後編の展開を色々考えて書いていたら、一話にしても膨大な文字数になったので相当削りました。削っても長いかもしれませんが……。
ピアノが置かれている広場にあった、海の家に置いてありそうなガーデンチェアとテーブルのセット。そこに立ち話をさせたくないからと黒江を連れて、向かい合わせに座った。そこまでは、まだ良かった。
「……京都って、暑いね」
「……だろ」
問題は、普段の会話が引き出せていない事。初対面の頃ですらまだ陽気な挨拶を交わせた覚えがあるだけに、口下手な俺が酷くもどかしかった。
突然の再会に緊張しているのか、ただただ嬉しいだけなのか、会話のきっかけを掴めないまま無言の時間が過ぎていく。聴こえるのは、階下から届く往来の声ばかり。それですら、波の音よりも小さく静かな広場だった。
「……な、なあ、黒江」
「うっ、うん。どうしたの?」
「あー、その、なんだ、えっと……『主電源消すと部屋暗いねん』って言うとさ……ドイツ語みたいに聴こえねえか?」
「どう、かな。ドイツ語は分からないから……」
どうにかして和ませようと悩んだ挙げ句、男友達の間で流行ってる冗談を黒江に話してしまう始末。これが塚本や瀧川辺りなら大ウケしてたが、相手と間が悪すぎる。友達向けの冗談を口走った自分の頬を軽く叩いた。もっと、もっとこう半年ぶりの対面なんだから話せる内容は山程あるだろ俺!
気恥ずかしさと気不味さを隠すつもりで、改めて同じ空間にいる黒江と向き直る。数回やっただけのビデオ通話を除けば、こうして実際に顔を合わせるのは中学以来だ。
改まって本人と向き合ってみると、ちょっとした発見があった。髪型は俺の知る黒江だったけど、気になったのはその服装。観光目的な私服だと思っていたその格好には、見覚えしかなかった。
「なあ、そういえばその格好……」
「っ、そう!今日は清良女子吹奏楽部のユニフォームを着てるんだ!この後出番があるから、それに備えてるの」
少し嬉しそうになりながら、黒江は襟元のネクタイを軽く締め直した。
それは、春先の試験前にお披露目してくれた清良女子の吹奏楽部員が、本番で着るらしいユニフォーム。白を基調としたそのユニフォームを、謎めいた万能感に芽生えながら脳裏とレンズに焼き付けた記憶がある。服装だなんて真っ先に気を配るべきだったにも関わらず、矢田明宏とかいう馬鹿は緊張して見逃していた事になる。何度見ても、見惚れてしまうのに。
「やっぱ似合ってんなあ……って、出番?合宿とかじゃねえのか?」
「一応遠征、になるのかな。イベントの主催をしてる京都の団体から打診があって、それをコーチが引き受けたんだ。全国前に長距離の移動と演奏を経験するにはいい機会だから、って清良女子の吹奏楽部みんなで出演するんだよ」
「そのイベントって、京都の何処でやるんだよ」
叶うなら観に行ってやりたいが、井上さん達の誘いが先だ。幾ら黒江の出番が京都であるとはいえ、ここを後には出来ない。内心で舌打ちをかました。
「ここだよ」
「──は?」
「えっと、初めて来たから間違ってたらごめんね?ここがその、京都駅ビルで合ってるのかな。その駅ビルにある、室町小路広場っていう吹き抜けの所であるらしいんだけど……ここからは向かいの広場、だよね?」
座ってなかったら、腰を抜かしてたかもしれない。吹き抜けの広場でやるイベントなんて、一つしかない。どういう因果か、北宇治高校の吹奏楽部と清良女子の吹奏楽部が、同じ場所のイベントに出る。それも、今日。誘いを無碍にしなくてもよくなったからなのか、心が騒がしくなりつつあった。
「い、何時から決まってたんだ?」
「九州大会が決まった時には、予定表にあったかな」
九州大会の前。こっちで言うならば府大会の直後。まだ八月が終わる気のない暑さ真っ盛りで、今もその熱が尾を引いてる。あの頃は連絡も出来た頃だったし、知っててもおかしくない。黒江が教えてくれないのも少し引っ掛かった。
