長編に練り直した時点で書こうと思っていた話です。
ホールを突き抜けるトランペットから始まって、トロンボーンやフルートにクラリネット。壇上で連なり、木霊して、曲になっていく音の行列の橋渡しをバスドラムで果たしてきた。地中海を吹き抜ける風も宇宙で舞う月も、何一つ噛み合わなかった海兵隊だった私達が積み重ねてきた魂も乗せて。
舞台袖の垂れ幕をくぐった後の十二分。シンバルの完璧な入りと、拍子が変わる度に導き続けるスネアやグロッケン、身体の芯まで伝わるティンパニで最後の一音まで支えたリズム。指揮棒が止まりその先がゆっくりと指揮台を差す、数拍後の拍手。豪風や三日月が称賛のゴールドか激励の銅か、これから分かる。
「プログラム十五番、大阪府代表明静工科高等学校──ゴールド金賞」
拍手に落胆、湧き上がる歓声。淡々と、かつ粛々と読み上げられて贈られる他校のコンクールの結果を、気に掛ける余裕なんて私達には無かった。午後の部が何番から始まったのかだって今は答えられる気がしない。
「順菜……」
「……次だよね、わかってる」
私達北宇治高校は十六番、進行の司会者の言葉次第では全国につま先を触れる事すら叶わず終わる。祈るつもりで組んだ両手が赤ばんで痛みを訴えてくる。せめて金賞、いや全国へ。本番前の副部長のスピーチが私達の期待をこれでもかと煽ったせいかもしれない。
「プログラム十六番、京都府代表北宇治高等学校──ゴールド、金賞」
府大会の発表でさえ狂喜乱舞といった様相だったのに、関西大会でゴールド金賞という結果を示されたメンバー達は全員座席を立ち上がり抱き合って、諸手を上げる仲間も居れば顔を覆い涙を零す先輩も。
それでもこれは通過点。全国に轟かせたいという部長達の想いも、私達の慟哭よりも大切なのはこの先の発表。ここからもまた、全国行きかダメ金かを篩にかけられる。
「続きまして、全国大会に進む関西代表三校を発表します。プログラム三番──大阪府代表、大阪東照高等学校」
階下からは北宇治よりも控えめではあったけど、隠しきれない喜怒哀楽の喜が静まったホールを浸している。堂々と構えていられるのは、実績のある関西屈指の強豪校の特権だと思う。
これでもう二枠。焦燥が豪風と三日月に込めた魂を焼きそうで、瞑る目や全身に力が入ってしまう。
「プログラム十五番──大阪府代表、明静工科高等学校」
またしても強豪校。その発表に泣き叫ぶ生徒達。既に枠は一つしか残っていない。飛ばされた番号の高校なのか、啜り泣く子の声も微かに聴こえている。
「順菜……!」
「お願いっ……!」
北宇治を飛ばさないで、十六番を呼んで、組んだ手の痛覚を歓喜の鍵で解放して。
「最後に。プログラ厶──十六番、京都府代表北宇治高等学校」
北宇治高校吹奏楽部の誰もが、お祭り騒ぎみたいな喜びを全身で表現した。ひっくり返りそうな程胸を張ったり、沙希先輩は埃が舞いそうな位に飛び跳ねては美代子先輩に抱きついたり、ナックル先輩は男子らしくガッツポーズで静かだけどその喜びを溢れさせたり。
パーカッションだけじゃない、各々のパートから叫ばれる歓声や拍手はうねりになってホール全体に渦を巻き私達を祝福した。今は会場の外に居るけど、チームもなかのつばめにだってきっとその祝福は届いてる。
「万紗子やったよ!!私達、全国!!北宇治のみんなで全国に行けるんだよ!!」
「うんっ……うんっ……!」
幸福と緊張で膨れ上がりそうな、バスドラムの重低音にも似た心臓の鼓動を聞きながら、順菜と二人で正面から抱き合った。時に繊細に擦り合わせたり、かつ大胆に叩き合わせたシンバルの細動が残っていそうなこの残響が、全国出場が正夢という証明をしてくれている。
「どうしよう私、全国なんて初めてだからっ、行けるって信じてたけど本当に叶うなんて思ってなかったからっ……!」
「万紗子がそうなら私だって!みんなで全国大会に行ける事がどんなに嬉しいか……みんなで……」
抱き合いながら同調し合い、歓喜の渦の中で感動を分かち合っていた最中だった。息が止まりそうになる程抱きついてきた順菜の腕の力が緩む。涙で言葉を詰まらせた様には感じない、それでも疑問符は浮かんではいない風に喋る声が小さくなっていく。北宇治の歓声で掻き消えそうだったから、慌てて耳を傾けた。
「順菜?どうしたの?」
「ねえ、万紗子。みんなで全国出場するんだよね」
「うん、全国だよ。みんなで」
「委員長もさ、本当の部員だったら良かったのに……そうしたらここで一緒に、喜んでたのかな」
「……そうだね、ナックル先輩辺りと喜んでたかも」
私達五組の学級委員長こと矢田君は、家庭の事情を理由にして吹奏楽部へ入らなかった。家計の足しにしたいからとキーボードを買った後もアルバイトを続け、今日も『花の世話でもしながら応援してる』と遠回しにシフトがあると言い会場へは来ていない。
それでも、矢田委員長が部外者だなんて私は思わない。パー練前の音楽室に顔を出し続け、ピアノで雰囲気を作り上げたり、練習の手伝いも買って出てくれた日もあった。時折持ってきてくれた差し入れも先輩達の好みに合わせていたし、音楽室に漂う険悪なムードもその身を以て晴らしたりしてくれた。直接関わってはいない先輩達だけど、仲直りに尽力していたとも聞いている。
そんな委員長を、蚊帳の外にはしたくない。
