Verdant Echoes - グラスワンダー、里帰りしたら南北戦争に放り込まれる -   作:daidains

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アヤベさんの話の最終話を待たせたまま新シリーズを始めてしまったことはすまないと思っている。
もっと寝かせようと思ってたけど、もう我慢できねえ。


【第1話】わたしをかたちづくるもの

 

 

 私は何者なのか。

 私がそれを知れば、世界もまた姿を変えるだろう。

 

 だが、世界が先に姿を変えたなら――それを決めるのは、自分自身だ。

 

 

 

***

 

 

 

『この草原と空を見渡してみて――それが私たちを形作るものよ』

 

 幼い頃、母はこう語った。

 

 私はこの言葉を胸に、何度も故郷を走り回った。

 しかし、今私を包む空と大地は、果たしてあの時と同じものだろうか?

 

 草原を撫でる風、遠くから聞こえる鳥のさえずり、そして大地の匂い――これらは私にとって家そのものだった。故郷、ケンタッキーの牧草地にいるはずの私は、心に余白を取り戻すような静けさに包まれていた。けれど、その静けさの奥底には何かが違う。心のどこかに、絵の具がほんの少しだけはみ出してしまったような、不自然な違和感が横たわっていた。

 

 目を覚ますと、空は重たく濁り、光は鈍い金属のような輝きを帯びていた。ここはケンタッキーの牧草地──そう信じたかった。だが、私を包み込む空気は不自然に冷たく、そして、どこか血の気を感じさせた。それは夏の穏やかな草原が持つべき香りではなかった。

 

「……何でしょう?」

 

 私は立ち上がり、目の前の風景をじっと見つめた。草原は草原のままだ。しかし、水平線の向こうに見える木々のシルエットは、どこか不安定に揺らいでいるように見える。空気そのものが重い。こんな感覚を抱いたことはこれまで一度もなかった。

 

 無意識に足が動いた。景色は牧場の静けさを装っているが、風が運んでくる匂いは違う。濡れた鉄、焦げた何か、そして――かすかに塩気を帯びた、どこか生々しい気配。

 

 足元に広がる草の海は、静寂をたたえながら私を見上げていた。けれど進むにつれ、その静寂の向こうから、不気味な音が風に乗って聞こえてきた。乾いた破裂音──どこか遠くで木が裂けるような、しかし自然の産物ではない狂暴な響き。耳を澄ませば、混じり合った金属の音、叫び声のような何かが断続的に続いている。

 

「何か、おかしい……」

 

 小さな声が自然に漏れる。私は足を踏み出し、違和感の源を確かめるべくさらに歩を進めた。草むらをかき分けながら耳を澄ませる。風の音に混じって、断続的な音が聞こえる。乾いた音が幾重にも重なり合い、それが次第に一定のリズムを持ち始めた。私はその音が何であるか、すぐに理解した。

 

 

 銃声。

 

 

 ケンタッキーで暮らしていた私にとって、銃の音は全くの未知ではない。狩猟や射撃場で響くそれを耳にした経験があった。しかし、今聞こえている音には、明らかに違う性質があった。

 

 足元に目をやると、草葉の間にべっとりとした何かが付着しているのに気づいた。薄赤い、それでいてどこか黒ずんだ液体。鉄の匂いをまとったそれが血であることはすぐに分かった。私は言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。

 

 遠くに見える木々の間から、黒煙が上がっているのが見える。その手前に、何かが倒れているのが目に入った。それは人影だった。

 

 私は恐る恐る近づいた。草をかき分けて進むたびに湿った感触が足裏に伝わる。銃声や怒号が遠くで響いている中で、その影がわずかに動くのが見えた。

 

 倒れていたのは、泥と草にまみれた服を着た男だった。その服装から、農夫や労働者のように見えたが、確信はなかった。ただ、顔を上げる力すら残っていないのか、彼は薄く開いた瞼の隙間から私を見ているようだった。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 思わず声をかけたが、返事はない。男の手がわずかに動き、私の方に伸びてきた。冷え切った指先に触れると、どこか現実感が失われたような錯覚を覚えた。

 

 その時、再び銃声が響き、地面に何かが衝突する音がした。私のすぐ近くに土が跳ね、心臓が跳ねる。

 

 男の目が私を見ている。何かを訴えているようだったが、その言葉は私には届かない。ただ、この場所が私の知るケンタッキーではないことだけが確かだった。

 

 その瞬間、頭の中に母の言葉が甦る。

 

 

『この草原と空を見渡してみて――それが私たちを形作るものよ』

 

 

 私は何者なのか。

 

 この広い空と大地が、私を形作るのなら――

 

 

 

 今、私が目にするこの光景もまた、私自身の一部なのだろうか?

