じりりと響く目覚まし時計のスイッチを止め、ゆっくりと寝台から起き上がる。コンディションは……少し微妙だ。今日を楽しみにし過ぎたせいで、あまり寝られなかった。海をまたいだ時差ボケのせいで崩れた生活リズムがまだ完全に治っていないのも原因だろう。
まぁ、寝坊しなかっただけヨシとしよう。なんて言ったって、今日は中央トレセンの初赴任日だ。オリエンテーションで事前に何度か足を踏み入れたが、正式にトレーナーとして入校するのは今日が初めて。ここからが、新たな夢の第一歩だ。
さっさと身支度を整え、真新しいピカピカのトレーナーバッジを身に着けて、僕は自宅を後にした。始業時間まで時間はまだまだあるが……まぁ、いいだろう。校内を見回るのも悪くない。
そもそもトレセンの門は開いているのだろうか、そんな不安が一瞬頭をよぎったが、結局それは杞憂だった。門前の警備員に挨拶して、僕は校内へと足を踏み入れた。
「流石にこの時間だと生徒も居ないな……まぁ、過度な朝練に身を費やさないのはいいことだ」
休むべきときに休むことは選手にとって大事なことだ。日頃ハードなトレーニングを自分に課しているだろう子たちは、この時間はまだ大人しくベットで横になっている方が健康的だろう。
なんて、そんなことを考えた矢先に僕は道の片隅にしゃがみこんでいるウマ娘を見つけた。朝練をしている、というわけじゃどう考えたってなさそうだ。
「……君、どうかしたの? 落とし物でもした?」
僕が声をかけると、ウマ娘はゆっくりと振り返り、不思議そうな顔で僕を見つめた。僕を怪しんでいるのだろうか。誤解を解こうと、僕は自分のトレーナーバッジを指し示す。
「突然悪かったね、僕は今日から赴任したトレーナーなんだけど……つい早く来すぎてしまって。適当にぶらついて時間をつぶそうとしていたら……君を見つけたんだ。何をしているのか気になってさ」
目をぱちくりとさせながら、少女は僕の話に耳を傾ける。パステルカラーの長い金髪に、水色のインナーカラー、ぼんやりとした表情と相まって、何だか全体的に儚いというか、何処へでも飛んで行ってしまいそうな少女だった。
「……ネオユニヴァースは『観察』をしている」
「観察? 何を……」
予想外の返答に僕は困惑した。道の片隅に一体何があるというのか、特に目立つものは見当たらない。いや、よく注意してみれば、彼女が先ほどまで観察していたらしい場所に、黒くか細い線が見えた。
「……蟻の行列? これを観察していたのかい?」
小さな穴から、顔を出して列をつくる蟻の行列。予想は当たっていたようで、彼女はこくりと頷いた。
「『かわいい』を見ると、ネオユニヴァースは高揚……つまり、『ワクワク』になるよ」
なるほど、どうやらこの少女はしゃべり方と同じく独特な感性を持っているらしい。年頃の少女が虫に好感を持つのは珍しいと言っていいだろう。
「そうか、体調を崩したり、何か困りごとがあるわけじゃないんだね。良かったよ」
「うん、ネオユニヴァースは大丈夫。心配してくれた貴方に感謝を伝えるよ」
「気にしないでいいよ。余計なお世話ついでだけど、観察は程ほどにね。その姿勢はあんまり体にいいものじゃないから」
邪魔するのも悪いので、挨拶もそこそこに僕はそこから立ち去った。ネオユニヴァース、不思議な響きの名だ。纏う空気感といい、妙に頭に残る。ぱっと見た感じとものつくりも中々良さそうだった。できれば、彼女の走りを見てみたかったが……贅沢は言うまい。
「流石は中央トレセン。なんというか、ワクワクする子がいるなぁ」
ウマ娘の授業が終われば、模擬レースが始まる期間だ。新人である自分のスカウトが上手くいくとは思えないが、それはそれとして楽しみである。
学園内を歩き回っていれば、ちらほらと朝練に励むウマ娘たちを見かけた。その熱心さに感心する一方で、無理をしないで欲しいという想いもある。
ちゃんとトレーナーの指導を受けた上でならともかく、指示を仰がないで行われる自主トレはなんというか色々と怖いのだ。まぁ、今のところ下手な自主トレやオーバーワークを行っているらしい娘は見かけないが。
ただ、模擬レースでのアピールが上手くいかず、トレーナーとの契約を結べないウマ娘たちが、だんだん無理がある自主トレを行うようになることも珍しくないらしい。そうなる前に誰か止めろよと思うが、トレーナー業は慢性的な人手不足だ。そう簡単な話でもない。
せめて、自分が担当する娘には最後まで負傷なしに走り切って欲しいと思うが、それが叶わない理想であることも承知している。
栄誉を掴む代償に自分の肉体を壊す。競技者であるならば、そこから逃れるのは至難の業だ。
「おぉ、あの子いい走りだな……って、あれこないだG1走ってた子か」
全力ではない走りではあるが、直に目で見れたのは中々良い。早起きは三文の徳とはよくいったものだ。
少しづつ登校する生徒の数が増えてきたころ、僕は丁度校舎裏の近くを通りがかり、何か言い争うような声を聞いた。
「あの……困ります。私……」
「まぁまぁ、いいじゃないか。減るものではないだろう?」
「そんなことを言われても……」
状況はよく分からないが、あんまり前向きな話ではなさそうだ。流石に天下の中央トレセンの中で、暴漢が女子高生に言い寄っているなんてシチュエーションは有り得ないだろうが。
――トレーナーが強引に契約を迫っているとか?
