初めてアニメ、あるいは原作に近い視点で書くかもしれません。
「二者面談ではありますが、まだ一年の一学期ですからね。気負わずに臨んでください」
「ああはい、そのつもりです」
吉川先輩の激昂が発端だったかは分からないけど、あの日鉢合わせてしまった諍いから、滝先生への不信感が拭われる事は無かったらしい。
膨れ上がる疑惑には無言を貫いたまま振るわれるタクトを熱心に追う部員は減っていき、『海兵隊』を機に団結していた頃の吹奏楽部の雰囲気は消え失せた……そんな話を井上さん達から聞いた。つまりは士気が逆戻り、下手をすれば赴任前より酷いかもしれないらしい。パート練習によって響くチューニングにすら熱が入っていない、とかなんとか。
釜屋さんどころか穏健そうな大野先輩も先生の指導方針には難色を示していて、パーカス部隊も壊滅気味という。
「どうですか?高校生活は」
「そうっすね……幸い委員長としても、クラスメイトとしても仲良くしてくれたりしてるんで。勉強もそれなりにやれてますし」
「矢田君の成績は……成る程、中々目を見張るものがありますね、担任としても鼻が高いですよ」
「はあ、どうも」
今は年間行事の一環として、その渦中の担任との一騎討ち。勝ち負けが存在しないとはいえ、謎の義務感が芽生えていた。井上さんも堺さんも矢継ぎ早に繰り出される質疑へ答えるのに精一杯だったのか、部内に蔓延ってしまった不信感への対処を訴えるまでは至れなかった。塚本は痛いところを指摘されてそれどころじゃなかったらしい、何やってんだ。
そこで五組の吹部連中から白羽の矢が立ったのが、二者面談大トリの俺。『委員長なら無言を貫く先生から強く出て引き出せるよね!』等と期待ばかりを背負わされてここにいる。意気込んで臨むのは構わねーけど、何を引き出せば良いんだか?
「将来の展望等はありますか?」
「特にはまだ……生活環境が生活環境なもんで、自立して楽をさせたいとしか。大学がそれに近付く手段ならその方が良いかな、って展望です」
「一年生のこの段階でそこまで考える生徒は少ないです、これは数年後が楽しみですね」
先生と数度のやり取りで思ったけど、口調から数割は優しさが減ってんなあ。
恐らく今の吹奏楽部では、高坂さんと幼少期からの知り合いなせいで贔屓されている。この一点がほぼ全ての部員の士気低下に作用してしまう悪循環が生まれているんだろう。だったらその循環を断ち切る材料、或いは起爆剤になれる何かをこの場で引き出してみたい。吹奏楽部のすの字も出してこない人から言質を取るにはどうしたら……。
「あのー滝先生──」
「矢田君」
「は、はい」
「貴方は、音楽についてどう思いながら鍵盤の前に座っていますか?」
「な、なんですいきなり?」
「……丁度いい機会でしたので、昼食も惜しんでピアノと向き合う。矢田君の音楽観について尋ねてみたくなったのですよ」
「いいんすか、仮にも二者面談なんすよね。学生生活に関わる質問をされると身構えてたんすけど」
「私は時間を使っても構いませんよ。なにせ矢田君が最後の生徒なので」
職権乱用もだけど驚いた。まさか生徒個人に無関心な人間から出てくる台詞とは思ってもみなかったからだ。下手をすれば、バイトでキーボードを買った事実まで聞き及んでるかもしれない。
でも丁度いい、時間ならこっちにもあるしお互いに探らせて貰おう。
「それなら単純っすよ、ただ弾きたいからに尽きます」
「本当にそれだけでしょうか?それにしては曲選のジャンルが多岐に渡っていますよね」
「言ったじゃないですか、弾きたいから弾くって。求められて知らない曲を弾く事もありますが、その曲ですら練習する内に弾きたい曲目に入るんすよ。最近だと……ジャズとかも」
「まさに人の為に奏でる音楽ですね」
実際、俺の原点を辿れば喜んでくれるからの一言で済む。これは孤児院で培われた俺独自の価値観だ。それは小学中学と同じ様に考えて生きてきた。
ここを語ったのなら滝先生の音楽観も知りたいけど、今は悪循環を断ち切る材料の方が必要だろうなあ。
「訊かれたからには俺も訊きたいんですけど、滝先生はどうして音楽を?いや、どうして北宇治へ?」
北宇治に赴任してきた理由を尋ねられた先生は、指で眼鏡を掛け直しながらこう呟いた。
