「…………暑い」
…………暑い。何度でも言おう。暑い。
木々の隙間から射し込む日光。湿った地面から舞い昇る湿気。熱帯雨林特有のムワッと……いや、ベットリとした息苦しささえ感じる空気。生憎と微風さえ吹いておらず、サウナとまではいかないが体感的にとにかく暑い、コロンビアのジャングル。
そんなところで、毒蛇と蠍は戯れていた。……意味深である。
「────ん、ふっ……んぁ……」
場違いな甘い嬌声が耳をくすぐる。形の良い唇から溢れる熱い吐息は、間違いなく俺の体感温度上昇に加担しているだろう。先ほどから俺の意識を根こそぎ奪い取っている。暑い。……いかん、腹筋がプルプルしてきたぞ。
暑さ故か、迷彩柄の野戦服は脱ぎ捨てられすぐそこにポイだ。彼女が上半身に纏っているのは胸元を強調する際どいタンクトップ1枚のみ。刺激的かつ実に扇情的だ。自慢の豊かなバストが成す魅惑的な谷間は、男ならば誰もが1度は目を奪われても文句は言えないだろう。と言うか、目を奪われたら最後、視線を逸らすにはそれ相応の覚悟が必要となる。……あれ、枕にしたら気持ち良さそうだな。
真珠のような汗が額を伝う。彼女のきめ細かい肌も相まって、何とも幻想的な雰囲気を醸し出している。額から頬へ、頬から首筋へ、首筋から夢の秘境へ……。
ほぼ無意識に──3割方男の性で──目で追ってしまっていた。いかんいかん。これは遊びだと言うのに。
「あ、んんっ……ひぅ、んぁ……」
ふっくらとした艶やかな唇からは、相変わらず甘ったるい色香を撒き散らし続けている。半開きにされた隙間から覗く赤い舌がヌラヌラと蠢き、思わず吸い付きたくなる衝動を沸き起こすには十分過ぎる妖しさを秘めていた。
「…………はぁ」
さて。色々な意味で周囲の暑苦しさを倍増しつつ、
答えは至極単純明快。ナニもイタしていないからだ。
「……ねえ、サーペント」
「どうした」
「すごく……虚しいわ」
「1人で喘いでるフリをしているだけだものな。そりゃ、虚しいだろう」
俗に言う体育座りで膝に顔を埋めるスコーピオンを横目に映しながら、
「な~んでこんなにも無防備な女が隣で黄昏れてるのに、サーペントはナニもシてくれないのかな~……」
「ありがたいことに、お前の
毒をもって毒を制す……とはちょっと違うか。出会った当初は、それはもうこいつの扇情発言扇情行動に振り回されたものだが、今となっては懐かしい思い出になっている。
それでも完全というわけではないのがこの女の恐ろしいところだ。男は、女に色々な意味で敗けていると切実に思う。
「まるで蛇の生殺しだな」
「別の意味でね……って誰が上手いこと言えって言ったのよ。こっちとしちゃたまったもんじゃないわ」
「むぅ~……」と頬を膨らませながら、指先で地面をイジるスコーピオン。イジケた新鮮生蠍の完成である。
とても20歳前半とは思えない、普段の年齢以上に大人びた雰囲気とは裏腹に、彼女にはこういった子供っぽいところが多々ある。機嫌を損ねると途端に質の悪いワガママ女王様になったり、今のように、リスみたく頬をパンパンにして不貞腐れたり……。あとは、意外と食べ物の好き嫌いが多い。例えばピーマンとかピーマンとかピーマンとか……。以前、兵員食堂で出された献立の中の、ピーマンを全て俺の器に移し替えて来やがったことがある。
────後で食堂名物の鬼バb──おばちゃんに
……いかんいかん。これでは俺も同じようなものだ。任務に集中しなければ。
「はっはっは。大丈夫、何もお前に魅力を感じないわけじゃない。と言うか……うん、なんかエロいな、今のお前」
サクッと腹ごしらえを終了し、名残惜しさを感じつつもスコーピオンから目を離す。立ち上がって彼女の元へ移動し、拾った野戦服を肩に掛けてやる。
「……ありがと」
「ん」
手を差し出すと、彼女はそれを掴みゆっくりと腰を上げた。握ったその手の、女性らしいすべすべした細い指先を密かに楽しみつつ引き起こす。
