世界への帰路〜Return to the world〜   作:碧谷十色

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第二話 心の描き方

 心の描き方

 

 幼い頃から、家には父親がいなかった。いや、実際にはいるんだけど、たまにしか会えない。それでも時々家に帰ってきてくれるから、その時間が好きだった。

 わたしの父親は旅をしながら絵描きをやっていた。小さな一隻の船に数人で乗っていた。

 時々ビューに戻ってくると、わたしの絵を見せてくれながら、旅の話をした。わたしは父の絵が好きで、父の話が好きだった。

 

「なぁ、アルス。この世界は広い。僕ですら見たことのない島がたくさんあるんだ」

「確かに旅は危ないがなぁ、それ以上のものが手に入るぞ」

「いいかいアルス。絵を描くことは心を描くことだ。目の前にあることをそのまま描くのもいいが、心の思うままに描いてみなさい。お前の絵は上手だが、素直さが足りない」

「世界をお前自身の目で見てみなさい。美しいぞ、とても、それこそ絵では表せないほどにね。僕は、お前に世界を見てほしい」

 

 父は、旅の話をしている時や、わたしに絵を教えている途中にこんなことを言った。わたしは父の言葉を聞いて、旅に憧れた。父の美しい絵ですら表せない世界を、見てみたかった。海が美しく見えた。美しい海の外に何があるのか、わたしは知りたかった。

 

 海は恐ろしいと知った。海は父を奪っていった。

 

 ある日、父とともに旅をしていた男性が、わたしの家を訪れた。なんだか顔が暗くて、空気が重かった。

 嫌な予感がして、背中を冷たい汗が流れていった。

 男性が、ゆっくりと口を開いた。

「すまない。あいつが、波に攫われて、死んだ」

 それ以上は何も言わなかった。それでもすべてがわかってしまった。あいつが誰を指すのかもすぐにわかってしまった。

 母は言葉を聞くと、崩れ落ちるように床に座り込んでそれから泣いていた。

 

 海は美しいと、そう聞いていた。父は海の美しさと、世界の広さをよく力説していた。

 父は美しい海に沈んだのだろうか。それとも恐ろしく濁った海に沈んだのだろうか。

 父は、海の美しさを疑ったことはなかったのだろうか。

 もしも、父がその美しさを疑うことなく、美しいものに包まれたとしたら、それがいい。

 

 海は恐ろしいらしい。簡単に人の命を奪ってしまうらしい。

 海は美しいらしい。筆で描くだけでは表せない美しさを持っているらしい。

 

 母はあれから、父の話を一切しなくなった。まるでずっと昔からこの家にはわたしと母以外住んだことがないみたいな、そのような態度をとった。

 悲しかった。亡くなった命を、そもそもなかった命にしたくなかった。

 母は海の美しさを信じていない。ただただ、恐ろしいものだと認識していた。わたしが海の話をすると怒鳴った。

 わたしは逃げた。父の言う美しい海を、どこか信じていた。今も信じてるけど。

 もともとトクさんの病院で助手じみたことをしていたから、そのまま住み込みで弟子にしてもらうことになった。

 

「それで、今ね。わたしね、いつかは海に出るのよ。ここの島の海を描き飽きて、そしたら、いつか。海は怖いんでしょうけどね、それでも父に憧れてしまうの」

「……」

「あ、気にしないでね。あなたは海に出るから、わたしのことなんて、この話と一緒に忘れちゃって」

「……お前は、その、お前の父が言ってたような、海を見たいんだろ?」

「……えぇ、そう、ね」

「それじゃあやっぱり、一緒に行こう! 海は綺麗だ。お前が描いていた海の絵のように。いつか、いつか、って別に早くたっていいだろ?」

「え」

「それに、お前は医者に弟子入りしてんだろ? だったら、船医として乗るのはどうだ?」

「でも、わたし、ここで……」

「……」

「トクさんにだって、ずっとお世話になってるし、突然それは……」

「お前は?」

「……」

「お前は行きたいんだろ?」

「……そうよ。ずっと、ずっと! わたしがどれだけ海に憧れたか、……でも無理よ」

 ガチャ、と扉を開く音がする。

「無理かどうかを、始める前に決めてちゃ、どうしようもないね」

「トクさん!?」

「盗み聞きをしたようで悪いね。でも、いいんじゃないかい?」

「ほら! トクも良いってよ!」

「でも、……」

「医療の知識を学んできなさい。この島だけじゃ学べない病気や治療法なんて数えきれないほどある。学んで、身につけて、いつか帰って来なさい。……お前は、ずっと海を見ていたくせに、いつまでも出ていかないから心配だったんだよ。良い機会だ」

