この物語は現代社会に於いてもセンシティブな設定を取り扱ってはいますが、作中ではせめてこうなったらいいなという想いで書きました。番外編というか……舞台裏ですが。
俺が京都に来てからの人生は、初めての事が続いている。見知らぬ土地での生活もそう、電車通学もそう、アルバイトもそう。なんなら、門限のない生活だって。
「夕食はもう済ませてる?呼び止めたのは私なのでご馳走します」
「まだっすけど、気持ちだけで……夕飯なら親が作ってくれてます」
「それなら喉は?コーヒーが飲めないならジュースでも代わりに頼むけど」
「喉も別に渇いては──」
友達でもクラスメイトですらない、部活という接点も無かった筈の上級生の母親と喫茶店に訪れたのも、当然初めての事だった。三者面談の帰り道みたいな、或いは先生以外との二者面談の様な強張る雰囲気がテーブル席の一角に漂っている。ファミレスよりも一つ格が上がった気がするから、そんな理由だけで片付かない強張りを心が抱えていた。
「やっぱり、渇いてます。コーヒーならブラックでも飲めます」
「そう、それなら注文するわ。すみません」
自分の喉の潤いと、店内に入ったからには注文しない訳にはいかないという心情を秤に乗せて、傾いた方を選んだ。傘木先輩と通ったり、塚本達と足を運んだファミレスよりも少し上の価格ばかりが並ぶメニュー達に、尻込みしたのかもしれない。なんというか、大人向けの格式が数字から見て取れる。
「お待たせしました、ご注文をお伺いします」
「カモミールティーとアイスコーヒーを。ミルクは一応、ピッチャーでお願い」
「畏まりました。繰り返します──」
黒いベストを着けたホールスタッフがテーブルに来て注文を取っている。先輩の母親は通い慣れているのか、品書きに軽く目を通しただけであっさりと飲み物を頼んでしまった。ウエイターがキッチンに入り見えなくなるのを見計らって、おしぼりで手を拭いながらそれとなく話し掛けてみた。
「あーえっと、何を言えば良いか分からないんですけど……ご馳走になります」
「気にしないで。話をしたいと呼び止めた私の都合だから」
「は、はあ……」
遭遇して店まで案内される時からずっと肌で感じていた事だけど、一言で表すなら『拍子抜け』。今俺の目の前に座る壮年女性に相応しい言葉はそれだった。職員室での初対面の印象が強烈すぎて、今の落ち着き払った様子からはとても同一人物とは思えない。眉間に刻まれていた皺は既にほどかれている。
「駅前に立っていたけど三室戸の子なの?」
「いえ、アルバイト先なだけで最寄りは終点の宇治駅っす。橋は渡らないんですけど歩いて数十分の辺りに」
「そう、学校も遠いのね。学業は両立出来てるの?」
「……問題無いと自負してるつもりです。科目によってはなんとか上から数えた方が早いし十番以内にも、そんな感じを維持してます」
目の前の人を端的に換言するなら、物腰が柔らかい。あくまでも『比較的』が枕言葉として付属されるけど、北宇治で遭遇した頃よりはずっと穏やかな口調で語り掛けてくる。心の内であの時の人の双子かと疑う俺がいた。勉強の心配は余計なお世話だと思うけど。
「偉いわね。それじゃあ今日あの場所にいたのはアルバイト終わりだったのかしら、それとも寄り道?」
