オルフェーヴルは前書きにも書いた通りですが、この話を書いたときはジェンティルドンナもまだ未実装だったので、ジェンティルドンナの方も少し描写に違和感があるかもしれません。
何年も生きていると、本能的に『終わった』と直感できる場面に遭うことがある。
例えば、解答欄のズレに共通テスト終了三分前で気づいた時。
例えば、勢いに任せて飛び出した横断歩道でトラックが目の前まで迫っていた時。
例えば、初出勤の日に昼まで爆睡してしまっていた時。
そして例えば、金色の暴君であるオルフェーヴルに壁ドンをしてしまった時。
金色の暴君。黄金色の芸術 。
そう評されるほどの美しい愛バであるオルフェーヴルの顔が、文字通り目と鼻の先にあった。
細胞単位で違うのではないかと思える肌のキメ細やかさまで、ハッキリと見えるようだった。
「っ!ごっ、ごめんオルフェーヴル!!」
壁ドンをした張本人であるオルフェーヴルのトレーナーは、自分の呼吸が止まったのを感じた。
身体中から汗が噴き出し、心臓がドクドクと早鐘を打つ。トレーナーに尻尾があれば、今頃真っ直ぐに伸びていただろう。
対する愛バのオルフェーヴルは、無言のまま普段通り────いや、普段より温度が低いように思える目でトレーナーを見つめていた。
「終わった」という文字が浮かび、脳が一足先に遺書を作成していく。
……そもそも、何故こんなことになってしまったのか。
ここのところ働き詰めでロクに寝ていなかったからか。昨日の食事を疎かにしていたからか。放課後の廊下で不意に後ろからオルフェーヴルに声をかけられたからか。驚き過ぎて、振り返る拍子にふらついたからか。ふらついた拍子にオルフェーヴルを壁と挟むような位置関係になってしまったからか。彼女との激突を避ける突っ張り棒として咄嗟に腕を伸ばしたからか。
……いくら考えても原因を一つには絞り切れない。様々な事象が関連し影響し同時に起きた結果……この『壁ドン』を引き起こしてしまったというわけだ。
……つまりは、事故。
だが王の前ではそんな理由など関係ない。重要なのは『トレーナーがオルフェーヴルに壁ドンをした』という結果だ。結果だけなのだ。
「本当にごめんっ!ど、どう償えばっ……!」
脳内の遺書で『遺産が残るならなるべくオルフェーヴルのために使ってあげてください』まで書いた辺りで、ようやくトレーナーは動いた。弾かれたように壁から掌を剥がす。
ここはトレセン学園の廊下。放課後とはいえ他のウマ娘の視線もある。というか現に、壁ドンの瞬間に周りのウマ娘からは少なからず声が上がっていた。
迅速に動かねば。こんな状況になった時点で死は確定したようなものだが、このままでいるのはもっと良くない。ここでの対応によっては、銃殺刑から無期懲役ぐらいには罰が和らぐかもしれない。
トレーナーは瞬時にそう考えたのだが────
「待て」
鎖が、体に巻き付いた。
……いや、鎖ではない。それはオルフェーヴルの尻尾だった。
壁ドンをされた体勢のまま、オルフェーヴルが自らの尻尾をトレーナーの腰に巻き付けていたのだ。
ウマ娘の尻尾と言えども、大部分はただの毛の塊であるはず。にもかかわらずたったそれだけのことで、トレーナーの体はテコでも動かなくなってしまった。
更に次の瞬間には離そうとした腕もオルフェーヴル自身の腕で掴まれ、捕まってしまう。……こうしてこの壁ドンの体勢は、他ならぬオルフェーヴル自身によって固定されてしまった。
「お、オルフェーヴル……!?」
「動くな」
彼女の声が喉に突き刺さる。
命令に従った……というよりは混乱し過ぎでトレーナーは動きを止めた。引き続き、オルフェーヴルの姿が視界いっぱいに広がる。
水晶のような吸い込まれそうな瞳。サラサラの髪。静かな息遣い。手首に伝わる指の温度。肌から香る王の匂い。
感覚の全てがオルフェーヴルで埋まる。
