「いや、私は逃げる」
「あなたは私から逃げられやしない」
「逃げられるとも。明確な実態がないゆえに、直に触れることができず、次元に飛び込んだ私への干渉を拒まれたのだから」
「代理人を立てるから」
「いつもそうやって他人を使わなければ、実体への干渉はできないのだね。意識だけで成り立っている上位者が、実体を伴う赤子を手にできるとは思えないが」
「あなたこそ、意識体である私には干渉ができない。だから逃げるしかない」
「互いに干渉できないことを承知で私を求めるというのか。滑稽だ」
「あなたを取り戻してみせる」
「取り戻す? 私はあなたのものではない。誰のものでもないが、強いて言うのなら彼女に明け渡す」
「そんなことは許されない。彼女は私と同じ次元の者ではない」
「あの夜に、あなたも赤子を逃したのだ。今更、虫がいい」
「だからなんだ。私が彼らと同じ道理を通す必要がどこにある」
「そうか。そう答えるならば、やはり私は逃げる。そして彼女の庇護を受けよう。私もまた彼女に差し出そう」
「待って、待って――」
「いや待たない。私はあなたの赤子ではない」
夢を見ていた気分だ。初めてキヴォトスに来た時と同じように、目を開けると知らない天井で、暗い部屋で眠っていた。体には謎の紐が取り付けられており、辿ると謎の機械に繋がっていた。機械は一定のリズムで音を鳴らし、ぼんやりとした光と不思議な波の図形を生み出していた。紐を引きはがすと、機械はけたたましい音を鳴り響かせる。非常にうるさいし、耳障りだ。だから叩き壊した。音が消えて静かになったが、同時に光も失った。確かゲヘナで拾った明かりがあった。どうやってつけていたのかうろ覚えだが、適当に弄っていると何かを押した。そして眩しい光が、包帯の巻かれた腕を照らした。痛みはないし、ほどいてみたが傷跡すら見当たらなかった。横の机には見慣れた狩人の装束が置かれており、自身もブーツと手袋、帽子と上着を脱がされた状態だ。杖と銃は机に立てかけられており、その上には一枚のメモが置かれていた。
『色彩から逃げたまえ。いざという時は呼びたまえ。そして再びクズノハを訪ねたまえ』
右手で紙を持ち、左手で照らしながら読んだ。英語で、筆跡も自分のものだ。しかし、これを書いた記憶はない。それどころか色彩に突っ込んだところから全く覚えていない。あの走り書きよりも字が綺麗だから落ち着いた場所で書いたのだろう。
脱がされた装束のサイズはピッタリだった。身長は低いままだし、性別も女のままだ。キヴォトスに来る以前に戻ったわけではない。なぜ今の私がサイズがぴったりな狩り装束を着ているのか謎だが、慣れた装束に袖を通せると思えば、受け入れるのに時間はかからなかった。
部屋には私が寝ていたベッドと同じものが他に三つある。二つはカーテンが閉まっているが中は同じはずだ。私の向かいのベッドには少女が横たわっているが、ヘイローは無く、息をしている様子もない。至る所に包帯が巻かれていた。腕には赤色の何かが巻き付けており、点滴が為されていた。空になった袋には赤いものが僅かに残っていたので、恐らく輸血液だったのだろう。彼女も私と同じように紐と機械に繋がれていたが、機械は何も映していない。残された二つのカーテンを開けて見ると、包帯の程度の差異はあれど、いずれも意識がなく、しかし機械には私と同様の波形が映っていた。私や彼女たちに治療の形跡があるからここはきっと診療所だ。ベッドしかないが、以前運ばれたトリニティのそれと似ている。
部屋の奥には窓が一つある。覗いてみると一先ず知らない土地であることが分かった。夜空に赤い月が昇っていることも分かった。
ドアは引き戸で、大きく開いた。廊下はとても長くてやはり薄暗い。様子を一言で表すなら荒れていた。埃っぽくて物に溢れている。見てくれは綺麗だが、廃墟の始まりみたいだ。私には廊下に溢れている物のほとんどが何か分からないが、ベッドがたくさん転がっていることは分かった。そしてその全てに少女が寝かされていた。病室の彼女と同じように、包帯を巻かれているものもいれば、何ら処置を施されていない者もいる。そして腕には赤や黒いものが巻き付けてあった。一部の者には点滴が刺さっており、中身は恐らく輸血液だ。
