あの日は確か、蛇に噛まれる夢を見て目が覚めた気がする。
────真っ白で、綺麗で……とても哀しそうな蛇だった。
***
ソレは突然やって来た。
私はいつものように眠りから目覚め、いつものように顔を洗い、いつものように家族と顔を会わせ、「おはよう」と声を交わした。どうしようもないほど、いつもの日常だった。
私の家は小さな雑貨屋を営んでいた。繁盛はしていなかったし、生活もお世辞にも贅沢とは言えず、むしろ貧しい方だったけれど、私達は楽しく暮らしていた。家族と共に過ごせることが幸せだった。
私達の町は自然に囲まれていた。私を含むたくさんの子ども達はたくさんの動植物と触れ合って育った。暇を見付けては、友達と共に花を見に行ったりもした。
決して裕福な町ではなかったけれど、笑顔の絶えない、明るい町だった。
父は基本、穏やかな人だった。1本筋の通った人で、めったなことで怒ることは無いけれど、怒ったら……な人、だったと、思う。
母はとても美しい人だった。父に何かとちょっかいをかけては狼狽える彼を手玉に取るイタズラ好きな女性だった。そして、父を愛しているということは私にもわかっていた。多分、内面は乙女だったんだろう。私がいるにも関わらず絶えずイチャイチャしてた気がする。
その年、私には妹ができた。歳の差が10歳以上もある妹だった。その頃になると子どもだった私も、いわゆる性の知識とやらに興味津々な時だったわけで、まあ、その……父と母の夜の営みはちゃんとあったんだなぁって思った。……ま、それを差し置いても十分幸せだった。スヤスヤと母の腕の中で眠っている妹を、父と共にニヤニヤしながら眺めていた気がする。頬がゆるむのが止められなかったんだろうなぁ。うん。子どもながらに将来の旦那さんのことを夢想したりもしてたっけ。
新しい家族も増えて、私達は本当に幸せだった。ありがちだけれど、本当にいつまでもこの幸せが続くものだと信じて疑わなかった。
そして、ソレはやって来た。
妹が生まれてから1年後、私の
自然、社会は非常に不安定な状態になっていた。
各地で生活苦による暴動が起き、多数の民間人が巻き込まれ死亡するケースが相次いで起こったり、混乱に乗じて「この国の自由のために」とかなんとか綺麗事をヌカして無意味なテロ行為を行う輩が爆発的に増加した。市民は自ずと武装し、自警団なるものを組織して身を守った。1年前が嘘のように、人々の心は荒み、いつしか笑顔が見えなくなった。
ある日の朝。私達はいつものように固いパンと薄いスープで朝食をとっていた。社会がどうあろうと、一家団欒は健在だった。
確か、パンをちぎって口に運んだ瞬間だったと思う。
表の通りから突如、耳障りな銃声が響いた。同時にたくさんの断末魔の叫びが聞こえた。車が走り回っているエンジン音も聞こえた。
私達家族は、時が止まったかのように動かなかった。みんな、外で何が起きているのかわからなかったんだと思う。父はスープをすくったスプーンを持ったまま、母は朝食を溢した妹の口元を拭おうと腕を伸ばしたまま。私は確か……もう一度パンをちぎろうとしたまま、だったかな。唯一、妹だけは泣いていた。
ドアが蹴破られた。突入してきたのは正規軍の兵士だった。
──おとう……さ、ん……?
