北宇治のまえせつさん   作:コーヒーまめ

17 / 27

少し検査入院してました、お恥ずかしい。


17 皆の居ぬ間に

 

 校舎に溜まった熱気の中を突っ切った。吹き荒んでこそいなかったものの、留まるそれを掻き分けて進んだ俺と、背負った見知らぬ先輩に容赦なく熱が襲いかかってきた。降りるか上がるか、右か左か、身体測定ぶりに訪ねる保健室の場所をしっかり把握しておくべきだったと今更悔やんだ。

 

 重いとかどうとかが禁句なのは分かっていても、年齢がひとつ上なだけの女子一人分は……やっぱり重い。孤児院の年少組がぬいぐるみと錯覚しそうになる位、背中にのしかかる重力は大きかった。こんなに大きいとクーラーボックスなんてお菓子に付いてくるおまけと変わらない。

 ただ、暑さも悪さばかりをする訳じゃないらしい。掴まる体力も無かった分支える為に込めた力も、吐き気で縮こまる先輩の汗も、今は余計な事だと猛暑が思考の外へと追い出してくれた。単純に保健室へと向かおうとする自分が先回りしてくれた黄前さんを見つけるまで、然程時間は掛からなかった。

 

「終わったよー矢田君」

「お疲れさん。先輩の容態は?」

「多分大丈夫だとは思うんだけど〜……吐き気は落ち着いてきたよ、今は……お昼寝中?」

「それなら良かった」

 

 保健室のベッドに運んだ後の全部を黄前さんに任せた。背負った先輩のブラウスからなんとなく伝わる湿気を鑑みて、男である俺が同じ空間にいちゃ不味いと思い付く限りの指示を出してから保健室の外で待っていた。クーラーボックスの氷も使うだろうと肩から降ろしてその場を後にした。

 

「黄前さんが来てくれて助かったわ、サンキューな」

「あ、ううん、こっちこそ。私が見つけてたらそのまま見送ってたと思うし、看病とか介抱なんてやった事ないけど、お陰で鎧塚先輩を安静に出来たというかなんというか〜……あ、クーラーボックス返さないと。はいこれ」

「うん、確かに」

 

 そのクーラーボックスも紐の長さを俺に合わせているせいで、肩から降ろす姿もどこか不釣り合いな黄前さん。それでも一仕事終えた実感があるのか、受け渡す動作に迷いはなかった。

 

「まさか保冷目的で詰め込んだ氷を介抱目的で使うとは」

「よく持ってきてたねーそれ。中身見ちゃったけど、何の為に持ってきたの?」

「部活を頑張ってる奴に差し入れしてやろうと思ってな。これが結構評判良くってさ、おかわりも要求されて完売御礼って訳よ!何かの縁だから黄前さんにも振る舞いたかったけど……悪いな」

「う、ううん平気だよー。自分の水筒なら教室にあると思うし」

 

 保健室への先回りと先輩の介抱を労うつもりで、軽く言葉を交わしてみた。思えば噂の『黄前ちゃん』とこうやって会話をするのは夏休みに入る前、昼休みに音楽室で突撃された日以来かもしれない。

 あの日は勝手に田中先輩被害者の会の一員として、黄前さんにシンパシーを感じていたのが記憶に新しい。そして下手をすればこの人は、田中先輩以外からも振り回されてる。事なかれ主義でいたいのに、友達や先輩に巻き込まれる体質の女子っぽい。音楽室で遭遇した時だって、一番後ろを歩いてた。

 

「それなら安心。関西大会に向けて滝先生も田中先輩も、より煩くなるだろうからな」

「その二人が同列なんだ」

「絶対値が同じってだけで方向性は違うけどな。まああれだ、委員長目線では似たような立ち位置なんだよ」

「なんか分かるかもそれー、どっちも面倒だけどその場の雰囲気が違うというか。あはは……」

 

 事なかれ主義とは評したけど、何割かは黄前さんが原因だったりしないかこれ?売り言葉に買い言葉でギクシャクしたりしてねーか?あの先輩なら絶対に失言を問い詰めるだろうしなあ……きっと地獄の果てまで。

 これ以上はまた失言が出てきそうだし話題を変えるか。具体的には、現在休養中の先輩について。

 

「……まあいいや。ところでさ、おぶってきた先輩の事なんだけど」

「鎧塚先輩がどうしたの?」

「その鎧塚先輩って、普段から体が弱かったりする?」

「弱くはないと思うよ。夏休みは毎朝一番に部室にやってきて練習してるし」

「練習?」

「うん、鎧塚先輩はオーボエを吹いてるから。ダブルリードでただ一人」

 