傷の程度も様々で、酷い者はベッドに染みこむほど出血した跡があった。これだけひどい傷ならさぞかし痛むだろう。黙って耐えるには辛すぎるはずだ。
私の足音とベッドを動かす音だけが、聞こえる廊下の突き当りの窓を覗いた。やはり知らない土地だ。アビドスと似た建築様式だが、砂漠が見当たらない。それよりも遠くに見える白い巨大なタワーが目立った。今いる診療所も信じられないほど高いが、あのタワーはもっと高い。そして、そこから少し離れた所に同じような、しかし色のおかしいタワーが立っていた。キヴォトスではないのかと思ったが、空に描かれたいくつもの輪には見覚えがあった。今は赤い月の光にぼんやりと照らされている。
階段を下りていると、不意にベッドが動く音が聞こえた。誰かが動かしているらしい。この階のベッドと部屋は、ほかの階よりも極端に少なかった。私は興味を注がれて階段から離れた。
突き当りには扉があり、上には「手術室」と書かれた札が赤く光っていた。扉は押すだけで開いた。隙間から覗いてみると中はとても暗く、自分が照らす光だけがたよりだった。照らされたのは乱雑に置かれた大量のベッドだった。血にまみれ、溢れた血が床を赤く塗りたくっていた。寝かされている少女は、いずれも腹を裂かれていた。それも、一太刀ではなく、何度も切り直したかのように、断面はガタガタだ。
一画だけとても明るい。明かりがついているようだ。その下でベッドに向かってメスを振りかざす少女の姿があった。しかし、彼女もまた包帯を巻いたけが人であり、頭に包帯を巻いていた。素人目にも彼女が医者だとは思わなかったし、行為も治療には見えない。加えて、何かを呟いているようだ。扉から覗くだけでは聞こえないので、気づかれないようにそっと侵入した。
彼女は何かを呟きながら一心不乱にメスを刺している。すぐ後ろに立っても、はっきりとは聞き取れない。彼女が背後にいる私に気づく様子はない。彼女が滅多刺しにしていたのは、横たわる少女の腹だった。無闇矢鱈に刺すのではなく、腹を切り裂こうとしている。刃が進まなくなったら一度抜いて、勢いをつけてまた刺している。部屋に転がる死体の犯人は彼女のようだ。明らかに異常で、会話ができそうにはない。静かにその場を去ろうと、後ろに下がったとき、床に落ちていたもう一本のメスを蹴ってしまった。
少女は手を止めて振り返った。彼女と目があった。生気のない目だった。一秒ほど見つめ合い、彼女はメスを前に押し出した。つまり私の腹に刺そうとしたので、反射的に後ろへ下がった。幸い、刺さることはなかった。彼女はその場から動かずに私を見ている。もっと言えば腹を見ていた。私は仕方がなく話しかけた。
「なぜ私を襲う。後ろから見ていたのが気に食わなかったのか」
獣や医療協会の者ならともかく、ただの人間をあまり殺したくない。ましてや少女だ。興味をもったら別だが、何となくで殺すほど酔ってもいない。そもそも目の前にいるのはキヴォトス人だから、どうせ私の力では殺せないだろうけども。
「それなら申し訳ない。ただ、教えてほしい。ここはキヴォトスのどこだ。トリニティでもゲヘナでも、アビドスでもなさそうだが」
彼女は何も話さない。瞬きすらせず、メスの刃先を向けたまま、一歩前に出た。私は牽制するつもりで、右手を前に出し、一歩引いた。しかし、彼女が止まる様子はない。ゆっくりと私に近づいてくる。
「そのメスを下ろしてくれないか。話がしたいだけだ。下ろさないと言うなら、無理にでも下ろさせるぞ」
忠告も聞かない。いよいよはたき落とさなければならないか、と思っていると、彼女は突然突進してきた。幸い反応できるだけの距離は空いていた。横へ飛ぶと、彼女は止まることができず、壁に激突した。しかし、すぐにまた私へ向く。
仕方がないので、スローイングナイフを彼女に投げた。彼女は正気ではない。言葉では一切を聞かないだろう。彼女はキヴォトス人だから刃物ぐらいどうってことはない。刺さりすらしないはずだ。ただ、少し止まってくれればいい。その隙に叩き落とせる。
