ウマ娘。彼女たちは走るためにうまれてきた。
ときに数奇で、ときに輝かしい歴史をもつ別世界の名前とともに生まれ、その魂を受け継いで走る。それが彼女たちの運命。
しかし、僕はこの運命という言葉が大嫌いだ。だってそうだろう?
ハッピーエンドも、バットエンドも、誰かの思い通りなんだと考えるだけで虫唾が走る。僕たちは体の良い操り人形なんかじゃないのだから。
僕や彼女たちが抱いた歓喜も、羨望も、悲嘆も、憤慨も、憎悪や苦痛といった感情すらも――他の誰でもない、全て僕たちのものだ。誰の手にだって、それこそ神の御手にだって委ねてたまるものかよ。
だから、僕は親愛なる彼女を見習って、少々下品な振る舞いだと自分でも思うけれど、運命とやらに中指を立ててみようと思う。まぁ、きっと彼女なら噛みつくくらいのことは平気でするのだろうけど。
『――結月選手の得点結果が出ました! 185・23点、ショートと合わせて271・43点! 日本からの刺客が今、ジュニア世界のレコードを塗り替えました!』
氷の上が生きがいだった。
大観衆の中、スポットライトに照らされて、氷上を駆けて、舞う。
人間は脆弱で、ウマ娘のように速く駆けることはできないけれど、この寒くて白い舞台だけは別だ。不自由な氷上こそが種族の壁を取り払う。ここでなら、ヒトも輝ける。
『盛大な拍手が轟いております! 長年更新されなかった歴史が動いた瞬間を、この目で見られたことを誇りに思います』
轟く喝采の声が、体を高揚させる。観衆の熱に浸りながら、僕は一礼した。
――再び、この舞台に立って見せよう。彼らに、更なる熱をもたらせて見せよう。そんな新たな夢を胸に灯して。
けれど、ソレが叶うことは無かった。僕の夢は――これまで僕を舞台へと連れてきてくれた相棒と共に、呆気なく砕け散った。
『残念ですが、もうスケートの道は諦めた方がよろしいでしょう、あなたの足は……謂わば硝子の足です。それも、既にどうしようもなく罅が入ってしまっている』
『……すまない。俺が、コーチとしてもっとお前をしっかり見ていれば……まだお前は……輝けたかもしれないのに……本当にすまない。俺のせいだ……俺が悪いんだ』
世界が急速に色褪せてゆく。あれほど、好きで、胸を熱くさせた氷上から……目を逸らさずにいられない。誇らしかったトロフィーの重みが、今では身を苛む呪いのように感じられた。その呪いから解き放たれたくて、トロフィーを叩き割ろうとして――結局、手を止める。未だ何かに縋るような、そんな自分がとても無様で――いっそ殺してやりたくなった。
だから僕は今――ここに立っている。
眼下では真っ黒な水がごうごうと流れている。昨日の大雨と、今日の強い風、もうちょっと経てば、また雨が降り始めるかもしれない。失敗はしたくないから、大人しく待つべきだろうか。それとも、決心が鈍る前に――――松葉杖を掴む手に、自然と力が籠った。
「――よりによって溺死か? 止めときな、息のできない苦しさは最悪だ」
背後から聞こえた声に、僕はゆっくり振り返る。正直、面倒だった。こんなことにならないように、人気が少ない場所とタイミングを見計らった筈だったから。
「……何か勘違いしていないか? 僕はただ海を見に来ただけだよ」
いつの間にかそこに佇んでいたウマ娘に、僕は言った。
「海を? 状況をよく見てみろよ。こんな荒れた天気に、こんなしけた場所に海を見に来る奴なんていないだろ」
「それは君の価値観だ。僕は荒れた海を見るのが好きなんだ。何でも呑み込んでしまいそうな、この黒色の奔流がね」
小馬鹿にするような顔を浮かべる少女に、思い付きで出鱈目を並べてみる。最も、全部がまるきり嘘ではない。黒色の荒ぶる海が好きというのだけは本当だ。ストレス性の色覚異常で、碌に色が分からなくなった僕でも、黒色だけははっきり分かるから。
「……君も、綺麗な黒色だな」
長く艶やかな黒髪に、身に纏う衣装は勝負服だろうか。髪と同じく漆黒で、見る人によれば不吉さを抱かせるかもしれない。けど、彼女が白い氷上で舞えば、それはきっととても美しいだろうとも思う。
――なんて、今更またあの舞台を思い出してしまっている。我ながら、度し難い未練だ。
「口説いてるのか? 言っとくが、心中相手を探してるなら他をあたってくれ。俺は自分から死を選ぶ愚か者にはなりたくないからな」
彼女が憮然と言い放つ。一見すると華奢な体に反して、その立ち姿は威風堂々たる様だ。
