僕が死に場所に選んだ場所は人気も少ない寂しい場所だ。近くに目立った建造物もない。レース場なんてものは持っての他だった。
疑問が晴れないまま、僕は彼女に連れられて近くの森の中へと足を踏み入れた。道なき道を彼女の手を借りつつしばらく歩くこと数十分、ようやく開けた場所に出ることができた。
視界に飛び込んだ光景に、僕は思わず丸くする。
「これは……コースなのか?」
「華やかこそないが、こういう無骨なものも悪くないだろ。あくまで肝心なのは走りだからな」
森の一部を無理やり切り開いて作ったようなトラック、観客席なんてものは勿論なくて、本当にただ走るためだけの場所という印象だった。
僕はそっとしゃがみこみ、トラックを手で撫でる。
「こんな場所に作ったのだから当たり前だけど、これ、土じゃないか」
しかも昨日の雨のせいで水分を多量に含んでいる。バ場状態はおよそ最悪だろう。
「そうだ。何の問題がある?」
「いや、だって日本のダートは砂だろう?」
ダートレースというものを観戦したことが無いので詳しくは分からないが、確かそうだったはずだ。
「俺にとってのダートは土なんだよ。つうか、こっちの方が原義だろ」
「まぁ、それもそうか。君は米国出身なのか?」
「互いに詮索は無しってことで、合意したんじゃ無かったか?」
「そうだった。ついうっかり……で、レースと言ったけど、君一人で走るつもりなのか?」
「そんなわけないだろ。競う奴が居ないんじゃ面白くねぇ。まぁ、もう少し待て。そこに丁度いい塩梅の切り株があるからよ」
手を借りたとはいえ、怪我した足を抱えて森を歩いたのだ。疲労はかなり溜まっている。彼女の促す通りに僕は切り株に腰を落ち着けることにした。
「……ん? 何だ?」
異変に気付いたのは、それから数分後だった。視界が一瞬くらりと歪んだかと思えば、濃霧が木々の間から溢れ出し、周囲を真っ白に塗りつぶした。まるでスティーブン・キングの『霧』のようだ。となれば、ここからは異形の怪物が跋扈するのだろうか。そんな他愛もない空想を裏付けるように、霧の中に幾つもの人影が浮かんだ。
一人、また一人と影が増える。そして、ごうと風が吹いて、濃霧が急に薄まった。まだ僅かに白んだトラック上に、人影――否、ウマ娘たちが佇んでいる。
「……おい、どういうことだ? 何故、ここに部外者が紛れ込んでいる?」
栗毛のウマ娘が一人前へと歩み出て、不機嫌そうな声で言う。その一声を皮切りに剣呑な視線が幾つも僕に突き刺さるが、しかしあの少女の赤い視線に比べれば幾らか迫力が足りないように思われた。
「そいつは俺の客だ。折角のレースに観客の一人も居ないんじゃ、寂しいだろう?」
肩を竦め、悪びれる様子も無く黒いウマ娘は言った。彼女に相対する栗毛のウマ娘は忌々しそうに口元を歪めると、キッともう一度僕を睨みつけ、「勝手にしろ」と吐き捨てるように口にして踵を返した。
「……なぁ、本当に僕は来て良かったのか?」
「気にすんなよ。というか、口ではそう言っている割にお前あんまり応えてなさそうじゃないか?」
「海外の大会だと、日本人だからと舐められることは珍しくないから……」
アウェーな環境でも素知らぬ顔をしていなければ、世界大会優勝などとても目指せない。
「ハハッ、そいつはいい! やっぱりよ、舐め腐ってる連中のド肝を抜いてやるのが一番楽しいからな!」
「……否定はしない」
満足そうに頷いて笑う黒の彼女に、つい僕も口元を緩めた。
「今から行うのはダートレース、距離は10ハロンだ。ダービーと同じだな。お前、誰が勝つか予想してみろよ」
「さっきの栗毛のウマ娘」
黒い少女の問いに、僕はほとんど反射的に答えた。答えてからしまった、と思ったが、意外にも彼女は機嫌を悪くすることもなく、興味深そうに口の端を吊り上げた。
「へぇ……理由は?」
返答次第によっては今度こそ殺されるんじゃないか、そんなことすら思ったが、ここでの誤魔化しはそれこそ一アスリートとして失格だろう。僕は正直に言葉を繋げる。
