかし、今この場で机に向かっているのは同じドロステはドロステでも妹の方だ。

 髪色こそ姉と同じ美しい黄金色だが、左目を前髪で隠したその顔立ちは美しく儚げというよりは快活とした可愛らしいもので、姉妹だというのにかなり違う印象を受けるだろう。

 それでも、黙って澄ましていれば多少は儚げな印象があるのだが、今のようにその緑の目を爛々と輝かせ、唸りながらノートに齧り付くような前傾姿勢でペンを動かしている様子は、少なくとも儚げではない。

「ふぅ〜!ん〜……これで、良しっ──」

 椅子が後ろに傾くほどに背もたれに体重を預け、思い切り身体を後ろに逸らして“伸び”の姿勢をしたエラフィアの少女。

 と、そのとき、部屋の木製の扉が開き、上下逆さまになった自らの姉と目が合う。

 途端に、妹の表情がまるで満開の花が咲いたかのように輝いた。

「あっ、お姉ちゃ──あ!あぁ〜!?」

 部屋に入ってきた水色を基調とした寝巻き姿の姉、ヴィヴィアナと目が合った彼女の妹こと、ヴィタ・ドロステの視点はそのまま姉の顔から胸元、腰から足先にまで何故か強制的に移ろうこととなり──後頭部を盛大に床石に打ちつけた。

「ヴィタ、大丈夫ですか……!?」

「う、うん……石頭で良かったよ……」

 少し焦った表情でこちらの顔を覗き込んでくるヴィヴィアナに対し、ヴィタは椅子ごと後ろにひっくり返った姿勢のまま、視線を逸らしながら力ない笑顔を返した。

 今朝のトリュフグローヴ城の目覚ましは、なんとも鈍い鐘の音となった。

 

 

「……それで、着替えもせずにずっと起きていた、と」

「いや〜……最初はちゃんと寝るつもりだったんだよ?でももう3日も日記を書いてなかったから、ついペンが止まらなくなっちゃって」

「まあ。であれば先日、あなたの寝不足が祟ったために、角で城中の扉という扉に穴を開けたことも日記に?」

「えっ?え〜っと、そんなこともあったかなぁ?なんか、さっきので記憶が飛んじゃったかも〜?」

「…………」

「い、いきなり黙らないでよ!今、体勢的にお姉ちゃんがどんな表情してるか分からないから、すっごく怖いんだよ!」

 昨晩は使われることのなかったヴィタのベッドに隣り合って腰掛けるドロステ姉妹。

 ヴィタは詫びるような形で頭を下げ、その妹の頭に出来た小さなたんこぶにヴィヴィアナがピンセットで摘んだ脱脂綿を押し当てていた。

「ふふ、安心してください。今、あなたの手当てをしているのは、いつものヴィヴィアナに他なりませんよ。ええ、それも先日と同じです」

「や、やっぱり怒ってるじゃん……!?ひひい、いたたたた!?」

 ヴィタは頭を垂れた姿勢を維持したまま、隣に座る姉の真意を探るべく膝や足元に目を滑らせるが、頭を動かした弾みで患部の最も痛いところに消毒液が染みてしまい、感高い悲鳴を上げた。

「……あ、ていうか!これくらいの傷なんて本当、手当てしなくても大丈夫だよ?そもそも私が昔から傷が治りやすいのも、ちょっとした怪我ならアーツで治せるのも知って──」

「──また、怖い夢を見たのですか?」

 その言葉にヴィタは押し黙る。

 やがて「えーっと」とか「うーんと」と言ったような答えを先延ばしにするだけの言葉とも取れない音を口から発し、愛想笑いを始めた。

「……あ、あははは。お姉ちゃん、私の心の中を読むの上手いね?昔からだっけ?いや〜、私ってそんなに分かりやすいかな?」

「……いつから、ですか?」

「えーっと……一週、間くらい?」

「ヴィタ」

 珍しく、少し怒気を孕んだ声でと妹の名を呼んだヴィヴィアナの薄い青藤色の瞳に、憂いの影が宿る。ヴィタもまた観念したように顔をあげるが、姉のそれとは対照的に困ったような笑顔を作っている。

 カーテンで閉ざされた暗闇の中、お互いの顔がベッドサイドの燭火でぼんやりと照らされた。

「はぁ……昔ほどじゃなかったから、言わなかっただけだよ。あの頃は確かに酷かったけど、この前のは本当にちょっとした内容だったからさ」

「ヴィタ、あなたはその“ちょっとした”という一言で、私が家族を想う気持ちすら、拒んでしまうのですか……?私が、姉としてあなたに出来ることは多くはありませんが……だからこそ、その心に寄り添うことだけは許して頂けないでしょうか?」

 そこまで言われて、ようやく少し苦しそうな面持ちになったヴィタは目の前の姉から右目を逸らした。左目は金色の前髪で覆われているので、外からその瞳の色を伺うことはできない。

「あー……ごめん、お姉ちゃん」

「……いえ、私も言葉が過ぎました。ですが、あなたの姉は……ただ、妹の足元くらいは燭火で照らしていられるように在りたい、というだけなのです。ですから、謝らないでください」

