「私、もう結束バンド辞める」
「え!?」
伊地知虹夏に、開店前の下北沢STARRYに呼び出された後藤ひとりは、嫌な予感がしていた。
その嫌な予感は見事に的中していて、丸テーブルを囲んでチェアに腰を掛けるやいなや、虹夏は、結束バンドを脱退する意思表示をしたのである。
「あっ、え、あっ、虹夏ちゃん、冗談ですよね?」
「冗談でこんなこと言わないよ。真剣に考えた結果だから」
それは当然そうなのだろうとは思う。とはいえ、ひとりは、虹夏の決断を受け止めることができない。――受け入れたくないのだ。
「虹夏ちゃん、どうして結束バンドを辞めたいんですか? もしかして、リョウさんがいつまで経ってもお金を返してくれないから?」
「それが嫌だったら、もっと早く辞めてるよ」
「じゃあ、喜多さんが陽キャ過ぎて、話してると疲れるから?」
「そんなこと思ったことないけど? むしろ、ぼっちちゃん、日頃からそう思ってるの?」
「あっ、いや、そんなことはないです」
自分は虹夏ちゃんを引き留める立場なのに、このままだと逆効果である。
「……やっぱり私みたいな陰キャと一緒にバンドなんかやりたくないですよね。憂鬱な気持ちが伝染しちゃいますもんね」
「そんなわけないじゃん。というか、ぼっちちゃん、もっと自信持とうよ。結束バンドがここまで来れたのはぼっちちゃんのおかげなんだからさ」
「そんなことないですよ。えへへ」
「ぼっちちゃんは相変わらず顔に出るなあ」
ひとりは、自らの頬っぺたを引っ張って、緩んだ顔を元に戻す。今は真剣な話し合いの場である。
「……じゃあ、虹夏ちゃん、どうして結束バンドを辞めたいんですか?」
ひとりの単刀直入な質問に、虹夏はうーんと考え込んでしまった。当然、今になって辞めたい理由を考えているというはずはないから、ひとりへの伝え方を悩んでいるのだろう。
虹夏ちゃんの唇が、ようやく開かれる。
「……私には叶えたい夢があるんだ」
虹夏ちゃんの夢――。
いつか自動販売機の前で聞いたことがある。
たしか虹夏ちゃんが言っていたのは――。
「たしか、虹夏ちゃんの夢って『結束バンドで売れて武道館ライブ』でしたよね?」
そうだ。ハッキリとそう言っていたじゃないか。だとすると、虹夏ちゃんの夢と、虹夏ちゃんが結束バンドを辞めることとは関係ないはずだ――。
しかし、虹夏は、その夢のことじゃなくて、と言う。
「その先にも夢があるんだよね」
その先の夢――。
これもたしか、いつかの自動販売機の前で、虹夏ちゃんが言っていた。
たしか――。
「『ぼっちちゃんにもまだ秘密だよ』って言ってましたよね」
――そうだ。可愛く人差し指を口の前に立てて、可愛く身体を斜めに傾けて言っていた。
「あの時、虹夏ちゃんが私に『秘密』にしていた夢って何なんですか?」
あの時の『秘密』が、ついに虹夏の口から語られる――。
「ああ、あれね。あれはね……『下北沢STARRYを日本一のライブハウスにすること』だったんだ」
そうだったのか――。虹夏ちゃんの夢は、虹夏ちゃんのためだけのものではなかったのだ。虹夏ちゃんの夢は、虹夏ちゃんのお姉ちゃんの伊地知星歌とともに叶える夢だったのである。
ひとりは、感心する一方で、それでもなお腑に落ちないことがあった。
「『下北沢STARRYを日本一のライブハウスにすること』という夢の実現と、虹夏ちゃんが結束バンドを辞めることって何か関係があるんですか?」
「うーん、ぼっちちゃんにそうやって真顔で訊かれると説明が難しいんだけど……」
虹夏ちゃんは、本当に言いにくそうにしている。ひとりは、虹夏ちゃんが言いたいことをなるべく想像する。
「……もしかして、虹夏ちゃんその先のその先の夢があるんですか?」
「その先のその先の夢……そうそう。そんな感じ」
「それって一体何なんですか?」
虹夏ちゃんは、やはり言いにくそうに口をパクパクさせながら、しかし、今回はハッキリと言った。
「私、デスメタルバンドで世界一を目指したいんだよね」
デスメタル――。
虹夏ちゃんは幼き頃からロック好きではあるが、主に聴いていたのは、メロコアとかジャパニーズパンクである。
虹夏ちゃんが、デスメタルに興味を持っているなどという話は、初耳である。虹夏ちゃんがデスメタルを弾いているところはおろか、聴いてるところさえ、ひとりは一度も見たことがないのだ。
――あまりにも急激過ぎる方針転換。
その背景には、どう考えても、〈アレ〉があるとしか考えられなかった――。
「虹夏ちゃん、絶対に男でしょ! 男の影響で、突然デスメタルだなんて言い出したんだ!」
否定のしようがないはずだ。今までデスメタルに興味がなかった女の子が、急にデスメタルに目覚める理由など〈男の影響〉を差し置いてはほかにあり得ないのである。