まぁ、それだったら余程度が過ぎない限りは問題ない筈だ。スカウトなんて少しぐいぐい行くくらいが基本だろう。下手に止めるのはご法度。まして、自分は今日が初赴任のペーペーだ。とはいえ……。
『――いいかいボウヤ、良いトレーナーってのは紳士淑女足り得るものだよ』
師の言葉が脳裏に浮かんだ。
僕は少し息をついて、足を踏み出した。
「そんなことを言わずにさぁ……これを一瓶ぐいっといってくれるだけでいいから」
「いえ、だから……アグネスタキオンさん? でしたか? 流石にその怪しい物体を呑むのは……」
「………………」
行動を早まったのだろうか?
目の前の思いもよらない光景に、僕は固まった。目にしたのは、少女が少女に詰め寄られている場面だ。だが、よく見れば片方の少女はスーツを纏っており、その胸にトレーナーバッジが光っている。童顔なだけで、実際のところ少女ではないらしい。
そして、そんな彼女に言い寄るのは白衣を身に纏ったウマ娘だ。彼女の手にあるのは、怪しげな色の液体が入った試験管。
やっぱり状況がイマイチ読めない。
「あのーよく分からないんだけど……彼女が嫌がってるようだし、止めてあげたら?」
とりあえず、制止の声をあげてみる。すると、女性トレーナーが縋るような目を僕へ向け、また白衣のウマ娘が怪訝な目で僕を見た。
「……何だい君は? 突然現れて私の研究の邪魔をするとは……これはウマ娘が種の限界を超える貴い試みの一つだというのに」
「立派な大義があるのは分かったけど……だからといって、嫌がってる相手に無理やり詰め寄るなんてやり方は、あまりに品が無いよ。君もこのトレセンに所属する競技者であるならば、それに相応しい振舞ってものがある筈だ」
「ふぅーーン……随分らしいことを言うじゃないか……真新しいバッジに見かけない顔……君、新米トレーナーみたいだが?」
「君の推察通りだよ。僕は今日が初赴任の新米だ。けれど、僕が新米なのと、この状況を黙って見過ごすことは別のことだ」
毅然と僕は言い放った。ウマ娘が力づくで来た場合、僕に抵抗する手段などないのだけれど。幸い、白衣の少女は理性的で、納得したように頷いた。
「ふむ、君の言う通りかもね。少し強引にことを進めようとし過ぎていたようだ。悪かったよ、桐生院トレーナー」
「えっと、はい、私は大丈夫です」
桐生院と呼ばれた女性はおずおずと言った。これで一件落着かと内心胸を撫で下ろした僕に、白衣の少女はくるりと向き直る。その瞳が、宝石の如く爛々と輝いていた。何故だが、猛烈に嫌な予感がする。
「それじゃあ、君、これをぐいっと頼むよ」
そう言って、彼女は試験管を差し出してくる。
「えっ?」
「いやーしかし感激だね! 見知らぬ女性を助けるために、自らモルモットに志願するとは……なんという高潔な精神だ! 正しくジェントルマン、私もかくありたいものだねェ」
「いや……えっ? なんで僕がこの怪しい薬を飲む羽目に? そんこと一言も……」
しかもこの娘、僕のことをモルモットと言ったか? まるで取り繕う気がないじゃないか。僕の言葉が響いてくれたのかと一瞬でも思ったのがバ鹿だった。ターゲットが変更されただけだ。
「そもそもこれ……一体何の薬?」
「疲労回復の薬だよ。ハードなトレーニングで調子を崩すウマ娘ようのものだ。なに、安心してくれ。人間用に希釈しているから」
全然安心ができない。色合いがもう人を殺す色をしている。なんか妙に泡立っているし。けれど、効能には少し興味がある。将来的に、トレーニングにだって上手く活かせるかもしれない。それに――
『いいかいボウヤ、紳士たるものレディの誘いを無下にするんじゃないよ』
再び師の言葉が脳裏に浮かぶ。いや、しかしマダム、流石にこれは度を超えていませんか。
「ふむ、立派なことを言いつつも身を投じる気はないか――まぁ、いいさ。あまりこの学校のトレーナーに期待はしていなかった」
怪しげな薬を前に僕が固まっていると、白衣の少女はつまらなそうに鼻を鳴らし、試験管を持つ手を引っ込めた。そのまま僕と桐生院さんに背を向けて、彼女は立ち去ろうとする。――その背中が何だかとても寂しそうに見えた。
「――待ってくれ!」
気づけば、僕は声をかけていた。「まだ何かあるのかい?」足を止めた彼女は、億劫そうな顔でこちらに振り返る。なんとなく、このまま彼女を行かせれば、碌な結末にならない気がした。根拠もない、只の直感だった。