「まあ、バイト終わりっす。普段より店仕舞いが早かったんでこの時間に」
「なら偶然なのね」
ある意味寄り道をしようとしていた矢先に話し掛けられたから、寄り道と言えば寄り道。事情が変わっただけでこの状況も寄り道だろうか。
「…………本来より早く伝えるべき事だったけど、この場を借りて言わせて頂戴」
「な、何をっすか?」
「先月職員室でお会いした際、手を上げる形になってしまってごめんなさい。これはあの場で、貴方にも言うべき言葉だったわ」
俺の思考が寄り道に逸れていた時に、数秒溜めて畏まったかと思えばこっちに頭を下げてきた。その謝意でコーヒーを飲む前に頭が冴えてくる。
あれは別に、先輩の母親から暴力を受けた一件じゃない。会話へ勝手に割って入り向かおうとした矛先を掴んで止めただけで、暴力沙汰になったとは微塵も思わない。平手打ちを阻止しただけで手を上げた扱いになるのならきっと今頃、騒動はより大きくなってる。あれが暴力になるのなら、施設の子供達はみんなやんちゃ達ばかりだ。
「謝んなくていいっす。田中先輩のお母さんの、えーっと」
「あけみ。田中明美です」
「田中さんはあの日、手のひらを向けてた娘さんにちゃんと謝ったじゃないですか。だから別に、俺なんかに謝らなくていいっす」
「……怒らないのね」
「掴んだ時は流石に俺もキレてましたけど、あれは先輩へ向けられた手でした。振りかぶる筈だった矛先の先輩に謝って、先輩もそれを受け入れてた。だったら止めた俺の方も、それを受け入れるまでっす」
本音を言っても良いなら田中先輩への平手を、日常化してたであろう件を突き詰めたい欲は少しだけある。でもその蟠りをどうするかなんて、俺がやるべき事じゃない。二人の仕事だ。今はただ、頭を上げてもらうのが先だった。
「高校生の俺から見て、なんか敷居の高そうな店なんすよ。偶然の出会いだとしても折角連れてきて貰えたんで、こう、落ち着いた感じで味わってみたいです」
ゆっくりと、それでいてスッと視線を合わせてくる田中さん。母親は眼鏡を掛けてはいないけど……やはり親子だからなのか、研がれた視線は見通そうとする先輩とよく似ていた。
「矢田さん、貴方は不思議な子ね」
不思議。記憶を辿る限りだと、人生で初めて言われた言葉な気がしなくもない。
「あすかと一緒に帰った夜、落ち着いてから貴方の事を訊いたわ。どんな子なのって」
「先輩はご自宅で、なんと?」
「ピアノは上手。でも後輩の中では一番生意気で、遠慮はしないし無茶苦茶する。それなのに誰彼構わず世話を焼いたり、傷付くのも恐れず境界線を踏み越える。だからこそ、他にない距離感が心地良いのと……そう聞いたわ」
「そっすか」
あんな光景を見せられた手前、家庭で会話の少ない食卓なんだろうと妄想していた。向かい合って食べない寂しい食卓。でも、今のを聞く限り少々違うらしい。
「あすかと部活でどう過ごしているかなんて知らないけど、随分と気に入られているみたいね」
「正直、少し煙たいっすけどね」
分度器でも測れそうにない程度に、田中さんの口角が上がっている……気がする。限りなくゼロに近い角度。さっきみたいに表すけど、仏頂面よりは柔らかい。
それよりも、田中さんの台詞が気になった。先輩と部活で、過ごしてる?まさかとは思うけど、俺が?
