ラン、トーク、レディ! ~あの子と仲良くなるためのたった一つの方法~ 作:朝食付き
だんだんと走ることに対しての抵抗が少なくなってきた気がしてる。
だって、朝練のない日にも早めに来て校庭を走り始めてしまった。神崎先生にも許可をもらっての秘密特訓だ。
どうしてもずっと続けてきているみんなとは練習量の差があるから、少しでも追いつきたいのだ。神崎先生は練習のしすぎはダメだからねと渋面だったけど、おれは結構回復早い方だからと押し切った。練習日に悪い影響が残ってたら秘密特訓は禁止にするからとの条件でやらせてもらってる。
いつもいつも起きてこない朝寝坊のおれが、一人で起きてさっさと学校に行くものだから母さんもびっくりしていたっけ。練習量が増えた分食欲も増えているし、なんだか元気も増してきた気がしないでもない。
逆に、あまりゲームをしなくなってしまった。おかげでミナトには付き合い悪いぞとつつかれている。まあ記録会までは我慢してもらおう。
それと、靴も新しく買ってもらった。
メーカーも種類もたくさんあるみたいだから、先にみんなの履いている靴を聞き込み調査をしてみたりもした。けど、みんなあまりにばらばらだったから、結局自分で好きに選ぶことにした。
スポーツ用品店ではかなり目移りして困ったけど、最終的にはやはり黒だよな。一番かっこいいのを選んだ。父さんと一緒に行ったんだけど、父さんも買っちゃおうかなぁなんて言ってた。絶対続かないから無駄遣いになるよと言ってみたら、お腹をつまんで憂鬱そうにしてた。
まあ、靴は後でもいいんだし、時々一緒に走ってみてもいいかもしれない。たまには父親孝行だってしないとね。
***
「あッ! 靴! 新しくしたんだ!?」
次の日の練習では早速サチが食いついてきた。
「うん。日曜に買いに行ってきた。ちゃんと走るのは今日が初めてだから結構楽しみでさ。」
「わかるなぁ~。新しい靴ってわくわくしちゃうよね。それにしても、わたしとおそろいだねぇ!」
確かにそうなのである。色とサイズこそ違うけれど、同じメーカーの同じ商品だったりする。
「あれだけこれがいいって繰り返されたらね!」
「えへへ、だって仲間が欲しかったんだもん。でもでも、いい靴でしょ?」
「まあたぶん。昨日軽く試したけど、なんか足が軽くなった気はするかな。」
その場で軽く足踏みしたり跳ねてみたり。二人してぴょこぴょこしていると、神崎先生がやってきた。
「おっ、コースケは新しい靴だな! とうとう履き替えたか。」
「そうなんです! わたしと同じ靴なんですよー。」
「あはは、仲がいいね。でも色はさすがに黒を選んだか。」
サチの靴は薄い桃色だ。サチには似合っててもおれには似合わないでしょ。
「最近は派手な色が増えたよね。路上を走るなら目立つ方がいいからいいことだけど。それはそうと、コースケは今日は靴を慣らすところからね。あまりペースを上げすぎないで、ゆっくりと靴の持ってる反発とか、形の違い、ロッカー構造がどのくらい聞いてるかとかね、確認すること。新しい靴で張り切るのはわかるけど、慣れないうちは無理しない方が靴にもいいからね。うん、結び方は教えたとおりにできてる。じゃ、練習開始まで靴談義でもしてなさいな。」
靴談義? 靴の話をしてろってことかな? 今ならいくらでも話せるけど。
「そういえばロッカー構造って言ってたけど知ってる?」
「ん〜、教えてあげましょう! ほら、この靴って横から見ると底がなだらかに丸くなってるでしょ? つま先の方がちょっと上がってて。こういう形をロッカー構造っていうの。この構造だとね、こう、足を着いたときに自然に転がるみたいな動きが出来るの。そうすると、あんまり力を使わずに前に進めるんだって。」
「へぇ。そんな機能があるんだ。…そういうのも知ってたなら買う前に教えてくれればよかったのに。履きやすいとかぽよぽよしてるとかじゃなくってさ。」
「ぇ、えへへ、そうだったね。でもわかりやすかったでしょ?」
「父さんにこれがいいって説明するときに苦労したよ…。最後は完全にごり押しだったからね!」