「本当はね?京都に来る事も含めて、矢田君にちゃんと教えたかったんだけど……その時の矢田君、電話越しでも大変そうだったから」
ただ、今の言葉を聞いて、知る機会を逃したのは俺自身だろうと理解した。きっと、鎧塚先輩を保健室に運ぶ一件があった、あの日だ。
クーラーボックスの中身も片付けてから電話を折り返したが、結局お互いの高校の地区大会突破を祝うだけで終わった。その後も当たり障りのない会話を、眠気が来るまで続けた記憶がある。そこには駅ビルのコンサートの話なんて、一ミリたりとも出ていない。もっとちゃんと、聞いてやるべきだった。
「それはその、すまん!」
「ううん、いいの。今こうしてお話出来てるだけで嬉しいから」
「それは俺も嬉しいけどさ、もっとちゃんと聞き直すべきだった!」
「き、気にしないで?私の方こそ、チャンスは何度もあったのに伝えられなくて。なんだかその……サプライズみたいになっちゃったから」
「いやいやそんな事ねえよ、黒江からのサプライズならすっげー嬉しい!逆に教えてくれなくてありがとな!」
「……ふふっ、変なの。それなら、どういたしまして?」
少し、肩の力が抜けた気がする。それと同時に安堵した。北宇治か清良女子、どちらかの演奏を観ないなんて真似、少なくとも今の俺には出来ないから。
「でも、今日のコンサートに矢田君の学校も出演するって書いてあったよ?最初矢田君を見掛けた時はその、そっちを観るって思ったんだけど……」
「あーそのつもりだったぜ、同じクラスの吹奏楽部員に演奏するから来てよって言われてな。出番が昼からだったし、早く着きすぎて暇で暇で散策してたら、ピアノがあったもんでな」
「相変わらず、好きなんだね。ピアノ」
「まあ、三度の飯よりってやつだな」
座った直後は黒江も表情が固かったけど、徐々に柔らかくなっているのが分かる。それが堪らなく嬉しかった。
「話、変えるけどさ。吹部全員で京都に居るんだろ?こんな所を一人でうろついていいのか?」
「それなら平気だよ。集合までは自由時間で、京都駅周辺なら軽く見て回っていいって。他のみんなも思い思いに観光してるよ」
「それなら黒江も、一緒に行けば良かったじゃねえか」
「私も本当は友達とお土産の話で盛り上がってたんだけどね。行きの新幹線で駅ビルの事を調べたら、誰でも弾ける駅ピアノがあるって見て。そしたらもしかして……って」
「何がもしかして?」
「矢田君が弾いてるかもって思ったら、なんだか聴きたくなっちゃって」
顔の火照りはきっと、気温のせいだ。屋根もある日陰でも、暑い日は暑いもんだから。
「……集合時間、遅れねえようにな」
「うん。もうすぐ集合場所に行っておきたいし、そろそろ行こうかな」
ジャケットを整えながら黒江が立ち上がる。出来るなら、お菓子もお茶もねえけどテーブルを囲んで話をしたい。声を聞きたい。とりとめのない話をしたい。でも、今日の黒江にはやるべき事がある。止める選択肢を選ぶつもりはない。
「──ねえ、矢田君」
「どうした?」
「今度は、私の番。矢田君がこれまで電話越しに、それから今日もピアノを聴かせてくれた分、私達の演奏も聴いて欲しいんだ」
「曲目と出番の時間、聞いてもいいか?」
「『マードックからの最後の手紙』、出番は午後二時から。聴き逃がさないでね?」
「任せろ。特等席で陣取ってやる」
昨日まで悩みに悩んでいた俺が、嘘みたいに元気になっているのが分かる。我ながら単純というか、簡単な奴だ。たった一週間と数日話せなかった相手と会えただけで、ここまで調子が良くなるなんて。
でもそれでいい。だからこそ嬉しい。先輩の言葉を借りるなら、会いたいと思った時に会う、そして会えた。それこそがかけがえのない友達っていう、何よりの証明になるらしいから。
「以上、北宇治高校吹奏楽部の皆さんによる演奏でした!暖かな拍手でお送り下さーい!」
一言で表すなら、北宇治の『宝島』は圧巻だった。吹き抜けを見下ろす大階段をも埋め尽くす観客達から、文化祭の時とは比べ物にならない拍手を送られている。
