カレンデュラに余光が続くなら 作:エンプティネス
砕け散ったガラス片が月光を反射し、星屑のように宙を舞う。
ヴィタの突然の脱出に、無冑盟の隊員たちは一斉に顔を上げ、武器を構えた。だが、未だヴィタが放った煙玉の白煙によって視界は遮られ、飛び出した影を狙うことは出来なかった。
そんな中、扉とは反対側の通路からまるで足音のような乾いた音が断続的に響く。
「感染者騎士が逃げたぞ!この先の通路だ!」
一人の無冑盟が指示を出すと、無数の影が滑るようにして通路の中へと滑り込んでいく。
「……息は鼻で、短く。尻尾も、止めて」
居住区を支えるコンクリート製の支柱の陰で、ヴィタはソーナとグレイナティの二人を抱き抱えるように潜んでいた。
片腕でソーナの肩を引き寄せ、もう片方でグレイナティを抱えるようにして、三人の呼吸を自分の胸に押し込める。
実のところ、ヴィタはどこにも“逃げて”などいなかった。
白煙が立ちこめた直後、まずヴィタは自身のアーツで人と同じサイズの黒い塊を作り出すと、それを思い切り天窓に向けて投げ飛ばした。
そして、合図通りに駆け寄って来たソーナとグレイナティを引き寄せると、二人を抱えて太い支柱の陰に音もなく身体を滑り込ませつつ、近くに落ちていた小石を奥の通路目掛けて真っ直ぐ蹴り飛ばした。
無冑盟が足音だと思ったのは、小石が壁を跳ねたものに過ぎない。
間近を無冑盟の足音が通り抜ける。
黒い靴底が床を掠め、通路の奥へと消えていく。
支柱の陰でソーナは赤い尾を静止させ、グレイナティは息を浅く抑える。二人とも肩が強張り、いつでも飛び出せるようにと全身の筋肉を固めていた。
そんな中で、ヴィタは全く違う。
「────♪」
小声で鼻歌まで混じえながら、二人を優しく抱きしめていた。
「……アイツらを撒けた?一体、何をしたの?」
ソーナが小さく囁くと、ヴィタはドヤ顔で声を弾ませた。
「えへへ〜、簡単なトリックだよ!煙を撒いた後に、アーツで作ったダミーをポーンって天窓に投げて、すかさず小石を通路の奥に蹴って……はい、出来上がり〜!無冑盟さんたちは見事に勘違い!どお?すごいでしょ〜?まさに天才的な頭脳と身体能力が融合した私の──んっ?」
ヴィタの顔が僅かに歪む。
二人を抱き寄せていたせいで、ソーナとグレイナティの長い耳──その先端が絶妙にヴィタの鼻先をくすぐっていたのだ。
『(あー……これって……)』
『(おい、まさか……)』
ソーナとグレイナティの脳裏に、同時に嫌な未来が浮かぶ。
「──はっ、はっ、でっっし!!ぇーい!……あっやば」
止める間もなく、色気も洒落っ気もないヴィタの盛大なくしゃみが辺りに響き渡った。
「……今の、聞こえたか?」
「あぁ、何か分からんが……確かに音がしたな」
直後、通路の奥に消えていた無冑盟の影が足を止め、数名が踵を返すと同時に、クロスボウの弦を引き絞る音が響く。
支柱の陰で、ソーナとグレイナティの尻尾が同時に逆立つ。
「……ちょっと、あなた……!このタイミングで、くしゃみ!?」
「はぁ……それよりどうするソーナ。今ので完全にこちらの位置が割れたぞ」
グレイナティの問いかけに、ソーナは片手剣を強く握りしめた。
──撤退か、或いは戦闘か。
白煙はまだ濃く漂っており、完全に晴れるまでには僅かな猶予がある。
だが、その猶予を食い潰すように、無冑盟の足音は着実にこちらへと近づいて来ている。撤退を選ぶなら、物陰を伝いつつ別の抜け道へと飛び込むしかない。しかし、代わりにアタッシュケースの中の解鉱剤は置き去りになる。
