カレンデュラに余光が続くなら   作:エンプティネス

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二話

 

『月騎士』ヴィタ・ドロステ。

 カジミエーシュでその名を耳にしたとき、多くの人々がまず思い浮かべることは、彼女が「燭騎士」ヴィヴィアナの実妹で、姉とはまた別の方向性で人気を博している“大騎士”であることだろう。

 競技騎士の二つ名たる騎士号は基本的に二文字で表されるものだが、競技騎士の中でも歴代のメジャー優勝者やそれに並び立つトップクラスの実力を持つ競技騎士にのみ、一文字の騎士号が与えられる。

 そんな一文字の騎士号を持つ実力派の競技騎士こそが“大騎士”だ。

 そのため、姉妹が揃って“大騎士”というのはカジミエーシュ騎士競技の歴史においても非常に稀なケースであることは言うまでもない。

 「血騎士」の優勝で幕を下ろした前回のメジャーでは、姉妹はそれぞれ3位と4位の好成績を収めながらも、終ぞトーナメントで対決することなく敗退したために、世間では「今回のメジャーで遂に公式戦初の直接対決が描かれるのではないか?」とか「真逆の剣術を用いる姉妹対決を制し、第二の黒騎士となるのはどちらか?」などと記事に取り上げられたこともある。

この辺りが、一般のカジミエーシュ国民が知り得る『月騎士』のイメージだろう。

 さらに、ヴィタはカジミエーシュ国内における「源石(オリジニウム)応用生命科学研究」の分野の最前線で活躍する"研究者"でもある。

 しかし、一般的に競技騎士というのはスポンサーたる企業のバックアップを受けて活動するものだ。故に、人気の高い競技騎士は単に競技場で試合をするだけでなく、CMの出演やインタビュー、テレビ番組出演などの仕事に忙殺されることになる。それが数多の競技騎士の頂に座す“大騎士”であれば、その人気っぷりは国内に留まらず、他国の貴族が主催する社交場に招待されることさえある。

 もちろん、背後に付いている企業が貴族なんかと商業契約を結ぶためのご機嫌取りとして。

 そんな苦労がある中で、ヴィタが競技騎士としての活動と源石(オリジニウム)研究の両方を続けていられるのは、姉のヴィヴィアナが競技騎士として広告出演やリターニア貴族との食事会など、最高人気騎士賞に何度もノミネートされた大スターらしい多忙な日々を送っているのに対して、そもそも妹のヴィタにはあまりその手の仕事が回ってこないからだ。

 理由としては、同じノヴァ騎士団に所属している二人を比較した際に、言動に難のある(ヴィタ)よりも淑やかな姉(ヴィヴィアナ)を起用した方が色々と手堅いから──という事情もないわけではないのだが、やはり一番の理由はカジミエーシュの医療関係の企業の中で、彼女の研究実績は非常に大きなものだからだろう。

 もっと俗な言い方をすれば、ヴィタの手がける「源石(オリジニウム)応用生命科学研究」は企業にとって非常に金になるのである。

 体内の循環器系源石顆粒に作用し、鉱石病(オリパシー)の諸症状を抑制するばかりか、健常者と同程度の機能を取り戻すことさえ可能な「解鉱剤」の研究は、ヴィタの最も偉大な功績だ。

 その他にも、ヴィタは研究の過程で源石(オリジニウム)を用いた高精度な遺伝子組み換え技術の開発も行っているのだが、あろうことか彼女はそれらの特許をライセンス契約付きの二足三文で企業に売却してしまっていた。

 「解鉱剤」を元に生産された様々な高貴薬は、国内外問わず飛ぶような勢いで売れる。

 「解鉱剤」の効果は絶大だ。毎日定期的な血管注射を行うだけで、鉱石病(オリパシー)が原因の体力の低下、身体の麻痺、解離性障害などの諸症状の悉くを何の苦痛もなく改善させる。

 だが、これはあくまでも鉱石病(オリパシー)の諸症状を“一時的に”改善する薬でしかない。

 即ち、鉱石病(オリパシー)の症状が改善された状態を維持し続けるには、徐々に感染が進み、やがて死を迎え自身が粉塵となるまで毎日延々とこの薬を投与する必要があるわけで、この大地に鉱石病(オリパシー)患者がいる限り──例え企業がいくら売値を吊り上げたとしても、決して需要は失われない。

 企業からすれば、ヴィタの源石(オリジニウム)研究はまさに無限の金の卵を産む羽獣なのだ。

 問題は、その権利をどの企業が購入出来るかはヴィタの気まぐれだということ。

 目が飛び出るような大金も、既に充分な収入を得ている競技騎士の大スターの前では大した意味をなさないために、彼女のスポンサー企業は彼女の研究の妨げや、無礼を働いて研究成果の売却取引自体が御破産にならないよう、企業側が競技騎士に忖度するという通常の競技騎士と企業の関係とは真逆の付き合い方をしていた。