「……本当に? 良いの?」

「可愛い子には旅をさせよ、文字どうりの意味で使うことは少ないがね」

 アルスはしばらく黙っていた。誰も喋らず、慎重な空気が流れて少し経った頃に、口を開いた。

「…………行きたい。海に出て、お父さんが言ってた美しい海を、見たい。危ないかもしれないけど、それでも、行きたい」

 その言葉はやはり、嘘ではないと感じる。小さな声ではあったが、確かにしっかりとした声だった。

「……それじゃあ、行っておいで。私は許可を出すよ」

 トクが満足そうに少し口角を上げて、部屋を出ていった。

「アルス! オレと来るんだな。仲間一号だ!」

「なによ一号って、ふふ、……わたし旅に出ることになっちゃったわ。母は怒るかも、でもきっと父は喜ぶわ」

「よし! じゃ、とりあえず船の動かし方を知ろう」

「……それすらできないのに、旅立とうとしてるのね」

「仕方がねーよ。オレなんか何にも知らねーんだ」

「そうね。わたしだって医者としてしか何も知らないわ。航海なんて全然わからない。でも、……楽しいわ。何も知らないくらいがちょうど良いわ。とりあえず、死なないくらいの知識を詰め込むわ」

「……お前、決めたら急だな。……ま、いいことか。出発はいつにしよう。なるべく早く行きてぇけど」

「それじゃあ、今日行きましょうよ」

「……オレは良いけど、良いのか? すぐ過ぎねぇか? そんなに急がなくたって」

「いいのよ。善は急げ。わたし、今から船の動かし方を覚えるわね」

 驚いた。さっきまで旅に行くことを渋っていたとは信じられないくらいに乗り気だ。よほど、旅に憧れていたのだろうか。もし、今オレが強引に誘わなかったら、彼女はいつか旅に出ることはあったのだろうか。ずっと憧れは憧れのままで、海の絵を描き続けていたのだろうか。

「楽しみだわ。今日なのね、海に出るの。あんたにわかる? わたしの今の気持ち」

「……だいぶ浮かれていることは事実だな」

「そうね、浮かれてる。自分でもわかるくらいには。でもね、嬉しいの。それと同時にね、少し……怖いわ」

「怖い? あぁ、海か」

「そう。それに、わたしはこの病院を継げなくなっちゃったな、と思って。トクさんは、ずっとわたしの面倒を見てくれて、物凄い量の知識を詰め込んでもらったわ。しきれないほどの感謝があるのよ」

「……いつか、帰ってくんだろ。そしたらさ、ここの医者になればいいよ。いつまで旅をすんのか、今は知らねぇし、リーブがすぐに見つかるとは思えねぇけど」

「そうね。……いろんな島のいろんな技術を盗んで帰るつもりよ。そしたら、きっとトクさんは驚くわね」

 

 病院の一室にいた。今日は休んでいるらしく、患者の姿はない。アルスは自室で航海術を覚えると言って籠ってしまった。

 トクに呼ばれて来たはいいが、肝心のトクがいないので手持無沙汰だった。

 この病院には、至る所に絵が飾ってあった。病院を外から見た絵や、森、果物、病院には関係のない絵まで。一貫して言えるのは、人は一切描かれていないことだった。どの絵にも、人はいなかった。それほど違和感でもないが、少しだけ気になった。

 一枚、ほかに比べて大きい絵があった。海の絵だ。昨日、崖の上で見たあの絵に、そっくりだった。雲の形や、波の動きが違うのだろうが、同じに見えた。一体、彼女はこの絵を何枚描いたのだろうか。きっと途方もない数なのだ。ほかの絵に比べ、海の絵は生きている気がする。何度も何度も描いて、心を吹き込んだのなら、心を描いたのなら、そうならば、オレは彼女に、

「その絵、綺麗だろう。私も気に入っている」

「……トクか」

 後ろを振り向けば、トクが立っていた。俺のほうは見ずに、絵を眺めていた。

「……アルスを、連れて行ってくれるんだろう。頼むよ。あの子に海を見せてやってくれ」

「あぁ、勿論だ。オレだって、旅はしたことない……というかなにもしたこと無いけど。海が綺麗な事は知ってる」

「頼んだよ。……あの子はね、あの子はいつか、旅に出ると思っていた。ずっと、ずっと、海を見ていたからね。いつまでこの島にいるつもりかと、そう思っていた。お前が来てくれてよかった。あの子を頼むよ。いい子なんだ」

「……あぁ、勿論だ」

 トクは、絵を眺めていた。アルスが海を眺めている時間と同じだけ、きっとトクはアルスの絵を眺めていた。オレはそう感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




こんにちは。十色です。長編を書こうと意気込んだはいいですが、なかなか難しいものですね。前回よりだいぶ経ってしまいました。三話は、なるべく早く書き上げるつもりですのでお願いいたします。
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