「いやなに、僕の方も少し大人げない物言いだったと反省したんだ。それに、師の言葉を思い出した」
言いながら僕は彼女に歩み寄り、その手に握られた試験管をそっと奪い取った。彼女が理解できないようなものを見る目で僕を見る。
「レディの誘いを無下にするなってね」
ぽんと試験管の栓を開け、僕は一息に怪しげな液体を飲み干した。独特な臭気が鼻に突く。シップを水に溶かしたような味だ。
「フフッ、変な笑いが出てくる不味さだね」
「君……バ鹿なのかい?」
「あの……大丈夫なんですか?」
白衣の少女と桐生院さんが、若干引いた目で僕を見る。まだ心配してくれているだけ桐生院さんの方が温情だろうか。
「で、この薬の効果が発揮されるのはいつくらいかな?」
僕の問いに、彼女は少し思案気な顔を浮かべる。
「……そんなふざけた理由で、私の実験体になるか……常軌を明らかに逸している……興味深い」
ぼそぼそと、僕の言葉に応答せずに彼女は呟く。
「あの……アグネスタキオンさん?」
「ん、あぁ、薬の効果かい? それならもう出てるよ」
「えっ? でも別に特に変わった感じは……」
「あの……申し上げにくいのですが」
おずおずと、桐生院さんが小さく手をあげる。
「その……トレーナーさん、光っています。赤紫色に……」
「――えっ!!?」
桐生院さんの指摘でようやく僕も以上に気づいた。なんだこれは、何故疲労回復の薬で人体が光る。
「僕を騙したのか?」
「いいや、騙してなどいないさ。君が飲んだのは正真正銘疲労を回復する薬だよ。ただ、副作用として発光するだけさ。人体への害はほとんどない」
「ほとんどって! それつまり、ちょっとはあるってことじゃないか⁉」
「科学の発展に犠牲はつきものなのさ。それじゃあモルモット君、次はこの薬を……」
「断る! 断固として断る! そもそも僕はモルモットではない!」
最悪だ。マダムの教えに従ったばかりに。いや、流石にマダムもこんな状況は想定していなかったんだろうが。
「ちなみに、発光はどれくらいまでだ?」
「さぁね。それを知るための投薬でもある」
「――今日の模擬レース、スカウト活動しようと思ってたんだが……」
サーっと顔から血の気が引く僕に、アグネスタキオンはにんまりと笑う。
「いいじゃないか。輝くトレーナー……皆の注目を集めること間違いナシだよ」
「ただの悪目立ちだろそれ!」
のどかな朝日の元、僕の悲痛な叫びが木霊した。
淡い期待も虚しく、結局薬による発光は夕方まで続いた。
――えっ、スカウト活動の結果はどうだったって? ハハッ、言わせないでくれよ。
ウマ娘はおろか、他のトレーナーからも遠巻きに見られた。事情を知っている桐生院さんだけは声をかけてくれたが、その優しさがまた逆につらい。
まぁ、新人である自分が初日からスカウト活動に成功するとは思っていなかったから、そういう意味ではダメージは少ないとも言えた。ネオユニヴァースと名乗ったあの少女は本日出走していなかったようだし、あのアグネスタキオンという少女も同様だ。
才気あふれるウマ娘は他にも居たけれど、少なくとも彼女らほどごく個人的な琴線に触れるウマ娘は居なかった。不幸中の幸いという奴だ。とはいえ、
「……今日が厄日であるには変わらないな」
日が沈み、すっかりと暗くなったトレセン学園。その門前で、僕はため息とともに肩を落とす。色々と慌ただしい一日だった。原因は明らかに薬による発光だったが……終わったことをぐちぐち言い続けても仕方ない。
今日はさっさと家に帰ってゆっくり寛いで眠りたい気分だったが、帰路の途中で忘れ物に気づき、再び学校に戻る羽目になった。
「さっさと回収して帰ろう」
たいていの忘れ物なら回収は明日でもいいが、ソレがスマートフォンとなればそうもいかない。記憶を探る限り、恐らく模擬レースを観戦していた時に置いてきてしまったのだろう。急いで現場へと戻れば、スマホが自分の居場所を知らせる様に、充電切れ間近のランプをチカチカと点滅させていた。忘れ物を探す手間がないのは助かる。
スマホを回収し、その場を立ち去ろうとして――僕は練習用のコース上に誰かが佇んでいることに気づいた。
暗いため顔はよく見えないが、多分、ウマ娘であることに間違いはないだろう。彼女はスターティングの姿勢をとり、勢いよく走りだした。
力強く地を蹴って駆ける彼女、どくりと僕の心臓が強く鼓動した。
――何だ?