 もっとも、金の卵を産む羽獣を簡単に手放してしまう愚かな研究者など、適当に恩を売って成果物だけを買い叩けばいいと思われているだけなのかも知れないが。

「……まあ、私の研究は半分趣味みたいなもんだから、別に買い叩かれてもいいんだけどね」

「……恥ずかしげもなく、よくそんな自慢話が出来るわね……私に言えた義理でもないけど。ねぇちょっと!座ってくれないかしら、邪魔なんだけど!」

 MCの紹介に捕捉するように自身のプロフィールを語ったヴィタの軽口を聞き流しつつ、その隣に座るゾフィアは興奮した様子で口笛を吹き鳴らす前の席の観客に声を荒らげた。

 ここは高性能(ポンコツ)かつ革新的な(使いものにならない)鎧や兜などの製品を提供するロアーガード社が全面サポートするロアー競技場で、既に数えきれないほど押し寄せた観客たちが凄まじい熱狂ぶりを見せている。

 ゾフィアがあのバーでマリアに正面切って騎士競技に出場したいと懇願されてから、早一ヶ月。

 あの場ではマーティンを始めとした周囲の助言とマリアの純粋な熱量に押され、単に鍛えるというよりかは騎士競技の過酷さを分からせ、諦めさせる目的で彼女の教官を引き受けたゾフィアだったが、マリアも生半可な闘志で騎士競技の道を歩もうとしていたわけではなかったらしく、ゾフィアが組んだ地獄のような訓練メニューに、マリアはこの一ヶ月間耐え切ってみせた。

 結局、ゾフィアは条件付きでマリアの騎士競技参加を認めた。誰に似たのか普段の前向きさを決して崩さないマリアの前に、さしものゾフィアも折れざるを得なかったのだ。

「──さあ皆様!"月"騎士と"鞭刃"騎士の『観客席サプライズ』も済んだところで、そろそろ本日の主役たちに入場いただきましょう!一秒たりとも目を逸らさず、とくとご覧あれ!」

 実況席ではロアー競技場のMCこと、大口叩きの(ビッグマウス)モーブが相棒のマイクを握りしめて更に会場の熱気を煽る。

 騎士競技にMCによる実況が付くというのは、今に始まったことではない。

 そのため、競技場には彼以外にも複数のMCが雇われており、単にトークが上手い以外にも企業の役に立つ様々な“優秀さ”があるものだが、早い話がルール無用の殺し合いでしかない騎士競技を上手くエンタメとして落とし込むということに関しては、ビッグマウスモーブ以上のMCは存在しないだろう。たまに口を滑らせることはあるが。

 ゾフィアは競技場全体に鋭い目を向ける。

 自身の現役時代よりも観客の空気感が圧倒的なものに感じるのは、単に競技場を訪れるのが久しぶりだからか。はたまた、カヴァレリエルキという都市が更に企業の思うがままに動くようになったためか。

 いずれにせよ、観客席に座るゾフィアには舞台に立つマリアがこの空気に飲まれないよう祈ることしか出来ない。

「──あの衝撃的なデビュー戦から早一ヶ月……ロアー競技場ナンバーワンの美貌を持ち、伝説の姉妹の一人でもありますニアール家最年少の競技騎士!マ──リ──ア──、ニア──ル!!」

 巨大なスピーカーを通してビッグマウスモーブのコールが競技場に響き渡ると共に、観客席からも波濤のような歓声が巻き起こる。

 ヴィタも周囲に負けじと口元に手を添えると、良く通る軽い声で歓声を飛ばした。

「マ〜リアちゃ〜ん!が〜んば〜って〜!!」

「ちょっと、君までマリアに変なプレッシャーかけないで!そもそも、なんでしれっと私の隣で観戦してるのよ!」

「まあまあ、お互いマリアちゃんの応援に来てるわけでしょ?だったら、一緒に観戦してた方がきっとマリアちゃんも心強いはずだよ〜。ね?だから良いでしょ?おばさん!」

「〜〜〜〜〜〜!!」

 “おばさん”という単語に身体を震わせながら言葉にならない呻きをあげるゾフィア。

 確かに、マリアから見てゾフィアは親切で頼りになる叔母(おば)だ。そんな叔母のことを、マリアは純粋な親しみを込めておばさん、おばさん、と常に呼称している。

 故に、一年あまりマリアと友達として付き合う中で、その愛称を目の前で聞いていたヴィタにも、おばさん呼びが伝染していた。

 本人としては、マリアとはそれほど年齢が離れていないのにも関わらず“ゾフィアおばさん“などと呼称されるのは本意ではない。実際、目の前で“おばさん”と呼ばれれば、必ず注意するほど気にしている。

 だが、つい一ヶ月前までヴィタとマリアの交友関係はゾフィアの知るところではなかったため、その呼称は誰にも咎められなかったのである。

 自身が口を滑らせたことを悟ったヴィタはバツが悪そうにこっそり舌を出すと、隣のゾフィアから競技場の方に意識を向けた。

 数ヶ月後に本戦を控えるメジャーの予選試合が行われる今日のロアー競技場は、比較的スタンダードな舞台と言える。

 悲鳴と歓声がこだまする競技場上部のモニターには、マリアの名前とその対戦相手たる「合成樹脂(プラスティック)」シェブチックが所属するロアー騎士団の輝くようなロゴが表示され、ほどほどの広さの舞台には高低差のある人工地形に加えて、炎と氷のトラップが備えられている。

 いざ試合が始まれば、観客の手によってエレンズチョイステクノロジー社のドローンがそこかしこから飛び交い、炭酸飲料や駄菓子──果ては爆薬や薬物までもが舞台に立つ騎士の元に提供されるだろう。

