カレンデュラに余光が続くなら   作:エンプティネス

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四話

 

「で……代わりに、私のことを態々捕まえたってわけ?はぁ……大騎士って、そんなに暇なの?」

「別に暇ってわけじゃ──いや、まあ私は暇してるか。まあとにかく、たまにはこう言うのも良いでしょ?早く行こう?マリアちゃんの試合が始まっちゃうよ!」

 ヴィタが姉と夕食を共にした、翌日のこと。

 マリア対「錆銅」騎士イングラの試合が目前に迫るロアー競技場の前で、またしてもヴィタはプラチナを捕まえていた。

 ヴィタは、姉用に買った余りの1枚のチケットをどうしようかと考えながらロアー競技場に向かっていたのだが、道中たまたまプラチナの姿を見かけたので、気配を消しながら背後に回り込んで両肩を思いっきり掴んだ。

 その際、プラチナが反射的に懐のナイフに手を伸ばしかけたのは言うまでもない。

 ヴィタが背後からプラチナに話しかけたのは悪戯心が半分と──真正面から話しかけると、何故かいつも逃げられるからである。

 そんなこんなで、久しぶりの休暇を過ごしていたプラチナは半ば無理矢理ロアー競技場まで連れて来られたのだった。

「はぁ……まだ一緒に観るなんて、一言も言ってないんだけど?」

「えー?でもさ、そのチケットよ〜く見てごらんよ?」

「?」

 プラチナは先程握らされたチケットを見下ろした。

 何の変哲もない、VIP席のチケットだ。

「ほら!そのチケット、さっきから『一人じゃ寂しいよ〜、寂しいよ〜』って言ってるでしょ?」

「アンタの話を真面目に聞いた私がバカだった」

 プラチナは顔を顰め、成金趣味の箔押しがやけに目に付くVIPチケットを指で弾く。

「ふふ〜ん、VIP席なんて普通なら座れないんだから!しかも、今日はマリアちゃんの試合だよ?きっとすっごい戦いになるよ〜」

「……それ、今日の対戦カードが何か知ってて言ってるの?」

 「錆銅」騎士、オルマー・イングラ。

 典型的な貴族階級の騎士で、又の名を競技場のブッチャー。騎士競技に参加する競技騎士は大半が仕事のために戦うが、イングラは違う。

 貴族階級の彼にとって、競技場とはただ暴力を振るうための場所。彼と戦って五体満足で試合を終えられた騎士は少ない。

 そればかりか、行き過ぎた暴力行為のために彼は何度も審判堂送りにされている。だが、その度に多額の企業献金によって無罪判定を出させ続けているという、碌でもない騎士だ。

 故にプラチナは、目の前のヴィタの能天気な態度が分からない。

 他の観客と同様、マリアが嬲られるのが楽しみだとでも言うのだろうか。いや違う?「錆銅」騎士イングラを相手にして、マリアの勝利を確信しているというのか。

「もちろん!だってあんな錆びた騎士に、マリアちゃんが負けるわけないでしょ!」

「はぁ……なんでアンタの頭の中って、どうしてそうもお気楽お花畑なの?」

 プラチナは呆れ果てたように吐き捨て、翳った瞳を半ば閉じた。

 いずれにしても、今更逃げることなど出来はしない。ヴィタに引きずられる形でプラチナは競技場に足を踏み入れる。

 騎士競技の観戦など、無冑盟になる前は競技騎士として出場する側だったプラチナにとって、実に──実にくだらないものだった。

「うわぁ〜!超!満員!って感じだね〜!流石マリアちゃん!!」

『(うるさ……)』

 ヴィタは子供のように両手を広げて熱気を吸い込む。対照的にプラチナは眉をひそめ、人いきれに軽く肩を竦めた。

 電子広告のパネルにはスポンサー企業のロゴが鮮やかに流れ、既に両選手のプロフィールや過去戦績、煽り文句が踊っている。

 二人は係員に導かれ、観客席の中でも特等席とされるVIP席へと進む。そこはガラスで仕切られた、冷房の効いた快適な空間だった。

 革張りの椅子は柔らかく沈み込み、各席にはドリンクホルダーや専用スクリーンまで備え付けられている。手元のタブレット端末を操作すれば、選手の身体データや戦績、過去の試合映像までリアルタイムで呼び出せる。