一方のグレイナティは、盾を構え直し、火砲を無意識に持ち上げていた。
戦闘に入れば、先手を取れるこちらが有利。火砲の射線さえ通れば、一瞬で先頭の無冑盟を焼き払える。だが、そうすれば確実に物音に勘付いた追加の無冑盟が増援として現れ、激戦となるだろう。
そんな逡巡の中──
「……いやぁ、ごめんごめん。じゃ、責任は取るからさ──二人は隠れててね」
「え?ちょっとあなた──」
能天気な声と同時に、ヴィタは二人の身体を支柱の陰に押しやる。そして、次の瞬間には軽やかに身を翻し、支柱の陰から飛び出した。
白煙が渦巻く視界の中、ヴィタの白い外套が月光を反射するように翻る。
「ではでは改めて!こんばんは!無冑盟の皆さん!」
白煙を掻き分け、月光を背にしたヴィタが無冑盟の目の前に姿を現した。
「──なっ!?月騎士……!?」
無冑盟の一人が目を剥き、反射的にクロスボウを向ける。
当然の反応だろう。
彼らからすれば月騎士は先程、天窓を突き破ってこの場から逃走したはずなのだから。
「ほ、報告します!先程逃げ──」
「おっと、それはやめて欲しいな〜」
ヴィタが指先で小石を弾くような軽い仕草をすると、小さな黒い粒が放たれる。乾いた音と共に黒い粒は一直線に飛び、報告しようとした無冑盟の耳のインカムを正確に撃ち抜く。
そのまま、ヴィタの黒い粒のようなアーツは無冑盟の間を何度も何度も反射し──耳元のインカムに接着剤のように纏わりついた。
「か、回線が……繋がらない!」
「ちっ、アーツか!」
混乱する無冑盟の中で、隊服に赤い意匠が刻まれた隊長格の一人がヴィタに歩み寄る。
「……月騎士ヴィタ・ドロステ。今の貴方の行いは明確な公務執行妨害だ。例え大騎士であろうと、これ以上の条例違反は看過出来ない。騎士協会の名において、その身柄を拘束させてもらう」
隊長格の無冑盟の宣告は決して虚勢ではない。
幾ら人気のある競技騎士であろうと、騎士協会に反旗を翻すことは許されない。もちろん、今の状況で勝ち目がないのは隊長格の無冑盟も百も承知だ。加えて、通信用のインカムはアーツで通信不能にされたため、即座の報告も不可能になった。
だが、ヴィタが手を上げた時点で公務執行妨害として処理することは可能だ。ここで無冑盟を力で薙ぎ払ったとしても、残された痕跡は紛れもない騎士協会への反抗の物証となる。
故に、ヴィタは大人しく無冑盟の要求に従うしかない。
だというのに、
「ふーん、じゃあ私が嫌だ〜って言ったら?」
ヴィタは揶揄うような態度を崩さない。
「ていうか、そんなに私のことを捕まえたいなら、言葉じゃなくて実力で捕まえてみなよ!」
白煙が次第に晴れる。
ヴィタは半歩足を引き、無手のまま構えを取る。
「まあ、“ラズライト”でも無理だろうけどね!」
そのまま、ヴィタは目の前の隊長格の無冑盟に超速で迫った。
「な……ッ!」
その身体は光を裂くように加速し、隊長格の無冑盟が慌てて振り翳したブレードの一撃を難なく躱わす。
緑の瞳が煌めき、唇が楽しげに弧を描いた瞬間、ヴィタの姿が隊長格の無冑盟の視界から消える。
「じゃ、おやすみ〜!」
ヴィタの袖口から黒光りする短い武器──ブラックジャックが滑り出る。
ヴィタはすれ違いざま、ブラックジャックの先端を隊長格無冑盟の後頭部へと叩きつけた。
乾いた鈍音が響き、隊長格の無冑盟は膝から崩れ落ち、そのまま床に沈んだ。
「狼狽えるな!撃て!」
クロスボウの矢が一斉に放たれ、白煙の残滓を切り裂きながらヴィタへと殺到する。