ふわっと良い香りが漂ってきた。汗と、やんわりと香るのは彼女が好んで使用する柑橘系の香水のものだ。それと……強いて言うなれば彼女の体臭だろうか。
……いやいやいや。我ながらかなり変態チックな思考に至ってしまった。なんだ、体臭て。しかも、それを良い香りと感じるとは……やはり、抗体なんてできていないようだ。十分、彼女の毒にオカされている。毒漬け状態なのではなかろうか。
それでも、正直こいつの体質はおかしいと思う。何故こうも甘ったるい匂いがするのだ。ジャングルに入ってからは特に身を清めている訳でもなく、たまに綺麗な湧き水を発見しては水浴び──終いには大の大人2人して水遊び──をするくらいで、はっきり言うと、今の俺はかなり臭うだろう。……だからと言って、他人にどう思われているか気になる的な思春期が訪れているわけではなく、むしろ普通だと思い始めている。とうの昔に、そんな感覚は麻痺していた。していると言ったらしているのだ。
逆に言えば、自然に近い状態になれていることも意味し、ジャングルでの行動に於いては好都合と言えた。普段の生活臭が染み着いたままでは、完璧に自然へ溶け込むことはできない。聞こえは悪いが、獣臭に変わることで意外とメリットはあるのだ。
とまあ、ポジティブシンキングの話は置いておき、問題はスコーピオンの体臭なのだ。何故臭わない。何故匂いが甘いのだ。
特に自然へ溶け込むことができていない訳ではなく、むしろ一体化しているあたり、ずるいと思ってしまう。いったいこの女の体内で何が起きている……?
「────ん? どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
ぼーっと眺めていたことに気付き、スコーピオンの問いを笑って誤魔化す。「……そう」と、どこか嬉しそうに微笑みながら、短く返事を返した彼女は、ポケットから取り出したゴムで髪を1つに揃えた。それをくるくると巻き上げるようにして、迷彩柄のスカーフで纏め上げる。
「……おおっ」
思わず声が漏れた。
アップにされた髪型は清潔感を増しつつ、普段お目にかかれないうなじが晒されたことで妙な色気が加算されている。そのまま野戦服をラフに着崩し、相変わらず胸元をはだけさせていた。
「どうだっ」
「……参った。想像以上だ……」
うむ。ここがジャングルではなかったら本当に押し倒してしまったかもしれない。スコーピオン恐るべし。
自然と苦笑していた。目のやり場に困りながらも、取り合えず移動を開始。“彼ら”の会話に耳を傾け、時に“彼ら”と会話し、時に“彼ら”に助けられながら、俺とスコーピオンは歩を進める。
基地を出発してから、既に2日が経とうとしている。俺達は順調に南下を継続中。敵勢力圏内でありながら未だにコンタクトは発生しておらず、まあ、まずまずの滑り出しと言える。と言っても、ある程度敵と遭遇していなければ基地の位置の特定が不可能な訳だが……そこは俺達でなんとかするしかない。
ちなみにだが、俺の体はキレイなままだ。夜のオモチャにはされていない。スコーピオンもそこはわきまえてくれているようで、ジャングルプレイとやらはお預けになっている。助かった。
「…………」
いかん。想像してしまった。
いやいや……いやいや。決してジャングルプレイとやらに興味があるわけでは無く、況してや任務中に「ヒャッハー!」するほどケダモノでもない。…………はず。はずだ。
…………ジャングルプレイ、か……。
「……ふむ」
「な、何よ。悟りを開いたみたいな顔になっちゃって……あなた、不気味よ?」
「……ん? ああ、何でもない。ちょっと考え事をしてただけだ」
いかんいかん。頭をシェイクして邪な思考を吹き飛ばす。弛んだ表情筋を引き締め直し、目の前の現実に集中する。