「愚か者……中々言ってくれる。普通さ、こういう状況じゃ刺激しないようにするものじゃないか?」
自分が自殺を考えていたことはもう彼女にバレているようだ。これ以上の誤魔化しは不可能だろう。
「愚か者に愚か者だと言って何が悪い。命を粗末にする奴を見ると、俺は反吐が出るんだ」
ギラギラとした眼光で僕を睨み、心底侮蔑したように彼女は言う。少しだけ、僕の中にも怒りが湧いた。
「……君に何が分かる。それに、粗末にするも何も……僕の命はこの通り、既に終わっているんだ」
感情に身を任せて杖を投げ捨てれば、体のバランスが崩れ、僕は傍の鉄柵へと倒れ込む。錆びついた柵の先で、誘うように水流が唸っている。
「君、アスリートだろう? 見れば分かるよ。僕もそうだからね。君たちウマ娘は皆、大なり小なり走ることに焦がれると聞く。僕にとってのターフは氷上だった。その舞台が――全てだった」
そしてそれは既に潰えた。生きる理由を――失った。
「世界を獲ったのだから……もういいだろう。輝かしい成績を残せたのだから……ソレができずに消えた人も居るのだと。そんなこと僕に言った人も居たけれど……知ったことかよ!」
納得などできない。世界を獲った、レコードを更新した。それは確かにいつか掲げた夢の一つだったが、それで満足できなくて何が悪い。夢は続くものだ。一つ叶えて、そこで終えるような奴がアスリートなどやれるものか。
もっと、あの舞台で駆けたかった。熱狂の中、より高く、より美しく――けれどもう叶わない。シニアの氷上を踏むことが一度もないまま、僕のスケート人生は終幕した。
「だから、止めないでくれ。同じアスリートとして、少しでも共感してくれるところがあるならば……君は今日何も見なかった。そういうことにしてくれよ」
鉄柵に背をつけたまま、少しずつ体重をのせていく。このままいけば、壊れた足でも容易に身投げができるだろう。
「……半端な覚悟でそこに立っていないことは分かったぜ」
静かに、けれど不思議と良く響く声で彼女が言った。
「失ったものへの執着も……絶望も……まぁ、身に覚えがあるものだ。」
「……そうか、じゃあ、早くここから――――」
去って欲しい、その言葉を口にするより先に彼女が笑みを浮かべた。ギザギザとした歯をむき出しにした、獣のように獰猛な笑みだった。
「――だから、俺が手伝ってやるよ」
「はっ……?」
僕が呆気に取られたその一瞬に、彼女は地を蹴った。凄まじい速度だった。踏み込み一つで距離を完全に殺した彼女は、既に僕の眼前に居て、その白くか細い腕がぼくの首を掴んだ。
柵側から地面に引きずり倒される。彼女が僕の体に馬乗りになって、首に添える指に力を籠める。
「っあ! かっ、なっ……⁉」
息が吸えない。苦しい。万力のような力だ。人の身体で抗ってもどうにもできない。理性でソレが分かるが、本能は違った。拘束から抜け出し、酸素を得ようともがく。
「――わざわざ冷たい水の中で溺死するよりは、この方がずっとマシだろう⁉ 俺に感謝して死ぬんだな!」
嘲笑うように少女は叫ぶ。いや、もしかしたら怒っているのかも知れない。耳朶をつく声に意識を回す余裕が無く、思考もまとまらない。ただひたすらに、苦しいだけだ。苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。
――あぁ、死ぬってこういうことか。
こちらを見下ろす少女と、ようやく目があった。色褪せて見える世界の中で、何故だが――彼女の瞳だけは血のような赤い輝きを放っていた。
最後に見る光景としては――悪くないのかもしれない。
ふいに、首にかかった力が抜ける。沈みかけた意識が覚醒し、僕は慌てて跳ね起きた。その勢いで、彼女の体が地面に倒れ込むが、構う余裕などない。
「――っぁは、はっ、はっ、はっ! は……っ……はっ、は……何の……つもり……だ?」
呼吸を整えつつ、潰れかけた喉から声を振り絞って尋ねる。
「……痛ぇな。またひっかき傷が増えた」
「何を? 傷?」
そこで初めて、彼女の白い腕に幾つもの傷ができていることに気づいた。さっきはそんなものはなかった筈だ。つまり、アレは僕がつけたもの。首を絞められた際に、もがいてできたものだ。
ただ、彼女がまた、と言ったことが妙に引っ掛かる。似たようなことが以前にもあったというだろうか。いや、それよりも――
「何故、僕を殺そうとした? 殺人欲求でもあるのか、君は?」
「俺はそんな悪趣味じゃねぇよ。さっきも言っただろう、俺は命を粗末にする奴が大嫌いなんだ……それこそ、ぶっ殺してやりたい程にな」