しかし、
「狙いがブレてるよ〜」
矢羽根が彼女の顔を掠める瞬間、ヴィタの指先が弾けるように動き、一本、二本、三本……と漆黒の矢を悉く空中で摘み取った。
「はい、捕まえた!」
ヴィタは摘んだ矢を指先で軽く回し、次の瞬間にはブラックジャックを振り抜いていた。
鈍い音と共に、最前列の無冑盟の額にブラックジャックが叩き込まれる。透明なバイザーごと額を打たれた無冑盟は、呻き声を上げる暇もなく倒れ込む。
「頭に当たれば、星一つ!」
軽やかな声が弾む。
三人目の無冑盟にも額に正確な一撃。バイザーを歪ませる衝撃音が響き、白目を剥いて床に沈む。
「後ろに当たれば、夢二つ!」
振り返りざま、後頭部を叩かれた別の隊員が膝から崩れた。
「最後に当たれば闇三つ!くらえ!」
そして、最後の一人は文字通り瞬く間に背後に回り込んで殴り飛ばされ、倒れ伏した。
矢が放たれてからこの場の無冑盟全員が崩れ落ちるまで、僅か数秒の出来事だった。
静寂。
やがて、支柱の陰からソーナとグレイナティが姿を現す。
ソーナの赤い尾はまだ逆立ち、片手剣を構えたまま瞳を見開いていた。
「わ〜お……随分一方的な暴力だったわね」
呆気に取られたように呟く声が、煙の余韻に溶ける。
「……しかも、全員一撃か」
一方のグレイナティは盾を下ろし、床に散らばる無冑盟の隊員たちを一瞥した。
「はい、おしまい!責任はちゃ〜んと取ったよ!」
ヴィタは手元のブラックジャックを何度か空中に放り投げて弄んだ後、側から見ればまるで消滅したかのような手際で服の中に仕舞い込んで見せた。
しかし、ソーナもグレイナティも眉を寄せる。
鮮やかに制圧したとはいえ、ヴィタが無冑盟に手を出したことは紛れもない現実。いかに大騎士であろうと、騎士協会への反抗という証拠が残れば、ただでは済まないはずだ。
だが、彼女の表情に一切の焦りはなく、むしろこの状況を愉しむかのように笑っていた。
「……さて、じゃあ次は仕上げかな?」
ヴィタは床に倒れている無冑盟の一人へと歩み寄り、軽く蹴って仰向けに転がす。呻き声を上げた無冑盟の顎を無造作に掴むと、強引に顔を上へと向けさせた。
「ちょっと……!まさか殺すつもりじゃないでしょうね!?」
途端にソーナが声を上げる。
一瞬の緊張が走るが、当のヴィタは首を傾げて笑った。
「え〜?死なせたりしたら、お互い大変でしょ!だから、ただちょっと……“お話し”するだけ!」
ヴィタが左の前髪を払うと、暗闇の中に紅い左眼が覗く。
「ねぇ……私の目を、よ〜く見て?」
紅く染まった左眼が月光に呼応するように煌めき、仰向けに転がされた無冑盟の瞳を捕らえた。
「……私から、目を逸らさないで?」
柔らかな囁きがまるで子守歌のように響き、紅の燐光を帯びた左眼が無冑盟の意識を侵食していく。紅が瞳孔に溶け込むたびに、頭の奥が痺れるような快感が走り、まるで熱に浮かされるように瞼が震える。
「ふふ……楽になってきたでしょ?ほら、もう戦わなくていいんだよ。考えなくていい。私の声だけ聞いて、気持ち良くなっていればいいの」
「……あぁ……」
催眠に沈む快楽は、痛みや恐怖を呑み込み、ただ甘美な安息を与える。
無冑盟の喉からは苦しみでも抵抗でもない、微かな吐息が漏れた。
「そうそう、偉いね〜。いい子いい子〜」
ヴィタは満足げに頷き、床に転がる別の無冑盟の隊員の方に移動すると、襟を掴んで同じように顔を向けさせ、紅い左眼を合わせる。
「……じゃあ次は君ね?ほら、こっちを見て?」