妙な気分だった。ぞくりとするような、背筋を走る寒気。けれど、怖気とはまた違った感情だ。そう、言うなればこれは――――期待。
何かが決定的に変わる、そんな気がした。
彼女は一つ目のコーナーを曲がる。その先は、背の高い照明で照らされている地点だ。闇にすっかりと溶け込んでいた彼女の姿が、ようやく鮮明となり――
「ッ――――――⁉」
僕は言葉を失った。自分の心音がよく聞こえる。
暗闇から姿を現したのもまた――暗闇だった。思わずそう形容したくなる、黒い少女だった。脳裏に焼き付いた記憶がフラッシュバックする。
『――俺に感謝して死ぬんだな!』
彼女の声が耳の奥で木霊す。
『――最高に熱いレースをお前に見せてやるよ』
ギザギザの歯、凶悪な笑み。そして、見るもの全てを燃やしつくような赤い瞳。
ただ生き写し、というだけだったら、ここまで揺れ動くことはなかっただろう。だが、僕はその少女の走りに――彼女の姿を幻視した。
全身の血液が沸騰するような感覚に、僕は理性というものを投げ捨て、ほとんど反射で走りだした。
「君! そこの君!!」
片手をあげて、僕は声を張り上げる。
激しい運動は控えろという医者の言葉が、このときの僕の頭からはすっかりと抜け落ちていた。
「…………?」
足を止め、黒い少女がぎろりとこちらを睨む。いきなり走るのを妨げられたのだから、当然の反応だろう。冷静に考えれば、迷惑なことこの上ない。
我ながら反省すべき行動だったと思う。きっとマダムが知れば頭を抱えただろう。少なくとも、紳士でも、良いトレーナーの振舞いでもなかった。
それはさておき、僕は現役時代の無茶のせいで、あまり足の状態が良くない。奇跡的な回復がなければ、車いす生活でもおかしくなかったのだ。
だからこそ、医者は僕に走ることを禁じていたわけで……しかし、興奮のあまり理性を溶かした僕はその禁を破っていたわけで……つまるところ、この結果は必然だった。
ぴきりと足に電流が走る。攣った、と理解したところで成すすべは無かった。僕はそれまでの勢いのままターフの上で盛大に転倒した。
「ぐぇっ……!?!」
潰れたヒキガエルのような悲鳴が自分の口から零れた。
「……あの……大丈夫、ですか?」
困惑半分、心配半分といった感じで彼女が尋ねる。
ターフに突っ伏したまま、僕は片手をあげて、辛うじてそれに応えた。
「……大丈、分…………ッ、それよりもッ!!」
「えっ……?」
がばっと跳ね起きた僕に、彼女は少し肩をびくりとさせて距離をとる。完全にドン引きされていた。
「……な前を……君の名前を教えてくれないだろうか?」
真剣さが伝わったのか、彼女は困惑を未だ浮かべつつもゆっくりと口を開いた。
「えっと…………私は、マンハッタンカフェです」
「そうか……マンハッタンカフェか……良い名前だ」
僕はその名を噛みしめるように復唱する。不思議そうにこちらを見下ろす彼女の黄金色の瞳は、まるで夜空に浮かぶ満月のようだった。