 身体が弱そうに見えたけど朝には強くてそうでもない、かと言って俺みたいに物好きで学校へ来ていない、その正体は今の北宇治で木管楽器のオーボエを唯一演奏出来る二年生。無理矢理こじつけると、橋本先生にファゴットを薦められた程度の関係でしかない。

 

「ダブルリードは人が少ないとは聞いてたけど、ただ一人とはなあ」

「あっでも、ファゴットは二人も居るんだよ!それでも1年生は一人もいないんだけどね……」

「救いにならない情報をどうも」

 

 薦められた時にダブルリードに加入した生徒はゼロと言われたけど、上級生にも人手が足りてないのか……。こうなると先生はフィーリングじゃなくて打算で声を掛けてきた説が浮上してきたぞ、まさか本気で勧誘を?

 

「オーボエなんて繊細な楽器を演奏出来る生徒が倒れたんなら、ちょっとした事件になりそうだけどな」

「どうだろ、今は個人練の時間だし。関西大会も再来週だからみんな余裕なんて無いと思う」

「余計な世話、焼いちゃったかねえ」

 

 開いていた窓のレールに両腕を置き、雲の漂う空を眺めた。時折聴こえる演奏の影響を受けず、陽射しも風も京都の空に流れている。空が微かにも伝わる音を気に留める事なんて、ある筈もない。

 

「そっ、そんな事も無いと思うよー?倒れたら練習どころじゃ無くなるし」

「体調を押し退けてまで練習したがる熱心な人なら、水を差したみたいになってそうでなあ」

「うーんそこまで練習に興味は無さそうだけど。鎧塚先輩って」

「はい?」

「あ、あーいやいや!なんか素っ気ないというかとっつきにくい先輩というか!大会が迫ってるとしても、なんで朝イチで来てるのか分からないだけで大した意味じゃないよホントに!」

「……保健室に聴こえてないといいな、今の台詞」

 

 話題を変えても、なんならパートの違う先輩に対しても軽い暴言が出てくる黄前さん。性別年齢楽器、色々と一致する黒江と比べるのが申し訳ない位に口が滑ってる。黒江が一を訊いて一を答えるとすれば、黄前さんは五や六は付け足してくれるし顔に出る。

 勝っている箇所を挙げるとすれば、気休め程度に黄前さんの方が背丈は高そうに思える。並ばないと一生分かりそうもないけど。

 

「なあ、普段の低音パートはどんな感じなんだ?」

「ふ、普段って?」

「純粋に心配になってな……田中先輩の事は良く知ってるけど、逆にそれ以外はさっぱりだし。同じ部活でもパーカスと低音じゃ練習も雰囲気も変わるだろ」

 

 単純に黄前さんがどんな被害を被ってるかも気になってはいた。学校だろうと外だろうと、傍若無人で気分屋な先輩の仕切るパートの実態は未知の世界だ。成り行きとはいえ、折角喋る機会がやって来たんだ、被害を共有出来るならしておきたい。

 何をどう答えるのか。少しだけもじもじと悩んだ黄前さんがさっきよりは重そうに口を開いた。

 

「大体あすか先輩が指示してるよ?良いとこも悪いとこも具体的に指摘してくるから、誰も反論出来ないんだ」

「理論的に詰めてきそうだよなあ」

「しかも時々機嫌が悪くなって。背筋が凍るっていうか、そうなるととにかく怯えて息が詰まるんだよね。これまでは二年の先輩達もなす術無し!って感じだったんだけど……ここ最近は休憩中もずっと上機嫌で。主に矢田君のお陰で」

「俺?」

「うん、誰かが矢田君の話題を出すととにかく食いついて。どうにかして入部させようと情報を集めてたり、ありそうな事でも無さそうな事でも盛り上がったり」

 

 ありそうな事も無さそうな事も、ろくでもない感が凄い。共有したい目的だとしても、そのでっち上げられた噂だけは知らない方が良いと危険信号が灯ってる。

 

「あがた祭りの後なんか『私と香織と晴香がデートしてあげたんだからこれを理由に入部を迫るよ!』って、写真を片手にパートのみんなを巻き込もうとしてて。梨子先輩って人が流石に駄目ですよ!って止めてたけど。もしかして、もう勧誘されてた?」

「いや、まあ、勧誘されたといえば何度もされてるけどよ……」

 

 流石にそれは初耳だ。単にボディーガードとして付き添っただけのあの日にそんな裏話があったとは。ある程度は中川先輩から聞かされた話と似ていただけに、低音のパーリーの発想が末恐ろしかった。写真を渡した時なんて少し仏頂面だったのに……下手な怪談より怖い。