「あのーすんません。話変わるんすけど俺、吹奏楽部じゃないっすよ」
「なんですって?」
「後輩は後輩っすけど学年的にそう言ってるだけだと思います、吹奏楽部でもないし他の部活すら入ってません。帰宅部っす」
「…………」
「先輩からはそこ、お聞きになってない?」
「あすかはただ、私には後輩とだけ」
やっぱり、田中先輩は田中先輩だ。本人の見えない所で無駄にこちらを振り回す。らしいと言えばそうだとしても肝心な箇所を伏せる。言葉巧みなのは分かるけど、先輩が大事な所を伏せたのは確信犯を疑いたくなる。こんな場面で困らせないでくれ。強張った力と一緒に溜め息を吐いた。
「あの言葉足らず……」
「じゃあ貴方は、あの楽器を吹いてはいないのね」
「吹くも何も部外者っす、パートが違うどころか高校が同じだけです。コンクールの応援にすらバイトとかで行ってないんで」
「そう……」
「お待たせしました、こちらカモミールティーとアイスコーヒーになります。ごゆっくりどうぞ」
思わずお冷でも飲みたくなったタイミングで注文された紅茶とコーヒーをウエイターの人が持ってきた。湯気が香り立つ陶器のカップと、カランと音を立てるガラスのコップ。コーヒーの方は程よく冷たいのか少し結露している。
「先にいただいてもいいかしら」
「はい、どうぞ。俺もいただきます」
ソーサーを持ちつつ田中さんがカモミールティーを口にしたのを見てから、ストローを袋から出して結露したコップを手に取った。あまり喉も渇いてないから一口だけストローを通してコーヒーを飲む。ピッチャーのミルクを注ぎ忘れたけど、二口目でいいか。
どれだけの時間そうしていただろうか。やがてほんの少しの沈黙に飽きたように、田中さんは語り出した。
「あすかとは何時、何処で出会ったの」
「入学式の日っすね。音楽室でピアノを弾いてたら遭遇して、そこから時々喋るようになって。半ば付き纏われてですけど」
「……これでもあすかの母親だから、娘の利己的な性格も分かっていたつもり。そんなあの子が自分に干渉しそうにない後輩を、ましてや男の子を気に入るとは思ってなかったわ」
「部内には部内でいると思うんすけどね、お気に入り」
そういえば俺の事を、原動力の見当たらないだの底知れないだのと言われた過去がある。先輩曰く、きっかけは別にあるらしいけど。
「あすかの事はどう思ってるの?嫌い?」
絶妙に答えにくい立場からの質問、そう思った。しかも相手は異性の先輩で母親だ、一歩受け取られ方を間違えばそういう見方になってしまう。たとえそんな感情を持ってないにしても。
「親御さんの手前で言いづらいんすけど……」
「構いません」
「まあ、ちょっと苦手というか、面倒というか、居るだけで掻き回す人だなーって感じっす」
「そんなあすかに引っ付かれていたのに、あの時職員室での口論に混ざりに来たのは何故?」
「へ?何故って……」
「言い淀む程に苦手意識があるなら、見ないふりを決め込んでも良かったでしょう。おまけに部活での接点がない。それなのに水を差しに来た、あまつさえ娘への暴力を制してまで。そこまでする理由が貴方にはあるの?」
思わずコーヒーにミルクと備え付けの砂糖を入れたくなった。なんというか、糖分が欲しい。
この人はきっと、ユーフォニアムという楽器を嫌っている。冷静ではあってもあの楽器、だなんて形容していた。退部届を用意して放課後に北宇治へ乗り込んでまで、先輩がユーフォに触れるのを辞めさせるような人だからだ──思い描く娘の人生の邪魔になる、たったひとつの敵。
「……俺の主観ですけど先輩にとって吹奏楽部が、ユーフォを吹いてる時の先輩が、一番先輩らしく振る舞えてる」
「はっきりと言い切るのね」
「俺がそう思っただけで実際の所は知らないっす。付き纏われたりゴタゴタに巻き込まれたり噂話とかにもなる中で、先輩があの楽器に、吹奏楽部に注ぐ想いがどうなってるのか触れられたんです。それ以外が先輩じゃないなんて思いません、三年ですし本当に退部を決断するなら仕方ないとも思ってます。ただ……」