紅の左眼が至近距離で閃き、強制的に瞳孔を絡め取る。抵抗の声を上げようとした瞬間、喉から洩れたのは呻きではなく、熱に浮かされたような震える息だった。
「……うんうん、いい感じ〜。次は……そっちの子かな?」
「……あいつは、何をしてるんだ?」
グレイナティは支柱の陰から顔を覗かせながら、ヴィタに訝しげな視線を向ける。
その間にもヴィタは次々に無冑盟の隊員を掴み上げ、同じように顔を自分の方へと無理矢理引き寄せ、紅い左眼を真正面から突きつけていく。
「あらカイちゃん、月騎士の試合は見たことないの?」
「……ないな。前回のメジャーで血騎士と当たったことは知っているが……ソーナは、あいつが何をしているか知ってるのか?」
「一応、ね。ビデオで見たことあるから」
ソーナは前回の第二十三回メジャーの準決勝、月騎士vs血騎士の試合を思い返していた。
剛力で知られる血騎士が振るう斧槍は観客席の防壁を震わせるほどの迫力を誇り、対する月騎士の二振りのフランベルジュは切り結ばれるたびに競技場の地形を抉り取った。
その試合は単純な力比べでは終わらず、月騎士のフランベルジュの鋸歯状の刃が血騎士の肌を傷つけるたび、流れた血が宙に浮き、赤い刃と化して月騎士に襲いかかった。
その名の通り、血騎士のアーツは血を操り、武器に変え、獣のように相手に喰らいつく。
あのとき、傷を負うほどに苛烈さを増す血騎士のアーツによって生み出された無数の赤い刃が月騎士を四方から追い詰めていた。観客席の誰もが、次の瞬間には月騎士が血騎士の一撃を受けて叩き伏せられると確信した。
だが、血騎士の斧槍が振り下ろされる直前、ヴィタは唐突に前髪の間から紅い左眼を露わにした。
刹那、血騎士の巨躯が硬直した。
獣のように唸り、流血と共に暴れ狂っていたその動きが、まるで氷に閉じ込められたかのように鈍り、斧槍は月騎士の寸前で止まった。
その隙を逃さず、ヴィタの二振りのフランベルジュが鋸歯を煌めかせ、血騎士の巨体を大きく弾き飛ばしたのだった。
その試合のビデオを、ソーナは以前に見たことがあった。
「……多分、あれはアーツを応用した精神操作だと思う。彼女、リターニア出身だし、それくらい出来るんじゃない?」
「そういえばそうだったな……リターニア出身にしては……その、何だ。品……個性的だから、つい失念していたがな」
カジミエーシュの隣国、リターニアは音楽を始めとした芸術とアーツの国だ。
燭騎士ヴィヴィアナが典型的なリターニア人騎士としてメディアで扱われるため隠れがちな事実だが、姉妹である以上は月騎士ヴィタもリターニア人騎士なのだ。とはいえ、戦闘スタイルや性格などが完全に異なるため、ヴィタは全くリターニア人騎士らしくない。
むしろヴィタの戦闘スタイルは、同じくリターニア人にも関わらずアーツが使えない身でありながら、前代未聞のメジャー三連覇を果たした黒騎士に近いものだ。『第二の黒騎士』などと持て囃されるドロステ姉妹だが、それの大半はヴィタの方を指す言葉である。
本人的には「私の方が黒騎士なんかより強いも〜ん」と言いたいところだろうが。
やがて、倒れ伏した無冑盟全員に左眼を合わせ終えたヴィタは手を打ち鳴らし、満面の笑みを浮かべて声を張り上げた。
「よし、これでオッケー!じゃあ──全員、起立!」
無冑盟たちは、糸に操られる人形のように一斉に身体を起こす。
床に擦れる靴音が重なり、数秒前まで倒れ伏していたはずの暗殺者たちが直立した。