「──四月頃、矢田君を勧誘した事は覚えていますね?」
「ええ、まだ仮入部期間の時でした」
「詳細は伏せますが、実績を買われて此方の吹奏楽部の立て直しを頼まれたのですよ。ですが、在籍している部員の実力は当時は把握出来ていなかった……そこで偶然耳にした矢田君の腕前なら、と思いましてね」
「……学校側から立て直しを依頼された理由は?」
「もう少し複雑な事情です。これより先はお話出来ません」
そう言い切って、ほんの少し静かになった教室。まあ大量退部事件だの、前顧問の作り上げてしまった堕落した体制だの、思い当たる節は幾つもある。ここだろうか、この前矢面に立たされた高坂さんが関係する部分は。高坂さんをソロパートに据えた理由は。
「その依頼に、高坂さんかその親族が関係していたり?」
「貴方もその切り口で尋ねて来るとは。風の噂に流されない剛胆な性格だと、そう思っていたのですよ」
あれが風の噂で片付くとは思わない、その風の発生源で巻き込まれたんだし。しかも暴風だったぞあれは。意を決して間に割って入ったんだからな。
「んな事に流されないっすよ。ただあんな巻き込まれ方をしたんで、真偽は確かめておきたいと直感で言ってるだけです」
「──質問には、ありますと答えておきましょう。北宇治高校吹奏楽部を立て直す、その一点において彼女が適任だと判断したまでです」
「それだと音楽室で仰っていた話と食い違う気が……」
「少し早とちりをしていますね。私は今回のオーディションを通じてこの人選なら立て直せる、そう熟慮しましてね」
「中世古先輩だってパートリーダーと聞きましたけど、それならソロを担う実力はあるんじゃないんすか」
「ええあります。本来はもっと長い時間を掛けて立て直すつもりだったのですが……」
紐で綴じられた黒表紙を机に置いて、窓際に近寄る滝先生。曇り空の合間から細く射し込む陽の光が、暗雲立ちこめる北宇治の校舎を照らしていた。
「中世古さんを始め、一年生にも実力者が揃っていたのは嬉しい誤算でした。これなら今年でも全国へと導ける、そう思いながらのオーディションはとても贅沢な悩みでしたね」
「……つまりは公平に全国を目指す為の審査を行った結果、より上手い方を選んだ。って事っすか」
「より自由曲のソロに相応しいのが高坂さんだと考えた。そう言い換えさせて貰いましょうか」
この面談を通して、俺の中ではオーディションに関する疑惑は晴れた。贔屓している訳でもなく、特別な計らいなんてのも先生の中にはない。ただこの事情を部員が汲み取るかと言われると、あの日の様子を鑑みる限りは難しいだろう。悪循環を断ち切るにも起爆剤にもなり得そうにない。なんなら逆の方向に爆発しそうだ。
「少し、口が滑らかになりすぎましたかね」
「本来俺への二者面談っすよーこれ」
「いやはや、教師としてはまだまだ青二才だと自覚させられてしまいますね。今の話ですが、審査基準にも関わるので内密に頼めますか?」
「言われなくとも」
こんな話、火に油を注ぎそうだから言いたくない。ソロパート問題が吹奏楽部再建計画の一部だなんて。井上さん辺りには固く口を閉ざされたとでも吹聴しておくとしよう。
それにしても単なる二者面談でこんな内部事情を聞かされ、巻き込まれ。先生が色々と俺に頼もうとしなければ知りもしなかったんだ、普段の鬱憤も込めてこちらからも頼み事の一つでもしてやるか。
「そろそろ部活動の指導があるので面談は終わりにしましょうか。高校生活も京都での生活も、是非楽しんでください」
「ありがとうございます。帰る前に一つだけいいっすか」
「ええ。構いませんよ」
「今の先生の話を聞いた手前で言い辛いんすけど、吹部全体が納得出来る……後悔しない選択を今一度、させてあげてはもらえないでしょうか」
「と、言いますと?」
「そのまんまの意味っす、吹部が全国を目指してるのは俺も知ってるんで。指揮台に立つ先生でしたら練習に身の入らない部員達の音、分かってる筈なんで。どんな形でもいいんで、どうか」
さっきまで顔を合わせて面談を受けていた自分を傍にやって、出来る限り頭を下げた。滝先生相手にここまで礼儀正しく接するのは、何気にこれが最初かもしれない。
