午後9時。静かな街の横断歩道に、青信号が点灯する。辺りは薄暗く、人通りもほとんどない。風がビルの隙間を抜ける音が聞こえるだけだ。
会社帰りの山田真一は、疲れた体を引きずりながら横断歩道の前で立ち止まった。彼はため息をつき、目の前の信号をぼんやりと見つめる。
ふと視線を向こう側に移すと、若い女性が一人、同じく横断歩道の前で立っていた。黒い髪に白いワンピース、そして無表情な顔。彼女はじっとこちらを見つめているように見えた。
「誰か待っているのだろうか…?」
そんな風に考えながら信号が青に変わるのを待つが、女性は微動だにしない。青信号が点滅を始め、再び赤になる頃、山田は違和感に気づいた。
「こっちを見ているんじゃない…自分の横、いや、後ろを見ている?」
背筋に冷たいものが走る。彼は思わず後ろを振り返るが、誰もいない。あるのは、暗い通りに立つ街灯の光とその影だけだ。
気のせいだ、と自分に言い聞かせるが、再び向こうを見ると、女性はまだそこに立っている。その目は、やはり自分ではなく、何か「後ろ」に注がれているようだった。
次の青信号。山田は少し急ぎ足で横断歩道を渡り始めた。向こう側に立つ女性に近づくにつれ、顔の輪郭や肌の色が不自然に感じられる。
「ただの影だ。暗いせいでそう見えるんだ。」
自分にそう言い聞かせるが、胸の鼓動はどんどん早くなる。
やがて彼が女性のすぐ近くまで来た時、彼女は唐突に首を動かした。左右ではなく、異様なほど不自然に真後ろを向くように。
その瞬間、山田の耳元で誰かが囁くような声がした。
「渡っちゃだめだ。」
驚いて振り返ったが、誰もいない。だが振り返ったことで、彼は気づいてしまった。自分が渡ってきた横断歩道の真ん中に、何かが佇んでいる。
ぼんやりとした影。その影がゆっくりと動き出し、こちらに近づいてくる。山田は足をすくませ、その場から動けなくなった。
影が彼に触れようとした瞬間、耳元で再び声が聞こえた。
「見ないで。」
山田は反射的に目を閉じ、意識を失った。
翌朝、山田は自宅のベッドで目を覚ました。
「夢だったのか…?」
しかし、夢とは思えない妙な感覚が残っている。ふと腕を見ると、横断歩道の白線に似た跡が腕にくっきりとついていた。
彼は思わず窓の外を見る。昨日渡った横断歩道はそこにあったが、向こう側にはあの女性がまだ立っている気がした。
次の青信号。窓の外の景色は、まるで「こちらへ来い」と彼を誘うように見えた。
山田は額に浮かぶ汗をぬぐい、息を整えた。昨日の出来事を「疲れからくる幻覚」だと無理やり思い込むようにして仕事へ向かう準備をした。しかし、家を出てみるとどうしても昨日の横断歩道が気になってしまう。
「大丈夫だ。ただの横断歩道だ。」
自分にそう言い聞かせながら、いつもの通勤ルートを歩き出した。
会社への道中、その横断歩道が再び目の前に現れた。朝の明るい光の下では、特に変わったところのない、普通の横断歩道に見える。しかし、近づくにつれて妙な違和感が胸の奥にじわじわと広がった。まるで、その場所が山田を拒絶しているような感覚。
「昨日の夜、ここで何が起きたのか…」
彼は横断歩道の前で立ち止まり、辺りを見回した。だが、人々は普通に信号を渡り、車も何事もなく通り過ぎていく。
「やっぱり気のせいか。」
そう思い、山田も横断歩道を渡り始めた。しかし、横断歩道の真ん中に差し掛かった瞬間、耳元で再び声が囁いた。
「戻れ。」
驚いて足を止めると、周りの風景が一瞬にして変わった。車の音、人のざわめきが消え、世界が静寂に包まれる。振り返ると、いつの間にか街の風景がぼんやりとした霧に覆われている。
「何だ、これ…?」
足元を見ると、白線が薄暗い赤にじわじわと染まっている。まるで血のように見えた。山田は恐怖心に駆られ、急いで向こう側へ渡ろうとしたが、足が地面に吸い付くように動かなくなった。
その時、不意に背後から低い笑い声が聞こえてきた。振り返ると、影が再び現れていた。昨日見たあの影だ。だが、今度はそれが形を取り始めていた。
影は人の形をしていたが、顔はなく、代わりに真っ黒な虚無が広がっている。その「顔」が山田に向かってじわりと近づいてきた。
「お前はここを渡るべきじゃなかった…」
影の声が山田の頭に直接響き渡るように聞こえた。山田は恐怖に耐えられず、全力で叫んだ。
次の瞬間、彼は気が付くと会社のデスクに座っていた。
「夢か?」
目の前には書類が散らばり、同僚たちがいつも通り働いている。山田は手を震わせながら時計を確認した。時計の針は正午を指していた。
