世界への帰路〜Return to the world〜 作:碧谷十色
1話 嘘じゃないウソ
「……あんたさ、今から私の家……みたいな場所、来る? 行く当てないでしょ。それにね、私が住んでる場所、病院なのよ。もしあんたが頭とか打って記憶なくしてたりしたら、治療できるわよ」
「……んいやぁ、別にどこも痛くねーよ?」
「いい? 頭を打つのってとても危険なのよ? それに、夜はどうするのよ。ここでずっと寝とくつもり?」
「お前んとこ行ってもいーのか? 金、とか持ってねーぞ。多分」
「知ってるわよ。記憶なくした人にまでお金は請求しないわ」
「……じゃ、行かせてもらおうかな」
「わかった、じゃあ私ちょっと帰る準備するから、待ってて」
「何か、やってたのか?」
「絵をね、描いてたの。……見に来る?」
あぁ、確かに海も空も青く綺麗で、絵を描くのにはぴったりな景色なのかもしれない。
「いいのか?」
「……誰かに見てもらえるのは、嬉しいから。いいわよ」
「じゃ、見る」
「あの崖の上に、いろいろ置いてあるのが見える?」
言われるがままに上を見上げると、小さく何かが見えた。
「あそこで絵を描いてるの、毎日」
「毎日?」
「えぇそうよ。天気が特別悪くなければね」
毎日、同じ場所で絵を描くなんて、飽きるのではないだろうか。
崖の上を目指して歩き出した彼女を、俺は追いかけて歩いた。
崖の上には、一枚の絵と絵の具らしきものなどの道具が置いてあった。
大きな板みたいなものに描かれた絵は、綺麗な景色をそのまま写したようで、一瞬目を奪われた。
「……綺麗だな」
思ったことをそのまま、声に出した。もしかしたらもっとこの絵に相応しい言葉があるかもしれないが、俺はそんな言葉を持ち合わせていなかった。
「……! そう? この絵、綺麗?」
「あぁ、綺麗だと思う。絵とかよく知らねーけどさ、海とか空とか、すげー綺麗だ」
「ふふっ。ありがとう。私、ここから見る海が大好きなの。この島で一番綺麗な場所なのよ」
海を眺めたまま綻んだ顔をして、先ほどよりもトーンが上がった声でそう言った。彼女は絵が、この景色が、大好きなんだろうな、と自分のことさえよく知らない俺が彼女のことを一つ知った気になった。
「早く片付けなきゃね。片付けたら私の家に連れてくわ。絵を褒めてくれたお礼に部屋を一室貸してあげる。まぁ、使ってない部屋なんだけどね。ベッドもあるわ」
「泊めてくれるのか?」
「もともと泊めるつもり。プラスでベッドをつけてあげる。寝心地は期待しないで」
「ありがとう、助かる!」
「さて、帰るわよ。この道具持ってってくれない? 手空いてるでしょ?」
使い方は知らない道具の箱を渡される。
彼女は絵を抱えて先を歩いた。
「ここが、私が住んでいる家」
彼女が住んでいる場所は、確かに病院のようだった。小さい病院。
「ただいまー。ねぇ、ちょっと診てほしい人がいるんだけど、いいー?」
彼女が病院の戸を開いて誰かを呼ぶ。
「私、この絵を置いてくるからさ、ちょっと待ってて。すぐトクさんが来ると思うわ。じゃ」
「いや、待てトクって誰だよ。おいって!」
走り去ってしまう。いや誰だよ。この病院の奴だってことはわかるが、トクって誰だよ。
「すまないね。怪我人がいたもんで……おや、アルスがどこにいるか知ってるかい?」
戸が開いて女が出てきた。この人がきっとトクだろう。
「あ、アルスなら、絵を片付けるとかなんとか言って向こうへ」
「そうかい、それじゃお前がアルスが言ってた人だね。こっちに来なさい」
「あ、トクさん! ただいま帰りましたー!」
絵を置いてきたらしいアルスが戻ってくる。
「患者を1人で放っとくんじゃないよ。それに見ない顔だね」
「元気っぽいから大丈夫でしょ? こいつはね、浜辺で倒れてた。で、記憶がないっぽいのよ」
「それで検査しろと」
「そう!」
トクが俺を眺める。じろりと上から下まで注意深く見たうえで、口を開いた。
「目立った外傷はなさそうだね。もう少し詳しく調べたいから、こっちに来なさい」
部屋の中へ入っていったのを追いかけた。
よくわからない機器を使って、よくわからない検査をされた。
結果は異常なし。だが異常がないことが異常である。
記憶をなくしているくせに異常がないなんて、それこそ不可解極まりない。だが、さっき船に行った時の妙な感覚を思えば、やはり頭をぶつけたとかそういうことではない気がする。
「あんた、なにか一つでも覚えてないかい?」