「他のウマ娘たちも相当の猛者なんだろうけど、あの栗毛の子は別格だ。間違いなく、持っている者であることが見て分かる」
どんな競技であれ、強者はそれに相応しい空気を纏っているものだ。自然と感じられる重圧、栗毛のウマ娘はそれが飛びぬけている。彼女に匹敵できるとすればそれは、隣に立つこの黒い少女を除いて他にはいない。しかし――
「君と彼女の間には壁がある。多くの競技者の前に立ちはだかる――肉体の壁だ」
体格、ともの作り、左右の筋肉のバランス、触診できない分精度は下がるが、栗毛のウマ娘は走ることに理想的で美しいバ体をしている。一方で、黒い彼女はどうだろうか。ウマ娘にとって命に等しいであろう彼女の足、それは触るまでもなく――。
「君の足は歪んでいる。それは競技者にとって無視できない程、致命的な欠点だ」
黒い彼女の両足に視線を向けて、僕は言った。
足が歪んでいるということは、それだけ重心が崩れるということだ。筋肉のつき方もバランスが悪くなる。スケート程絶対的にバランスが必要な競技でなくとも、それが大きなハンディキャップになることは想像に難くない。
「勿論、身体機能の強みだけで勝てる程、競技の世界は甘くない。けれど、ソレが無くて勝てるほど――ヌルくもない」
心技体は全ての競技で必要とされる。そして、トップ争いをしている連中は皆血反吐を吐くような努力をして、心と技を磨くモノだ。それ故に、生まれついての差が大きい体の差は、ある主理不尽な、暴力的な重みをもって競技者の前に立ちはだかるのだ。
「心と技であれば、君は彼女に勝っているのかもしれない。けれど、それは肉体の大きな差を覆す程じゃない筈だ。だから、勝者を予想するなら――彼女が勝つという結論に辿り着く。そのはずなのに……」
僕はそこで言葉を止め、言い淀んだ。門外漢といえど、自分の予想は客観的に考えて理に適っているはずだ。ある程度スポーツに通じた者であれば、僕と同じような思考に辿り着く筈だろう。しかし、
「――どうしてかな? 僕は、それでも……君なら何かやってくれそうな気がする」
ぽつりと、呟くように僕は言う。根拠は全くない。だが、何故だか確信めいた何かが胸の奥で燻っていた。
僕の元へ一瞬で駆けてみせた黒い彼女の姿、あの一瞬が未だに脳裏に焼き付いている。
期待するような僕の視線を受けて、黒い彼女はふんと鼻を鳴らした。
「張り合いがねぇな。そこははっきりアイツにベットしとけよ。予想をぶった切る快楽が半減するだろうが……まぁ、いいさ」
こきりと首を鳴らし、彼女は不敵な表情を浮かべる。
「たまにはこういうのも悪くはねぇ。一瞬たりとも目を逸らすなよ――お前の期待を超えてやろう」
公的なレース場じゃないため、ゲートなんて大仰なものは存在しない。総勢十五名のウマ娘たちがくじを引いて、枠番を決めたあと、スタート地点に並んだ。
「おっと、俺としたことがスターターの存在を忘れてたぜ。よし、お前がやれ」
5番枠の位置についた黒い彼女の言葉に従って、僕は松葉杖をついて立ち上がり、スタート地点の横に立った。ぎらつく戦意を漲らせるウマ娘たちを間近で見るのは、壮観の一言だ。
一つ息をついて、僕は大きく右手を上げる。レースのコースと言い、距離といい、どうやら米国を意識しているらしいので、ここは掛け声もそれに倣うべきだろう。
「――On your mark, get set, go!」
声とともに手を下ろした瞬間、ウマ娘たちが一斉に地を蹴り出した。水を含んだ土は重く足に纏わりつくだろうに、それを感じさせない軽快な走りだ。
「――ッ、やっぱり全員猛者だな」
先頭を走るのは鹿毛のウマ娘。レースは詳しくないが、確か逃げと呼ばれる戦術だ。
最初の4ハロン(800メートル)があっと言う間に通過される。黒い彼女は4番手の位置。栗毛のウマ娘はその外5番手だ。両者ともに眼光は鋭い。
彼女らの放つ気迫が、前後のウマ娘たちをすっかり呑み込んでしまっているようだった。もう既にこのレースはあの二人だけのものといって構わないだろう。先頭の逃げウマが追いすがる彼女らに食い殺されるのも時間の問題だった。