「──左目を見ても、良いでしょうか」というヴィヴィアナの問いに、ヴィタは無言で頷いて姉の瞳を見つめ返す。

 ヴィヴィアナが妹の左頬にそっと手を添えれば、しなやかな指先に黄金色の前髪がかかる。そのまま上へ撫でるように手を持ち上げると、普段は金糸の向こうに隠れているヴィタの左目が露わになった。

「……な、何?別に、いつもの目でしょ?あっ、やば。もしかして目脂でもついてた?」

「いいえ……」

 紅い瞳がそこにあった。

 気まずそうに揺れる翠色の右目に比べて、左目は目の前の自身の姉の顔すら見ていない。何を見ているのかといえば、それは無限に広がる夜に他ならない。

 既に光を失った(失明した)瞳には、二度と朝日が差し込むことはないからだ。

 無情、無心、虚無……濁った血のような瞳には底も波風もなく、周囲の全てを拒絶するかのように、ただ冷厳に存在しているだけ。

 それでも、とヴィヴィアナは瞳に手を伸ばす。

 震える指先は、まるでその冷たく紅い瞳を温めようとするかのように。

 しかし、当然の帰結として指先が何かに届くことはなく、果てのない影の中に沈み込んでいくだけだった。

「ヴィタ、あなたの瞳に映る言葉は……その声を探しているのではありませんか?」

 やおらヴィタの左頬から手を離したヴィヴィアナは、少し震えたような柔らかな声色で問う。反面、問いただされた本人は間抜けな顔を浮かべた。

「へっ?えっと……“言いたいことがあるなら正直に言いなよ!”ってこと?」

「…………」

「うわっ!お姉ちゃんの顔、“そう言うのを野暮というのですよ”って書いてあるじゃん……!でも、別に言いたいことなんて──あっ」

 そこまで言ったところで、ヴィタの穏やかな表情は頭から水をかけられたかのように唐突に張り詰めた。

 ヴィヴィアナもまた、喉元まで迫り上がって来ていた言葉の束を飲み込むと、何処か虚な微笑みを浮かべて、妹の言葉が声を見つけて口先から紡がれる瞬間に備える。

 

 

「……ごめん!実はこの前、剣で穴を開けちゃったって言って捨てたガリア・コレクションのワイン樽があったでしょ?あれ、本当はワイン風呂がどんな感じなのか気になって、夜中に全部使っちゃったから無くなってたんだ……えへへ……」

 ヴィヴィアナは深い深い溜め息と共に頭を抱えた。

 

 

 

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「ヴィタ…………」

 数時間後、ヴィヴィアナはようやく眠りについた妹の側に寄り添うように横になっていた。

 昔のように、暗闇の中で燭火を灯し、

 昔のように、騎士小説を読み、

 昔のように、同じベッドに入った。

「ぅぅ……っ……」

 そして、昔のようにヴィタは魘されている。

 眼前に広がる闇夜は、あの塔の中に居た頃のままだ。

 ヴィヴィアナ、そしてヴィタが看板となって競技騎士を募っているノヴァ騎士団。その居城にして騎士団が生活を送る場所でもあるトリュフグローヴ城は、城全体が移動式プラットフォームとなっている。

 現在、この城はカジミエーシュの中枢都市の喧騒と光からはやや縁遠い郊外に停泊している。この城の最上階にあるヴィヴィアナとヴィタの私室には、地上で朝の訓練に励む騎士たちの声すら届かない。

 ──静寂。

 それは、二人が幼少の頃に過ごしたリターニアの高塔、その狭く小さな一室を常に満たし続けていたものだ。

 リターニアの夜は無遠慮で恐ろしい雷鳴や雨音が伴になることが多かったが、珍しく雷鳴や雨音の聞こえない夜はより鮮明にヴィタの呻きが響いていた。

「お姉……ちゃん……」

「……大丈夫ですよ、私はここにいます」

 ヴィヴィアナが肩を寄せれば、シーツの上を落ち着きなく這い回っていたヴィタの腕が、スルスルと背中に回り、その頬をヴィヴィアナの胸元に寄せてくる。それはまるで、猛烈な嵐の中に吹き散らかされまいと、必死に樹木に蔓を絡める植物のようだった。

 ヴィヴィアナから見て、妹は昔から──あの夜から何も変わっていないように見える。

 父親に手を引かれてあの高塔の長い螺旋階段を共に降り、リターニアを去ってカジミエーシュで共に剣を振るうようになっても。

 背後に見え隠れしているのは常に小さな影なのだ。

『(……あの時、もし私が扉を開けていれば)』

 胸の奥底までヴィタの深く熱い吐息が伝わり、応えるようにヴィヴィアナはその身体を抱き抑える。

 ヴィタは常人と比べて痩せこけているというわけではない。

 片目を失明してしまっていることを除いて、見た目も中身も健康そのものだ。むしろ、見る人によっては羨ましがられるような完璧なプロポーションをしてさえいる。

 しかし、姉のヴィヴィアナからすれば、妹の身体は秋の枯れ木のようなやつれた冷たいものだとしか思えなかった。

『(私は……貴方の光を奪ってしまったのでしょうか……)』

 結局、この日は小部屋に陽光が差し込むことはなく。

 ただ、ひっそりと隠れるような小さな燭火だけが二人を見据えていた。

 