 ヴィタは視線を落とし、懐の試薬の入った試験管にそっと触れた。

 今回の試合形式は一対一の総合競技。

 つまるところ、古くからの騎士の伝統に則った“決闘”だ。良く言えば騎士らしい正々堂々と実力を競う試合形式だが、悪く言えば終始強者が弱者を蹂躙するだけの逆転の可能性がない試合形式でもある。

 単純な実力のみで比較すれば、マリアとシェブチックのどちらが勝利するかなど明白だ。

 たった一ヶ月程度訓練しただけの若い熱血騎士と、長年ロアーガード社の競技騎士をひたすら勤め上げてきたベテラン騎士とが本気で戦えば、まず間違いなく後者が勝つ。確かに例外的にマリアの姉の「耀騎士」のような卓越した才能でそれを覆す者はいるし、マリアにも光るものはある。 

 さながら、マリアは騎士の原石なのだろう。

 だが、どんなに素晴らしい原石も磨かなければ輝けないのと同様に、今の彼女には結果を覆すだけの確かな経験が伴っていない。とはいえ、それは必ずしも今回の試合がマリアの敗北に終わるのと同義というわけでもない。

 ヴィタが再び競技場の方へと視線を向ければ、MCの軽口とセールストークが途切れることのない波のように打ち寄せる中、マリアが一歩、また一歩と足元を確かめるかのようにやや俯きながら舞台に上がっていた。

 一方、ロアーガード社製の近未来的なブルーのアーマーを身に纏って競技場に現れたシェブチックは、舞台の前で足を止めて観客席の方を軽く眺めている。無機質なフルフェイスの兜の上からその表情を伺うことは出来ないものの、嵐の前のような静かな余裕が漂っていた。

 「……ま、マリアちゃんには必要ないか」

 ヴィタは座席に体重を預けて、呟く。

 競技場の天井を見上げれば、ケースを吊り下げた一機のドローンが眼前に飛来する。

 ヴィタは、端末で予め注文していた星模様の果物味のジュースをドローンから受け取ると、軽く振ってから口をつけた。

 

 

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 人工地形によって形成された壁を蹴って身を翻した「合成樹脂(プラスティック)」シェブチックは、風雨に晒された石像の如き無表情をフルフェイスの兜の下に隠して引き金を引く。

 正確に狙い澄まされた煙の尾を引いた矢はしかし、マリアの美しい黄金色の髪の間を突き抜けるだけに留まった。

 試合開始から既に数十分が経過した現在、マリアはシェブチックに完全に押さえ込まれていた。

 「合成樹脂(プラスティック)」シェブチックが使用する武器の照準器(スコープ)付きライフル型ボウガンは中距離から遠距離の精密射撃向きの武器だ。自身が有利になる一定の距離を保ちつつ、射撃時は接近して着実に鎧や盾に傷を付けていくシェブチックの戦い方は派手さこそないものの、対峙するマリアの肉体には目には見えないダメージを着実に蓄積していっている。現に、シェブチックによる正確な射撃を捌き続けたマリアは、既に体力の殆どを消耗してしまっていた。

 それでも、マリアが旋風のごときシェブチックの射撃に晒され続けて僅かな擦り傷と体力の消耗程度で済んでいるのは、偏にシェブチックがこの試合を引き延ばすよう手を抜いているからに他ならない。

 まだ二回しか騎士競技の出場経験のない新米で、どの企業からもスポンサードされていない独立騎士であるマリアとは異なり、「合成樹脂(プラスティック)」の騎士号を持ちロアーガード社の製品を装備して実際に騎士競技で使用する、というロアーガードの広告塔兼テスターを務めるシェブチックにとって、単に勝つだけというのは許されない。

 試合での勝利は大前提として、ロアーガード社の製品の実践での有用性を出来るだけ長く観客にアピールしなければならないのだ。

 それが、デザイン性を優先して排熱口を削った結果、熱暴走が頻発するようになり、その対策として導入された強制冷却システムがアーマーの機能を一時的に停止させるという、致命的な欠陥を抱えている商品だとしても。

 

 ──やはり、騎士競技向きではないな。

 

 シェブチックは随分と熱を帯びた自身のアーマーに内心で愚痴を溢した。

 確かに軽量な割に素晴らしい防御力だ。

 試合が始まってから既に何度かマリアの斬撃が当たっているが、ロアーガード社の新アーマー「Jack2」には傷一つ残っていない。その一方で、素材として用いられている可塑性に優れた人工ゲルは水分を含むため熱容量が高く、一度高温になると中々温度が下がらないという欠点がある。

 工業製品なら多少高温でも問題ないのだろうが、試合によっては一昼夜も続くこともある騎士競技で生身の騎士が着用するには、素材からして不向きなのだ。

 次の矢をボウガンに装填しつつ、シェブチックは数時間前の邂逅を思い返す。

 まだ観客の居ないほぼ無人の競技場の下見に来たシェブチックに、メジャー予選の「スタッフ」を称して現れた身なりの良いクランタの男。

 先月の時点で、ロアー騎士団の中でも上位に食い込めるだけの充分なポイントを稼いだにも関わらず、スポンサーから唐突に試合の出場を要求された時点で長年の経験的に多少は察するものがあった。

 だが、まさか一介の騎士でしかない「合成樹脂(プラスティック)」に、商業連合会の執行役たる「代弁者」が直接接触してくるとは。

 ロアーガードの宣伝執行部門からは、前金として昨年度のシェブチックの手取り総収入額の三倍の報酬を用意すると約束された。一試合の報酬としてはあまりにも破格の金額である。

