ご無沙汰しております。溜めていた反動で話が長くなりすぎました。
矢田君がとある花屋さんでアルバイトをしていたのはこの為だったのかもしれません。
「店長、ちょっといいですか?」
「どうかしたの?」
「バイトの身分で言いづらいんですけど今日、本当にお客さん来るんすかね」
トラブルに巻き込まれながらも北宇治高校の文化祭はどうにか盛況の内に幕を下ろし、祭の余韻に浸る間も無く二学期の授業が開かれようとしていた月曜日のある日。提出したシフト通りに花屋のアルバイトに就いていた。
普段通りに学校に通い、シフトがあればバイトに向かう。そういう普段通りの月曜日を送ると思い込んでいた昨日までの俺の詰めの甘さを、目覚めた直後には肺にまで纏わりつく湿っぽい空気がそれを指摘してきた。
「そうねー……本当は臨時休業なんだけど、ご予約のお客様がいらっしゃるみたいだから一応開けておかないといけないのよね」
「こんな時にっすか?」
何時もの下校時刻よりは遅く出勤したにも関わらず一切咎められる事はなく、寧ろこんな日に外出して大丈夫?と店長からは心配の第一声を投げかけられる始末。花に向かって文化祭での思い出でも語ろうと多少浮かれていた勢いは暖簾に腕押し、バイト先に着いた時にはもう塵となって消えていた。最も、そうなって当然の理由はちゃんとある。
「警報が出た中で無理矢理出勤した俺が言うのも変ですけど、滅茶苦茶台風来てるじゃないっすか。横殴りの雨粒に油断したら吹き飛びそうな暴風、店頭に出す花が陳列出来ずに店の中で飾られてる時点で……営業とか無理っすよ?」
昨日の北宇治周辺の熱気が嘘みたいな台風が、朝からずっと京都の周辺に停滞していたせいだから。天気予報曰く、近畿圏どころか京都に直撃するルートを通っているらしい。
朝食を食べていた頃に注意報から警報に変わり休校の報せが届いたのもあって、文化祭気分だった気持ちを切り替え登校しようと支度を済ませた気持ちの、所在が迷子になってしまっていた。
やむを得ず着替えて部屋着に戻ったけど平日に、家で親と昼食を食べたのは初めてかもしれないと思って、ほんの少しだけ訪れた台風に感謝した。
「矢田君の言う通り、普段なら店じまいしてると思うし……そもそもお店が開けられないんだけどね。今日のお客様はちょっと特別なの」
「特別?それってお得意さん的なやつですか」
「そう。毎年この時期になるとね、決まってご予約をしてくれるお客様なのよ」
「そのお得意さん、こんな台風の時でも来るんすかね」
「お昼に一応連絡があって、車で向かうので大丈夫とは仰ってたのだけれど……時間的にはそろそろかしら」
それはさておき今はバイトの話。俺が言えた義理じゃないとしても、店長の言うお客様とやらは日にちをずらそうと思わなかったんだろうか。花は生鮮品ではあるけど一日で枯れるような代物じゃない、なんならお客さんの手元に渡るまでの世話を花屋がしてると言ってもいい。もし俺が電話に出ていたら、日を改めていただけると助かります、と告げたくなる程の風をさっきまで浴び続けていた。
「店側として言ってもいいならこっちは大丈夫じゃないっすよ、やってきたら文句の一つでも言ってやりましょうか」
「矢田君の出勤を止められなかった私の責任もあるけど、気持ちだけね。本当に言っちゃ駄目よ?」
「へーい……」
店長に釘を刺され手持ち無沙汰になってしまった俺の視線は、店内に提げられた時計の針を追いだした。装花や事務的な仕事を手伝う慌ただしさもなく、売り物の水替えも掃除も済ませて作れた時間で周る時計の針を眺め続けた。
「いらっしゃいませ!」
秒針が何周か周った頃、店の扉が開かれた。それを確認した店長が来客に声を掛ける。ステンレス製のレールを引き戸が滑る音よりも、室内に入り込んで来る管楽器よりも鋭い風切り音がそれを覆ったせいで聴こえたかどうか怪しかった。
扉が勝手に開いてしまう建付けの悪さはこの店にはない。店長が挨拶したのなら誰かが来店したんだろう、そしてその誰かも無類の花好きじゃなければ聞かされていたお得意さんだ。それならせめて、普段通りの接客をしようと考え来店した客に俺からも声を掛けようとした。
「いらっしゃいま──」
「すみません、無理を言ってしまった上に遅れてしまい──おや、矢田君?」
どうにか体裁を保とうとした俺の良心が、ひっくり返した砂時計の速さで崩れていく感覚がした。まさか、バイト先の花屋の、店長の言っていたお客様とやらが、自分のクラスの担任だったなんて。学校の敷地外で遭うとは微塵も思ってもみなかった。
それと同時に、自分の中で納得がいった。この先生ならなんとなく、台風でもやって来そうな節があると。花屋であれ、なんであれ。
「成る程、アルバイトをしていると噂で聞いてはいましたが……まさかこちらだったとは」
「こ、こんちわっす」
そういえば、バイトをすると学校側に伝えた記憶がない。滝先生や松本先生どころか、教頭先生や校長先生にすらも。校則にバイト禁止の文字があったかどうか覚えてなくて、バツが悪くなった気がして内心で冷や汗をかいた。
ひとまず崩れつつあった体裁をかき集め、さっきまで文句を言おうとした自らの言動に見て見ぬふりをしようと決めた。じゃあな、数分前の俺。
「矢田君、こちらのお客様と知り合い?」