別に俺は『あすか先輩を連れ戻すぞ大作戦』に参加する一員じゃない。提案されてからも結局、中川先輩は一度も俺の元へ来ていない。そもそもその作戦の成否とか、いや実行に移されたかすらも知らされていない。なんなら今でも田中先輩が勝手にどうにかするとさえ思ってる、どんな形であれ。
話しながらピッチャーから飲みかけのコーヒーにミルクを注ぎ、スティックシュガーも混ぜて苦味を薄める。田中先輩への気持ちを言葉にするように、コップの中でカフェオレを作っていった。
「……ただ、楽器に打ち込める人達の演奏は何処までも真っ直ぐで、凄く眩しかった。俺にはそう映ったんです。部活の後輩だからじゃない、退部させられるなんて仕打ちが酷いからでもない。あれが一番先輩らしく見えたからこそ、あの場で止めに入れたんです」
ストローで混ぜたカフェオレを口に含み、喉に通す。既に冷えていたコーヒーなのもあって食道の位置が分かる。このカフェオレを飲んだ、そういう感触が間違いなくあった。
「まあ要するに、先輩が思う様に生きて欲しいんすよ。これは部外者なりの我が儘で、お気に入りらしい後輩のちっぽけな願いです」
言葉を紡いでいる間もずっと、先輩の母親はこっちから視線を逸らさなかった。張り詰めていた空気はまるで、視線で突き刺す田中先輩に面と向かっている時みたいで遺伝の強さを思い知らされる。この親にしてあの先輩ありだ。
一頻り形にした言葉がもう出てこないと理解してくれたのか、田中さんは手元のカップに視線を移し、眼光を元通りに和らげた。
「……私はてっきり、あすかの後輩達には恨まれているとばかり思っていたのだけれど」
「恨んでる奴が居るかどうかはさておき、誰の手も借りずに、孤立無援なのに育ててくれて、将来まで決めて貰える。そんな先輩が俺にとっては羨ましくて仕方ないんです」
「本当に不思議な事を言うわね。カッとなると手を上げてしまう、口うるさいし言いつけの多い親の子供なのに羨ましい、だなんて」
「羨ましいっすよ。だって──孤児だった施設育ちの俺にとって、将来まで手を引いてくれる親がいるってのは」
先輩の母親が、軽く呆気にとられた顔を見せた。俺自身、どうして言葉にしたのか分からない。
こうして出自を打ち明けたのは、中学卒業前の黒江以来になる。北宇治の先生達は俺の事情を知ってはいるけど、俺から話した訳じゃない。入学するにあたって手続きをする内に知られただけ、自ら打ち明けてなんかいない。何時か誰かに話すとは思ってたけど、それが上級生の母親相手になるなんて思ってもみなかった。
「……一体、何時頃から」
「少なくとも物心がついた時には乳児院にもいたかもしれないっす。ある程度成長するまで、そういう世界でみんな生きてると思い込んでました」
「じゃあ、貴方のその名前は?首長から名付けられたの?」
「詳しいんすね」
「保険会社に勤めてるので多少調べた事があるわ。尤も、そういうケースを担当するのはあまりに稀ね」
「育った施設の話では、俺が発見された時に手紙があって、そこに名前が書いてあったそうです。今でも親の顔は知りませんけど、そこから地元の自治体の一番偉い人が名付けてくれて戸籍に」
「その施設からずっと高校へ通っているの?」
「いえ、十五で里子として引き取られて。それで和歌山から京都に」
何を思ったのか、腕を組み眉間に皺を寄せる田中さん。それもそうだ、こんな事教えられても困るだけだろう。引っ越す前の黒江だって困ってたんだ。こういう話は普通面白がれない、だからずっと、隠して生きてきた。
「…………もう一度、謝ります。あすかや先生達の前で礼儀のない後輩だなんて罵倒してごめんなさい。矢田さん、貴方の所作はそこから遠い物に思えるわ」
「所作って俺、言葉遣いは割と雑な自覚ありますよ」
「言葉はそうね。でもコーヒーを飲む際に指先を揃えたり、ストローの紙袋と砂糖の袋を畳んで纏めたり。無意識にコースターを寄せてテーブルに水滴を落とさない様にしているのも、素敵な教育を受けてきた証左でしょう」