 今更、シェブチックの一層の活躍が上に期待されるはずもない。

 そもそも、あの商業連合会の代弁者がロアーガードの新作アーマーを着て戦って欲しい、ということを伝えるためだけに直接接触してくるなどあり得ない。

 それを考えれば、奴らの目的は自分などではなく、その相手ということになる。

 どうやら、ニアール家にはこのまま没落して欲しいというのが商業連合会の意思らしい。

 故に、その渦中のニアールの末娘にシェブチックも多少は身構えていたのだが、

「──ゾフィアの訓練?耀騎士の妹?その触れ込みに期待してみればこの程度か……失望した」

 確かに目は良いようだ。筋も悪くない。しかし、あの耀騎士と比べれば数段劣る。こちらはアーマーの強制冷却システムが作動するたびに足を止めているというのに、その隙につけ入ろうともせず、防御に徹して盾の後ろに隠れているのでは話にならない。

 ──もし試合を引き延ばす必要がなければ、お前は即座に跪いて許しを乞い、試合はとっくに終わっていただろうな。

 何より本人の戦闘技術の未熟さもさることながら、騎士競技の本質を理解していないことがこの娘の一番の欠点だ。あの細い手足のすべてが矢に貫かれてようやく、審判が試合を止めるということも知らないのだろう。

「棄権しろ、そこまでする必要はない」

「わ、私は諦めない……!」

 あくまでシェブチックは善意で棄権する余地を()()()()()()のだが、マリアは赦しを乞うことも跪くこともなく、その金色の瞳で彼を睨み返すだけだった。

 逆転の目処もないというのに、ただ頑として意地を張って敗北を認めないというのは、相手が相手なら“どうぞ私を嬲り者にしてください”と言っているようなものだ。

 それすらも分からないこの娘には、やはりここで少し騎士競技の現実を教えてやる必要がある。

 シェブチックは改めてライフル型ボウガンを構え直すと、今度は正確にマリアの左腕に矢が直撃するように照準を合わせる。もうそろそろ、敢えてマリアが捌きやすい位置に射撃してやる必要もない時間だと分析し、そして容赦なくボウガンの引き金を引いた。

 冷淡な騎士に見えるシェブチックだが、マリアに棄権の余地を残した上で理性的に語りかけている分、まだ彼は競技騎士の中でも騎士道を重んじている方なのだ。

 

 

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 マリアは一陣の鋭い風のようなボウガンの射撃に晒されながらも、その金色の瞳の輝きと半歩も引かない姿勢には全くの変化がなかった。

 楕円形の円盾を持つ左腕は何度も矢をブロックし続けたために筋肉の震えが止まらず、盾を構えているだけで鈍痛が増していく。

 それでも、右手に掴み締めた剣は主が必殺の一撃を放つ瞬間を今か今かと待ち侘びているかのように、陽炎の如き微光を纏っていた。

 左、とマリアは直感した。

 直後、思った通りの位置に飛来した矢の軌道を円盾で遮るようにして何とか射撃を防ぐ。

 序盤こそ勘に任せて闇雲に射撃をブロックしていたが、今は目が伝達してくる情報と経験を元にした予測とも呼べるような正確な直感が働きだしている。

 問題は思考が研ぎ澄まされる反面、身体は段々と鈍くなっていくことだ。ゾフィアの特訓で養われた体力とマリアの持ち前の精神力は、まだ最後のスパートを働かせることが出来るくらいには保たれているが、先程よりも苛烈さを増していく射撃を凌ぎ続けていれば、いずれこちらから一手を放つ余裕すらなくなるだろう。

 そうなれば、マリアの思い描いた騎士道はここで途絶えることになる。実際には、この試合にマリアが敗れたとしてもメジャー予選期間中なら挽回の機会はいくらでもあるのだが──現状、マリア・ニアールという騎士道に諦観の文字はないのである。

 両足がまるで競技場の舞台に吸い付くように重くなろうとも、マリアは思考を止めない。

 止まったら、ダメだ。

 一ヶ月間、ゾフィアとの訓練では基本的な動きと体力作りがメインだった。誰が対戦相手となるか、無数に可能性のある中でいちいち対抗戦術を確立している余裕などないからだ。

 そもそも、マリア自身も果たして剣盾を執ることが果たして最適なのかすら分かっていない。

 剣盾は広い面を守れる盾と取り回しの良い片手剣が、様々な攻撃から使用者を守るが故に防御力は非常に高い。マリアのようなまだ足取りのおぼつかない初心者にはまさに最適の武器だろう。

 しかし、その代わりに攻撃のリーチと機動力が損なわれてしまう。

 味方がいる状況で前線を維持するために執るのであればともかく、優秀な脚力から生み出される機動力に優れた種族であるクランタが、単騎で用いるには少々不向きな武器だろう。

 ──騎士アーマー、「Jack2」?