「ん〜やっぱりVIP席っていいよね〜!冷たいジュースまで持ってきてくれるし!!」

『(うるさ……)』

 ヴィタは席に腰を下ろすや否や、運ばれてきたスパークリングウォーターを飲み干す。

 一方のプラチナは無言でグラスを受け取ると、視線を競技場の中央へと向けた。

 闘技場の照明が一段と強まり、観客の歓声が波のように押し寄せる。競技場の中央の巨大スクリーンには、マリアのロゴとイングラの所属するブラッドボイル騎士団のロゴが並んで映し出され、会場全体にMCの声が響き渡る。

「さあ!前置きはこのくらいにして、まずはこちらの選手からご紹介致しましょう──イングラ家の末子、オルマー・イングラ!」

 観客席から一斉に歓声と罵声が飛び交う。

 重低音のビートがVIP席のガラス越しに響き、闘技場のゲートが開く。薄灰色の鎧に身を包み、斧を手にした巨躯の男が姿を現すと、更に会場が沸騰した。

「イングラ!イングラ!イングラ!!」

「潰せ!潰せ!また血を見せろ!」

 歓声と怒号が混ざり合い、競技場全体が熱気と狂騒に包まれ、中央のスクリーンにはイングラの残虐な戦績が次々と映し出される。

「……ふぁ〜あ、下らない」

 プラチナは椅子に深く沈み込み、冷めた瞳でスクリーンを一瞥した。

 虚飾の舞台で築き上げた残虐な戦績を誇示する姿も、それに歓声を上げる観客も、心底辟易する光景だ。

 一方のヴィタは、頬杖をつきながらスクリーンに映る血塗れの戦績を見上げて笑う。

「でも、アレもある意味才能だよね〜。実際に人気はある騎士なわけだし、あ!私も次の試合のときは相手を嬲ってみようかな〜」

「……アンタ、正気?」

 プラチナの銀の瞳がわずかに細まり、視線が横に座るヴィタに突き刺さる。

「いやいや、冗談だよ!なんだかつまらなそうな顔してたから、ちょっとでも盛り上げようと思っただけ!」

 そう言うヴィタの顔は無邪気で、本当に無自覚でタチの悪い発言をしたのが見て取れた。

「……笑えない冗談はやめてくれる?」

「ええ?」

 二人がそんなやり取りをしていると、

「さてさて、もう片方の騎士は──!Oh!Yeah!!現存する中では最も悠久な歴史を誇る伝統のある騎士名家の一つ!その名を大きな声で叫びましょう、せーの!ニア────ル!!」

 という、ビッグマウスモーブの減らず口がVIP席にも飛び込んできた。

 プラチナが再び中央の巨大スクリーンに目を向けると、そこには勝者予想の数字が踊っていた。やはりと言うべきか、イングラへの投票の方が多いようだ。

「ありゃりゃ〜……意外とマリアちゃんに投票してる人は少ないんだね。まだ新人だし、無理もないのかも知れないけど」

「……数字は嘘を付かない、とは思わないの?」

「うーん、まあ確かにそうだけどさ。でも、数字は今までの積み重ねでしょ?だったら、今日を境にひっくり返るかも知れないじゃん!」

「ふっ、ひっくり返るって……アンタそれでも研究者?」

 プラチナはヴィタの言葉を鼻で笑い、冷め切った瞳で観客席を見下ろした。

 人々は叫び、賭け、飲み、騎士の勝敗に歓喜と失望を繰り返す──本当に下らない。試合の結果なんて最初から決まっているのだ。

 マリアの敗北という結果が。

 プラチナは自身が無冑盟の幹部だからと驕るつもりはないし、無冑盟という組織がどのような役割を担わされる駒か正しく認識している。故に、ここカジミエーシュの都市の全てが見えない手で操られていることも知っている。

 愚かだ、と思った。

 どうやらこの大騎士様は、例外的な自由を謳歌し過ぎたあまりに、自分だけは“特別な存在”だと錯覚しているらしい。

 ヴィタは確かに奔放で、強靭で、月騎士の名に相応しく、誰もが目を向ける存在だ。だが、彼女が思うほどカジミエーシュは自由ではない。自由を謳歌しているつもりでも、引いて見ればそれらが仕組まれたものだと気付く。