 

 

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 ──数ヶ月後。

 「大騎士領」カヴァレリエルキ。

 “この大地で最も広壮たる移動都市”と評される、この「大騎士領」は本来カジミエーシュの首都であるカヴァレリエルキの名を冠する中枢都市と、三つの都市が連結した超巨大な「四都市連合」だ。

 ネオン輝く連合都市が一般的な移動都市よりも遥かに美しく偉大であるのは言うまでもないが、そもそもこの大地において、分裂している移動都市が三年に一度連結しては分かれ、また連結して……と言った一連の流れが円滑に行われていること自体、かなり稀有な光景だ。

 隣国のヴィクトリアで例えるなら、ロンディニウムを中心に周辺の田舎の移動都市を複数合体させるようなもの。

 実際に行おうものなら、体裁を重んじる貴族が即座に憤死するはずだ。市民は市民で他の移動都市の市民とは文化や制度の摩擦が発生し、瞬く間に大混乱に陥るに違いない。

 カジミエーシュという国は、良くも悪くも協調性のある国柄なのだ。

 しかも、この広壮かつ稀有な四都市連合は「騎士競技」という、騎士たちによる興行を行うことのみを目的として連結しているのだから驚きだ。

 ここまで風変わりな移動都市はカヴァレリエルキを除いて、この大地のどこにも存在しないだろう。だがそれも、この国の人々にとっては至極当たり前のイベントであり、カジミエーシュという国の文化と経済の環。

 今シーズンの騎士競技のメジャー選抜戦予選開催から数ヶ月が経過した現在、市民たちはしきりに「今シーズン最強の騎士は誰か?ランキングでご紹介!!」とか「あの有名騎士にまさかのスキャンダル!?元競技騎士が語る!」など、多種多様なホットニュースを享受しては各々大金を叩いてファン活動に勤しむという、これもまた非常にカジミエーシュらしい()()()話題で大いに盛り上がっている。

 無論「騎士競技」に関わるのは出場者である競技騎士と、観戦者である一般の市民たちだけではない。これほど巨大な興行を円滑に動かすには、運営者──いわゆる、スポンサーとなる企業が必要不可欠だ。

 強固な資本主義社会が形成されているカジミエーシュの衣食住、そして交通や政治の場にさえ絶大な影響力を持つ大企業の集合体である「商業連合会」が、運営者として「騎士競技」全体の進行を執り行なう他、個々人の「競技騎士」や騎士階級の認証・管理を行う組織すら金銭的に裏からコントロールしている。

 つまるところ、「大騎士領」カヴァレリエルキは「商業連合会」という巨大な手のひらの上だからこそ、このような“この大地で最も広壮たる移動都市”を維持出来るというわけだ。

 語るべくもないことだが、この巨大な手のひらの上からこぼれ落ちた者、あるいは逃れようと抗った者の末路はいずれも悲惨なものになる。

 そんな見た目の煌びやかさに反して内情は暗澹そのものな都市においても、姉と同じく優秀な競技騎士であるヴィタは「商業連合会」の巨大な掌の上で上手く転がることにより、比較的自由に暮らしていた。

「──────♪」

 そんな彼女は現在、赤い傘を差してぽつぽつと雨の降りしきるカヴァレリエルキのとある街並みを足取り軽く歩いていた。

 既にビルと雨雲の合間から月が顔を出している時間帯だが、都市のネオンの輝きは暗闇さえも意に介さず、逆に人工の光が淡く夜空を照らし返している。

「それって、ヴィクトリア語の歌?ヴィオラちゃん、何だか今日はいつもより楽しそうだね?」

 そんなヴィタの両隣を、同じく雨傘を差した2人のクランタが歩いている。一人は眩しい琥珀色の目をした金髪の少女。

「ニアール」の家名を持つ騎士が、メジャー開催から数ヶ月も経過した時期に騎士競技に突如として参戦、という二重の意味で衝撃の騎士競技デビューをこっそりと果たしたばかりのうら若き騎士──マリア・ニアールその人だ。

「ふっふふ、まあちょっとね!それに、久しぶりにマリアちゃんにも会えたし!」

「……はぁ、なんで私まで」

「あれ、あんまりノリ気じゃないね〜?あっ!もしかして、何かお仕事で嫌なことでもあったの〜?」

 そして、もう一人はどこか冷めたような面持ちをした美しい白髪の小柄な少女。

 その瞳の色はマリアのものと似ているが、それに加えて気怠げな影が常に混じっている。一見ただのクランタの美少女にしか見えない彼女だが、その裏の顔は「プラチナ」のコードネームを冠する騎士殺し(ナイトスレイヤー)。「商業連合会」の意にそぐわない“はぐれ者”を闇に紛れて抹殺する暗殺者集団──「無冑盟」の逆三角のピラミッドの組織構造をした末席の幹部だ。