「……矢田君の切願、耳に入れておきましょう。学級運営を散々任せていますからね」
「任されてなくても、お願いします」
その言葉を最後に、二者面談は終わりの運びとなった。先生自身も生徒との関係が悩みの種と認識しているのか、去り際に笑顔を絶やして俺から背を向けた。
これまでは滝先生に対して、人ならざる気配ばかりを覚えていた。普通の人生を送れていないと自負する俺ですら人ならざる印象に支配されてきた。でも今不意に見せた無機質に近い表情からは、これまで見掛けたどんな滝先生よりも人間らしい一面を垣間見た。
「…………あっちぃ」
期末テストも終わり殆どの学生が待ち望むモラトリアム、夏休みを待つだけの期間に入った。
梅雨の時期にはひしひしと思っていたものの、京都の夏は茹だる程に暑い。纏わりつく湿気が室内だろうと人間達を離してはくれない。山地から降りてくる生温い空気、盆地という地形、所謂フェーン現象だっけ?要するに地形が京都をこれでもかと暖めてくる。和歌山も暑いといえば暑かったけど、質の良い暑さに恵まれていた事を今になって思い知らされた。
「こんな暑さでも開いてる学校に感謝だな……」
その夏休みは、バイトか友達との約束でもなければ学校で宿題を片付ける事に決めた。今の父さんも母さんも優しい、優しいが故に極力迷惑を掛けたくない。だからこそ家の電気代の節約やら宿題の調べ物も兼ねて図書室の冷房に縋る決断に至った。学生としての特権なんだし、存分に活用させてもらうからな!
「っはぁ〜冷房もいいけど、吹き抜けの風も良いなあ」
図書室で夏休みの宿題に目処をつけて、中庭の観覧席に腰を下ろした。東西に吹き抜ける校舎の構造が、本来纏わりつく熱風を冷ましてくれている。人工的に整った空調も良いけど、自然と偶然が重なった扇風機で過ごすのも嫌いじゃない。そして、見渡す限り人の姿もない。
普段ならここでお弁当を広げたり、談笑する生徒達が少なからず見受けられる。吹部の誰かが個人練の場所として使う日もある。それが今は貸し切り状態、手足を伸ばして座席にだって寝転べる。
「あの後結局、どうなったんだろうな」
あの二者面談があった後も、吹部の続報は入ってこなかった。仕入れなかったという方が正しいかもしれない。
それとなく追及してくる井上さんの口撃をいなし、音楽室にも顔を出さず。八月に入ってすぐ府大会があるのは知っていたから、練習の邪魔になりそうな行為はなんとなく憚られた。先輩達は歓迎してくれているけど、気持ちの問題というやつだ。これでも尚、歓迎されるならとっておきの差し入れでも持って行きたい。
「……さっきから聴こえるこの音、気になるな」
中庭でゴロゴロし始めた頃から、微かにそれを耳が拾っていた。中庭じゃないどこかで誰かが楽器を吹いている。士気の下がっているらしい吹部の中でも折れていない、気高い誰かの音色。
四階の渡り廊下には誰もいない、それでもここから聴こえるとくれば……すぐそこから向かえるゴミ捨て場近くの校舎裏だろうか、なんにしても近場だ。高低こそ違えど、デジャヴを感じたこの脚で音のする場所へ近寄ってみた。
「マジかよ……」
ゴミ捨て場を通り、田中先輩がソロパートを披露していた角を過ぎ、見えてきたのは駐輪場。自転車通学の生徒達が必ず訪れるその場所には、布団用の洗濯ばさみで抑えられた譜面台と、眉根を寄せて笑った事なんか一度もないです。とでも言えそうな表情でトランペットを轟かせる中世古先輩の姿があった。もう夕暮れだからか、周囲に自転車は一台も見当たらない。
休符の合間に聴かせてしまった足音に気付かれたのか、構えを解いてこちらに顔を向けて手を振ってきた。そこには馴染みのある、吉川先輩に言わせればマジエンジェルな笑顔が。
「こんにちは矢田君。期末テストは終わったばかりだよ?」
「こんちわっす先輩!夏休みの宿題をどうするか、図書室で作戦を練ってまして。休憩がてらうろついてたんすよ」
「真面目なんだね、委員長さんだからかな」
「さっさと終わらせたくて。根っこはズボラなんすよ」
「それでも偉いよ?」
「先輩の方が偉いっすよ?パーリーとして集団を率い、一人でも練習に勤しむ。これが偉くないならなんですか!部活をやってない俺なんて大馬鹿になるっすよ!」