「え?あーはい、知り合いどころか……」
「彼は教え子です。私の受け持つクラスの学級委員長を任せていましてね」
「そうでしたか、道理で親しみがあると思いました。それではご注文の品を持って参りますので──矢田君、こっちはお願いね」
そう言うと店長はバックヤードに戻っていった。今のやり取りでどう親しみを感じたのかは分からないけど、今の様子を窺う限り店長側に気を揉む必要は無さそうだ。そうなると、問題は滝先生側だ。
「……店長からはお得意様と聞いてたんすけど、まさか先生とは思ってませんでした」
「それを言うなら私の方こそ、矢田君のアルバイト先がこちらだという件は寝耳に水でした。何時頃から始めたられたんですか?」
「えっと、吹部のスケジュールで言うなら……サンフェス前っすね」
「でしたら安心しました。貴方の成績は悪くありませんし、気に留める必要はありませんね」
「は、はあ……」
「私としては休校になってますので、アルバイトも休んで欲しかったですが。こんな日に出歩いてはいけませんよ」
ある意味肩透かしを喰らった気分だ。聞き及んでるらしい噂といい成績の話といい、隠れてバイトをしていた生徒を目撃した先生──という建前すら見当たらない。元々俺自身、隠れていたつもりもないけど。
「あのー、先生」
「どうしました?」
「……いえ、なんでもないっす。休校なのに外に出てすみませんでした」
「私の方こそ、そちらに無理を言ってしまってすみません。対応させてしまっている以上、私に責任がありますので」
なんだか、気にする必要もないっぽい。これまで通り音楽を介さない他人に関心があるのかないのか、そこまで判断はつかないにしてもバイトの話であれこれ考える必要は無さそうだ。
そう考えた途端気が軽くなって、教室でいる時の自分みたいに肩や肘から力を抜けた。店長の準備が終わるまで、休校が決まった直後の学校の様子でも聞き出して間を保たせようとした……そんな時だった。
「た、滝先生……?矢田君……?」
今日はもう来店しないと思っていた客が、傘を差して軒先に立っていた。傘とこの悪天候でよく聴こえなかったけどそのシルエットが誰なのか、ひと目で判断出来てしまった。
「黄前さん?」
「えーっと、いらっしゃいませでいいのか?」
黄前さんが何故かこの雨の中、店の前に現れた。癖っ毛が凄くてシルエットで判断出来てしまう辺り、案外付き合いはあるらしい。
「んー……とりあえず傘畳んで店に入れよ。そんな場所で突っ立ってるより、店の中の方が安心するだろ」
「えっ、あ、うん。ありがとう……」
俺が言えた立場じゃないけど、今の黄前さんは正直な話客には見えない。うろついてたら俺と先生が喋ってるのが外から見えたという、そんな表情だ。経験則で語るなら、花屋に女子が一輪でも買いに来る様な格好にも見えない。パジャマっぽい姿であろう黄前さんには、この店に目的があったという様子も見当たらない。
「矢田君にも言いましたが駄目ですよ、こんな日に出歩いては」
「すみません、ちょっと散歩に……」
「こんな雨の中で?」
「えっと、雨が好きで……先生と矢田君は雨、大丈夫……でしたか?」
明らかにその場しのぎの嘘を誤魔化そうとしている人の顔だ、おまけに何かを隠してるとバレバレなか細い声になっている。まあ、詮索しない方が良さそうなのは確かだ。
「ええ、車ですから」
「俺は一時間前にはここにいたからなあ」
「でも台風は嫌ですね、靴の中がビショビショです」
「矢田君……は、お花屋さんでバイトしてるって噂はあったけどここだったんだ」
「ああ。バイトを始めたとはずっと言ってるけど、客として来た試しはねえな」
シフトが入ってる日に、北宇治の制服姿の客に出会った記憶は無い。それ以外でも学生が来る事は殆ど無いらしい。ファミレスとかコンビニならまだしも、花屋だと冷やかしすら気後れするんだろうか。
「へ、へ〜……先生はよく来られるんですか?お花屋さんに」
「まあ、たまに。今日は台風でお店を閉める所だったそうなんですが、特別に用意して下さるそうで。無理をお願いしてしまいました」
気不味さからなのか、或いは何かについて口を滑らせるのが怖いのか、色々と話を振ってくる黄前さん。そんなユーフォ奏者の気持ちや性格を知ってか知らずか、先生も俺達に世間話をふっかけてくる。
「でも、二人はちょっと嬉しいんじゃないですか?学校が休みになって」
「ああ……はい」
「嬉しいんすけど、文化祭の代休とか言われた方がもっと」
「私も学生の頃は、台風の度に期待していましたからね。大抵は朝までに去ってしまうんですけど」
嘘っぽいのに、これまでの印象のせいでリップサービス盛り沢山のハッタリにしか聞こえない。真面目か不真面目かで問われると即決で真面目と言える滝先生が若い頃の、休校を願っている姿なんて想像出来なかった。
「そうなんです!滅多に休校にならなくて!」
……黄前さんは黄前さんで、その姿が簡単に想像出来てしまう。前にもしみじみと思ったけど、その口の軽さで苦労した事とかないんだろうか。あるんだろうなあ。
「実感こもってますね」
「えっ、いえ、はい……」
「お待たせしてしまってすみません」
「こちらこそ、こんな日にすみませんでした」
人の性格の違いについて関心を寄せていると、店長が注文に合わせて作った花束を持ってきた。括っているプラスチックの紐とフィルムが擦れて微かに音を立てている。