 それを“自分の意思”と勘違いしているのなら、もはや愚かを通り越して哀れだ。

 案の定、ヴィタは歓声に混じって身を乗り出し、ガラス越しに拳を突き上げていた。

 「マリアちゃーん!負けないで〜!あんな錆びた鎧なんて、ぶっ壊しちゃえ〜!!」

 声援などVIP席のガラスに阻まれて届かないにも関わらず、彼女は全力で叫び、笑い、まるで子供のように手を振っている。

 これこそが、操られる者の理想的な形なのだろう。

 プラチナは僅かに唇を歪めた。

「……本当、幸せそうで羨ましいくらい」

 吐息のように零れた言葉は歓声に掻き消え、ヴィタの耳に届くことはなかった。

「あっ、そうだ」

 唐突にヴィタはプラチナの方に振り返り、両手を叩き合わせた。

「確かこの前、今の職場は上から面倒なことを押し付けられるし、休みも取れないしで大変だ〜って言ってたよね?」

「……休暇中に仕事の話なんてしたくないんだけど?」

 プラチナはヴィタを一瞥すると、グラスを持ち上げ、冷えた炭酸の泡を舌の上で転がした。

 だがヴィタは引かない。身を乗り出し、輝く緑の瞳を真っ直ぐプラチナに向ける。

「いやいやいや!すっごい良い話だから!」

 ヴィタは「コホン」とわざとらしく咳払いをする。

 そして、捲し立てるように話し始めた。

「今の職場がブラックならさ、もう思い切って辞めちゃいなよ!それで、私のとこに来れば良いと思うんだよね〜!」

「……は?」

「本当に下積み時代が長かったけど……近々設立する予定なの!その名も──“アストラル財団”!あ、もちろん私が代表だよ!はい、どーぞ!」

 ヴィタはポケットから一枚の名刺を取り出し、プラチナに差し出す。否応なしに受け取らされた名刺を見れば、そこには五芒星を模ったロゴと“アストラル財団代表 ヴィタ・ドロステ”の文字が記されていた。

「ふっふーん、中々カッコいいでしょ!このデザイン!」

「はあ、そう……」

 プラチナは表情を変えぬまま、手元の名刺を指先で弄んだ。ロゴも代表という肩書きも、まるで子供の遊びの延長にしか見えない。

「普通の会社って、働け!休むな!命令だ!って押し付けてくるものでしょ?でも私の財団は違うの!給料はちゃんと出すし、休暇も取り放題!残業もゼロ!なんなら、“今日は寝坊しました〜”って言っても怒られないんだから!」

「そんなの、三日で潰れるでしょ……」

「潰れない潰れない!だって私が代表だもん!それでどう?今から所属すれば、有給休暇も取り放題だよ〜?」

「……ふん、死んでも御免だよ」

 そう吐き捨てるように言うと、プラチナは名刺を乱雑にポケットに仕舞い込む。同時に、プラチナの胸中には冷たい想いが渦巻いていた。

『(死んでも御免……か。もし本当に所属なんてしたら、その情報が無冑盟の耳に入った瞬間、私は消される。文字通りの意味で)』

 プラチナはグラスを取り上げ、炭酸の泡をわざと大げさに喉に流し込む。舌の上に弾ける刺激で、嫌な思考を散らす。

 その拍子に、不意に別の疑問が口をついて出る。

「あー……そういえばさ」

 プラチナは視線を競技場から逸らさぬまま、淡々と呟いた。

「その財団って……結局、何が目標なわけ?」

「う〜ん……目標は色々あるけど、一つ挙げるなら──」

 財団であるからには、何か掲げるべき目標があって然るべしだ。

 少し嫌味っぽく言うプラチナに、ヴィタは得意げな顔になって一つの目標を口に出した。

「感染者の救済、とかかな!」

 

 

⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

 

 

 マリアと「錆銅」騎士イングラの戦いは、イングラの嵐のような斧の猛攻を身軽なマリアが盾で凌ぎ、マリアの斬撃をイングラが自らの身体を持って受け止めるという一連の流れに終始していた。