「いい事思いついた!万紗子、パーカスの皆で全国出場祝いのパーティーを開こうよ!主賓は委員長!」
「ふふ、名案かも。それじゃあ早く全国行きが決まった事、矢田委員長に伝えなきゃね?」
「集まって写真は撮りたいよね!パーカス全員で、それからトロフィーも持って──」
吉報が届いた瞬間、矢田委員長はどんな顔をするだろうか。彼の性格だから、自分の事みたいに喜んでくれるのは間違いない。ほんの少し、同じ喜びをこの場で共有出来ない寂しさを募らせつつも鳴り止まない歓喜の余韻に浸り続けた。
「……えーっと、生物部の展示は異常無し。二年四組の演劇『オンディーヌ』も今日二度目の幕開け、迷子の報せも今の所は大丈夫、飲食系の出店も現状問題は無さそうだし、後は道すがら気を配りつつ体育館のステージだな」
夏休みは既に一番遠い休暇になり、暦の上では秋分の手前。そして高校生活の中でも、どの高校生にとっても大きな年間行事の一つでもある……文化祭の日がやってきた。通称北高祭。
生徒や部活次第では夏休みの終盤から既に準備に着手していた光景を目撃している。教室に飾り付けるであろう小道具の製作現場や、校舎やガラス窓に貼り付けるポスターの撮影、クラスの趣向を凝らした看板、玄関口でお客さんを迎えるアーチまで。非日常が演出されて日に日に様変わりして行く北宇治に通う度、浴衣姿で訪れる祭とはまた違う熱に授業中だろうと当てられ続けていた。早い話、俺も文化祭マジックで浮かれてる。
ただし俺の場合、浮かれてばかりも居られない事情があった。
「そこの二人ー、しおりも良いけど前見て下さいねー」
文化祭の実行委員会から、推薦という形で仕事を託されたから。日程管理、資金繰り、物品の仕入れ、受付や周辺地域への協力願いとか様々な役割が存在する中……主に会場の警備を任される運びとなった。
実行委員会自体は夏休みよりも前から発足されていたけど、当日の見回りの目を増やす方向で話が進み、クラスメイトからの推薦を引き受ける形で今日は腕章を着けている。校舎の巡回の他にも、文化祭が円滑に進んでいるかも確認しないといけない大事な役目だ。
「うわっすいません!って矢田かよ」
「おーっす矢田、昨日ぶり!」
「よっ、吹部の一年男子達。楽しんでるじゃん」
「学年は一緒だろお前も……」
廊下では他校の生徒や親御さんの方が多く視界に入る中、見知った顔がしおりを読みつつ唸っていたので思わず声を掛けた。そいつらは同じクラスの塚本と、塚本が属する吹部のよしみで時折一緒に帰ったりしていた瀧川ちかお。北宇治高校吹奏楽部の一年男子は、この二人のみ。
瀧川は塚本と同じクラスってだけで向こうから仲良くしてくれて、俺が居残る日さえあればパン屋の買い食いに同行する仲になった。制服を着崩す緩さが性格にも繋がってる明るい奴だ。
「なぁ矢田、実行委員ってモテてるのか?なんか声掛けられたりしたか!?制服で分かったけどさ、多分立華とか聖女からも来てたよな!?」
「……塚本よお、俺、瀧川をしょっ引くなんてごめんだからな」
「……悪い、そこは俺が面倒見るから」
ただひとつ欠点を挙げるとすれば──単なるアホ。こっちの突っ込む気力が失せるタイプのアホ。深く考えなくて済むと言われればそうなんだけど、何故かこっちの思考力を奪ってくる。主導権を奪われたその日が最後だ。
「本当にモテるなら今頃実行委員で溢れてるぞー。ところで二人共、今度はどこ見て周るんだ?」
「まだ決めてないんだよなー、実行委員的におすすめとかあるか?俺は出逢いのありそうな所がいい!」
「おすすめねえ……一年七組でも行ってみ、割と流行ってるぞ」
「分かった!行こうぜ塚本!」
「お、おう……じゃあな矢田」
「──瀧川の面倒は任せたからな」
出逢いを求めてるらしい瀧川を、子守り役も纏めてお化け屋敷送りにしてやった。お化けに扮装する進学クラスの連中も多分、驚かせたがってるに違いないし。思い詰めた顔で何かの覚悟を決めた相方はさておき、ビビらせ甲斐のある瀧川がいけば喜ぶだろう……多分。何かあれば頼んだぞ、塚本。
突き当たりまで歩いた二人を見送ってから、再び見回りを再開した。とは言っても後は体育館の演目を遠目に確かめるだけ。一通り済んだら引き継いでクラスに戻る算段だ。ステージのプログラムが円滑に進んでるとか、道中で迷ってる来賓を案内する位の仕事はやる。任された以上、実行委員の一人として責任は全うしたい。
北宇治高校の校舎の仕組み上、体育館へは一階にある下駄箱側の昇降口を通るしかない。構造を知らない来客にとっては迷うきっかけにもなりかねないが、今いる二階からは幸い遠くもない。すぐ横にあった階段を降り、南棟から下駄箱に通じる廊下を渡ろうとして背後から聞き覚えのある声に呼び止められた。
「委員ちょ……そこの実行委員さーん!」
夏休み以外ではほぼ毎日という程聞いたことのある女子の声。口を滑らせかけた五組での肩書き。誰かだなんて、俺には悩むまでもない。
「よう井上さん。堺さんに釜屋さんまで」
丁度北棟へと渡り廊下と下駄箱への廊下が直線上になっているその場所は、東西南北どの方角にも見通しが一番良い。北棟側から呼び止めてきた三人のその手には、料理部特製のそれぞれの好みが反映されたクレープが握られている。
「楽しんでるみたいだなみんな、実行委員としては嬉しい限りだわ」