だが、不思議なことに、朝家を出た後の記憶がすっぽり抜け落ちている。彼はふと腕を見た。そこには再びあの「白線の跡」がついていた。
仕事を終えた山田は、帰り道を変えようと決心した。同じ横断歩道を二度と渡りたくなかった。しかし、どの道を選んでも結局その横断歩道に繋がってしまうことに気づく。
「どうして…?」
何度も引き返し、別のルートを探そうとするが、歩けば歩くほど、その横断歩道が目の前に現れる。まるで街全体が彼をその場所に誘導しているかのようだった。
そして夜9時、彼は再びその横断歩道の前に立っていた。
向こう側にはまた、あの女性が立っていた。しかし、今度は彼女の背後に昨日の「影」が見えた。それは、彼女と一体化するかのように滲み、消え、そしてまた現れる。
山田の足は、自分の意思に反して横断歩道を渡り始めた。
「やめろ…やめてくれ…!」
叫ぶ声も虚しく、体は止まらない。そして横断歩道の真ん中に達した瞬間、周りの風景が完全に闇に飲み込まれた。
翌朝、横断歩道で一人の男性が倒れているのが発見された。死因は不明。しかし、腕にはくっきりと白い線が何本も刻まれていたという。
噂では、その横断歩道を深夜に渡ると「向こう側」に引きずり込まれるという話が広まり、人々はそれ以来、夜遅くには近づかなくなった。
だが、それでもたまに、横断歩道の向こう側に白いワンピースの女性が佇む姿を見たという目撃談が絶えない。
そして彼女は、じっとこちらを見つめているのだ。
その横断歩道は、夜になると不気味な存在感を放ち始めた。街灯がいくら明るくても、そこだけが薄暗い影に包まれているように見える。そして「白いワンピースの女性」が目撃されるたびに、行方不明者が増えていった。
しかし、不思議なことに、警察も調査を進める中で決定的な手がかりを掴むことができない。カメラ映像には女性も、影も映らず、ただ横断歩道だけが静止した空間のように存在していた。
消えた人々
ある日、一人の都市伝説ライターである藤崎明が、この横断歩道の噂を聞きつけて調査に乗り出した。彼は真夜中に横断歩道へ向かい、録音機材とカメラを設置しながら、その場で一晩を過ごすことを決めた。
「ただの噂話だろう。」
彼はそう思いながら、霧が立ち込める横断歩道の近くでカメラを構えた。深夜2時、街は静まり返り、通りには彼一人だけだった。
カメラの赤い録画ランプが点灯する中、ふいに風が止まり、空気が変わったことに気づいた。彼の全身に鳥肌が立つ。
「これは…?」
藤崎が横断歩道に目を向けると、そこに「白いワンピースの女性」が立っていた。彼女は相変わらず無表情で、何かをじっと見つめている。藤崎は手に持っていた懐中電灯を彼女に向けたが、光はまるで霧に吸い込まれるように消えていった。
恐る恐る声をかけてみる。
「あなたは…誰ですか?」
女性は何も答えない。ただ、じっと藤崎の方を向いて立っているだけだった。だが、次の瞬間、彼はその目が自分を見ていないことに気づいた。
彼女の視線は藤崎の「背後」を見ていた。
「やめろ…振り向くな…」
彼の頭の中に突如としてその声が響いた。だが恐怖に駆られた藤崎は、どうしても振り向かずにはいられなかった。
振り向いた瞬間、彼の目の前には黒い影が立っていた。形を持たないそれは、彼をじっと見下ろすように佇んでいる。声を上げようとしたが、喉が凍りつき、声にならなかった。
影はゆっくりと手を伸ばし、藤崎の顔に触れた。その瞬間、彼の視界は真っ暗になり、気を失った。
翌朝、カメラの映像には何も映っていなかった。ただ、藤崎が横断歩道の中央で倒れているところが見つかった。彼は奇跡的に命を取り留めたが、目を覚ました後も一切話をすることはなくなり、ただ無表情のまま何かを見つめ続ける日々を送った。
藤崎が見つめる先、それは横断歩道の向こう側だった。
終わりのない物語
それ以来、横断歩道は完全に封鎖され、誰も近づかなくなった。しかし、そこを訪れる者の間ではある噂が流れている。
「深夜2時ちょうど、その横断歩道の真ん中に立つと、向こう側から誰かが現れる。そして、彼らがこちらをじっと見つめたら、決して振り返ってはいけない。」
振り返った者は二度と戻ってこないか、藤崎のように「向こう側」を見続ける存在になるという。
そう、横断歩道の向こう側には何かがある。しかし、それが何なのか知った者は、誰一人として話すことはできない。
それでも、好奇心に駆られた者たちが夜な夜な横断歩道を訪れる。そして彼らの行方は、永遠に分からないままなのだ。