「だと、いいんすけど」
どうだろうか。実際施設ではテーブルマナーそのものよりは周囲への気遣い、に近い事を先生達に口酸っぱく言われてきた。引き取られたり、施設から出る日に備えて。それが実を結んでるかどうかなんて、それこそコンクールでもないと俺には分からない。
でもそういう心配りを褒められて、悪い気はしないのも事実だった。
「俺の方こそ謝らなきゃいけないっす。話し合いに水を差したり、強く手首を掴んですみませんでした。あれは無礼だと言われても仕方ないです」
「貴方は謝らなくていいわ。その件はあの日、頭に血を上らせた私に責任があるから」
気付けばカップから立ち昇る湯気はほぼ消えて、溶けた氷がカフェオレと分離しつつある。軽い立ち話で済むと思いきや、その実長くこの場で会話を重ねていた。
「矢田さん、時間はまだあるかしら」
「元々バイトだった時間ですし、今は門限も無いので」
「ならもう少し時間を割いて頂戴。見せたい物があるの」
「は、はあ」
改まった田中さんが鞄から取り出したのは、何の変哲もないノートパソコン。残り少なかったカモミールティーを飲み、カップをソーサー毎隅に下げて電源を立ち上げた。
「貴方の学校の吹奏楽部が今年、名古屋で開かれる全国大会に出場するそうね」
「そうっすね、十年ぶりの快挙だって言ってました」
「これを見て」
起動して暫く操作していた画面に映し出されているのは、吹奏楽コンクールのホームページ。見る機会がなかったから初めて見るけど、見せられる理由が思い当たらない。
「これは……審査員一覧?」
「貴方、あすかから進藤正和という名前を聞いた事はあるかしら」
「進藤?……いえ、全く」
「そのページにもあるけれど、その進藤正和というのは有名なユーフォニアム奏者であって、全国大会で審査員を務める事になっている──私の元夫です」
その元夫という単語まで聞いた瞬間、嵌まらなかったパズルのピースを拾った様な、自分の中で全部が合致した感覚が脳内を走った。自分がユーフォさえ吹ければそれでいいと思ってた先輩が、関西大会も前の頃から全国大会へ拘り出したその理由がなんとなく掴めてきた。
「──元々、田中先輩は進藤あすかだったと」
「そうね、色々あってあすかが二歳の頃に離婚したわ」
「誰の手も借りず一人で育てたとか仰ってましたけど、そのままの意味だったんすね」
「あすかと二人で暮らし始めてから数年……生活も安定してあすかも小学校に入学した。これなら無事に大学まで通わせられる。そう思った矢先、家にそれが届いたの」
「……それってもしかして、先輩が持ってる銀のユーフォニアム?」
「ええ。その時に元夫から届けられた代物よ」
黒江という前例があるから値段は大体把握している。フルートやトランペットよりも値が張るそれを、先輩が所持している理由は分かった。退部を迫る親が買う気が知れなかっただけに、あの技量に至るまでの家庭内での紆余曲折もなんとなく。
「当然揉めたわ。あすかはあれを気に入って楽器店まで通って吹き始めるし、今よりずっと気が立っていた私にとって元夫からの贈り物なんて、自宅に置きたくなかったから」
「まあ、その、なんとなくお察しします」
「喧嘩の末にあすかへあの楽器を吹き続ける条件として、高水準な成績の維持を求めたわ。そうしたらあの子は頑張った──勉強も、ユーフォニアムも」
先輩は確か、進学クラスに在籍している。勉強に対する才能や努力があるんだとしても、それらが交換条件から成された結果だったなんて考えてもみなかった。思っていたよりずっと、重い話だ。
「中学へ上がってからは部活で吹くようになって高校でもそれは変わらなかった。代わりに、帰宅してから自宅近くの河原へ吹きに行く頻度もバッタリ減って。でも今年の八月も半ば、あの子は変わったわ」
「んー、何が変わったんすか?」
「……雰囲気かしら。あすかが合宿から帰ってきた時なんかは食事中もずっと気を張り詰めて。それから気にはしてたけど聞き出せないまま一ヶ月近く過ぎた日、偶然このページを見つけたの」