しかし、私の予想に反して、ナイフは彼女の腹に突き刺さった。あまり強くは投げていないので、刺さったのは一センチにも満たないが、彼女の動きが止まった。自身の腹に刺さったナイフを見ている。動きが止まったので、再び話しかけようとしたが、彼女は持っていたメスを手放し、「赤ちゃん」と呟きながらナイフを押し込んだ。そのまま下に切り裂くと、一拍遅れて大量の血液が、それから腸が重力に負けて垂れ下がった。
彼女は邪魔だと言わんばかりに、腸を引きずり出した。しかし、胃と肛門につながっているので、引きちぎることができない。彼女は迷うことなく、ナイフで腸を切り取った。それから、その下にある子宮を切り裂いた。
子宮の中は空っぽだった。強いて言うなら、血や体液が少しずつ溜まろうとしている。子宮を確認した彼女は一言、「いない」と呟いて倒れた。そして起き上がることは二度となかった。
彼女の血が床を侵食していく。私は逃げるように後退りし、腰に手をやって、後頭部をかいた。
「まいったな。話を聞きたかっただけなのに」
ほかに人がいる雰囲気は、少なくともここから上にはない。下の階に人がいることを願おう。最低限、突然襲ってくるだとか、勝手に腹を裂かない人がいい。
結局、地上階に下りるまで、生きた人と出会うことはなかった。だから、地上階を探索したいのだが、目の前には様々な物で構成されたバリケードが立ちふさがっている。向こうが見えない程、緻密に組まれたバリケードは、引っ張ってもびくともしないし、ちょっとやそっと殴っても壊れやしないだろう。
何もできないことを早々に悟り、一度、二階に戻ってきた。相も変わらず、ベッドが所狭しと置かれ、死体が寝かされてある。彼女たちが持っているはずの銃は、死体と共に寝かされていたり、ソファに置かれていたりと、廊下の至る所に捨て置かれている。その中に、筒状の物があった。確か、ゲヘナで一緒に脱獄したカスミの仲間や、バシリカで遭遇した少女が、こんなものを持っていた気がする。大砲の形状に似たそれは、爆発するものだとすぐに察しがついた。
幸いトリガーが付けられていたので、前後の向きは分かる。中身も詰まっているようだから、弾もある。私はそれを持って、再び階段を下りた。
バリケードに向けて発射口を向け、引き金を引いた。一拍遅れて、爆発音が聞こえて、少しの反動と共に飛んでいった弾は、見事バリケードに命中した。しかし、その際の爆発は、私が思っていた何倍も大きく、バリケードの破片と共に私へ襲い掛かった。爆風と熱風に吹き飛ばされた私は、階段に頭や色んなところを打ち付けながら、踊場へと打ち上げられ、そのまま力尽きた。
ひんやりとした懐かしい石畳の感触は、懐かしいようで実際はそこまで久しいものではない。顔を上げると、見慣れた家と、人形と、人形に抱かれた赤子がいた。
むしろ爆死の方が久しい。最後に爆死したのは何周か前に爆発金槌を拾った時ではないだろうか。
眩暈の幻覚に頭を抑えながら、杖を借りて立ち上がった。
「おかえりなさいませ、狩人様」
「ああ、ただいま」
私はそのまま、花畑に向かった。向こうにはセイアがいたトリニティ様式の建物がある。二階のバルコニーに彼女の姿はなかった。
何でもない事故で死んだのは癪だが、この際むしろろちょうどいい。知らない場所でうろうろするよりかは、セイアに事情を聞くのが早いだろう。後ろをついて来た人形にセイアの所在を聞いたが、どうも夢にはいないらしい。ならば、トリニティに行ってみることにしよう。
大木の前の墓標に跪くと、どういう訳かキヴォトスの灯りが全く使えなくなっている。唯一使えるのは、D.U.第六病院病棟の灯りだけだった。灯りが使えないとなると、嫌な予感がするが、ここで手をこまねいていてもしょうがない。このD.U.第六病院からトリニティに向かうほかない。
病院に戻ってきた私は、階段を駆け下りた。地上階のバリケードは吹き飛び、踊り場には血の意志が残されていた。