「そういう委員長はどう、楽しめてる?」
「話が持ち上がってから一週間も無かったよね?嫌じゃなかったの?」
「これはこれで楽しいぞ、こいつのお陰で趣味も兼ねてるし」
軽々と答えながら、首から提げた私物のカメラをパーカス女子に示してみせた。ここ暫く出番の無かったこれを、今日は行く先々でシャッターを切りつつ巡回している。
「矢田委員長、それ私物だよね。平気なの?公私混同になりそうじゃない?」
「平気平気。卒アルとか学校のパンフに使えるとかどうとか説得したら、フィルム代を捻出してくれてな。使い切るのが条件なんだけど、多少はプライベートに回しても構わないっていう偉いさんのお墨付きだぜ」
「……すっかり抜け目なくなったね、矢田君」
「細かい話はいいんだよ!ほら、三人とも並んで並んで!顔寄せてクレープ食べつつ……はいチーズ」
勢いよく食べる井上さんに、微笑む口でクレープを食べる堺さん、戸惑いながら遠慮がちに口をつける釜屋さん。三者三様の性格の表れた良い一枚になりそうで現像が楽しみだ。
「っしオッケー、今度現像したらみんなにやるよ」
「……いいの?確か現像するとお金が必要なんだよね」
「んー?ああそっちも後で実行委員会に請求するつもり。今のはほら、俺からの全国出場のお祝いのつもりでとっといてくれよ」
そう、これはどれだけ贈ってもいいと思っている吹奏楽部への細やかなお祝い──夏休み明けから既に垂れ幕が切り替えられていたレベルの快挙、北宇治高校吹奏楽部、全国大会出場決定という吉報も吉報の話。曰く、十年ぶりの快挙らしい。
元々、報せ自体は関西大会直後に届いていた。田邊先輩の掲げたトロフィーを囲む構図で、同じガッツポーズを決めるパーカス部隊の写真とメッセージを、バイトの帰りに開いて俺まで喜んだのを覚えている。その二日後には何故か、俺を音楽室に招いてのお菓子パーティーが開かれた。参加していいか戸惑ったけど、満場一致でオッケーらしかった。そこまで歓迎される事をしてきたかねえ……?
「でも十分祝ってくれたでしょ、お菓子だって殆ど委員長持ちだったし」
「それでも尚足りねえと個人的には思うぜ?部外者なりのファンサービスってやつ!」
「それ、使い方逆だよ」
釜屋さんからの何気ないツッコミが刺さる。遠慮がちな初対面のあの日を振り返ると、非常に心を開いてくれた気がしてる。
「まあ委員長がそれで良いなら受け入れるけど。そういえばこれから何しに行くの?まだ警備の仕事が残ってるとか?」
「体育館でステージの演目を観覧してから、これまでの報告を引き継いで終わり。後はクラスに戻って店番でも代わるかな」
「えっ、それって今日の休み無いじゃん!」
「そうだなあ……明日は天気予報だとデケー台風っぽいし、雨天中止で実質休みって思えばさ」
別に、今日くらい休みが無くても構わない。井上さん達吹奏楽部のこれまでの努力に比べたら、この程度は何でもない。推薦を引き受けたのだって、俺もみんなみたいに頑張りたいという意志の表れだ。
「切り替え方が雨なのにドライだね」
「だったら委員長の仕事に同行してあげるよ!こっちも半分は出し物も見終わったし!」
「私も!クラスの事も任せっきりだから!」
「……いいよ、私も行く」
「そりゃ嬉しいな。んじゃ、駄弁っちゃったしとっとと行きますか」
軽く入った出し物の感想を共有しながら、廊下を渡り、体育館への階段が見えた。その一段目にもしっかりと飾り付けがポップ調で施されていて、既に明るい雰囲気を漂わせている。
体育館では、吹部全員での北高祭オープニングセレモニーから始まって、様々な演目が上演される。文化祭の出し物として劇を演じるクラスのみならず、生徒個人や軽音部で組まれたバンド、教職員一同による合唱なんかもステージのプログラムに組まれていて前評判は中々高い。
「えーっと、この時間の出し物は何だったかな」
「軽音部のバンド『レチクル』だって、インストバンドみたい」
「つまりはボーカル無しか、相当攻めてるよな」
「私、ドラムには結構うるさいよ!お手並み拝見!」
「一応物見遊山じゃねえんだからな?……にしても、変だな」
「矢田委員長、オフボーカルの音楽って珍しい訳でもないよ?」
「そこじゃなくてさ。上演中って割にはこう、降りてくるお客さんが多いっていうか……すれ違うっていうか……」
段差の途中で数人、途中の踊り場でも数人。時計を見ても既に上演中といった時間なのに、二階から降りてくる人達とすれ違っている。その顔には、お目当ての出演者の出番が終わって満足した風には思えない表情で去っていく。なんとなく不吉な予感が、背筋を伝って流れては止まらない。
「時間が押しててプログラムがズレてるとか?それとも巻いてたり?」
「だと良いんだけど……いやそれはそれで大変──」
「──ねえ君!実行委員だよね!?ちょっと来て!」
階段を上りきり体育館まで連なるフロアに足を踏み入れた所で、後ろの壁に突き刺さりそうな鋭い声で呼びかけられた。嫌な汗をかいてそうな焦り様に、ざわざわと全身の毛が逆撫でされる。
「……何かあったんすか?」
「ギターの音が、アンプが鳴らなくなって……!」
弾かれたように、その場から走った。開き放たれた体育館の重い扉の先にある筈の熱狂が、そこにない。会場を支配していたのは嫌な静寂に混ざる心配や不安に諦観、これが、ライブ会場を覆っていい空気だなんて考えたくもなかった。