 よく観察して、よく考える。

 嵐のような射撃に晒されるマリアの脳裏にふと飛来した疑問。先程からMCが何度も何度もロアーガード社の新製品として宣伝しているシェブチックのアーマーの名前。

 しょっちゅう工房の手伝いをしては自ら武器や防具を拵えることも出来るマリアは市場に出回っている装備にも知識があった。故に分かる、「Jack2」などというアーマーはロアーガード社の13の製品のどれとも該当しないということが。

「……攻撃の隙を伺っているのか?愚かな!」

 シェブチックの放った矢が烈風の如き速度でマリアの髪の間を突き抜ける。しかし、マリアは思考を止めず、一つの結論を導き出した。

 それと同時にマリアは徐に剣を仕舞うと、全身の筋肉を収縮させ、ほんの一瞬のうちに突撃してシェブチックとの距離を詰める。

 起伏のある人工地形や立ち上る炎や氷のトラップを難なく躱し、狙撃手の間合いを前衛の間合いまで肉薄する。対するシェブチックは動かない。

 せっかく狙撃手に有利な距離を保っていたというのに、距離の優位を捨てて敢えて自身を不利な状況に追い込む──当然、そこに何の考えもないわけがない。

 剣と盾相手に真っ向勝負を挑む狙撃手などいないからだ。

「逃がさない──!」

 マリアは喉の奥から声を上げ、シェブチックに手が届く距離まで全力で駆ける。対するシェブチックも素早くボウガンに矢をつがえ、弦を引き、マリアのある一点に照準を合わせる。

「誰が逃げると言った!?」

 互いが交錯する瞬間、超至近距離でシェブチックの放ったボウガンの矢はマリアの頬を掠め、胴体の横を通り過ぎて足元に着弾した。

 シェブチックの狙いは、丁度マリアの装備した剣の柄付近。剣を仕舞っているマリアが至近距離で一撃を与えるために再度剣を引き抜くとき、丁度左手が来る位置。

 シェブチックの思惑通りマリアが剣を抜いていたなら、マリアの左手はボウガンの矢に骨まで貫かれ、再起不能の傷を負っていただろう。

 対するマリアも剣に手をかけることなくシェブチックに肉薄し──そのまま、剣を握るはずの手でシェブチックの肩に手を置き、持ち前の優秀な脚力を合わせて空高く舞い上がり、そのままシェブチックの頭上をすり抜け、やや間合いを取った場所に着地する。

 騎士競技とは思えないアクロバティックな光景に、口煩いMCに加えて観客も一瞬困惑する中、マリアは肩に手を置いた時の感触で確信めいたものを感じ取っていた。

 低く唸る機会音、不自然な煙、そして何より燃えるように熱いボディ──ロアーガード社の製品は大体がポンコツ製品だ。見てくれは良くとも中身が見合っていないものが多く──マリアの狙いはそこにあった。

「──ボディが燃えるように熱いよ……シェブチックさん。ロアーガード社の新作アーマは排熱のことを考えてないの?」

 そんなマリアの問いに対してもシェブチックは律儀に何か答えたようだったが、正直言って自身の思考をまとめる時間稼ぎがしたかっただけのマリアにとって、思考のリソースを目の前のシェブチックに割いている暇はない。

 マリアは自身の知識を総動員してシェブチックのアーマー、「Jack2」を解析する。

 高性能で軽量なのはヴィクトリアの最高技術真似たから、他にもクルビアの源石強化骨格インナーに加えて諸々の技術を詰め込んだはずのアーマーがどうして熱暴走を?技術的な問題?いや、きっともっと単純な理由──デザイン性の重視だ。

 そうであるならばアーマーの限界はあと僅かのはずだが、生憎とマリアはシェブチックの規則正しい行動パターンに追いつけない。

 移動──射撃──移動──射撃……シェブチックの行動パターンはこれに尽きる。

 だが、機械のパーツを分けるように細かく分解すれば、その行動パターンは移動、“停止”、射撃、のループなのだ。

 では、何故“停止”を入れる必要があるのか──そこまで考えたところで、戦闘技術よりもメカニックの知識の詰まったマリアの頭脳はある“一手”に思い至り、即座に身体を動かした。

「……あまりにも愚かだ。スピードで勝る相手を追い続けるのは最も悪手だと、“ウィスラッシュ”からは教わっていないのか!?」

 シェブチックは苛立ちを露わにして叫ぶ。

 叫びながらも、鮮やかなステップで距離を取りつつ、振り返りながら脚を止めるまでのほんの一呼吸の間に矢をつがえる。

 連続のダッシュで疲弊し、ろくに動けなくなったマリアを幾重もの矢が貫く。

 それが、数秒後の未来となるはずだった。

『(今だ!)』

 マリアが突如としてアーツを使い、会場全体を強烈な閃光で満たさなければだが。

 直後、マリアは攻撃を加えることなく──ワンテンポ遅らせてから全力の一撃を振るう。一瞬の閃光で若干姿勢が崩れたシェブチックだったものの、咄嗟に取り出した手持ちのナイフでこれを難なく受け止める。

 しかし、全力の一撃を往なされたはずのマリアの表情には、先程までとは違う()()が浮かんでいて──

「シェブチックさん、強制冷却システムなんて、試合中に使う余裕はあるの?」

 非の打ち所のないシェブチックが製品テスターとなったが故に生まれた、唯一の隙。

 その隙にマリアが気付いた時点で、この試合の勝敗は決していたのだ。

 

 

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 結果から言えば、今日の試合はマリアの逆転勝利という結末を迎えた。

 強制冷却システムによってアーマーの機能が一時的に停止した隙を突き、肉薄したマリアの逆袈裟斬りによって──彼女の姉が、かつてメジャーで優勝した際に放ったものと同じ技で決着した。