 もちろん、自身が悪徳企業の手先であることは「無冑盟」の関係者か、追い詰められたターゲット以外に明かすことはない。当然隣を歩くヴィタとマリアにも、だ。

 今の肩書きとしては「一度は競技騎士を志したものの競技の成績に伸び悩み、より良い暮らしを求めてカヴァレリエルキの民間警備会社に転職した多忙なエリート社員」という設定だ。

 とはいえ、“カジミエーシュの民間警備会社”のところを“無冑盟”に置き換えてしまえば、殆ど「プラチナ」こと、本名「セントーレア」の半生に近しいものとなる。

 警備会社と無冑盟で異なることといえば、前者は離職届を出せば普通に辞められるだろうが、後者はこの世からの永久離職になることくらいだろう。

 プラチナは覇気も生気も篭らない瞳でヴィタを一瞥して言う。

「……そんなとこかな。上から色々面倒な仕事を押し付けられたり、休暇の申請が全部却下されたりしたからさ」

「うっわぁ……なんか、さっきは無理矢理捕まえちゃってゴメンね。今日は私が奢るよ……」

 ぽんぽん、とヴィタに肩に手を置かれたプラチナは、先程街中を歩いていたとき同じように肩を叩かれたことを思い返した。今と違うのは、それが何の気配も前触れもない背後からの不意打ちだったこと。

 おかげで、プラチナは思わず両耳をピーンと直立させて人前で悲鳴を上げる羽目になった。

「奢りね……なんかそれはそれでムカつくけど、少しくらいなら付き合ってあげるよ」

 正直プラチナは今すぐ帰って寝たかったし、騎士殺し(ナイトスレイヤー)の自分が今話題の大騎士や、「ニアール」の家名を持つ人物とこれ以上変に関わり合いになるのも御免だった。だが、仮に誘いを蹴って真っ直ぐ自宅に帰ったとしても、何故か帰宅を見計らったかのように掛かってくる電話越しに、無冑盟での上司にあたるラズライト(ロイ)に長々と仕事のアレコレについて絡まれるのは目に見えていた。

『(……ま、適当な言い訳には使えるか)』

 内心はどうあれ、プラチナの了承を得たヴィタは気分良く歩きながらマリアの方に向き直る。

「そういえば最近のマリアちゃん、あんまり連絡つかなかった気がするんだけど……何かあった?工房のお手伝い以外にお仕事は……してなかったよね?」

 ヴィタは、マリアが手伝いをしている鍛治工房の大柄なウルサス人のことを思い浮かべた。

 確かにマリアの師匠は多少粗暴な所はあるが、こう見えてエンジニア気質なマリアとは実に良い師弟関係を築いているように見えた。

 トラブルが起ころうはずもない。

 であれば──

「あ、プライベートで何かあったの?」

「うーん……強ち間違いじゃない、かな。実は、ヴィタちゃんに相談したいことが──」

 そのとき不意に、今まで黙って横を歩いていたプラチナが不貞腐れた表情のまま口を開く。

「ふーん、流石はあのニアール家って感じだね〜。日々の暮らしのために企業の操り人形になって必死に働くなんて、あんまり縁のない話だったりするのかな?」

 プラチナは常に暗殺者として命の危機に晒されつつも、無理難題を吹っ掛けてくる上司と役立たずな部下との板挟みになるという、無冑盟の中間管理職を嫌々ながらもなんとか務め上げている。

 故に、成り行きとはいえ、名高い貴族(ニアール)の家系として碌に働きもせず、悠々自適に暮らしているマリアのプライベートの悩みを聞くなど、悪態の一つもつきたくなるというもの。

 相変わらず雨音や街の生活音に紛れそうなほど生気のない声色の中に、どこか鋭さを込めて口を挟んだプラチナだったが、ヴィタはそれを雨傘を刺していない方の手で軽く制した。

「まあまあ……そんな刺々しい言い方はやめよう?それに、最近のニアール家って家具を売り払っちゃうくらい超〜貧乏らしいし、首席騎士がいないせいで貴族位も剥奪されかかってるわけでしょ?だからマリアちゃんだって、えっと……きっと凄く大変なんだよ!」

「うぅ……ヴィタちゃん。擁護してくれるのは嬉しいんだけど、人前でそんなに大声で貧乏とか剥奪とか言われるとちょっと傷つくよ……最近、家の中は確かに少し寂しいけど……」

 へにょ、とマリアの両耳がしおれるように垂れる。

 実際、ここ数年の彼女の家の近況はあまりよろしくはなかった。

 その家名はカジミエーシュの近代史に何度も登場するほど古くから栄光を手にして来たニアール家だが、今世間で最もホットな話題は「ニアール家、貴族位の剥奪の危機!?家具さえ手放すほどの経済状況!?」だろう。

 こんな尾鰭の付いた記事が書かれるまでに至った理由の一因は、現在のニアール家に合法的な騎士号を持つ首席騎士が不在なためだ。

 マリア本人はもう長らく剣を振っておらず、姉のマーガレットこと「耀騎士」は6年前のメジャーで優勝したは良いものの、感染者であることを隠蔽していたとして国外追放。父方の叔父にあたるムリナールも会社勤めで騎士協会と関わろうとしない……という状況である。