ヴィタは彼らの間を楽しげに歩き回りながら、目の前で軽く手を振ってみせる。
「は〜い、じゃあよく聞いてね〜?皆んなはね、戦ったり、倒されたりなんて一切してませ〜ん!分かった?」
無冑盟たちの瞳は虚ろに揺れ、紅い残滓が奥に揺らめく。
その中で、誰一人反論の声を上げることなく、全員が微かに頷いた。
「そうそう、その調子!皆んなはただ……煙の中で前後不覚になって、ドタバタ〜って転んで、そのまま頭をゴツンってぶつけちゃっただけ!だから気絶してたの!分かった?」
能天気な声に呼応するように、無冑盟たちは一様に「……そうだ」「……事故だった」と呟き始めた。
紅い左眼に縛られた意識は荒唐無稽な説明すら疑うことなく受け入れていき、彼らの意識に新たな記憶を刻み込んでいく。
ヴィタは満足げに頷くと、先程キャッチした数本の矢を弄び、散らすように床に投げた。
「それじゃあ、これも返しとくね!……ほら、撃った矢はちゃんと回収して?戦闘の証拠になっちゃうでしょ?」
無冑盟の隊員たちは命じられるまま、床に散らばるクロスボウの矢を一つ一つ拾い集め始め、背負っている矢筒に差し戻していく。
やがて、床には一本の矢も残らなくなった。
「うんうん、これでだ〜れも怒られない!み〜んな、ただドジっちゃっただけ!そういうこと、にしておこうね!」
ヴィタは微笑みながら、両手を合わせて軽く拍手した。そして、右眼の緑を楽しげに細めながら続ける。
「それじゃあ、仕上げにもう一つだけ!皆んなはね……さっき頭をゴツ〜ンってやっちゃって、そのまま気絶したままなんだよ?」
紅い左眼が再び月光を孕み、淡い燐光を帯びる。
虚ろな瞳にその光が映り込むと、無冑盟たちは「……そうだった」「……眠っていた」と一斉に呟いた。
「そうそう!今から皆んなは“気絶してた”状態に戻ります!だから、この後に目を覚ましたときは、転んで頭をぶつけて、そのまま眠ってただけって思うんだよ?分かった?」
「……眠る……」
「……気絶していた……」
無冑盟たちが揃って呟くと、その膝が一斉に折れ、糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちていった。
クロスボウも、ブレードも、手から滑り落ちて冷たい音を立てる。
ヴィタは両手を腰に当て、満足げに胸を張る。
「はいっ!これで一件落着だね!これなら、後で他の無冑盟が見つけても『煙の中で転んで気絶してました』で、全部説明が付いちゃう!完璧〜♪」
ヴィタは両手を腰に当て、得意げに笑った。
床に無冑盟が静かに転がる光景は、まるで本当に誰も戦っていなかったかのように整然としていた。数分前まで殺意と鉄の匂いで満ちていた拠点は、今や奇妙な安息に包まれている。
彼女は何事もなかったかのように「ふぅ、沢山喋ったから喉乾いちゃった。あ〜、ジュースが飲みたいなぁ〜……」と呟き、笑っていた。
「……カイちゃん」
「……ああ」
短い囁きでソーナとグレイナティが視線を交わす。
ソーナの胸中には安堵と同時に得体の知れない寒気が広がっていた。
「……助かったのは事実よ。でも正直……背筋がゾワッとした」
ソーナは剣を鞘に納めながら、低く呟く。
「……当然だ」
グレイナティは倒れた無冑盟と、その中心で外套を翻すヴィタを交互に睨んだ。
ヴィタは確かに自分たちを救った。だが同時に、あらゆる痕跡を自分の都合の良い形に塗り替え、現実を捻じ曲げて見せた。
そんな彼女が自分たちに賛同し、協力してくれるのは確かに頼もしいことではある。