先生が大切そうに受け取ったブーケは白を基調にしたというよりは白一色、それどころか違う品種の存在しない、これまでバイト中に見たどのブーケよりもシンプルな一束だった。
「いえいえ……娘さん?」
「この子も教え子です。偶然通りかかったみたいで」
「そうですか、ですよね。先生まだお若いですもの」
「じゃあ、これで」
「はい。ちょうど頂戴いたします、またよろしくお願いしますね」
ブーケに使われてる花が何の花だったか。最近余裕が出来て調べ出した花言葉の脳内の辞書を漁ってる内に、先生は支払いまで終わっていたらしい。その支払いを済ませた手元に視線を向けると──先生の左手の薬指に、文字通り光る物があった。
照明に照らされても尚花束より控えめに輝いていて、美しさが後からやってくるみたいな、奥ゆかしい感じの指輪をはめている。
「指輪、あっ」
「え……ああ──今日は特別、なんですよ」
一体何時から、それからどんな人と。そういう好奇心で俺の口から聞き出す前に、黄前さんが指輪の存在に言及しようとした。そして、その追及を優しくあしらう滝先生。俺の記憶にいるどの先生よりも優しくて、どの先生よりも厳しさを見せるその声に、これ以上指輪への追及は許さない……そんな立て看板を突き立てられた気分だった。
「そ、それじゃあ私はそろそろ帰りますので……」
「え?大丈夫ですか?少し小降りにになるのを待った方が」
「こんな時だし、暫く雨宿りしてくれていいぞ?店長に頼むわ」
「あ、雨が好きだから大丈夫……ひゃあっ!」
「黄前さん!」
花に囲まれているとは思えない居心地の悪さから逃れようとして、黄前さんが店の扉を開けた。隙間風ですら人の肺活量では真似の出来ない暴風は、軒先に出た黄前さんに容赦なく吹き荒び、開こうとした傘をいとも簡単に再起不能にしてしまった。
「これは駄目ですね」
「寧ろここまでよく耐えたな、その傘」
「結構気に入ってたのに、これ……」
「……仕方ありません、私が車で送りましょう」
渡りに船とでも言うべきか、先生が黄前さんの送迎を買って出てくれた。夜中でもないのに雲が光を遮り暗くなる空の下で、同級生の女子を歩かせるのは気が引けるしありがたい。俺だけなら店に居座らせて貰えばいいし、来た時と同じく家まで走って帰ればいい。
なんにせよ、客足の見込めない状況で店を開け続ける必要も無くなるならそれに越した事はない訳でして。
「矢田君もです。少々窮屈になりますが、貴方も車に乗っていきませんか?」
「わ、私もそれが良いと思うな〜?」
突飛な先生からの提案に、少し狼狽えてしまった。嬉しい誘いではあるものの、こっちはまだやる事が残ってる。
「へ?いや、俺はまだバイトなんで黄前さんだけ……」
「賑やかと思って来たのですけれど良かった、まだ先生がいらっしゃって」
「店長?てっきり店じまいに向かったとばかり」
「良ければウチの矢田君も送ってはいただけませんか。こんな悪天候ですから、彼を一人で帰らせるのは忍びなくて」
「ええ勿論です。今その提案を矢田君に持ち掛けた所でしたので」
あれよこれよと言ってる内に、俺まで先生の車で送られる話が進んでいる。本来は出勤した時点で帰りも強行して豪雨と暴風の中帰路に着く、そういう予定ではあったけど。周囲がここまで善意を持ち掛けてくれるのなら。
「……店長、締め作業をやらずに帰宅してもいいですかね?」
「従業員の身の安全が一番だもの!それでは先生、よろしくお願いします」
無下に断る方が申し訳が立たないんだろうな、こういう時って。
「矢田君、後ろは狭いですが適当に荷物を退かして座って下さい」
「分かりました」
「黄前さんはこちら、使って下さい」
「ありがとうございます……」
帰宅の準備を済ませて向かった花屋の駐車場には、滝先生の物だという車が停めてあった。一つ気になったのは、メーカーや車種なんかに詳しくない俺でも分かりそうな昔の車だって事。今の両親が運転する車の方がずっと現代の車だし、海外の人が好みそうなそのデザインは……ある意味、クラシックも教える音楽教師らしい趣味だった。
「教師って、荷物が多い仕事なんすかね」
「どうでしょう。そこは科目によるのかもしれません」
職員室の滝先生の机を何度か見た事はあったけど、自家用車の座席にまで物が散らかっていた。自分さえ物の配置を把握していれば平気な人は、机の上も車の中もごちゃごちゃしているとは予想外だった。
「……矢田君、これをそちらに置いてもらえませんか」
「え?ああはい」
許可を得て空間を確保し後部座席に座った所で、先生がダッシュボードの上から何かを手に取って避けた荷物と同じ場所へ置くように要求された。写真立てだ。木の縁取りで造られたそれは、色は違うけど俺の部屋にも飾ってる代物だ。
写真である以上、伏せずに渡されると何を写してるのかは見えてしまう。タオルで頭を拭いていた黄前さんもそれを見てる。
そんなフレームに収まっていたのは滝先生と、ファゴットを薦めてきた橋本先生。それから──俺の知らない女性が二人。仲睦まじいって印象の一枚が切り取られている。あまりじろじろ見る物じゃないなと逡巡して、積まれた荷物で写真が極力傷付かない場所に置いた。それを確認した先生が車のエンジンをかける。そこから花屋の駐車場を離れるまで、然程時間は掛からなかった。