「……ほっぺた、プルプルしてるわよ」
「ほっとけ」
どうやら失敗に終わったようだ。いざ意識してしまうと、無表情を作り出すのは難しい。いずれは克服したいところだな。
はぁ……、と溜め息を溢したところで、気になるものを見つけた。
血痕だ。
「…………」
血。生物の体内を循環し、各体細胞に酸素、栄養を供給したり、老廃物を運んだりと多種多様な役割を果たす、全てではないが赤色をした、ルーマニアのコウモリ野郎が好んで食すアレだ。
「……スコーピオン、周囲を捜索するぞ。……何か手掛かりがあるかもしれない」
地を点々としている。見たところまだ血液凝固は始まっていない。日光に照らされて赤黒く反射する生々しさを、未だ有している。この血液の主が、この周辺に潜んでいる証だ。
となると、主は何者かという当然の疑問が出てくる。人か、獣か……はたまた……はたまたは無しで頼む。こんなところで未確認○○なんかに遭遇したとしても、リアクションに困るだけだ。
だがらこそ、血痕に寄り添うように蹄の足跡が追従していることには感謝しなければならない。形から判断して野豚の類いだろう。
「……はぁ~い」
間延びしたスコーピオンの返事を背に、血痕を辿り始める。腰のホルスターから
確認した足跡の、地面へのめり込み具合から重量は60~70kg辺りと、やや小振りと思われる。歩調を乱し、フラフラと覚束ない様子が見てとれた。歩幅から察するに体長は約1.6m。……とすると、小振りというより少し痩せ細っていると見るべきか。
「手負い、か……」
これについてはかなり注意しなければならない。野豚は、文字通り家畜の豚が再野生化したものを指し、近年アメリカ大陸に爆発的に広まりつつある種だ。豚とは言え野生で繁殖した連中は家畜のものより気性は荒い。さらに流血するほどの傷を負っているとなればなおさらだ。外敵と見れば形振り構わず襲いかかってくる可能性もある。
……まあ、俺が気にしているのは野豚ではなく、野豚を襲った外敵の方だ。
この辺りに、このサイズの野豚を好んで襲うような肉食獣は滅多にいない、と記憶している。いくら食物連鎖の上位に位置する彼らでも、成獣、若しくは成獣に近い固体を襲うことは少ない。あったとしても、年老い、弱った固体や、生まれて間もない幼獣、発達途中の固体を狙う。バッファローに踏み殺されるライオンやカバに食い殺されるワニの例があるように、上位固体であったとしても最強というわけではなく、肉食獣は生きるために自身より──種族的にではなく──肉体的に弱い固体を狙うはず。
体長約1.6m、重量およそ60~70kgサイズの野豚。俺自身の思い込みがあるのは認めるが、これを狙った犯人は誰か、その答えを1つしか思い浮かべることができない。
耳を澄ます。途切れ途切れに、荒い息遣いが聞こえてくる。間隔の短いその呼吸は、とても苦し気に聞こえた。同時にまた別の、ピー、ピーと弱々しい鳴き声まで聞こえてくる。……かなり、近付いたようだ。
“彼ら”もそう、教えてくれた。
「…………」
茂みを抜けると、そこは木々に囲まれながらも少し開けた場所だった。点々とする血痕の行く先には、かなりの年代物を思わせる苔にびっしりと覆われた倒木。かつて根っこであったのだろう部分に、それはいた。
「フー……フー……」
荒い呼吸を繰り返しているのはやはり野豚だった。家畜の豚とは違い、猪のようにこげ茶色の体毛に覆われている。猪のそれとは違い、緩やかに湾曲する牙が目についた。
ぐったりと横たわり、もはや動く気力さえないのか、俺に無防備な腹を見せたままだ。その腹には、授乳中だったのか小さな野豚達4匹が群がっている。先程の弱々しい鳴き声は彼らのものだったようだ。何かに怯えるように、4匹でぎゅうぎゅうに寄り添って、一心不乱に母親の乳首を吸っている。
