「別に最近知りましたって訳でもねえんだけどさ、豆腐って食べ物あるだろ」
『うん。お醤油かけたりお味噌汁に入れると美味しいよね〜』
「それから納豆って食べ物もあるだろ、箸でかき混ぜるあれ」
『昔は苦手だって言ってたよね。ねばねばするーって』
「……今思うとあれさ、単語逆じゃねえかって思うんだよな。四角く納まってるのが納豆で、腐らせて作るのが豆腐、そう呼んだ方がらしくねえか?」
網戸とすりガラス越しの月がおやすみと睡眠を促している。敷いた座布団の上から眺める夜空の月は、ほんの少し欠けていた。左手で通学用の鞄を開けて、右手で始業式の日に最低限必要な筆箱とか、走り書きに使いそうなメモ帳をその鞄に詰め込む。スマホは手放しでも通話出来ると知ったのは直近で便利だと感じるものの、耳に当てる使い方の方が話している感覚は強い。
『確かに逆だね。でも何時からそうなったのかな?』
「さあな、ただ気付いた日から考える度にモヤモヤしてる」
『ふふっ、今度私も現代文の先生に聞いてみようかな』
部屋の明かりも、今は机に置いたスタンドライトだけ。消して布団に潜れば眠る準備は終わる。でも、これまで長らく続けてきた習慣がまだそうさせなかった。
「っし、明日の準備終わりっと。にしてもとうとう春休みも終わっちまって始業式兼入学式かー、実感ねえなあ」
『私達、二年生だね!』
「だな、黒江が勉強教えてくれたお陰で進級出来たわ。ありがとな」
『私も。矢田君がいたから進級出来たんだよ、ありがとう』
「俺からすりゃあなんにもしてねえのに。まあ、お役に立てたんなら何よりだ」
欠伸を堪え、床に敷いていた座布団を枕代わりに畳の上に寝転ぶ。スマホも机から簡易の枕元へとそっと置き換える。
「進級して早々責任がのしかかると思うと不安だなあ……」
『責任?学年が一つ進んじゃうの、不安?』
「ちょっとな。吹部が入学式で勧誘を兼ねて『これが私の生きる道』を吹くんだけどさ、その伴奏ってか客演を数週間前に部長……新しい部長な?その人に頼まれて、ここ最近合わせの為に春休みでも制服を着て北宇治に通ってたんだよ。なんでも去年のウチの文化祭での一件を気に入ってくれたみたいでさ、期待に添えれば良いんだけど」
『そうなんだ!入部希望の子、増えるといいね!』
「広告塔として精一杯努めてきまーす」
キーボードもハードケースに仕舞い、通学鞄と北宇治の制服に並べて置いてある。二年生になって初の登校日にしては荷物が多い気がしなくもない。
「まぁそっちもどうせ、演奏かマーチングでも新入生向けに披露すんだろ?去年の全国金賞校だからって気負うなよ、肩肘張っちゃ普段の黒江の演奏を見せらんねえぞ〜」
『うん、大丈夫。春休みでもちゃんと練習してきたから』
「ちゃんと練習してきた、か。なら良かった」
寝転んだ位置が幸いして、スタンドライトの灯りは机の天板に遮られて影になっている。抗えなくてこのまま眠った日もあったけど、次の日身体が痛くなって支障をきたすと吹部に申し訳がないからゆっくり起き上がる。寝る時はやっぱり布団の上がいい。
「ふぅー……」
網戸からお邪魔する春風が畳の香りを漂わせる。この風が木々の芽を育て、俺が吐いた溜め息をゆっくりと黒江へ届けていた。
『矢田君?やっぱり不安?』
「んー、まあ不安は不安だな。夜って色々考えちまうし」
『分かるなぁ。新しいクラスでも仲良く出来るかなーって考えちゃうの』
「それは分かるぞ、俺だってそうだし。でも……うーん……」
俺の場合、明日になれば分かる場当たり的な不安よりも、ずっと首元を付き纏い締め付けるような、蛇みたいな難問が渦巻くようになっている。それをなんとなく考え始めたのは、田中先輩達が卒業していったあの頃から。
「始業式前だけど、黒江には言ってもいいもんかどうか」
『大丈夫だよ、話して?』
「寝る前にはすこーし重てえと思うけど、それでも?」
『うん、それでも』