「先生、先に黄前さんを送ってやってください。俺はどうせバイトしてたんで」
「分かりました。黄前さん、道案内を頼みます」
「あっはい!えっと、まず宇治橋まで」
そこから少し、無言の時間が続いた。ボンネットやルーフに不規則に打ち付ける雨と、アスファルトの車道にタイヤが吸い付くような無機質な音ばかりを耳が拾っている。誰かが言葉を発そうともせず、ただカーラジオから流れる洋楽を聴くばかりの時間になっていた。
「……橋本先生、少しだけ話したそうですね」
「え?」
洋楽を背景にしながら口を開いたのは、滝先生だった。赤信号で止まったのを見計らったんだろうけど、台詞や黄前さんのこっちを窺う様子から俺に向けられた物じゃない気がして、反応するべきじゃないと考えて口を噤む。
「はい、少しだけですけど……」
「合宿の後、橋本先生にうっかり口を滑らせてしまったと謝られましてね。本当、しょうがない人です」
「あの、今の写真に写ってた人って滝先生の奥さんですか?」
視線を車窓の外に逸らしたまま、二人の会話を聴いている。合宿で何を喋ったのか知る由もない、けどさっき花屋で見た指輪の話と関係する事らしい。助手席の同級生がチラっと見た写真の人達について話を繋げた。
「あ……すみません、聞いちゃ駄目な事聞いちゃいました」
「俺もその、盗み聞きしてるみたいになりますけど……」
「いいんですよ、お二人に気を遣わせてしまってすみません。別に怒っている訳ではありませんから。ここは?」
「あ、左で……」
信号が青に替わり、道案内通りに車は左へ曲がる。住んでいる町とは思えない位人通りは静かで、反対車線を通る車もない。自然の音とカーラジオの歌声が賑わいを演出している。
「黄前さんの想像通り、そこに写っているのは私の妻です」
どちらの人なんですか、そう訊くよりも先に先生の言葉が続く。
「大学の同級生で、橋本先生と私の妻は北宇治高校の生徒だったんですよ」
「そうだったんですか……」
「ええ。その頃は私の父が顧問で、全国大会にも行っていたらしいです」
「らしいって……」
「私はその頃、父に反発していたのでよく知らないんですよ」
先生の父親が顧問。それはつまり、推測が正しいのなら滝先生は父親と同じ道を辿っている事になる。反抗していた親と同じ道を歩める程度には折り合いがついたのか、反骨心をそのままに教師の道を歩んでいるのかまでは分からない。努力か遺伝か、音楽なんて曖昧な科目を教える覚悟を滝先生は掲げている。しかも、同じ学校で。
「ただ、妻の話だと高校三年間全国大会には出ても金賞は取れなかったって……だから自分が先生になって、母校を全国に導くんだって──病気になってからもずっと言ってました」
「…………病気、っすか」
「ええ。もう何年も前に、妻は息を引き取っています」
父親と同じ学校に赴任しているという事実よりも、今の言葉はずっと重くのしかかって来た。こんな事なら無理にでもバイト先に残るべきだったと、数文字の台詞を呑み込むべきだったと、決して軽くない後悔を覚えてしまった。
俺を産んだ両親は、生きているとも死んでいるとも限らない。探そうと思えば育った孤児院を頼ればきっと教えてくれる、或いは捜してくれる。何処か楽観的なまま、さして興味を持たずに生きてきた。でも滝先生の奥さんは、もういない。行方が分からないんじゃなくて、空の向こうにいる。家族という存在に対しての認識のズレに、花屋で鉢合わせた時よりも居心地が悪くなり、謝った。窓に映った、自分勝手な俺を睨みながら。
「…………すみません、興味本位で聞き出していい話じゃありませんでした」
「大丈夫ですよ。この話を黄前さんに切り出した時点で、一緒に乗っている矢田君にも知られる覚悟でしたので」
滝先生は黄前さんの家に着くまでそれ以上、何も言わなかった。これ以上、自分の個人的な事情を生徒に押し付ける気は無いという意思表示だろうか。そんな先生を前に黄前さんも俺も、何も言えなかった。
「せ、先生、あのマンションです」
「分かりました。傘も壊れていますし、傍まで寄りましょう」
押し黙る内に、黄前さんの住む家まで着いていた。それを知るや否や先生はウインカーを光らせて、マンションの入口に出来る限り近い場所まで寄せて車を停めた。
「お、送ってくださってありがとうございました」
「構いませんよ。ですが今日はもう、散歩と称して出歩く事のないようにお願いしますね」
「は、はいっ」
黄前さんは先生に深く会釈をすると、これ以上雨にうたれまいとばかりにさっと車から降り、そのままマンションの入り口まで走り去っていった。その黄前さんの顔には車内のバツの悪さから逃れたいというよりは、決意を固めたみたいな、何かに立ち向かう人間の表情をしていた。例えるなら、全国大会への覚悟を決めた部員の顔。
「では、矢田君も送りましょう」
「……はい、お願いします。来た道を戻っていただけると」
クラスの違う同級生の家の前で停車し続ける意味も無いから、先生の言葉に二つ返事で了承した。もう一人の教え子を送る為に、再び車は動き出す。
黄前さんが乗車してた時よりも所在の無さに困っていると、隣に乗せているブーケが視界に入った。今は亡き奥さんへの贈り物であろうその花束は、曇天で曇る空も相まって一際白が目立っている。