「まあまあ、次の靴を選ぶときにはちゃんと説明してあげるから。」
もう。次とかはまあ、まだわかんないけど、その時はもしかしたら一緒に行けたりしたらいいよなぁ。
「靴もいいけど、ランニング用のウェアとかもかわいいのも多いんだよ。」
「ああ、なんかかっこいいのも多かったね。父さんも驚いてた。」
「ふふ、ね、今度一緒に見に行こうね。」
……一緒に。期待していた、そして予期せぬ言葉に驚いて固まってしまう。なんとか返事を返そうと頭の中で言葉がおしくらまんじゅうを始める。だが、決着が着く前に向こうからサチを呼ぶ声。素直にそっちへ走っていってしまうサチ。
でもそれでよかったかもしれない。だって、たぶん耳まで赤くなってるから。
***
とうとう陸上競技会の本番が来てしまった。これまでやってきた練習の成果を出す時だ。とはいえなかなか緊張する。先に出番の子が緊張していると、おれも緊張してくるから不思議だ。とはいえずっと緊張して居続けられるわけでもない。ひとまずは視線を外してあたりを見回してみる。
近くの小学校から集まった選手が競技場の前のをうろうろしている。県立競技場はおれたち全員を入れても余裕のある大きな建物だ。陸上競技会の当日だから、参加者に先生に保護者、会場の人とすごい人が集まってる。
延々と続く開会式もおわり、次々と競技が進められていく。俺たち長距離組の出番は午後だから、それまではひたすら応援してる。
短距離とかソフトボール投げなんかをやっていて、一つ一つの競技時間は短くて、華がある。やっぱり短い時間に勝負が決まるってのはカッコよさがあるよな。
お昼休みまで応援し続けて少し疲れてしまいそうだが、仲間たちの努力が形になっていくのは楽しい。でも、結果の恐ろしさってのはまだよくわからないままだ。
ちなみにうちの学校からは一位入賞者は残念ながら出ていない。ギリギリケンちゃんが三位入賞をしたくらいだ。
お弁当を食べてから、おれたちがでる長距離の部までは多少時間がある。だからサチを誘って競技場の周りを回って見ている。まるでお祭りのように出店が並んでいて、競技場併設の広場も賑やかだ。
「も〜! 絶対終わったら全部のお店回るんだからね!」
サチは去年も出ているから見慣れているかもしれないけれど、おれは何もかもが新鮮だ。残念ながら出店の買い食いはできないが、それでも鮮やかな出店の看板を見るだけでも楽しい。
神崎先生が改めての注意として、本番前の買い食いが禁止であることを言っていたのだ。確かに直前に食べるとすぐに横っ腹が痛くなるから仕方ない。が、そんなにわざわざ言わなくても買い食いなんてする人はいないだろうと思っていた。
「何年か前に出た選手がね、直前に食べたせいで吐いちゃったんだって。レース中に。だから口を酸っぱくして禁止っていうの。屋台の人にも話がいっててね、買う時に "君は選手かね? レースの後じゃないと売ってあげられないよ" なんていうんだって。あーあ、午前中の短距離の子はいいよね。終わったらご褒美にって買っていいんだから。私たちの出番なんて最後の最後だから、屋台も半分くらい閉まっちゃうのよ! 信じられない!」
ひたすらヒートアップしている。こういう時のサチは非常に迫力があるから近づいてくる人は少ない。おれとしては、珍しい表情を独り占めにできていいんだけども。
***
落ち着いたところを見計らって観客席に戻る。うちの学校、南第一小のエリアでは男子がみんな頭を抱えている。
「どうしたの?」
ケンちゃんが駆け寄ってきて肩を揺さぶってくる。
「どうしたのじゃねぇだろ! みろこの成績を!」
指さされた結果表を見てみる。と、南第一小が赤く縁取られていて、記録が書き込まれている。そして、その隣も青で枠がかかれている。そこでようやく問題に気づく。
「第2に負けてんの?!」
そう、この学区には我らが南第一小と南第二小があるのだ。距離も近く、名前も一画違い。それでも第一と第二では大きく違う。昔からこの2校の仲はわるいのだ。伝統的に! だから、おれたちは他はともかく第二には負けられない。