「なにか?」
「あぁ、こんなに何も傷一つないのに記憶がないなんて、聞いたことなくてね。私には治療できそうにないよ。すまないね」
「い、いや! しょうがねぇよ。俺もわかんねぇんだ。元々、治療はできないだろうと思ってたしよ」
「すまないね。今日はうちで泊っていきなさい。おいアルス、部屋が一部屋余ってるだろう。貸してやりなさい」
「もともとそのつもりよ」
小さな部屋に通される。使ってない部屋と言いながら掃除はされていたようで、とくに汚れてる様子もなかった。
「私の部屋は隣にあるから、何かあったら呼んで」
「おう、ありがとう。助かった」
「えぇ……、記憶、戻りそうになくて、ごめんなさい」
「いやいや、お前のせいじゃないだろ。そもそも、記憶をなくした俺がわりぃし」
「……そう。……それじゃあ、また明日ね。おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
小さな部屋にある小さなベッドは、とても寝心地がよかった。
朝起きると、日はまだ登ったばかりらしく、薄っすらと明るくなりかけていた。
さて、どうしようか。俺はリーブとやらに行かねばならぬ気がするのだ。それにこの家に泊めてもらっていたって何もできない。明日以降は野宿か、またこの部屋を貸してもらっていても迷惑をかけるだけである。
船は動くだろうか。そもそも船を動かす技術を俺は持っていない。船旅が楽じゃないことは容易に想像できる。
それでも、行かなくてはならないと、そう思うのだ。
扉を軽く叩く音が聞こえた。
「……。ねぇ、起きてる?」
小さく、起こさないぎりぎりの控えめな声だ。
「あぁ、起きてる」
「入っていい?」
「どうぞ」
ゆっくりと扉を開けられる。
「起きてたのね。てっきりまだ寝てると思ってた」
「目が覚めちまったんだ」
「そう。で、話があるんだけど、いい?」
分厚い本を抱えたまま、彼女は部屋の隅にある椅子に腰掛けた。
「……なんの話だ?」
「リーブについて」
「! お前知ってんのか?」
「ううん、知らないから、ちょっと調べてみたのよ」
そう言うと、彼女は本を開いた。俺が本だと思っていたそれは分厚い地図であった。
彼女は少し眉を寄せて口を開く。
「どれだけ調べても、リーブなんて島は出てこないのよ」
「……」
「この地図だけじゃないわ。他の文献も少し眺めたけど、リーブの文字すらないわ」
それじゃあ、リーブなんてどこにもないのだろうか。
いや、でも、ある気がするのだ。どこにも根拠なんてありゃしないが、それでも。リーブの三文字を見た時、何かが俺の中を駆け巡ったのだから。
「なぁ、航海術とかの本があったりしねぇか?」
「……どうして?」
「俺は海に行くんだ。リーブを探さなきゃなんねぇ。さっき、俺が決めた」
「どこにあるのかもわからないのよ?」
「だから、探すんだ。旅をするんだ。難しいのはわかってるけど、もう決めた!」
「……ふふ、旅ね。楽しそう。私もね、昔、旅に出たいと思ったことがあるのよ」
彼女の声色は、なにか少し諦めたようだった。
「……」
「私ね、絵をかくのが大好きなの」
あぁ、それは知ってる。自分のことすらよくわからない俺が、絵を眺めて語る彼女の目を見て、すぐにわかった。
「世界中の、美しい景色の絵を描くことが、夢だったのよ」
「それじゃあ、俺と一緒に来るか?」
「いいえ、……気持ちだけもらっとく、私にはやらなといけないことがあるの」
「……なんだ?」
「どんな病気も直せるような医者になるのよ。そして、この病院を継ぐの」
その言葉に、嘘はなかった。でも、本音ではない。
「……」
俺はなんだか何も言えなくて、黙ってしまった。
「旅に出るの、私は賛成よ。航海術の本は私の部屋に山ほどあるわ。私の父は旅人だったの。この地図も、父のものよ」
彼女の部屋につくと、壁一面に広がる本棚に驚いた。
「この本たち全部、父が残してった本よ。父もね、絵描きだったの。私はそれに憧れた」
「あぁ、だから絵を描いてんのか」
「そう。父は絵を描きながら世界中を旅してた。会えるのはたまにだったけど、とてもきれいな絵を見るのが好きだったわ」
「今もどこかを旅してんのか?」
「……」
俺はそう聞くと、彼女は黙ってしまった。
「……ねぇ、あんたって、海の旅に出るんだよね」
「あぁ……そのつもりだ」
「だったら、……私の話を一つ、聞いてくれる?」
彼女は少しばかり俯いて、呟くように言葉を紡いだ。