奥さんの好きな品種なのか、それとも先生のメッセージが込められた一束なのか。最近になってバイトに余裕が出来て仕入れる花の名前を覚え出した俺の、脳内の図鑑を捲ってみる。まだ扱ってる品種の花言葉まで覚えられてはいないけど、このフィルムに包まれている花は、間違ってなければ確か……。
「イタリアン、ホワイト」
「……花屋で働いてるだけあって、詳しいですね」
どうやら正解らしい。贈り物の事情が事情なだけに、ホッと胸を撫で下ろした。
「俺なんて、まだまだっす。最近仕事に慣れてきたのもあって、ウチで扱ってる品種だけならどうにか。花言葉も要求されるとどれがどの言葉とかはとても……」
「それで大丈夫だと思いますよ、私からしても。ピアノの楽譜も鍵盤も、覚えるまでは大変だったでしょう?」
「それはまあ……はい」
「私もまだまだ教師としては未熟でしてね、赴任してからは学びばかりの毎日です」
小柄な車が、豪雨で出来たカーテンや吹き荒れる暴風をものともせず、来た道を戻っている。その運転される車体からは、未熟さの欠片も感じられない強さがあった。
「矢田君、少々寄り道していきませんか?少々喉が乾きましたのでコンビニにでも」
「いや、そこまでしていただかなくても……」
「花屋は噂に反して、力仕事だと聞いていますから。これは教師としてではなく──滝昇としての激励だと捉えてください」
唐突な提案に面喰らったが、今最も激励されるべきは全国大会に向かう吹奏楽部みたいな人達だ。それこそ、さっきまで乗っていた黄前さんや黒江みたいな存在の方が奢られるべき価値がある。
「深く考えずとも、友達同士で奢り合う感覚で結構ですよ。それに……」
「それに?」
「そうですね……これは受け売りですが、男同士の語らいとでも洒落込みましょう。軽く雑談をする気持ちで構いませんので」
そこまで言われて、少し考えた。滝先生の周囲への関心の薄さは否定出来ないが、悪意があったという話はない。指導が細かいと井上さん達から聞いたりしたけど、俺の感覚だとそれは善意だ。ただ只管に、北宇治の音を良くしたいという本心。そんな本心から出てくる雑談に、少しだけ後ろ髪を引かれた。
「……じゃあ、ご馳走になります」
「では、あちらのコンビニに入りましょう。丁度車線も面していますから」
本当に少しだけの寄り道だ。何時もの通学路から少し外れただけの、天気の都合でがらんとしたコンビニの駐車場に、一台の車が停まった。
車内で待つように言われると、先生は車を出て足早にコンビニに入り、数分もしない内に袋を提げて戻ってきた。
「お待たせしました。普段愛飲している物があったので迷わずに済みましたよ、どうぞ」
「ありがとうございます……」
無地のビニール袋から小さな紙パックを取り出した先生は、それを俺の掌に軽く置いてきた。そこには大々的にミルクコーヒーと印刷されている。
「お好きなんですか、甘いコーヒー」
「ええ。コーヒーはどれも好きなのですが、妻がこれをよく飲んでいましてね。思い出の味なんです」
「じゃあ、頂きます」
容器に引っ付いていたストローを差し、喉に通してみた。思い出の味だというこのコーヒーは、市販品ながらも優しさというか、心が落ち着く一杯だった。他人の思い出ではあるけど、不思議と懐かしい。
ストローでコーヒーを啜った俺を見て、先生はとりとめのない話を語りかけてきた。
「矢田君は花屋として、お気に入りの花はありますか?または花言葉でも」
「さっき言いましたけど、花言葉と花そのものがあまり結びついてないんです」
「それでも、好きな花はあったりしませんか?」
花は好きだ。でなきゃ男がバイト先に花屋を選んだりは多分しない。それよりも花に関する好きな物があると思って、出来る限りの知識を絞った。
「うーん…………花というかその、花にまつわる言葉が好きです」
「と、言いますと?」
「例えばなんすけど、桜は『散る』、紫陽花は『しがみつく』、椿は『落ちる』、牡丹は『崩れる』、梅は確か……『こぼれる』。それぞれに贈られた表現が好きで。枯れる事に変わりはないのに、花をよく観察していた人の、そういう視座を共有した気分になれて」
バックミラー越しに、俺の言葉を待っているのが分かる。個人に関心が薄い先生だけど、話を聞く時は必ずこっちを見てくれる──俺は、滝先生のこういう一面を知ってるから、この人を嫌いにはなれない。
「逆も然りで咲く時も『ほころぶ』とか、『花開く』とか『咲き誇る』、『咲き乱れる』に『百花繚乱』、それから『花盛り』。それが全て人にも例えられるのが、花の好きな所なんすよ」
花言葉も好きだ。微かに覚えている中だとポインセチアとか、キュウリ草とかは気に入ってる。でも、花を観ていた人の、花の生き様とでも評するべきその言葉に、俺はずっと惹かれていた。
「だからその……こんな風に花束を用意してもらえて、毎年飾ってくれる人がいるってのは、滝先生の奥さんはきっと、牡丹みたいに崩れたのかもしれないんすけど……滝先生のお陰で綺麗な花畑で咲き乱れてるというか、ずっと咲き誇ってるというか……」
今日は何故だか、余計な言葉が多い。単なる語らいだった物がさっきまでの話題に引っ張られて、余計に口を滑らせてしまった。落ち込んでいると勝手に決めつけ勝手に励まそうとして、あれこれ語り過ぎた自覚が芽生えて口を閉じた。恐る恐る先生の様子を窺ってみる。