ケンちゃんは午前の前半で100m走に出て惜しくも三位だった。順位をみると、二位が第二だ。ペラペラと記録をめくる。幅跳びも200mも、全部第一の上に第二がある。
「なんでこんなことに!?」
「知るか! でもまずいのは分かんだろ!」
慌てるおれの袖がちょいちょいと引かれる。振り返ると案の定サチで、疑問が顔全体に浮かんでいる。
「何がまずいの?」
「あー、向井。俺たちはな、第二には負けられねぇんだ。第一の誇りがあるからな。」
「何それ、全然わからないんだけど。学校の名前一つでそんなに騒ぐことじゃないでしょ。」
一言でおれたちの理屈が切り捨てられる。ぐぐ、と詰まるケンちゃんをなんとか援護してやりたい。だが、あの物言い、女子のロマン全否定モードだ。たとえサチであっても、いや、サチ相手だからこそ迂闊にものは言えない。
「え、っと、一応ね、おれたち、結構近いところで通ってるのもあってね、ライバル意識?ってのがあるんだ。別に名前自体はきっかけってだけ、だと思うけど、とにかくお互い負けないようにって思ってるの。だから、あまり冷たくしないでもらえると嬉しいんですけどどうでしょう…?」
おれの言葉にもなんら感銘を受けた様子はない。ため息を一つついて、首が振られる。
「ライバル意識ってのはわかったけど、あまり大騒ぎしないの。一位争いならともかく、四位五位どっちが上かなんてみっともないでしょ。全力を作ることが大事で、結果は後! 先生が言ってたじゃない。ほら、こうすけ君、わかった?」
「あっ、はい。」
揃って応える俺たちを放って、他の女子の元へとサチが行ってしまった。代わりに残ってるのはケンちゃんか。いや、悪いわけじゃないけど。
***
「…それでもさ、負けっぱなしはまずいよね。」
「ああ。女子の結果はいいとして、あとは男子の長距離だけだ。コースケ、お前やれるか?」
みんなの仇をうつ。死んでるわけではないが、そのくらいの気概で挑む。
「なんにしても、全力でやって勝てばいいんだ。そうすりゃ誰も文句無いだろ。」
「うん。頑張ってみる。任せてよ。それより、約束どおりちゃんと応援してよ?」
「約束まではしてねぇよ! ま、お前の頑張り次第だな。せいぜいしっかりやれよ。」
「うん、やる気十分で結構!」
突然後ろから声がかかって二人して飛び上がる。神崎先生はこういうイタズラものなところがある。
「コースケもケンヤも、闘争心ってのは悪くないよ。むしろ全くないのは困る。でもね、コースケ。先生がいつもいってることは覚えているかな?」
「…長い距離は平常心が大事…。」
「そういうこと! ケンヤみたいに100mを一気に駆け抜けるなら話は別だけど、長距離には平常心が大事。長い道のり、そんなに急いでどこにいくってね。最後の最後まで闘争心はとっておいていいんだ。どこまでも自分の走りをコントロールすること。走り切れる限界を見極めて、ペースを最後まで保ち続けること。闘争心をぶつけるのは最後の切り札だよ。これができる選手がね、一番強いんだ。」
何度も何度も耳に残って覚えるくらい神崎先生が言ってきた言葉だ。速いではなく、強い。いつでも自分の力を発揮し続けるだけの能力を持つこと。長い距離を走り続けるためにはそれが不可欠だと先生は言う。
サチが大好きな箱根駅伝でも、マラソンでも同じだ。どれだけ自分を保てるかが大事だって言う。自分を信じてやり切ること。おれにできるかはわからないけど、神崎先生もケンちゃんも、サチもおれを信じてくれている。なら、おれだって自分を信じるべきだ。
「短い期間だったけどね、コースケは強くなったよ。しっかりと自分を持ち続けるなら一位だって取れる──かもしれない。」
ガクリと肩を落とす。
「先生さぁ、もっとこいつを勇気付けるように言い切って欲しかったんだけど。」
「いや、タイムはともかく順位は他の子との兼ね合いもあるからねぇ。みんな頑張っているのは一緒だから、ちょっと言い切りにくいかな。」
ポリポリと頬をかく先生をジト目で見つめると、誤魔化すように仕事が残っていたと叫んで教員エリアへと逃げていう。
「ま、頑張ってくれや。」