顔馴染みのパーカッション隊からもう既に、こっちの心を掴んできた。先陣を切った堺さんのアゴゴベルに、釜屋さんのシェイカーが混ざる。田邊先輩のドラムロールと井上さんの繊細なシンバルが、本場のサンバを知ってるかの様なそのリズムが聴く側とも一体感を高めて、吹き抜け毎この場の雰囲気を造り上げる。
正直言って、驚いた。本番の釜屋さんが、ここまで堂に入った演奏を披露してくれるなんて思ってもみなかったからだ。人見知りで遠慮しがちな性格で、一旦ネガティブな方向に陥るとより引き摺って落ち込むあの子が、晴れ舞台で堂々と全体の拍を取っている。金管楽器が一斉にアンサンブルになっても尚、リズムに乱れがない。
釜屋さんだって、B編成でこそあっても全国出場校の一員なんだ。マイペースに、それでも半年間食らいついてきた成果が、確かにこの耳に届いていた。
それと同じ位驚いたのは、二回あるアルトサックスのソロパートの内の二回目。本来アルトが担当するそのパートを……バリトンサックスのリーダー、小笠原先輩が請け負っていた所だ。
アルトとバリトンでは、そもそも吹ける音域が違う。オクターブ単位で離れてる筈の音を、力技で狙って吹いていた。まるで、最初からバリトンのパートだと思わせるみたいに。チューニングを極力アルトに寄せていたとしても、吸い込んだ空気を全部楽器に吹き込むその表情が、過酷さを物語っていた。
やがてソロを吹き終えた先輩の顔に浮かぶ達成感とやり切った姿に、惜しみない拍手が送られる。北宇治を全国まで引っ張り続ける部長の勇姿が、確かにそこにあった。
小笠原先輩がソロを吹き終えて持ち場に戻る、その視線の先。観客としてでなく、出演者としてユーフォを抱えた田中先輩がいる。練習にすら来ていないと知らされていただけに、一瞬その身を案じたものの……視線を感じ取った部長に少しおどけてみせた。少なくともこのコンサートの時だけは、田中先輩への心配そのものが失礼になる。そんな様子さえ窺えた。
なんにしても北宇治の『宝島』は、間違いなく俺へのエールになった。副委員長達の誘いに乗って良かった。一礼をして顔を上げたみんなの表情を、思わずフレームに収めたくなってシャッターを切った。きっと、吹部のみんなが気に入ってくれるに違いない。
もしも今日、黒江と再会出来なかったとしても、清良女子がコンサートに呼ばれてなかったとしても、元気を貰えるアンサンブルなのは疑いようのない『宝島』だった。この音が、この音を全国で響かせる北宇治に対して、誇らしさを感じずにはいられない。そんな今日のコンサートは、まだ序曲。
「続いてのプログラムは──福岡県よりお越し下さった、清良女子高等学校吹奏楽部の皆さんです!どうぞ!」
北宇治の撤収作業も済んでからおよそ数分後。司会の人が清良女子の名前を口にした瞬間、俺は無意識に背筋を伸ばしていた。全国区で名を馳せる学校が、県境を隔ててまで京都で演奏するという事実に名前を知ってるであろう観客は驚きを隠せていない。音楽に詳しくない観客も、その知名度を知ろうとしている。
なんで出演してくれるのか、どうして呼べたのか、知れば知るほど全国金賞常連という肩書きは大きい──その中でコンクールメンバーに選ばれた、黒江の才能にも驚きながら。
司会の人から呼ばれて、清良女子の人達が続々と会場に現れる。待機場所から整列して歩いてくる姿だけで、既に全国常連の威厳を見せつけられた気分になる。マーチングすらも全国区だからこその光景なのかもしれない。
やがて配置に着き、楽器を携えたまま観衆に一礼。自然と座席から飛んでいく拍手達。入場の流れすらも練習したと言われても不思議ではない気品に、観客として圧倒されるばかりだった。
顔を上げた、その一瞬。一瞬だけ、黒江と視線が重なった。一般的な笑顔から、より目を細めて柔らかい笑顔を綻ばせてくれた。下がる目尻が、その奏者の穏やかさを語っている。本人にその気が無くても、優しさが生き方に表れている。