「…………ざっくり言うとさ、卒業した後の話。里子って基本十八歳には自立すんだよ」
『そうなの?』
「あくまで基本的にはな。措置延長っつーのがあって十八以降も里親の下で暮らせなくはねえけど、今の父さん母さんの負担になっちまうからさ」
レースのカーテンを翻す風が辺りを包み込む。煩くはない。ただ一瞬二人の間に挟まった無音より確かな音は多分、スマホ越しの黒江にも届いている。
「まあ今気にしても仕方ねえんだけどな!少なくとも卒業したら大学入って自立して、今よりは楽させられる選択肢を選ぶつもり」
『……カッコいいね、矢田君。これからの話をちゃんと決めてる』
既に決めているとはいえ曖昧な将来像だからこそ、不安と呼んでいる。何処の大学へ行くのかも今の俺は知らない。
「黒江の方がカッコいいだろ?全国Aメンバーに一年の頃から選ばれてたんだしな。マーチングコンテストの中継は観てたって伝えたろ、そっちで金賞掻っ攫うのも納得の行進だったじゃねえか!俺はそんな黒江と知り合えて誇りに思うぜ!」
『……私はただ、合奏が好きなだけだよ?それに何より、ただ日々を楽しく過ごしたい、たったそれだけ』
「そこだよ、そこがかっけーんだ。好きな物の為に生きてる奴ってのは大なり小なり周りも感化させて、気が付いたらみんなを引っ張っちまうんだ」
根無し草と自分で言うには変な言葉選びではあるけど、本当に根っ子がない。生きていく上での基盤がない。それこそ花屋で陳列されている切り花みたいな存在だと思っている。そんな切り花が、偶然訪れた来客の生きる姿に惹かれた。ただそれだけの話。
「だから俺も頑張れる。カッコいいって思われようとってのは言った気がするけど、黒江の存在に触発されてるから俺は頑張れてる。さっきの進級出来たって話と似たようなもんだ!だから黒江は二年生になっても、楽しい事の為に生きて良いと思うぜ!」
『……』
「もう一度言うけど去年のマーチングコンテスト、テレビで観たって言ったろ?あの時の黒江ってばすっげー楽しそうだった!駅ビルで黒江に演奏聴かせてやれた時なんか俺も楽しかった!無理にとは言わねえよ?でももうちょっと、好きって気持ちに拘って良いと思う」
黒江とは時々、励まし合いの電話になる。相互依存とまでは形容出来なくとも近しい物がありそうな感覚。
「だからさ、進級しても俺は黒江との仲に恥じない何かを突き詰める!そんで貰った分だけ恩返し!きちんと返せてるか分かんねえけど!」
『じゃあ私も……私なりに楽しい事を突き詰めてみよう、かな』
「おう!それでいいんだよ所信表明なんてのはな!あっ、だからって考えすぎて明日ヘマしないようにな。一時的に部員が減ってるとはいえ、陣形の変わったマーチングは大変だろうし」
『……うん!』
「それに突き詰めるって言っても……部員って時点でみんなで合奏出来てて……ふぁーあ」
隠し通そうと抑え込んでいた眠気が、喋ってたせいで開いていた口の端から零れ落ちる。欠伸と共にストレッチのつもりで両手の指を組み、天井へ向けて思い切り伸ばした。
『あっ、矢田君今欠伸した。今日のお話は終わりだね』
「んな事言うなよ、誤魔化そうと思ってたのに……おやすみ〜」
『おやすみ矢田君、ちゃんと寝てね?』
不安ばかりに覆われてるとは思ってない、期待もちゃんと抱えてる。でも不安に打ち勝てるような展望までは見出だせなくて、見栄を張ったまま布団に潜った。何かが……何かが俺を守ってくれる、そう強く言い聞かせて。
キーボードのハードケースと通学鞄を抱えながら、一年歩き続けた通学路を辿った。積もっていた雪が消えた後の黒く濡れた土、そこから生える花や木々、芽吹く若葉。首筋に当たる風はまだ冬の冷ややかさながら、新しい季節の予感を含んだ風がさらりと通る。
「バスドラムはこんな感じでいいか?」
「ありがとー委員長!助かるよ〜」
「あのなあ、もう五組の委員長じゃないしクラスも違うかもしれねえんだぞ」