ポンポンと叩かれる肩が何となく心細い。
***
本番の前にちょっともよおしてきた。一言断ってからお手洗いに行く。ぐるりと競技場のカーブに沿って歩く。ふと、目線が気になった。その先を辿ると、大柄な男子が柱に寄りかかっている。
「次の3000mで、第二が全勝だぜ。」
その物言いと、ウェアにかかれた学校名。南第二小の生徒だ。ゼッケンはこうすけと同じ緑色。名簿の名前を思い出す。
「ええと大門…くん?」
「ああ。お前は杉原だったよな。今日はうちが勝つぜ。当然、一位でな。」
大口を叩いているが、確かに体格もいい。こうすけより頭一つ分は大きい。走るならリーチの大きさはメリットになる。一歩の幅が大きければそれだけ速くなりうるのだから。でも、それだけで強さは決まらない。
「おれも、負けるつもりないよ。」
グッと力を入れて立つ。大門が笑い、おれも笑う。
「なんか、漫画みたいだったな。今の俺たち。」
「うん。かなりいい感じだった。でも負けないってのは本気で言ってる。今日は頑張ろうね。」
「ああ。俺も一位狙いは本当だ。どっちが勝つかは分かんないけど、よろしくな。」
そういって別れる。何せおれはお手洗いに来たのだ。多分大門も一緒に来た誰かを待ってる。なら、お互い用事はさっさと済ませるべきである。
***
もうすぐ本番だ。先に男子、ついで女子の番だ。競技場の待機所でその時を待っている。いくつかのグループに分かれていて、みんな速く見える。どうにも落ち着かない。
落ち着かない時は靴紐を結び直すに限る。いつだったから神崎先生が言ってたそれを実践するためしゃがみ込む。交差する紐をギュッと直していると、鉢巻がずれて目にかかる。どっちから直すべきかと思っていたら、後ろから誰かが鉢巻を解いてくれる。
「結び直してあげる。」
サチだ。男子の後すぐに女子の出番だから、こうすけの後に続いて競技場内へ降りてきていたみたいだ。
「ね、こうすけくんは自信はある?」
なんでかはわからないけど、サチの声がいつもとちょっと違う。おれの頭の鉢巻を解いたあと、すぐ結べる直せるのをいつまでも結びなおそうとしない。もしかしたら緊張しているのかもしれない。記録の怖さを感じている可能性もある。普段おれを勇気づけてくれるような、その声が震えている。
なら、おれもいつもとちょっと違っててもいいかもしれない。
「ある! だって、今まで練習で積んできたものがあるからね。──サチが積んでくれた分もね。」
ざわざわと好き勝手に話をしている集団だ。他の誰にも聞こえなかったろう。でもサチにだけは届く。
「──ッ、もう! そんなにかっこいいこという子にはこうじゃ!」
鉢巻がギュッとキツく絞められる。きついきついと白旗をあげると、いつもの調子に戻った笑い声で丁寧に結び直される。
「ふふ、こうすけくん。ね、かっこいいところ見せてね。約束だよ?」
そういって、おれが靴紐を結び直す前に離れていってしまう。
でもそれでよかった。紐を結ぶからって、下を向いていてよかった。だって、今おれってば、すごい顔が真っ赤になっていると思うから。
***
ざわざわと不規則に動き回る集団から抜け出し、赤茶色のトラックへと歩き出す。一緒に走る六人と、地面に描かれた白い線にならんでいく。
軽く足元を確かめるようにその場で跳ねてみる。思ったより弾む感触。先生が言った通り、スピードが出そうだ。
小さな声で大門が話しかけてくる。
「じゃ、頑張ろうぜ。」
「うん。頑張ろう。」
少しだけ大門の顔が赤い。第一と第二でライバル!なんて思ってもなさそうに話していたけど、それでも全勝って言葉は重いのかもしれない。もしくは一位を狙うっていった言葉そのものか。
こういう大会に出るのが初めてのおれにはよく分からない。
それよりも、おれはこのレースで強い自分でいられるか。それだけを気にしている。そうすればかっこよさはついてくると思う。だってさ、あんなふうに言われて奮起しない男子はいないんだから。
並んで、ピストルを持った職員さんが、大きく声を張り上げる。3.2.1,ピストルから煙!