一頻り拍手を受け止めてから、顧問であろう人の指揮で一斉に楽器を構える。清良女子にとって、これは余興でもあり本気で臨む本番なんだろう。その所作すらピッタリ揃えて完成させていて、この空間の誰もが聴く姿勢に入った。なんとなく他の演目を観ていた人達も、今か今かと待ちわびて──。
「曲は『マードックからの最後の手紙』です!それでは、お願いします!」
日が西に傾き始めた頃。イベントの出し物を観終えた俺は、黒江との再会を果たした広場まで戻っていた。
「ごめんね矢田君、自由時間になるまで時間掛かっちゃって」
「気にすんな、そっちは団体として来てるんだし。これでも辛抱強いんだぞー俺は」
両校の演奏を聴き終えてからはどうしようかと、持ってきたお茶を飲みながら悩んでいると……スマホに一通のメッセージが届いていた。黒江から『さっき会えた広場で、もう一度お話がしたいな』という着信。
再会出来た事もそうだし、スマホでもまたやり取り出来るのが嬉しくて、二つ返事で先に向かうと伝えた。昨日まで気落ちしてた以上、辛抱強い訳がないのに。
「なんかミーティングもあるって書いてたよな、演奏の振り返りみたいな事でもするのか?」
「うん、全国までの調整も兼ねてパート別にやったんだ。演奏の振り返りもあったけれど、マーチングの大会も控えてるから、入場する時の歩幅も意識しなさいって」
「流石強豪校だな、そんな厳しいのにやれてる黒江はすげーよ」
実際、清良女子の演奏は全国金常連の風格を漂わせ続けていた。今の北宇治が凄くないなんて絶対に思わない。ただ、ここまで仕上げてやっと常連校に名前が連なるんだと思うと、来月に控えたコンクールの結果が分からなくなっていった。
そんな言葉で少しばつが悪そうにしながら、黒江が椅子を引いて座った。急いで来たからなのか、手櫛で乱れた髪を梳かしてる。
「……そうかな」
「絶対そうだろ。強豪校でそんなに──」
そんな小動物の毛繕いみたいな光景を真正面で見た時、謎の愛しさが受け止めきれず、直視出来そうになくて黒江から視線を逸らしてしまった──軽く乱れた髪、演奏したのに走って少し上気した頬。理由は分からないが、とにかく今の心では耐えられそうになかった。
その視線を逸らした先。同じ広場にある、駅ビルの模型が展示されてるスペース近くの柱の陰に……どう見ても、黒江のユニフォームと同じ服装をした二人組が隠れているのが見えた。
俺の視線に勘づいて身を隠したけど、隠してからもこっちから視線を外そうとしていない。黒江と俺を交互に見てはその場でミーティングを重ねてる。悪巧みの顔ではないにしても十中八九、物好きと値踏みの間の顔をしてる。
「や、矢田君?どうしたの?」
妙な探りを入れられたからなのか、恥じらいを覚えてるのは俺だけだと思うと冷静になれて、今の黒江でも面と向かって話せる気がした。ありがとな、見知らぬ清良女子の人達。
「あーいや、なんでもねえ。清良女子ってのはこう、熱心だなーって」
「それなら北宇治だって凄いよ!サックスパートの友達がね、あのソロをバリサクでやれるんだーって褒めてたもん。私も驚いちゃった!矢田君の知ってる部員さんだったりするの?」
「まあ、一応な。ソロを吹くとは聞いてなかったから俺も驚いてる」
気の小さな部長の大きな決意を、見知らぬ人が汲み取ってくれている。小笠原先輩が何を思って今日に臨んだか知る由もないけど、それを感じる人は確かにいた。他人事ながら、心の何処かが照れくさかった。
「それとなく伝えとくわ、評判良かったですって。ところで……」
「どうしたの?」
「遠征って言ってたけど、日帰りか?」
「ううん、京都のホテルで泊まってから帰るよ」
「ホテルに向かわなくていいのか?」
「夕食の時間は決まってるから、それまでには戻らなくちゃいけないけれど……息抜きも全国に向けた大事な練習って言われて」
「今は昼の前みたいな自由時間って訳か」