 マリアはイングラに力で敵わないことは分かっていたし、盾でのブロックも殆ど意味を為さないことも理解し始めていた。

 加えて、イングラのアーマーは以前のシェブチックのような欠陥品ではない上に、肉体自体にもかなりの耐久性がある。猪突猛進としか呼べない雑な戦い方は騎士としては理性に欠けるものだが、イングラという競技場のブッチャーの戦い方としては非常に理にかなっていた。

 実際、マリアの盾を支える左腕は今にも骨が内側から叩き折られそうなほどのダメージを負っており、隙を突いて放った斬撃も試合を決定付けるものには至っていない。

 それでも、マリアがイングラと戦えているのは、イングラ自身もノーガードで攻撃を受け続けたために出血しており、限界が近いからだ。

 怪我など気にする必要もない、と受け続けたダメージは一つ一つは極小でも、蓄積すれば例え巨躯を誇るイングラの身体の動きも確実に蝕んでいく。

 幾度も幾度も刻み込まれた小さな傷口から流れる血はイングラの筋肉を軋ませ、握る斧を鈍らせ始めていた。

 よって、イングラはただでさえ粗雑な剣筋が更に乱れてしまい、マリアの五体を問答無用で引き裂くことが出来ないでいた。

「うーん……イングラの出場が予定より早まったかぁ……」

「国民議会が釈放を早めたのが原因だろうな。ちっ、名ばかりの審判堂が。連中は大層な額の金を使ったんだろうな」

 ロアー競技場の感染者騎士席。

 他の一般の観客席とは壁で隔絶された空間に、二人のザラックの騎士が座っていた。

 一方は尻尾まで赤い毛並みをした、どこか快活そうな印象を受ける騎士、「焔尾」騎士ソーナ。

 もう一方は灰色の毛並みをした、暗く険しい顔が板に付いた騎士、「灰毫」騎士グレイナティ・カリスカ。

 二人ともカジミエーシュの都市部において行く先のない感染者を保護し、戦力として競技場で戦っているレッドパイン騎士団の所属であり、特にソーナはレッドパイン騎士団の団長だ。

 感染者騎士席は、観客席の喧噪から一歩引いた位置にある。分厚い強化ガラスで区切られた、外の観客からは隔離される形で設けられた小さな空間だ。外の熱気と歓声は届くが、そこには明らかな距離感が漂っている。

 ソーナは長い尻尾を椅子の背に預け、飄々とした笑みを浮かべながら腕を組んでいた。一方、グレイナティはやや身を乗り出したまま冷ややかな眼差しを競技場に向けており、硬く結ばれた口元には険しさが滲んでいる。

「まあ……ローズ新聞連合社はお金以外取り柄がないからね」

 ソーナが軽い調子で呟く。

「まったく、胸糞悪いったらありゃしないわね。利益をもたらすのはいつだってクズと世論ばっかり。あの軽口のMCも、全国中継の競技場で企業献金だなんだって話を堂々とするなんてね」

「……イングラが敗れること以外、奴らは何も怖くないからだろう。ふん、私なら叩き潰せるがな」

 グレイナティは小さく鼻を鳴らす。

「ちょっと、私が出る約束だったでしょ!?」

 ソーナが振り向くと、グレイナティは面倒そうに視線を逸らした。

 同じレッドパイン騎士団に身を置きながらも、二人の気質はまるで正反対だ。快活で物事を軽口に変えてしまうソーナと、世話焼きが故につい鋭い言葉を突きつけるグレイナティ。

 とはいえ、だからこそ互いの足りないところを補い合える良い関係であるとも言える。

「……ソーナ、今はそれよりも」

「ん?なぁにカイちゃん。真剣な顔して」

「今夜だろう。匿名で私たちに解鉱剤を送り続けて来た、例の支援者との面会の約束は」

「……あー、その話ね」

 ソーナの笑顔が僅かに固まり、グレイナティは鋭い眼差しを向ける。

「ただでさえ妙だ。顔も名前も明かさず、ここまで長期間、定期的に薬を送り続けるなんて尋常じゃない。こちらの動きを把握している節もある……正直、何か裏があると考えるべきだ」