……いや。1匹だけ、母親の口元で同じように横たわっている子豚がいた。母親はそれを慈しむように、体全体を舐めてやっていた。子豚の腹が、刃物で斬り裂かれたように赤く染まっている事に、気付いているのかは判らない。
「弾痕……2発も喰らって生きているのか」
母親の腹に2つ、流血の原泉である赤い弾痕が見えた。これで、この辺りに銃を使った外敵、いわゆる人がいるということが判明した。……恐らく、敵基地の哨戒部隊か何かがいるのだろう。ようやく、敵基地の手掛かりを発見することができたわけだ。
「……確か、ニホンではウリボーって言うんだっけ……」
4匹の小さな命を眺めながら、ぽつりとそんな言葉が漏れた。ガバをホルスターに仕舞い、右手にナイフを持ち変えて母親のもとへ近付いていく。
ピクッと耳が動いた。どうやら俺の接近にようやく気が付いたようだ。それでも、動こうとはしない。じっとその瞳に俺を映したまま、微動だにしない。
──綺麗でしょう? 命の
……ああ。確かに、綺麗だ。……綺麗過ぎる。俺には到底、眩しすぎる美しさだ。
「……“切ない”、なぁ……ウリボー達よ」
未だに、4匹のウリボーは母親の乳首を吸っていた。近付いていく俺には、見向きもしない。……それはそれでちょっと悲しいが。
こいつらは、本当は何も考えていないのかもしれない。兄弟姉妹の死や、今にも死にそうな母親のことすら、実は気づいていないのかもしれない。このようにして外敵に襲われ、自身の肉親が死に母親が負傷したという状況であっても、ただ本能に従って乳首を吸っているだけなのかもしれない。野豚相手に何を感傷的になっているんだと今更ながらに気が付いた俺の葛藤なんて、気にして──いるわけはないか。これだけは。
────もし、母親が死んでしまったら。この4匹の内何匹が、成獣になれるのだろう。このウリボー達を産んだ母親のように、何匹が子孫を残すことができるのだろう。
「……どうするんだろうな」
何が、どうするのか────自分が口にした言葉だと言うのに、その答えは出てこない。
──……あなたは優しいわ。……優しすぎる
どこかで、苦笑を浮かべているような気がした。同時に、怒っているかもな、とも思った。
今となっては、その1つ1つがよく思い出せない。……思い出したくないだけなのかもしれない。
ナイフを握る右手に、力が籠る。
***
「はぁ~い」
我ながら無意識に、間延びした声が出てしまった。……サーペントの視線を奪うことができて、自分でも予想以上に舞い上がっていたみたい。
「ほんと、鈍感なのか察しが良いのか……よく判らない奴ね」
ぽつりとそんなことを呟きながらサーペントに背を向け、周囲の索敵を始めた。腰のホルスターからガバを抜き取り、ナイフと同時に構える。サーペントから教えてもらった、独特な構え方。状況に応じ、即座にガンファイトからナイフファイトへ切り替えることができる、というあまりにも理にかなった、効率的で完成度の高い戦闘技術だったから、疑問に思って誰かに習ったの? とサーペントに聞いたことがある。「……独学だ」と彼は言っていたけれど、まあ、見るからにはぐらかされたわけで、あまり詮索されたくないことなのだろうと思う。
……女、か……、と私は直感的に悟った。サーペントと過去に関わりがあった、この世界のどこかにいる──いや、いた女性。仕事上のパートナー関係にあったのか、それとも恋愛関係にあったのか、はたまたその他の関係か……まあ、私に判るはずがない。興味が無いと言えば嘘になるけれど、決して強がっているわけではなくその程度の興味しかない。強いて言えば、女性がこのような戦闘技術を持っているのか、と驚いたくらい。
それでも、その女性がどんな人だったのか、については興味がけっこうあったりする。
時おり彼は、何かを懐かしむような、哀しんでいるような、怯えているような、そんなたくさんの“感情”が1つに凝縮されたような