 

 

 

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・Union Cup

 アメリカ南北戦争時代(1861年–1865年)において、ケンタッキー州を中心に計画されたウマ娘による大規模競バレース。

 ケンタッキー州は南北の境界に位置する戦略的・政治的要衝であり、北部・南部双方の陣営から激しい争奪の対象となった。この結果、競バ関連施設の封鎖・破壊が相次ぎ、またウマ娘の多くが軍事目的で従軍したことで、州内の競バ文化は急速に衰退した。

 この状況を憂慮した競バ関係者やウマ娘たちの間で、競バ文化の復興を目指す運動が展開され、両陣営の和解と団結を訴える象徴として北部と南部のウマ娘が一堂に会するレースの開催が計画された。このレースは平和・団結・再建の象徴とされ、戦争の分断を超える試みとして注目を集めたが、資金不足や戦争の影響による調整の困難さから実現には至らなかった。「Union Cup」という名称は後世の俗称であり、正式名称は別に考えられていたという説もある。

 競バ文化の復興と戦時中の融和の象徴として、実現しなかったにもかかわらず、このレースは歴史的意義を持つ試みとして記憶されている。

 

関連項目:

ケンタッキー州の競バ史、南北戦争期のウマ娘文化、復興運動と競バ

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 日中は利用者で賑わっていたフロアからはすっかり人気も遠のき、カチカチとなる壁時計の音がはっきりと聞こえるほどの静寂が周囲を支配していた。上階の書棚はすっかり影たちの集合場所へと変わり、司書が図書室を閉める準備を黙々と進めている。どのような些細な音でも悪目立ちしてしまう空気――そのような中では、通常誰かが近づいてきたら、足音なり衣擦れの音なりで容易に認識できる。聴覚の鋭いウマ娘ならなおさら。

 しかしどこか思いつめた様子の彼女は、声をかけられるまでその人物の接近に気がつくことができなかった。

 

「――ス、グラス! 聞いてますか?」

「……あら?」

 

 グラスワンダーは読んでいた本から目を上げた。ふと気づくと、向かいの椅子から特徴的なマスクをかぶったウマ娘が顔を覗かせている。

 エルコンドルパサー。グラスワンダーの友人にして、黄金世代を共に担うライバルである。

 

「ごめんなさい、集中していて」

「それはそれは、試験前でもないのに図書室で没入するほどデス! ぜーんぜん部屋に戻ってこないから探しに来ちゃいましたよ。そしてすぐ近くにいる友達にもどーしても気づかないほどに読み耽るものっていうのは……」

 

 エルコンドルパサーは、テーブルランプで照らされた本の背表紙にちらりと目をやった。

 

「『アメリカ競バの歴史』?」

「ええ」

「予習デスか?」

「そういうわけでも。空いている時間にちょっと目を通してみただけです。そもそも私が社会科目で選択しているのは『日本史』と『日本の競バ史』ですし」

「ケ? じゃあどういう理由でデス?」

 

 グラスワンダーは膝の上のページを軽くめくった。そして、デボス加工が施され、いかにも高級そうな雰囲気を醸し出している表紙を撫でた。彼女の手に皮の装丁からザラザラとした感触が伝わってきた。

 

「……秘密、です♪」

「エル、どうしても気になり『だめです、教えません』」

 

 エルコンドルパサーの喉からぐぉぉ、という音が漏れた。彼女の顔にはコミカルな怒りマークが浮き出ている。表情は悔しげだが、トレードマークであるマスクの効果でむっつり顔は覆い隠され、戯れつく大型犬めいた愛嬌が出ているのを本人は気づいているだろうか。

 そんなほのぼのした友人を見るグラスワンダーの目はまるで近所の子どもを見つめるようだった。

 

「最後まで聞いてクダサーイ! だって気になって夜しか眠れないデスよ! 」

「エル、図書室では静かに、ですよ」

「もう誰もいないからちょっとくらい大丈夫デース! 気になる気になる気に――」

「ごめんなさい、でも私の問題ですから」

 

 グラスワンダーはいつもの微笑を浮かべてから、先ほどまで読み進めていたページまで紙を戻した。

 

「……まあ、無理して聞き出したりはしません。でもグラス最近思いつめてるコト多いデスし。何か悩みがあるなら、エルはいつでも相談に乗りますよ?」

 

 グラスワンダーの笑みが、少し深くなる。その笑顔にはどこか影があった。

 

「……ええ。ありがとう、エル」

「ケ? ……どういたしまして?」

「でも本当に大丈夫なの。心配しないで」

「そうデスか……」

 

 エルコンドルパサーは釈然としない様子で、「でも、もし何かあったらすぐに言ってください! 我慢強いにもほどがありますからね」と言った。

 グラスワンダーは目を細め再び笑ったが、相変わらずその目の奥にはわずかに暗さをたたえていた。

 

 

 

***

 

 

 

 

「はあっ、はあっ」

 

 乱れる息。

 流れる汗。

 

 ゴール板までもう後数百メートルなのに、脚にまるで力が入らない。

 こんなに懸命に走っているのに、少しも前へ進んでいる気がしない。

 

『さあ、最終直線に入りました! 先頭は代わってスペシャルウィーク! 後続との差をどんどん広げていきます! 』

 

 実況の声も、どこか遠く聞こえる。

 

『スペシャルウィーク、これは強い! 後続を一気に突き放し、今一着でゴールイン! 』

「はぁ……っ、はぁ……っ、はあっ」

 