「うーん、確かに怪しいけど……でも実際、団員たちは助かってる。解鉱剤なんて、私たちじゃ手が出せないくらい高いんだもの」

 ソーナは声を落とし、隣の灰色の毛並みに目を向ける。グレイナティは腕を組み、鋭い眼差しをソーナに投げていた。

「……恩義と依存は別物だ。私は目先の利益に縋って、首輪を付けられるのは御免だ」

 解鉱剤──感染者にとって、生死を分けるほど重要な高貴薬。

 企業がその価格を日に日に釣り上げているため、正規のルートで仕入れるのはほぼ不可能であり、レッドパイン騎士団の財力では到底賄えない。

 そんなものを、定期的に、しかも無償で提供してくる匿名の存在。

 ただの善意で済む話ではないということは、ソーナも分かっていた。分かっていても、レッドパイン騎士団の団長として、鉱石病に苦しむ団員たちの命を見過ごすことはできなかった。

「……分かってる。とにかく、今夜だよ。会ってみれば、何か分かるかもしれないでしょ?」

 ソーナの声は、いつになく硬かった。

 瞬間、競技場に再び大歓声が響いた。競技場の中央では、マリアとイングラが相打ちになる形で倒れていた。

 だが、二人のザラックの騎士は熱狂の波に飲まれることなく、互いに視線を交わし合うのみだった。

 

 

⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

 

 

「“◯月◯日の二十一時、現在貴方がたが拠点としている居住区に参ります。そこで、顔を合わせてお話しましょう。レッドパイン騎士団の支援者より”」

 ソーナは達筆で書かれた手紙を握りしめ、仕舞い込むと深く息を吐いた。

 都市の居住区の隙間に存在するレッドパイン騎士団──感染者たちの拠点は見上げるほど高い天窓から漏れる、淡い月光に照らされていた。普段は感染者の子供たちの声で賑わうこの場所も、今は用心のため全員が退避させられており、静寂に包まれている。

「……来ると思うか?」

 グレイナティが低い声でソーナに問う。

 フルアーマーの装備を着込んだ彼女が左手に構えるは堅牢な盾、右手には灰色に鈍く光る巨大な火砲。銃口が微かに揺れるたび、空気が軋むような重みを帯びる。

「来ることには来るでしょ。まあ、無冑盟の小隊かも知れないけどね」

 ソーナは笑みを浮かべようとしたが、赤い尾の揺れは胸中の不安を隠しきれていなかった。

 彼女もまたアーマーを着込み、右手には愛用の片手剣を抜いたまま構えている。いつものように軽口を叩きながらも、その両耳はわずかな物音すら逃すまいと神経を尖らせていた。

 この場にいるのはソーナとグレイナティの二人だけだ。同じレッドパイン騎士団の騎士には、避難した感染者たちの護衛を任せている。そのため、もし敵が大挙して現れたとしても、他の団員を巻き込むことはない。

 背後には路地へと通じる細い秘密の抜け道があり、万一の際は直ぐに離脱できるよう段取りも済ませていた。

 備えは充分。退路もある。

 誘いの手紙が罠で、襲撃されたとしても、敵は二人の顔すら拝めないだろう。

 そう言い聞かせながらも、ソーナの指先には冷たい汗が滲んでいた。

 そして、それは唐突に訪れた。

 拠点の入口をゴン、ゴン、と強く叩く音。二人の視線は同時に、拠点の入り口である鉄製の扉へと向けられる。

「……時間だな」

 グレイナティの声が緊張を帯びて漏れる。

やがて軋む蝶番の音とともに扉が開かれると、隙間から微かな影が差した。

 人影は一つ。ソーナとグレイナティの耳が僅かに動く。重装備の騎士のような金属音も、無冑盟の暗殺者特有の複数の気配もない。ただ何者かが一人で、静かに歩み入ってくる。

 長い外套に加えて、フードを深く被ったその人物の顔は殆ど見えない。ただ、頭上に生えた角の形を見る限り、どうやらエラフィアのようだった。そして、両手には黒いアタッシュケースのようなものを携えている。