 故に、現在のニアール家に“まとも”な騎士は不在という扱いになり「5年以内に合法的な騎士号を所有する新たな首席騎士が現れない場合、ニアール一族の貴族としての身分を剥奪する」という判決を、国民院から下されてしまっていた。

 期限から逆算して、今期の騎士競技のメジャーで好成績を残せなければ、ニアール家の栄光の歴史に斜陽が訪れることになる──少なくとも、末娘のマリアはそう考えていた。

「ありゃりゃ、そうなの?なら、もちろんマリアちゃんの言うことが正解なんだろうけど、もうネットじゃすっかりそんな扱いだよ?例えば“ザ・レッドワイン”ってとこの記事とか〜」

 手元の端末を操作して「ほらこれ〜」とマリアに件の記事を見せつけているヴィタに、プラチナは『(コイツ、普段からあんなの読んでるわけ?)』と内心毒づく。

 飽きもせず下手な創作じみたゴシップ記事ばかり書いているというのに、レッドワインは相変わらず大企業のままだ。

 プラチナは雨傘を傾け、ぼんやりと視線を上にやった。

 その暗殺者としての優秀な視力を持ってしても頂の見えないビル群は、まるで巨大な樹木のようだ。

 その樹木は幾重にも分かれた枝が夜空を覆い尽くし、今にも夜空に浮かぶ月すら飲み込んでしまいそうになっているようにも見えるし、逆にあの月から真っ黒な樹木の根が地上に伸びて来ているようにも見えた。

「お〜い!いきなり立ち止まってどうしたの?お腹でも痛いの〜?」

 視線を下せば、ヴィタは少し行った先で不思議そうな顔をしてプラチナを呼びかけていた。

 幸いなことに、見知らぬ者の体調が悪そうなくらいでは、エンターテイメントの飽食を極めたカヴァレリエルキ市民の興味を引くことはない。

 しかし、かくも有名な大騎士が大通りで叫んでいるのなら、それは内容問わず人々の関心を寄せる要因となる。

 現に、雨音と雨傘のベールに包まれていたヴィタの一文字の騎士号を市民の誰かが小声で呟くと、道ゆく市民の何人かがピタリと足を止め、傘越しに覗き込むようにして彼女を見つめ出している。

 次第にその騒めきは大きくなり、その名前がハッキリと聞こえるようになっていく。

 無冑盟のプラチナを知る人物は限られているとはいえ、不用意に人目を惹くのは暗殺者の「一見普通の市民」という武器を捨てる行為だ。将来的な失態に繋がりかねない。

 ヴィタの呼びかけに答えるか否か一瞬迷ったプラチナだったが、結局軽くため息だけ吐いて歩みを進めた。

『(ああもう、やっぱり帰った方が良かったか……)』

 プラチナは気だるげな顔を雨傘で隠しながら、直ぐにこの場を離れるべきだと結論付けた。

 黒く冷たい夜雨は未だ止みそうになく、その瞳に映るのは無数の雨傘と聳え立つ塔のみ。

 

 

 

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 三人が人混みを抜けるようにしてゴールドフェザー街道の奥まで進めば、次第に周囲の人影も少なくなり、目的地の騎士競技バー「テラーマーティン」に辿り着いた頃には、大通りの喧騒も遠いものとなっていた。

 そもそも、雨降る夜にわざわざ出歩く人はそう多くないだろう。

 ましてや、稼ぎの少ない寂れたバーに律儀に予約を入れている者などマリアくらいのものだ。

「このカクテル美味しい〜〜!マーティンさん、これってどんなレシピなの?」

 そのマリアに連れられて「テラーマーティン」を訪れたヴィタは、今どき珍しいアンティークなカウンターに腰掛けて、幾つかのスナックと黄色いカクテルに舌鼓を打っていた。

「それは柑橘系のジュース3つを氷とソーダ水で割ったもの……要はノンアルコールカクテルだね。君はお酒が苦手だっただろうから、これなら雰囲気だけでも楽しめるだろうと思ってね」

「え、ノンアルコールだったんだ……」

 禿頭に眼帯、左腕の機械仕掛けの義手と何とも個性的な風貌をしたマスターのマーティンにカウンター越しにそう言われたヴィタは、自身が遂にお酒が飲めるようになった訳ではない事実を知って少し落ち込んだ。

「……もうちょっと、あとネジ一本!あっ待って、接触不良の原因が分かった気がする──」

「早くしろ!このジュークボックス重いんだよ、これ以上は持ち上げてられねえ──!」

 バーの片隅では、今日このバーにヴィオラを呼んだ当事者のマリアと、その師匠にあたる鍛治職人のコーヴァルがウルサス人特有の白い丸太のような剛腕を小刻みに震わせながら、比較的小さいジュークボックスを持ち上げていた。

 そもそも、今回マリアが久しぶりに友人のヴィタと会う事にしたのは、自身が騎士競技に参加したことについて相談をするためだ。

 本来ならバーに着いて直ぐにその話題を切り出すつもりだったのだが、バーにあった壊れたジュークボックスを視界に納めたマリアは職人の本能が疼いてしまい、ヴィタとプラチナには、そんなに時間はかからないから、とジュークボックスを修理し終わるまで待って貰っていた。