言い過ぎだよ、と先輩は謙遜するけど実際偉いと思う。最高学年としては進路選択を強いられつつも部活動にも毎日取り組む。終いには自分を巻き込んだオーディションでの一悶着、笑顔の裏にどれだけ心労が積もっているのか、知るのが怖くなる。
そんな先輩を前にしたからなのか、懺悔室に入った人間みたいな心情がふと芽生えてきた。
「ところで先輩、練習の邪魔したとこに申し訳ないんすけど……」
「どうしたの?」
「ひとつ謝りたい事があるのを思い出しまして……毛布を敷いてたあの日、関係ないのに割り入ってすいませんでした」
騒動から日は浅いけど、時間が経つに連れてやらかしたという気持ちが膨れ上がっていった。首を突っ込んだ事も勿論、吉川先輩を宥める道具として中世古先輩の存在を利用してしまった。ましてや涙を浮かべる悲痛な面持ちの先輩を、あの瞬間だけでも道具扱いした事に他ならないからだ。
「……謝らないで、矢田君。寧ろ私がお礼を言いたいな?あのままだと優子ちゃんも高坂さんも、どうなってたか分からなかったから」
「正直その、俺が行かなくてもあの場は収まってたとは思ったんで」
「そうかもしれないね。でも、お礼を言いたいのはそこじゃないの」
下ろしたトランペットを軽く指で撫でる先輩。その顔は楽器を何処までも労り、優しく慈愛に満ち溢れた表情だった。楽器そのものが好きじゃないと醸し出せないだろう。画家がこの風景を目撃したなら、背景に大輪の花を咲かせるに違いない。
「私の立場だと……ううん、私達の立場だと言えない言葉で収めてくれた。これまでもずっと苦労を重ねてきたけれど、私達だけでどうにかするしかなくって。それにあの日は、私の言葉じゃ届かなかっただろうから。設営のお手伝いもだけど、宥める言葉が何より頼もしかったんだよ」
「中世古先輩……」
今の『苦労』という単語が内包する意味を、心で理解した。去年の一年生と三年生の仲を取り持とうと奮闘し続け、練習どころじゃない環境でも、毅然として吹奏楽部員で在り続けた。後悔がない訳じゃない、進んできた道を受け止める強さを培ってきた。吉川先輩が心底慕う理由も今なら分かる気がする。
「それにあの日の後、高坂さんが謝りに来てくれたの」
「そうなんですか?」
「うん、生意気言ってすみませんでしたって。きっと矢田君の言葉が響いたんだよ」
「そう、なんですかねえ……?」
そこは結果論だと思う、高坂さんの人となりを全くといっていい程知らないし。通算二度、顔を合わせただけだ。なんなら私の人柄が一番の要因なんだよとでも言われた方が納得出来てしまう。
「だからありがとう、矢田君」
「は、はあ。どういたしまして」
思いもよらぬ方向に話が転がった。ちょっと立ち寄っただけでここまで深く感謝をされるなんて、写真を手渡した時のそれを上回ってるんじゃないか?……まあ、いいか。感謝されて悪い気はしないし。
「ついでのお願いになっちゃうんだけど……いいかな」
「お願い、ですか」
「高坂さんの演奏、矢田君は聴いた事ある?」
「まあはい、一度だけ」
「……私の演奏も聴いてほしいな?」
「なんの為に……?」
「──納得、したいから」
何がお願いなのか、何が納得なのか、高坂さんの演奏なんて一曲だけ聴いた経験しかないのに。先輩が俺に演奏を聴かせて得られる満足感なんて、たかが知れている。
「いいですよ。先輩の演奏なら是非聴いてみたいんで」
「──ありがとう」
田中先輩もだけど、この人も大概だ。俺なんかに向けて演奏したって何一つ得られないだろうに。もっと相応しい聴衆がいますよ?そんな言葉が喉まで出てきたものの……意気揚々とトランペットを構えて吹き始めた中世古先輩を前にしたら、引っ込めざるを得なかった。
「ははーん、黄前ちゃんよりも特等席に座れる鼻の効くのがいたんだあ。やるねえ矢田」
「……そーですか、すごいですね」
滝先生への不信感を募らせた部員達では合奏練習にはならず、パーリー会議でも方針が固まらない地盤の上でパート練習ばかりが続いていたある日。副部長なら周囲を持ち上げてくれる、その為の妙案を私になら話してくれるかも。そんな御輿に私は乗せられて諜報役を任された。