バックミラー越しに映る眼鏡のレンズが反射光で光って見えて、表情がよく分からない。黙っても尚耳を傾けてくれる先生に申し訳なくなっていると、俺が語り終えたのを確認したのか、滝先生側からもポツリポツリと語り出した。
「子供というのは、凄いですね」
「へ?」
「まだ仮入部期間だった頃、私が貴方を勧誘した事を覚えてますか?」
「ああはい、なんとなーくですけど」
京都にも馴染めてなかった頃、昼休みに滝先生のリクエストに応えた日だ。顧問であると打ち明けられつつ、その顧問直々に誘われた記憶を覚えている。色々悩んだ挙げ句、バイトを探す算段を固めた頃の話。
「ピアノの腕前を認めたのもそうですが、矢田君の家庭の事情は既知でしたので。あの頃は吹奏楽部への入部が貴方の高校生活の一助になるのではと、本気で提案していました」
「そう、だったんですか」
「ですがそれは、日を重ねる毎に杞憂に変わり、今もこうして矢田君自身の無事を証明してくれている。貴方が平穏無事に暮らせている事実で、教師としても人としても胸のつかえが取れた思いなのですよ」
これまでは担任としての側面でしか、滝先生の人となりを知る術が無かった。その一面も、周囲への関心が薄いとか、人ならざる者という側面を勝手に形成していた──でも、今は違う。先生は何処までも普通の人だ。亡くなった奥さんを思い遣るそれも、勧誘として遠回しに気遣われていたそれも、普通の人だからこそ成し得る事だ。少なくとも今は、そう思える。
「先生、俺は京都に来てからずっと、同じ夢を見るんです」
「それは、どのような?」
「忘れ物に気付く夢です。夢を見るとすれば、決まって同じ場面にいます」
施設から引き取られて京都へと向かう当日。今の両親が俺を車で迎えに来て、後部座席のドアを開けて俺が乗るのを待っている夢を今でも見る。
幾度となく重なった協議の末、里子として引き取られるのを了承した俺は、車に乗り込もうとする直前『忘れ物』に気付いて、施設の方を振り返る。でも、戻る事が出来ない。この車に乗りそびれたら『忘れ物』以外の全てを失くす……そう考えて車に乗り込む。
ただそれだけの夢でも毎回飛び起きて、重たい夢が染み込んだ布団を片付ける。寝ている間にもう一つの人生を生きている様な疲れが残って、霧散する。なのにまた、横たわると続きが始まる。寝ても覚めても、生きている。
「忘れ物、ですか」
「夢の中でも決まって俺は、それを諦めるんです。諦めた結果を知っているからじゃなくて、毎回新鮮な気持ちで諦めます」
「諦めた矢田君は、何を考えるのでしょうか?」
本当のところ、諦める理由ははっきりしている。忘れ物を取りに戻ろうが、車に乗り込もうが、辿り着く先はそう変わらないと今でも思ってるからだ。
「どうでしょう。ただ、普通なら天秤にかけるのを躊躇ってしまうような……そんな気がします」
──だからこそ、訪れた両親の車に乗った。物心が付く前に消えていたかもしれない命だとしても、拾われた命だとしても、命が惜しいと思ってる内は開かない扉があるとしたら。何一つ迷わず俺は……開けたいんだ。
「普通の生き方が、きっと出来ない体なんで」
「……私には貴方の生き方は、普通の生き方に見えますよ」
「だとしたら、嬉しいっす。何時か再会しても恥じない生き方を貫いていたい、そういう奴がいるんで」
その言葉を聞いた滝先生は、普段の柔らかい笑顔を見せてきた。俺のよく知っている、人当たりのいい笑顔だ。この笑顔になら、頼める。
「先生、一つお願いをしてもいいですか。男同士の語らいでさらっと交わされる、約束みたいな物っす」
「私に可能な事であれば」
「俺、後悔をしてみたいんです。施設の事情もあって、与えられた物に全部納得して生きてきました」
羨ましがった事ならある。環境の異質さを自覚し恨んだ事もある。でも、それだけだった。
「何処かで選択肢を間違えて、尚且つそれを悔やめないといけない気がするんです。生き様に深みを出したいというか上手く説明出来ないんすけど、高校生になった今ならと思って──滝先生、俺に吹奏楽部へ入らなかった事、後悔させてください。先生だからこそ頼める約束です」
「そういう事でしたら、貴方の在学中に叶えてみせましょう──北宇治高校吹奏楽部の顧問として」
さらっと放たれた先生の宣言は何処までも頼もしく、それでいて本当に先生なら叶えてくれる。そういう自信に満ち溢れた約束が、小さな車内で交わされた。
車体に不規則に打ち付ける豪雨なんてものともしない、確固たる意志がバックミラーを通さずとも伝わってきた。車窓から見える曇天に反して、心は晴れていた。
「井上さん、なんでノート係の仕事やってんだ?」
「忘れたの委員長?今日は休みだって言ってたじゃん」
「あーそうだったな……んじゃ代わりに持ってくからさ、練習行ってこいよ。全国まで一ヶ月だし、出来るだけ追い込みたいだろ」
「いいの?ありがとっ!それじゃあ後はよろしく!」
突然の休校が知らされた翌日。台風は既に近畿一帯から過ぎ去って、普通に授業が再開された。まだ文化祭の余韻として門にアーチや教室に看板が立てられたままだったりするが、これで普段の日常に戻ってきた。