飛び出したのは大門だ。六人まとめて置き去りにしてやるとばかりに、その大きな手足を使って一気に前に出る。まるで短距離走と思うようなダイナミックなフォームだ。
一人抜け出した大門と、それ以外の五人。どんどんおれを、おれたちを引き離していく。
たまらずに五人のうち一人が速度をあげる。ついで、他の四人も。たちまちおれ一人が取り残される。トラック上で誰からも分かるくらいのビリッケツ。ちょっと嫌だなと思う。
けど、長い道だ。このペースが今のおれには合っている。
どくどくと心臓が脈を打つ。汗が額の鉢巻に染み込まれ、少しだけ冷える。手のひらから力を抜く。代わりに背筋を伸ばす。体の中心に揺らぎはない。腕はよく触れている。引き寄せる腕が、反動で腰を回す。その先が振り出され、トラックの気持ちのいい弾力がおれの体を前へと進める。
1周を過ぎて、第一小のみんなの前を過ぎる。スタンドから、大きな声。ケンちゃんの怒鳴り声が響く。ぶちぬけなんて言われても今は困る。
周を重ねて、少しだけ先をいく四人の足音が近づく。自分の体に集中する。指折り数えるように、のこりの体力とスピードを天秤にかけていく。
まず一人、外側から抜く。抜かれた子が必死になって食らいついてこようとする。おれはペースを変えない。ただ、走り切れる最大の速度、強さを維持していく。だんだんと力を無くして距離が離れていく。そして次の一人が近づいてくる。3000mはやはり長いのだ。いきなり飛び出した大門を無理に追いかけたものだから完全に息が上がってしまってる。マラソンは貯金も前借りも許してくれない。使った分をきっちり素直に持っていくのだ。
周ごとに、一人ずつを丁寧に抜いていく。その度に歓声が大きくなっていく。ビリッケツがどんどん抜いていくんだから、見る分には爽快だろう。
走ってるおれとはいえば、必死そのものだ。初めに見積もった速度がちょっときつかった。やはり大会でみんなの声援を浴びながらだと、正確なペースっていうのは見誤ってしまうものみたいだ。
それでも走る。きつくても、まだ無理じゃない。これまで積み上げてきた練習が、その事実をおれに教える。もしやれないのなら、それはおれが諦めたってことだ。そういう厳しさが、おれの中にもあった。
最後の一周までのことはあまり覚えていない。でもそこまで大門はずっと一位のままだった。ひたすら一位と最後から上がって二位までくるのは、どっちが辛いかはわからない。でも、確かに大門はすごいと思えた。
後ろから見ても、大門の息は絶え絶えでフォームも乱れているのが分かる。それでもまだ速い。しかもおれの足音に気がついたみたいで、ペースをあげることすらして見せた。
でも、おれの方が少しだけ、速い。
ケンちゃんの声がでかく、届く。
「コースケェ! ブーストしろブーストォオ!!」
そんなこと言われたって困る。でも元気をもらった。
なけなしのそれを体に投入する。あとは残り100m。すでに大門と並んでいる。横目にその姿が見える。ひたすら、ただの根性で走る。一気に息が上がって、体中が重しをつけたみたいに動かしにくくなる。
今さらだけど、こんなの、何が楽しいのか。だってただひたすら走るだけだ。吸っても吸っても体に酸素が届かない気がする。吐いても吐いても二酸化炭素は抜けていかないように思える。ただただ苦しくて、苦しくてたまらない。
それでも力づくで腕を振り上げ、反動を使って強く引く。なにくそと、残った筋力を総動員だ。腕を振り回した力が腰に伝わる。脚はその勢いを使って前へ後ろへと忙しい。呼吸を強引に動きに合わせる。全身の動き、それら全てを前に進む力に変えていく。
酸素が足りない! 休みが欲しい! 頭の中がうるさすぎる! 黙って吸えるだけ吸って、吐けるだけ吐く!
多分、同じ気持ちをわかってくれるのは、隣を走る大門だけ。そんな同士相手であっても、その前に行きたいと、おれの中の闘争心が燃えている。
目が眩むような疲労と闘争心の中、声が聞こえた。
──その声を聞き漏らすことはない。だって、ずっと聞きたかった声が、おれの名前を叫んでいるんだ。
そうだ。
その声は、どんなに苦しくても、おれを奮い立たせる。
もう限界だって思ってるのに、それでも体は動く。だって見ていてほしいのだ。おれがここまで積み上げてきたものを。この声にどれだけ力をもらっているかってことを!
最後まで走り切ることができる。そう信じられるのは──あの声のおかげだ。
今、こんなにも苦しくて楽しくて仕方ないのは、積んできた練習が背中を押すから。絶対に走り切ってやると燃えてるのは、あの子にいいところを見せたいから!
結局ただそれだけだ!