 その晩、騎士競技バー「テラーマーティン」ではマリアの勝利を祝う、ささやかな?祝賀会が開かれていた。参加者は主役のマリアに、店主のマーティン、工匠のコーヴァルと老騎士フォー、「鞭刃(ウィスラッシュ)」騎士ゾフィア、そして「月」騎士ヴィタ。

 もちろん他にも客はいるが、いつもの顔ぶれが揃っていた。

「いやぁ、おめでとう嬢ちゃん!素晴らしい試合だったな。今の老いぼれたフォーより断然強いぞ!」

「そりゃ、わしより強いのは間違いないが──お主に言われる筋合いはないわ!」

「ああ!?」

 いつものように口を滑らせたコーヴァルにフォーが食ってかかる。そして何処からか酒樽を持ち出すと、その上で腕相撲の喧嘩を始めた。

「またすぐそうやって喧嘩する……他のお客さんに迷惑でしょ!?」

「あはは……」

 ゾフィアの叱責も聞かず、全力で腕相撲の勝負をする二人を見てマリアは苦笑する。腕っぷしの強さは互角のようで、二人とも腹の底から声を出して腕を震わせている。

「いい試合だったよ、お嬢さん。この一杯は君に捧げよう」

「そうそう!本当におめでとう!私も自分が勝ったときと同じくらい嬉しかったよ〜」

「あ……二人ともありがとう!」

 カウンター越しにマーティンが義手を鳴らしながら杯を掲げ、マリアの隣に座っていたヴィタは屈託のない笑顔を浮かべて、ノンアルコールカクテルを呷る。

 一息付いたヴィタは改めてマリアを見やる。

「やっぱりマリアちゃんは戦いのセンスがあるよ!よく見て、行動して、そして勝つ!あの二十分の試合でそこまで出来るなんてね〜」

「ああ、実に大したものだよ」

「そ、そんなことないよ!もし彼の装備が欠陥品じゃなかったら、全然打つ手がなかったかも知れないし……」

 もし、歴戦の競技騎士であるシェブチックがあの欠陥アーマーを来ていない状態で、なおかつ最初から全力だったら──マリアが勝利を収められていたかは怪しいものだ。

 とはいえ、そのハンデを背負っても誤魔化し誤魔化し勝ち続けて来たシェブチックに、結果論ではあるが勝利を収めた。それはマリアの潜在的なセンスと才能を確かに裏打ちするものと言っていいだろう。

「……マリア!!」

「はい!」

「自惚れるにはまだ早いわ!」

「は、はい!」

 ゾフィアが唐突に声を上げる。その張りのある声に、マリアの背筋が即座に真っ直ぐ伸び、頭の上の耳も直立する。

「これからは感情を意識的にコントロールすることを学ぶのよ。平常心を保つことだけじゃ足りないの。自省を繰り返し、常に冷静でいないと……自負や傲慢はね、自分の中にないと思えば思うほど危険なの。勝利がもたらす心境の変化は、自分ではなかなか気づけないものなのよ……そしてそこから来る油断が……君の警戒心を麻痺させてしまうんらから……」

 マリアの方に向き直り、真っ直ぐな瞳でゾフィアは言う。ただし、話を真剣に聞きながらもマリアは内心思うことがあり──

「わ、わかったよ!あの……おばさん?もしかして酔ってる?」

「酔ってらいわよ!あと、おばさんって呼ばらいれ……」

 そんな呂律が回らないゾフィアを見ながら、ヴィタはマリアに尋ねる。

「ありゃりゃ。確かマリアちゃんのおばさんって、お酒には強いんじゃなかったっけ?」

「うーん……でもおばさん、確かに今日はいつもより呑むペースが早かったような……」

「らから、二人ともおばさんって、呼ぶら……!」

 拳を作ってカウンターを強く叩くゾフィア。段々と発する言葉も喚きに変わってきており、今にも椅子から転げ落ちそうだった。

 マーティンがグラスを磨きながら言う。

「まあ、無理もないさ。初めて教官として大会に関わったんだ、相当気が張ってたんだろう。マリア、彼女をそこのソファに寝かせてやってくれるかい」

「あ……うん、ヴィタちゃん。おばさんの足の方を持ってくれる?」

「はいはーい。ゆっくり休んでね、ゾフィアおばさん〜」

「おばさんって、呼ぶらぁ……!!」

 尚も手足をバタつかせるゾフィアをマリアとヴィタの二人がかりでソファまで運んでいく。ソファに寝かせてもゾフィアは未だ何か呟き続けていたが、マリアが近くのブランケットをかけてあげると直ぐに寝息を立て始めた。

 因みに先程まで行われていたコーヴァルとフォーの腕相撲は水道管の修理で鍛えていたコーヴァルの勝利で終わったらしく、二人ともゾフィアと入れ替わる形でカウンターに着いていた。

 グラスを磨きながら、マーティンは眠りこけるゾフィアに懐かしむような目を向ける。

「……しかし、初めてゾフィアが出場したのはどれくらい前だ?十二年?十五年前か?」

「わしらはほぼ同い年じゃろ……お前さん、時間が分からなくなるほど老いぼれるのがちと早すぎやしないかのう?確か九年……血騎士、耀騎士、黒騎士……ふむ、三シーズン前の話じゃな」