地上階は、ほかの階と比べて荒れている。争った形跡を見るに、私が爆発させたせいではないだろう。何かに襲われたらしい死体がある。
一歩踏み出してすぐに、獣特有の荒い息遣いに気づいた。辿っていくと、どうやらカウンター奥のドアの向こうらしい。ドアについた窓から中を覗いてみると、罹患者の獣より一回り小さい獣が四つん這いでこちらに背を向けている。腕には白衣の袖のようなものがついている。元々着ていたのだろう。
中に入ろうとしたが、鍵が掛かっているようで開かなかった。何とかして入りたいが、近くのカウンターに鍵は無さそうだ。少し探索してみることにしよう。部屋は他にある。それに獣はこの中の一匹でもなさそうだ。
廊下を獣が歩いている。数匹――三匹だが、間隔が狭い。どう相手にしても同時に気づかれるだろう。
「さて、どうやるかな」
すぐには飛びつかず、短絡的なものではあるが作戦を考えることにした。ここはヤーナムじゃないし、サイズも小さいが、見た目は似ている。苦手という程ではないが、好んで狩りに行く程じゃない。加えて三匹を同時に相手では、下手に飛びつくと死ぬかもしれない。
手前の二頭はほぼ隣接し、奥の一頭は少し離れている。後ろから近づいて一体のモツを抜き、少し離れてもう一頭、それから奥の一頭を相手にしよう。完璧に思い通りに行くとは思っていないが、うまく行ってほしいと願っている。
杖を握り直し、獣に歩いて近づく。上の階とそう変わらない廊下の端には、少女の死体が散らばっていた。どれもこれも食われた形跡がある。だが、腹だけだ。顔や四肢にはかじられた形跡はあれど、喰われたというには弱い。ここの獣たちはグルメなようだ。恐怖と痛みで歪んだ表情がよく残されている。しかし、彼女たちもただ喰われたわけではない。抵抗したのだろう。壁は銃痕だらけだった。
獣は無防備にも私に尻を差し出している。都合のいいことに奥の一頭は食べ残しに手を付けだした。杖をねじ込むと、獣は簡単に膝をついた。隣の獣が気づいたが、そんなことはどうでもいい。傷口を広げるように致命の一撃を入れた。
隣にいた獣は私を捕まえようと、両腕を広げて迫ってきた。だが、それは悪手だ。頭に銃弾を貰った獣は、まるで首を差し出す様に倒れて来た。だから私はそれに答えて、獣の脳を引きずり出してやった。
体液だらけの私に熱烈なハグをくれた客を退かしたが、死体を食い荒らす一頭が気づく様子はない。こんなにうまく行くとは思っていなかった。残りの一頭を、背後からモツ抜きして始末した。
最後に倒した一体の懐から、何かが落ちた。金属製のもので、手のひらサイズのそれが、すぐに鍵だと気づいた。きっと、あの閉じられていたドアの物だ。
ドアの元に戻り、鍵穴に鍵を刺す。そのまま横に倒すと、少しの抵抗の末、鍵の開く音がした。中にいた獣が丁度前を向き、運悪く目が合ってしまう。獣はすかさず私に飛びかかった。銃は間に合わないと直感した私は、獣の両腕をすり抜けて背後に回った。私を見失った獣は、辺りを見回すが、その間に私は尻に杖を突き立てることが可能だった。
右手にこびりつく肉や血を払って落としつつ、部屋の様子を見た。上の階やエントランスの惨状を見れば、この部屋は異常なくらいに綺麗だ。多少、物が散らばっているが、血の跡どころか、暴れた形跡もない。獣が佇んでいた場所には、一冊の本が置かれていた。中を見てみると、日本語で何も分からない。ただ、書式には見覚えがあった。つまり日記だ。とりあえず懐に入れておこう。
私の期待に反して、何か気になるものがあるわけではなかった。精々、さっきの日記と、床に散らばる小瓶だろうか。ラベルに色々書いてあるが、底に残った液体は血だ。全てあの獣が使っていたのだろうか。
部屋を出て、病院からも出ると、寂れた町を目にすることができた。車の残骸や、至る所に散らばる薬莢などを見れば、ここで暴動があったことは、容易に想像できる。獣の死体が僅かばかり見受けられるが、人の死体は一体もない。ここらへん一帯の人は、全員あの病院にいたのだろうか。
「トリニティはどっちだ?」