早々に父は撃たれた。椅子に座っていた父は、真っ先に突入してきた兵士にアサルトライフルで撃ち殺された。放たれた弾丸が父の右目を貫通し、
妹の泣き声が、嫌に遠く感じた。
***
「────っっ!!?」
目が覚めた。
手が震えている。力が入り辛くてもどかしい。そんな手を使って、脂汗をかいている額を拭う。呼吸も荒く、動悸もなかなか収まりそうにない。……苦しい。肉体的に、ではなくなぜか苦しい。
周囲は真っ暗、何も見えない。この世の光が全て無くなったのではないかと錯覚してしまうほど永遠の闇が私を包み込んでいる。……苦しい。辛い。どうしようもないほどの孤独と……恐怖が私を蝕む。よりいっそう、謎の苦しさを倍増させる。
寒い。コロンビアのジャングルは永遠の夏だ。寒い。震えが手から体全体へ広がっていく。私を蝕んでいく。寒い。膝を抱え込むように体を丸める。悪寒は消えない。寒い……。
「……しっかり休んでおけ。2時間後には日の出だ。すぐに出発だぞ」
はっと顔を上げる。私を包み込んでいる闇の中に於いて唯一の光がそこにあった。他人の声が聞こえたのが気持ち悪いほどに嬉しい。私は独りじゃない……私は
「……あなたは……寝てないの?」
「お前の唸り声で目が覚めた」
多分、嘘だ。先に寝てしまった私のために寝ずの番で周囲を警戒してくれていたんだと思う。あまり表には出していないが、抑えられたランプの光で照らされているその顔に疲労が滲み出ていた。
「はぁ……」と溜め息をつきながら、ガシガシと頭をかくサーペント。もともと荒れ放題だった頭がさらに悲惨なことになっている。思わず吹き出しそうになりながら、私は言った。
「ごめん、今度はあなたが寝て。見張り、代わるわ」
いつのまにか、不快な動悸は収まっていた。恐怖も、手の震えも、悪寒も無くなっていた。
「イヤだね。寝込みを襲われたら一溜まりもない」
私に、ということだろう。正直今はそんなことを考えている余裕は無かったが、まあ、この男はそれをわかった上で言ってきている。
「ソレはソレで魅力的だけど、やっぱり正々堂々と襲った方が楽しいじゃない?」
「開き直るとこ、おかしいぞお前」
おかしいことくらい、私だってわかっている。私はもう、普通じゃない。
「ま、なんにせよ見張りは代わるから。サーペントも少しは休んで。ね?」
「……まあ、ありがたい申し出なんだが……もう目が冴えてしまっている。寝るのは難しそうだ」
そう言ってゴキゴキと首を鳴らし、サーペントは口を閉じた。おもむろにナイフを取り出し手入れを始めている。特にすることもなく、話すことも無かったので、私はただその光景を眺めていた。
「…………」
悪寒が去った今になって意識し始めたけど、相変わらず暑い。昼間に比べるといくらかマシになっているけども。
やたらと周囲の些細な音を、耳が敏感に拾っている。吠え猿の遠吠えや鳴き虫のリズミカルな音。夜行性の動物達の息吹き。自然が私達を覆い尽くしている。文明社会から遠く離れたこの地では、人間なんていかに小さいかを思い知らされる。────美しく神秘的でありながら、この世で最も残酷な地。
「……暑い」
サーペントの呻くような声が聞こえた。見ると、ナイフを仕舞い、迷彩柄の野戦服の袖をたくし上げている。
「メフロキンは……まだ保つわよね」
メフロキン──抗マラリア剤の一種。最近アメリカで開発されたらしい新薬で、キロネックスとマックが持ち前の広いネットワークを使って手配してくれた。ハマダラカに刺されることでマラリア原虫が媒介され、40℃近い高熱、頭痛、吐き気を催す
マラリアに感染しないためには、極力ハマダラカに噛まれないことが前提になるわけなのだけれど、まあ、どっちにしろ全てを防ぐのは無理な話。この辺り一帯で抗マラリア剤に耐性のある原虫が確認された、という報告は聞いたことが無いので、なるべく肌の露出を控えてメフロキンの服用、という二段構えでマラリアの対策としている。
「今は大丈夫だ。近くにハマダラカはいない」
いつもとさほど変わらない、ボーッとした表情のままサーペントが呟いた。
「……あなたって、ソコだけは妙に人外染みてるわよね」
「はっはっは……よく言われるよ」
だけ、と言ったけれど、彼の銃器を用いた戦闘、大雑把に言えばガンファイトの技術
苦手、という言葉の意味をそのまま解釈するわけでもなく、不思議な言い回しに首を傾げたが、サーペント本人も自分の言い回しに違和感を覚えているようで、まあ、彼のよく判らないトコロの1つだ。
「ふーん……」
それなら、と野戦服を脱ごうとしたけれど、やっぱり止めた。サーペントと同じように袖をたくし上げるだけに留めておいた。
とそこで、彼の右腕が目に入る。
裂傷でも刀傷でもない、白い
普通の痣じゃない。それは一目瞭然だと思う。例え傷を負ったとして、普通はこのような傷付き方はしない。彼の体を初めて見たとき、真っ先に思ったのがそんなことだった。じゃあ何なのか……それは今でも判らない。