「いちにーさん……っし、揃ってるな。よいしょっと」
帰宅部にはなんでもない日常ながら、部活に入ってる連中にとって曜日に差異はない。始業前にも放課後にも、それぞれの活動が待っている。特に北宇治の吹奏楽部にとっては十年ぶりの全国大会という、大舞台へ駒を進められたのもあり一際多忙を極めていた。
「ふんふんふーん……あ、おーい」
シンバルを担当する副委員長の仕事を肩代わりして宿題を持ち運ぶ道中。職員室前の廊下に差しかかる曲がり角で、台風の最中バイト先に訪れた同級生の後ろ姿が見えた。こうして見ると後ろ姿も分かりやすい。
「わっ!……なんだ矢田君か」
「よっ、昨日ぶり。そっちも宿題集めてきたんだな」
「う、うん。今日は私が係だし」
昨日バイト先に偶然訪れた、黄前さんがノートの山を運んでいた。決まり事なら違うと言いたいけど、なんだか昨日勝手に外出した罰を揃って受けている気分になる。
「昨日の事だけどさ」
「き、昨日?」
「傘、壊れて災難だったな。お気に入りとか言ってたし」
「あ、あーうん、今思えば飛び出した私が悪いんだししょうがないよー。ちょっと怒られたけど」
「昨日の今日で言えた義理じゃねえけどさ、台風の日って普通は危ねえしあんまり外に出るなよ。そっちは全国行き決まったんだろ」
「あはは……気をつけるね」
どうやら体調を気遣う必要はないらしい。飛び出したという単語が気になるけど、練習に支障はなさそうだ。
「よっ、重……」
「少し持つか?」
「平気平気……失礼しま──」
歩く振動で揺れたノートの山を、器用に持ち直してから職員室に入ろうとする黄前さん。その後ろに続いて、開けっ放しだった入り口をくぐろうとした。
「どう責任をとってくれるんですか!?」
職員室の手前で、苛立ちを隠そうともしない叫びが嫌でも耳に届いた──瞬間、全身の毛が逆立つような、色褪せておくべきだった記憶が蘇ってしまったような、とにかく身体に染み込んだ性格に、学校で取るべきじゃない筈の臨戦態勢を取らされた。
咄嗟に黄前さんより前に出て、慟哭の原因を確かめようと廊下側から職員室内を覗いてみた。滝先生の机の辺りに、昨日コーヒーを奢ってくれた滝先生と、滅多に見掛ける事のない教頭先生が誰かの前に並んで立っている。その誰かというのは……。
「すみません……」
「なんで貴女が謝るの?謝ってもらうのはこっちでしょ!?」
「大きな声出さないで、お母さん」
飄々ともせず素っ気なくもないよそ行きな田中先輩と、お母さんと呼ばれているスーツ姿の女性の人が立ちはだかっていた。声を聴く限り、叫び声の正体はあの人で間違いない。まばらに居合わせた教師の誰もがその声に驚き、振り返っている。
「先生なら、子供にとって今何が大切か分かりますよね!?」
「ええ……」
「部活で推薦入学するならまだしも、うちの子は一般受験なんですよ!!」
「お……お母様の仰る通りです」
「だったら!すぐ退部届を受理してください!」
「あすか先輩が、退部……?」
母親らしき人のとんでもない発言に、背後の女子は驚きを隠せていなかった。
怒りをぶち撒ける理由の大元は分からないけど、田中先輩は最上級生だ。そして恐らく、子供の進路に納得のいかない先輩の母親が職員室に乗り込んできた。ただ、先輩の成績は部活のせいで悪くなるどころか、進学クラスでも上から数えた方が早いとは聞いているけど……。
教頭先生が穏便に宥めようと試みているものの、火に油を注ぐかの如く逆効果。ヒートアップする先輩の母親の怒りは治まらない。
「いえ、しかし……今年の吹奏楽部は非常に頑張っておりましてですね、全国大会にも……」
「私は何があっても、その退部届を受け取るつもりはありません」
穏健な教頭先生に反して、顧問である滝先生は頑なに届け出を拒否しているらしい。売り言葉に買い言葉で怒りが噴火したんだろうけど、互いに譲れないが故の平行線を今辿っている。
「どうしてです?サックスの三年生の退部届は認めたと聞きましたけど」
「斎藤さんは自分の意志で退部すると言ってきました、だから認めたのです。しかし今回は違います、その退部届は……お母さんの意思で書かれたのではないのですか?」
先輩の母親が手元に突き付けている紙切れは、先輩自ら記入した物ではないらしい。安心したのも束の間、捲し立てる言葉に込められる熱は一切失われない。
「それの何がいけないんですか?この子は私が一人で育てて来たんです!誰の手も借りず、一人で!だから娘の将来は私が決めます!部活動はこの子にとって枷でしかありません!」
「ええ、ええ、そのお気持ちは分かります、しかし……」
「私は本人の意思を尊重します。田中さんが望まない以上その届け出は受け取りません、何があってもです」
「滝先生……!もう少し言い方を考えて!」
「田中さんは副部長として立派に部を纏めてくれています、その部の悲願である全国大会に出場出来るんです。応援してあげることは出来ませんか?」
本当の事を言うなら、これは俺がどうこう出来る話じゃない。先輩の今後に関わる程悪化した事態に、部員ですらない高校生の関わる余地は本来存在しない。
それでも、俺みたいな人間でも、田中先輩が吹奏楽部に、銀のユーフォニアムに注ぎ込む想いを知っている。全国を見据えたあの目は、何処までも俺の心を突き刺して来た。部員どころか一度は辞めた後輩をも振り回してまで、大会出場に拘った。