 

「まあ、あれだ。俺の存在意義があるみたいで何よりだわ」

「あはは……私もちょっとだけ、聞いてもいい?」

「また噂か?答えられるなら構わねーけど」

「あすか先輩の事、苦手?」

 

 きっと、散々巻き込まれてるけどどう思う?そんな事でも聞きたいんだろう。それが部員としてなのか後輩としてなのか計りかねるけど、他人の噂じゃなくて俺の感じた印象を知りたがってる。それなら俺は、思うがままに言うだけだ。

 

「苦手というか、面倒ではあるな。ドラムメジャーを任そうとしたりボディーガードを頼んできたり、会う度に表情とか態度が変わってどれが本当の田中先輩か分かんねーっていつも思う」

「やっぱり、そうなるよね」

「でもさ、俺はあれで良いと思ってる。取り繕ってようがそれで田中先輩らしく居られるってんなら、ちょっと不本意だけど俺の話題で盛り上がっててもオッケーって感じ」

 

 俺はずっと、知り合ってきた人達の為に生きてきた。孤児院の子供を宥めるのも、合唱コンクールの伴奏も、学級委員の仕事も、今の高校生活も巡り巡って人の為にやっている事ばかりだ。今日の差し入れだってパーカスの皆の為に仕込んできた。

 物心がついた時から、選ぶ権利なんて無かった。施設で暮らさざるを得なかったし、周囲と比べると不自由な生活を送ってた。俺自身は楽しかったけど、普通は親がいて、家があって、我が儘を言う権利がある。それに気付いたのは小学校も後半だった様に思う。

 

 普通じゃない人生を送ってきたからこそ、他人にはそんな窮屈な想いをしてほしくない。その人らしい、自由な生き方が出来てほしい──それは田中先輩とて例外じゃない。これは、俺自身から出た我が儘だ。

 

「どんな仮面を被ろうが、それで田中先輩が楽しく暮らせるのなら喜んで噂になるぜ。色々面倒ではあるから、入部は出来れば勘弁してほしいけどな?」

「……同じクラスの男子なのに、秀一とは考え方が違う……」

「シューイチ?それって確か塚本の──」

「えっ?あああなんでもないなんでもない!そ、そろそろ個人練に戻るから!じゃあね!!」

「お、おう」

 

 そう言うと黄前さんは、病人の居る保健室の前から慌ただしく去っていった。この前よりも『黄前ちゃん』の人となりを知れたのは面白かったけど、苦労させられてる要素の幾分かが本人の口が滑る癖に依る物だとは、本人を前にして告げる気にはなれなかった。

 それはそれとして、黄前さんは塚本の事を多分知ってる。呼び捨てだったし割と深い関係だ。もし、あがた祭の前日に塚本が誘いたがっていた女子が黄前さんだとしたら。同じマンションに住んでいる女子が、黄前さんだとしたら。

 

「一先ず、寝てる先輩宛にメモでも残しとくか……氷はそのまま置いといて下さいーっと」

 

 大会が終わってから、ゆっくり問い質すとしよう。幼馴染同士のただならぬ関係を調べるのは、落ち着いてからでも遅くはないだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お盆休み明けの翌日。蝉の大合唱に案内されつつ双六みたいに一歩一歩学校まで歩を進めていた。

 元々バイト先は休業中でシフトは入ってなかったし、遊ぶ約束も交わしてなかった分図書室に入り浸る予定ではあった。あったけど学校側の取り決めなのか、十五と十六は校舎を閉め切るからね?と守衛さんに告げられて残していた宿題を居間で片付けた。父さんも母さんも優しすぎて、一時間おきにお菓子やおにぎりで糖分補給を促してくれていた。これが普通の家庭なのか?

 図書室に通う理由は宿題を片付けたり、家の電気代の節約が主な目的だった。その片方が達成された以上、図書室にはあまり用事が無い。それでも北宇治にやってきた理由……それは。

 

「吹奏楽部のスケジュールの穴を突いてピアノを独占するという発想、我ながらナイス!」

 

 事前に見せてもらった吹部の予定表を思い返し、十七から十九日に合宿で出払った音楽室を独占するという贅沢な三日間を企てた。その至福の時に思いを馳せる度、ピアノ欲は溢れ出して止まらなかった。本の虫になるのも吝かじゃなかったけど、思いついた以上は仕方ない。

 井上さん曰く、合宿は宇治市の山奥で開かれるらしい。朝には合宿所を背景にパーカス部隊の写真が送られてきた。そういう行事は県外に出るとばかり思ってただけに、改めて宇治市の広さを思い知らされた。