「それはそうだけどほら、私の中では最初からずーっと委員長ってイメージだし?万紗子やつばめみたいに今更名字で呼ぶのもムズムズするじゃん」
「何がほら、なのか分かんねえ……でも井上さんから呼ばれるとムズムズするって思えばまあ、分からんでもないな」
「でしょー?だから二年生でもよろしく、委員長!」
「責任重大だわー色々と」
それは通学路だけじゃなく、北宇治のコンコースも花開いた桜の隣をも等しく過ぎる。通用口前の階段沿いで歓迎する吹部の準備を手伝っている間も、植木のこずえを揺らしていた。
「おっはよー井上ちゃんに矢田、進級おめでとー」
「おはようございます夏紀先輩!」
タムやスネアのボルトを締めたり軽く叩いてチューニングをする井上さんとぼんやり喋っていた所に、去年何かと関わりのあった青い三角タイの中川先輩が声を掛けてきた。女子の三角タイは学年毎に持ち回り式で、今年は三年生が青色。その認識に慣れるまで一週間は掛かりそうだ。
「こんちわっす先輩。ギター似合いますね、弾けるって知った時は驚いたっすよ」
「ありがと。独学だし単なる趣味だけどね、しかも従姉からのお下がりだし」
その中川先輩は今日、エレキギターを肩から提げて現れた。音色に幅を持たせて原曲に近付ける為だろうけど、普段の担当楽器を後輩に任せて管楽器から弦楽器に乗り換えている。信頼か謙遜か、この人ならどちらもあり得そうではある。
「矢田のピアノもそうだけど、井上ちゃんがドラムまで叩けるって知った時はびっくりした。そりゃあ一年でパーカッションのA編成に入る訳だーってね」
「や、止めてくださいよ夏紀先輩。私のドラムこそ趣味なんですってば」
「にしては本番で物怖じしなさすぎだけどな、文化祭本番緊急対応型天才ドラマーの元副委員長は」
「委員長がそれ言う〜!?」
「あっはは、仲良いね」
「みなさーん、おはようございます〜」
「緑、おっはよ〜」
広場のみならず他の部活からも勧誘の準備で賑わいを見せて、文化祭本番みたいな活気に溢れつつある賑やかな朝。朝霞を東風が晴らした空の下で、一人また一人と吹奏楽部員も集まっている。
「おはよー緑ちゃん、今回もベースラインよろしく!」
「任せてください順菜ちゃん!この重低音で新入生を虜にしてみせます!」
「よう川島さん!前にも言ったけど、今日は俺もキーボードで混ざるからよろしくな」
「緑も矢田君と弾ける本番をずーっと心待ちにしてました!素敵なアンサンブルにしましょうね!」
今しがたやって来た川島さんも、今日の勧誘で演奏する一人だ。中川先輩みたいに担当楽器をエレキベースに持ち替えて、新入生を迎えようとしていた。普段は弓を引いて鳴らしてるだろうに大丈夫なのか?という疑問は駅ビルのコンサートで払拭されている。コントラバスと開放弦が同じなんですとは聞いたけど、奏法が違うってのに器用な子だ。
「ここが集まると、楽器だけなら軽音部ですね。サポートが居るのもなんかリアル」
「曲が曲だからねー。ロックとかポップス寄りになると、自然とこうなるって感じ」
「緑はこういう編成もありだと思いますし好きですよ!『これが私の生きる道』はまさに、高校生活春の序曲として相応しいですから!」
「並んで演奏するとはいえ、間違われないっすか?」
「それなら平気、軽音とは場所が違うし。それに……ほら階段の一番下、あそこで看板持ってる男子いるでしょ、あんたみたいに背の高い奴。後藤って言うんだけど、あいつが『来たれ北宇治吹奏楽部!』って書いた看板を持って立ってるから大丈夫」
「あの人が後藤先輩……田中先輩被害者の会の一人……!」
「被害者の会……?」
名前だけなら田中先輩から聞いた事がある。見覚えもあるような無いような、という印象でもある。ただ親近感を少し覚えてしまったのは恐らく、遠目にも分かる苦労人の相が出ていたせいだ……苦労人してたんすね、後藤先輩!