部外者目線でも、あれだけコンクールもオーディションすらどうでも良さそうだった先輩はきっと、何気なくホームページを見た瞬間に切り替わったんだろう。趣味感覚に近いユーフォニアムに、欲が生まれた。唯一のオーボエ奏者をトラウマから護る理由も生まれた。
パパっ子かママっ子かなんて流石にそんな話は訊けないが、物心のつく前……記憶すら無くてもおかしくない年齢でしか会っていない父親に、会えるチャンスがあると知った。関西より先へ進みたくなった。同じ立場なら多分、俺でもそうなる。
「先輩の中で父親の影がチラついたんすね。きっと」
「そうでしょうね。帰宅時間は後ろにズレて、こっそりあの楽器を持ち帰る事も増えた。あすかはバレない様にしていたみたいだけど。模試も近いからと釘を刺したら『全国があるから後でね』、って……後は貴方も知る話」
田中家の確執の全容は掴んだ。掴んだからこそどうしようもない、そう思ってしまった。家庭の事情だからこそ、吹部の誰にもどうしようもない。ただ一人を除いて。
「色々と、存じてませんでした」
「中学に入ってからあすかは、仕事で遅くなる私の代わりに料理や洗濯も少しずつ引き受けてくれる様になったわ。そんな生活を家で過ごしながら勉強も励んで、部活にも打ち込んで──だから恐らく、その構造を否定して欲しかったんでしょう。貴方程ではないにしても、歪に込み入った生活を」
俺は少し前、田中先輩に対してらしくないと吐き捨てた覚えがある。関西大会直前の、日がほぼ沈んだあの教室で。吐いた唾は飲み込めないが、そういう家庭の事情で雁字搦めで儚げな笑顔の先輩に対して、らしくないと吐き捨てた。あれが先輩にとってどんな意味になってしまったのか、今はもう知る術を持ってない。
「矢田明宏さん。私は娘に対して、これまでの姿勢を変えるつもりはありません。親として将来を最後まで見届ける義務と、これまであすかに強いてきた事の意味が曖昧になってしまうからです。もしあすかの友達や、同じ部活の部員達に何か訊かれたらこう伝えてください。母としてこの姿勢を曲げるつもりはないわ、と」
先輩の母親はそんな娘を前にして、親としての矜持を俺に示すつもりだ。親ってのは好かれたいと在るのが普通だと思ってた俺にとって、酷く新鮮に見えた。嫌われる覚悟とでも呼ぶべきか。
不思議と、それが少し寂しく思えた。
「……わかりました、口外しませんし訊かれたらそう答えます。その代わり、俺からも一つお願いがあります」
そんな寂しさからじゃない。ただなんとなく、田中先輩へのこれまで生意気な態度を取っていた償いと、先輩の母親が示してくれた家族としての覚悟に俺も、応えたくなった。俺なりの覚悟で。
「何?」
「きっと先輩なら、大丈夫だと思います。部活もこれから進む将来も、先輩がどうにかするって、半年と少しの付き合いな俺でも断言出来ます」
「根拠はあるの?」
「ありません、部員ですらないんで。でももし、もしもそんな先輩から何か一つ、一つだけでもこうしたいってお願いがあったら聞いてあげてください。承諾してあげてくださいって言っても良いです。それがきっと、先輩のこれからに繋がるんで」
俺が示せる覚悟ってのは、勢いに任せた根拠のない自信だ。こういう人には理屈で説得出来ないからこそ、端から直球勝負で挑む、背負う、寄り添う。大人への、いや田中明美という一人の親への、敬意。
「……随分と、青い事を言うわね」
「それが俺っすから」
カフェオレにしたコーヒーの氷はもう、全部溶けている。氷の間に挟まっていたストローがコップの縁にもたれ掛かっている。関わりの浅い人と、随分と密度のある時間を過ごしていた。
「──今日は時間を割いてくれて感謝します、ありがとう。お代は私が払っておくから、貴方は好きな時にお店を出て頂戴。まだ飲みきれてないみたいだから」
さっきまで開いていたノートパソコンを閉じ鞄に閉まった後、先輩の母親は背もたれに掛けていたジャケットを羽織り肩に鞄を掛けて立ち上がった。