どこか他人と一定の距離を置いて、他人と普通以上の関係になることを拒んで……いや、忘れてしまったように生きているのが彼だと思っていたから。
そんな彼の中に、未だに居座り続ける女性に興味が沸くのは仕方のないことだと思う。彼が恋愛感情を抱いているのかと言われると、そうとは思えないけれど……ちょっと悔しかったりするし。
まあ、だからと言って彼から聞き出そうとすることは無い。恐らく、これからも。彼が話したくないと思ったのなら、無理に話させる必要は無い。…………なんだかムr──ムシャクシャしてきた。また今度襲ってやろう。
「……あら、ネズミさんこんにちわ」
隣の茂みからひょっこりと顔を出したネズミに、なぜかあいさつしてしまった。もちろんネズミが返事を返すわけでもなく、無視されてしまう。……索敵索敵、と。
特に異変は見受けられない。乾燥機が恋しくなるほど湿度の高い、高温多湿な気候。湿り気を帯びた、所々
「……ぅぇ~……汗臭い……」
本当に、臭う。私自身の体臭なのに、気になってしまうほど。なのに何故、サーペントはあんなに臭わないのか。私に負けず劣らず汗はかいているはずなのに……。あいつの体内では何かよく判らない化学反応が起こってるんだと思う。じゃないと、ずるい。そんなに清潔さを気にしているようには見えないし、なんか、ずるい。……というか、むしろ好きな匂いなんだけれど……むしろいろいろと刺激的な感じなんだけど……。
「…………蠍が毒漬けにされてどーすんのよ……」
ジャングルでの作戦行動では仕方のないこと、と割りきるしかないけれど、何せ今は私とサーペントの2人しかいないわけで。分隊単位での作戦行動ならば「自分以外にも、同じ人がたくさんいる」的な現実逃避に逃げることができるけれど、マンツーマン班単位で、となるとそうはいかないわけで。……サーペント、臭いとか思ってないだろうか。
「……はぁ……憂鬱だわ……」
ふと、私達にこの任務を押し付けてきたブタ野r──基地司令の気色の悪い顔が目に浮かんでくる。……なんだろう、この気持ちは。無性にあの眉間へ弾丸を撃ち込んでやりたい衝動に駆られる。
……ああ、判った。殺意だ。
「というか、あんなに気持ち悪い人って本当にいるのねぇ……」
殺意に続いて嘔吐感まで込み上げてきたので、あの基地司令のことは無理矢理頭の隅に追いやった。
野戦服の袖で汗を拭い、途切れていた集中力を研ぎ澄ます。視界に映り込むわずかな異物や、自然からかけ離れたおかしな異音を逃さないように。
カサッ。
後ろ、と脳が判断する前に、脊椎反射で体は背後の茂みにガバを構えていた。断続的に葉擦れの音が聞こえてくる辺り、間違いなく何かがいる。
「…………」
グリップを握る力を強める。トリガーに軽く指をかけ、それでいて体全体はほどよい緊張状態を保つ。……うーん、やっぱり嫌だな。この感触。
初めて銃を握り、初めて人を撃ち、全身の筋肉が緊張のあまり痙攣を起こしたのはいつだったかな。確かあの時、私は言い様のない恐怖に襲われたんだ……。
────人を殺してしまったから、というわけではなくて。そんな中途半端な覚悟でこの世界に入ったわけじゃないしね。
────私は、こんなにも簡単に人の命が奪えることに、恐怖した。
もう、こっちの世界に来てずいぶんヨゴレたな、と思う。いろんなことを知ったし、経験した。……我ながらマトモな生を送ってないなぁ。“人”って恐ろしい。
まあ、今となっては多少の余裕が生まれるほどには場数も踏んできた、と自負しよう。相手方がどのように出てきても対応できる自信があった。……なんの根拠もないけれど。
シュッ、シュッ……。
ん? 今、明らかに葉擦れ以外の音が聞こえたな。鼻から抜けるような、どちらかというと動物的な……あれ? もしかして人じゃない……?