あれほど気になっていた他のウマ娘たちの声が聞こえなくなり、代わりに鼓動がうるさいほどに脳に響く。まるで、トレーナーとオルフェーヴル以外の存在が世界から消えてしまったようだった。
ふと、薄く上下運動しているオルフェーヴルの胸が見えると、トレーナーは『王様も呼吸するんだ』という頓珍漢なことを考えてしまった。
そのまま……体感的には三十分ほど、実際には一分にも満たない時間が過ぎた頃だろうか。
唐突にオルフェーヴルが「チッ」と舌打ちをした。
その音で金縛りが解けたようにトレーナーの意識が戻る。
「あっ……お、オルフェーヴル?」
「疲労だな」
オルフェーヴルが口を開くと同時に、彼女の尻尾と腕による拘束が解かれる。代わりのように彼女は目を細めトレーナーを睨んだ。
「貴様、大方業務のために徹夜をしていたであろう」
「え。いやそんなことは……」
「目の充血、肌の荒れ具合、集中力の低下……余の目を誤魔化せると思うとは、嘗められたものだな」
あの短い間でも細部まで観察していたらしい。
言いながら腕を組むと、オルフェーヴルは顎を横に動かした。そのサインの意図を理解したトレーナーは急いで飛び退く。飛び退いた拍子に転けそうになったがなんとか耐えた。
ようやく壁ドンから解放された形になるオルフェーヴルは、一歩前に出ると
「貴様。今日のトレーニングは中止とする。メニューと予定は後日作成し直せ」
トレーナーの方を見ないまま告げる。その言葉にトレーナーは慌てた。
「いや大丈夫だよオルフェーヴル!トレーニングぐらいなら全然見ることができるから……」
「たわけが。そのような状態で何ができる。余を貴様の不調に付き合わせる気か」
「う……」
必要なことだけ言って話は終わりだとばかりに背を向けるオルフェーヴルにトレーナーは追い縋ろうとしかけたが……しかし客観的に見て彼女の言う通りだと思い直したか動きを止める。
「……わかった。今日はしっかり休むよ」
「最初からそうしておけ。今日はトレーニングはもちろん、書類業務に臨むことも余が許さん」
「わかった」
普段よりも言い捨てるような色合いが濃いオルフェーヴルの言葉。それも当然と思い、トレーナーは甘んじて受け入れる。
そしてオルフェーヴルの背中に改めて頭を下げた。
「本当にごめんオルフェーヴル。トレーニングのことも……それから……事故でのあの、壁ドンの、ことも」
『壁ドン』の辺りでオルフェーヴルが脚を止め片眼だけでトレーナーを見た。そのことに彼の肩が僅かに跳ねたが……しかし結局オルフェーヴルは特に言葉を追加することもなく、鼻を鳴らしてそのまま歩き去ってしまう。
元から溜まっていた疲労にたった今の精神的疲労もプラスされたか、急速に霞み始める視界でトレーナーはオルフェーヴルの背を見送ったのだった。
それから数分後。オルフェーヴルはトレセン学園の廊下を歩いていた。
まだ廊下では野次ウマのウマ娘たちがザワザワとしていた。しかし彼女らは暴君であるオルフェーヴルが『どけ』と一言告げると一斉に壁の方へと退いた。中には本能的にか片膝をついているウマ娘すらいる。
モーセの海の伝説のように開けた道を、オルフェーヴルは堂々と歩いていった。その表情は、とても先刻まで壁ドンをされていたウマ娘とは思えない。
すると、
「何やら、楽しそうなことになっていましたわね」
不意に真正面から声が掛かってきて、オルフェーヴルは僅かに顔を上げた。見ると、幾多のウマ娘がひれ伏しているオルフェーヴルの御前に、平然と歩いてきているウマ娘の姿があった。
「ふふふっ、あの『暴君』であるオルフェーヴルさんが殿方に壁ドンをされるだなんて」
「……ジェンティルか」
苦虫を口に入れたような表情になるオルフェーヴル。姿を見る前から相手が誰かはおおよそ見当がついていたのかもしれない。
果たして、やはり目の前にいたのは鹿毛の髪に筋肉質な体をした『貴婦人』こと、ジェンティルドンナだった。