「……お前、嫌にこの痣のこと気にするよな」
おっと。ふと気がついたらサーペントがそんなことを言ってきた。思った以上に見つめ続けていたみたい。……どこか、探りを入れるような声音だったのが気になるけれど。
「……そうね。確かに気になるなぁ」
口では戯けた声を発しているものの、私はサーペントの真意を探る。
……自分が、心底嫌になる。少しでも相手側に違和感があればすぐに警戒心を抱いてしまう、自分が。ましてやサーペントに対してなんて。でも、たぶんもう……一生この癖は治らない。
「大抵、こんな醜い痣──傷痕があるのを他人が知れば、それを負った経緯やら何やら聞いてくるもんだ。……お前はしてこなかった」
普段、そこまでおしゃべりではないサーペントが、珍しく饒舌だった。
「かと言って割り切ってるのかと言えば違う。今のように、ちょくちょく気にする素振りを見せる……しかも“お前”が、だ」
見抜いている、私の本質を────この瞬間、私はそう思った。故に、この男の前では隠し事なんて到底できはしない、とも思った。
「……強いて言えば、似てるから、かな」
いつもの私なら、笑って誤魔化していたと思う。自分から自分のことを話そうとしたりしない。明らかにいつもの自分じゃない。────ここ最近見ることが少なくなった、あの夢のせいで、幾分か感傷的になっている。
それでも、サーペントは
「…………」
「何に、って聞いてくれないのね」
「……聞いた方が良いのか? 少なくとも俺には、お前は聞いてほしくないと思っているように見える」
「……私、あなたのそういうところ、好きよ」
そして、とても有り難い。私のような、無意識の内にでも壁を造ってしまっている人種からしてみれば、特に。他人との境界線をはっきりと定義し、ソレ以上は極力踏み込まない、どこか冷酷で、どこかフランクで、どこか哀しさを秘めた繋がり。
同じ人種だからこそ、できる芸当。たぶん彼も、どこかにぽっかりと穴が空いている。
……だからこそ、だと思う。
話してみようと思った。今まで誰かに話そうと思ったことすらないけれど、特に何か変革を求めているわけでもないけれど、彼から特別な見返りを求めているわけでもないけれど……ただ、特に意味もなく話してみようと思った。
ただ、今私の“中”に巣食うこのモヤモヤを、無意味に吐き出したかった。
「蛇よ。……白い蛇」
ランプで朧気に浮かび上がるサーペントの影がピクッと動いたように見えた。
「あなたの腕の痣と……私の夢に出てきた、蛇」
膝を抱える腕に、力を込める。
「私が初めて人を撃った日の夜に見た夢でね……今でもはっきり覚えてる」
ほぼ無意識に、目を瞑った。同時に左手が、側頭部にある2つの裂傷に向けて伸びる。
「家族を、全てを無くして……死のうと思って、でも死ぬのが怖くて、そして失敗して……泣きつかれて眠ってしまって……」
父が即座に撃ち殺され、同時に気絶した私が覚醒した時に目の前に広がっていた光景はまさに地獄だった。……まだ、母と妹が血の海に横たわっていた、とかの方がマシだったと思う。
母は、殺された父の遺体の目の前で複数の兵士に
私はロープで後ろ手に縛られ、床に転がされていた。妹はまだ幼すぎた故か、特になにもされず私と同じように床に転がされていた。泣き叫んでいたと思う。
その現状を認識した途端、私の世界から音が消えた。何かが壊れて、何かが崩れ落ちて────何かが弾け飛んで、視界が真っ赤に染まった。側頭部の痛みはアドレナリンのお陰か、ほとんど痛みを感じなかった。
──……ぐぇっ
男共が母の体に夢中になっている隙に、床に落ちて割れた花瓶の破片でロープを切った。……かなりおかしな思考回路になっていることに、まだ私は気付いていない。手頃な距離にいた、己のモノをシゴいて自慰に耽ってる男の首を、その破片で掻き斬った後は本当に記憶がない。視界が完全に赤一色に染まったまま…………。
気付くと、その場で息をしているのはハンドガンを握った私だけだった。
「全部がゴチャゴチャで、もうわけが判らなくなってて……5分置きに目が覚めてたと思う。そんな時に、その白い蛇が出てきたの」
もしかしたら、夢と現実の区別が付かなくなっていて、あの蛇は本物だったのかもしれない。
でも不思議と、その後はぐっすりと眠れた。
「……いつ頃の話だ?」
聞きようによっては、冷たすぎる受け答え。特に事の詳細を詮索してくることもなく、特にいつもと変わらない声音で、特に興味が無いとでも言うかのようにサーペントが聞いてくる。……その様子に何故か安心する。
「ん~……6年前、ね」
「……1年後、か」
「……どうしたの?」
どうもサーペントの様子がおかしい。そんな雰囲気がこちらにも伝わってくる。
「いや……この痣は、その1年前にできたものだ。俺は当時、ソ連にいた」
おっと。かなり爆弾発言が聞こえたな。え、何? ソ連にいた?