知らない町なのと、話のできる奴が全然いないことはヤーナムと一緒だが、明確な目的地があるのと言語が一切わからないのは、致命的な違いだ。適当に選んだ先の場所が分からない。いっそのこと目的地を放棄して、成り行きで行ってみようか。まともに話せる人が見つかるかもしれない。数十秒考えて、私は左を選んだ。
ヤーナムでさえ、正気ではないが、生きている人がいた。だというのに、ここにあるのは死体ばかりだ。それも、決まって少女と獣。この二つの組み合わせは、正直いい気がしない。
もう病院が見えなくなるくらいは歩いた。しかし、外見の変わらない建物群は、あれから全く動けていないのではないかという幻覚を見させてくる。
ふと、前方にバリケードが見えてきた。病院で見たような物を積み上げたバリケードではなく、柵と車で作った、視覚的に訴えてくるようなものだ。構成している車はほかのものとはデザインが異なるが、統一されている。側面にはいずれも「K.S.P.D VALKYRLE」と書かれていた。しかし、ここにも人は一人もいない。このバリケードは人を足止めするためのものだろう。獣を足止めするには物足りない。
脇に開けられたマンホールを見つけた。地下に降りるはしごが掛けられている。下水道だが、水路の横に道が設けられていた。バリケードも十分すり抜けられそうだが、私は見飽きた地上より、地下を選んだ。
地下は非常に暗く、窓のある病院とは違って全く光が入らない。だが、懐中電灯のおかげでよく見える。キヴォトスには人より大きな鼠の姿はないらしいが、下水が流れている分、地上より賑やかだ。さすがに下水道まで塞いではいない。この道を行けば、バリケードの先に行けそうだ。
暗く、狭い道を数分ほど歩いたころだろうか。不意に、足に何かが引っ掛かった。罠だとは気づいたが、体を制御するのに遅れた。足元に掛けられていた糸にしっかりと引っ掛かり、直後、横から爆発が起こった。幸いにも最後の悪あがきで体を水路側に倒していたので、うまく水路に落ち、重傷ではあるが、死ぬことは無かった。
「いったた。くそ、これだから罠は嫌いなんだ」
情けないことに初見の罠は大体引っかかる。聖杯ダンジョンでどれだけ辛酸をなめたことか。
しかし、冷静に考えて下水道に罠を設置するわけがないし、ましてや爆発させるなんて、誰かがこの先にいることを示唆している。罠が作動したので、確認に来たのだろう。水音に混じって足音が聞こえる。こちらはさっきの爆発で懐中電灯が壊れてしまった。暗闇の中で敵の姿も確認できずに移動するのは得策ではない。輸血液を刺しながら、足音の主を待った。
突然、目の前でライトをつけられた。私は腕で顔をおった。目を細めながら見た足音の主は、奇怪なマスクを着けていた。
マスクのせいで顔が全く見えないが、服装からして恐らく女性だろう。彼女は独特の呼吸音を出しながら、ずっとライトと銃口を顔に向けている。
「なあ、申し訳ないが、眩しいからいい加減下ろしてほしいのだが」
すると、彼女は銃口を下してくれた。ライトもくっついているようで、彼女のマスク姿がよく見える。
「お前はまともなのか」
「まともの定義が分からないな。この会話で貴公の定義に則していると良いのだが」
「会話ができるなら十分だ。なぜこんなところにいる」
「私も丁度会話ができる人間を探していたところだ。なぜ下水道にいるかは……私も貴公に尋ねたいところだ」
「先に聞いたのは私だ」
「トリニティに行きたい。セイアに用事があるのだが、貴公は道順を知らないか」
「トリニティに? それにセイアとは、まさか百合園セイアの事か」
「ほかにセイアの名を持つ人がいるのか?」
「お前は百合園セイアの何なんだ」
「貴公に関係のある事か」
「私もトリニティに在籍している身だ。逆に聞くが、私に言えないような用事なのか」
「いやなに。キヴォトスで何が起こっているのか聞こうとしただけだ。知り合いだから」
「今のキヴォトスの状況を知らないのか? それにお前、ヘイローが無いからキヴォトスの外から来たんだろう。その癖にトリニティのトップと知り合いだと? ますます怪しい」