「……ああ、もうっ……焦れったいわね」
意を決して茂みに近付く。私の首辺りまでの高さの植物が群生しており、見晴らしはまだ良い方。奥からは、水辺特有の生臭い香りを風が運んでいる。池か、沼かがあるのだろうか。
……まあ、もし相手方が人で、なおかつ私の敵となれば、姿の確認ができていない絶望的な状況に置かれているわけだけど、何も動きは無い。それがまた私の不安感を倍増させる。ここで無視し、後に危害が及んだとして、私だけならばまだしもサーペントがいるのだ。無責任な行動はできない。
「……ほんと、憂鬱だわ」
むぅ~……、と唸る。再度、ガバとナイフを構え直し、ゆっくりと、それでいて臨機応変に反応できるよう五感を研ぎ澄ます。
グチュ、と地面を踏み締める度に泥濘む。これでは相手方に自分の居場所を教えているようなものだ。いつどこから襲われてもおかしくない。──そして襲われたときは、間違いなく私は死ぬ。
もし仮に捕虜にされたとしても、私は人としての扱いは受けられないだろう。……特に女なら、なおさら。
ジュネーブ条約があるとはいえ、こんな最前線の、しかもゲリラのような集団が律儀に条約を守るとは思えない。そもそも、傭兵の私が適用範囲内にあるとも判らないし、問題になったとしても「正規兵じゃないから」とかなんとか誤魔化されるのがオチだ。
思わず舌打ちしてしまう。暑さとは別に、先程から変な汗をかきっぱなしだ。……イヤなことを思い出す。
ズズズズ……ポチャン。
近かった。音の発生源が。
「……?」
でも、何かおかしい。……足元から聞こえてくるとはこれいかに。
「……なんかオチが見えてきたわね……」
音が聞こえてくる方角へ進むと、遂に茂みを抜けた。
「…………」
目の前に広がるのは、沼地。水深が浅いのか、底の泥が遠目にも見えた。かなり水は綺麗だ。
一見、自然の美しさを凝縮したような空間に見える。木々の隙間から降り注ぐ幾筋もの日光は幻想的な美しさを伴って水面に流れ込んでいて、群生植物と共に沼地を覆う木々からは青々とした枝葉が垂れ下がり、緑のカーテンを作り出していた。……ここがいいなぁ、サーペントとジャングルp──ゲホンゲホン。
それでも、私はその光景に目を奪われることは無い。間違いなく。だって、すぐそこにモノスゴイことをヤっているお方がいたのだから。
シュッ……シュッ……。
ボアだ。南北アメリカ大陸に分布する、ニシキヘビ科と双璧を成す大蛇の1種。有名なのはアナコンダ、とかかな。大きいモノで9mを越す体躯を誇り、ほぼ筋肉でできたそのからだで獲物に巻き付き窒息死させ、丸呑みで美味しく頂戴するという、アレだ。
ボアがぐるぐる巻きになっている。小さく見積もっても3mは越す巨体を、ウネウネと滑らかに絡み付けている。
それも2匹、お互いに。これは……圧巻です、うん。
「うわあぁ……」
思わず声が漏れる。丸太のように太く、3mを越す蛇が2匹、ぐるぐるのごちゃごちゃのでろでろ……もうよく判らない状態でてんやわんや、くんずほぐれつどすこいしているわけで……とにかくカオス。もうどこがどこなのか判らない。
「蛇の交尾、初めて見た……」
とにかく、蛇の交尾は長いし激しい……的なことは知識として聞いてはいたけれども、実際目の当たりにするとこう、迫力あるなぁ……。
うわあぁ……。鱗に覆われた、ぬめった体がガッチリとお互いを離さず、それはもう……ハッスルしていらっしゃる。文字通り絡み合いながら。……接近した私に気付いた様子はない。本能に従って、それこそ必死に次世代へ己の遺伝子を伝えるために、雄として、雌として交わっていらっしゃる。……うわあぁ……。