「主電源は落ちてないって!」
「ステージの照明は点いてるし、非常電源に切り替わってもない……もう手当たり次第に原因を探るしか……警備担当の君も手伝って!とにかく人手が足りてないから!」
「わかりました、手伝います!」
急いで入った舞台裏は既に慌ただしくなっていて、ステージの裏方担当の人が小休憩で使うパイプ椅子を温める暇もなかった。お祭り騒ぎなんて物じゃない、次の出演者まで巻き込んで軽いパニック状態だった。客席から見えない所なのがせめてもの救いだろうか。
薄暗い舞台裏には既に持ち場の人達が向かっている、ならば俺はアンプの実物を確かめに。そう思い立ち主な原因を探るべく舞台袖から飛び出した。
「どうしよう……このままじゃ大事な舞台が……」
「実行委員っす!音の出ないアンプってのは?」
「っ……こっち!」
既になす術無しといった様子の『レチクル』のメンバー達。ライトを浴びる度胸で裏側よりは落ち着いていたものの、ステージ上で右往左往している奏者もいて少し危険な状況だった。尻すぼみになりながらも、観客をどうにか呼び止めようとしているものの、徐々に効果は薄れている。
「本番用のアンプを持ってきたんだけど、途中で急に出なくなって……」
「こいつで試奏とかはやったんすか?」
「昨日のリハではちゃんと鳴ってたの!それなのに本番中にプツプツと切れだして、シールドの抜き差しも駄目で、つまみを回しても駄目、スイッチだけが点かなくて……」
「だから電源の話が……少し調べます!」
配線だらけのアンプの裏側を覗いてみた。一見、正しく繋がれている様に見える。そうとしか言えない。音楽ではピアノを、電子機器で言うならキーボードに触れているだけでギターもアンプも明るくない。スピーカーを増設したり出来るとは聞き覚えはあるけど、使い方だけなら軽音部の方が断然詳しい。
せめて電源を何処から拾っているか、それらしきコードからアダプターまで辿って不具合の大元を突き止めようと意気込んだ。
「ごめん、みんな……ウチがトランペットじゃなくてエレキでやりたいって言ったからっ……」
「そんな事言わないで。それを言うなら私だって、ギターの音も良いって喜んでたんだよ」
「そうそう、機械って何時壊れるか誰にも分からないんだししょうがないって!」
「でもっ……お客さんが段々……!」
「……とにかく、係の人達も動いてくれてる。私達に出来るのは復旧したら最高の演奏を披露する事だから、ね?」
「うんっ……」
バンドメンバー同士で慰め、励まし合っている。ギターをストラップで提げた人から涙が出そうになっていて、その言葉も何時まで保つかは分からない。これじゃあ本当に復旧してからのパフォーマンスに支障が出たっておかしくない。
見た感じ、配線は舞台の後ろを通る形で裏へと続いている。それを辿ればアダプター周りも確かめられると思い、引割幕を無理矢理通ろうとした……そんな時だった。
「希美は吹部に戻って来年頑張ろうとしてるのに、私達がこんな調子じゃ……戻らなかった私達、笑い者だよね」
レチクルの誰かが、希美という名前を零した。その後に続いた吹部に戻ってという台詞から、話題にされているのはきっとフルートの傘木先輩で間違いない。戻らなかった私達、とも口にしていた。
「……何言ってるの、中学で部長やってたんだから戻って当然でしょ。それに、希美なら絶対に笑わないよ。優子達だって応援してくれてる。私達は私達なりに、『レチクル』って居場所で頑張るんだって、今日ここで、証明しに来たんでしょ」
想像が正しければきっと、そういう事だ。傘木先輩と一緒に、北宇治の吹奏楽部に愛想を尽かして去った人達だ。全員かまでは分からない……でも、確実にその輪の中にいた。
そんな南中出身の人達は今、新天地を見つけて輝きたがっている。軽音部に転部して、一年に一度の晴れ舞台で『私達の居場所はここ』と示そうとしてステージに立てた。それが、機材トラブル一つで台無しになりかけている。
その刹那、脳裏に北宇治へとやってきた頃の俺が過った。県外から越してきてクラスで自己紹介をしたあの日。学級委員長に立候補した日の俺は、黒江がずっと、引っ越しの度にやってみせた事だからと俺なりに居場所を作り上げて、今日までやってこれている。
レチクルとして新生したこの人達も、彼女達なりのやり方で居場所を掴み取ろうと藻掻いている。傘木先輩が必死に戻ろうとしたみたいに、軽音部にそれを見出した──だったら俺は、俺なりのやり方でその居場所作りに力を貸す。これは、この場に居合わせた俺なりのエールだ。
「すんません、アンプはこれ以外にありますか?」
「えっ?部室になら何台かあるけど、これと違って練習用で……ワット数は同じのもあるけど、部室まで時間が……」
「誰でもいいんで今すぐ取ってきて下さい。少しの間、俺が繋ぎます。他の方は復旧した際の準備を」
「繋ぐって言ってもどうやって……!?」
「私、取ってくる!」
「菫!?っなら私も……!」
はっきり言って、今からやるのはステージのプログラムには載ってない思い付き、実行委員としても越権行為。しかも代わりのアンプを取りに向かった先輩達の脚が速い事に賭けた作戦だ。それでも、俺なりにやるならこれしかない。向かったのは、ステージ階段を降りてすぐの所に置かれているアップライトピアノ。入学式以来聴いた覚えのないあのピアノで今から──演奏する。