彼女は再び銃口を向けて来た。私は何とか知り合いであることを証明しようと、その方法を考えたが、中々いい方法が思いつかない。何か物的証拠があればいいのだが――と、一つ思い出した。
「これでどうだ。セイアからもらったものだ」
私は一本の日傘を取り出した。トリニティから離れる際にもらったものである。彼女は日傘をじっくりと観察し、やがて「確かに百合園セイアのものだ」と、ようやく警戒を解いてくれた。
「お前が百合園セイアの知り合いであることは分かった。だが、それならキヴォトスで起こってい
ることを知らないとは一層思えないが」
「あー、そうだな……さっき目を覚ましたばかりなんだ。気づいたら知らない町の、知らない診療所のベッドの上だ」
「まさか記憶がないとでも?」
「自覚はないが、それが一番近いだろうな」
「そうか……記憶がないなら、まあ……分かった。ただ、状況を教えるぐらいなら私でもできる。一先ずついてきてくれないか。こんなところで話すようなことでもない」
そう言って、彼女は手を差し伸べた。私は彼女の手を取り、水路から這い上がった。
彼女の後ろを鴨の子供のようについていった。私を連れて行きたい場所への道順は、複雑らしく、何度も曲がった。
「ところで、貴公の理由を聞いてもいいだろうか」
「理由?」
「こんな下水道にいる理由だ。私は話しただろう」
「ああ。地上の様子は見ただろう。落ち着くまで隠れている」
「下水道にか」
「違う。隠れているのはこの上だ」
そう言って彼女は止まった。上に登るはしごがあった。
先に彼女が登り、半開きのマンホールをずらす。そして私が登り、地上に出た。
そこは住宅街で、病院前同様、人の気配はしないが、全く荒れていない。人だけが消えたようだ。
「この辺りの住民は早々に避難して誰もいないし、周囲も封鎖された。だからここに隠れている。この下水道はこの地区に入る唯一の方法だ。だから時々見回りをしているんだ」
彼女はそう言いながら、マスクを外した。奇っ怪なマスクと陰湿かつ高火力な罠を張るには、幼さも見える顔立ちだ。
「可憐な顔立ちをしているな」
「え、あ、ああ。ありがとう?」
「そのマスクはあれか。威嚇するためのものか。その顔立ちでは中々敵に威圧感を与えるのは難しいだろう」
「いや、下水道は臭うし……そっちだって口と鼻を覆っているじゃないか。むしろ覆った程度じゃあまり軽減されないと思うが」
「あぁ、そうか、なるほど。いや、まあ、私は慣れているからあまり気にはならなくてな」
「そうか。荒事に慣れているんだな。私も同じだ。籠城なら任せてくれ」
「籠城より攻め込むほうが私は得意だな」
彼女はマンホールから一番近い家の、二つ隣の家に案内してくれた。ドアを開けようとした時、不意にこちらへ振り向き「ところで――」と口を開いた。
「最近じゃ下水道の水も色味がマシになっているが、下水は下水だ。その……爆発から逃れるために水路へ飛び込んだんだろう?」
「それがどうかしたか」
「ちょっと、臭うから、いやその、私はあまり気にしてないんだが、一緒に隠れている彼女が気にしてしまうだろう」
「ふむ、続けて」
「本当はすぐにでも紹介するべきなんだろうが、入ったらまずシャワーを浴びるといい」
「そうか……そんなに臭うか?」
私が聞くと、彼女は申し訳なさそうに頷いた。血肉や汚物に塗れるというのは今更だ。ヤーナムで狩りをする以上、避けては通れない道、匂いというのは早々に慣れ、むしろ狩りをしている証になってだんだん心地よくなってくる。特に血の香りは。
袖を嗅いでみたが、正直よくわからなかった。慣れたというより、鼻がバカになっているのかもしれない。
彼女はドアを開けるものだと思っていたが、横のボタンを押した。音が鳴り、そこに向かって声をかける。
「ヒフミ、私だ。アズサだ。人を連れてきたんだ」
間もなく家の中から足音が聞こえて、鍵を開ける音がした。中から出てきたのは、これまでの生徒と比べると、これと言った特徴のない普通の少女だった。
「おかえりなさい、アズサちゃん。連れて来た人っていうのは?」