 ある日、たまたま同じ工房を訪れていたヴィタとマリアが同じく装備を拵えるのが好きなこと、何より同じ大騎士の姉を持つことが決め手となって意気投合してから1年あまり。

 特にマリアは周りに同年代の友達がいなかったので、二人は度々会っては装備のアドバイスを出し合ったりしていた。

 その間に、ヴィタはマリアの人となりを理解していたため、音の鳴らないジュークボックスを見たマリアが妙にそわそわしているのを察して、「私のことは良いから、先に直してきなよ!」と、明るく笑いながら促したのだった。

『(……さて、()()()()だったかな)』

 一方、プラチナはヴィタや他の客から離れたソファに一人で腰掛け「棘の涙」をゆっくりと舐めるように飲んでいた。

 本人に特に気取ったつもりはないのだろうが、白髪の華奢なクランタの少女が沈黙を貫きながらヴィンテージなソファで足を組み、グラスを傾けているというのは中々艶やかな雰囲気のある光景だ。

 そもそも、プラチナがヴィタ経由でマリアと知り合ったのは割と最近のこと。この寂れたバーを訪れたのは今夜が初めてだ。元よりヴィタの付き添いで半ば無理矢理連行されて来たプラチナとしては、バーの客がどこで何をしようとそこまで興味がなかったのだが、カウンターから少し離れたソファからバーの客をよく観察するうち、そうもいかないことに気づいた。

「ふぅむ……考えすぎかのう」

 バーのマスターやウルサス人の工匠から、フォーと呼ばれているらしいクランタの老騎士。

 どうにもそいつの疑るような、探るような鋭い視線が気にかかる。

 十中八九、この老騎士は無冑盟のプラチナの過去の痕跡を知っているのだ。今は他人のそら似だろうと思い止まっているから、明確にその名を出していないだけで。

 プラチナは無表情を装いつつ目を伏せ、内心で冷静に過去の記憶を辿る。

 恐らく、過去に自分か無冑盟の仲間が殺した騎士の身内か知り合いだろう……事前にこのバーに来ると分かっていたら、身元や経歴を調べる余裕もあっただろうが、ついその場の流れに任せてしまった自らの軽率な判断が仇となった。

『(ちっ、ツイてないな……)』

 プラチナは内心で呻いた。

 こうなってはもう仕方がない。最悪の事態に備え、プラチナが店の出口までの距離を頭の中で測り始めたとき、おもむろにカウンターから立ち上がる人物が一人。

「あれ?スナックとか食べないの?飲み物だけなんて、遠慮しなくてもいいのに〜」

「……別に、今日はこれだけでいい。そんな気分じゃないから。あと隣に座らないで貰える?」

 グラスを持ちながらソファの隣に座って来たヴィタに背を向けて視線を外したプラチナだったが、向こうは気にする様子もなくこちらを観察しているのが気配で分かる。

 プラチナが肩越しにちらりと視線を投げかけても、悪びれることなく笑顔を返してくるだけだった。

「でも、なんか落ち込んでそうに見えるよ?やっぱり、お仕事が大変だから──あっ!」

 その瞬間、何気なく差し出されたヴィオラの手の中から、一輪の真っ赤なカメリアの花が()()()

 流石のプラチナも目の前の突拍子もない現象にほんの一瞬だけ目を見開いたものの、アーツではなく一般的な手品の類いだろうと分析すると、即座に冷静さを取り戻し、呟くように冷たく言う。

「……何のつもり?」

「えっと、あはは……昔のクセで……まあほら!こういうのを見ると、少しは気分が晴れるんじゃない?だからそんな顔しないでよ。ねっ?」

 ヴィタは快活な笑顔を浮かべながら手元の枝葉の付いた真っ赤なカメリアの花をヒラヒラと揺らし、それをプラチナの鼻先に突き出した。

 ますます表情を曇らせたプラチナは、ヴィタの手元からカメリアを素早く奪い取ると、

「あぁ〜!?」

 ばきっ、と真っ赤なカメリアを片手の指先で真っ二つにへし折った。

 真っ赤な花弁を散らし、受け取り拒否されたカメリアはバーの床に無造作に捨てられる。

 ヴィタが慌てて拾おうと手を伸ばした花を、プラチナはさらに足先で払うように軽く蹴飛ばした。

「それ、あんたが片付けなよ」

 ふん、とそっぽを向いたプラチナは再びグラスに口を付けた。

 ヴィタは床に膝をつき、ぼろぼろに折れ曲がったカメリアを指先で摘み上げ、まるでおもちゃを壊された子供のように嘆く。

 プラチナはそんな彼女を尻目に、今一度カウンターに座っているフォーと呼ばれているらしい老騎士に視線を移す。

 相変わらず老騎士はこちらを伺っているような素振りではあったが、幾らか鈍らになった視線は既にヴィタの方に移っているようだった。

「……あれが、騎士の中の騎士などと持て囃されているとはのう。全く嫌な時代になったもんじゃ」

「……いい加減あんたも認めてあげたらどうだい?もちろん、私も最初はマリアが耀騎士の妹だから目を付けられたのかと思ったけどね。それに、あの子の実力は確かだよ」

 床に散らばった花びらをしくしくと泣きながら拾い集めているヴィタを不愉快そうに一瞥して悪態を吐くフォーを、マーティンが機械音のする義手でグラスを拭きながら諌める。

 だが、この老騎士は理詰めで大人しく引き下がるタイプではないらしく、先程から浴びるように酒を飲んだ結果だいぶ酔いが回っているというのもあるだろうが、ますます憤慨した。