 スペシャルウィークに続いてゴール板を駆け抜けた後、グラスワンダーは膝から崩れ落ちた。

 

 自分の心臓の鼓動だけが内側で大きく反響しているような感覚を覚える。頭のすぐ近く、血管の奥でぶつん、ぶつんという耳障りな音さえ聴こえてくる気がする。心臓が悲鳴を上げているのが分かった。全身が酸素を求めて口や鼻の先や顔の中心といったひどく皮膚の薄い部分に鈍い痛みを伴って殺到する。足の裏が異常な熱を帯びて疼いている。

 

『二着はグラスワンダー! 今度こそスペシャルウィークに勝つことを期待されていましたが、またも敗れてしまいました! 』

 

 息を整えようとするが、吐く息に圧倒されてうまく息を吸えない。まるで水中にいるかのようだった。

 

(また、負けて……。私は、また……)

 

 これでスペシャルウィークに対して直近5レース全敗。

 グラスワンダーは、スペシャルウィークのライバルであると同時に、黄金世代の一角として同世代最強の座を争う存在として、世間から大きな期待を寄せられている。しかし去年の春シーズンから今年にかけて、グラスワンダーはスペシャルウィークに勝てなくなっていた。

 

 原因ははっきりしない。だが二人が同じレースで走るたびに、グラスワンダーはスペシャルウィークに負け続けた。

 

(私は……)

 

「グラスちゃん」

 

 袖で顔を拭ってから顔を上げると、スペシャルウィークが目の前に立っていた。

 

「……スぺちゃん」

「今日は私の勝ちだね」

「今日『も』、です。不甲斐ない走りばかりで……自分が情けないです」

 

 そう言って、グラスワンダーは目を伏せた。スペシャルウィークの顔を見られない。悔しさともどかしさのあまり目が眩みそうだ。しかしグラスはその視線の低さをどうすることもできなかった。

 

「グラスちゃん」

 

 スペシャルウィークはグラスワンダーの肩に手を置いた。グラスワンダーの肩がわずかに震える。スペシャルウィークの手のひらから、彼女の体温が伝わってきた。

 

「今の私から言うのも煽りになっちゃうかもしれないけど、グラスちゃんは十分すごいよ。一緒に、次はもっといいレースをしよう! ……ね?」

「……ええ、今度こそ。このままでいいわけがありません。次こそ、絶対にスぺちゃんに勝ってみせます」

 

 グラスワンダーは顔を上げた。先ほど拭ったのに、彼女の頬は濡れていて、無理に上げた口元が痛々しかった。スペシャルウィークはそんな彼女の顔を黙って見ていたが、しばらくしてこう言った。

 

「グラスちゃん、前、こう言ってくれたよね」

 

 グラスワンダーは小首を傾げた。前とは、いつのことだろう? そう問い返す前にスペシャルウィークが続けた。

 

「『私はスペちゃんだからこそ全力でした。スペちゃんは、私に全力で来てくれましたか?』って」

「……!」

 

 それは二人が宝塚記念で初対戦した時の会話だった。当時スペシャルウィークは故障からの復帰を目指す先輩、サイレンススズカのリハビリに付きっきりで、レースに全く集中できていなかった。そのためグラスワンダーの徹底マークを振り切ることができず、3バ身差の2着に甘んじることになった。終始目標を見失ったまま走るスペシャルウィークに対し、グラスワンダーは思いのたけをぶつけたのだった。

 

「今のグラスちゃん、前の私と似ているところがあるように見えちゃって。必死だけど、全力を出せてるようには見えなくて――ごめんね、なんだかうまく言葉にできないや」

 

 スペシャルウィークは、自分の感じたことをどうにか言葉にしようと試み、少しの間不器用にまごついた。しかし結局どうにもできなかったのか、最終的にはえへへ、とごまかすように人差し指で頬を掻いた。

 

「……グラスちゃん、私、待ってるから」

「え?」

「最近のグラスちゃん、ずっと焦ってるように見える。うまく言えないけど、レースに対する気持ちが前より切羽詰まってる感じがして」

「……」

「だからね、グラスちゃんがまた私と同じレースを、前と同じように走ってくれるのを、待ってる。グラスちゃんがまた、自分らしく走れるようになったら、もっといいレースがきっとできる。だから」

 

 私、ずっと待ってるから。スペシャルウィークはそう繰り返した。

 

 スペシャルウィークは、グラスワンダーの焦りや不安を見抜きながらも、それを受け止め、グラスワンダーが再び前を向けると信じている。そのことが、今のグラスには嬉しかった。そして同時に、彼女は自分の不甲斐なさに歯嚙みしたくなった。

 

「ありがとう、スぺちゃん」

 

(私は……なんて情けない)

 

 

 

***

 

 

 

「トレーナーさん、練習禁止ってどういうことですか!?」

 

 

 




歴史ものは初挑戦です。
こういうの読みたいけど自分じゃ力不足だから誰か代わりに書いてくれ、と知人・友人たちに言い続けてきましたが、誰もやってくれないからもう自分でやるしかねえ。
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