 指を折りながらフォーが歴代のメジャーのチャンピオンの騎士号を口にする。

 メジャーが行われるのは三年に一度。当然、チャンピオンになるほどの実力者には大騎士として一文字の騎士号が騎士協会から贈られる。感染者騎士の血騎士ディカイオポリス、マリアの姉の耀騎士マーガレット・ニアール、そして黒騎士デーゲンブレヒャーだ。

「黒騎士……あのキャプリニーか。はるか昔の名に思えてくるな」

「それって、確か前代未聞の三連覇を成し遂げたっていう……?」

 マーティンの呟きに疑問符を浮かべるマリアに、コーヴァルが答える。

「ああそうだ。普通、騎士の称号に『黒』なんて広い表現は使わん。他の騎士と被ったり、間違われたりして面倒だからな」

 途端にマリアの隣に座っていたヴィタが口を挟む。

「そうそう、つまりそんな騎士号を独占出来るくらい強かったってことだよ〜」

 そしてヴィタはやや怒った様子で、

「まあ、私とお姉ちゃんは『第二の黒騎士』なんて呼ばれてるらしいけど、代用みたいな呼び方はやめて欲しいよね。もし黒騎士が境外に行ってなかったら、私がけちょんけちょんにして、二度と『第二の黒騎士』なんて言わせてやらないんだから!」

 と言いながらその場で軽くシャドーボクシングをして見せた。

「……『燭』はともかく、『月』ってのは他と被ってただろ。いくつかの騎士団が『ムーン』って名前を剥奪されたの忘れたのか?」

 コーヴァルが顔を顰めて言う。

 騎士団百強に入っていたかつてのムーンクラスタ騎士団が改名を余儀なくされたことなど、多分彼女にとってはどうでもいいことなのだ。

「ふん、わしはあの黒騎士もそうじゃが、お前さんのことも騎士とは認めておらんからな。たまには真面目にやって欲しいもんじゃ、全く……」

「それって私が普段バカみたいってこと!?」

 ヴィタは頬を膨らませながらフォーに言う。そして、そのままカウンターから立ち上がり、声を大にして捲し立てた。

「こう見えて私、源石病(オリパシー)の研究者としての実績があるんだよ?昔から天才って言われてたし、騎士として日々の鍛錬だってちゃん、と……あぁ!?」

 ヴィタが突然言葉を切る。そして何かを探るように全身のポケットや裾に慌ただしく手を突っ込みながら、

「マ、マーティンさん!今って何時何分!?」

「今かい?今は……19時58分だよ。予定かい?」

「20時からラッセルさんに鍛錬に付き合って貰う予定だったの忘れてた〜!!」

 ヴィタはそう叫びながらもマリアの方に向き直ると、おもむろに両肩に手を置く。

「それじゃあマリアちゃん!本当に今日の試合私から見ても凄かったから!また会おうね!」

「えっ、あ……うん!ヴィタちゃんも頑張っ──」

「はい!マーティンさんこれお勘定!それじゃ!」

 呆気に取られるマリアの返事も待たずに、ヴィタはカウンターに札束を叩きつけるや否や、たった一足で騎士競技バー「テラーマーティン」を後にした。

 入り口のスイングドアが街道の反対側まで吹き飛ばされたのは言うまでもなく、彼女が思い切り蹴ったバーの床は粉砕され、大穴が空いた。

「……もう少し頑丈なドアにした方がいいんじゃない?」

 ため息をつくマーティンにそう呟いて、マリアは自身の友人が大騎士であるということを改めて思い知るのだった。

 

 

⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

 

 

『(あと1分もないよ〜!これって、完全に遅刻じゃん!)』

 夜のカジミエーシュの街並みを背景に、ヴィタは屋上を疾風のように駆け抜ける。

 バーを飛び出した彼女は、適当な建物の壁を蹴って一息に屋上へと跳び上がり、そのまま次の屋根へと勢いよく飛び移る。

 足音はほとんど響かず、靴底が屋上を掠めるたび、ヴィタの身体はまるで矢のように一直線に夜空を切り裂いていく。着地した瞬間には、もう次の屋上へ向けて弾丸のように飛び出していた。

 カジミエーシュの屋上の連なりは、彼女にとって地上より障害物の少ない道に過ぎない。

「間に合わないなら……飛ぶしかないよね!」

 屋上を駆け抜ける勢いはそのままに、ヴィタは腰から極東の刀のように反り返った、波打つ刃を持つ双剣を抜き放った。

 双剣を両手に水平に構えると、刃が黒い奔流を噴き上げ、瞬く間に巨大な翼のように左右へと広がった。それはまるで推進器のように脈動し、破裂音を伴って大気を押し退ける。

 次の瞬間、翼から黒い炎が爆ぜ、轟音とともにヴィタの身体は夜空へ撃ち出された。

 彼女は爆発的な速度で急上昇し、僅かに軋む空気の壁を突き破りながら、眼下に広がるカジミエーシュの街並みの中から、目的地であるカジミエーシュ監査会の本部を、前髪が靡いたことで顕になった()()()鋭く探し出した。

『(あちゃ〜、やっぱりもうラッセルさん来てるよ〜……)』

 紅い瞳が闇を看破し、監査会本部の中庭で待つ人物の姿を捉える。待たせているのは彼女にとって、カジミエーシュで最も気まずい存在──宙を旋回しながら、ヴィタは頬を引き攣らせる。