案の定、虹夏ちゃんは、そうだよ、と認めた。
そして――逆ギレした。
「男の影響で何が悪いのさ! それとも、ぼっちちゃん、もしかして、非モテの僻み?」
「違いますよ! 虹夏ちゃん、何めちゃくちゃなことを言ってるんですか! 私たちには、〈何か大きな力〉が働いていて、百合以外の恋愛は断固として禁止されてるんです! 『まんがタイムきらら』の読者層を何だと思ってるんですか!?」
「そんなこと私だって分かってるよ! 競争社会に疲れた弱者男性が求めてる〈オアシス〉が一体どういうものかはね! これまでずっとそれを提供してきたわけだし!」
「じゃあ、どうして、虹夏ちゃんは、突然、男の影響でデスメタルを始めるなんて言い出すんですか……?」
言い合ううちに涙目になってしまった私に、虹夏ちゃんは、ボソリと呟くように言う。
「ぼっちちゃん……もう歳だからだよ」
現在、伊地知虹夏は三十四歳。後藤ひとりは三十二歳である。
「まんがタイムきららのメインキャラクターには異性との恋愛が許されていないというのは事実だけど、その規制は若いうちだけ」
「……そうなんですか?」
「たとえば、ぼっちちゃんのお母さんは、初出時からぼっちちゃんのお父さんと恋愛関係にあるわけでしょ?」
言われてみれば、そのとおりである。そうじゃなければ、ひとりは生まれていない。
「私たちも、それなりに歳をとって、もう〈そっち側の枠〉に入ったんだよ。第一、喜多ちゃんはもう二児の母だし」
「……喜多ちゃんは特別です。喜多ちゃんはキラキラ陽キャだから仕方ないです」
「全然仕方なくないよ? 喜多ちゃんのファンの人は、喜多ちゃんがキラキラ陽キャである一方で、実際には陰キャ側にかなり寄り添ってて、同性のリョウに熱を上げるだけで色恋沙汰もないことから、安心して喜多ちゃんを推せてるんだよ? 喜多ちゃんは、広い意味での〈ヲタクに優しいギャル〉枠に入るんだよ?」
さすがリーダーの虹夏ちゃん。メンバーの特性をそれぞれ掴んでいる。
「でも、いくら三十代半ばになったとはいえ、虹夏ちゃんに男ができたと知ったら、虹夏ちゃんのファンは悲しむと思います」
「まあ、気持ちは分からなくないけどさあ……申し訳ないけど、そういう人はリョウを推して。リョウは何歳になってもあんな感じだから」
たしかにリョウさんも三十代半ばだが、異性との話は一度も聞いたことがない。他方で、泣かせた女の数は数知れないのだが。
「ぼっちちゃん、もう私たちは十分にやり切ったんだよ。ぼっちちゃんのおかげで、結束バンドは日本を代表するバンドになって、武道館ライブはもう三回もやった」
「それはそうですが……」
それだけでなく、五大ドームツアーも成功させたし、紅白歌合戦にも毎年参加している。
「それにSTARRY――この場所だって、私たち結束バンドの聖地として取りあげられたことで、お客さんがたくさん来て、日本一有名なライブハウスになった」
「それもそうですが……」
多くの収益を上げたSTARRYは、今では、元々の大きさの十倍もの広さに拡張されており、ロビーでは、五角形に配置されたドリンクカウンターを囲うように、テーブルが計二十台も並べられている。ひとりと虹夏ちゃんが今話している卓は、そのうちの一つである。
「私は、結束バンドとして叶えられる夢はすべて叶えちゃったわけ。だから、もう、その先の夢にシフトしても良いでしょ?」
「……私は、結束バンドとして、さらに大きな夢を虹夏ちゃんと一緒に叶えたいです」
「さらに大きな夢?」
「ノーベル平和賞賞」
「なかなか大きく出たね?……ぼっちちゃん、ごめんね。少なくとも、私は、ぼっちちゃんのその夢には付き合えない。私には、私の夢があるから。ノーベル平和賞は、残された三人で目指してね」
虹夏ちゃんの決意は固いようだ。
私が――。
私が虹夏ちゃんの目を覚させてあげなければならない――。
「虹夏ちゃん、一つ訊いて良いですか?」
「どうぞ」
「虹夏ちゃんをデスメタルバンドに誘ってる男って、○○○さんですよね?」
「えっ? そうだけど……ぼっちちゃん、○○○さんのこと知ってるの?」
「知ってます。先週、私も○○○さんからデスメタルバンドに誘われましたから」
「えっ!? どうして!?」
「ついでにホテルにも誘われました。両方とも断りましたけど」
「ええっ!? マジで!?」
虹夏ちゃんはようやく気付いたようだ――くだらない男に騙されていたことに。
「それじゃあ、虹夏ちゃん、デスメタルのドラム頑張ってください。さようなら」
虹夏ちゃんは、席から立とうとする私の腕を掴んだ。
「嫌だなあ。ぼっちちゃん、私が結束バンドを辞めるなんて、冗談に決まってるじゃん。四人で一緒にノーベル平和賞を目指して頑張ろうね!」
(了)
……おい、喜多ちゃん、二児の母とかマジかよ(ショック)