そんな俺からの質問を、こくりと頷いて肯定した。それなら尚更、俺なんかに時間を使わず友達とお土産でも物色すればいいのに。そう言うのは簡単だったけど、つい黒江に甘えてしまった。なんとなく、この時間が楽しかったから。
「出来れば住んでる所を案内してやりたいけど、そんなに時間もねえな」
「ごっ、ごめんね。慌ただしくて」
「だーもー、気にすんなっての。今日会えた時点で相当奇跡なんだからな」
そもそもの話、今日は駅ビルにすら訪れない可能性もあった訳で。これ以上を願うのは欲張りだと思ってる。
そんな今なら、いや今だからこそ、訊いてもいいだろうか。
「そんなに申し訳なく思ってるんなら、一つ教えてくれ」
「っ、うん、なんでも聞いて?」
「先週辺りからさ……電話もだけど、文字ですら返事が無かったのって、単に忙しかったからなのか?」
「それは……」
連絡の一つすら、取れなかった理由を。許されるのなら知りたい。
「いや、問い詰めてる訳じゃねえんだ!そんな顔しないでくれ!ただその……」
向こうが、俺の言葉を待ってくれている。貴重な観光にも充てられる時間を割いてまで、俺と喋る時間を作ってくれた。訊いたのだって、俺だ。だったらちゃんと、こっちから感情を言葉にするべきだ。
「寂しかったんだろうな、俺」
「寂しい……?」
「本人を前にこんな弱音、本当は言いたくねえんだけどさ。黒江と話せないってのがここまで寂しさを募らせるだなんて、自分でも思わなくてな」
卒業して、出自を教えて、物理的に距離が離れて。心の距離が何メートル近付こうと、次第に関係が薄れていく予感がした。俺なら北宇治にも友達がいる。黒江だって、清良女子の友達がいる。そうやって距離が近い友達を優先する事が増えて、特別なこの関係が切れてしまうかもしれないと思うと──突然、怖くなった。
「なんていうか……振り返ってみても、別に孤独では無かったんだよ。施設に似たような境遇の子供達がいて、大人もいて、学校に行けば友達もいる。だから昔は家族とかがいない事に慣れてたと思ったんだけど、違った」
「どう、違ったの?」
「麻痺してたんだろうな感覚が。昔の俺が、普通じゃねえ事に慣れすぎてた」
それに気付いたのは、多分今。寂しさを言葉にしようとして、探りながら浮かんだ言葉。きっかけは、黒江も含めた、色んな『普通』に触れられたからだと思える。普通、こんな事で悩まないのかもしれないけど。
「麻痺して気に留めてもなかった感覚が、漸く分かった気がしてな。それが寂しさだって気付くのに、高校生になるまで時間が掛かった。自覚もしてなかった感覚を、良い奴と思われたくて、頼られたくて、必要とされたい。麻痺して穴の空いた感覚を、無自覚に埋め合わせようとしてたんだ。特に、突然転校してきていなくなろうとした黒江を、巻き込んでまで」
「そんな、私は別に、巻き込まれたなんて……」
「俺の主観だと、巻き込んじまったんだよ。勝手に餞別だとか抜かして押し付けて、一緒に写真まで撮ってもらってな」
俺が北宇治に来る前も、施設の兄貴役を自然と引き受けたのも、中学や高校で委員長に立候補したのも、みんなみんな。吹部の世話をなんとなく焼いていたのだって、思えばその一環だった気がしてる。
「そんな麻痺した生活を送ってて、突然その感覚が埋まらない日々が過ぎてった。よくある動機なんだろうけどそれが、ここ最近の黒江との音信不通だったんだ」
「…………」
「だからこそ、黒江さえ教えてくれてもいいのなら、連絡が取れなかった理由が知りたい。納得させたいとか思わなくていい。ただ、通話すら出来なかった黒江の抱えてた想いってのが、今は一番知りてえんだ」
俺が今、言葉に出来る限りの意思を打ち明けた。後は、黒江の反応を待つだけ──そうやって少し待ってると、同じく言葉にしようとして重たそうな口を開いてくれた。
「…………私、北宇治高校の文化祭の映像、見たことあるんだ」
「な、なんだって?」
あまりにも唐突が過ぎる。文化祭の、映像だって?それがどう音信不通に繋がるんだ?