***
力はもうこれ以上出ない。余力なんてない。でも気力をもらった。ならまだできることはあるはず。大門とはまだ横並び。勝てるかもわからない。それでいいのか? よくはない。だって、おれはかっこいいところを見せると約束したのだ。
かっこいい、強いランナー。箱根を駆け抜けるそのイメージに従って、わずかに体の使い方を変える。白鳥のような、ゆったりと大きく、それでいて滑らかで激しいあの走りへ、少しだけ近づけてみる。あの雪の残る山道に、今自分がいるのだ。
そのように走る。でも、理想を描けたのはただの数秒。
次の瞬間にはテープを切っていた。つい振り向くとちょうど一歩分の後に、大門がいた。
止められない勢いのまま、神崎先生がでかいタオルでおれを受け止めてくれた。大歓声が遅れて聞こえてくる。
ああ、やったのか。どうかな、見ててくれたかな? かっこよく走れてたかな? 最後のスパートで息が苦しくて仕方がない。思わず膝をつきそうになるほど、全身から疲れと汗が噴き出している。でも、考えてたのはただそれだけ。かっこつけ野郎だなって思うけど、まあ仕方ないよね。かっこいいところを見せたいもんな。
***
「すごい! コースケ! よくやった! すごいぞ!」
すぐにやってきた神崎先生が、ガシガシとタオルでおれの汗を拭きとっていく。力ずくで丁寧さとかは全然ないんだけど、抗う体力もないからされるがまま。みんなが集まってきてくれている。みんながおれの走る姿をみて、その結果を喜んでくれていることが本当にうれしい。…うれしいけど、でも、サチがいてくれたらいいのに。でもすぐサチの番だものな。
乱暴におれの背中を叩くケンちゃんとか、よくやったって褒めてくれる六年やすげぇと叫んでる四年。その合間を縫うように、遠目にサチを探す。
トラックのスタート位置へ向かうための集団にいる。遠いなぁ。でも、全然遠いのに、みんなの隙間からちょっとだけ見てるだけなのに、サチと目があった。ウソじゃなくて、ホントに。
その薄桃の唇が形作った言葉、それが聞こえないはずの距離を軽々越えておれに届いた。
その言葉に思わず頭に血がのぼってふらついてしまう。大丈夫かなんてみんなが慌ててるけど、おれはそれどころじゃない。
届いたその言葉が確かなら。
おれは、約束を果たせたってこと!
***
興奮の冷めないケンちゃんやみんなと共にそのままサチを応援する。トラックのスタート位置に並んで、ただ前を見ている。ここから見ていても、やっぱりスラッとしていてかっこいい。
横並びになって、軽く跳ねたり、手首を回したり。全員が並び終わると、途端に静かになる。係の人が右腕をあげた。
煙が銃口から覗くころには、すでに全員がスタートダッシュを決めている。
サチの走る姿は時折見とれてしまうことがある。いつも見ているけれど、今日は本番用にしっかりとしたウェアだから、なおさらだ。長い手足が軽やかに細い体を運んでいく。
まずは一周。おれたちの時とは違って誰が飛び出すでもなくて、一塊になっているように見える。それでもサチを見逃すことはない。応援席から全力で声をあげる。聞こえているかはわからない。こちらも見ることもない。でも届いてはいる。だっておれは確かにみんなの応援を感じていたから。人の気持ちを読むのがうまいサチなら、おれよりよほどしっかり受け取れているに違いない。
まっすぐに、ただ前だけを見ている。それだけのことが、とてもよく見える。強い選手って言うけれど、サチの場合はきれいって言葉の方があってる気がするな。
ふと視線を感じて隣を見る。ケンちゃんがなぜか口をぽかんと開けたまま、おれをまじまじと見ている。信じられないものを見たような顔。どうしたんだろう?
「お前、すごいこと言うな……。」
まさか…今の、口に出てた? うっそだろ?! なんとかごまかさなくてはならない!!
が、言葉を考えるよりも先に頭が前に向けさせられる。おれとケンちゃんの頭には、神崎先生の大きな手。
「今は応援! ほら、もう半分過ぎてるよ!」
確かにその通りだ。あとから応援が足りてないと文句を言われても困る。ただ、これが終わったら絶対にケンちゃんには口止めをしなくては。おれの人生にかかわってくる秘密だからな。
のどがつぶれるかと思うくらい、全力で声を張り上げる。代り映えのない頑張れって言葉だけど、それしか思いつかない。いろいろ考えるよりはシンプルな方がいいってテレビでも見たような気もするし。
残り2周のタイミングでサチが勝負をかけた。少しずつ静かにペースを上げている。ここまで力を残して置けること自体が信じられないけど、それに遅れずに合わせる他の選手もとんでもないって思う。
それでも自分でスパートをかけたサチは、掛けさせられた他の選手より優位にある。一人、二人が失速する。残りは二人。三人人並びになって最後の200m、直線を駆けていく。ここまで来たらあとは維持と根性!応援にも熱が入りまくる。この後声が出なくても後悔なんてないんだから、息が続く限り声をかけ続ける。おれの、おれたちの応援が力になったのかはわからない。でも、最後の一人をサチがわずかに上回った。
サチが勝ったんだ! 一位だ!