「委員長!」
体育館の通用口前で置いてきぼりにしてしまった井上さん達が、階段を降りてきた時を見計らい駆け寄って来た。さっきまで何処にいたのかなんて、あまり訊く余裕は無い。
「大丈夫なの?アンプから音が鳴らないって言ってたし、バンドメンバーの人は体育館から出て行ったけど……」
「大丈夫、じゃないな。今から時間稼ぎしなきゃなんねえ」
「じ、時間稼ぎ?」
「そう。だから悪い、カメラを少しだけ預かってくれ」
皮で出来た安物のストラップ毎、フィルムカメラを堺さんに押し付ける勢いで差し出した。
「それは良いけど何するの?」
「……数分だけ、余興のつもりでピアノを弾く。次は控えてるけど出す訳にいかねえし、暗い雰囲気より場が温まった状態で再開出来る方が、ずっといいしな」
「リハも無いのに平気なの?ミスしたら再開まで恥かくよー」
「順菜、矢田委員長なら大丈夫だよ。ずっと練習前に弾いてくれてたし」
「話が早くて助かるわ堺さん、カメラもよろしくな」
あまり納得してなさそうな井上さんは、堺さんの言葉で渋々と手を引いてくれた。何か言いたそうではあったけど、観客の足を止める方が先だと思って体育館脇のピアノの前に腰を下ろした。
「……や、矢田君」
「ん?」
「……『前説』、ファイト」
「──おうよ」
なんだか、釜屋さんにしてやられた気分だった。勝手に責任を感じ、勝手に余裕を失くしつつあった俺が今からやる余興を、或いは俺そのものを『前説』と形容してくれた。笑いどころを教えたり雰囲気を作る芸人ときたか、と。不思議な事に不貞腐れてた先輩達の姿まで蘇ってくる。
夏服に衣替えするか迷っていた時期は褒め言葉と受け取るか悩んだけど……今は不思議と、その響きで口元が綻んでいた。
三人が体育館の壁まで下がってから、再びピアノに向き直る。グランドピアノよりも小柄ながら、鍵盤蓋の重みは変わらない。ただ、使われた形跡があるのか埃は積もってない、手入れの行き届いている事実は俺にとって救いだった。普段は舞台袖に仕舞われていたこいつに舞台の今を託す、そんな想いで白鍵と黒鍵に指を添える。
何を奏でるか、テーマは無い。『レチクル』のジャンルも知らない。それなら自己紹介ついでにあれを弾こう──『My favorite things』、勝手に訳していいのなら、タイトルは『俺のお気に入り』。
「ワンツースリー……」
鍵盤を、押した。
出だしは、ばっちり。
『My favorite things』は嵐の夜や雷を怖がる子供達の為に、とある映画で修道女の主人公が歌っていた曲だ。怖い時や悲しい気分の時、自分だけのお気に入りの物を思い浮かべれば前向きになれる、他人にとって変わった物だろうと関係ない、自分だけの好きな物でいい、そんな想いの優しい歌。俺にとってはピアノだからこそ、今こそ弾きたい曲だった。
少し指が硬くなっているのが分かる、でも曲は始まった、ほぐす余裕はない。頭の中で開いた楽譜を頼りに音を出さなきゃいけない。
この雰囲気を、変えなきゃならない。自然と指に気合いが乗った。
左手で低音のスケールを意識しながら、右手で高音のメロディーを畳み掛ける。数々の休符も挟みながら、低音と高音を混ぜていく。
直接外へ繋がる扉から入ってくる風の様に、頬を撫でる休符が頭を突き抜ける連符に変わる。前列にいた観客の一人が隣に話し掛けた。実行委員よね?と言っている。短い音符と和音を増やす、音の粒を加速させて客席へ飛ばす。
飛ばしている最中、しまったと思った。走りすぎて音が前のめりになったり、ブレを戻そうとゆっくりになる。ジャズみたいに見せていて実際は波で揺れる舟だ、帆を張らないと転覆しかねない。副委員長の懸念は最もだった、リハを通らなかった楽譜は前へ引き返せない。
白鍵に俺の影ができる。立ち上がれば元に戻るけどそれは出来ない。このままだと、なぞるべき楽譜にまで、影が──。
焦りが生まれかけた時、壇上から静かでくっきりとした金属音が合流してきた。一音のみならず、二回、三回、四回、それ以上。音の線を辿ってステージを横目に見た──井上さんが、ドラムセットの後ろに座っている。借りたであろうスティックで、クラッシュシンバルを叩いている。
一度だって合わせてない、北宇治ではフルートや声楽以外とセッションをした事はない。それなのに、ドラマーの真意が伝わってくる。舟は揺れているだけで進んでいる。
手元に視線を戻した。影は消えてないけど、指は動いてる、刻まれたビートを頼りに拍子を刻んでる──これなら、やれる。
頭蓋骨に張り付いた五線譜を見る。十六分音符の連なる連桁、それ同士を繋ぐスラー、幅の広い和音の四連符、音符の階段を上がって、下がって、下がって、上がる。それらをビートと共に全部会場中へ飛ばして届ける。間違いない、これも『俺のお気に入り』だ。
急に遊び心が湧いてきた。本番なのに新しい事を試したい、違う曲にこの勢いで移りたい。そう言いたくなってアイコンタクトを送った時、ドラマーと目が合った。
井上さんが頷いている、スローで見えた。『やろうよ』と、ドラムにはうるさいって言ったんだからと頷いていた。キックペダルでバスドラムを叩き、タムをスティックで捉え、シンバルを響かせ続けている。