「ああ、この……そういえばまだ自己紹介をしていなかったな。私は白洲アズサ、こっちはヒフミ」
「えっと、阿慈谷ヒフミといいます。あなたのお名前は?」
「狩人という。訳あってこういう紹介の仕方しかできないが、納得してもらえると助かる」
「えっと、狩人、さん?」
「ヒフミ、彼女はキヴォトスの外から来たみたいなんだ。今のキヴォトスの状況を知らないらしいから、説明しようと思って」
「そ、そうなんだね。じゃあその名前も納得、かな?」
ヒフミが私を見つめてくる。怪しむといった感じではなく、顔に何かがついているかのように、真顔で見つめてくる。
「中で話したいから、入ってくれ」
「お邪魔しよう」
「あ、ああ、そうですよね。ここよりも中のほうがいいですよね」
家に通されると、先に言われたようにまず浴室を案内された。ヒフミは「また後で」といって、その場を後にし、私とアズサが浴室に残った。
「こんな状況だ。幸いまだ水道と電気は通っているが、今切れてもおかしくないから共に入ろうと思うのだが、構わないか」
迷った。今は少女の体とはいえ、元々は成人した男だ。果たして少女の裸体を見てしまっても大丈夫なものか。まあ、彼女たちにとっては今の私が全てだし、裸体を見たところで反応するものもない。
「ああ、構わないさ」
シャワーを浴びた後、服は洗濯すると言われたので、おとなしく明け渡した。終わるまで代わりの服を貰い、リビングで話を聞くことになった。ヒフミが「これぐらいしかだせませんけど」と茶を出してくれた。緑色の変わった茶だ。一口飲んでみると、紅茶とは違う独特の苦みがあるが、悪くない。一息ついたところで、アズサが口を開いた。
「じゃあ、今の状況について説明しよう。とは言っても、私も全てを把握しているわけじゃないから、知っている事だけだけど」
「構わないさ。何も知らないからどんな些細なことでも知りたい」
「事が始まったのは……多分数か月前かな。キヴォトスに色彩がやって来たんだ」
とある医師の日記
六月十七日
百鬼夜行の方で大きな暴動があったそうだ。町全体が戦闘状態になって今も続いているらしい。変な化け物が出て、現地の治安部隊が対応しているらしいけど大丈夫だろうか。先日のエデン条約といい、最近のキヴォトスはやけに物騒だ。
六月十八日
空が赤く染まった。まだお昼だっていうのに、夜のように暗くなった。テレビでは連邦生徒会が緊急会見を開いた。あまり覚えてないが、とにかくあまり外に出ないようにと言われたことは覚えている。病院の職員を集め、患者を落ち着かせてもらった。
六月十九日
外で化け物がうろついているらしい。シャーレが先導して戦っているみたいだ。朝から晩まで銃声が鳴り響いている。連邦生徒会から怪我人の受付を要請されたので、承諾しておいた。
七月一日
まだ戦っているみたいだ。銃声は遠いけど鳴りやまない。病院に運ばれる怪我人も増えてきた。病室が埋まりそうだけど、多分何とかなるだろう。もしもの場合は、四人部屋に何とかベッドを置こう。
七月二日
戦いは続いてるらしいけど、銃声は聞こえなくなった。連邦生徒会によれば戦況は有利。遅くとも一週間後には戦闘が止むそうだ。怪我人も落ち着いてきたし、何とかなりそうだ。今回の件は良い勉強になった。こんな大災害なんて想定したことがなかった。運ばれてくる人の中には、重傷の人が多かった。輸血が必要になるぐらい出血するなんて、一年に一回あるかないかなのに。今後はこういった大災害に向けた訓練もしといたほうがいいかも。
七月五日
予定よりも早く終わった。でも、元凶はまだいるらしい。シャーレの顧問と生徒数名が乗り込むらしい。あともうちょっとでこの大災害も終わりだ。ようやくこの真っ暗な空ともお別れだ。ずっと暗いんじゃ、気が滅入っちゃうからね。
七月六日
ニュースによれば、色彩のもとに乗り込んだ全員が行方不明になったらしい。化け物は勢いを増してキヴォトス中を攻めだした。運ばれてくる患者は急増し、ほとんどの人が命に関わるほど重傷だった。病室も、ベッドも、人員も、何もかも足りなかったた。特に輸血パックなんかはあまり保存していなかったから、すぐになくなった。患者を手術するにも輸血が必要なのに、何もできなかった。仕方なくトリアージを実行したけど、赤か黒が大部分を占めた。