「どんな映像だ?」
「友達が教えてくれたんだけどね、機材トラブルに対応してた実行委員さんがピアノを弾き始めて、そこにドラマーの子が飛び入り参加したっていうライブ映像。復旧までの間を完璧に埋めてみせたのが密かに話題になってるんだよって言って、サックスパートの友達が見せてくれたんだ」
身に覚えしかない……が、撮られた覚えもない。撮ってた人がいてもおかしくないけど、それがネットの海に放流されたとなると、色んな意味で焦る。話題の規模が小さいのか、周囲でその話をまだ振られてはいない。
それに、今は黒江が想いを言葉にしている番だ。返事を求められない限り黙る他ない。
「最初はね、軽い気持ちで観ようとしたの。友達と並んで座って、休み時間に。でも再生されて、映像より先に音が聴こえた時……すぐに分かっちゃった。このピアノは、矢田君の音だって」
そんなに個性を前面に押し出した演奏をしてきたんだろうか、俺。教科書通りではないとは思うけど、俺のピアノだと分かる何かがあるんだろうか。
「そこが北宇治高校だってすぐには分からなかったけれど、映像を見て、矢田君が弾いてるって確かめられて。やっぱり矢田君のピアノだって……でも、違ったの。半年、半年会えなかっただけなのに、もっと特別な音になってた。周りをずっと気遣ってくれる優しい矢田君が、何かを背負いながら、野性的に叫ぶみたいな、そういう音色」
言い過ぎじゃねえか、それ。何が特別で、野性的なのか。あれはただ必死に、無我夢中になってただけで、それもドラマーに背中を押されてどうにか通せた足掻きでしかないのに。
「私、ずっと矢田君を救いたかったの」
「俺を?」
さっきの質問よりゆっくりと、それでいてしっかりと黒江は頷いた。
「餞別を受け止めた日から、矢田君の心に届く言葉を探したくて、毎日電話をするようになって。でも、その文化祭の映像を観た時に思ったの。救われてきたのは……私。言葉だけじゃない。何より矢田君自身の存在に、生き方に、見ている景色にずっと、救われてきたんだって」
電話の習慣が始まったのは、些細なきっかけに過ぎなかった。手紙に電話番号を書き記して、それの通りに黒江が掛けてくれた。それがなんだか嬉しくて隔日、そして毎日。ルールまで決めて続けるようになってからも、お互いに連絡を取り合った。それが、そんな事が黒江を救っただなんて大袈裟な事。
「それで……なんだか救われてばかりって思ったら、応答ボタンに伸びる指が、打ち込んだ文を送信する指が、止まるようになっちゃって……」
「……救うような、救われなきゃならない事がこれまでにあったのか?」
その質問に、黒江はとても言いづらそうに言葉を詰まらせた。救われるからには、危機的な状況とか精神的な不安に陥ってしまう事があったんだと思う。黒江自身の中で折り合いがついてなかったり、答えに辿り着けていないまま今日まで過ごしてきた。
それはきっと、簡単にどうこう出来る話じゃない。いや出来るかどうかも分からない。言ってくれないからみたいな単純な話でもないけど、複雑な理由が絡んでる。クッションより柔らかそうな唇を一文字に結んでいるのがその証。
「なあ、黒江。さっき文化祭の映像を観てくれた、って言ったよな」
「……うん」
「じゃあさ。その時の生演奏、聴いてみたくねえか」
「──えっ」
それなら俺のやれる事は、寄り添うだけだ。今黒江の抱える想いに俺なりの正解を押し付けるよりも、悩みの保留とか、現状維持に近いかもしれない。そうやって折り合いを付けながら闘って、自分から答えを導き出すまで、そっと寄り添う。泥臭く見えるけど、これまでだってそうしてきたように。
「いいの?」
「おう!ピアノ以外の音出しは禁止って書いてるし、あの日のドラマーはもう帰っちまったから、ピアノソロになるけどな」
「……うん、聴きたい。生演奏のジャズメドレー!」
「その代わり、一つ約束して欲しいんだ。今日はホテルだから無理かもしんねえけど──あっちに帰ったらまた、これからも黒江と話がしたい。勉強を教え合ったり、食べたご飯の事だったり、なんでもない電話をしよう。どっちが先に眠くなるか競争だ」
「……いいの?これからも、寝る前に繋げて」
「黒江の事を救えるんなら、何時だってな」