だったらやるぞ、あの曲だ。四小節をたっぷり助走に使って、かつてフルートとセッションを重ねた──『Someday my prince will come』で、今度はドラマーとセッションを。
この曲は、凄くロマンチックな物語だ。何時か自分を愛する人が現れて、何時か夢は叶うという希望に満ちた内容だ。強い期待と未来の幸せを信じるお姫様の歌に、皆が耳を傾ける。
この余興ではそんな夢見る音は出さないけど、期待は捨てないでくれ、『レチクル』も、その後もまだ舞台は続くから戻ってこい。そういうメロディーを届けたい。
口から大きな息が一つの塊になって抜けていく。
ただ指を動かした。その両手がスケールを捉えて離さない。それでも少し外したが、怖くはない。そんな音楽も観てほしかった。これからもっと、此処で楽しい舞台が続くんだから。
大きく息を吸った。井上さんのドラムが、隙を作らない。傾き始めた体を、無理矢理逆に倒してバランスを取る。
──ピアノの中に、指が溶けていった。
焦って鍵盤から指を離すと、磁石みたいに次の鍵盤に移動した。声が出そうになったが、踏ん張ってもう一歩進む。指が溶けるなら腕もピアノに差し出してみると、腕の筋肉がピアノと同化して音を奏で始めた。
それなら肩も、上半身も。そう思った瞬間、腕の筋肉がうねり始め、増幅した波が全身を包んでいく。指が高速で動いている。
左手が動いた。勝手にドラマーのリズムを引き継いでいた。右手がそれに続く。今までやってきたフレーズが無意識に出ている、俺が何度も弾いてきた音だ。でも、これじゃあ遊び心は満たされない。
ここから何を出せばいいのか。何もない、俺にはもう何もない。汗が腕を伝っている。ドラマーのストロークやリムショットが俺に次の手札を迫っている。
真っ白な部屋に居る気分だった。そこにピアノと俺だけが居る。白い部屋と、黒いピアノ。今の俺みたいに他の色が無い。肘から汗の粒が滴って無機質な床に落ちて消えていく。
何かないか必死で探した。白い部屋の中で、俺達の遊び心を満たす何かを──そしてそれは突然、現れた。
汗が落ちた場所が微かな染みになっていた。白に薄っすらと土の色が混じる。指が楽譜の音から一つ外れた。そこに芽が生えた。黄緑の双葉になった。二つ音が外れる。顔を真上に向けると、空が映っていた。水色の空気が広がっていて、その中で右手が一オクターブ上に動く。小指が鍵盤に触れたと同時に双葉が土を覆い尽くした。左手も一オクターブ上に動くと花が咲いた。赤、オレンジ、紫、黄色。気がつけば土の色が樹になって、両手で和音を捉えた瞬間、無数の果実になった。何かが、そこに結実した。
あらゆる色が残っては、明滅する。遊び心の先にとんでもないお宝を発見した、そう確信した。
指を動かして音を色にしていく。色を高速で繰り出しては混ぜ合わせた。シャッフルビートを刻んでくるドラマーの色も拾ってはかき混ぜる。鏡で毎朝見る俺の目の色、授業で黒板に削られるチョークの色、花屋で店長が仕入れに使うトラックの色も加えた。
通話越しに見せてくれた黒江のユーフォニアムの色も見えた。グラウンドに舞う砂埃の色、バイト代で買ったキーボードのランプの色、体育館中にかき混ぜた色が花火みたいに弾けては輝く。そこからは音よりも色が先になった。
もっと良い色を、自分らしい色を。それを出せば、もっと先に、北宇治中にだって──。
ふと、入ってきた体育館の入口に顔が向いた。待ちくたびれて立ち去った観客達が、それ以上の観客を連れて戻ってくる気配がした。そうだろうと思う、そうじゃなきゃ困る、とも思う。名前も知らないバンドメンバー達の、晴れ舞台から去られると困る。
俺自身忘れかけたていたが、これは余興で、『前説』だ。本題を、危うく見失いかけた。寸分違わないスネアのドラムロールによる催促に、自分の世界に浸っていた仕返しだとばかりのドラムロールに、思わず『うめき声』を挙げた。
『Moanin'』は、その名の通りうめき声という意味だ。朝とはスペルが違う。少し解釈が違うかもしれないが、単に苦しむというよりは苦しみつつも前に進む、そんな曲だと受け止めている。
ただ今はもう、怖くはない。鍵盤全部の色が使える。
ただ真っ白な世界じゃないのは分かってる。一瞬息を止めて、見えている色を探す。右手が速度を上げる。さっき汗を垂らした肌色が、腕が見える。左手が疾走り出した。その勢いでシンバルの光沢を放つ金色も見えた。両手が交差した。関西大会のトロフィーを掲げたパーカス部隊の写真に皆が、いる。中学卒業前に黒江と撮った思い出が煌びやかに映っている。もう色は、奥行きさえも持っている。
シンバルとタムの色が近寄って離れてはまた近づく。鍵盤の白黒にももっと色をつけろと近づいてくる。後はもう、皆に見せたい色を放つだけ──。
必死に求めた色。
意固地になる色。
上手く伝えられない色。
真摯に向き合う色。
信じたくなる色。
勇気を出したいのに出てこない色。
前に進もうと踏み出す気持ちの色。
誰かに救われた色。
遂に乗り越えた色。
皆に感謝する色。
非情な過去にも負けない色。
何にも恐れず、自分だけの色を出す。