眉間にシワを寄せるオルフェーヴルを余所に、彼女は優雅に口許に手を当てている。
「あの殿方にお礼を言う必要があるかもしれませんわね。面白いオルフェーヴルさんを見させていただきましたもの」
「……このような場所で時間を浪費しているとは。貴様も随分と暇なようだな」
耳を絞り、吐き捨てるように言うオルフェーヴル。だが不機嫌さを隠そうともしない彼女の態度にも、ジェンティルドンナは怯んだ様子を見せない。
「ご心配なく。私の方もちょうど、今日のトレーニングはお休みとなったところでしたのよ」
「答えになっておらぬな。ならばさっさと寮に戻ればよい。ここで油を売る理由にはならん」
「そりゃあ移動したいのは山々ですけど……何せこの騒ぎですから」
野次ウマたちで埋まっている廊下を見渡して苦笑するジェンティルドンナ。
「今は収まりましたけど、先刻まではとても動けませんでしたのよ?この騒ぎは一体どなたが起こしたものなのでしょうね?」
「……チッ」
心から鬱陶しそうに舌打ちすると、オルフェーヴルは『散れ』と言うように周りのウマ娘を睨み付けた。
瞬間、まさに蜘蛛の子を散らしたようにウマ娘たちが動く。廊下に出てきていた者は教室へ戻り、元より廊下にいた者は直前に行っていた作業を再開する。
だがいずれのウマ娘も目線はちらちらとオルフェーヴルに向けており、動きも挙動不審だ。……どうやら廊下が元の呼吸を取り戻すのには、まだ時間が掛かるらしい。
それがより気に入らなかったか。オルフェーヴルは苛立たしげに目を伏せ、ジェンティルドンナの横を抜けて歩き始める。
さっさとこの空間から去るべく、王は脚を動かしていく。
「それにしても、意外でしたわね」
その背中にジェンティルドンナの声がぶつけられた。
「……何がだ」
「あなたのトレーナーのことですわ」
脚を止めず振り返りもせず答えるオルフェーヴル。ジェンティルドンナもまた追いかけもせず、ただ彼女の背中に向けて意味ありげに笑うだけだった。
「……奴がどうした」
「あなたのことですから、トレーナーと言えどある程度の制裁は加えるかと思っていましたわ。王である貴方にあんなことをしたのですから。極刑モノではありませんこと?」
「たわけが。そんなことをする必要がどこにある」
「あら、意外とお優しいのですね」
「くだらんと言っているのだ。あのような戯れに本気になって返す王がどこにいる」
「戯れ、ですか」
尚も脚を止めないオルフェーヴルにジェンティルドンナは顎に手を当てた。
そして、
「でしたら────何故オルフェーヴルさんは、そんなに不機嫌になってらっしゃるのかしら?」
ピタ、と。
矢で射貫かれたように。不意にオルフェーヴルの脚が止まった。
尻尾が一度だけ、波を描く。
ジェンティルドンナからは彼女の表情は見えない。が、しかし続ける。
「あの殿方の行動を別に怒ってはいない。そこはわかりましたわ。寛容な王は立派ですし」
「…………」
「ではどうして、貴方はあの殿方と別れてからそれほど不機嫌になってらして?他に気に入らない所でもあったのかしら?まぁ、貴方が不機嫌なのは今に────」
「決まっている」
言葉を遮り。ようやくオルフェーヴルが振り返った。
ジェンティルドンナからも見えるようになったその顔には、
「余のトレーナーでありながら、体調の維持も出来ず事故で行動を起こす情けなさに、失望しただけだ」
いつも通りの、荘厳とした表情があった。
「あら」とジェンティルドンナが声を発したのも厭わず、そのままオルフェーヴルは話を切り上げて今度こそ歩き去ってしまった。
王の後ろ姿は、あっという間に小さくなっていく。
「……失望した、ですか」
その背を相変わらず追いかけもせず見つめて……ジェンティルドンナはやはり、どこか面白そうに笑うのだった。
「では一体、王様は何を望んでらしたのかしら」