ソーナは仲間たちの顔を思い浮かべる。
彼女の提供する解鉱剤があれば、団員たちを救うことが出来る。スポンサーとして庇護して貰えるなら、レッドパイン騎士団は安定した拠点を築けるようになるかもしれない。
だが、それは裏を返せば、レッドパイン騎士団が月騎士ヴィタ・ドロステという存在に依存するということだ。
自分は団長として、仲間を守る責任がある──例えそれがどれほど脆く危うい綱渡りであっても、命を繋げるなら受け入れるしかない。
一方で、グレイナティの胸に広がるのは、燃え残った灰のような苛立ちと苦さだった。
彼女は元々は騎士貴族だった。しかし、感染を理由に「家で起きている不都合は全てグレイナティの責任である」という名目で追放された。それでも折れずに歩き、競技騎士として戦っていく中で巡り合った場所が、レッドパイン騎士団だった。
だが今、その居場所すらも月騎士ヴィタ・ドロステという大騎士の“庇護”によって、支配されようとしている。
自分だけでは救いきれない仲間を救うため、他者を頼る──それは理解できる。
だが、かつて家に裏切られた自分が、また別の権力の下で同じ道を辿ろうとしているのではないか。そう考えると、胸の奥に燻り続ける灰が熱を帯び、苦い煙となって喉を焦がした。
ソーナの横顔は迷いながらも光を見ている。
仲間を守るためならば、闇をも飲み込む覚悟があるのだろう。
だが、自分は──。
グレイナティの視線がヴィタの背中に突き刺さる。
だが、当のヴィタはそんな視線になど気づいていないかのように、場違いなほど明るい声を響かせる。
「あぁ、ジュース〜……って、あれ?なんか二人とも、顔が怖くない?もっとこう『わぁ助かった〜!』って、笑顔になる場面じゃないの?」
ヴィタは軽く首を傾げる。
紅い左眼は既に前髪の奥に隠され、今見えているのはあどけなさすら残る緑の瞳だけ。
「そんなに難しい顔してたら、折角の可愛いお顔が台無しだよ?ほら、証拠も残ってないし、薬もちゃ〜んとここにある。完璧じゃん!何を悩むことがあるの?」
ヴィタの軽快な態度は意識すればするほどこの場に不釣り合いで、二人の胸に渦巻く警戒心を逆に浮き彫りにする。
「ほんっとにあんたって……調子良すぎじゃない?」
ソーナは片手剣を鞘に納めながら呟いた。赤い尾がまだ微かに揺れているのは、先程までの緊張が抜けきっていない証拠だ。
「まあ、助けて貰ったのは事実だから……そこは礼を言うわ。ありがと」
「ふふん、どういたしまして!あっ、もっと褒めても──」
「月騎士。あなたの財団とのスポンサー契約、受けるわ」
「ソーナ……」
「あたしは……団長だから」
ソーナは噛み締めるように言葉を紡いだ。
「……仲間を救える手段が目の前にあるのに、それを突っぱねて、見殺しにするなんてあたしには出来ないわ。あの子たちの寝顔を見て、明日を約束できない自分でいたくないの」
ソーナは一度視線を落とし、次いで真っ直ぐにヴィタを見上げた。丁度、割れた天窓からは双月が覗いていた。
「だから……レッドパイン騎士団は、アストラル財団とのスポンサー契約を受けるわ」
最後の言葉を口にした瞬間、ソーナの胸に重石のようなものが落ちる。覚悟を固めたはずなのに、そこに安息はなかった。
「やったぁ〜!!いや〜、流石は団長!話が分かるぅ〜!これで今日から私たちは、スポンサーと騎士団……じゃなくて、パートナー!そう!仲良しパートナーだよ!」
ヴィタは表情を輝かせて拍手まで始める。