「サチが勝った!! すごい! サイコーだ!!」
先生はさっさと競技場に降りている。短距離チームの先生が今頃サチを受け止めているはず。おれだって早くおめでとうを言いたい。
「先生ずるいって!」
文句を言いながらもサチの元へ急ぐ。
短距離コーチのしずえ先生に抱えられて、サチがトラックから出てきている。すでに神崎先生がすごいすごいと褒めているが、さすがにおれの時みたいに頭をぐりぐりはしていないみたい。だからおれたちも同じように、サチを囲んで全力でほめたたえる。もう少しスペースがあったら胴上げをしたいところだったんだけど、それはよしておいた。さすがにサチに怒られそうな気がしたからね。
***
全員の出番が終わって、ユニフォームを脱いでいつもの服装に戻った。短パンで裾も丈も短くて恥ずかしかったけど、確かに走りやすかったしレースだなって気持ちになれた。そもそも周りもみんな同じような服装だったし、あれはあれでよかったな。
一人うなづいていると、更衣室の出入り口とは逆側からぽんと肩をたたかれる。振り向くとほっぺたに指が突き刺さる。
「あのねぇ。」
「ひっかかった~!」
今時1年生みたいないたずらをする奴がいるか。いたわ。サチだ。汗を流して、髪をそのままおろしている。いつものポニーテールではない。同じサチのはずなのに、たかが髪型一つでまるで別人みたいに見える。振り向いた直後は正直誰かと思ったくらい。すぐに分かったけどさ。
子供みたいにからからと笑うサチが、突然真顔になるからどうしたのかと思う。でも続く言葉に気が抜けた。
「ね、わたしまだちゃんとこうすけ君から褒めてもらってないなぁって。」
あれ??めっちゃみんなで囲んで褒めまくったのを覚えてない? 目を丸くしたのに気づいてサチが早口になる。
「えっとね、ほらさっきはみんなと一緒にすごい一気に言われちゃったから、だれがどんな風に褒めてくれたのかわかんなかったのね! だからほら! わたしすごく頑張ったんだから、ちゃんと褒めること!」
まあそういわれればそうかもしれない。むしろみんなで盛り上がりすぎて注意されたくらいだものな。とはいえ改めて面と向かって褒めるのはなんだか恥ずかしい。
「あー、すごい! サチすごい! 頑張った! 感動した!」
こういう時は勢いに乗るに限る。実際に思ったことでもあるし、さっき言った言葉でもある。これならいけるだろう。
が、駄目みたい。キラキラしていた目が、半目になってジトーっとおれをにらむ。どうも選択を間違えたみたい。バタバタと両手を振って、正しい選択を俺に迫る。
「そんなのじゃみんなとわちゃわちゃ言ってたのと変わらないでしょ! 神崎先生じゃないんだから、しっかりと褒めて! ほら、ちゃんと、わたしのことなんて思ったか口に出しなさい!」
フンスと胸を張っておれに指を突き付けてくる。それはなかなか難しい話だと思う!
だが、なにやらおかしい気がする。だって、褒めろって言ったのに、サチのことを言えだなんて。何かがチリチリとおれの首をひりつかせる。
まるで、
瞬間、戦慄が走る。待て、嘘だろ? ケンちゃん!? まさか、言ってないよな? あの時口から飛び出た言葉を、口止めしていないことにようやく気が付いた。
おれが着替えている間、ケンちゃんはどこにいた? なぜ、サチは更衣室と逆の方から来た?
そのすべてが一つの答えを示している。でもそんなことある??
にこにこと、すごくニコニコとしている。こんなに機嫌のいいサチは初めて見る。まるでクリスマスプレゼントと誕生日プレゼントをいっぺんに貰えると知っている子供のよう!