「こういうのって、一緒に出なくてもいいんすか?」
「お店側は伝票を見れば分かります。それに、落ち着いた感じで味わいたいんでしょう」
「そういうものなんすね」
「……偶然だけど貴方と今、話が出来て正解でした。どうぞお元気で」
そう言うと田中さんは、テーブルに置かれていた伝票を片手に会計を済ませ店から去っていった。それを見届けてからピンと張っていた背筋をゆっくりと椅子に預ける。電車の椅子やソファーみたいに、座り心地の良い椅子だった。
今日の一件で家庭環境が拗れない事を祈った、吹奏楽部の為になればとも。田中先輩は……自分でどうにかするだろうと淡い期待を抱いてるけど、こんなので足掛かりになればって。後はもう、野となれ山となれ。
天井から吊り下げられた照明を見ながらコップを持ち、ストローを咥えて息を吸い込む。まだ半分も残るカフェオレは、溶けた氷で薄くて、冷たくて、混ぜた砂糖で甘いだけ。でもこういう混ざり合ったコーヒーも、俺は好きだ。
バイト直後に先輩の母親に捕まりコーヒーをご馳走になるという、二階からの目薬が成功するよりも珍しいイベントをこなした翌日の学校。平静を保って午前の授業は普段通り終えられたけど、なんとなく休みたかった。眠くはないのに、心が胃もたれを起こしたかの様な疲労が積もっている気がした。
周りは賑わっている昼休み。数学の授業の後に集めたノートを集めて職員室へ運んでる。今日は代理でもなんでもなく、係として任された仕事をこなしている。
時々用事のある職員室へ向かう廊下の曲がり角。入学して数日はどこだと迷ってた初々しい俺は、もういない。
その角を曲がって職員室まで後数メートル、目的地の前の扉に人影を見た。小テストのプリントみたいな、何かを食い入る様に見つめては抱えてる。差し込む日光で誰かはあまり見えなかったけど。
「田中、先輩……」
肩を震わせて、しゃっくりに声を遮られている田中先輩が職員室の前に立っている。頬に、涙をへばりつかせて。美術館に飾られる絵画みたいな光景を前に、抱えるノートを落としそうになったまま立ち尽くしてしまった。
やがてしゃっくりを止めた先輩がこっちへ向かって歩こうと、顔を伏せがちにしたまま、俺が立ち尽くしている方へ身体を向けて歩いてきた。歩を進める度に上がる顔は、そのうち俺を視認する。
「っ──」
「……どもっす、先輩。なんかご無沙汰っすね」
どれだけの時間泣き腫らしたのか。瞼は腫れて、瞳は潤んで、それでも手に持った紙で隠そうともしない微笑が、先輩にとってとても良い事があったんだと暗に伝えてくれていた。
「…………矢田」
「はい」
「あんたの事────末代まで呪ってやるんだから」
それだけ言い残して、先輩は俺の傍を走り去った。先輩の、絵画みたいな女子の泣き顔を見た代償なんだろうか。でも、これまで見せてくれたどんな先輩より、どんな向日葵よりも晴れやかな顔で言われたって──。
「説得力、ないっすよ」
さして後ろ髪を引かれる事もなく、任された仕事を片付けようと職員室へと歩き出す。俺に掛けるらしい呪いも、先輩のこれからもきっと、大丈夫だろうから。
時系列的には久美子がゴミ捨て場で涙の説得をした前日と当日、そして映画『届けたいメロディ』で描かれていたワンカットの直後です。「見たら末代まで呪われるよ?」に対して考えたのが、今回のあすか先輩の台詞でした。涙を見ちゃいましたからね。
久美子一年生編ではあすか先輩がラスボスという立ち位置としてよく語られていますが、矢田君にとってのラスボスはあすか先輩の母親・明美さんだと思ったからこその物語です。それでも倒すべき相手という感覚ではありません。これは妄想に過ぎませんが、原作やアニメと比較して多少あすか母の態度が軟化していればと思いつつ書いていました。あまりにも描写が少なかったので多少脚色してますが……大丈夫ですかね?
次回、一年生編エピローグです。矢田君と明美さんの談話がどう影響したかは、次回。