 

「こうやって一人で音楽室のピアノを独占するなんて、入学式以来じゃねーか?……おひさ〜ピアノ!」

 

 職員室で音楽室の鍵を借りて、目的地の扉を開錠。吹部が練習に使っていた形跡が椅子の配置だけで確認出来る。ここ数ヶ月はパーカスの練習場所という印象が強かっただけに、ほんの少し寂しさを覚えた。グランドピアノを前にしたら憂いは直ぐに吹き飛ばされたけど。

 夏休みに入ってから初めて鍵盤蓋を持ち上げた。演奏するとあればキーボードに電源を入れるのが習慣になっていたのもあって、持ち上げるだけで遠い昔に戻れた気分だった。どちらも演奏前の儀式みたいで心が踊る。

 

 これまでみたいにピアノの前に陣取った所で何を弾くか、それは既に決めている。暇を見つけては独学で学んでいた、散々塚本に勧められていたジャズだ。ジャズで有名な曲を聴く度、独特な雰囲気のスケールやアレンジをなぞる度、俺自身もジャズの世界に踏み込みたくなっていった。

 

「ブルーノートもホールトーンも、キーボードとピアノじゃ響きが全然違う……どっちもいいな」

 

 曲の構成が、なんというか自由だった。イントロがあって、曲の主題になるテーマがあり、多分ジャズの要であろうインプロビゼーション……つまりはアドリブ。そこからまたテーマに入りアウトロが来る。楽譜があるのに楽譜通りに弾かない、無秩序かと思いきやリズムの取り方や和音の弾き方に至るまで、それなりにルールがある。まるで俺はこうやって生きてきたんだと伝える言葉みたいな、そういうジャンルだからこそハマる人はとことんハマるのかもしれない。かくいう俺もその一人だ。

 

「あー今の録音しとけば良かった、未来の俺が参考にしたいのに」

 

 同じ曲の同じ楽譜を渡されても、アドリブの性質上同じ演奏は二度と生まれない。軽快な演奏、とにかく複雑な演奏、重く悲しい演奏、その気になれば自分のテンションや感情をぶつけられる自由があった。

 

「スケールで準備運動は済ませたしそろそろ弾いてみるか。観客は居ないけど、どう響くかねえ」

 

 折角独占している音楽室で何を弾くか、通学鞄に詰めてきた楽譜を漁って笑みを溢しながら悩みだした。登校して確かめた様子だと、吹部以外の部活が活動している気配もない。運動場に辛うじて数人見掛けたものの校舎はもぬけの殻、矢田明宏の人生史上一番贅沢な会場での演奏だ。鞄を漁る手は止まらない。

 

「Moanin'だろ、So whatも持ってきた、それから──ん?」

 

 即興のセットリストを考案していた最中に、それは起きた。紙の束を漁っているだけじゃ鳴る筈のない、無機質ながらも徐々に大きくなる小気味の良い音が音楽室で聴こえ始めた。

 

「足音だな、これ」

 

 カツカツカツ、とがらんとしている校舎に響く皮靴の音が近付いてくる。誰も居ないと高を括って開けっ放しにしていたから、些細な変化も耳で拾えてしまった。ご機嫌な鹿みたいに軽い足取りで音楽室の方へとやって来ている。

 

「おっじゃましまーす!おっ、やっぱり誰かが弾いてた!」

 

 音楽室の入り口から身を乗り出してその靴音の正体が現れた。挨拶と一緒にかざしてきた左手には紅いベルトで結ばれた時計、髪型は中川先輩みたいなポニテで黒髪の2年生。初手だけで分かる、この人はクラスのリーダー的な立ち位置を経ているタイプだ。迷いなく音楽室に訪れる時点で行動力もある。

 

「ねぇ君!外から聴こえてたんだけどさ、さっきまで色んなスケールを弾いてたよね?」

「えっと……はい、人違いじゃなければ」

「やっぱりそうだよね!ガラガラって感じの校舎だったのに、急にピアノの音が鳴り出して驚いたよ〜!」

 

 手で軽くジェスチャーを交えながら驚いた事を伝えてくる。その先輩の右手には、取っ手付きのハードケースが。何のケースか分からないけど、女子でも軽々と持ち運べるサイズの物。

 

「あ、もしかして学校で噂になってたピアニストって君の事!?」

「……学校で?」

「そう!木曜のお昼休みに決まってピアノの演奏が聴こえるんだけど誰だろうね?一年の男子らしいよ?って、友達と盛り上がってたな〜!」

 