何処にあすか先輩は居るんだろう。そう思って散策していると、四階倉庫の窓から香織先輩が自由曲を吹いているのが見えた。欠点の思い当たらない綺麗な音色で、よりにもよってソロの所を吹いている。
そんな音色に聴き入ってしまい、逃げ場の無い場所に誘われた私を誂うようにあすか先輩に捕まった。探す手間は省けたけど、ビックリ系は勘弁してほしいと内心で愚痴をこぼした。
「パーカス部屋に入り浸ってるらしいし狙いは沙希だと思ってたんだけど……やっぱり本命は香織だったかー!矢田め、相手は吹部のマドンナなのを分かってるのかぁー!?」
「何の話をしてるんですか……」
結局周囲を鼓舞する妙案も聞き出せなくて、香織先輩か麗奈のどっちがソリストに相応しいのかも教えてくれなかった。ただ一言、どうでもいいと残してまで。
そんな本心を覆う分厚い仮面を剥がせないまま、あすか先輩が立ち去ろうとした時だった。香織先輩の傍に吹部で何かと話題の男子生徒──矢田明宏が現れたその瞬間、二人を視界に捉えようとあすか先輩の眼鏡が光り輝いたのだった。
次第に上がるテンションに振り落とされそうになったけど、これが先輩の通常運転だから気にしていない。矢田明宏が絡むと大抵こうなる、良い方にも悪い方にも荒れる。
「前から思ってたんですけどあすか先輩」
「なにー?今いいトコなんだけど!」
「あそこにいる……矢田君、が絡むと上機嫌になりますよね。どうしてなんですか」
「前にも言ったでしょー、私にとってのデスティニー的なアレだって!」
「そのアレっていうのが良く分かんないんです」
「んもぅ鈍いなー黄前ちゃんは!アレってのはデスティニーだぜ!」
「繰り返さないでくださいよ……」
真面目な質問が本心なのか計りかねたからなのか、これも本心かどうか分からない。そもそも何がデスティニーなのって話だし。
「ていうかさっきから黄前ちゃんばかり質問してきて面白くなーい、あたしからも質問していい?」
「あすか先輩の言葉が理解出来ればいーですよ」
「んじゃ聞くけどさ、黄前ちゃんは矢田の事なんにも知らないの?」
なんにも、そう言われると嘘になる。吹部なら一度は顔を合わせた事はあるし、顔と名前が一致していなかった頃に葉月ちゃんが直接会話をしていた記憶はある。でも、それだけだった。
「……顔とか名前、それからあすか先輩経由の情報しか知りませんよ」
「黄前ちゃん側も知らないのかー、なーんだ。面白くなりそうだったのに」
「部員でもない上にクラスも隔ててる男子を知ってる方が怖いです」
実際はあすか先輩だけじゃなくて、同じクラスな秀一経由でもその人物像を聞いている。自ら学級委員に立候補したんだとか。委員長に相応しく面倒見が良くて、担任の代わりにクラスをほぼ仕切ってるとも聞いた……ある意味、矢田明宏も滝先生の教え子もとい被害者で苦労人という印象だ。先輩からの口コミより如何にも人間らしさが垣間見えている。
「矢田からも似たような事言われたんだよねー、『黄前なんて知らないっす』って。まあ香織狙いの可能性大だし仕方ないかー!」
本当に香織先輩に好意があるのかはさておき、遠巻きに階下にいる本人にほんの少し同情した。私の知らない場所で遭遇しては振り回されてると想像出来るから。噂になってたけど、あがた祭の日もあすか先輩から巻き込まれたんだろうなー。
「でも、知っておいても損はしないよ。矢田の事」
「そこまで言いますか?」
「私のデスティニーでもあるけれど、吹部のちょっとしたデスティニーにもなり得る。最近そんな予感がするんだよね」
「買い被りすぎてませんか、それ?」
「それはね──女の勘ってやつだよ黄前ちゃん」
さっきの私は、目の前のあすか先輩が分厚い仮面を被っていて剥がせそうにないと非力さを嘆いた。でも矢田明宏の話になると饒舌になり、囲い込む作戦まで建てたりする。その瞬間だけは、とても仮面を身につけ取り繕い生きる先輩とは思えなかった。
「なんか喋りすぎたかな、それじゃあねー」
やはり、あすか先輩は掴みどころがない。物静かになり一人残された倉庫の窓から階下を見下ろすと、香織先輩の演奏を矢田明宏が静聴している。その光景とあすか先輩の直感を反芻しながら、香織先輩の独奏に耳を傾けた。
麗奈が謝るタイミングが少し早くなりました。