「はっ!腕っぷしだけで騎士を名乗れるなら、そこらの駄獣は皆騎士になれるじゃろうて!」

 相変わらず粗暴な物言いのフォーだが、全くの妄言というわけではない。

 本当に駄獣が騎士になれるかはともかくとしても、現在のカジミエーシュであれば競技場に躍り出て大衆の注目を惹くだけで騎士を名乗ることが出来てしまう。

 そもそも、単に実力があって良い成績を収めれば、例え黙っていようが性格が醜悪だろうが注目の的になる。それどころか、顔立ちやスタイルが良ければアイドルとして競技場で愛想を振り撒くだけでも騎士であるとされる。

 そういう時代になったのだ、と殆どの人々は現状を疑うことすらしない。

 だが、かつてのカジミエーシュの騎士の栄光を知る者たちからすれば、血を流して倒れ伏した騎士を対戦相手の騎士が執拗に嬲る、華美な衣装に身を包んだ騎士がろくに戦いもせずファンサービスに勤しむ、合間合間に挟まれる企業CMと粗悪な物販に平然と行われる賭博行為、それを娯楽として享受する市民たちが集う競技場など、騎士の栄光に泥を塗りたくる場所以外の何物でもないのだ。

「駄獣だと?俺の悪口を言ってるのは誰だ?」

「曲解するでないわ!お主も遂に耳が弱ったようじゃのう!」

 ジュークボックスを両腕で持ったまま、コーヴァルはゴーグル越しにフォーを睨みつけた。

「コーヴァル師匠!?き、気をつけて、あんまり動かさないで!」

 危うくコーヴァルの腕をすり抜け、木目の床に穴を開けそうになったジュークボックスだが、慌ててマリアがそれを抱くようにして支え直す。

 一方、ヴィタはというと折れ曲がったカメリアを服の裾にいそいそと仕舞い込み、未だ無愛想な表情をしたままのプラチナの隣にまた懲りもせず腰掛けようとしたが、

「はあ、花を蹴り飛ばすなんて酷いよ〜……って、コーヴァルさん大丈夫?それは私が持つから、少し休んでた方が良いんじゃない?またギックリ腰になっちゃったら大変だよ!」

 と、足取り軽く二人の元に近づき、ジュークボックスに手をかけると、軽々とそれを持ち上げてみせた。

 コーヴァルの白い体毛の生えた丸太のような剛腕に比べれば、ヴィタの腕は細い小枝のようなもの。

 ジュークボックスなど持ち上げれば立ち所に折れてしまいそうに見えるが、現実としてジュークボックスは浮かび上がっている。

 ジュークボックスを持つヴィタ自身も、重さに耐えかねて顔色が真っ青になったりすることはなく、むしろグラスを持っていたときと何ら変わらない涼しげな表情を保っていた。

「おお、すまねえな嬢ちゃん……って、俺がギックリ腰だと!」

「うわぁ!?ち、近くで叫ばないでよ!私の角には音を拾う効果があるんだから!それにだって、コーヴァルさんこの前──」

 まるで点火された源石エンジンのように吼えるコーヴァルに、ヴィタはジュークボックスを持ち上げたまま毅然とした態度で食ってかかる。

 子供じみた言い争いを始めた二人に挟まれる形となったマリアは修理の手を止めると、ゆっくりと二人の様子を伺うようにジュークボックスの中から顔を覗かせ、嘆息して言う。

「あの、二人とも少し静かにしてくれない……?」

 その時だった。

 火薬の爆発めいた轟音と共に、バーの入り口のスイングドアが吹き飛んだのは。

 完全に蝶番から外れ、バーの壁に転がるただの木端となってしまったスイングドアはどうあっても使いものにならないだろう。

 こうなる事を想定して入り口を自動ドアに替えていなかったマーティンは、自らの選択は賢明なものだったと半ば悟りのようなものを感じた。

「──マリア!!」

「ひゃいっ!?」

 マリアはその聞き馴染みのある声に、驚いて身を竦める。

 たった今派手な入店を果たしたのは、マリアと同じような金髪をしたクランタの女性。年齢こそマリアより年上のようだが、どこか似通った顔立ちの彼女こそ──「鞭刃」騎士(ウィスラッシュ)ゾフィア。

 もちろん他人の空似などではなく、マリアから見ておばにあたる人物、つまるところ親戚だ。

 そんな彼女は嵐のような剣幕でバーに怒鳴り込んでくるや否や、店内を見回し、そしてマリアの姿を見つけると不意に態度を変え、にこやかな微笑みを浮かべてゆっくりと歩んでくる。