「……そうか。だから蛇ってアレの象徴なのか」
妙に納得し、1人でうんうんと頷いた。
「……サーペントもあれくらい積極的ならなぁ……」
楽しそうなのに、と呟こうとしたところで、後頭部に銃口を突き付けられた。
「────っ!!」
「動くな……」
やられた……完全に後ろを取られた。一応、警戒は怠っていなかったはずなのに……。
……ん? 蛇の交尾に見とれて捕虜にされた、って……間抜け過ぎない……? どうしよう、なんか泣きそう……。
「バカだろ、お前」
スパーン、と頭を引っ叩かれた。
「──いったぁ!?」
「ほら、立て。行くぞ」
頭を押さえてうずくまる。涙目になりながら振り返ると、明らかな侮蔑の眼差しを向けたサーペントが立っていた。
「いくらお前が万年発情期とはいえ、蛇の交尾を見て興奮する変態だったとは思わなかったぞ」
「なんか失礼なレッテル貼られた!?」
「まあ、その……ほら、人の性へk──趣味は人それぞれだし、尊重されるべきだからな。動物の交尾を見て興奮する輩もいるということだろう。俺はべべべ別に軽蔑ししししたりしない。しないなぁ、うん」
「なんかおかしな方向に勘違いされた!?」
ちょっとタイム。レフェリー、タイムをお願いします。少しは私の弁明を聞いて貰わないと本当に困る。
「……あれ、弁明できる要素が無い……?」
「ほら、行くぞ変態」
「……詰んでる……?」
終わった……。なんかもう……いろいろと終わった……。どこからか某ベートーベンのデデデデーンが聞こえてくるよ。もう私の運命は決まった、みたいに現実を突き付けて来るよ……あ、某付けた意味無いや。アハハハハ……ウフフフフ……。
呆然としていると、私とサーペント共有回線の無線機が、無感動に着信を知らせてくれた。何だろう、今だと無線機が可愛く見えてくる。
サーペントが、耳の小型インカムに指を当て、回線を開いた。恐らく基地からの連絡だろうけれど、いったい誰だろう。周波数は……
「……こちらサーペント。感度良好だ」
《────おっぱい!》
「了解した。通信を終了する」
あぁ……あいつか。
《あぁ! ちょっと待ってくださいキャプテン!》
「俺の知り合いにおっぱいはいない。以上だ」
ゲンナリした顔になるサーペント。突然のおっぱい通信にかなりダメージを喰らったようだ。……見ていたら少し元気になってきた。
「……海月、調子はどう?」
《あっ! その声はスコーピオン先輩ですか?》
頭がガンガンしてきたなぁ。インカムはずしたい。
《昨日の夜に、おっぱいに囲まれてる夢を見たんです! 今日はテンションマックスですよ!》
「わかった、わかったから、少し声のボリュームを抑えて……」
インカムの奥で、「はぁーい」と素直に通信相手が引き下がったのがわかった。
このおっぱい星人の名前は
「……で? 通信兵でもないお前が、どうやって俺達に無線を寄越した? それに、まだ定期連絡の時間でも無いだろう」
《──申し訳ない、キャプテン……私のせいです……》
「……マック?」
通信相手が変わり、あの生真面目なマックの声が聞こえてきた。
《はい。その声はスコーピオンさんですね? 実はこいつに脅されましてですね……》
《何言ってるんですか、マックさん。『通信させてくれないと、基地管制システム、潰しちゃうしちゃうぞっ』って言っただけじゃないですかぁ》
語尾に星マークでも付いてそうな、ウキウキしたキロネックスの声。
《……ま、まあ、定期連絡規定時間まであと1時間ちょいでしたし、いろいろとこじつけて通信室への入室を許可しました。……クラッキングなんて冗談じゃない》