「──しっつれいしまーす!!宿題のノート、集めてきましたーっ!!」
「ちょっ、矢田君……!」
今更になって、親の意向一つなんかで吹部から去ってしまうのは俺は許さない。自分の都合で部員のトラウマを増幅させたりしておいて、後輩達を振り回してきた責任を取るまで部活から手を引くなんてさせるもんか。副部長として、最後の一小節まで部員達を導くべきだ。
「矢田……?」
「貴方は……矢田明宏君、申し訳ないのですが今は……」
「すみません教頭先生!この後も少々立て込んでましてー!」
白々しく嘘をついた。シフトは一秒たりとも入れてないし、今日は完全に趣味の時間しかない。誰がどう見ても今の教頭先生達の方がずっと立て込んでる。俺は向こうの事情を知らないが、向こうも俺の事情なんて知らない。
「なんなんですかいきなり!この学校では話し合いもまともに出来ないんですか!?」
「……失礼、彼は私が担当する一年五組の委員長です。学級運営の絡む庶務仕事を任せておりまして」
やむを得ないですね、と滝先生が暗に告げている。後で小言が飛んでくるだろうが構わねえ。その程度で尻込みするようなら端から矢面に立とうとも思ってない。伊達に孤児院で兄貴分を中学卒業まで務めていない。持ってきたノートを、わざと音を立てて先生の机に置いた。
「でしたら、会話を邪魔しない位の教育は済ませといてください!高校生ならその程度の分別はつけさせるべきでしょう!?」
「仰る通りです、はい……」
「えーっとぉ、何方か存じ上げませんがすみません!」
「……こんな学校に入れた事すら間違いだったのかしら──あすか、今ここで退部すると言いなさい」
「え?」
会話を重ねても自分の意見が通らないと判断した先輩の母親は、学校側ではなく田中先輩の、先輩自身の意思を曲げようとした。本人の意思なら尊重されるというついさっき得た大義名分を利用して、先輩から言質を取ろうと娘に迫った。まるで、自白を迫る刑事みたいな声色で。
「言いなさい、今辞めるの」
「お母さん私、部活辞めたく……」
少なくとも俺と黄前さんが目撃した段階で激昂していたその人は、先輩の部活を続けたいという想いに触れた瞬間、抑えきれなくなった感情を右手のひらに乗せて、振りかぶった。
それは、俺の中では誰にも越えさせたくない一線だった。
咄嗟に、振りかぶった先輩の母親の手をガシッと掴んだ。掴めて良かった、と言った方がいいかもしれない。
「なんすか、この手は」
「離しなさい!」
「なんなんだって言ってるんすよ、こっちが!」
これ以上先輩の頬に向かわないように、それでいて母親の腕へ痣を作らない程度にしっかり掴む。体格だけならどうやっても俺の方が大きい。それなのに、掴んだ腕に込められた怒りはあまりにも強く、スーツ越しでも分かるその細腕は、施設での喧嘩よりも繊細に抑えつけないと、逆に傷付けかねない脆さがあった。
「なんで……なんで私の言うことが聞けないの!?あんな楽器を吹いてるのも!礼儀の無い後輩なんかをけしかけてきたのも!私への当てつけなんでしょ!?そんなに私の事苦しめたいの!?」
「お母様、ちょっと……」
「──矢田、離してあげて。大丈夫だから」
「っ……」
振り上げられた手を避ける素振りも見せなかった先輩から、ハァハァと息を切らした母親の手を離してと頼まれた。そんな先輩の表情は、母親とは対照的に感情が抜け落ちたかの様な、何もかもを諦めていそうな位には諦観を決め込んでいて──。
「あ、あすか……あすか、ごめんなさい私、またカッとしちゃって……」
「大丈夫」
「ごめんなさい……」
──田中先輩の日常に気付いた時にはもう、右手を離してしまっていた。さっきまで壮年女性の手を掴んでいた俺の左手は、受け止めた怒りの遣りどころに困り、目の前の空間ばかりを掴んでいる。
「先生すみません、今日は母と一緒に帰りますので部活……休ませてもらっていいですか?」
「分かりました」
「失礼します。お母さん、行こう」
別人かと思いたくなる程に身体を縮こまらせた母親の、叩くつもりだった手を何よりも優しく掴み、先輩は職員室から出ていこうとした。
「…………田中先輩!」
俺自身、何を思い至ったのか分からない。それでも一言言いたくて、すかさず先輩の名前を呼んだ。その声を聴いたのか、先輩は入り口の前で立ち止まる。無視して立ち去られる予感がしただけに、呼び止めたこっちが不意を突かれた。
「今日の田中先輩、すっげーつまんないっす。俺の知ってる田中先輩はもっと明るくて元気で、近寄ったら突き放す癖に……それでも周囲を巻き込む人です。でも今はどっちでもない。そんな先輩を吹部に持ってきたら俺、本気で──」
「…………行こう、お母さん」
最後まで言い切る前に、区切りをつけられて今度こそ出ていった。ここまで騒いでしまった以上、先輩の母親がやって来たという噂は瞬く間に広まると思う。そんな噂は良い方には転ばない。だったらせめて、田中先輩を含めた吹奏楽部の部員全員が全国で納得出来る形に収束して欲しい……そう願わずにはいられなかった。
今は二年生編に入った時のプロットを練ってるんですけど、あるキャラとの距離感で凄く悩んでます。
次回、矢田君がとある場所へ。前後編にする予定です。