『(これ、絶対怒られるやつだよね……いやいや、今さら引き返したらもっと面倒だし!うん、もう()()()()しかない!)』

 そう結論付けると、ヴィタは身体を傾けると地上に目掛けて向かっていった。高度数千メートルからの自由落下と漆黒の奔流による推進を伴った超加速。自殺とも思えるそれを、ヴィタは平然とやってのけた。

 地上まで千メートル。着地まで約三秒。

 ヴィタはまだ加速を止めない。空気は摩擦で火花を散らし、夜空を裂く。常人なら失神するような爆風も、強靭な心肺を持つ彼女にとってはそよ風に過ぎない。

 地上まで五百メートル。着地まで約一・五秒。

 周囲の景色が引き伸ばされるように歪み、街の灯りが残影に呑み込まれていく。ヴィタの双眸は鋭さを増し、中庭に立つ標的を寸分の狂いなく見据えていた。

 地上まで百メートル。着地まで約〇・三秒。

 圧縮された空気が壁のように立ちはだかり、衝撃波の前兆が肌を掠める。ヴィタは双剣を握りしめ、黒い奔流を更に噴出させる。

 もはや逃げ場はない。彼女はただ、監査会本部の中庭──標的へと突っ込むのみだった。

「くらえ!『光影鏖す剣』!」

 ヴィタが己の一撃の名を叫ぶ。

 漆黒の奔流を纏わせた双剣を渾身の力で振り下ろし、対象を爆砕する技──シンプルであるが故に、彼女の怪力を存分に発揮することが出来る。

 ただ斬り伏せ、砕き、打ち壊す。

 その圧倒的な力強さこそが『光影鏖す剣』の真骨頂であり、ヴィタ自身の存在を象徴するもの。超加速による補助も付いたことで、その一撃は落下する隕鉄の直撃に等しい。

 当然、常人が喰らえば肉体はおろか骨も残らず爆散する。

『(……まあ、そう上手くは行かないよね)』

 そう、相手が常人ならば。

 今ヴィタが襲撃をかけているのは、姉と自身の名義上の養母にして、カジミエーシュの正規軍兵士たる“銀槍のペガサス”を筆頭とした征戦騎士を束ねるカジミエーシュ監査会の主席(グランドマスター)、イオレッタ・ラッセル。

 ヴィタが双剣を振り下ろしたとき、彼女の双眸が辛うじて捉えられたのは、ラッセルの瞳がこちらに向いたことと、剣に手をかけたということだけ。

 次の瞬間、ヴィタの世界は真っ白な光と無音が支配し──そして気がついたときには、天地が逆さまになっている以外、何事もなく佇んでいるラッセルの姿が目の前にあった。

『(背中が痛い?身体が動かない?)』

『(斬られた?どこを?どのタイミングで?)』

『(……っていうか、なんでラッセルさん逆さまなんだろ?)』

 中庭の石壁に背中側の半身をめり込ませ、上下逆さまになったままヴィタは唸る。

「随分急いで来たみたいだけれど、たまには鍛錬よりお友達との時間を優先してもいいのよ?」

「……なんか、ラッセルさんにしては珍しいこと言うね。まあでも、こっちから時間作って貰ってる身だし、あんまり我儘ばっかりは言ってられないよ」

 それに、とヴィタは付け足しながら石壁から両の腕を無理矢理引き抜く。その弾みで脱臼した片腕をもう片方の腕で力任せに接合させると、次いで両足も石壁から引き抜き、倒立の要領でラッセルに背中を見せる形で立ち上がる。

「──戦うのは、大好きだからねっ!」

 何事もなかったかのように立ち上がった瞬間、ヴィタは自らの身体でラッセルの視界を遮り、その影で双剣を密かに構え直していた。そして反転の勢いを利用し、振り向きざまに一閃。鋭い横薙ぎの一撃が唸りを上げて走る。

 もちろん、ラッセルはそれを見越していた。

 わずかに距離を取った位置取りは、ヴィタの通常の攻撃範囲を外すためのもの。常であれば、その剣筋は虚空を切り裂くに終わるはずだった。

 だが──ヴィタの双剣の刃が中途で黒い奔流を纏い、瞬間的に延長される。刀身は黒い影に包まれて伸び、あり得ぬ間合いを穿つ。

 だが、ラッセルは眉一つ動かさない。

 まるで未来が見えていたかのように、半歩だけ後退して剣撃を躱わす。刃は彼女の目の前を掠め、黒い奔流の残滓だけが空を裂いた。

 次の瞬間、ラッセルの左手が動く。ヴィタの双剣が振り切られるよりも速く、ラッセルの剣閃が横合いから叩きつけられる。轟音と衝撃が重なり、ヴィタの身体は再び横へ弾き飛ばされ、石畳を削りながら転がった。

「いたたた……な、なんで今の分かったの〜!?最近考えたばっかの必殺技だったのに!?」

「そうね……発想は悪くないけれど、あからさまに視線を遮ったら勘付かれてしまうわよ。まだ次の手があるんでしょう?あなたの騎士としての在り方を、また私に見せてちょうだい」

「ぐぬぬぬ……今日こそ一撃当てて見せるんだから!」

 全身が複雑骨折していてもおかしくないような一撃を浴びてもなお、ヴィタは笑っていた。

 それは年相応の純粋な笑顔でもあり、彼女の内に秘めた獰猛性の表れでもあった。

 

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