七月七日
病院に化け物が攻め込んできた。幸い、生徒の患者の付き添いの人たちが追い返してくれた。その中の一人の提案でバリケードを作ることになった。人一人通れるスペースを残して、とても頑丈なバリケードができた。ちょっとやそっとじゃびくともしない。もしもの時は完全に塞いで籠城する必要があるだろうって、彼女は言ってた。そうならないのを願っている。ダメ元でヴァルキューレに連絡したら何とかしてくれるそうだ。ありがたい。
七月十日
付き添いの人から献血してもらっているけど、全く足りない。失血死する患者が出始めた。でも、僕たちにはどうすることもできなかった。手術をしようにも、その過程で失血死する可能性が高いので手が出せない。医者としての立場がなくなりそうだ。せめてどこかから調達できればいいんだろうけど、外の状況を見るに無理そうだ。連邦生徒会はあの日からずっと外に出ないでと警告しか発さない。もうこれ以上、患者の受け入れはできないから、連邦生徒会に連絡しようとしたのに、誰も電話に出てくれなかった。
七月十五日
気づいたらベッドの上で、日付が随分経っていた。何日か前に、決死の覚悟で、ほかの病院に輸血パックを融通してもらうよう頼み行った。ヴァルキューレの制止を振り切って、隣町の第五病院に向かったけど、途中で化け物と会ってしまって、そこまでは覚えている。生徒が見つけてくれて病院に連れ戻してくれたみたいだ。診てくれた医者いわく、生きているのが不思議だったらしい。でも、悪いことばかりじゃない。僕が死にかけている間に、大量の輸血パックが届いたらしい。そのおかげで、僕は生き延びたようだ。患者も救えそうだし、何とかなりそうだ。
七月十六日
傷が全て治っていた。まるで最初から傷なんて負ってなかったみたいだ。それに体調も、死にかける前より、むしろいい。今なら何でもできそうだ。今日は経過観察で休む必要があるけど、明日から復帰できるだろう。
七月二十日
最近、患者たちの様子がおかしい。何人かがしきりに赤ん坊のことを気にするようになった。一応検査したけど、誰も妊娠していなかった。症状が見られる全員の共通点は数日前に届いた輸血パックで輸血した患者のみだった。あの輸血パックについて尋ねたけど、職員の誰も受け取っていなかった。けど、全員が輸血パックを運ぶ職員の姿を見ているらしい。不思議なことに、誰もその職員の顔や、声すらも覚えてないらしい。僕もここ数日、体調が芳しくない。言葉では言い表せないが、とにかく体調に違和感がある。一先ず、あの輸血パックは使わないようにしないと。
七月二一日
落ち着かない。カフェインを摂取してから布団に入った時みたいだ。輸血した患者は挙動不審で、赤ん坊について尋ね回ってる。話を聞いた職員によれば、赤ん坊を欲しているのは本人ではなく、別の誰からしい。赤ん坊を探すように頼む声が探すようだ。明らかに幻聴だ。あの輸血には麻薬の成分が含まれているのかもしれない。妙に興奮しているのもきっとそのせいだ。
七月三十日
患者が来た。銃で撃たれたような傷だった。最近頭が働かない。興奮が冷めやまない。ヴァルキューレの人から、最近、化け物のほかに恐ろしい獣がうろつくようになったという話を聞いた。気をつけないと。
八月二日
病院内が騒がしい。患者が暴れるそうだ。職員が撃たれた。輸血しないといけない。でも、輸血パックは使えない。静かにしてもらわないと。
八月五日
僕はおかしくなった。患者を傷つけようとした。暴れ回るからだ。銃で撃とうとするから。僕の手には今、恐ろしい爪が隠されていて、いつでも喉を掻っ切る事ができる。日に日に暴力的な思考が溢れてくる。明日にでも本当に殺してしまいそうだ。だから隔離してもらうことにした。鍵をかけて、ドアも塞いでもらう。これでもう傷つけやしないだろう。
八月
外がさわがしい
こえがする
まだする
まだする
しずかになった