 ソーナは片手剣を握り直し、グレイナティは僅かに火砲の銃口を影の方へと傾けた。

 フードの人物は更に前に出る。その足取りは妙に静かで、足音さえしない。

「そこで止まれ。何者だ、お前は」

 グレイナティが前に出るようにして問う。

 その問いに、フードの人物は暫し沈黙する。やがて、二つのアタッシュケースを静かに床へと置くと、両手を頭に上げるようにして、フードの端を掴む。布が擦れ、フードが下ろされると同時に、隠されていた顔が月光の中に晒される。

「……私は貴方がたの支援者──それ以上でも、それ以下でもない」

 薄氷のように冷えきった声が、静寂を震わせる。まるで心臓を鷲掴みにされたかのような感覚──相対するソーナもグレイナティも、無意識に息を呑む。

 だが次の瞬間──その人物は手を腰に当てて、口元を綻ばせた。

「……って、カッコつけて言ってみたけど、雰囲気出てた?」

 年端もいかない顔立ちに、全てを見透かしているかのような深い緑色の瞳。左眼はブロンドの前髪で隠されているが、奥からは隠しきれない真紅の燐光が夜の闇の中で溢れ出していた。

「じゃあ自己紹介するね!私は、この大地でも有数の超!美少女騎士!ヴィタ・ドロステだよ〜!はい、拍手〜!」

 ヴィタは独りで両手を打ち鳴らし、場違いなほど能天気な声を響かせた。

 「月」という一文字の大騎士号とその名前はあまりにも有名だ。あまりにも有名だからこそ、ソーナとグレイナティは完全に言葉を失った。

「……わーお、びっくり。まさか、匿名の支援者があの月騎士様だったなんてね」

 最初に声を上げたのはソーナだった。一方でグレイナティは火砲の銃口を向けたまま、眉を顰める。

「……血騎士や耀騎士のような、感染者でもない大騎士が匿名で感染者に薬を届けていただと?お前の狙いは何だ、ヴィタ・ドロステ」

「狙い?うーん……」

 ヴィタは顎に指を当て、首を傾げる。そして、満面の笑顔でグレイナティの問いに答えた。

「私の研究テーマが何かは知ってるでしょ?源石応用生命科学研究、ってやつ!」

 ヴィタは胸を張り、まるで子供が自慢話をするように声を弾ませた。

「研究を進めるには、臨床データがど〜しても必要なの!感染者の症状が薬でどう変化するか、日々の生活や戦闘能力にどう影響するか──そういう生きた情報が欲しいな〜って!」

「つまりお前は……今まで私たちを実験用の鼷獣にしていた、ということか」

 グレイナティの声は低く、火砲の銃口がヴィタの胸元を捉える。月光に照らされた灰色の毛並みが逆立ち、明確な怒気が表れていた。

 だが、銃口を突きつけられた当の本人は──笑っていた。

「実験用の鼷獣って、何かヤな言い方〜……まあ、事実っちゃ事実だけどさ〜」

「……ふざけるな!」

 ヴィタがそう軽く言い放った瞬間、グレイナティの表情が凍りついた。金属を噛み砕くような音が、火砲のグリップから響く。

 ソーナが慌てて一歩前に出る。

「ちょっ、カイちゃんやめなさいって!落ち着いて!」

「退いてくれソーナ!結局コイツは、感染者を研究材料としてしか見ていない!」

 ソーナが割って入ってもなお、グレイナティの怒りは抑えきれず、唸りとなって漏れる。

 そんなグレイナティを前にしても、ヴィタの調子づいた態度は一切変わらない。

「うわぁ!?お、落ち着いてよ!私、これでもレッドパイン騎士団のことは尊敬してるんだよ?それに、ほら!私には臨床データが必要で、皆んなには解鉱剤が必要!お互い助かるでしょ?つまり、これは“win-win”ってやつ!」

 能天気な声が、静寂に場違いなほど明るく響く。

「……お前に、私たちの何が分かるというんだ!?」

 グレイナティの指が火砲の引き金にかかる。だがその前に、ソーナが彼女の腕を押さえた。

「カイちゃん……確かにこの子の言い方は最悪だし、腹立つのも分かる。でも……事実として、解鉱剤は届いてるんだよ」

 ソーナの言葉に、グレイナティの視線が床に置かれた二つのアタッシュケースへと落ちる。

 黒光りする外殻は無機質で、ただの冷たい箱に過ぎない。だが、その中に詰め込まれているのは、仲間たちの命を繋ぐ希望──解鉱剤。

「……っ」

 グレイナティの脳裏に、鉱石病(オリパシー)に蝕まれ、苦しむ仲間たちの顔が過る。呻き声を押し殺しながら戦列に立ち続ける者、幼い子供を残して床に伏す者。あの薬剤さえあれば、彼らは明日を迎えられる。

