一応、前後編です。区切り方次第では中編が挟まる場合もありますが、長さは変わらないと思います。
「だーかーらー大丈夫だって、そんなに心配しなくても」
「ほんとに?」
部活から去って、ユーフォを置く。否が応でもお母さんに示された選択肢を前にして、半ば諦めの境地に私は居た。
団結して府大会を越えて、奇跡が起きたと思いたくなる関西大会での、ゴールド金賞。ここで負けたくない、関西まで進めて良かったで終わりたくなかった私の心は、どこか折れそうになっていた。希望に魅せられた後、二番芽が吹くように大学受験という現実をお母さんに突きつけられて、諦めが吹いた。
「ホ・ン・ト・に!もう、みんないちいち煩い。そんな大した事件じゃないって」
昨日、お母さんが学校に乗り込んで来た事実はあっという間に広まっていて、同級生や後輩に関わらず、下駄箱や教室、廊下で度々質問攻めに遭った。今も香織や晴香から呼び出されて、事の顛末を探られてる。
「ウソ」
「え?」
「今日もあすかのお母さんから学校に電話があったって、教頭先生と滝先生が話してた」
「……そっか」
「実際どうなの?」
「もし、相談に乗れる事があったら協力……」
晴香は半信半疑だけど、別に嘘でもなんでもない。香織に相談したって、きっとあの人の意思は変わらない。大学受験をしなくても部活から身を引くのは誰であろうと同じなのに、みんなは私の事を特別扱い。あの時の葵の決断が、今だけは正しい物だと思ってしまいたくなる執拗さ。私にとって、お母さんが先生に娘の退部を迫った。たったそれだけなのに。
「大丈夫、みんなに迷惑はかけないから。それで十分でしょ?」
それだけだからこそ、みんなに頼るつもりも相談する気だってこれっぽっちもない。部員が揃って挑むコンクールじゃなくて、これは……私個人が抱えてきた問題だから。
「大事なのは演奏がどうなるか、それだけなんだから」
「それだけって……」
「それだけだよ、部活なんだから──だからこれ以上ゴチャゴチャ言わないで。プリーズ、ビー、クワイエット」
「あすか」
部活なんだから演奏に集中して。そう繋げようとした私の台詞は、台本通りに続いてくれなかった。集中出来てないのは晴香や香織だけじゃない、何より私自身に当て嵌まる言葉だったから。
そんな風に一瞬狼狽した私の心を、ある言葉が塗り固める。生意気な後輩から去り際に浴びせられた、部員ですらない後輩の一言。
──そんな先輩を部活に持ってきたら俺、本気で──
「ふふふ」
最後に何を言おうとしたのか分かってしまって、おかしくて二人をからかうように笑ってしまった。関西大会前、似たような言葉を投げかけられたからなのかも。
部活で面倒を見ている訳じゃない、晴香や香織どころか吹部の後輩達よりも付き合いは短い。背を向けたまま浴びた言葉なんて、普段の私なら歯牙にもかけない筈なのに。
「大丈夫。持ってきたりしないから」
「あすか……?」
今どう思ってるかなんて、本人じゃないから分からない。本気で嫌われたくないなんて思ってない。でも、私にとって昨日の職員室での出来事は、避ける気のなかった平手を止めてくれたあの瞬間が、初めてユーフォを吹けた時みたいに色鮮やかに写っていた。
「委員長、平気?」
「……何が」
「私達が言える事じゃないけど、ここ最近ずっと元気ないよね」
田中先輩の母親が襲来してから、一週間と数日が過ぎた頃。文化祭という大型イベントをその数日前に無事終えた北宇治は、祭での賑わいを思い出に変えて元の落ち着きを取り戻した……かの様に見えた。
あれから一週間。全国大会を控えてるにも関わらず、吹奏楽部の副部長が部活に現れなくなっていたらしい。一度は何事もなかったみたいに練習に参加してたとはパーカス一年組から聞いたけど、それ以降の音沙汰はさっぱり。外で聴こえる音の圧力は日に日に弱くしぼんでいった。