目を開ける。鍵盤が見える。その上を動く両手が見えた。気の所為か、青く見える。照明かもしれない。俺が生み出した色かもしれない。とにかく、青く見える。腕まで青い。きっと、初めてピアノの音を知った時の色。
思わず、立ち上がった。曲はまだ終わりじゃない。後三小節残っている。ピアノに溶けていった指が、その三小節をフェルマータで引き伸ばそうと色を奏で続けている。立ちながら放つ色が、壁や天井を突き破って、そこから噴出しているようだった。
今の俺が作れる色という色を出し切って、シンバルのロールに押されながら、左から右へグリッサンドで五線譜の上を滑らせて、飛行機みたいに色を飛ばした。滑走路には、もう休符以外残っていない。
背中を押したドラマーも、観客の全ても、会場の体育館も──全部、青く見えた。
五線譜をなぞり切った後、思わず制服のボタンを二つ外した。熱気か汗か、俺にボタンを外せと言っていた。
会場にいる誰かが、拍手をした。そう遠くない所で見ている誰かに、賛辞を贈られている。手のひら同士が弾ける音が、元気にぶつかり合う。それは空気を通じて観客に広がり、まばらに、段々と会場が割れんばかりの拍手になって、歓声と共に鼓膜を震わせてきた。
「っ……以上、実行委員会有志による演奏でした!引き続き『レチクル』を始めとした文化祭のプログラムをお楽しみください!」
鼓膜の振動で自分が呆然としていた事に気付き、挨拶をそこそこに舞台裏に近いその出口から小走りで外に出た。
昇降口のある方が表なら、東の回廊に繋がるこっちは裏。その回廊までの道はベランダみたいになっていて、客席の見えない死角まで歩き、欄干に力の抜けた体を任せる形でもたれ掛かった。
「矢田委員長、お疲れ様!即興とは思えない迫力だったよ!」
「ああ堺さん……ありがと。釜屋さんも、拍手ありがとな」
「私は、別に。拍手するならここって思って……」
「なんか、釜屋さんこそ前説っぽいよな」
出口付近で見守ってくれていた堺さんと釜屋さんが、追いかけてきてまで労ってくれた。情けなく座り込んでいる気がしなくもないけど、構わない。そう思われていたとしても、平気だ。これも、今の俺が作る色なんだ。
「……なあ、何時から井上さんは舞台に上がろうとしてたんだ?」
「それがね、後ろに下がってからずっと『委員長一人で背負っていい責任じゃない』とか案じてて、始まってからもずっとソワソワしてたの。矢田委員長の演奏がブレた途端『行ってくる!』って飛び出しちゃって」
「借り物のスティックにドラムセットだったろうに、よくあんな技術隠し持ってたよなあ……自分でドラムにうるさいって言ってたのも納得だわ」
ところで、さっきまでドラマーだった副委員長の姿が見えない。即興であれだけのパフォーマンスを披露しておいて、顔一つ見せてこない。
「もう、みんな揃って勝手に居なくならないでよー!」
噂話をしていたら、舟の舵取りを担っていた功労者のお出ましだ。とんでもない技巧を即興で披露してくれたドラマーには、兎にも角にも褒めちぎるしかない。
「よう天才ドラマー!全国出場者!」
「ちょっ、何いきなり!?」
「本場のジャズみたいでカッコよかったよ、順菜!」
「や、止めてよ万紗子!それなら委員長だってプレイヤーだったんだから!」
「……順菜ちゃん、ステージに上がってたからある意味矢田君より目立ってた」
「つばめまで!!」
「能ある鷹は爪を隠すって言うけどさあ、隠しすぎだろあれは!普段からシンバルで繋いできて、今度は借り物のドラムセットだろ?天才じゃなかったら何なんだよ!あーもう自慢したくてしょうがねえわ〜……みなさーん!ここにユーティリティ副委員長がいまーす!!」
「あーもうっ勘弁して、恥ずかし過ぎて死ぬ!ホントに死ぬから!!」
音ってのは、振動だ。空気を震わせて、人間の鼓膜を揺らす。それでも物理的には何処までも届かない。でも、その物理的な概念を超えていると思いたくなる時がある。壁を超えて、物理を超えて、遥か遠くまで届く振動があってもいい、俺は今、そう思った。
「──井上さん!」
「こ、今度は何!?」
「こういうの、やった方が結束力とか達成感とか、ちゃんと出るだろ。お疲れ、副委員長」
「もうっ──委員長こそ、最高だったよ!」
座り込んだ俺の右手と、ドラマーの右手がぶつかり乾いた音が鳴った。開け放たれたままの体育館からも、ドラムやギターのリフが聴こえ出した。北高祭は、まだまだ始まったばかりだ。
三十分の休憩を挟んで、反省点を整理してから合同練習でもう一度自由曲の通し。先生の指示通りに各々が十回通しで疲れた肺や体を休めようと、教室で、廊下で、或いは外の日陰で風に当たりながら思い思いの休息を過ごしていた。
休憩前に軽く楽器の手入れを済ませたくて、ピストンにバルブオイルを少し差して、音楽室の側にある流しでマウスピースを洗ってから部室に戻った。普段に比べて酷使したからクロスで磨いたりしても良かったけど、私のズボラな性格はそれを帰宅後の習慣として定めている。
荷物を置いた部室のドアノブに手を掛けて入ろうとして、先客の誰かが休んでいるのが窓から見えた。もう少し覗き込んでみると、一つのスマホを友達の二人で持って食い入る様に何かを聴いていた。
イヤホンを着けてるせいで、何を聴いてるのかは分からない。でも先輩達の誰かじゃない。トロンボーンとサックスパートの、清良女子で出来た友達。肩の力を抜いて、身体が通れる分だけドアを開いた。