「っ……滅茶苦茶だろっ!」
「そうか? 自分で自分を殺そうとする奴よりはずっとマシだと思うがな」
まるで悪びれることなく、彼女は言う。
「で、どうだ? 死にかけた感想は?」
「感想も何も……」
「苦しかっただろ。それ以外、他に何か考える余裕があったか?」
ギラギラと輝く赤い瞳が、僕を見据える。彼女の言いたいことが、何となく分かってしまった。
「――悔しいが、スケートのことを考えていられなかった。」
苦痛だけが思考を支配していた。氷上へ戻れないことの絶望も、自分の足のことも、あの瞬間、頭の片隅にすらなかった。
ただ一つだけ、例外だったのは……
「ん? 何だ、人の顔をジロジロ見やがって……」
「……いや、気にしないでくれ。あと……ありがとう。少し、癪ではあるが……」
「はぁ? 自分を殺しかけた奴相手にお礼とか……お前頭イカれてんじゃねぇの? まだ脳に酸素足りてないのか?」
小馬鹿にしたように彼女は鼻を鳴らした。ぴくぴくと、ウマ娘の長い耳が動く。
「僕も大概だけれど……君も相当不器用な奴なんだな。まぁ、そうじゃなければあんな手段はとらないか」
そう考えると、少し彼女のことが可愛らしくすら思える。それを口に出したらまた首を絞められかねないので、黙っていることにはするが。
「これ、やるよ」
服のポケットに手を突っ込み、彼女は何かをこちらに投げわたしてきた。飾りっけのない緑の包み紙を解けば、白く四角い物体が顔を出し、微かに清涼な香りが鼻をくすぐった。
どうやらミントのキャンディーらしい。僕は有り難くそれを口に含んだ。
「ペパーミントか……好きなのか?」
「なんだよ、悪いか?」
「いや別に、ミント好きなら気が合うと思っただけだよ。僕はチョコミントを馬鹿にする奴とは仲良くなれないから」
「はぁ? チョコミントは最高だろ?」
「君のような人が増えてくれれば嬉しいのだけど……」
なんというか、不思議な気分だった。さっきまで死のうと考えていて、実際死にかけて、というか殺されかけて……その下手人である少女と他愛のない話をしている。
「……君、名前は?」
気づけば、そう尋ねてた。
「あぁ、先に僕から名乗るが礼儀か。僕の名は……」
「お前は命を粗末にする馬鹿野郎だ。それ以上でもそれ以下でもない。俺がただの通りすがりのウマ娘であるのと同じようにな」
少女がぴしゃりと言い放つ。
「それは……いや、うん、そうだね」
僕は少し迷ったが、少女の言う通りにすることにした。お互いのためには、その方がいいと思ったからだ。僕は既にメディアでそこそこ取り上げられているし、僕が知らないだけで、彼女もまたその道の業界では有名な存在なのかもしれない。
あのとき彼女が見せたスタートダッシュ、あの力強さと俊敏さは並みのウマ娘にできる芸当ではないように思われた。以前、海外留学中に観戦した凱旋門賞の出走ウマ娘にも、もしかすれば負けていないのではないだろうか。
「……ところでお前、この後時間あるか? あるよな、全部投げ出そうとしてたんだから」
「全くもって君の言う通りだけど、もう少し言い方がどうにかならないかな?」
「細かいことは良いんだよ。時間があるなら、ついてきな」
「ついて来いって……何処に?」
「いいから来いよ。お前、まだ放っておいたら馬鹿やりそうだしよ……」
「君のお蔭で一応死ぬ気は失せたけど……」
「死ぬ気が失せただけだろ? 生きる気力はまだ湧いてない……違うか? お前の目は、まだ寒くて、飢えていて仕方がないって感じだぜ」
「……………………」
彼女の言葉に、僕は何も言い返せなかった。
死ぬことを止めたところで、たぶん僕はこのまま死んだように生きることを惰性で続けるだろう。けれど、どうしようもないことだ。失ったものがあまりに大きいのだから。
「それとも、君なら指し示せるってのか? 僕が生涯を賭けて挑んで、砕け散ったモノに代わるものを……」
「馬鹿なことを言うなよ。お前が命懸けでやっていたことは、そんな安いものか? 代替品に飛びつけるほど、お前の覚悟とやらはヌルいわけじゃないだろ」
「じゃあ、一体……」
「俺はただ、人生における楽しみを一つ教えてやるだけだ。死ぬのが惜しくなるような熱があれば、ちっとはお前もマシな顔になるだろう。だから――」
僕がさっき投げ捨てた杖を拾いあげて、彼女はにかりと笑う。やはり凶悪な笑みだった。
「――最高に熱いレースをお前に見せてやるよ」
思い付き百パーで書いてます。