部員でもないし気に掛ける義理もないとはいえ、あの後からずっと母親と揉めていて登校すら出来ない状況なのか?だなんて思ってしまい、何かのついでに先輩のクラスへ様子を見に行こうかとも考えたり。突っ伏した机に当たる頬が、微かに冷たい。
「……別に。今の吹部と比べりゃ普通だろ」
「それはまあ、そうかもしんないけど」
「ここ最近練習に来てないもんね、あすか副部長」
田中先輩という存在が、北宇治高校吹奏楽部の士気高揚も担っている。低音パートだけの存在感と思いきや、その人望と影響力は部活全体に及んでいた。これは、これまで俺が知る由もなかった本当の話。
「……さっきも言ってたけどよ、退部届の話は先生が否定したんだろ?だったらまだ来る可能性はあるんじゃねえのか」
「それは……私にも分からないよ」
「そこなんだけど晴香部長がね、私達に話してくれたの」
「……何を」
「何っていうか、発破かな?」
「そう!私達みんな、それを聞いてついて行くって決めてるもんね!」
俺の知る小笠原先輩は、押しの弱さとか気の弱い所が言葉から滲み出ていた人。あがた祭でカメラを任せた時だって、不安を前面に出しながらの承諾だった。
それでも、部長なんだろう。気落ちしている同級生達の士気をこうして取り戻せる程の人望を、副部長とは違う方向性の物を持っている。演奏の技量は知らないけど、言葉で支えられる類いの人だ。井上さん達の言葉を信じるなら、吹部は船頭を失う船にはならない。聞こえる言葉に活力がある。
「……ふーん。何を言われたか分かんねえけど、オーディション前みたいな泣き言は言わないでくれよ」
「勿論!それより今は……ね、万紗子?」
「そうだね、今は矢田委員長の話かな」
クラスメイト達は自分達の部活を置いといて、俺の心配をしている。それも割と本気で。十年ぶりの全国に向けて、一介の学級委員なんか気にする暇なんてないだろうに。
「……お前らに心配されるような事した覚えはねえぞ」
「やってる事はそうなんだけどさ、ここ最近の雰囲気暗いもん。授業で当てられても声のトーン低いし。何かあった?」
「……何もねえよ」
「本当に何かあったら、相談してね?」
「俺なんかの事より、全国までどう過ごすか考えてろよ」
「……万紗子、ちょっと重症かも」
「うん、ここまでぶっきらぼうな矢田委員長は初めてだね」
あまりにも心配されすぎて、少しばかり引け目を感じてしまった。その引け目から、机に突っ伏した顔を上げて視線を身体の前に送る。表に出したつもりのなかった覇気の無さに、心当たりしかないからだ。
先週辺りから、黒江と連絡が取れなくなった。こっちから電話を掛けても繋がらず、文面ですら反応がひとつも無い。先に寝たのなら起きてから返事をくれる。その事実は田中先輩が部活に姿を見せなくなったという吹部にとっての一大事より、遥かに重くのしかかった。
黒江から嫌われたかもしれない、或いはもっと遠くへ行ったかもしれない、そんな形容し難い不安ばかりが俺を支配している。本当にいなくなったのだとしたら、今でも膝から崩れ落ちてしまう。
多忙なだけならそれでいい、何時までも味方でいると決めたから。それでも、顔や振る舞いにまで表れてるとなると……二人の言う通り重症なんだろうな。
「そうだ!ねえ委員長、今週の土曜空いてる?」
何かを閃いたであろう井上さんが、俺の予定を訊ねてきた。それに釣られた堺さんも顔が明るくなっている。
「土曜?……別に、バイトも何も入れてねえけど」
「駅ビルの吹き抜けって言って分かる?今度あそこでコンサートがあるんだけどね、そこに私達吹部も出るんだよ!委員長さえ良かったら聴きに来て欲しいな!」
「私からもお願いしたいかも。これまで私達とか吹部の事、ずっと心配してくれてたし」
「……それで何になるってんだよ」
「何になるって言われたら困るけど、今の委員長には必要なものがあるからね──それはエール!これまで誰かの力になってきた委員長に、今度は私達が元気を与える番!」