最後の方はゴニョゴニョと何て言っているのか聞き取れなかった。……けど、まあ、声のトーンから、マックの頬が引き攣っていることが容易に想像できた。
『天才と変態は紙一重』。キロネックスがモットーとする言葉だ。……もうここからして残念臭がプンプンする。
傭兵としての能力もさることながら、この子は表向き変たi──天才ハッカーの肩書きを持つ。……どちらかというとクラッカーに近い気がする。
あとは……そうだなぁ、無類の漫画好き。特にニホンのコミックが大好きらしく、よく私やサーペントに貸してくれる。……実は2人とも、ちょっとハマっていたりする。この子にわざわざニホン語を習うくらいには。今読んでいるのは『ワイルド7』とか……────
「……まあ、いい。良くないが。ついさっきちょうど、手がかりを発見したところだ。近くに奴らの哨戒部隊がいる可能性がある」
《……ポイントとしてはスタートポイントから南下して40マイルの地点ですか……了解です。上に報告しておきます》
「頼む」
あら、いつの間にかそんな手がかり見つけてたんだ。…………私が見つけたものと言えば……蛇の……ウグッ。
「それで? キロネックスがわざわざマックを脅してまで通信をよこさなければならない理由はなんだ?」
《それは、ですね…………》
途端、キロネックスが声をひそめる。かなり、深刻な話のようだ。……まさか、基地司令がまた何かやらかして来たのだろうか……?
「……何かあったの?」
《……キングギドラの数え方って、1頭なんですかね? それとも3頭?》
「切るわね」
ふざけるんじゃない。せっかくのシリアスな雰囲気を返して欲しい。なんだ、キングギドラの数え方て。ちょっと気になってきたじゃない。
《わあー待った待った、姐御! 冗談ですって!》
「誰が姐御よ」
「キロネックス。悪ふざけも大概にして要件を話せ。いつまでも敵地で無防備な様を晒すわけにはいかない」
サーペントの頬もわかりやすいほどに引き攣っている。普段、滅多に激昂したりしないサーペントが、マジギレ状態になる前兆だ。
……まあ、当たり前でしょうね。突然、無線で呼び出されたかと思えばおっぱいと叫ばれ、挙句の果てにはキングギドラの数え方云々だ。……多分、私の頬も引き攣っている。
《新戦力の投入ですよ! この基地に、新しい傭兵部隊が編入されるんです!》
……とすると、ケリー達がやられた分の増援、ということだろうか。正規軍兵士の増援ではなく傭兵達を雇い入れているあたり、この国もいろいろと苦しい状況に置かれているみたい。
それでも、たかが新戦力投入というだけで、キロネックスがここまで騒ぐというのがどうにも腑に落ちない。何か、特別なことがあったのだろうか。
「……部隊、とすると、傭兵個人個人ではなくて、1つの団体として雇い入れた、ということか?」
「……あ、傭兵
珍しいこともあるのねぇ。傭兵が部隊を作るなんてそうそうあることとは思えないけれど。……よくよく考えてみれば私たちがそうだった。
《そこの部隊長の名前、何かわかります?》
キロネックスの、どこか楽しげな声音。見るからに聞いて欲しいオーラを放っているので、とりあえず聞くことにした。
「……で、誰なの?」
このあと、キロネックスが興奮気味に叫んだ名前に、私は今日1番の驚愕を受けることになる。銃口を突き付けられた時以上に。多分、サーペントも同じようなものだったはずだ。
《BIGBOSSですよ! あの! 有名な!》
野豚の子どもはウリ坊というかはわかりません。多分言わないんじゃないかな……まあいいや。
キロネックスは、あれですよ、あれ。ビリリッってくる、アレ。