 ──あまりにも俺関連の噂を聞き過ぎて、学校の七不思議の内四つは俺でも不思議じゃない気がしてきた。多分。

 吹部で、じゃなくて学校で、とその先輩は尋ねてきた。どちらかと言えば吹部内の噂で収まっていただけに、少し動揺した。それでも顔に出さずに居られるのは、単純な話で耐性が出来たからだと思う。田中先輩の入学式ドッキリを始めとして、多種多様なサプライズを受けてきたし。

 

「自惚れじゃなければ、多分俺です……木曜なのも合ってます」

 

 耐性があっても恥ずかしい物は恥ずかしい。誰が囃し立てたかも知らない噂に名乗り出るってのは、違ってたらと思うと本当に恥ずかしい。

 

「あっはは、恥ずかしがらなくていいのに!生演奏をBGMにお弁当を食べられるなんて幸せなんだよ?しかも上手だし!」

「は、はあ……」

 

 学校の設備である以上、誰かの所有物にはならない。音楽室が活動拠点の吹部に使う権利がある上に、全国に向けた本格的な練習が行われてるのも良く知っている。その吹部が合宿で出払っているこの時間で好きなようにピアノに触れられる……そう思っていただけに、少し出鼻を挫かれた気分だった。

 

「もしかして今から一曲弾くつもりだった?」

「まあ、そのつもりでした」

「じゃあさ、私と合奏してみようよ!」

 

 突拍子もない提案に面食らったものの、直ぐに自分のリズムを取り戻した。

 ざっくり言うと、楽器を演奏出来る人が集まって同じ曲を奏でる事だ。ただ、過去を振り返っても黒江以外と合奏した覚えがない。誰かに頼まれて披露したり、授業や合唱コンクールの伴奏を頼まれるだけ。この前川島さんが混ざってくれたけど、合奏とは違う。北宇治でもそれは変わらないだろうと思ってたけど……見ず知らずの先輩からこんな風に声を掛けられるなんて、想像すらしてなかった。吹部にも軽音部にも属さないせいで縁のない行為だとばかり。

 

「それは良いんすけど先輩?楽器は今、置いてないと思いますよ」

「あー平気平気、これでもマイ楽器を持ってるんだよね〜……ほら!」

 

 そう告げながら、提げていた荷物を椅子に置きながら、ケースの側面を抑えつつ慣れた手付きで開けていく。やがて施錠が外れて蓋が持ち上がると、その中身が露わになった。

 

「私、市民楽団でフルートをやってるんだ!」

 

 ハードケースに守られていたのは、組み立てられる前のフルート。開けていた窓から差し込む薄い光が、その銀メッキの表面を眩しく反射した。丁寧に扱われているのがその証拠、クロスやクリーナーで磨かれている類いの光沢だ。

 

「今日はなんとなく学校で吹きたくなっちゃって。君が良ければ一緒に吹いてみたいんだけど……どう?」

 

 合奏の醍醐味は、同じ空間でメロディーを共有出来る点に尽きる。それ故に互いに既知のレパートリーがあるかって問題にも直面する。敢えて市民楽団に入団する物好きな人なら、色々と知ってそうではあるけど。

 

「わかりました、一応今日弾く予定だった楽曲の候補がここにあるんすけど……どれならいけそうです?」

「うわー沢山あるね!どれどれ…………あっ、これなら知ってるよ!『Someday my prince will come』、ソルフェージュでも出来るしこれ合わせようよ!」

「じゃあそれで。前奏から入るんで、いけると思ったら入って下さい」

「オッケー!」

 

 鍵盤に指を添えて、組み立てられたフルートの音を確かめつつ構える。その場で提案された即興バンドがどんな音を醸し出すのか、セッションの素人ながらワクワクが止まらなかった。

 

「そうだ、なあなあで話が進んでたけど忘れてた!」

「……まだ何か?」

「自己紹介!──私、二年の傘木希美。よろしく!」

「一年、矢田明宏っす。それじゃあ行きますよ、ワン・ツー・スリー・フォー」

 

 この時の俺は、知る由もなかった。この先輩が、明朗快活を体現する傘木先輩が、北宇治の歴史に深く影を落とせる爆弾だという事に。そんな疑念とは裏腹に、楽しげな合奏は続いていく。今はただ、セッションの生み出す引力に引き込まれていた。




合宿回の裏側、という感じです。希美をここで出せるのは矢田君が部員ではないからですね。

休んでいた合間にプロットからざっくりと流れを下書きしてみた所、1年生編は長くて30話弱になる試算でした。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。