「矢田委員長だって応援されても良いと思うんだ。音楽って聴く側が元気を貰えるのは、きっと知ってると思うから」
随分と非科学的な話だ。音楽を聴いて元気になるのなら、家で聴いてりゃ勝手に元気になれる。もっと言えば肉でも食べるとか、風呂にゆっくり浸かればずっと元気になれる。
「……出番は、何時だ?何を演奏すんだよ」
「私達は午後一時半!曲は『宝島』!」
「チームもなか……あっ、B編成のみんなも一緒に演奏するの!」
「私達パーカッションの秘密兵器、つばめの晴れ舞台でもあるんだし委員長には見守って貰わないと。ねー万紗子!」
「ねー順菜!つばめのここぞって時の集中力、凄いもんね!」
「……カメラ、持ってくわ」
非科学的な体験なら、文化祭の時に味わった。音には色がある。奥行きもある。だからこそ壁を越えて、遥か遠くまで届く音があってもいい──楽しそうに語っている二人の話を今、信じたくなった。
「……でっけえな」
土曜日。井上さん達に呼ばれて訪れた京都駅は、俺の常識で測ればとても駅とは思えない広さをしていた。
キーボードの下見を兼ねて初めて訪れた時、改札を出る前も出た後もその敷地の広大さに気圧されて、数十秒は立ち尽くしてしまっていた。駅ビルという存在を知らなかった俺にとって、駅舎にこんな広さ要るか?京都って何か条例あるんじゃなかったか?と数ヶ月前は疑問符ばかりを浮かべていた。
駅ビルの中を歩いてみると、色んな人とすれ違う。生活拠点として緩い恰好をした人、京都へ遊びに来たであろう集団、スーツを着てせかせかと電車を乗り継ぐサラリーマン。訪ねる場所は同じでも、その目的は千差万別。すれ違っても交わる事のない、いわば雑踏。
早めに京都駅へ着いたせいで、北宇治の出番である午後一時半までまだ余裕があった。正午を過ぎてもいない。元々駅ビルそのものを散策してみたかったし、これくらいの緩さがあっていい。今はその緩さが救いだった。
吹き抜けの会場から、向かって反対の東側。百貨店の入ってる西側や改札周辺とは趣が違って、比較的静かな階段を上っていった。一番上まで来たと思いきや、そこから西に繋がる歩道みたいな物もあるらしい。これより上は、またの機会にしよう。
「……これって」
その七階にあった広場らしき場所。見渡そうとしないと見えなかったその階層の隅に、思いもよらない物が置かれていた──グランドピアノだ。打ちっぱなしなコンクリートの柱に、天井まであるガラス張りの窓。そこから京都のシンボルを一望出来る場所で、赤い絨毯を敷かれた上にそれが鎮座している。
俺自身の習性によるものなのか、足が勝手にピアノの方へと動いていった。
これは俗にいう、ストリートピアノだ。誰もが自由に弾いても構わないという、持ち主の優しさによって成り立つ空間。そのピアノの前に、今は誰も座っていない。昼食時だからなのか、そもそも広場には片手で足りる程度の人しかいない。ピアノの横に備え付けられていた看板を、ゆっくり読む余裕さえあった。
「……一曲、弾いてみるか」
元々ピアノを弾くつもりで京都駅まで来た訳じゃない。ただウチの吹部がコンサートに出演するから、それを観に来ただけだ。誘われるまで存在を知らなかったし、来る予定もなかった。
強いて言えば後ろ向きな思考の中で、気付けばピアノ椅子に座っていた。ずっと室内で演奏する物だと思っていたそれに対して、負の感情に落ちている俺ですら触れてみたい欲が生まれていた。厳密には屋内なんだろうけど、外で弾くピアノは、ストリートピアノはどんな音色になるんだろうか。
おそらく、人生で一番短く座る事になる。
「……ワンツースリー」
ゆっくりと、和音のアルペジオから入った。
初めての場所で雰囲気に合うとか、観客もほぼ見当たらないのに何を弾くのかまるで考えていなかった指は、何故か『宝島』を弾いていた。