軽く、手首や腕の筋肉をほぐす。文化祭の時とは違って、時間と余裕がある。ドラマーがいないのは残念だけど構わない。ジャズってのは、同じ演奏が生まれないらしいから。
柔軟を施しながら立ち上がり、誰も並んでいないピアノに向かって歩き出した。差し込む太陽が楽器を仄かに紅く照らしている──立ち上がる前、黒江の瞳が潤んでいたように見えたのはきっと、窓から差し込んだ西日のせい。
なあ、天気の神様。別に他も信じてねえけどさ。今からジャズライブがあるんだ。特等席にいる黒江と物好き達に向けた、超特別なジャズライブだ。風の音なんかでジャマしてくれるなよ。
「じゃあ、またな」
「──うん、またね」
画面越しに聴いていた文化祭の叫びは、風景だったピアノに矢田君が息を吹き込んで、ガラス張りの窓を突き破りそうな強さで音になり……この広場中を跳ね回った。跳ね回った音がすっと沁みて、そこで消えずに、いつまでも胸に残るの。そうして胸の内側をコンコンとノックしてくれる。吹き込まれた叫びが優しさになって届く生演奏は、冷えそうな心を暖かく包んでくれた。
メドレーを通して聴かせてくれたその余韻に浸っていると、あんまり引き止めてもお土産を見て周る時間が削れると言われて、彼は自宅へ帰る事になった。
半年ぶりの邂逅なのにまだ終わらせたくなくて……立ち去ろうとした彼の手を、思わず握ろうとした。でも矢田君の気遣いを無碍にしたくなくて、その手をそっと戻して、静かに手を振った。
矢田君のピアノは、一から十までが独学。彼自身がそう語っていた。好きな曲を好きな様に、フォルテで奏でる所をフォルテッシモにまで強く弾いていたり、メゾピアノな所を敢えてピアニッシモまで弱く弾いてみたりしていた。厳しい音楽の先生や吹奏楽のコーチだったら、指摘が入っても不思議じゃない音色。
でも、私はそういう矢田君のピアノが好き。矢田君から見た音楽が、聴いた世界がどんな色をしているのか、演奏を通じて魅せてくれている気がするから。貴方の見ている景色は、他の誰にも真似の出来ない素敵な世界だから。
彼の生い立ちを知ってしまってからは、音楽から離れてしまっても不思議じゃないとさえ案じてしまったけれど……出会った頃の音楽に打ち込んでいた生き方は、京都という土地でもそのままに、いや、それ以上に本気になっていた。
自分の経歴から顧みて普通じゃないと主張して、日々普通という物に彼は憧れていた。中学時代でも親の居る家庭を羨ましがっていたり、高校に上がってからも度々通話の話題として、バイト先の話や土地の習慣に至るまで、とりとめのない普通の事を楽しそうに語っていた。
だからこそ私は言いたい。矢田君は、ちゃんと普通の人だよって。音楽に対する姿勢も、出会った人達を大切に想うその気持ちだって。寧ろ普通の人より自分を持ち、普通という境遇に拘っている。誰かと衝突したとしても、巻き込まれたとしても、その在り方で私を笑顔にしてくれる。恐らく、北宇治高校の人達だって。
……そういう矢田君だからこそ、きっと私は。論理的な理屈で説明の出来ない何かが、この心の淡い温度の正体が、矢田君への何かだとしたら──。
「大事な事、忘れてた」
そんな時、立ち去ったと思った矢田君が駆け足で戻ってきた。私がそっと戻した手を、握ってくれそうな近さまで。
「その、なんだ。アンコール、まだ黒江から聞いてねえ。演目も終わったけどこんな機会なんだし、何かリクエストしてくれねえか。ライブ終わりって、そういうものらしいじゃん」
「──そ、それじゃあその、今からお友達も呼んでいい、かな。あの場に居合わせたかったってずっと、言ってたから……」
「おう、呼べよ。折角なんだし、観客は一人でも多い方がいいからな!」
淡い温度が、濃くなっていく。この温度は、生きている。心臓が君で鳴る。大きな窓から差した夕日の赤が、私と矢田君を照らす。やっぱりこうして君とお話している方が──体温が上がるよ。
短編時点で思い付かなかった展開でしたが、今までで一番書きたかった展開でもあります。二人に幸あれ。
駅ビルコンサートが終わりましたので久美子一年生編、もとい矢田明宏一年生編はもう佳境です。部員ならコンクールがあるんですけど、帰宅部ですので……その代わり、ちょっとしたエピローグが一年生編最終話になるつもりです。