「あっ真由、遅かったやん!なんしよったと?」
「先生に何か言われとった?」
「ううん、お手入れに熱が入っちゃって」
「わかるーわかるよ真由、マーチングも座奏も全国。必然的に増える運搬、遠征。こん前の九州大会が終わって直ぐ、トロンボーンば分解して丸洗いしたけん!」
「ユーフォは平気?うちらより大変やし私物やろ?」
「平気だよ!サックスのリードこそ消耗品なんだよね、大丈夫?」
「──今日のは大当たり、出来りゃあ本番で引きたかったレベル」
「ふふ、当日に外さないでね」
部室が笑い声と一緒に賑やかな雰囲気に包まれていく。福岡も女子校も初めてだったけど、朗らかな関係に恵まれてると思うと嬉しかった。
「そうや、さっきまでウチらで動画観とったんやった。密かに話題になっとっちゃけどこん人達凄いとや!真由にも教えたかったし、一緒に見んね!」
「動画?うん、見る見る!」
「じゃあ初めからね。三人やしスピーカーでいっか」
「そん方が迫力出るばい!」
イヤホンがスマホから外されて、トロンボーンの友達が動画を再生した。並んで座って、再生されている画面を覗き込もうとした時──あの音を拾った。どうして分かったのか、自分でも分からない。だけど、これだけは間違えないという確信があった。
「京都の高校の文化祭で機材トラブルがあったみたいちゃけど……対応に当たっとった実行委員がいきなり降りてきて、ピアノコンサートば始めたって!」
「途中からドラマーも飛び入り参加でジャズライブ!ウチも現場に居合わせて、生で聴きたかったな〜!」
「こん人のピアノ、突き進むって感じがばりカッコよか〜!」
「ドラムば叩いとー子もピアノの圧に負けとらんね!」
ピアノの前に座っているのは……他でもない矢田君だ。ドラムの女の子は知らない子だけど、この演奏は矢田君だ。舞台照明が眩しくてはっきりとは見えないけど、ステージ階段を下りて直ぐ、ピアニストの彼がいる。
たった半年、それでも半年会っていない。習慣みたいに続けられた寝る前の電話で私を気遣い、和ませてくれたり、優しさを振りまいてくれたピアニストの音は──より特別になっていた。
照明の当たらない暗がりなのに、とてつもなく大きな音。同じ空間にいればより体感出来たであろう音の圧力。スマホという小さな端末のスピーカー越しでも浮かぶ輪郭。人によっては滑稽に映るかもしれない位に躍動する指、腕、体、狼みたいな笑顔。
私の知るどの矢田君とも違う、野生的な本能を滲ませながらも何かを背負ってずっと、弾き続けている──不思議と、瞼に涙が滲んできた。
「えっと、北高祭……北宇治高等学校……ねえ、ここ知っとーと?」
ピアノで彼は、叫んでいる。言葉じゃないのに、俺にも居場所があるんだと叫ぶ心が伝わってきた。
どうしたら、そこまで弾けるの。どんな半年を過ごしてきたの。どうやって奮い立たせてるの──どんな不安と、ずっと向き合ってきたの?
コンクールで競い合った学校のどの人とも違う。勝とうとしてない。虚勢も見栄も、戦略だってない。
「ちょっと待って…………嘘、そこん吹部、関西代表だって!座奏の!こん前ミーティングで話しよった学校ばい!」
「関西三強ん秀大付属に勝った学校やけんマークしとくって、コーチが言いよった学校やん……こげん形で敵情視察が出来るなんて、ばりツイとーよ!」
「ピアノは分からんけども、ドラムはパーカッションに違いなか!」
目尻から落ちそうになった涙をぬぐって、動画を見る。『私の好きなもの』だった曲が、気付けば『いつか王子様が』に変わっていた。その音も私の知っている音色じゃない、じっとしているお姫様というより、まるで激しくがむしゃらに走るような、遥か遠くまで行きそうな音色。ドラムに後押しされて突入した『うめき声』からは、フィルムカメラで撮った景色をその場で見せられているみたいだった。
思わず、鍵盤に指を滑らせた所で立ち上がってしまう。良い所なのに、って矢田君は怒るかもしれない。この場に矢田君は居ない。普段みたいに電話を繋げている訳でもない。でもどうしてか、一人になりたかった。
「急に立ち上がってどげんしたん真由?」
「ごめんね、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「フィーネもばり良かとこなんにこれー!いってら〜」
別になんでもないのに、お手洗いへ走って向かった。一人になりたかった。
個室の鍵を閉めた途端に、胸の深いところから息が漏れた。
餞別を受け取ったあの日から私は、ずっと矢田君を救いたくて、君の存在に救われたくて、君の心に届く言葉を探していた。でも、そんなものは必要無かったのかもしれない。私が言葉だけではなくて君の存在自体に、君の見ている景色に救われているように、君もまた、言葉では足りない何かで景色を彩りたかったのかもしれない。
だから誰にも聞こえないように、小さく、小さな声で自分に呟いた。
「──カッコよか、何よりも」
少しだけ、そうやって扉に背中を預けていた。
矢田君一世一代の見せ場、でしょうか。長くなったのですが区切ろうにも区切れなくて。
この作品は、ユーフォもそうですが様々な作品から影響を受けています。それと、今回みたいな話は暫く書ける気がしないです……。