この曲は、同じ作曲者の『オーメンズ・オブ・ラブ』みたいに、吹奏楽やオーケストラに携わるなら誰もが知ってる気がする一曲だ。全体的にサンバ調の、シェイカーやドラム、ホイッスルに至るまでパーカッションが山盛りのアップテンポな一曲。間違ってなければ、途中で挟まるアルトサックスのソロパートが一番の見せ場だろう。
ただ、それは吹奏楽向けにアレンジされた方で、オリジナル版はロックやジャズ、ラテン系の音楽が混ざった所謂フュージョン系。曲調もどこか大人な雰囲気でキーも違い、へ長調からサビで二長調に転調する。まるで南の島の海みたいな、コテージから眺める青い海が似合う曲。
でも今俺が弾いている『宝島』は、原曲の大人なキーでもサンバな吹奏楽版でもない。変ロ長調の『宝島』だ。背伸びがしたい訳じゃなく、カーニバルの気分に浸りたいつもりもない。ただ、この曲が持つ色に心地良さを求めたくなって、自然と曲調を変えていた。
自惚れてはいないけど、この調べはもっとアップテンポに弾ける。なんなら観衆も見当たらなかったし、失敗する程速く弾いてもいい。それでも駆け足にならなかったのは……気持ちだろうか。
手持ちのカードをじっくり吟味して、重ねて、色を放つ。でも隙や間は誰にも与えない遅さで腕や指を動かす。俺の『宝島』がサビでト長調に入っても尚、今この世界には自分だけ。理由をいくつも思い浮かべながら、白と黒の鍵盤を叩く。その場で初見の楽譜を確かめる速度なのに、独自のアレンジが何故か心地良い。
……これが、今の矢田明宏という男なんだ。誰に向けた色でもない、見知らぬ島で一人佇む男の独り言。これから総勢六十人超えの『宝島』が待っているんだ、欲望を満たすのもそこそこにして、応援を受け止めに行く。
「……ふう」
鍵盤から指を離し、皮のベルトで出来た腕時計を見た。長針の動きから察するに五分以上は弾いていたらしい。じっくり、そしてゆっくり二番まで弾いた証拠を時計が示してくれていた。
まだ北宇治の出番まで余裕がある、バイト代も幾らか持ってきた、駅の周辺で安いお店でも探して腹ごしらえでもしよう。演奏で動かした手をほぐしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「──何処で聴いても、素敵な音色だね」
閑散としていた空間で立ち上がった俺へと背後から声を掛けられて、急に、身体の重さがなくなった。
全身が一瞬にして熱さで包まれて火照る。
たった一言で、そのたった一言を、これ程まで渇望しているとは思っていなかった。
ずっと考えていた。今の声の主のその後を。
過去の通話履歴を見る度に、彼女が胸に抱く想いを。
どうして分かったかなんて、俺に分かる筈もない。だけど、絶対にそうだという確信があった。
この声は、数歩後ろからの声は、特別な人だ。首から腰、それから足で、ゆっくりと振り返る。
視界の隅で捉えた輪郭、纏う衣服、白百合みたいな白い肌、黒くて艶のある髪、優しい雰囲気が醸し出す柔らかい顔。
自分の体が、変容していく気がした。記憶の温もりが全身を覆っていく。
そして漸く、声の主と向き直る。半年ぶりに、高校に進学してからは初めて実際に見たその人は、通話越しに見た時よりもずっと、ずっと眩しくて──。
「……えっと、その……久しぶり、だな」
「うん、久しぶり──こうしてまた、会えるなんて」
声の主が──黒江が、にっこりと目を細めて笑ってくれた。枯れる寸前のしおれた花がまた、咲き乱れた。なんで京都に、何時からそこになんて事、どうでもいい。今の俺にとって、黒江がそこにいるだけでいい。ただ、そう思った。
やっと二人が再会しました。今回の話ですが、実は短編時点では構想すらありませんでした。
矢田君の弾いた宝島は、作曲者のライブで一度演奏されていた音階のイメージで書いています。ご本人のチャンネルにて投稿されていると思いますので気になる方は是非。