そう考えた矢先、第三コーナーに差し掛かる直前で逃げウマの脚に衰えが見えた。そして、彼女らはその瞬間を決して見逃さない。爆発的な加速で、黒い彼女と栗毛の彼女が先頭を奪いにかかる。が――
(――僅かに遅れたか⁉)
栗毛のウマ娘の方が幾分か仕掛けが早かった。黒い彼女のタイミングが悪かったとも思えない。恐らく状況を見て動いた彼女に対して、栗毛の娘はもともとそこで仕掛けるつもりだっただろう。
先頭になったのは栗毛のウマ娘。黒い彼女は位置が良くない。完全に内に封じ込められようとしている。もうゴールまで距離も無い。
(っ……勝負は決したか……)
黒い彼女の走りは肉体的なハンデを感じさせない、素晴らしいものだった。だが、それでも――
(――届かないか………………)
気づけば、僕は拳を握りしめ――――そのときだった。血のように赤い彼女の瞳がこちらを一瞬見据えたのだ。
――目を離すなよ。
そんな彼女の声が聞こえた気がして……同時に、雷鳴が轟いた。否、それは彼女の踏み込みの音だ。ぬかるんだダートをどう蹴れば、そんな音が鳴るのだろうか。加速を得た彼女の姿は、まるで黒い稲妻とでもいうべきもので、囲いを外側に向かって乱暴にぶち抜いたかと思えば、そのまま外から栗毛のウマ娘へと追いすがる。4コーナーを超えて両者は横並ぶ。最後の直線は二人の完全なるマッチレースとなった。
「っ――――勝て…………勝ってくれ」
歪んでいる筈の脚で、アスリートとして見るなら醜いと評されるだろうその脚で……常識というものを嘲笑い、ぶっ壊そうとする彼女の走りがただただ痛快だった。
僕が零したソレは声援と言うにはとても細やかなものだったけれど、彼女へ届いたのだろうか。僅かに、口角が上がったような気がした。
「――っらぁぁああああああああ!!」
「っ…………⁉」
黒い彼女が咆哮する。彼女は競っていた栗毛のウマ娘より徐々に、徐々に先行し――そして、ついに追い抜いた。その距離は縮まることなく――
(――あぁ、そうか…………)
ダートを駆ける無数の足音は止み、辺りは静寂に包まれる。聞こえるのは、荒い呼吸の音だけ。僕の元へやってきた彼女もまた、肩で呼吸をしていて、大量の汗を滴らせてる。けれど、その顔はとても満足気で。
「――ふっ、お前もちっとはマシな顔つきになったじゃねぇか」
そう言って浮かべる彼女の笑みは、やはり凶悪の一言で、しかし何処か優し気でもあった。
◇
「――結月君、帰国は二週間後だったか? 寂しくなるな」
「僕としても、もう少しマダムの元で学んでいたかったけどね。ヴェニュスパークが凱旋門を走るところも見たかったし……」
「あの子は君に懐いていたからな……レース結果に影響が出なければいいんだが……」
「いやいや、モンジュー。君とマダムが見初めた彼女が、そんなに脆いわけないじゃないか」
あの少女の強さは間近で見たから知っている。凱旋門賞にだって、彼女は届き得る。
「しかし、世話になった君と戦うとなれば、流石に穏やかではいられないだろう。君も、いずれ凱旋門を獲りに来るのだろう?」
「マダムに聞いたのかい? 確かにそのつもりだけどさ……僕はまだまだ新米トレーナーだ。向こう10年は掛かる。彼女と戦うことなんてまずないよ」
僕の言葉に、興味深そうにモンジューは口角をあげた。
「ほう、10年か。70年近く破られなかった壁も……10年あれば、自分なら破れると?」
「言葉の綾だよ。大体、トレーナーってのは主役じゃないからね。でもまぁ、10年もあれば……見つかるんじゃないかなって、なんとなく思うだけだよ」
「そうか……まぁ、君の予感はよく当たるからな。君がまたこの欧州の地に戻ってくることを、楽しみにしているよ」
不敵な笑みを浮かべみせる彼女に、僕は苦笑で返した。欧州最強と謳われた彼女に睨まれるなんて全く冗談じゃないからだ。けどまぁ、ワクワクするものが無いと言えば嘘にもなる。
あの日見た黒い彼女に匹敵する誰かに――僕は出会えるのだろうか。