「さらっと凄いこと言ってきたわね」
「……何をしてたんだ、って聞いてこないのか?」
ニヤリと笑いながらサーペントが悪戯っぽく言ってくる。どこかで見たことのあるやり取りだ。間違いなくこの男、判ってて言ってきている。
負けじと私は、彼に向けて中指を立ててやった。
「聞いたって話す気無いでしょ」
「まあな。それに……話すことはできない。恐らく、一生」
「……意味深ね」
判ってはいたことだけれど、少し残念な気持ちになってしまう。……他人に興味が湧かないように生きてきた私だけど、何故かこの男には惹かれてしまう自分がいる……。
強がりとかではなくて、恋愛感情とかそんな生易しいものじゃなくて──ただ純粋に、その人となり──人間として惹かれるのだ、この男には。
「はぁ……話し疲れちゃった。サーペント、何か面白いお話して」
特に、何も意識せずに口から漏れた言葉だった。返事も期待していない。無かったら無かったで、夜明けまでボーッと起きておこうって思っていた。
だからこそ、彼から返事が、それも本当に──面白いかは別として──お話を聞かせてくれる、と判った時は、自分から言い出したことだと言うのに凄く驚いた。
「……俺の家は、代々続く典型的な軍人の家系だった」
「…………」
「なんだその顔は。虚しくなってくるだろうが」
あまりにも呆けた顔をしてたんだと思う。サーペントが「し、仕方ないだろう。面白い話なんて俺にできるわけが……」と、珍しくバツが悪そうに頬を掻いていた。まあ、彼なりの気遣いというヤツだろう。……ちょっと嬉しい。
「……ふふっ。いいわよ、続けて」
「いや、続けてと言われると余計話し辛いんだが……」
「いいから。それに、そこまで話されるとけっこう気になる」
「……はぁ……親父は……詳しくは知らないんだが、かなり変わり者だったらしくて……軍には所属せず家系唯一の傭兵だったそうだ。そして何故か、第一次大戦後にドイツに渡って、ドイツ国籍を取得したらしい」
これはまた珍しい経歴の人物なことで。大戦後のドイツはかなりの混乱状態にあったはずだけど……わざわざそこに飛び込んでいくほど、何かそれなりのものがあったのかな。
……まあ、たぶん彼の口振りからしてもう生きてはいない。
「当時、軍備縮小で巷に溢れ返っていた元軍人達を集めて、小さな運送会社を経営してたんだと。だが第二次世界大戦が勃発すると、そこに目をつけられて纏めて徴兵されたらしい。……まあ、昔の傭兵としての血が騒いだりしたんだろう。もしかすると、次の大戦を予見してたのかもしれない」
俯瞰的に、時代の流れを、大局を見つめることができる人物だったということ、なのだと思う。こういった能力を発揮する人物は、思いの外少ない。
「そのメンバーを元に特殊部隊を結成し、かなりの戦果を挙げたと聞いている。フランス占領後はそのままそこに常駐し、連合国側のフランス侵攻の兆しが濃厚になると、ノルマンディー付近に第7軍所属特殊部隊として配属されていたそうだ」
「そこであの、ノルマンディー上陸作戦が発動されたわけだ」と、サーペントは特に表情を変えることなく言った。彼からしてみれば、特に感慨ある“思い出”話ではないということなんだろう。そもそもサーペントはまだ産まれてすらいないはずだ。
「親父の部隊は、連合国軍最強の特殊部隊と渡り合っていたそうだ。“コブラ部隊”……聞いたことはあるだろう? 特殊部隊の母、
「ザ・ジョイ……?」
「…………ああ。すまない、ザ・ボスだ」
ザ・ボス。兵士ならば1度は聞いたことがあるだろう軍人。……ここ最近は、あまり
「7月12日、親父はその戦いで死んだ。殺したのは、コブラ部隊に所属していた祖父だ。実に20数年ぶりの再開だったらしい。……部隊は善戦したが、親父が死んだことで結果的に崩壊した」
「…………」
開いた口が、塞がらなかった。
同時に、いろいろと頭が混乱して来ていたりする。……祖父が、サーペントの父である自身の息子を殺した、と。…………いやいやいや、いったい祖父の年齢はいくつなのだ。
それに、あまりにもサーペントが淡々と、何事もないかのように言ってきたから大事なところを忘れていた。────肉親同士で殺しあっていた、ということになる。
「……はっはっは。祖父は当時、80歳を越えていたらしい。それで現役バリバリだったんだから、恐ろしいもんだ」
いや、笑い事じゃないと思う。
「後に遺された母は、憔悴のあまりポックリ逝ってしまったそうだ。生まれたばかりの俺は、最終的にその祖父に引き取られた」
そこまで言い切り、「はぁ……」と息を吐いたサーペントは力なく笑った。……全てが抜け落ちていくような、そんな嘆息だった。
途端、私は眩しさに目を瞑る。気付けば、東の方角から木々の合間をぬって、日の光が射し込んできていた。
「俺の体には、アメリカ人とドイツ人の血が流れている。……ま、だからなんだって話だがな」
うわー祖父ってダレダロナー(棒)