「あの薬があれば……」

「そう、私たちはまだ戦える、生きられる……カイちゃんだって分かってるでしょ?」

 グレイナティの火砲の銃口が下がり、重い音を立てて床に落ちた。

「そういうこと!それじゃ、これは今回の分だから!」

 ヴィタは膝を折り、黒いアタッシュケースの一つに手を掛ける。

 金属の留め具が外れる音が響く。開かれたケースの中には、整然と並べられた数十本の注射剤が月光を反射し、冷ややかな光を放っていた。どれも透明なガラスの筒に収められ、内部の液体は淡い緑色に輝いている。

 解鉱剤──感染者にとって、喉から手が出るほど欲しい命綱。

 ヴィタは注射剤の一本を摘み上げ、月光に翳すように高く掲げる。

「ほら見て!ちゃ〜んと本物!これでレッドパイン騎士団の皆んなはまだまだ生きられるし、戦える!」

 無邪気過ぎる声音に、ソーナの胸がひやりと冷える。だが、当のヴィタは得意げに続けた。

「ねっ?だからもう、支援者でも実験動物でもなくてさ……友達同士になれるでしょ、私たち!」

 ヴィタの笑い声が、拠点の静寂に不釣り合いなほど明るく響く。

「でねでね!ついでに大・発・表〜!今日から、私が代表をしてるアストラル財団が──レッドパイン騎士団のスポンサーになりま〜す!」

 ソーナとグレイナティの耳が震える。

 スポンサー。競技騎士団の裏に必ず居る存在。スポンサーとなる企業は金を差し出す代わりに、競技騎士の戦果や影響力を広告塔として利用する。だが、それは競技騎士を縛りつける鎖の別名でもあった。

「……アストラル財団?それに、スポンサー?」

 ソーナは思わず声を落とした。

「……鉱石病の薬を餌にした上で、私たちを金で買うつもりか?ふん、まるで奴隷のようだな」

 一方、グレイナティの眼光は鋭さを増す。だがヴィタは一歩も退かず、口元を綻ばせた。

「そ、そんな怖い顔しないでよ〜!ね?スポンサーって言葉が嫌なら……“パートナー”って呼び方でもいいんだよ?」

 ソーナは赤い尾を揺らしながら、視線をアタッシュケースとヴィタの間に行き来させる。

 胸中に拭えない違和感が残るのは確かだ。

 けれど、レッドパイン騎士団の団長として、仲間たちの命を思えば提案を拒むことはできない。スポンサー契約を断れば「もう用済みだ」と言わんばかりに、解鉱剤の無償提供をストップさせられる権限が向こうにはあるのだから。

 元より、私たちに選択肢はない。

「……少し、考える時間をくれる?」

「ソーナ!」

 グレイナティが珍しくソーナを睨みつける。

「こいつの言葉を、真に受けるつもりなのか?解鉱剤に加えて、スポンサー契約まで結んだら……レッドパイン騎士団は完全にこいつの傀儡になる。あなたは何のために、今まで独立騎士団として活動して来たんだ?」

 ソーナは唇を噛む。

 彼女も分かっている。スポンサーは首輪だ。どんなに言葉を飾っても、結局は依存を深めるだけなのだ。

 だが、その葛藤を見透かしたかのように、ヴィタは楽しげに両手を叩いた。

「でもさ、もし傀儡になることで自分の大切な人が助かるなら……それって、悪いことかな?それに、私は別に団長の椅子を奪うつもりもないし、命令を聞けって言う気もない。ただ、支えてあげる“手”を差し出したいの。それだけ」