「そういう訳だから勧誘の件は大丈夫。だから矢田、キーボードでちょっと音出してくれない?チューニングしてきたんだけど確かめたいの」
「了解っす!」
去年の今頃、俺は北宇治高校へ入学した。校門を通ってすぐ階段から離れた辺りで情けない『暴れん坊将軍』を聴いていた。少なくともあの頃の演奏より、この数週間で合わせていた『これが私の生きる道』の方が上手いという自負がある。引き受けた以上は新入生達をがっかりさせられないという責任もある。その期待に応えるべく、静かにキーボードの電源を入れた。
「すみません店長、バックヤードにキーボードとか荷物類も置かせてもらっちゃって」
「気にしないで〜新しい教科書も買ってきたんだし重かったでしょ〜」
「めちゃくちゃ腕痛かったっすよ!」
新しいクラスで顔合わせだけを済ませた後は二年生の授業で使う備品だけを買ってすぐに下校。その足でバイト先に向かった俺の嵩張らせた手荷物の事情を汲んでくれた店長から、普段は商品を置くスペースに買った備品やキーボードを置く許可が下りた。キーボードよりも全教科揃えた袋を置いた時の方が、開放感は強かった。まさしく肩の荷が下りたって感じで。
「あー重かった」
「矢田くーん!一息ついてる所に悪いのだけれど、すぐお店に立ってくれるかしら?アレンジメントと花束の注文が多くて手が離せそうにないの〜」
「分かりましたー急ぎます!」
元々授業が始まるまでは早めにシフトを入れて貰っていた流れで始業式の日もバイトに来たけど、平日のお昼前に店へ訪れるのはこれで当分お預け。
それでも季節の節目は花屋の繁忙期になる。単純に卒業又は入学祝いだったり、お店の開店祝いだとか誕生日の人への贈り物も注文が入って多忙を極める時期だ。去年はまだバイトのバの字も無くて知らずに過ごしていたけど、今年は多忙を極める花屋の全貌をこの身で体験済み。春休みなのに下手な授業がある日よりしんどかった。
「っし、行くか」
「店頭にいらっしゃるお客様は任せるわね〜」
「はい!」
その繁忙期を乗り切った経験もあって、一通りの仕事を任せて貰えるようになった。流石に大きな装花や市場への仕入れ、それに生け花教室等の配達までは出来ないものの、店内で完結する業務は俺一人でも出来る。水換えや清掃に加え、花の選別と花束の制作という花屋の根幹を担う大仕事だ。
古くなった葉っぱや花弁を取り除き、花ばさみで茎の長さを整える。時折付いている虫を取り除くのも、品質の管理には欠かせない。一年を通してこなし続けたアルバイトはピアノや通学、黒江との電話程ではないにしても一つの習慣として根付いている。
習慣を普段通り片付けていたそんな時、来客の合図を知らせる鈴がチリンチリンと鳴った。開けっ放しにされた入り口から革靴らしき固い足音の客が入ってくる。振る舞いをバイトの来客用に切り替えて店に訪れたお客さんを迎え入れた。
「いらっしゃいませ!」
花ばさみをエプロンのポケットに仕舞い、笑顔で立ち上がりお客さんの姿を見た。
これまでだって、何度もお客さんがやって来るのを見ている。別に特別な事じゃない、雑務すら覚束ない頃ですらそれは変わらず続いていた。挨拶なんてそれこそバイト先以外でもごく普通の習慣だし。
ただ一つ違うとすれば、そのお客さんの姿に呆気にとられていた俺がいた事。
「あの……その……」
黒い革靴に、膝元まである折り目正しいスカート、既視感のある、いや既視感しかないセーラー服。一年間過ごしてきた学び舎の生徒が着ていた、北宇治高校女子の制服。学年を示す三角タイの色は、田中先輩や加山先輩達が去年身に着けていた緑色。つまり、今日入学したばかりの一年。
女子にしても一年生にしても背の高い、黒いショートヘアの新入生が何故かウチの花屋に訪れた。流石に俺よりは低いけど、人脈を辿っても目の前の子より高い女子は思い当たらない。そこら辺の男子と良い勝負の身長。それに涼し気でクールな顔付きからは、どこか大人びた印象を受ける。その大人っぽい雰囲気が見た目の身長を引き上げていても不思議じゃない。
「花を……探しに来たんですけど」
俺が知る中では初めての、北宇治高校の生徒としては初来店のお客さん。バイト先を知られても冷やかしにすら来なかったクラスメイト達よりも先に来店してくれた後輩に、少し浮足立ってしまった──なんかありがとう、知らない後輩!
短編は悩み過ぎたので一旦白紙にして、二年生編もとい第二楽章に突入です。二年生編の新入生組で誰と最初に出会うか悩んだ結果この子になりました。誰か分かりますかね?
余談ですが顔合わせだけなら全部員と済ませている矢田君、主要人物の中でも新山先生とは一度も会ってません。会う理由も無かったり。