「ほら、いいんだよ? 思ったこと、全部言ってくれて。言って楽になっちゃお? 大丈夫、誰も聞いてないよ?」
一番言えない相手が聞いてくるんだから始末に負えない! サチの白くて暖かい手のひらが、おれの肩に乗せられる。ほら、聞いてあげるよ? なんて耳元でささやかれたら、もう駄目でしょ。
──結局、洗いざらい全部を聞きだされてしまうのだった。顔から火が出るかと思った。
***
陸上記録会も終わって、もう練習はない。でもついつい校庭に残ってしまっている。先週までは放課後のこの時間もずっと走っていたから、なんとなく体がむずむずする。あの体育の授業でいやいや走っていたのがウソみたいだ。
「まだ帰るには早いよなぁ。」
おっと、また口に出てた。独り言が聞かれてたら恥ずかしい。周りを恐る恐る見渡すと、ちょうど真後ろにサチ。いきなりおれが振り向いたものだから固まってる。たぶん目隠しでもやりたかったんだろうな。
「…確かにまだ早いよねぇ。」
うかつな独り言に、いたずら現行犯。これは痛み分けかな。
「正直こんなに走るのに慣れるなんて思わなかったよ。サッカーとかバスケならともかく、走るだけなのにあんなに楽しかったことも。」
鉄棒に両腕を掛けてぶらぶらと体を揺らす。校庭のトラックでは、低学年の子たちがボールを蹴っている。
「わたしも、こうすけ君がここまで本気で走ってくれるとは思ってなかったカモ。」
「そうなの?」
「うん。だって、初めの頃は1周でもひぃひぃ言ってたでしょ?ずっと辛すぎるって口から出てたよ?」
半笑いでサチが言う。そうか、そんなに前から色々口からこぼれてたんだな…。変にかっこつけた言葉とか聞かれてなきゃいいんだけど。
「それで、わたし思うんだけどね。」
「うん?」
「きっとこのまま走るの続けてったら、すごいことになるよ。そう、きっとね、こうすけ君はすっごく強い選手に成れると思う!」
「ええ~、それ何見て言ってるのさ…。記録会1位程度じゃそこまで夢見れないでしょうよ。」
「あー、そういうこと言うんだ?でも許してあげる! ね、耳貸して?」
ちょいちょいと手招きをされる。いや、耳を貸すほど近くに行ったら緊張でそれどころじゃないからね。
「もう、すぐ照れるんだから。──こないださ、わたしのこときれいだって言ってくれでしょ。それで、わたしもね、こうすけ君の走り方、一番きれいだって思うから。それが理由。ダメ?」
そんなことを言われたら、そんな風に言われたら!
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ざわざわと、辺り一帯が不安と期待にざわめいている。一月。芯から冷える寒さの中、それでも確かな熱気がここにはある。
左腕のランニングウォッチを確認する。スタートまでは後2分。ボタンをカチリと押して、いつでも記録を始められるように準備をしておく。ピッと音が鳴る。同じメーカーを着けているのだろう、辺りからも同じような音がしている。周りは陸上競技特有の裾も丈も短いウェアばかり。
まあ俺だってそうなんだけど。
今か今かとスタートの号砲を待ちわびている。体が冷える前に走り出したい。というか、レース前はいつだって自分の力を試したくて仕方ないのだ。どれだけ練習を積んできたか、頑張ってきたかを表に出す機会なんだから。
それに、肩にはタスキがかけられている。今からこのタスキを、遥か先の仲間へと届けるのだ。別にレースを自分の力を示すためだけに走っているってわけじゃない。みんなのおかげで走れているってこと、感謝を示す場でもある。でもこのタスキはちょっと違う。正真正銘、チームの仲間のために、みんなのために走ることになる。自分の頑張りが、そのまま仲間に届く。これはやる気が出る。だから早くスタートの合図が欲しい。いつだって準備はいいんだからさ。
そんなことを思ってたら、ふと、昔言われた言葉を思い出した。
”このまま走るの続けてったら、すごいことになるよ”
あれは確か、初めて長距離走を走った後に言われたんだったか。地域の小学校での小さな陸上記録会だ。距離も3000m。今の俺からすればウォーミングアップ程度の短い距離。あの頃はとんでもない距離だと思ったもんだ。
それを考えると、確かに今いる場所はとんでもないところだなぁと思う。上空にはヘリがいるし、白バイの先導もある。そうだ、かつてあこがれた舞台に立っている。これはすごいよな。本当に、走り続けていたから、すごいことになった、と言えるかもしれない。
でも、本当にすごいのはここからだ。ここからにしてみせる。すごい舞台だけど、まだまだ上にはすごい人たちがいるんだから、そこまで行くのなら歩いてちゃだめだ。全力で走っていかなきゃ。
息を吐く。白く靄があっという間に薄れて消える。路肩には白い雪が残る。そしてスタートから少し離れた歩道からは、他の誰よりも聞き慣れた声が届く。
ああ、誰に応援されるより、ただただその声が嬉しい。
スターターの腕が上がる。スタートラインに構えた選手の動きが止まり、その瞬間を待つ。
号砲が鳴り、俺の体が弾けるように飛び出していく。参加者の足音が地鳴りのよう。今、その先頭に俺がいる。
これからしばらくは走るだけ。ひたすらに走っていく。神崎先生の教えの通り、持っていくのは平常心。闘争心はポケットにでも隠しておく。
苦しいし、辛いし、休みたくなるような大変な道。それでも、なんだか楽しいって思えるから走るって不思議だ。
さあ、長い道のりだ。楽しく行こう!
終わり
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