 ヴィタは無邪気に言い切り、左手を差し出した。

『(…………。)』

 ソーナは伸ばされた手を前に思考を巡らせる。

 仲間の命、レッドパイン騎士団の団長としての責任、そして目の前の大騎士の真意。

 葛藤の渦中で、言葉を探そうとしたそのとき──

「そういえばさ、レッドパイン騎士団にハンドサインとかあるの?」

「……えっ?いきなり何よ?」

「いいから、あるの?」

 言葉を詰まらせたソーナに変わって、グレイナティが答える。

「……いや、特にはない」

「ふーん、じゃあそうだなあ。私が……髪を掻き上げたら、でいっか。そしたら、二人とも直ぐに私の近くまで駆け寄ること!良いね?」

 緊張感など感じられない、気楽そうな声。

 だがその瞬間、新たな気配を感じ取ったソーナとグレイナティは反射的に身構える。片手剣を握りしめたソーナの赤い尾が逆立ち、グレイナティの火砲が扉の方へ傾けられた。

 複数の足音が静寂を破る。それは頭上から、壁の影から、さらには裏手からと、まるで計算された合図のように重なり合う。

「っ……無冑盟か!」

 グレイナティが叫ぶや否や、漆黒の軽装に身を包んだ影が月光に照らされて音もなく浮かび上がる。それは紛れもなく、ブレードやクロスボウで武装した黒ずくめの暗殺者集団──無冑盟だった。

「『焔尾』騎士ソーナ、『灰毫』騎士グレイナティ。貴様らには、感染者を蔵匿した疑いがかかっている。事実であれば重大な騎士協会条例違反だ。抵抗は諦めるんだな」

 無冑盟メンバーの一人が前へと進み出て、月光に照らされた刃を翳す。

 そして、その視線は自然とヴィタへと移る。

「……そして、『月』騎士ヴィタ・ドロステ。貴方がこの場に居る理由は問わない。だが、ここはカジミエーシュだ。我々は騎士協会の代理人として任務を遂行する。無用な手出しは控えていただきたい──」

 声は丁寧でありながら、冷ややかな警告の色を滲ませていた。

 彼ら無冑盟は分かっているのだ。

 大騎士が本気を出せば、この場にいる無冑盟の小隊など一瞬で壊滅するだろうということも、こちらには騎士協会並びに商業連合会という後ろ盾がある以上、向こうが直接手を下すことは不可能であるということも。

「はいはい、もちろん手は出さないよ〜」

 ヴィタは投降するように両手を掲げ、掌を広げてみせた。

 武装しているソーナやグレイナティ、無冑盟のメンバーとは違い、今の彼女は腰に刺した双剣以外は殆ど丸腰に近く、戦闘態勢に入る気配すら見せない。だがその仕草は演技めいて軽く、まるで奇術師のようでもあった。

 そして──緑の瞳が一瞬だけ細められる。

「……あ、ちょっと前髪が目に入っちゃった」

 ヴィタが何気ない仕草で額にかかった金髪を掻き上げた瞬間、無手だったはずの彼女の指の間に二つの小さな球体が覗く。

 次の瞬間、乾いた破裂音と共に二つの煙玉が床に叩きつけられた。

 白濁した大量の煙は、瞬く間に居住区の地下空間を覆い尽くし、辺りは月光すら届かなくなる。

「っ、煙玉だと!?」

「……全員、陣形を乱すな!射撃は控えろ!」

 無冑盟の隊員たちは声を飛ばし合うが、煙に呑まれては正確な位置が掴めない。金属の擦れる音と短い咳払いがあちこちで響く。

 煙に呑まれる直前、ソーナとグレイナティの脳裏には先ほどのヴィタの合図が過っていた。

 互いに無言のまま視線を交わし、頷き合う。

 そして、二人は同時に駆け出した。

 尾を大きく振って煙を切り裂くソーナと、火砲を抱え盾を構えるグレイナティ。二人は煙の中心を目指して一直線に突っ込む。

 すると、濃霧の中から能天気な声が弾んだ。

「やっほ〜!無事に来れたね!」

 視界はほぼゼロ。だが声の響き方からして、ヴィタはすぐ目の前にいる。

 白い煙が光を奪い、距離感すら碌に掴めない中で、その声だけがやけに鮮明だった。

「さーて!ではでは皆さん!お先〜!」

 ヴィタがそう大声で宣言すると、煙の中から一塊の影が天井に向かって勢いよく飛び出し、天窓を砕いて夜空に消えていった。

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