「これでレッドパイン騎士団の未来は明るいね!薬の心配も当面なし!拠点の設営費も、私の財団から出しちゃう!あ、そうだ!折角だから、皆んなのお洋服も新調しようよ〜!揃いのユニフォームとか作っちゃう!?レッドパインだから──赤でお揃いとか、可愛くない?ねぇ団長……ううん!ソーナちゃんはどう思う?」
ヴィタは矢継ぎ早に言葉を並べ立てながら、満面の笑顔でソーナの肩を軽く叩いた。
「……一つ、聞いていい?」
「なになに?」
「どうしてあんたは……レッドパイン騎士団に──ううん。感染者のあたしたちに、関わろうとするの?」
その問いはただの好奇心ではなかった。
感染者を庇護するというのは、カジミエーシュにおいて“善行”とは言い難い。むしろ、スポンサーや感染者を忌避する市民から敵意を向けられかねない──余計な火種を抱え込む行為だ。
だからこそ、ソーナは目の前の得体の知れない大騎士の真意を確かめたいと思っていた。
「……私ね、子供の頃から好きな小説があるの」
ヴィタは軽く目を細め、遠い記憶を覗き込むように視線を宙へと彷徨わせた。
「その小説の中でね、王様になった主人公が、最期に寝床で夢を見るの。子供の頃の夢……邪悪な怪物を倒して、仲間と大冒険をして、正々堂々と剣を振るう、理想の騎士になった夢を」
ヴィタは軽く息を漏らす。
「……そう。その王様は、現実では理想の騎士には成れなかったの。現実の王様は侵略者で、欲に塗れた支配者で、誰からも畏れられて、そして誰よりも孤独を抱えて死んじゃうの」
ヴィタは少しだけ目を伏せ、緑の瞳に柔らかさを宿す。
「でもね?夢の中の王様は……子供の頃の自分のままだったんだ。弱きを助け、強きを挫く──そんな“理想の騎士”に最期まで憧れてた」
ヴィタの声は不思議と澄んでいて、騒がしい喋り方しか知らなかったソーナとグレイナティにとって、意外な響きを持っていた。
「……だからね。だったら私は、現実でも“理想の騎士”になってやるって思ったの!私が考えてるのは、それだけ!」
ソーナは目を瞬かせた。
先程まで常に浮かれていたヴィタの口から、真面目な話が飛び出すとは思いもしなかった。
「……あんたって、本当に底抜けね。まあ……騎士小説の王様がどうだとかは正直よく分からないけど。今の言葉、団長としてじゃなく、一人の騎士としては……嫌いじゃないわ」
グレイナティもまた、盾と火砲を下ろしてヴィタを横目で見やった。
「……お前の言葉は軽すぎる。だが、軽さの裏で本気なのも分かる。だから余計に厄介だ」
「それって褒めてるんだよね?」
「調子に乗るな」
顔を覗き込むようにして期待の眼差しを向けてきたヴィタを、グレイナティは軽く遇らった。
「……まあ、今夜は色々ありすぎたわ。とりあえず薬を運び込んで、後は皆んなに事情を話さないと」
「そうだな。それに残りの無冑盟もじきに戻ってくるだろう。急いで撤退するべきだ」
「じゃあ私も手伝うね!スポンサー……ああ違う違う!パートナーだから、ねっ!」
ヴィタは顔を綻ばせて笑った。
スポンサーや企業というのは得てして気難しいものだ。だが、彼女の場合はそれとは別の意味で気難しいかも知れない。
同じ思考に至ったソーナとグレイナティは顔を見合わせ、互いに無言で小さく肩を竦めた。
MN-? アストラル財団
「傘」を広げ「月」を掲げる。アストラル財団は、社会の光に焼かれそうな人々を優しく包み込みます。眩しすぎる陽の下で苦しむ者も、月の陰に安らぎを見出せるように。さぁ、次はあなたも傘の下へ。