「ヴィ、ヴィタちゃん!それ、そのジュースボックス今すぐ下ろして!!」

「え??確かに少しびっくりしたけど、あの人って、マリアちゃんのおばさ──」

「お願いだから早く──!」

 マリアの必死の懇願に言いくるめられたらしいヴィタは、訳も分からずといった表情のまま、緩慢な動作でジュークボックスを床に下ろす。

 その直後、マリアはその床に置かれた小さなジュークボックスの背後に素早く回り込むと、しゃがみ込んで手足を丸めて身を隠そうとした。

「え!?ちょ、ちょっと!なんでヴィタちゃんまでここに隠れるの……!?」

「えーっと、一応隠れた方がいい気がして……」

 ヴィタはジュースボックスの背後に滑り込み、眉を八の字にした。

 隠れているとはいえ、二人が隠れているのはかなり小さなタイプのジュークボックス。正面から見れば、黄金色の耳と少し黒ずんだ双角が生えた珍妙な装飾が付いているようになってしまっている。

 当然、それを見逃すほどゾフィアの目は悪くない。

 充分とはいえない装備と鞭刃を片手に、騎士競技の特別選手権でベスト16に入賞した実績を持つゾフィアの目の良さは、全盛期を過ぎた現在でさえも当時と何ら違わない鋭さを宿していた。

「コーヴァル?」

 ゾフィアは額に青筋を立てながら、ジュークボックスの近くで我関せずと言わんばかりに立ち尽くしているコーヴァルに笑顔で声をかけた。

「ゴホンッ──フォー!酒でも飲もうぜ!あんたの辛気臭い面を今日こそ酔い潰してやる」

 コーヴァルはわざとらしい口調でそう言い、フォーやマーティンのいるカウンターの方に早足で避難する。

 そして、その先で老人たちは「腰抜けめ」だの「じゃああんたはどうしてマリアを助けにいかないんだい?」などと、ゾフィアに聞こえないような小声で言い合い出した。

「はぁ……あら?他にも誰か居た気がしたけど……」

 ゾフィアは訝しげな表情でジュークボックスの方を見やった。

 彼女が先程店内に入ったときには、マリアの近くにはコーヴァルの他にもう一つ人影が見えた気がしたのだが、目の前のジュークボックスからは両耳を覗かせている姪の他に、現実として近くには()()()()()

 少し離れたソファでは、このバーでは見慣れない白髪のクランタの少女が奇妙なものを見るような目つきでグラスを傾けている。

 そのため、ゾフィアは先程の人影も含め、今日は普段よりバーを訪れる客が多いのかと思い、これ以上マーティンの店の迷惑にならないようにとマリアを家まで連行して、無断で騎士競技に参加したことについて叱りつけるつもりだった。

「……マ、リ、ア?どうして隠れてるの?早くそこから出てきな──」

 ゾフィア自身、多少引っかかるところは感じながらも、先程見た人影については照明のチラつきか何かだったのだろうと自身を納得させる。

 そして、ゾフィアはジュークボックスの背後に隠れた姪の耳に手を伸ばす。そのまま、引き摺り出すついでに耳をつねり上げでもして、少し灸を据えようかと考えた瞬間、伸ばした手の先が何かに阻まれるように途中で停止した。

 誤ってジュークボックスに手が触れたわけではなく、ゾフィアは姪の耳に手を伸ばす途中で、どういうわけか何もない空中に何か手応えを感じたのだ。

「……え?」

 一瞬、思考が空白になったゾフィアだったが、今の手応えが現実のものか確かめるように、存在しない何かを握ろうとする。

 今度はハッキリと感触が返ってきた。

 そもそも、よく見れば本当にそこに何も存在しないわけではない。店内の照明が暗いせいで見えにくかったが、少し目を凝らしてみればうっすらと黒い霧のような輪郭を持つ何かがある。

 枝のように細く、尖っていて、それでいて硬く滑らかな感触のこれは──

「あ、あの〜。私の角って、そんなずっと撫でたくなるくらい触り心地が良いの?」

「ひゃっ!?」

 もし、この大地に赤色や緑色などと同じく“透明色”という塗料があったとして。その透明色の塗料のコーティングが雨に溶けて洗い流されるかのように、ゾフィアの手の中にエラフィアの見事な角が音もなく現れる。

 ゾフィアはたたらを踏んでヴィタの角から手を離した。

「まあ、わざとじゃないのは分かってるけど、触りたいならちゃんと私の許可取ってからにしてよね〜。私の角を無断で触っていい人なんて、この世でたった一人しかいないんだから」

「は、はぁ?ちょっと君、一体どこの誰……って、まさか──」

 ジュークボックスの背後から少し表情を曇らせながら出てきたヴィタの顔を視認したゾフィアは、呆気に取られたままその大騎士号を呟く。

「『月』騎士……?」

 鞭刃騎士の姿を今一度目にしたヴィタは、先程までのちゃらんぽらんな言動が嘘であったかのように唐突に落ち着き払うと、姉と同じような優雅な所作で深々とお辞儀をした。

「初めまして。あの鞭刃騎士に騎士号を認知されているなんて、私としても光栄の至りです。以後、お見知り置きを……なんちゃって。早速で悪いんだけど、私もマリアちゃんみたいに“ゾフィアおばさん”って呼んでいい?」

 

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